屋内に入るとそれまで白かった息が透明になった。座学続きの後に廊下に出ると寒いと思うのに、今はむしろ暖かい。
二月も折り返していた。
三年生が引退したサッカー部は人数が減った以上に活気を失っていた。
逢沢傑というキャプテンを失ったからだ。引退後もしばらくは中等部の部活に顔を出してくれていたものの、高等部への内部推薦が正式に内定してすぐに高等部の部活へ参加するようになった。
現キャプテンの佐伯もリーダーシップと実力を兼ね備えているが、傑の存在感には一歩及ばなかった。
傑と同じチームであること自体が誇りでありプレッシャー。彼はそういう存在だった。
三年生引退と同時に中高等部兼任の熊谷監督が高等部を中心にみるようになったのもある。
鎌倉学館高等部は、傑やディフェンダーの国松を迎えた今年こそは、と盛り上がっているらしい。
中等部に新しい監督を迎える話もあるが、今のところはそれも噂どまりでいまいち気合が入らない冬だった。
しかし、駆にとっては中学最後の年だ。昨年は半年もチームから外れて過ごした。熊谷監督からもまだ厳しい目で見られている。
まだ一度サッカーを捨てようとした時間を挽回できていなかった。
部活が終わり、仲間たちが制服に着替える中、駆は新しいアンダーシャツに着替えてジャージを羽織るとそのまままた外へ飛び出した。
いつもの自主練場所へと走った。校舎裏の、窓のない広い壁だ。部活後には必ずそこでシュートの練習を繰り返す。
駆のポジションはフォワード。ゴールを決めることが仕事だった。それが小六以来上手くいかなくなった。
校舎をぐるりと回っていつもの場所へ出ると、普段誰もないそこへ教師らしい背広の男性が立っていた。
見覚えのない若い男だ。
もうすぐ三月、新学期も近いので転勤してくる予定の教師だと思った。練習に使っている壁のボール跡を見つめている様子からして、噂の中等部サッカー部の新任監督かもしれない。
「こ、こんにちは」
どちらにせよこれからお世話になる人だと思って丁寧にあいさつをした。
彼は人の良さそうな笑顔で応じてくれた。やっぱり若い。
「その格好、中等部サッカー部員ですか?」
「はあ……えっと、新しい先生ですか?」
遠慮がちに尋ねると天然らしい顔で後頭を掻いた。
「すいません、名乗るのが先でしたね。先生は先生でも江ノ島高校でフットボールクラブの顧問をしてます。岩城といいます。」
ジャージ姿の生徒相手だというのに懐から名刺を探し、見つからず代わりのように握手を求めてきた。
江ノ島というと、学校そのものはわかる。ただ、サッカー部のイメージはほとんどなかった。近年の大会で鎌倉学館と当たったことがないので試合を見たこともない。
ベスト4まで残っていたこともないように思う。
「部活はもう終わってしまいましたか。用事で来たついでに見ていきたかったんですけど、グラウンドには誰もいなくて他の場所かと思ってウロウロしていたら迷ってしまって。」
「中等部の練習はさっき終わったところで、あー……えっと、もしかして逢沢傑を見に来たんだったらもう中等部では練習してないですよ。」
昨年末頃はまだ偵察なのかスカウトなのか見学者もいたが、推薦入試が終わった後には一切なくなった。 そもそも傑が内部推薦で高等部へ進学するのは前々から決まっていたことだ。
もしかするとこの人は傑ではなく佐伯の客かもしれない。彼もまたU15日本代表候補として声がかかるほどの実力者だった。
「そちらにも興味はあるんですけど、他にもいい選手がいっぱいいますから。」
威圧感のまったくない押しの弱そうな人だった。迷子というのもそれに拍車を欠けた。スカウトを持ちかけてもあっさり断られてしまいそうな。
鎌倉学館高等部といえば神奈川の強豪として有名だ。中等部生の多くがそのまま高等部に入学する。
サッカー部にいて、あまり名前も聞かないような江ノ島高校の誘いを受ける選手はそういないだろう。
いい選手がいっぱいいる、という言葉通り、年代別代表に招集されるほどではないにしろ上手い選手は何人もいた。
傑や佐伯のような飛び抜けた選手はチーム全体を活性化させてレベルを引き上げる。
ただし、いい選手の中に駆自身は入っていないと思った。
「この壁は、君が?」
目の前の壁は元々テニス部員が壁打ちのために使っているものだ。
しかしテニスボールでは狙わないであろう高さに二箇所、その真下の地面近くの計四カ所に大きなボール跡がある。
壁に残る四カ所のボール跡はサッカーゴールを連想させた。
駆は頷く。
「これから自主練ですよね。部活風景が見られなかった代わりというわけではないんですが、ちょっと見学させてもらってもいいですか?」
「えっと、シュートの練習ばっかりですけど……」
「ええ。お邪魔でなかったらお願いします。」
押しが弱そうだと思ったばかりだが、岩城ににっこりお願いされると断りづらい。ギャラリーが気になる程繊細でもない駆に断る理由もなかった。
誰に見られていようがやることは同じだった。
壁の前を走りまわって壁に向かって蹴るを繰り返すのを岩城は飽きもせず見つめた。
十分もそうしていた頃、
「反復練習」
ずっと黙っていた岩城のつぶやきが、ちょうど壁にボールが当たって地に落ちるまでの間に耳に滑りこんでくる。
駆は足元に拾ったボールをピタリと止めて振り返ったが、続けてくれと仕草で促されて仕方なく練習を再開した。
「シュートが苦手という様子でもありませんね。」
同じ動作を繰り返しながらも集中力を切らして岩城の言葉に耳を傾けていた。
独り言か話しかけられているのか分からないようなつぶやきの直後に左足から放たれたボールは球跡で描かれたゴールポストを外した。
「何か不安でも……?」
今度こそ練習を中断した。左右平等に動かしていた左足だけを見下ろして太ももを鷲掴みにした。
それは小学校の頃にチームメイトの膝に大きな怪我を作った足だった。
◇
二年以上も生活するとモノが増える。
ダンボール箱を数えてみたらこの家に引っ越した小六の時より明らかに多かった。
自分の手で運ぶのはせいぜい家の前までだし、これを荷造りしたのはほとんど母親なのだが、なんとなく面倒だな、と思った。
でも、今回の引越しは楽しみだった。
前回は生まれ育った日本から言葉の通じないオランダへやってきたお陰で苦労したが、今回はその逆だ。
元々住んでいた日本、神奈川の街に帰る。
「ねえ、本当に鎌倉学館じゃなくて良かったの?」
父の海外赴任が終わると聞いた時から何度目かの問答だ。ガランとした家の中を掃除していた母が雑巾を絞りながらあまり役に立っていない息子に尋ねる。
「しつけーな。もう手続きも終わってんだから言うなよ。」
「親に向かって“しつけーな”はないでしょ。」
子どもっぽい仕草でバケツの水を振りかけられた。引越しの準備をろくに手伝わないことへの抗議も混じっているらしい。
「傑くんは春から高等部だけど、中等部には駆くんとか帰国した奈々ちゃんも通ってるそうじゃない。あとは、サッカー部以外では平井くんとか河野くんも……」
いつの間にか日本にいた頃親しかった母親仲間に連絡をとっていたらしく懐かしい名前をポンポン挙げ連ねる。
奈々が帰国していたのは知らなかったが、駆達と同じ学校を選んだことには驚かなかった。
「傑さんとは一緒にやりたかったけど高等部だろ?それに中三の春から入部したってどうせ大会も出れねえし。」
「駆くんがいるじゃない。どこへ行っても同じなら仲の良い子がいるところの方が良かったんじゃないの?」
「駆は……駆とは校内試合とかじゃなくてちゃんと決着つけてえんだよ。」
