可愛いと思っていた女の子にボーイフレンドと腕を組んで歩いているのを見て、それとなく母さんに尋ねたことがある。
「あら、レオもそんなことが気になる年頃になったのね。そうね、ママが若い頃、車の免許を取ったのが嬉しくて一人でドライブしていたの。だけど道に迷って帰れなくなっちゃって、建物も何もないところで動けなくなって困っちゃったの。そこへ声をかけてくれたのがパパだった。心細いときに知らない車が寄ってきたから、もしかして強盗かと思って心配もしたわ。でもパパったら、こっちが若い女一人だとわかって“鍵は開けなくていいから車の中で待ってて”って。指一本触れないどころか名前も聞いてくれなかった。だから先導してもらって見知った街に出たところで車を停めさせて、こっちから連絡先をきいちゃったのよ」
「じゃあもし父さんの見た目や喋り方が好みじゃなかったら?」
「別に見た目で好きになったわけじゃないけど、結婚するまでに少し時間はかかったかもしれないわね。でも、あの時はそのまま別れちゃいけないと思ったから、いつかはやっぱり結婚していたと思うなあ」
あの子もボーイフレンドもまだ免許の取れる歳ではなかったし、僕は車に詳しくなる予定もなかった。ただ惚気話の餌食になっただけだった。
「あなたもいつか大事な人に出会ったら、今だっていう瞬間がわかるわよ。絶対に手を伸ばさなくちゃいけないって思う瞬間が」
ほんとかよ。うっとり語る母の言葉を信じていなくて、そのやりとりはあっという間に忘れてしまった。
最初はそう、髪についた葉っぱを取ってもらったことだ。
戦闘に巻き込まれたどさくさで助けられる以外で触れられたのは初めてだった。といっても、髪の毛だけだけれど。
「少年、クラウスの温室に行ってきたのかい」
摘まんだ葉っぱを見せられた。
「陰毛だから絡まりやすいんだよなー?」
すかさずソファでふんぞり返ったクズ先輩が野次を飛ばしてくる。そのお蔭ですぐに忘れてしまったような、ほんの些細な出来事だった。
その次が突き指した時のこと。もっと酷い怪我もしょっちゅうなので反射的に「イタッ」と声に出ただけで、別に心配してもらうことなんか何もなかったんだけど。以前なら一言もなく無視だってあり得た場面で、手を取って確認された。見てわかるほど腫れていたわけでもない。気を付けるよう言われて終わった。
そんな大したことない積み重ねがあって今がある。
「まつ毛がついてる」
広いトイレの洗面台の前で長い指が頬を撫でた。
「あ、ども」
ほんとについてたのかな。嘘なのかも。疑いながらも理由をつけて触られることに慣らされ切っていた。僕としては理由がなくたってよかった。でも理由もなく部下とスキンシップを図る人じゃないから、やっぱり理由は必要だったのかも。
なかなか頬に添えられた指が離れていかなかった。横目で鏡を見ると、スーツ姿の長身の男前が背の低い糸目のちんちくりんを口説いてるみたいだった。映画のワンシーンを雑にコラージュしたみたいだと思う。もちろん適当に切り抜いて貼り付けられたのが僕だ。そんなもの作ったって誰も喜ばないけど。
「あの、そろそろ戻った方が」
そうしてるのも悪くないんだけど。
「ザップさんにクソが長いって馬鹿にされるんで」
動き出そうとしたら上司はスッと身を屈めてきた。唇に、軽く唇を当てられて形のいい耳がアップになる。ちょっと気になっていた頬を横切る傷の端っこがよく見えた。
「え」
相手はちょっと肩同士がぶつかったみたいな何もなかったようなそぶりで身を翻して「ゆっくり用も足せないなんてアイツは小学生か」と話の続きをしながら歩いていく。
夢だったのかも。一瞬のうちに僕だけが見た白昼夢。幻術の類は効かない目を持っているにも関わらず、幻術にでもかけられたみたいだった。
追及するタイミングを逃したまま「まったくですよねー」なんて同調しながらパーティー会場に戻ってしまった。間抜けなことに。
衝撃的な出来事でも時間が経つにつれて「勘違いだったのかも」と思い始めた。パーティーの日以来、髪や顔にゴミがついていることもなかったし、細かな怪我もしなかった。転びかけたところを支えられたり、熱を出して肌で計らせる機会もなかった。しばらく続いた軽くて頻度の高いスキンシップが減るにつれて、キスの件も記憶から薄れていった。
だけど、平和ボケしているときほど何かが起こるものだ。
みんなが不在の事務所のソファから長い足がはみ出している。仮眠をとっている上司だったので、毛布を持ってきた。まったくの善意で、熟睡していると疑わず。
そうしたら近づいたところを狙いすまして腕を引かれ、倒れ込んだ体を器用に抱きすくめられた。
後はもうお察しだ。前回とは比べ物にならないぐらい濃厚なヤツをかまされて呼吸困難で腕を叩いてやっと解放された。口の中に性感帯があるっていうのは聞いたことがあったけど、自分の舌で口の中をあちこち触ってもわからなかったのに、本当に気持ち良かったので妙に感心してしまった。そんな斜め上の思考に走ったのはもちろん現実逃避だ。
唇が離れても身体には腕が絡まっていて気だるげな男前と至近距離で渡り合わなくてはならなかった。直前までは確かに眠っていたんだろう。襟元を緩めて髪も少し乱れている。色気のある人だ。
「お…………お疲れですね」
色気のないセリフしか出てこなかった。色気のある言葉を返すのも問題だと思うけど。もしかしたら寝ぼけて恋人と間違えた可能性も捨てきれなかったのだ。
「叫んで逃げたりしないのかい」
ダメだ。会話にならない。やっぱりこの人疲れてるんだ。第一逃げようにもしっかり腰を抱いてるじゃないか。
「叫んでいいんすか」
