月: 2018年10月
触れてしまったらそこで終わりSS/左馬刻/αΩ理銃/8854
◇左馬刻(さまモブ注意)
運命は一目会えばわかるらしい。
よく聞くそんな話を持ち出してきたのは三年も面倒を見ているΩの女だった。
多額の借金で首が回らなくなった男を追っていた際に借金のカタにと差し出された女だ。男は借金の他にもやらかしていたために娘を引き渡して間もなく不幸な事故で死んだが、たまたまΩ風俗を経営していた上司が女を欲しがって上手く手懐けろと言って俺のところにまわされた。
確かに俺はαだが、上司みたいに上手く惚れさせて転がすなんて芸当は得意でもなんでもない。不幸そうな顔した女を口説くのも面倒で、最初に一度抱いてから、店で働けば今後も面倒を見ることを告げた。
そんな雑な口説き方でも首を縦に振ったのは比較的相性のいいΩだったことと、それまでのクソ親父との生活で疲れ切っていたからだろう。後々で聞けば売春に近いことは以前からやらされていたらしい。
素人が小銭稼ぎにやる売春と店は違う。Ωは大事な商品として守られ、安全な場所で、高額な代金を支払えるそれなりの身分の客だけをあてがわれる。
世の中にはΩのフリしたβによるβ向けの安い風俗も存在するが、本物のΩは需要が高く供給が少ないために通常より高値で売り買いされる。借金返済が済んでも働き続ければ、そのうち一生分の貯金が作れるという言葉を信じて女は真面目に働いた。もっとも、借金は契約者本人である父親が死んでいるし法律上の返済義務は元々なかったが。
そんな風に風俗店に流れてくる女は大体運と頭が悪い。どちらかでも良ければ金持ちの愛人にでもなった方が楽に生きられる。そうなれないのは、厄介な身内の存在が足枷になって金持ちからも避けられるヤツ。
αよりΩの人口の方が少なく、金にモノを言わせてΩを欲しがるαはそれなりにいたが、愛人にしろ結婚相手にしろ、親が借金まみれの女なんか誰も相手にしない。女との関係をネタに強請ってこられたら厄介だ。
愛人やシンデレラになれるのは天涯孤独か可もなく不可もない育ちのΩだ。身寄りのないΩを助け結ばれた、なんて話は美談としてよく聞く。
自分で上手に親を始末できなかったΩがやくざ者の愛人になって、上手いこと気持ちを利用されて店で働かされる。数は極端に少ないが、女たちを仕入れる構図そのものは他のβ風俗と変わらない。
こういう場合、本来なら女を惚れさせて「俺のために店を助けてくれ」なんて話運びで説得するもんだが、そういうのは柄じゃないから素直に店で働けと言った。借金の返済義務がないことは教えなかったし、すでに親父はいないんだから上手くすれば愛人ルートにも乗れる女だ。だけど、ヒート時には仕事を休ませることを条件に承諾した。
それからずっと、ヒート時期になると女の部屋に通って肌を合わせている。
その付き合いも四年目に差し掛かる頃、女の部屋でドラマを見ていた際に運命の話を聞いた。よくある陳腐な話だ。
「色んなαに会ったけど誰も運命じゃなかった。知ってる中で左馬刻が一番イイ男だけど、でも多分違うね」
運命に攫われたかったんだろう。
女は仕事はちゃんとやっていた。店も商品は大事にしていたし、何かトラブルが発生したらすぐ俺に言うよう言ってあったからこれといった問題があったわけでもない。
でも、好きで仕事をしているわけでもない。運命じゃないと言いながらも俺のために店を続けているのは分かっていた。
後から思えば、運命じゃなくても運命みたいに全て奪って欲しいって意味だったのかもしれない。
そして、運命は訪れた。それを欲しがっていた女じゃなく、俺の方に。
運命は一目会えば分かる。
心地いいような、脳の底からかき乱すような匂いがして出どころを目で確かめた時に全て理解した。運命の番でなければ他に説明がつかなかった。
初対面で、敵で、子供で、最悪の相手に体の芯がざわめく。無視してもほんのわずかな匂いで飢える。
腹が減っているわけでもないのに好物の肉の焼ける匂いを嗅いだら涎が出るような、そんな感覚だ。性質の悪いことに、アレの匂いを嗅ぐと腹が減っていなくても本当に空腹状態になって、アレを丸呑みにしなきゃ治らないような気がしてくる。