「決着ってねえ、元々同じチームじゃないの。」
再び雑巾がけを始める母の目を盗んでガムテープで封をされていないダンボール箱を覗くとアルバムが入っていた。
めくると、まだ髪の長かった自分が少年サッカーチームの仲間たちと笑っている。
その中でも一番親しげに肩を組んでいる少年がいる。それが逢沢駆だった。
ハーフパンツから覗く膝を撫でて目を細めた。
隠しているわけではなかった。同じ中等部の部員ならみんな知っている。
言いふらすような話でもないと思いながらも駆は話し始めた。岩城がそう悪い人に見えなかったから。
「小学校の頃のチームメイトに、練習中に怪我をさせたんです。」
岩城の視線が鷲掴みにされた左足に注がれる。
そこには何もなかった。あの日も、駆は痛みなんか感じなかった。
でも、本来ならありえない方向に曲がった親友の膝と悲鳴を思い出すと、今でも自分の膝が疼くような気がする。
怖かった。直後には膝に力が入らなかった。
彼の抜けたチームでの練習に戻ってからもあのシーンを再現するかのようなスライディングを見ると足がもつれたようになってしまう。
あの時からもう三年が経とうとしていた。
時間と共に少しずつでもましになってきたが、調子を崩している間に周りに置いて行かれる感覚。
監督に期待されていないのがありありと分かる空気。
自分自身への苛立ち。会話の減った兄との距離。
トラウマだけでない色々なものが左足に絡みついていた。
岩城には言わなかったが、一度はサッカーそのものを諦めようとした。
「その……相手はサッカーを辞めたんですか」
遠慮がちに尋ねる。
「……わかりません。それからオランダに渡って、もう連絡をとりあってないんです。」
「オランダ?治療のために?」
曖昧に頷いた。親の仕事の都合もあったと聞いているが、治療もしているだろう。
続けているといい。サッカーを。
「きっと大丈夫ですよ。」
地面を見つめていた頭に柔らかな重みが乗った。柔らかな声だった。
「その彼もサッカーを好きなら。きっと治療してピッチに戻ってきます。」
好きなら。で止めた言葉が胸にぬるま湯を浴びせたみたいに染みこんでくる。
暖かで、それなのにスッと冷えていくのは、あの日から無傷でサッカーを続けてきた自分が何も信じていなかったからだ。
一緒にボールを追いかけた時間を思い出すたび、怪我の一件で自分自身が味わった恐怖や後悔にばかり浸って、相手のことをちゃんと考えていなかった気がした。
あの一件の後、兄とその話をしたのは一度だけだった。兄はあまり言葉をくれなかった。でも、ポツリと言った。
『アイツはお前のこともサッカーも嫌いにはならないよ』
つまらない気休めだと思った。何しろ怪我の後から引越しまでの間、どんな風に接しようとしても相手に避けられていたのだ。
練習をしていても試合があっても彼は観に来なかった。当然だと思う。
だから全てを嫌いになったかもしれないと幾度となく疑った。
以前はあんなに笑い合って、競い合って、当り前のように毎日同じボールを追いかけていたのに。
そっと顔を上げると岩城は大人らしい優しげな目をしていた。
それから思いついたようにワントーン上げた声で言う。
「そうだ、暖かくなったら一度うちの練習を見に来ませんか?」
きっと君に向いている。
キョトンとする駆の足元を強い風が走って止まっていたボールが転がった。
「暖かくなった?」
「ええ、天気のいい日は大抵浜でやってますから」
頭に浮かんだ見知らぬ学校の校庭が砂と海に覆いつくされ、人もボールも見えなくなった。
まだ風の冷たい二月だった。
◇
空気がすっかり春だ。
土と草が混じり合った懐かしいような生々しいような匂い。
自転車で海に出ると水平線が見えるより先に潮風が体を包んだ。
強い風を受けると少し肌寒い。
結局代わることのなかった熊谷監督の都合で短時間で終わった部活後、自主練もせずに自転車に飛び乗った。
駆が一番に帰るのは珍しいことだった。今年の部長を務める佐伯に呼び止められても理由をごまかした。親友の佐伯にもまだ打ち明けていないことだった。
家とは別の方向にハンドルを切って江ノ島に向かった。
距離の近さに反してこうして一人で自転車を走らせることのない新鮮な景色が視界の端を流れていく。
江ノ島高校フットボールクラブの練習場を目指していた。しかし江ノ島高校には向かわない。
『グラウンドは学校公認のサッカー部が使っているのでね。』
首を傾げると岩城は苦い笑みを浮かべていたずらっぽく『同好会なんです』と言った。
正規のサッカー部でないことを告白して苦い顔をされることに慣れているのだろう。駆が思わず眉根を寄せても慌てる素振りはなかった。
『グラウンドは滅多に使えませんし、部員数も少ない。でも、うちの部員は全国制覇、いや、もっと上を目指している選手ばかりですよ』
もっと上。高校サッカーで終わらない大きな夢。
冗談やハッタリではない、強い目と頼もしい笑顔に本気だと直感した。
傑のような誰の目にも才能のある選手に大して世界の話をする監督はいくらでもいる。一緒に大きな夢を見たくなる。傑はそんな選手だからだ。
でも、存在さえあまり知られていない小さな同好会で、名前も知らない実績もない中学生相手に、こんなに真面目に世界を目指せという人を初めて見た。
小学校の頃には兄と一緒にワールドカップを目指していた。本気だった。
その夢を見失ったのはいつだったろう。
初めて兄に「一緒にワールドカップに出るんだ」と言われた記憶が頭をかすめる。傑からのラストパスを受けた駆がゴールを決めて勝った試合の後だ。
みんな浮かれていて、駆は帰宅してからもずっと上機嫌だった。兄弟二人で反省会をする間もいつもより浮き足立っていて、そんな時に傑が言った。
『いつか、一緒に――――』
勢いで出た言葉ではなかったと思う。はしゃぐ駆の隣で頼もしい笑顔で言った。あの時もすぐに本気だとわかった。迷わず頷いた。
指切りをした。
心を動かされたのは間違い無くあの瞬間だった。
『暖かくなったら一度うちの練習を見に来ませんか?天気のいい日は大抵浜でやってますから』
砂浜での練習について、江ノ島高校の名前を伏せて奈々に尋ねてみた。
駆よりサッカー部でマネージャーをやっている奈々の方が詳しい。
『足場が悪い分鍛えられると思うわ。ボールも転がらないはずだし。面白いと思う。』
奈々に面白いと言われてもっと心が傾いた。
公認クラブでないという不安も消えはしなかったけれど、岩城は「大会には出られない」とは言わなかった。
『校内試合で公認クラブに勝てば、学校代表として出られるんです』
岩城は勿論勝つつもりだ。
浜辺に蹴り上がるサッカーボールが見えたとき。オーバーヘッドでゴール代わりらしい建物だけの海の家にボールが叩き込まれたとき。自転車のグリップを強く握りしめた。
海開き前の浜辺で季節外れの海パンとビブス姿の裸足の少年たちが駆け回る姿は遊んでいるようにも見える。でも、じっと見ると遊びではないのがわかる。
浜より二メートルほど高い路上から見る限りでは確かに人数は少ない。でも、誰もが楽しそうに走り回っているのが印象的だった。
そして想像していたよりずっと上手い。
中には駆よりも小さな選手もいた。彼は小柄な体格をものともせずゴール前に運ばれたボールを奪う。
砂の上とは思えない軽快さでパスが回り、何度もシュートが打たれ、それをやはり海パン姿のキーパーが弾く。
その中でも目を引いたのは長い髪を後ろで一つに結わえた選手だった。
一人だけレベルが違う。柔らかなボールタッチ。正確なキック。周囲に的確なパスを出したかと思えばきれいな弧を描くループシュート。