「呼んでも誰も来ないと思うけどね」
「デスヨネー」
女の子に悪いことする人みたいだな。お喋りの途中からまた後頭部を押されて顔が近づく。口を開けなけりゃいいのかな。真一文字に引き結んで唇をピッタリ閉じたら、そこに啄むようにキスされた。口の中をかき回されるよりかは背徳感が少ないけど、これはこれで気持ちいいもので困る。
相手の容姿のお蔭かそう悪い気もしなくて、ひたすら驚きと、漠然とした「マズいヤツだ」という考えがストップを訴えていた。とはいえ、抵抗するにしても、腕で胸を押し返すのが精一杯。それすら成功していなかったけど。
頑なな唇をほどくように色んな角度から触れられ、軽く吸いついたり、舌先で突かれたりしている途中で携帯が鳴ってようやく腕がほどけた。危うく陥落するところだった。こなれた大人は恐ろしい。
上司はやっぱり何食わぬ顔で電話を終えた。それからネクタイを直し、カフスボタンを留める。それをしゃがみこんだ床から見上げた。腰を抜かしたとか、前屈みの事情があるとかいうことは誓ってない。鼻息をかけまいとして呼吸を止めていたせいで、脳みそが酸欠で、何もする気にならなかったのだ。
「ちょっと出てくるけど、君は顔を洗ってきた方がいいな。いかにも“何かありました”って顔をしてるから。ザップやK・Kあたりがくると厄介だぞ」
ありがたいご忠告を残して本当に出て行った。教えてほしいのは今自分がどんな表情かってことよりも他のことだ。
今度ばかりは勘違いや夢で片付けられない。苦悩の日々の始まりである。
一人で悩んでいても答えなんか出せないので再び二人きりになった時を狙って尋ねるつもりだった。が、しかし、こういう時に限ってチャンスが巡ってこない。
いつでも他に誰かしらが一緒で、上司が一人で仕事をしてタイミングに出くわしても邪魔できる空気ではない。
困り果てて覚悟を決めた。
「飯、一緒に行きませんか」
「いいよ」
あっさりオーケーをもらってゆっくり話のできる店に連れていかれ、さあ問い詰めるぞ、と気合を入れた途端。
「君は本当に迂闊だよな」
出鼻を挫かれた。そこで今夜の主導権争いが決した。僕は早くも敗北したのだ。
「何でわざわざ自分に一方的に気のある男をディナーに誘った挙句、店までエスコートされてるんだ」
「別にエスコートされたわけじゃ……」
フツウに案内された店までついてきただけですけど?
「勧められるまま酒まで飲んで。君だってこの建物がホテルだってわからないわけじゃないだろう」
「それは知ってますけど、それが今どうして関係あるのかはさっぱり」
「わからない?」
わかりたくない。わかりたくないけどわからないでもないので口を噤んだ。
「……あれ?ちょっと待ってください。え?え?今、気があるとかなんとかって聞こえたんすけど」
今度は向こうが閉口する番だ。明らかな呆れ顔で大げさに頭を抱えられた。タイミング悪く料理が運ばれてきて、呆れのポーズを頭痛か何かと勘違いしたウェイターに具合を心配された。
「一応聞くが、今までのことを君はなんだと思ってたんだ」
「それ、こっちが聞きたいっすよ……この間のは疲れてたんすよね?徹夜続きでどうかしてたってやつですよね?」
質問調の懇願である。
「まあ、疲れでちょっとネジが緩んでたことは否定しないけど」
「やっぱり……」
「もうちょっと我慢する予定が少し狂っただけのことだ」
待ってほしい。それはつまり、自惚れとかじゃなく、この人は本当に、
「君をどうにかしたいと思ってる。疲れとは無関係にね」
スープ皿に落としたスプーンが派手な音を立ててスープが跳ねた。
目を背けてきた事実を直視させられ、急に先ほどの会話が頭を駆け抜けた。このレストランはホテルの一階にある。上は客室だ。手元のグラスにはワイン。アルコールは得意じゃないけど、口当たりがいいと言われて確かに美味かったので気に入って飲んでいた。急激に酒がまわってきたような気がする。
「大丈夫か、真っ赤だぞ」
マズい。もしかするといつの間にやらとっていた部屋のルームキーを差し出されて、千鳥足の腰なんか支えられて、介抱されてしまうやつなのでは。
焦りでスプーンが上手く使えずマナーもクソもない食事になった。これがもっと堅苦しい席だったらつまみ出されているところだ。目の前の上司本人に。仕事上の席では甘くない人だ。それが今夜は怒られない。心配の体でやんわり窘められるに留まった。ヤバイ。
「飲みやすいからって調子に乗って飲むからそうなるんだ」
調子に乗ったんじゃなくて、聞きづらい話を切り出すための景気づけだったんです。それがこんな墓穴を掘ることになろうとは。墓穴どころかケツを掘られるかもしれない重大な局面をミスしたのだ。
「帰る前にちょっと休んでいこう。そのあと送るよ」
出たーッ!ルームキーだ。予想通りの展開にベタなドラマの視聴者みたいな気分だ。
「いや、あの、帰ります、大丈夫す」
「店を出るまでによろめいて何か壊したら自腹だぞ」
「休ませていただきます」
食事代自体自腹じゃ厳しいイイ店なのだ。誘ったくせに奢りで来ているのである。皿一枚だって高そうだ。
肩を抱いて支えられて連れ込まれた部屋はシングルルームだった。夜景の見えるスイートなどではなく。
ベッドに座らされて緊張もピーク。守るともなしに守ってきたヴァージンさようなら。この何でもありの街で迎える初体験としては、路地裏で異形チンピラの慰み者にされる、などといった悲惨なパターンではないだけ遥かにマシだと思って受け入れるしかない。どうか優しくしてもらえますように。という時、上司がおもむろにノートパソコンを取り出した。
「悪いが仕事をさせてもらう。君は適当に休んでいてくれ。落ち着いたときに声をかけてくれれば車を出すから」