だけど嫌いな男の弟だ。どんなに美味そうでも手に入れるつもりはなかった。なのに会うたびに体は焚きつけられて、アレのガキ臭い顔を思い出させる。抱く予定もないし抱けるあてもないのに欲求は積もるばかりで、女の部屋に通う日が増えた。他人の体で発散しないといつかどうにかなりそうだった。
すれ違うだけでこの有様だ。まともに顔を合わせて匂いを吸い込んでしまった後は抑制剤で鎮めても後から思い出して昂ってくる。アレと鉢合わせたのが便所の中だったら個室に引きずり込んでいたかもしれない。一度そう考えたらそんな妄想が頭から離れなくなるし、アレの兄である一郎がαだったことを思い出せば身内に手を出す男じゃないと分かっていても腹が立ってくる。
運命は確かに他とは違った。相性のいい女と抱き合って甘えた顔が可愛いと思ったって仕事を辞めさせたいとは思わない。だけどアレはダメだ。可愛げなんてなくても指一本触れたことがなくても、他の誰かに抱かせることを考えただけでも腸が煮えくり返る。それがフェロモンのせいだとわかっていても激しい感情を制御できなかった。
手に入らないから余計にイラつくのかとも思った。でも一度抱いたらそれで終わりには出来なかった。
テリトリーバトルのせいで毎月一度顔を合わせるのをトリガーにして発情するせいで周期が安定していたから、中王区から帰って数日はアレからの連絡を待って過ごす。時間を食いそうな予定は後回しにして時間を空けておく。ヒートが始まったとなれば一秒だってα兄弟のいる家に置いておきたくない。血縁者のフェロモンは効きづらくてもだ。アレのヒートは全部俺のものだ。
月に一度でも抱き合っているとそれなりに相手のことも分かってくる。アレは興奮が治まった後は色気の欠片もなく、媚も物怖じもせずに解散までの時間を過ごす。そういうのも気楽でよかった。
アレが持ち込んだ飯をつまめば「アンタ普段はもっといいモン食ってんだろ」なんて拗ねたことを言いながらも次の時にはまた同じ総菜を作ってきた。フェロモンがそうさせるんだろうが好意らしきものを感じれば悪い気はしない。
関係を結ぶまではアレに感じる感情のすべてをフェロモンのせいだと理由づけて否定していた。だけどフェロモンに負けて定期的に会うようになったらどうでもよくなった。フェロモンのせいならそれでもいい。他の誰にも靡かないなら。
そうして俺が運命に傾倒していく間に女のヒート周期が巡り、呼び出しがあった。アレとライブに行く約束をした日の翌日だ。その時にはもうアレはヒートを終えていたし、ライブが終わってアレを家に帰してから夜のうちに女の部屋にいく約束をした。そしてつい欲に負けてアレをホテルに連れ込んだ翌日の昼過ぎ。咎められるのを覚悟で遅れて部屋を訪れたら女はいなかった。ヒート中は出勤しない条件で就業しているのに、自分で常連客に連絡を入れて仕事に出ていた。
きっとそれが境だった。
しばらくして多少不本意ながらもアレと番になり、他のΩの匂いが分からなくなった。
周期通りにヒートを起こしてベッドで熱っぽい体を持て余した女に会いに行っても辛うじてΩだと分かる程度だ。フェロモンに煽られて起きるはずの興奮が一切なかった。女も俺からαの匂いが消え失せていると分かって一時的なパニックを起こした。寄るなと言われても宥めすかして傍にいて、辛抱強くあやして落ち着いてからあまり面白くないセックスをした。
特定の相手と番関係を結んだって番不在でも勃起や自慰はできる。勃ちさえすれば相手が番でなくてもそれなりには出来るだろうと思った。なのになかなか果てることができなかった。体はそれなりには気持ちいいはずなのに物足りなくて、面白くない。そのくせ時間ばかりかかる作業的なセックスだ。
そうなるとαフェロモンなしに抱かれているΩの方もなかなかヒートが治まらなくて、お互い終わった頃にはいつになく疲れ果てていた。
かつて「左馬刻は運命じゃない」と言いながらも甘えた仕草で肩に頭を寄せた女からしたいい匂いはもうどこにもなかった。甘やかな空気もない。
三年も続けた、この部屋で二人きりの時間が急速に色褪せていく。
あれはフェロモンに見せられていた幻だったのかと思う程に。
ベッドを降りてから物置同然だった鏡台に向かって、鏡越しに女は言う。
「今節約してるの。もうしばらくお仕事頑張ったら十分お金が貯まるから、お店辞めて中王区に引っ越すつもり」