天才と呼ばれる兄を見慣れた駆でさえ目を瞠るような。
笛が鳴った瞬間に半数近くが砂の上に崩れ落ちて顔いっぱいに疲労を浮かべた。
一瞬前までいきいきした顔で大胆なプレイを連発していた姿のギャップに戸惑うほどだ。
「なるほど。硬い土の上に比べて砂の上なら怪我も気にせず自由なプレイができるんだわ。」
隣で発せられたコメントに素直に頷いてからパッと隣を見た駆は目を丸くして口をパクパクさせた。
一人でここまで来たはずなのに、何も言わなかったはずなのに、奈々がいる。
ニッコリ笑って「置いてくなんて酷いじゃない」と。
「この間の砂浜での練習ってここのことだったのね。」
駆は心配したけれど機嫌を損ねたわけではなさそうだ。興味深そうに自転車から降りて柵から身を乗り出すように見ている。
「確かに駆向きかも」
それは独り言のようなトーンだった。だから返事をしなかった。
「どこの高校?高校よね?」
「江ノ島高校フットボールクラブですよ。」
答えたのは岩城だった。彼もまた部員たちと同じ海パンにジャージを羽織った姿で足元はビーチサンダルだった。
奈々の顔を見て「おや?」という表情を浮かべたが何も言わなかった。
「興味を持ってもらえましたか?」
疑問形ながらも顔はもう答えを知っているようだった。
奈々が同好会の事情や砂浜での練習の意図をを岩城に質問している間にも駆は砂の上で思い思いに休憩中の部員たちを眺めていた。
あの髪の長い彼を。
車道で何かあったらしい。クラクションが鳴った。
その拍子に顔を上げた彼と目が合う。
「彼は、荒木くん」
いつの間にか真横にきていた岩城が部員たちに手を振りながら言った。
「うちの10番予定の、荒木竜一くんです。」
◇
色付き始めた街路樹の間を傑は走っていった。
鎌倉学館は朝一番の試合を6-0で勝ち抜いた。ミーティングでも熊谷監督は機嫌が良かった。お陰で早めの解散となった。
傑の向かう先は湘南大付属高校のグラウンドだ。鎌倉学館とは別ブロックの試合が行われている。どちらも偵察する必要もない学校だ。偵察なら同時刻に試合している葉蔭学院の方が有意義だろう。
説明する時間も惜しそうな様子だったから瑛は黙って追いかけた。
グラウンドに着いたのは残り時間二十分を切る頃だった。スコアは後半だけで3-0。試合展開も一方的でどんでん返しはなさそうだった。
フィールドを見渡した傑は渋い顔をして、今度はベンチを見た。劣勢の江ノ島高校のベンチを。
「誰を探してんだよ」
難しい顔で首を振ったところを見ると見つからなかったらしい。
追加点が入ったところで試合終了を待たずにグラウンドを離れた。江ノ島高校の誰を探していたのか。傑は黙ったままだった。
ただ一言。
「もう、いいんです」
歯を食いしばって搾り出した。
十二月。
その公園に来るのは久しぶりだった。選手権大会の県予選と冬の寒さで足が遠のいた。
学期末試験をなんとか乗り切って冬休みを迎えてもサッカー部は休み気分に浸る余裕もなかった。年末には選手権大会の開会式、年始には緒戦を控えている。
雪の降らない冬の公園は広葉樹が寂しくなっている他は何も変わらない。
二ヶ月ぶりの駆は顔を合わせるなり花が咲くような笑顔を見せた。
「全国大会出場おめでとうございます!」
一ヶ月も遅れちゃいましたけど。はにかむ頭を乱暴にかき回してやる。
「決勝の日にメールよこしたくせに何言ってやがる」
「ちゃんと会って言いたかったんです!」
上目遣いにちょっとだけブラコンの気持ちがわかった。兄貴がブラコンだから弟がこうなるのか、弟がこうだから兄貴のブラコンが酷くなったのかは定かでない。
少なくともうちの妹ではこうはいかない。瑛の母と妹は揃って傑のファンだった。帰宅して妹に報告したリアクションは
『さすが傑さん!』
二点も決めた実兄を差し置いてこれだ。全く可愛気がない。
「全国大会も応援行きますね!」
「お前んちは一家揃って傑の応援だろうが」
「兄ちゃんの応援だけじゃないですよ」
唇を尖らせる。駆はすでに中学最後の公式戦を過ぎていた。ベンチにも入れなかった。中高サッカー部兼任している熊谷監督が認めなかったからだ。
ちょくちょく中等部の面倒をみている国松が頼み込んでも駄目だった。駆の努力を知っている傑は何も言わなかったそうだ。ポーカーフェイスを決め込んでいるが、悔しくないわけではないだろう。
部活後の自主練や、こうやって夜の公園でボールを蹴っていることを知っている奴はみんな少なからず悔しさを味わっている。駆本人が「仕方ない」と笑うからだ。
でも、高等部にきたら変わる。監督は中等部と同じ熊谷監督だが、駆を活かせる傑がいる。他にも国松みたいな味方もいる。それから瑛だって。
去年、まだ中等部にいた傑が言った。
『再来年には全国優勝』
今年だって全国を獲るつもりでいるが、傑の夢には駆というピースが不可欠だった。あの時、瑛は顔も知らない駆に嫉妬した。でも、今は瑛も同じユニフォームを着て駆とピッチに立つ未来を想像できる。
(今年も、それから来年も全国優勝、だ)
久しぶりだからか、鎌学が県優勝したからか、いつもよりはしゃぎ回っていた駆が額を拭ってジャージを脱ぐ。瑛は駆よりは走りまわっていないが、立ち止まると途端に汗が冷えてくる。
「おい、ちょっと暑くても着とけよ。汗冷えて体冷やすぞ」
ベンチにジャージを置いて振り返った駆の顔色が悪い。電灯の弱い明かりのせいかとも思った。それでも駆の「大丈夫」が信用できなくて汗できらめく額を触る。熱い。
「おいっ!」
大きな声を出すと肩を竦めて動きを止めた。
「熱あんじゃねぇか!」
「え…………あっ」
緩慢な動きで自分の額を触るが、手が冷たいから分からないと言う。熱が計れないとしても倦怠感や寒気や何かしらの症状が出ているはずだった。
今しがた脱いだジャージを着せて、その上に瑛の着ていたジャージも羽織らせた。
「だ、大丈夫です。うち近いし……鷹匠さんまで風邪ひかせるわけにいきませんから」
「じゃあ家まで送って玄関前でそのジャージ受け取ってやるからそれまで着とけ!」
それ以上は有無を言わせずボールを回収した。
「もう冬休みだからって浮かれやがって」
「そういうつもりじゃ……久しぶりに鷹匠さんが来られるっていうから」
サイズの大きいジャージの袖から見える指先をもじもじ動かしながら口ごもる。自己管理のできない奴なんか嫌いだがいまいち怒りきれない。
「年末はしっかり休んどけよ。内部進学は受験勉強する必要ねえんだし、部活も高等部が忙しい間は減るって国松に聞いたぜ」
そこで駆が足を止めた。
「あの、そのことなんですけど……」
家はもうすぐそこだった。
「実は俺……外部受験しようと思ってるんです」
それは、つまり、駆が瑛や傑のいる高等部に来ないということだ。
瑛は――恐らく傑も、国松だって、当り前に駆は高等部へ上がってくるものだと思っていた。
「どこ受けようってんだ」
「えっと、江ノ島高校……」
「今回の大会二次予選一回戦で敗退したトコじゃねえか」
傑と観に行ったのをよく覚えている。鎌倉学館を捨てて行くような魅力は感じなかった。
「違うんです!今回の大会に出場したのは学校公認サッカー部の方で……」
「どういうことだ?」
「入部しようと思ってるのは、江ノ島高校にある同好会の方なんです」
俯きがちに告げられた瞬間、ジャージの胸ぐらを掴み上げた。
「公式戦にも出てねえ同好会だと?」
あまりの剣幕に怯んで駆の反論がワンテンポ遅れる。
「ち、違うんです!そういうわけじゃ……」