「へ」
パソコンが起動されるとすっかり仕事のできる上司の顔だ。
「水はそこ。吐くほどじゃないな?」
「は」
そこまで面倒を見たらもう振り返らなかった。ベッドの上で空回りした覚悟が置いてきぼりで萎んでいく。
邪魔したらいけないヤツだ。楽な姿勢になったらやることもなくなって、仕事をする背中ばかり見ていた。事務所だったらお茶ぐらい淹れてあげられるんだけどな。ここには愛用のマグカップもコーヒーサーバーもない。
さっき口説いた相手が酔っぱらって無防備に寝転んでいても平気で仕事に没頭しているところを見ると、全て冗談でからかわれたのかもしれない。熱烈なキスでこっちはパニックだったけど、向こうは百戦錬磨の作戦参謀。尋ねたことはないけど経験は豊富だろうし、そんな人にとっては何でもないことだったのかも。だとしたらそれをするだけの理由がありそうなものだけど、頭のいい人の考えることはわからない。
もう、いいや。酔いで頭も働かないし、今夜の身の安全も確保された。緊張が解けて高まってきた眠気を受け入れて、小さな明かりで働く背中を眼に焼き付けて意識を手放した。
『 ハロー、ミシェーラ。
今日もこの街は騒がしくて、ありえないことなんて一つもない。
そんなことは十も百も承知のつもりだったけど、未だに驚かされることばかりです。
最近、どうしても自分では抱えきれない、打ち明けられる人もいない悩みが出来てしまい困っています。
この手紙に切手を貼ることはないけれど、どうか気持ちを整理に付き合ってください。
兄ちゃんは最近、上司に継続的なセクハラを受けて悩んでいます。』
一瞬の隙をついて掠めるだけのキスをされた。これから歳近い二人の同僚とランチに出かけるってところで、二人が先に歩いて行くのを追おうとしたらこれだ。
上司のデスク脇を横切ろうとしたら腕を引かれて、振り向いたところをやられた。触れたら即通常営業に戻る。腕を引いたこと自体なかったみたいにパソコンのキーを叩いてこちらも見ない。
「おーい、ボサッとしてると置いてくぞー」
戸口で呼ばれて走った。
「何してんだよ」
「いやぁ、お金持ってたかな~と思って」
「ハァ?俺は貸さねえからな」
「万が一、億が一にも貴方がレオくんに奢ったとして、それは貸しじゃなく返済でしかありませんよ。レオくん、手持ちがなかったら今日は僕が出しますよ」
「アーアー、魚類のちっさい脳みそじゃ算数もわっかんねーよなー」
「経済観念のない人に何と言われたってダメージありませんから」
「じゃー今日は金持ち魚類先生の奢りってことで」
「レオくんに奢るとは言いましたがあなたの分までは言ってません」
「ありますから、ありました、お金!ね!腹ペコなんで早く行きましょう!」
二人の背中を押してこっそり振り返る。大胆なことをしてくれた上司は完全に仕事モードでどこかへ電話をかけているところだった。
まるで僕だけが時々夢の世界に迷い込むみたいだ。一瞬で眠って一瞬で目が覚める。夢の中のありえない出来事を周りの誰も知らない。ただ一人、ポーカーフェイスの上司を除いては。
「ああいうのホント勘弁してくださいよ。他の人に見られて困るのはお互い様でしょ!」
「別にあれぐらい何とでも言い訳は利くさ。そんなことより仕事だ、仕事。ほら、出てきたぞ」
愛用のゴーグルで目元を隠して車のフロントガラス越しに眼を凝らす。地下遊技場から地上に出てきた人物は一見するとどこにでもいそうな顔の人類だったが、僕の眼は誤魔化せない。
「黒です。人類じゃないっす。つか、ちょっと人相変わってるけど写真の人物でビンゴっぽいです」
「オーケイ。あとはチェインに追わせよう」
電話一本で諜報担当不可視の人狼少女に指令を出し、緩やかに車を発進させた。事件の重要参考人の素性を洗い出す過程で外見偽装の疑いがあり、今日最後の仕事として張り込みをしていた。
走り出した車は事務所には向かわず、僕の安アパートにも向かわず、夕暮れのドライブインシアターに滑り込んだ。
アフターファイブに二人で映画。まるっきりデートコースだ。しかも上映しているのはラブストーリー。
くる、と思ったときには肩を抱かれて引き寄せられている。スクリーンの俳優みたいにスマートなやり方で唇を重ねて。僕が息継ぎを忘れていると膝を指で軽く叩いて呼吸を思い出させる。こんな恋人同士みたいなキスはこの人が初めてで上手くやれなくて、舌での応え方も息継ぎのやり方も全て教わった。
もしかして、いずれ組織の中で女性相手の諜報活動を担うことを期待して育てられているのでは。そんな妄想もしたけれど、僕はどちらかと言えば兄妹共々母親似の男前とは程遠い容姿だ。おまけに身長は女の子たちとそう変わらない。スタイルのいい子にハイヒールなんか履かれたらカレシじゃなくて肘置きだ。虚しい想像と共にその案は確かめるまでもなく却下した。
「……ずいぶん馴れてきたな、少年」
「お陰様で」
「涎垂れてるぞ」
「うおっ」
袖で拭こうとすると、肘を押さえてストップをかけ、スーツのポケットからきれいなハンカチを出してくれた。その拍子に小さな指輪が転げ落ちる。それはすぐにさり気なく拾われポケットに戻された。
まさか、婚約者はいないだろう。そんなものがいるなら誰かが教えてくれそうなものだ。恋人かな。
普段仲間の前で匂わせなくても女性関係が皆無なわけがない色男だ。ザップさんほどあからさまに爛れ切ってなくても特定の相手の一人や二人いておかしくはない。
そういうこともあるだろうことを最初から分かっていたくせに、指輪の相手の存在を想像したら急に及び腰になった。完全に受け身とはいえ恋人さんに悪いことに変わりはない。