化粧は好きじゃないから仕事以外じゃしたくないと言って、部屋で会うときはいつもすっぴんだった女がきれいに化粧をして、別人のようなすまし顔で。
「次のヒートは出勤するから来なくていいよ。来ても役に立たないし」
「そうか。わかった」
了承すればしたで手加減なくひっぱたかれて爪で頬の端に傷ができた。
着飾って小さなバッグに少ない荷物を詰める。誰かに会いに行くんだろう。俺じゃない誰かだ。
携帯の上で忙しく指を動かしながら、時折こちらに声だけ投げつけてくる。
「壁の向こうに住んだら綺麗なαのカノジョと一緒にアンタがステージでのたうち回って死ぬところを見に行ってあげるわ」
「残念だがその夢は叶わねぇよ」
もう一発殴られて、追い出された。
それから一ヶ月後。二度と会わないうちに女は中王区への移住支援を受けて店を辞め、ヨコハマを去った。
イケブクロとヨコハマの境界付近で黒いパーカー姿のガキを拾う。
「自分で車回してくんの珍しいじゃん。つか、何、喧嘩?」
電話一本で呼びつけ、二時間後に落ち合ってホテルに入ったら真っ先に頬の絆創膏に触れてくる。
「大した事ねぇからほっとけ」
顔から引き剥がした手を背中に導いて抱きしめた。パーカーの首元に顔を埋めると甘くて柔らかい匂いに包まれる。つま先から頭のてっぺんまであたたかな血が巡るような。運命の匂いがもたらすのは興奮だけじゃない。それまで感じていた息苦しさが解けていくようだった。
こんなのはもうコイツだけだ。誰にも渡さないし、傍にいないときでも首に残る傷痕が一生コイツを縛り付ける。
しばらくそのまま部屋の玄関扉を背にして首に唇を擦り付けていると二郎の手が背中を大きく撫でさすり始めた。何も言わないのに、子供を宥めるような手つきで。
それを心地よく思うのも、二郎がそうするのも、すべてがフェロモンのせいなのかもしれない。
だとしても番は一生。死ぬまでこの幻は解けることがない。
◇理銃
「銃兎、テメェまだ鶴木組の八市と仲良くしてるらしいじゃねぇか」
「どこからそういう情報拾ってくんだよ。テメェんとこにゃ迷惑かけねぇから黙ってろや」
左馬刻の所属する組織と鶴木組は同系列でどちらが上でも下というわけでもない。ついでに一昨日寝た鶴木組の幹部は左馬刻と個人的な付き合いはないはずだった。
「八市本人だよ。たまたま会った。入間くんによろしく、だとさ」
「なるほど」
煙草の煙を深く吐き出して天井を仰いだ。何のつもりかは知らないが面倒なことをしやがる。だが本人が左馬刻にだけ絡んだなら、他に吹聴されるよりはましだ。その辺は変態クソオヤジでも弁えてるんだろう。八市の見立て通り、左馬刻は俺のやっていることを知っている。
「そりゃアレだな、テメェともヤッてんじゃねーかって勘繰ってんだ」
「クソだな」
「左馬刻がアイツに借りでも作ったら二人そろって呼び出されて目の前でヤッてみろとか言いだし兼ねん。鶴木組のシマじゃ揉めンなよ」
「言われなくても行かねぇよ」
鶴木組はイケブクロディビジョンとヨコハマに跨ってシマを仕切っている。
今回はイケブクロとの境界で営業している風俗店が未成年を働かせているとのタレコミを受けての案件だが、店側が巧くやりすぎていてなかなか証拠を挙げられなかった。次のテリトリーバトルの結果次第ではディビジョンの境界線が変わってイケブクロ署の管轄となる。こういうことがあるからテリトリーバトルで管轄が変わる境界エリアの案件は隣接した署と情報共有しているが、こっちが地道に追い詰めたネタを明け渡して美味しいところだけをイケブクロ署に持っていかれるのも腹が立つ。だからバトルが近づくと署内もピリピリして焦った空気が漂いがちだった。
それに比べるとやくざ連中は楽なもんだ。政府の認める街の区分けが変わってもそれぞれの組織が仕切る縄張りが変動することはない。さっさと店を検挙したいこちらの都合と、店がパクられるのが早かろうと遅かろうと困らない八市。一発付き合ったら情報提供してくれるって条件なら悪い話じゃない。
相手はβだった。寝てみるまでは相性が悪くて匂いの嗅ぎ取れないαって可能性もあったが、あれはβだ。間違いない。Ωフェロモンも嗅ぎ分けられないクセにわざわざΩ男に突っ込みたがる、そういう趣味の男だ。