「そういうわけもこういうわけもねえだろ。お前、中学で結局監督に認めて貰えなかったからってまた逃げるつもりかよ」
「待って!ちゃんと、ちゃんと話聞いてくださいっ」
「お前がそんなつもりでサッカーやってるんだとは思わなかったぜ!」
突き飛ばすように解放されてよろけたそこはもう自宅前だった。
駆が何か言うのを視線で制して背中を向けた。今話すことはもうない。そういう拒絶だった。
「お前が頭冷やすまでは会わねえ」
ピシャリと言って駅まで走った。ジャージを貸したお陰で歩くには寒かったから。走りたい気分だったから。
◇
熱の時はろくな夢を見ない。輪郭の曖昧な悪い夢の後味がそのまま体の不調に取って変わって目が覚めてもあまり楽にならない。
でも、熱は下がったようだった。体温が落ち着いたおかげで自分の布団だというのに違和感がある毛布の中から腕を出すと汗だくの肩のあたりからひやりとした。
口がカラカラだった。枕元に置かれた折り畳みのテーブルにストローの刺さったポカリの缶があった。
「あ、カケ兄起きたんだ」
顔を出した妹が冷たいタオルを手に顔を出した。
「もうおデコ冷やさなくて大丈夫?さっき携帯光ってたよ」
相槌を打とうとして喉が痛いのに気づいた。まだふわふわした体を動かしてポカリに手を伸ばし、指が滑る。まだたっぷり中身があったらしい缶がテーブルを転がりながら中身をまき散らした。
あ、と思うより先に美都が声を上げて手にしていたタオルをテーブルに押し付ける。
「あー、もう!携帯濡れちゃったじゃん」
ポカリの水たまりに携帯が浸かっているのを見て眉毛が八の字になる。
でも自分でやったのだから誰も怒れない。仕方ない。部活の連絡は家の電話からセブンにでも聞けばいいし、修理に出すとお店が代用機を貸してくれるって知っている。
そう片付けて缶にほんのちょっぴり残ったポカリを飲んだ。
テーブルを拭いてくれている美都が怒ったけど病人扱いしてくれるならこれぐらい許して欲しい。
一口にも足りない液体ではちっとも潤わなかった。
携帯が水没したら、まず電池パックを外して水分を拭き取れる限りとにかく乾燥。陰干し。もしくは冷蔵庫で冷やす。完全に乾燥するまで電源を入れないこと。
冷蔵庫で二日冷やした携帯の電源を入れて五秒。そっと二つに折りたたんで母に頭を下げた。
修理代の一万円札と傑をお供に携帯ショップに向かったのは数日後に選手権大会開会を控えた年末のことだ。
年末だからか年末なのに、か。予想以上に混み合う店内のソファに詰めて座った。カウンターでは耳の遠そうな老女に女性店員が声を張り上げていた。
「結構時間かかりそうだね」
「急がないから別にいいけど、飯食ってから来ればよかったな」
待ち順にソファに座っている関係でそこを離れて陳列されている機種を見に行くわけにもいかない。手近にあったカタログを開いてみる。
「どうせ修理じゃなく交換だよね」
「ああ、国松が前にケツに携帯入れたまま先輩たちに海に放りこまれてダメにした時はそうだった」
「高校で?」
「今年の夏な」
「うわー俺も高校に入ったらポケットに入れっぱなしにしないよう気をつけようかな」
「お前やられそうだもんな」
「なんだよそれ!」
「先輩にかわいがられる性質だってこと」
「褒めてる?」
「まあな」
カラフルな端末が並ぶカタログを見ながら買う予定もないのにアレがいいコレがいいと指差しページをめくり、ついにひと通り見尽くしてしまった。
「まだ順番回ってこないね」
「別の店舗行けば良かったな」
「あ。あのおばあちゃんやっと終わったみたいだよ」
腰の曲がった老女が大声で説明をしていた女性店員にペコペコ頭を下げながらのんびりカウンターを離れていく。首には高齢者をメインターゲットにした通話機能だけのシンプルな機種を提げている。
一仕事終えた女性店員はすぐさま別の店員から回された顧客を確認して名前を呼んだ。さっきの老女とのやり取りを引きずったよく通る声で。
「アラキ様」
敏感に傑が顔を上げる。駆も兄につられて顔を上げた。
呼ばれて立ち上がったのは別のソファの隅に座っていた柔道部体型の青年だった。フード付きコートの下のセーターごしにも腹が丸いのがわかる。
その後ろ姿をチラリと見て肩の力を抜いた。しかし、彼がカウンター前に座る直前、横顔を見た傑が立ち上がった。
「兄ちゃん?」
アラキの用事はすぐに終わったようで程なくして椅子を立った。そして振り向いてすぐに満員のソファでただ一人立ち尽くしている傑に目を留めた。
切れ長の目が丸くなる。
「…………傑っ」
あ。そこで駆も思い当たった。体型がずいぶん変わっていて印象が違ったのですぐには分からなかったが。
彼、荒木は傑から顔を背けるようにして足早に店を出て行った。
「兄ちゃん」
「……悪い、何でもないよ」
やっとソファに腰を下ろしたが、足の間で組んだ手をじっと見つめて口を引き結んだ。躊躇いがちに駆はその名前を口にした。
「あの人、荒木竜一さん……?」
「何で駆がアイツを知ってるんだ」
兄には江ノ島高校FCの練習を観に行ったことも、そもそも岩城監督と会ったことだって話していなかった。きっと傑も瑛と同じく駆は内部進学で鎌倉学館の高等部に進むものだと思っている。
受験の頃にはどのみち知れることだ。早いうちに話さなければと思いながら、傑が大会に向けて忙しくなるのを言い訳に先延ばしにしていた。
「あのさ、……実は俺、」
「お待たせいたしました、次のお客様――――」
忙しそうな店員が呼んだ。兄弟の番だった。
「後で話すよ」
水を差されて一息つくと変に緊張していたことに気づく。
それまでは兄の期待を裏切るのが申し訳ないように思っていた。今は進路のことを兄に打ち明けたら怒らせてしまう。そんな風に感じて言葉がなかなか出てこなかった。
◇
別れたあと一晩頭を冷やしてから送ったメールに返事はなかった。
年が明けてから定型文みたいな年賀メールが届いた。
『全国大会頑張ってください!』
似たり寄ったりな内容のメールは他にも届いていた。部活の後輩やクラスメイト。今でも親しくしている中学の頃の友達。
そのどれにも返信しなかった。毎年そうだ。一目見て放置している。
その中に埋没する『あけましておめでとうございます』という件名のメール。何事もなかったかのような当たり障りない内容。
そんなものに飛びついてしまったのが腹立たしい。
先に送ったのは、人間が出来ているとは言い難い瑛にしては百歩も二百歩も譲ったメールだった。
カッとなると人の話が耳に入らなくなる方だ。自覚がある。だから頭を冷やして、駆の気持ちを慮ろうとした。それでも納得がいかないから、結局は別れ際に言い放ったのと同じような文句になった。
それでも、最後に申し訳のように付け加えた「迷いがあるなら相談ぐらい乗ってやる」という一文が大事だった。頭がいっぱいになると高圧的なしゃべりになってしまうが、責めたいんじゃない。
本当はもっと言わなくちゃいけないことがある。でも素直には言えない。一言足して送信するのが精いっぱいだった。
それなのに。駆のくせに。あっさりシカトして年が明けたらこのメールだ。好意的な文面が余計にバカにして見える。
「正月早々空気悪いからそれヤメテ」
乱暴に閉められた引き戸を指さして妹が文句を垂れた。開けっぱなせばほんの数センチでも「あったかい空気が逃げる」と言うくせに、ちゃんと一ミリの隙間もなく閉めたって感謝されるわけでもない。
「まあまあ、瑛は試合が近いから緊張してんでしょ」