続きをしようと迫ってくる顔を映画を見るふりで避けてしまった。
「……あ、これ見たことある。知らないタイトルかと思ったけど」
わざとらしくはしゃいでも運転席の上司は気を悪くしなかった。セクハラは諦めたようで、背もたれに体重を預けて同じようにスクリーンを向いた。指輪の入ったポケットに手を突っ込みながら。
「古い映画だから少年ぐらいの歳じゃ知らなくても無理はないが、結構有名なんだぞ、コレ」
「すいません」
「やめてくれ。謝られると余計に俺が歳みたいじゃないか」
実際歳はかなり離れてるんでリアクションに困る。映画の中の登場人物もスマートフォンどころか携帯電話自体も使っていなくて、ダンスのシーンなんかレトロなドレスでくるくる回っていた。カーステレオから流れるノイズ交じりの音楽が物悲しく響く。
ダンスの終了と共に一夜の夢みたいなパーティーが終わって、画面が殺風景な部屋の景色に切り替わる。そこに彼女はいない。
断片的にしか見ていないのに感情移入して悲しくなった。手に入らないとわかっていて最後に二人は踊ったのだ。
黙ってスクリーンを見つめていると、投げ出していた片手に大きな手が重なる。そうしたら余計に切ない気持ちが盛り上がってしまって、自分から指を絡めた。
よく知らない映画を、元々好意があったわけでもない上司と見ている。そんなわけのわからない状況だというのに。
上司の自宅にまで上がり込むようになったら関係がエスカレートした。
といってもベッドで少し、思春期の子供の戯れ程度に体を触られるだけ。やり返そうとしてもかわされてしまうので、いつも昂るのは僕だけだった。
『やあ、まだ事務所だな。今日はバイトは?』
電話の調子でプライベートの用事とわかって気を抜く。同じ着信でも声音で仕事モードか否かがわかる。
「休みなんでクラウスさんにチェスを教わってたとこです」
『まだ帰らない?』
「飯っすか?」
『うちに来ないかと思って』
「いいですけど……」
クラウスさんに適当な理由をつけて帰り支度をして通りに出た。図ったかのようなタイミングで車が横付けされる。彼は運転席から身を乗り出して助手席側のドアを開けると、シートの上に脱いであった背広とネクタイを後部シートに放り投げた。シャツの襟元が少し開いていて、動いた拍子に女物の香水がふわりと漂ってきた。
ああ、そういうことなんだ。何でそんな日にわざわざ誘ってくるんだろう。わけがわからなくてほんの数秒呆然とする。
職場の部下の、しかも男を部屋に連れ込んで恋人の真似事をして、相手の人に悪いとは思わないんだろうか。思わないんだろうな。
上司の家に帰ると、家政婦さんが作り置きしてくれている料理で腹ごしらえして、ソファで上司のしたいようにくっついて座る。それから当たり前のようにキスを求められる。細かく段階を踏んで慣らされたので、これぐらいのことはもう何ともなかったけど。
外から帰ってそのままの服からまた女の匂いがして、咄嗟に手のひらで顔面を押し返してしまった。これにはさすがの上司も驚いたようだった。
「ああ、すいませんっ!いや、あの、今日はちょっと……」
口をふさぐ手のひらを引こうとしたら手首を掴まれて引くに引けなくなり、手のひらを舐められてゾクリとした。行動の理由なんかお見通しみたいな余裕が見える。
「嫉妬?」
「違います」
自分でもびっくりするほど厳しい声が出た。上司の恋人に嫉妬する部下ってどんな昼ドラだよ。愛憎劇どころか、即物的なスキンシップしか存在しないのに。
「そうじゃなくて、前々からキチンと聞きたかったんすけど、なんでこんなことするんすか。……すっげー今更ですけど。この間の指輪も、どうせペアなんでしょ?そんな相手がいるのに何で俺なんか相手にするんすか。目的があるならそろそろ教えてくださいよ!」
「目的?目的ねえ……」
捕まえた手に鼻先をこすりつけながらうっとりと目を細める。
「まず、指輪がペアなのは正解だけど君の思ってる関係じゃないし、その女とはもう切れてる」
「指輪持ってたくせに」
「会う時はつけてないとうるさかったからね」
それって婚約者じゃないのかよ。悪い大人の感覚は理解できない。
「捨ててほしい?」
「別に……」
「捨てないけどね」
やっぱり未練があるんじゃないか。
「気になるなら君に預けるよ」
「え、いいですって、もう気にしませんから!」
断ったのにポケットにねじ込まれた。それで空になった両手を見せられ、これでいいだろうとばかりにのしかかってキスされた。
「たんま、たんま!はぐらかそうとしてるでしょ!」
ソファに組み敷かれて見上げた姿勢では格好がつかないが、このチャンスを逃したらまた訊けなくなる。
「何でこういうことすんのか聞けてません」
「うーん、目的っていうのも君の勘違いだ。前にも言った通り、君自身が目的だ」
行動で示してくれる。脇腹を直に撫でまわされるくすぐったさに身を捩って、悪戯な手を捕まえると、そのまま指を絡めてソファに縫い留められた。
「あー、例えば……俺にハニートラップのやり方を仕込んでるとかそういうんでもなく?」
「なんだそれは。なかなか思い上がったもんだな。君にそういうのは無理だよ」
「デスヨネ」
「何かまた勘違いしてるな。魅力の話じゃなく性格の話だ。君はイイヤツすぎる。本気で自分に好意を持ってる対象に“愛してる”と100%の嘘をついて抱き合うなんて出来ないだろう」
確かにそうかもしれないが、出来ないと決めつけられるとちょっとした対抗心が首をもたげてくる。
「不満かい?じゃあ試しに言ってみるといい」
「試しにって……」
「今ここで、君に本気で好意を持ってる僕に」
あれ?誘導された?