この世には男女二種類の性別の他に、男女それぞれにαβΩの三種類の性別が存在する。Ωにのみ作用するフェロモンを分泌し、平均して高い知能や肉体を有するα。αのみに作用するフェロモンを分泌し、周期的な発情期があり、男女共に妊娠可能なΩ。そのどちらのフェロモンも受容できないβ。
αやβの男は男性器、女は女性器しか持たないが、思春期を過ぎたα女には男性器、Ω男には女性器が備わる。生まれた時から器官として存在はするが、成熟して外見や簡易的な検査で分かるようになるのが十代半ばほどから。それまでは他の臓器に隠れて正確な判断がつかない。男のΩはちんぽを扱き始めた後で自分が雌だったことを知る。
人口比としてはβが一番多く、次にα、一番少ないのがΩだ。特にΩは自分の性別を隠す。妊娠に特化した性別を差別的な目でみたり悪意的に接してくる人間は多い。
Ωにとっては生きづらい社会だが、風俗業界においては本物のΩはスターだった。元から人口が少なく、αの伴侶を得たΩはパートナー以外との性交が困難になるから希少性が高い。
αがΩのうなじを噛むとお互いのフェロモンが強烈に作用して番となる。昆虫や動物みたいに、頭で考えて相手に尽くすんじゃなく、そうせずにはいられないよう脳が作り変えられる。パートナー以外のフェロモンは感知できず、自分のフェロモンも他人には感知できなくなる。βはそれが普通だが、フェロモンによって引き起こされる激しい興奮状態に馴れたαやΩにとっては去勢されたに等しい。世界で一人だけ自分を興奮させてくれるのがパートナーだ。お陰で番を結んだオメガバースたちの浮気率、離婚率は低い。
昨年、ΩのAV女優がαに噛まれたことを理由に突然引退し、彼女が本物のΩだったとわかって過去の出演作がバカ売れした。AVなんて画面ごしにフェロモンがわかるわけじゃなし、Ωのフリをしたβがごまんといる。首に噛み痕を持ったままビデオに登場する自称Ωのほとんどが偽物だ。それが分かっているからαは人妻Ωモノを見ない。元からフェロモンのわからないβにはウケているので市場には存在するが、本物のΩからするとバカバカしい茶番だった。ネットでは誰がホンモノだとか偽物だとかいう噂が飛び交うがどれも眉唾。女優や男優がホンモノだったと分かるのはいつも彼女らが噛み傷をつけて引退するその時だ。
貴重な本物のΩを抱けるのは偶然知り合ってまともに関係を築いた人間か、金か権力のある男だけ。Ωだってバカじゃない。生活状況が苦しいなら不特定多数に体を売るより見合いをしてΩと番いたい金持ちのαを捕まえた方が楽で確実だ。Ωを飼っておきたい金持ちや、丈夫な跡取りを産ませたいαはいる。
他の性別に比べて健康な子供、特にαやΩを産み落とすことを得意とするΩはその代償のように平均的な能力が低めで性差別により出世もし辛いが、そういった金持ちの個人的な需要と供給の兼ね合いで風俗業界に流れる人間は少ない。Ωのいる風俗店は超高級店だ。もし噛まれてしまえばフェロモンを武器にできなくなってαの客は離れていくし、単純に体がその気になれなくなってフリーのころのようには稼げなくなる。体を売るΩは独身のうちに一発何十万、一晩何百万で体を売って一生分稼ぐ。
それに比べれば遅かれ早かれ潰れるチンケなしのぎを自分の手で売り渡して正真正銘フリーのΩを抱けるんだから安いもんだろう。
こっちとしてはこの一件で数十万が懐に入るわけじゃないが、手柄を挙げれば出世に繋がる。目的は最初から金じゃない。
まだ新人の頃に組まされたのは同じΩの刑事だった。身を守る術も悪いことも様々教わった。その人はあまりこうした手段を得意とはしなかったが“交渉”を希望する人間は何人もいた。
『お前が嫌ならそっちの新人はどうだい』
こちらに煙草の穂先が向けられた時、俺の出世願望を知っていた彼は言った。
『入間、警察社会でもΩの出世は難しいが、他の連中を蹴落とす方法はある。お前が後悔しない選択をしろ』
数日後、俺はその男と寝た。今だって後悔はしていないが、彼が伴侶を得て退職する際の見送りは理由をつけて欠席してしまった。当然、そこで彼との縁は切れた。主義は違っても尊敬できる人だった。
「ああ、それで捕獲できる。手軽なのは素揚げだ。……む、そうか。調理に困ったら生きた状態で小官のところへ持ってくるといい。ああ、それじゃあまた」