割って入った母親は見当違いのことを言うが否定はしない。後輩でもなんでもない中学生からのメールに怒っているだなんて情けなくて言えるわけがない。
「えー、そんな風には見えなーい」
「アンタも昨日から閉じこもってグチグチ言い過ぎじゃないの?」
「だってー」
「ちょうどいいわ。二人とも支度してお祖母ちゃんちに挨拶に行きましょう」
エプロンを外してソファに転がった妹の肩を叩く。それでも妹は面倒くさそうに体を起こしたっきり。
「もうっ!じゃあ、瑛も行かない?」
行かないなら夫婦で行ってくるつもりらしい。祖母一人が住む古い一軒家を思い出した。
「いや、行く」
祖母の家は湘南にあった。駆と会った公園のすぐ近く。
正月らしく近くの店はコンビニ以外どこもシャッターが降りていて、その代わりに角松やしめ縄が飾ってあった。住宅地に人通りは少ない。ときどき着飾った若いグループや近所に初詣といった風の家族連れとすれ違ったが、曇り空と冷たい風のせいか、やけに閑散として見えた。
訪れた祖母の家は少なめのお節料理と小さいしめ飾りだけが正月らしさを演出していた。
近所に住む伯母が「危ないから一人で餅は食べないように」ときつく言うのだとボヤくので、母が見かねてお汁粉を作りに台所へ立った。
ろくに見てもいないテレビでは和服姿のタレントで埋め尽くされた新春特番と琴の音色がBGMのCMが交互に映しだされている。
「試合はいつからなの?」
「明日の昼すぎ」
「すぐなのねえ」
のんびりと新聞の番組欄のページだけ広げて老眼鏡をかける。手間取るようなので横から探して指さしてやると嬉しそうにして、年末に買い換えた新しいテレビのリモコンで画面に番組表を開いた。
「瑛、録画予約してちょうだい」
「最初からこっちでさがしゃあ早かったんじゃねえか」
ついでに五日の準々決勝まで予約してやった。これから録画される三試合全てに出場する予定である。
「これ、ほれ、あの子は出るの?」
「あの子って」
「そこの公園で一緒に練習してるっていう……スグルくん?」
「練習してんのは駆。傑はその兄貴」
「そう、カケルくんの方」
「駆はまだ中三だっつったろ。傑は同じチームだから出る」
去年の冬、駆の練習に付き合うようになってから祖母の家によく顔を出すようになった。学校帰りにそのまま寄って、夕飯を食べたり雑用をこなして、公園で駆の相手をして帰る。
たまたま便利な場所に祖母が住んでいたのを思い出して寄ったら喜ばれ、それが両親に伝わったら「お祖母ちゃん一人で心配だから丁度いい」と言われ。一緒に食事をしながら駆や傑の話もしていた。
「カケルくんは来年は一緒に出るの?」
「…………わかんねえ」
そのつもりだった。一緒のチームでやれる最後のチャンスが来年だ。二歳違えばそうなる。
もし同じチームにいても、監督は駆を認めていない人だ。鎌倉学館は神奈川で強豪と言われているしベンチ入りも容易じゃない。それでも、一年間駆を見続けてきた瑛は無理だとは思わなかった。
一緒にベンチ入りできる。江ノ島なんていうパッとしない学校じゃなく、逢沢傑の率いる鎌倉学館で。
中等部の校舎の壁で黙々とシュートの練習をしていたのを知っている。実際見たわけじゃないが、その壁なら見た。たくさんボール跡のついた壁だ。
ついに公式戦には使ってもらえなかったが紅白戦は少しだけ覗いたことがある。トラウマを克服しきれずシュートこそ決められなかったが、ときどきハッとする動きを見せる。日常練習の延長上にある紅白戦の最後の最後、笛が鳴る直前までゴールに向かう姿を見ていると何だか誇らしくなった。傑なんか難しい顔をして見ていたくせに、その後はすこぶる機嫌が良かった。
小さな一歩一歩を見守っている奴はたくさんいた。中等部でマネージャーをやっている幼馴染という女は付き合っていないというのが嘘のような熱心さだ。国松も引退最後の試合にベンチ入りさせてやってほしいと頼み込んだ。叶わなかったが。
一度捨てたサッカーを拾い直しておいて、諦める時じゃない。
「ちょっとその辺歩いてくる」
投げておいたジャケットを引っ掛けて玄関に向かった。
「お汁粉もうじきできるわよ」
「すぐ戻るって」
居間の窓からひょっこり顔を出した祖母が顔のシワを深くしながら見送った。
「カケルくんに会ったら今年もよろしくしておいてね」
会ったこともないくせに。曖昧に手を振って出かけた。
◇
本気で会えると思っていたわけじゃない。この辺の地理も最低限しか知らなかった。
とりあえず足の向くまま公園に出た。ここから駆と傑の家までは迷わずいけるが、それはストーカーみたいだからやめた。気晴らしの散歩だと自分に言い訳してちょうど増えてきた人の波に乗って歩いてみた。
家族連れが二組とカップルがそれぞれのペースで同じ方向へ歩いて行く。どうやら神社に向かっているらしかった。この辺に来るのはいつも夜中だから、そんなところに石段があって神社があるのも知らなかった。
石段を見上げて少し考えて引き返した。参拝は時間がかかりそうだし財布を持ってこなかった。すぐ戻ると言って出てきたのに、少し歩き過ぎたかもしれない。
それでも結局、見知った顔とは会わなかった。
往生際悪くあたりを見渡すと、何となく見覚えのある顔が歩いている。駆でも傑でもない。小太りで髪が長くてつり目気味で。
(誰だ?学校の連中じゃない。でも、絶対に見たことが――)
車道を挟んで向こう側にいた相手が立ち止まって見つめていた瑛を振り向いた。ギクリと動きを止める。連れの女性――多分母親だ。容姿がよく似ている――も足を止めて息子のだらしのない脇腹をつついた。
『お友達でしょ、挨拶しなさい』ってところか。丁度近くの歩行者信号が青に切り替わって、母親に引きずられるようにして目の前までやってきた。
誰だか思い出せない上で面倒なことになったと思ったが今更避けようもない。ソイツは母親に後頭部をひっぱたかれてしぶしぶ頭を下げた。
「あけましておめでとうございます」
たしかに声に聞き覚えがある。まったく敬意のこもらない会釈からの上目遣い。生意気な顔だった。
「……荒木」
そう、荒木だ。一度だけ、U-15の代表合宿で一緒になったことがある。後にも先にもそれっきりだったが、目を引く男だった。当時はこんな不摂生の塊のような体をしていなかったが。
「お前、その体……」
荒木は頭ごと目を逸らす。
「あの、急ぐんで」
その腕を反射的に捕まえた。クソッ。腕にも無駄な脂肪がついてやがる。
「なんでお前こんなとこにいるんだ」
「なんで…って初詣ッスよ。いきつけの神社が近いんス」
「なにが行きつけよ」
後ろから母親が口を挟んできたのを物理的に阻んで今度こそ立ち去ろうとする荒木を二度引き止めた。
「待てよ。お前今何やってんだ……」
そこでふと県予選で江ノ島高校の試合を見に走った傑の姿が頭を過ぎった。江ノ島高校もここからそう遠くない。それに、江ノ島といえば駆が――。
頭の中で全てがカチッと音を立てて噛み合った。江ノ島の魅力は分からないままだ。それでも。
「荒木、お前江ノ島高校に入ったのか」
太っても変わらないつり気味の目が丸くなる。
「なんでアンタがそれ知ってんだ」
「やっぱりか。しかもサッカー部じゃねえ。同好会にいるんだな?!」
「……傑ッスか?」
逸らされた視線が何も無い宙を彷徨って地面に落ちた。
「もう同好会にもいませんよ。」
「その体……辞めたってことか」
似た様な会話を他でした覚えがある。
傑は面倒な奴にばっかりハマる。こんなハートが弱くて才能を無駄にするような奴ばっかり。
「…………」
「選手権予選にはいなかっただろ」
断言すると独り言のように吐き捨てた。