行き過ぎたスキンシップは数をこなしているのに、言葉のやりとりはさっぱりなかったので油断していた。
「どうした。やっぱり無理だったろ?」
見え見えの挑発だ。ツェッドさんなら受け流せるけどザップさんなら一発で引っかかるヤツ。
「君は馬鹿正直だからな。詐欺師の才能はないが正直なのは一般的には美徳だからそう凹むことはないよ」
ここは乗るところじゃない。大体にして詐欺師になりたいわけじゃないんだし、正直なのはいいことだろう。クラウスさんだって誰より正直な人でライブラのリーダーを務めている。だからこんなのは挑発にもなってないんですよ。生憎ですが。そう告げようと息を吸った。
「あ、……あいしてます」
ダメだった。我慢ならなかった。
「ほう。でもぎこちないな。いかにも言わされてるじゃないか」
「え。えーと…………愛してます……す、好きです」
「それで?」
「え」
「そこで終わりじゃあ君の欲しい情報は引き出せないよ。自分の言いなりにしなきゃ」
「ええー」
「僕を手玉に取るんだ」
無理難題を言いながら手を首に導かれる。手玉に取れなんて言いながら、あとはもう首を抱いた腕にそっと力を込めるだけ。それから、羞恥に負けて蹴り飛ばさない努力をするだけだ。
結局その晩も向こうの思う壺で、一方的な愛撫に終わった。手玉に取られたのは結局こっちだった。
「あ、小銭だします」
レジ係が紙幣だけ回収するのにストップをかけてポケットを探した。確かコインがあったはず。
だけど見つからなくて、そういえばさっきツェッドさんの会計で横から出したのを思い出した。レジ係が面倒くさそうな顔でこっちを見ている。銀貨一枚。一枚あればいいだけなのに。
必死であちこちのポケットを探る指先に丸いものが当たった。
「あれ?」
一人きりのアパートのボロいベッドに寝転がって細いリングを眺めた。
プラチナで、内側にイニシャルの“E”が彫ってある。エレン、イライザ、アイリーン、エミリー……。どんな人かはわからないけど、あの様子からして女性側から贈られたんだろう。ねだられたとしても残るものをすぐに別れる前提の相手に買ってやる人には見えないし。とすると、金持ちのお嬢さんとか。
指で弄んでいるうちに指にはまってしまった。といってもサイズが大きいのでぶかぶかだし、すぐに抜ける。あの人は長さもあるせいでそんな風に見えないけど、結構しっかりした指をしている。手なんか繋ぐと同じ男なのに結構差を感じて密かに凹んだこともあった。
指に引っかかったままのリングをぐるぐるまわしていて傷を見つけた。高そうな指輪なのに。
「ん?」
何かが脳裏に浮かびかかる。
「なんだっけ」
外からけたたましいクラクションの音が飛び込んでくる。壁も薄けりゃ窓も薄いから仕方ない。諍いがない夜の方が落ち着かないぐらいだ。
窓からチラリと外の様子を確かめて音の発生源を見つけた。車。この間ドライブインシアターに連れていかれたのと似た色の。
「あ」
頭の中にノイズ交じりのワルツが流れ始める。指輪。見たことのある映画。
それはこの街に来たばかりの頃だ。
住む場所と当面のバイト先だけ確保した途端に金をすられ、早くも挫けそうになっていたとき。
野外で映画上映会をやってるのを見つけて、アパートにテレビさえなく時間の潰し方にも困っていた僕は座り込んだ。周りは異界人ばっかりで怖かったけど、意外とみんな人類と同じ調子で映画を楽しんでいるみたいだった。友達同士らしいグループもいる。一人で見ているおじさんもいる。カップルもいる。
そんな中で酔っぱらった異界人のチョウチンアンコウみたいな触覚が光って、僕の座った一段前の地面で何かが光った。
小銭だったらねこばばしたい。そんな気持ちで拾ったら、高そうな指輪。まだそんなものを贈る相手もなかったし詳しくはなかったけれど、結婚指輪だとか、そういうものだと直感的に思った。
これを落とした人は切ないだろう。自分なんかそんなに沢山は入っていない財布をすられただけでこんなに落ち込んでいる。金額換算したらこの指輪の方がよっぽど高そうだし、思い入れで見たら財布なんていくらでも取り戻せるものだった。でも誰かと交換した指輪に託した気持ちは買い直せばいいってもんじゃない。
あたりにはたくさん人がいて、まず手の形状が人類と違う異界人ばっかりだった。この街での失せ物に関して警察はまったく役に立たないことは知っていたので、心の中で妹に謝りながら瞼を開いた。
神々の義眼―妹の視力と引き換えに未知の存在から強制的に交換された特別な眼球。なんだかよくわからない代物だったけれど、与えられてから数週間かけて使い方を学んだお蔭で少しは便利に使えるようになっていた。ただ、これの代償が重すぎて、私利私欲には絶対に使っちゃいけないと誓っていた。今回は悲しい思いをしている誰かのため。許してくれるだろう、ミシェーラ。
指輪に残るオーラの残滓は人類のもののようだった。指輪自体が小さく、そこに残る痕跡も少なすぎて手がかりには不十分だったけど。上映会場にいる人類に限って見渡すと多少は絞り込みが出来る。そこから歩き回って、それらしい人物に尋ねて回った。
持ち主が見つかったのは映画も終わり頃。プラチナブロンドの派手なワンピースの女性で、大げさに喜んでくれた。お蔭で映画はほとんど見れなかったけれど、探してよかった。少し心が晴れた気がした。彼女は手を振って長身の恋人のもとへ走って行った。
急速に鮮明さを増す記憶の中の景色に、いた。
「スティーブンさんだ」
長身にブルーのシャツを着た黒髪の人。あの時の指輪にも確か傷があって、内側にも文字が彫ってあった。
ライブラに入る前の話だ。直接話したわけでもない、指輪の女性の連れのことなんかちっとも覚えていなかった。
「だから預けるなんて言ったのか」
どこからか走ってきて肩から腕を伝ってきた小さな音速猿・ソニックが指輪を奪って自分の腕にはめて遊び始めた。崖のぼりをする人が肩に担いだロープ束みたいなバランスだ。
「こらこら、後で返すんだから失くさないでくれよ」
瞼の裏にプラチナブロンドの女性の姿がちらついた。スタイルが良くて長身で、彼と釣り合いの取れた美人だった。もう何か月も前のことだ。
この指輪を渡した時のことを彼が覚えているなんてことがあるんだろうか。少し距離もあった。仕事の関係で交際していた相手ならば、あの瞬間も仕事中のようなものだったろう。
ライブラで出会ったときにもまるで初対面の扱いだったし。信じられなかったけれど、それ以外に接点のない指輪がこうして手元にある。