風呂から戻ってくると理鶯は誰かと電話していた。聞こえた単語に不穏さを感じる。
「理鶯、今のは左馬刻ですか?」
電話連絡するような仲で料理の話を聞かせる相手なんかそんなにいないだろう。基本的に森の奥に住まう理鶯の手料理を経験している人間だ。
「ああ、浜辺で蟹を捕まえる方法を尋ねられた」
「蟹?左馬刻が捕まえるんです?」
「そうだ」
理鶯はごく真面目に頷くが、左馬刻が蟹。蟹ってのは比喩ではなくて、岩場や砂に掘った穴の中に生息する生き物だ。百歩譲ってタラバガニ漁をしのぎにするとかいう話なら分からないでもないが、浜辺で左馬刻が蟹。
ぽかんとする俺に言葉が足りなかったと思ったか、俺の首からタオルを取るとソファの隣に座らせ髪を拭きながら理鶯が言葉を足す。
「少年と蟹や魚を捕獲しに行くそうだ。食べる予定はないらしいが」
後半に寂しさが滲むがその辺で捕まえた小さな蟹をわざわざ食べたがる左馬刻でなくてよかった。
それにしても。
「あの左馬刻がねぇ。そのうち彼にせがまれて蝉でも捕まえだすんじゃないですか」
恋は人を変える。番フェロモンを恋と呼ぶかどうかは人によるだろうが、シラフの時にも相手のために全く似合わないことをやろうとしてるんだ。酒やクスリで一時的にそうなっているのとも違う。それがフェロモン由来かそれ以外の要因かなんて関係ない。
この世にはフェロモンの影響で持つ好意とその他の好意を呼び分ける言葉の区別はない。特定の相手を求めて執着して真心を捧げる関係を大抵の人は“恋”と呼ぶ。
「確かに、もうじき蝉が旬だな。フライにすると歯ごたえがあって……」
「いや、さすがに左馬刻が蝉はないですね。去年もうるさいって文句ばっかり言ってましたし」
食べさせたいと言い出す前に前言撤回した。迂闊に虫の話なんか持ちだすもんじゃない。
「蝉はともかく、左馬刻がらしくないこと始めたのが面白いんですよ。これも運命の番効果ってヤツなんですかね」
もう二ヶ月も前になるだろうか。先週はテリトリーバトルだった。左馬刻がΩを噛んで番となったのも前々回のテリトリーバトルが終わって数日後のことだったから、ちょうどそのくらいだ。
最初のテリトリーバトルでアレとすれ違ってから相手のΩフェロモンに惹きつけられてフラストレーションを溜めていた頃が懐かしい。相手は左馬刻がこの世で一番嫌う山田一郎の弟だった。αとΩはフェロモンの相性が良ければそれだけで脳の蕩けるようなセックスができる。それが分かっている相手に手を出せなかったんだから致し方ない。ただ、多少相性が良くても大抵は諦めがつく。立場上も難しい相手なら尚のこと、αにだって理性はある。一ヶ月に一度、言葉も交わさない相手にそこまで固執したのはやはり“運命”だったからだろう。
話を逸らすついでの何気ない調子で言ったつもりだったが、理鶯はタオルで髪を拭く手を止めた。雫になるような水分はほとんどタオルに吸い取られ、あとはドライヤーの出番というところだ。湿ったタオルを外してテーブルに置くと、生え際から指で髪を梳りながら明るい色のまつ毛にふちどられた青い目がまっすぐに覗き込んでくる。
「銃兎も運命を欲しいと思うか?」
曖昧な質問だな、と思う。運命の正体は低確率で遭遇した極端に相性の良い人間のことだ。理鶯自身が俺にとっての運命であれば良かったかという話だろうか。それとも、左馬刻みたいに価値観をひっくり返されるような誰かとの出会いの話か。理鶯の目は凪いだ遠浅の海のようで寂しさも懇願も何も読み取れない。
だから思うままに答える。
「嫌ですよ。自分が大事するものや優先順序は理性だけで決めたいじゃないですか」
今大事なのは仕事だった。成し遂げたいことがある。万が一、これを本能で台無しにしたらきっと一生後悔する。
「そうだな」
理鶯はフッと微笑んで頬に口づけ、ドライヤーを取りに行った。
俺たちは運命じゃない。だけど丁度いい。理鶯にだって恋にうつつを抜かして蔑ろにできないものがある。そういうバランスを取れるから関係を持っているのだ。
だけど、いつかこの騒がしい街がマシになったら、その時は理性的にこの首を差し出せるといい。
襟足に張り付いた黒い髪を指で触れると、そこだけ水気が多く残っていてじっとりと指を濡らした。