「なんでそこまで詳しんだよ」
「傑が観に行った」
ハッと顔を上げる。目が「嘘だ」って言うようだった。
「俺はお前が江ノ島に進学したのも知らなかったから傑についてっただけだ。でも、なるほどな。アイツお前を探してたのか」
丸い顔が一瞬情けなく歪んだ。またデジャヴだ。アーモンド型の目がキュッと細くなって口を引き結ぶ。こんな表情を知っている。サッカーをやめると言いながら諦めきれていない奴の顔だ。
部活を離れたのはここ数ヶ月のことだろうに、こんなに肥えておきながら。まだ諦めていない。
まとわりついた何かを払うように頭を振って荒木は背を向けた。
「じゃ、今度こそマジで行くんで」
「オイ、待てよ」
「しつこいッスよ!」
顔を向けずに荒木は足を止めて腕を振り払った。
「ひとつだけ聞かせろ。お前、なんで江ノ島の同好会なんかに入った」
きょとんとした顔で一旦目を合わせた荒木はどこか遠く。見えやしない海の方を見ながら確かな声で答えた。
「面白い監督がいるんすよ。ウチはその人に口説かれた奴ばっかだ。公式クラブから移った奴もいる」
「面白い?」
「高校サッカーで優勝することを小さな目標だって言うんだ。公式クラブとの校内試合でも負けて公式戦にも出られてねえのに、本気でワールドカップを見据えてる」
「……リップサービスばっかりで指導力がない監督か」
荒木は笑った。目を合わせないまま。
「ハハッ。そう思うよな。でも、あの人はバカじゃねえ。……信じてみたくなるんだよなぁ」
最後はほとんど独り言だった。
「そんじゃ。あ。ここで会ったこと傑にはゼッテー言わないで下さいよ!絶対ッスよ!」
念を押して荒木は先に行ってしまった母親を追って走りだした。
「ったく、重そうな体しやがって」
瑛も真っ直ぐに祖母の家に帰った。脇目もふらず。
江ノ島高校の同好会はきっと考えの甘い奴ばっかりだ。監督が夢見がちならそれに釣られて入る部員もそうだ。苦しそうな顔で「辞めた」と言った後なのに、遠くを見つめて楽しそうにワールドカップの話なんかする。
熊谷監督は今年のチームに自信を持っている。傑がいるのが大きいが、瑛にも、他のメンバーにも期待をかけている。それでも高校サッカーを通過点のようには語らない。チーム全体が全国大会優勝だけを目指している。
その中で、ただ一人。その口からワールドカップ優勝が夢だと聞いた男がいる。傑だ。
『ガキの頃からワールドカップ優勝が夢なんです。弟と一緒に。』
『また弟かよ』
『また、ってそんなに言ってないじゃないスか!』
『うるせえ。自覚しやがれブラコン。お前は弟を買いかぶりすぎだ』
『今はまだまだですけど、どうせ叶わないなんて、一度も思ったことないんスよね』
その辺の空き地でボールを蹴っている子供が言えば魔法の話みたいに聞こえそうな夢も、天才と呼ばれる男が言うと現実味を帯びる。
果てしない可能性と周囲の期待とプレッシャーを背負いながら、ガキみたいな嬉しそうな顔で話す。言いたくはないが眩しかった。実力の問題じゃない。理屈でもない。人間としての傑の魅力を強く感じた瞬間だった。
『弟と二人の夢なんです』
胸の奥がゆっくりと、一息ごとに熱くなった。そのくせ苛立って頭をかきむしる。
(駆のことを見くびっていたのは誰だ)
焦燥感で早足になる。冬の乾いた空気を白く濁す呼吸が弾む。舗装された地面を蹴る。体がそうしろと求めているみたいに、要求に何も考えず従うみたいに走った。
さっきは無人だった公園に幼い子供が二人いて、海外の有名選手の名前を叫びながらボールを高く蹴り上げた。
◇
これは二人の夢だ。だけど人生は一人のものだ。
駆がマネージャーになると言い出したとき、無理強いはできないと思った。
一年早く生まれて一年多くサッカーをやって、駆の経験したこともない大舞台も駆け抜けてきた。プレッシャーに負けそうになったり、ミスを悔やんだり、怪我やカードを受けて試合に出られず悔しい思いもした。
でも、親友の膝が本来ありえない方向に曲がったところを見たことはない。断末魔も聞いていない。それをきっかけにシカトなんてされたことがない。
合宿から帰ってきたら駆が塞ぎ込んでいた。しばらく留守にして帰宅して、弟の「おかえり」が聞こえてこなかったことは後にも先にもあの時だけだった。何か言ってやれば良かった。でも、そんな時に上手いセリフが出てくるほど大人じゃなかった。
天才だとか、将来有望なんて言われたって中身は中学に上がったばかりの子供だった。弟のショックの深さも甘く見ていた。
前十字靭帯断裂でそのままチームを抜けた親友が引越しでいなくなったあと、時間をかけて調子を取り戻した駆は兄と同じ中学校に進んだ。もちろんサッカーをやるためだ。サッカー部で友達もできて、熱心に練習をして。それから一年ほどで選手を辞めた。
点を取るのが仕事のフォワードでありながらゲーム形式の練習になるとボールがまったくゴールに向かわなくなる。もがく姿をずっと見ていた。だから、納得行かない心のままマネージャー転向に頷いた。
自分のことで手一杯で、弟を自分の体の一部みたいにケアすることはできなかった。
二人の夢を諦めたわけじゃない。でも、弟は自分とは別の生き物だ。疲れた足を叱咤して走ることはできても、自分が心を強く、厳しく持っても駆を動かすことはできない。
世界で一番大事に思っていたって、弟が思い通りになったことなんてない。
予想もしないパフォーマンスをして驚かされることもある。ずっと見ていたつもりなのに知らないうちに新しいことを覚えて誇らしげに見せてくれたこともある。
幼い頃に誓い合った夢を一人で捨てようとして兄の心を折ったこともある。
信頼できる背中が欲しかった。勇敢に目の前を走る味方が。
傑は自分が忍耐強い方だと思っている。物心ついたときには兄だったし、他所の家に比べても弟はよく懐いてくれたから喧嘩も少ない。
年を重ねるごとにサッカーを通じて大人と交渉する機会も増えた。同時に抗議もできず不服を腹に溜め込むことも何度もあった。
どうにもならないことに憤り続けるのって体力がいる。そのくせ大抵時間をかけても覆らない。だから諦めて別のことを考える癖がついた。
弟を怒鳴ったのはいつ以来だろう。大人ぶる余裕がなかった。
「アイツの姿を見ただろ?!」
強要したって仕方ない。なんて。冷静に考えられなかった。
プレイヤーの道を捨ててマネージャーになると言い出したときもこんな風には言わなかった。
「鎌学でやりたくないなら外部受験も止めない。でも江ノ島はやめろ。江ノ島に行っても同好会じゃなく学校公認のサッカー部にしろ」
「兄ちゃんっ」
「せっかく…せっかくまたサッカーに戻ったのに。何だって荒木と同じ道を選ぶんだ」
ほんの十五分前に見たのが荒木竜一本人だという実感が遅れてやってきた。中三の冬に喧嘩別れしたときよりずっと生々しい失望が物分りのいい兄でいさせてくれない。
荒木がサッカーをしていないなんて。
「まだ受験まで時間はあるだろ。内部受験だったら何も準備は要らないんだ。考え直せ」
「同じこと言われた……」
「……?誰にだ」
ねずみ色の地面に向かってこぼれた小さなつぶやきに対する質問を無視して駆は傑の袖をつかんだ。目の前から立ち去るそぶりはなかったけど、話が終わるまで逃がさないつもりで手に力を込めた。
「江ノ高FCは確かに同好会だけど、兄ちゃんの思っているようなところじゃないよ」
絶対に違う。一時はサッカーから逃げて、同じ家にいたってどこかで真正面から向き合うのを避けてさえいた駆が。今は傑の方が怯むくらいまっすぐに見据えてくる。