ソニックがフラフープみたいに掲げて回した指輪が、窓から入り込むネオンサインのチカチカした光を反射してきらめいていた。
ある日、目が覚めたら事務所の廊下で揺られていた。ツェッドさんの半透明の顎が目の前にある。珍しい角度で見てしまった。
「なん……え?」
「ああ、目が覚めましたか」
ツェッドさんに抱きかかえられている理由に何にも心当たりがないんだけれども、どうやら道端で倒れているのを見つけてくれたらしい。
「無事でよかったですよ。何に巻き込まれたか覚えてないのは問題ですけど」
「ほんと助かりました。もう大丈夫なんで降ろしてください」
頼んで立ってみたはいいが、何の後遺症か頭がクラクラしてふらついてしまった。
「近かったからこっちに来ちゃいましたけど病院に直行した方が良かったですか?」
「いや、そこまででは……」
「とにかく座れるところまで運びますから」
いい人だ。軽々と抱え上げてくれた。背の低い僕に肩を貸すより楽と判断してのことかもしれないけど。いい人なので武士の情けで余計なことは言わないでくれる。
事務所のドアを開くとすぐそこに人がいて、ツェッドさんが一歩後ずさった。タイミング悪く部屋を出る人と鉢合っちゃったヤツだ。向こうも驚いた顔をして、抱きかかえられている僕の方を呼んだ。
「レオナルド!」
「おはようございます、スティーブンさん……」
ちょっと怖い顔してる。またトラブルに巻き込まれたのか的な。
「レオくん、道で倒れてたんですけど、何でそうなったのか覚えてないみたいで」
「記憶喪失?またか」
「面目ないっす」
以前にもやらかしているので渋い言葉を甘んじて受ける。前回は過去三か月分ぐらいの記憶がふっ飛んじゃって大変だった。今回は昨日寝るまでの記憶なら残っているんだけど。
「ツェッド、現場に残ってたのはレオだけ?」
「いえ、彼の友達の異界人と柄の悪いのが何人か同じように倒れてまして、レオくんたちのものらしいハンバーガーがぐちゃぐちゃになってたんで、そこで争ったのは確かみたいなんですけど」
記憶はさっぱり蘇ってこないが、バーガーが大好物でしょっちゅう一緒に食べている異界人の友達には心当たりがある。
「ツェッドさん、ネジは……友達は大丈夫だったんですか?!」
「先に目を覚まして、やっぱり記憶がないみたいでしたけど、本人が大丈夫って言うんで一人で帰しましたよ。事務所に一緒に連れてくるわけにもいかなかったので」
「そっすか……」
何か記憶の蓋が開きそうで開かない。元々物忘れの多いヤツだから、本人が大丈夫と言って帰ったなら心配はしないんだけど。
「はぁ。わかった。以前の集団記憶喪失事件との関連はわからないが、今回は大した影響はなさそうだな」
「はい」
「よし。来てもらったとこで悪いが、ツェッドは二十一番街に向かってもらえるか。なんでもザップが女絡みで死にかけてるそうだ」
やる気のない指示。
「死ななきゃ治らない病なのでは?」
やる気のない返事。
「まあ、アイツ本人は放っておいていいだろうが、どうも路上で騒ぎになってるらしくてな。さすがに状況確認もせず放置はできんさ」
心底気が進まない顔でツェッドさんは来た道を戻っていった。
「レオくんはちゃんと休んでてくださいね」
親切なひと言を置いて。
ドアが閉まると上司の空気が変わった。プライベート用の方だ。僕の座ったソファに寄りかかって改めて溜息を吐いた。
「君はどうしていつもいつもトラブルを拾ってくるんだろうな」
「毎度毎度ご迷惑をおかけして申し開きのしようもありません……」
「ま、自分でトラブルを起こすヤツよりかはマシだけどね」
そのトラブル対応に駆り出され中のツェッドさんに心の中で手を合わせる。
「具合は大丈夫なのか?ツェッドに運ばれてきただろう」
「ちょっとふらついちゃっただけなんで、しばらく座ってたら大丈夫っす」
「ふぅん」
彼が身を屈めてきたからキスされるものとばかり思って、少し上向きで身構えていたら違った。恥ずかしい肩すかしだ。
代わりに背中と膝裏に手を差し込まれて膝に抱き上げられた。
「あの……」
「座ってたら大丈夫なんだろ」
「いや、そうなんすけど、落ち着かないっていうか、誰か来たら困るなー、なんて」
「二分だ。心配かけた埋め合わせに二分我慢しろ」
「ええー」
子供っぽい物言いがおかしくて口元がむずむずする。抱っこなのはツェッドさんに対する対抗心なのだろうか。あと二分誰もこないよう祈りながらひっそり首に腕を回した。
それから念のためにネジに連絡を入れようと携帯を取り出して、ネジが携帯を持っていないことを思い出した。少しでもバーガーを買いたいがために通信費を削っているのだ。
「あークソ、やっぱり携帯持つよう言わないと」
言っても多分無駄なんだけど。次の約束をしないままに一度行き違いになると苦労する。
「さっきの異界人の友達か?」
「ああ、はい。しょっちゅう一緒にバーガー食ってるんで、今日も多分その帰りだったんだと思うんですけど」
「そう。じゃあ例の小人になった小枝みたいな友人は元気?」
唐突に話が変わる。小枝みたいな友人っていうのはか弱い異界人だ。以前面倒なトラブルに巻き込まれてとんでもない大きさになって、存在そのものが世界の危機になった。その後、なんだかんだで作戦が成功して身体のサイズが縮んだんだけど、縮みすぎてソニック並のサイズにまでなってしまった。元々は僕と似たような大きさですごく痩せた人だったんで、小人化した今は本当に手足が小枝のように細い。当然元の生活は送れないので、然るべきところで保護してもらって生活している。
「え?はい、この間会ったらちょっと大きくなってました」
「それは良かった。君は異界人の友達が多いよな」
「んー、ていうか、類は友を呼ぶってやつで、周りは非力なヤツばっかっすね」
街の中でそれなりに腕に覚えがあるヤツなんて大抵チンピラみたいなろくでもない考えのヤツばっかりだ。自然と一人じゃ生き延びれないタイプが寄り集まって助け合うようになっている。
「君はやっぱり変わった子だよ」
「そうっすか?」
「街がこんな風になっても頑なに人類同士のコミュニティにしがみついてるヤツもたくさんいるのに、わざわざ外から来て面倒事ばっかり起こす連中とつるんで世話を焼いて」
別に面倒事を起こしそうなヤツを選んでるわけじゃないけど、言われてみると実際そうなので反論できない。
「こんないくつも上のオッサンにも好きにさせてる」
「なんすか。拒否ってもよかったんすか」
今頃なんなんだ。心でも弱ってるのかな。僕が思うよりもさっきの記憶喪失の件で心配をかけたのかも。