思わず肘を引けば掴まれた袖がつっぱった。袖の布を握っていた手が冬の風で冷えた傑の手を握る。
「監督から逃げたり、真剣にやることから逃げようと思って行くんじゃないんだ。荒木さんも、きっと」
「お前は荒木のことをよく知らないからそう思うんだよ」
「ううん。荒木さんのことはよく知らないけど――」
もどかしそうに唇を舐めた。知らず知らずのうちに握った手に力が入る。
「俺は、兄ちゃんになんて言われたって江ノ島高校に行くよ。でも、兄ちゃんにも分かって欲しいんだ。成長したくて選んだんだって」
「…………」
「だから、江ノ高FCで公式戦に出て、兄ちゃんたちとも戦うよ」
「……サッカーは一人でやるんじゃない。お前ひとりがそう決意したって」
「ひとりじゃないよ。荒木さんもいる」
「だから荒木は」
「荒木さんのことはちょっと練習を見ただけだけど、すごい人なのは知ってる。兄ちゃんがそんなにこだわる人だもん」
言い切って悪戯っぽく笑った。
「兄ちゃんが認めるぐらいすごい人は簡単にサッカーを捨てたりできないよ。俺はわかるんだ」
足元に過去が落ちてるみたいに履き古したスニーカーを見ながら言った。
「兄ちゃんが荒木さんを説得できなかったなら俺がする。FCに連れ戻して一緒に兄ちゃんたちを倒す」
傑が深く細く息を吐き出すと強気で喋っていた駆が僅かに肩を竦めた。
「お前らが組んだってそう簡単にウチに勝てるわけないだろ」
穏やかないつもの声だ。やんわり手を解いてバス停までの道を歩き出す。
肩の力が抜けた背中を駆が追った。
「すごいのは荒木さんだけじゃないもん。監督だって十年ぐらい前に神奈川制覇した時の主将だったんだって」
「へぇ。それじゃあ結構若いんだな」
「うん。でも普段の練習方法が面白いんだ。セブンも一緒に江ノ高に来るって言ってるんだよ」
「奈々までか。それじゃあほんとにすごい人なのかもな」
幼馴染の少女の名前が出た途端に納得顔をする兄に頬を膨らませる。年齢より子供っぽく見られる顔が余計に幼くなった。
「他にも監督がスカウトしてきたっていう人が何人もいてね」
前を歩いていた傑がぴたりと足を止めて振り返る。
「そうだ。お前、国松から聞いてるか?」
「なに?」
「日比野が帰国してて、監督がウチに誘ってる」
すっかり平常の明るさを取り戻していた駆の顔から一瞬色が消える。
「このまま高等部に来たら、また一緒にやれる。チャンスなんじゃないのか?」
さっきとは違い冷静で鋭い目が迷いを見透かすように駆を捕らえる。
日比野。その名前自体久しぶりに耳にした。昔はあんなに仲が良かったのに、神奈川に戻ってきているのに帰国したなんて話も聞かなかった。
瞬きの間に離ればなれになる間際のいろんな顔が思い出される。怪我をして混乱した顔や、ちっとも笑わなくなった横顔。怒ったような顔で俯く姿。駆の大きめの瞳が揺れた。日比野は駆のトラウマそのものだ。
親指をぎゅっと握り込む。
「なおさらだよ。同じチームじゃダメなんだ。きっと。正面から向き合わなくちゃダメなんだ」
兄の目を見ていられなくなって視線を外した。嘘偽りない気持ちだけど、少しだけ強がりが混じっていた。
「そうか」
一言でまた歩みを再開した。駆がそれに続くのに一歩分の時間が必要だった。
◇
恥ずかしい過去とか、やりきれない気持ちが体の中で駄々をこねて手足をばたつかせている。そんなときの宥め方を知っていた。
小さい頃は食べてばかりいた。好き嫌いなくたくさん食べると大人に喜ばれた。よく食べて大きくなれと言われて横に大きくなったが、そのこと自体を深く悔やんだことはない。人一倍太い体も目立って面白いと思ったからだ。
でも、もっと気持よく目立てる場所も今は知っている。
台所の戸棚から持ってきた甘そうな菓子パンをじっと見つめて長めの髪をわしづかんだ。顔も髪質も、かつてはバレーボール選手だった母によく似ている。
遺伝したのは見た目だけではなかった。太った体に持久力はなかったけれど、運動神経。それもボールを扱うのは上手かった。見た目に反して上手くやれるとわかると仲間や親はちやほやされたし、嬉しかった。
でも、そんなことが後ろ髪を引くわけじゃない。
昼食から少し経って腹の落ち着いた時間だった。もうじき横浜のスタジアムでは選手権大会の準々決勝第2試合が始まる。鎌倉学館がベスト4をかけた試合だ。
見るつもりはなかったから部屋に引っ込んだ。きっと傑は出る。予選すら出場できなかった今大会は一試合たりともまともに見ていないが確信があった。人から鎌倉学館が勝ち進んだと聞くたび体の中で暴れ回る何かが大きくなっていった。
指先で触ったパンの袋を破ることなく机の端に追いやった。近頃食欲がない。ないといっても人並み以上には食べているかもしれないが、以前よりもこんなパンやジャンクフードが美味く感じなくなった。
食べても何も宥められない。間食で消費した空き袋が増えるごとに年末に会った傑の、信じられないっていう顔が浮かぶ。疑うような目で、そのくせ失望がありありと滲む。
一年前に別れたときには一人で怒っていたくせに、勝手だ。江ノ島に進学することを告げて絶交状態になったとき、もう気にかけてくれないんだと思った。
合宿所を飛び出してからも定期的にあった連絡がぱったり途絶えた。愛想を尽かした傑を振り向かせるには成績を残さなくちゃいけない。大丈夫だ。できる。
そう思って公式戦で会えるのを目指して。そして学校代表としての出場権をかけた校内試合で負けた。「やっぱりな」冷ややかな傑の声が聞こえるような気がした。
まさか、傑が毎年大した成績も残していない江ノ島高校の試合を見に来るなんて信じていなかった。もし腐らず来年にかけて辛抱強く部活を続けていたら、あんな胸を貫くような寂しい目を見ずに済んだだろうか。
リビングで試合を見ているらしい母親が歓声だか悲鳴だかわからない声を挙げた。我慢ならなくなって外に飛び出した。普段着ているダッフルコートじゃなくナイロンパーカーを引っ掛ける。
「竜一、出かけるの?」
「コンビニで肉まん買ってくる」
「さっきパンいくつも持ってったの、もう食べちゃったの?」
母親のおしゃべりを玄関扉で打ち切ってアスファルト舗装の地面を蹴りつけた。
胸の奥がたまらなく火傷痕みたいに疼く。こんな時の宥め方を知っている。
肺いっぱいに空気を吸って力いっぱい駆け出せばいい。
◇
高校一年目の冬はベスト8で終わった。相手は今大会の優勝校だった。
悔しかったし、引退していく三年生の涙も見た。それでも三年生は「ここまでこれたのはお前のおかげだ」と頭を下げてくれた。そんなことちっとも思わないのに。
感謝されればされるほどそれがプレッシャーになる。力不足を痛感する。いつだってそうだ。誰かにとっての最後の大会の後なんて特に。ベストを目指して努力しても、同じように努力して全てを賭けて臨んだたくさんのチームがぶつかり合えば残るのはたった一校。
今年はその一校に残れなかった。それでも自分にはあと二年ある。
(思い描いていたような二年間にはならないだろうけど)
白い溜め息が頬に滑っていく。一月の空気を鼻に吸い込むと湿った土のにおいがする。それに潮の匂いが混じって視覚より先に海がすぐそこなのを教えた。
家を出てから四匹目の犬とすれ違った。時間はそう早くもなかったが、日の出の遅い一月は早朝散歩やランニングをする人が少なくなる。
犬に引きずられるように歩く人と出勤途中のサラリーマン。
そんな中にフードまで被ってこちらへ向かって走る人影を見つけた。
今日初めて見かけたランナーを新鮮に思っていたら、相手は途中で顔を上げてピタリと止まった。いきなり止まるのは体に良くない。
傑はフードで隠されたふっくらした顔に目を凝らした。でも、輪郭を正確に見極める前に足が動いていた。
ジョグからダッシュに切り替わるのを相手も素早く察知してまだ重そうな体を翻す。顔が確かめられなくても確信があった。
一緒に過ごしたあの頃はどっちが早く走たか。今となっては思い出せない。もしかしたら自分のほうが遅かったかもしれないが、今のコンディションで負ける気はしない。
カウンターを仕掛けてピッチを切り裂くようにゆるやかなカーブを描いた海岸沿いの道を駆け抜ける。アイツは信号を待つ余裕もないから歩道がつながるまま江ノ島に向かった。
けれど歩道は途中でゆるやかな坂になって砂浜に消える。砂地になったあたりで足をもつれさせて倒れこんだところを捕まえた。以前から持久力に難があった上、無駄の多いこの体だ。
フードが外れて見えた額に玉の汗が浮かんでいた。
「荒木……」
掴んでいたパーカーの布地を放した途端にフードをかぶり直して丸くなった。
「なんだよそれ……いじめられてるカメか」
「うるせー!ほっとけよ!」
「ガキみたいなことしてないで立てよ」
「俺がガキならお前なんかジジイくせーんだよ。いつもいつも……」
情けない格好のくせに口だけは一丁前だ。その背後にしゃがみ込んで上着の裾をつまみ上げた。
「ギャッ!」
縮こまったカメが肌の露出した腰を押さえて飛び上がる。
「な、な、何しやがる!」
「やって下さいって格好でケツ剥かれなかっただけ優しいだろ」
クスクス笑う傑は年代別代表合宿初招集の荒木に悪戯を仕掛けた張本人だ。
初招集の緊張をほぐして打ち解けようという大義名分の下、ターゲットの同室者を中心に行われる悪戯が恒例行事となっている。
中学三年で初招集となった荒木と傑は同室でこそなかったが、荒木と一番に親しくなったのが傑だった。普段大人しく見られがちの傑を荒木も大人びた子供だと思った。その夜にくだらない悪戯を成功させて腹を抱えて笑う傑を見て印象が百八十度変わった。
合わない間に忘れていたが、年代別代表常連で数多の悪戯を見て、そして加担してきた男なら寒空の下で半ケツぐらいはやりかねなかった。
シャツの下の素肌に冷たい手を押し当てられる程度で済んで良かった。
「シャツしまったら歩くぞ」
服の裾をウェストにしまい込む荒木を放って傑は先に歩き出した。それ以上逃げられるとは思っていない様子で。
急に止まるのは良くない。歩道を避けて砂浜を歩いた。
「説教だったら聞かねえからな」
素直に追いかけて後ろを歩きながら先回りして言ったら傑に再び「ガキくさい」と言われて丸い頬を更に丸く膨らませることになった。
「お前のことはもういいんだ」
「はぁ?!どういう意味だよ」
説教はされたくないが、どうでもいい扱いを受けるのも納得がいかない。思わず張り合うように横に並ぶと真面目な顔で見つめられることになった。
「毎日走ってるのか?」
「……今さっき俺のことはもういいって言ったばっかだろ」
「毎日走ってる割には前に見たときとあんまり変わってないように見えるけど」
「――――ッ!」
正月太りが解消されて、ちょうど年末頃の体型に戻ったばかりだった。ふくれっ面が更に赤くなる。
こんなところで会う予定はなかったのだ。まだ。
「ボール持ってくれば良かったな」
傑がポツリと呟いた。
「砂の上でやったら俺の方が上手いからお前嫉妬するぜ」
「そういえば、江ノ高の同好会は浜で練習するんだってな」
「知ってたのか」
「最近聞いた。弟からさ」
弟……。小首を傾げて三秒ほどでポンと手を打った。
「ああ!一つ下の……駆っていったっけ」
「よく覚えてたな」
「どっかのブラコンがしょっちゅう自慢してたからな」
今度は傑が渋い顔をする番だ。
「まさかその弟がうちに来るってのか」
「ああ。しかもお前と同じ同好会に入るって言ってる」
咄嗟に返す言葉を失って涼しい顔をした傑をしげしげと見た。記憶が確かなら傑は弟も自分と同じ鎌学に進むと信じていたはずだし、大事な弟を喜んで同好会なんかに入れるとは思えなかった。
「練習も見学に行って、監督ともよく話して決めたから俺がなんと言おうが考えを帰るつもりはないらしい。結構頑固なんだ」
不機嫌どころか口角がゆるく持ち上がっている。
「兄貴も頑固なら弟もか」
「…………」
自覚はあるらしい。それでもきちんと物事説明されて納得すれば素直に受け入れるのも傑だった。自分が正しいと思えば一分前の自分にだって引きずられない。荒木が傑に敵わないと思うのはこんなときだ。
「弟はお前と一緒に公式戦で俺たち鎌学を倒すって言ってる」
「大きく出たな」
「大きいもんか。県予選規模の話だぜ」
世界で戦う傑が率いる鎌学がいるとあっては県予選でも充分大きな目標だ。傑は皮肉や冗談じゃなく真顔で言うので肩をすくめるしかない。
「だって、同好会の監督はワールドカップ目指してるんだろ?」
叶わない夢を語るときの声音じゃなかった。
「考えて見れば高校が別れたって、駆が代表に呼ばれさえすれば案外早く一緒にやれるかもしれないんだよな」
「ちょっと待て、弟だけかよ!」
「その腹で来たら荒木が合宿所を飛び出す前に監督が追い返すだろ」
「ぐ……ッ」
傑は愉快そうに笑った。冷たい潮風に鼻の頭を赤くして歳相応の顔で。
「そうならないようしっかり痩せろよ」
「うるへー!」
威嚇に振り上げられた荒木の拳をいなして大股で一歩分逃げた。踊るように振り返る。
「待ってるから早く追いついて来いよな!」
◇
「保護者が許したなら俺がとやかく言う問題じゃねえだろうが」
真新しい学ラン姿を頭のてっぺんからおろしたてのサッカーシューズを穿いたつま先まで見下ろして突き放すように言い放った。
鎌倉学館中等部はブレザーだったので学ランは初めてだった。
ブレザーよりは大人っぽく見えないでもないが、少し大きめのものを買ったようで制服に着られているという言葉がよく似合う。
「保護者って、別に兄ちゃんはそんなんじゃないんですって」
何度言ったって傑の扱いは駆の保護者だ。駆が否定しても納得してもらえない。駆としては過保護な時期はとっくに終わって、今はだいぶ放任状態だと思うのだが。
高校の入試前から今まで何度も説得を繰り返しているのに瑛の態度はずっとこうだ。
年明け前のような厳しい態度こそ取られないものの、素直に応援してくれる様子はちっともない。まだ反対されているのかと思うと寂しくもなる。
「ハァ……鷹匠さんも兄ちゃんも頭ごなしに怒るところ、似てますよね」
「あんなブラコンと一緒にすんな!」
拗ねてぼやけば心底嫌そうな顔をされた。
散々な言われようが面白くってついつい噴きだしてしまう。
「チッ。もう行けよ。ボヤボヤしてると傑に見つかるぞ」
駆が通うのが鎌倉ではなく江ノ島になった以外、去年と同じ春だった。桜が自転車の通り抜ける道を彩り、少し暖かくなった夜にはときどき瑛が練習に付き合ってくれる。
そう。進路を応援してくれないものの、連絡をすれば余裕のあるときには以前のように会ってくれた。
その事自体が応援してくれているしるしなのではないかと都合のいいことも考えてしまう。
「それじゃ、行ってきます!」
朝練前で運動部がまばらに登校する鎌倉学館前を出発した。春休みから江ノ島FCの練習に合流していて、新入生勧誘のために練習がない今朝もミーティング参加することになっていた。
ヒラリと手を振ると面倒くさそうに片手を上げて見送ってくれる。
色があるならきっとパステルカラーのピンク色をした暖かな風が自転車の背中を押した。