調子の上がらなさそうな上司を茶化すつもりでついつい軽口を叩いた。駄々っ子みたいな今ならすぐに「ダメだ」と言うと思って。なのに、
「いいよ。君が拒絶するならすぐに全てやめる」
「えー…………」
本気だ。多分だけど、もし冗談でも「じゃあやめてください」なんて言ったら、すぐ膝から降ろされてこの先一生指一本触ってこないだろう。そんな予感があった。それで困ることはないはずなのに、むしろ長らく続いたセクハラが終わって恥ずかしいこともなくなるし、こういう場面を誰かに見られる心配もしなくてよくなる。
何も言えない。うっかりして少しでも拒絶にとれる言葉を言わないように口を閉じた。その代わりに大きな傷跡の残る頬に手を添えて唇を奪った。僕が仕掛けたのは触れるだけのやつだったけど、すぐに口を開かされて舌が割り込んできた。
二分はとっくにすぎてる。いつ誰がやってくるかもわからない。それなのにこんなことで頭をいっぱいにして注意力なんかあったもんじゃない。どうかしてる。
何がこの人をそうさせるのかわからないままだった。それでも、明日も、明後日も、人目を盗んででも、この人と触れ合いたかった。
指輪を返したのは寝室で。脱ぎ捨てた服から探し出して渡した。
前にコレの話をしたときは大事にしている風だったのに、返却されたそれにはあまり興味なさそうにサイドボードの引き出しにしまい込んだ。
「あの、人違いだったらすいませんけど、もしかしてライブラ以前に会ってました?」
インナーだけのだらしない格好の僕に対し、襟元のボタン以外はベルトも緩めていない彼がベッドの空いた片側に戻ってきて口角で笑う。ビンゴだ。
「それなら早く言ってくれたら良かったのに」
「別に僕だって最初からわかってたわけじゃない。第一、初対面の君は重体で頭も血まみれだったし、しばらく包帯ぐるぐる巻きミイラ状態の入院患者だっただろ」
そういえばそうだ。めでたくライブラ入りしてすぐの頃、別件で忙しくしていたこの人とは顔を合わせないまま。先に事件に巻き込まれてしまったのだ。大破した異界製トラックの残骸の中で初体面を果たした。当然気絶していた僕にその記憶はないし、気がついたら病院で顔面含めてどこもかしこも包帯だらけ。人工呼吸器もついて喋れもしない。辛うじて耳は聞こえたので一方的な自己紹介だけされたものの、ライブラの番頭役の顔を見たのは事件から一ヶ月も後だった。
そんな生死を彷徨う事件も経験したことでライブラ入り以前のちょっとした出来事なんて忘却の彼方。指輪を預かるまで少しも思い出さなかった。
「じゃあいつ気づいたんです?」
退院してからもよく気にかけてくれる他のメンバーに比べちょっと距離があって、ザップさんが冷血漢なんて言うのにもちょっと同意しちゃっていた。叱るのが仕事の先生みたいに思って。それがいつこうなったのか、きっかけらしいきっかけは思い当たらない。
「どこかで見たことがあるとは思ってたよ。でも今の今まで確信はなかった」
「まじすか」
「ああ。でも、指輪を届けられたときにとんでもない物好きがいたもんだとは思ったんだ。なにしろアレ、僕はわざと失くしたんでね」
「ハァァァッ!?」
どれだけ苦労して届けたと思ってるんだ。毛を逆立てて怒っても尚更愉快そうに頭をなでられる。怒ってる犬だったら噛んでた。
「ビジネスで何度かデートしてただけなのに指輪なんか押し付けてくる女だぞ。毎回忘れずにつけるのも面倒くさいから指輪は失くしてしまおうと思って適当に落としたんだ。人ごみの中で見つかりっこないって思って。そうしたら疲れ切った様子の子供が届けに来たじゃないか。天が彼女に味方するのかと思った」
「それはそれは……余計なことしてすいませんでしたね」
「結局別件で都合が悪くなったんでどのみち彼女とはお別れしたけどね。返しそびれた指輪は手元に残って、捨てそびれてそこの引き出しにしまいっぱなしだった。そのすぐ後だったかな。クラウスが君を拾ったって報告を受けたのは。訊けば素性の下調べもろくにしないまま採用したっていうじゃないか。報告を受けるまでの間には調査は終わってたが、こっちもあちこちの恨みを買ってるから、スパイや裏切りには慎重になる。クラウスは人を信じることに躊躇いがないからそうでもないけど」
ずっと横たわっていた距離の正体が見えてくる。戦力外だからかと思っていたけれど、それ以前の問題だったみたいだ。
「でも、君ときたら非凡なまでのお人好しだろう。ザップには振り回されっぱなしだし、友人はカメラ泥棒の猿だの菌テロリストの餌食になって超巨大化した小枝男だの。聞けば例のジャック&ロケッツも異界人の友人のために買い食いしてるっていうじゃないか。そもそも、自分自身は家賃も滞納するほどの暮らしぶりなのに妹に仕送りまでして。ライブラの活動資金だって基本額以上は断ってるときた。こんなバカはなかなかいないよ」
そんな気はしていたけどバカだと思われていたらしいことが判明した。
「映画もろくに見ずに指輪の持ち主を捜しにくるとしたらこんなヤツしかいないだろうってね」
「そこはまあ、義眼もありましたし」
「だとしても簡単じゃなかったのはわかるさ」
一応労われているのだろうか。眼差しが優しくて、照れくさくて、ふかふかの枕の下に逃げた。
「君と指輪の件を結び付けて考えるようになって再び引き出しから指輪を取り出した。それをたまたまポケットに入れていて、機会があったから鎌をかけてみたわけだ」
「映画もその一環で?」
「いや、何が上映しているかまでは知らなかったよ。そこはたまたまだ」
「あれがなかったら思い出さなかったっすよ」
「そう。運命だったのかな」
女性との付き合いをあっさりビジネスとかいうわりに大したロマンチストだ。
「それだけじゃない。君に自覚がなくても人生の中でココってときに君が現れた夜もある」
「なんすかそれ」
スキンシップが始まってから何度も夜を過ごしているし、いつのことかわからない。
「教えられないな。大事な思い出だから」
悪戯っぽく笑うのが腹が立つほど魅力的だった。結構本気で愛されている気がする。僕はこの期に及んでも何らかの策略を疑っていたのだ。
ベッドにうつ伏せたままで手を伸ばせば指の背に唇が触れ、引き寄せれば胸に抱き込まれた。
自分はそのまま彼の恋人になるのだと思っていた。
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『その時の僕は浮かれていたのです。』
事件で情報収集に走り回っている時期にはよく同じ香水を移されて帰ってくる。元からそういう人だ。謝る謂れもないんだろうけどやっぱり謝らないし、もちろん悪びれることもない。
それを気に入らないのは僕がその頃恋人気取りだったからだ。愛を乞われる立場に胡坐をかいてた。
「――それでその子と結構仲良くなって最近よく話すんすけど」
気を惹きたくて可愛い女の子と知り合った話をしてみたりなんかして。それで嫉妬じみたことを言ってくれちゃったりすることに期待なんかしちゃったりして。
「へぇ、少年も隅におけないな」
「は」
思っていたのと違った。もっと意地悪なことを言われるものだとばかり。最初は皮肉なのかと思ったぐらいだ。
「でも一般人だろう?付き合っても義眼やライブラのことは伏せた方がお互いのためだから、そこは上手くやらないとダメだぞ」
「へ」
付き合うとは。二股前提なのだろうか。この人自身は女性関係はビジネスだと言い張ってるけど、身近に同時進行の女の数は片手じゃ足りないクズの見本もいることだし。そういう価値観で言われたのだろうか。
「君は不器用そうだからその辺は心配だね。一途で相手のことを大事にはしそうだから、背中を押してやりたいのはやまやまだけど」
「背中?押す?」
阿呆のようにオウム返しにしてしまったほど理解の及ばない話だった。恋人から他の子との恋を応援されるってなんなんだろう。一夫多妻制じゃあるまいし。一夫多妻制度の中でも稀なことなんじゃないだろうか。クズの見本はしょっちゅう愛人同士の修羅場を起こしている。
わけのわからないことを言われた数分後にはソファで背中から抱きかかえられて下半身を暴かれていた。色事に免疫のない僕は色っぽい空気に巻かれるとひとたまりもない。彼に背中から抱きかかえられて、耳朶にあまったるい言葉を囁き込まれながら、一人で逐情する。それがいつまで経っても続くので、羞恥を我慢して自分も奉仕すると言えば、
「イったばっかりなのに足りない?若さだなあ」
適当なことを言われて愛撫ではぐらかされた。頭の中がグズグズでもわかる。線を引かれている。
関係を受け入れた時になんとなく想像していた相思相愛の生活との絶望的な食い違いに、優しくされているときほど寂しさみたいなものを感じるようになった。
どこかの歌の歌詞みたいだ。
「おめーよーそういうの俺は聞きたくねーんだよ」
ビデオショップで一足先に会計を済ませ、AVの入った包みを小脇に抱えたザップさんが、小指を耳の穴に突っ込みながら唾を吐いた。
しょっちゅう愛人とのろくでもない話を愚痴ってくる人相手でももっとオブラートに包んで話すべきだったのか。相談を持ち掛けたのはこっちだけど、目の前の態度と理不尽さで頭に来る。
「ちっげーよ。聞けよ非処女童貞陰毛チビ」
「ひしょっ…!」
「知り合いのハナシーとか言って自分と番頭の話だってことなんざバレバレなんだっつーの」
「んなっ!ち、違いますよ?!」
慌てて取り落とした商品を拾おうとしたら陳列棚にぶつかって二次被害が出た。背中や頭にケースの角が当たる痛みに唸りながら片づけをしている後輩を冷やかに見下ろし、一つも手伝うことなく話し続ける。
「ッカー、これだから非処女童貞はバカだね。ウブすぎるね。身の程知らずだね」
「いちいちそれつけないで下さいよ、誤解ですよ」
「あー、そうだった、まだ処女なのがお前は不満なんだもんな」
端的な指摘にぐぅの音も出ない。顔面が火を噴きそうで顔を上げられず、言われっぱなしで黙々と作業する羽目になった。
「なんでバレてないとか思うわけ?自分がそんなにポーカーフェイス上手いとか思ってた?っつーか、あの人は確信犯だろ。事務所にお前ら二人でいるとき俺が入ってったことあったろ?ドア開けた時には離れてたけどさ、お前の唇がいかにもチュッチュチュッチュしてましたーって具合に赤くなってんのに、普通っぽく装ってるのが逆におかしいっつの。お前は自分の顔だからわかんなくても番頭には見えてんのになんのフォローもねーんだから。あの人アレでガキっぽいとこあるからな」
「ハハハ、ハハ、カンチガイっすよ、それ多分ちょうど俺が自分で口噛んじゃった時とかで……」
「あの人心せめぇんだよ。自分で俺にお前のお守させてるクセして牽制しねえと気が済まねえんだ。自分がちんちくりん趣味だからって周りまで疑われちゃかなわねーよ。誰がこんな処女童貞陰毛チビうんこチビ」
「悪口なっげーよ」
残念ながら程なくして片づけを完了してしまい、一本選んで会計した。すかさず「そんなん見るのかよ」なんてからかわれながら。人が一人で何鑑賞するのかなんてほっとけよ。
「ハー、職場の後輩と上司がデキてるとかマジ面倒くせぇし、その上アッチの事情なんか聞かされて俺なんなの?不倫OLのお友達かなんかなの?」
そこまで言われるほど具体的な話はしていない。例え話でかなり遠回しに言ったはずなのに、勝手に正確に解釈して文句を言ってくる。
「あの人もなんでコイツなんだよな。女に困ってるわけでも、元々ゲイってわけでもあるまいし。男ってそんなにいいのかと思えばクソほどの価値もなさそうな純潔守ってやっちゃってんだから意味わかんねえわ」
「今俺すっげー後悔してる。何でアンタに相談しちゃったんだろう」
「アァン?相談乗ってやってる優しいセンパイに何文句つけてんだロストヴァージン希望童貞うんこちんこ」
あんまり大きな声で言うもんだから慌てて口を塞いだ。うっかり鼻までいってザップさんの運転が乱れ、あわや二人乗りしたバイクが事故るところだった。
「ブハッ、殺す気か!死ぬ気か!年上の愛しいカレシに相手にされないことを苦に若い男とあてつけ心中か!?」
「だーからその言い方ヤメロ!」
何か頼んだわけでも、特に用事があったわけでもなかったけど、いつもは暇つぶしに事務所に向かうところで公園に向かってハンドルを切った。何だかんだいって親切な人ではある。
「アレじゃね、番頭も結構いい歳だしアッチの方が不能なんじゃね?」
自分で言った言葉がツボに入ってザップさんは笑い転げた。黙ってれば女の子がホイホイ引っかかるぐらいの美形のくせに致命的なゲスだ。
「いや、それはないですけど」
「天然でシレッとセキララな事情打ち明けてくんなバカ」
「あっ」
本当に尋ねてまで聞きたくはないらしく、詳細については追及されなかったけど、あの人がさっぱり興奮していないかという点については明確に否定しておく。
「インポはともかく、こんだけ歳が離れてると何考えてるかわかんなくて当然だろ。あの番頭だぜ」
「それは、そうなんですけど」
「裏稼業なんかやってなかったらとっくに百回ぐらいは見合いしてておかしくねえ歳だし、色々思うところもあるんだろうさ」
「……………」
「なんだよ」
「すごくまともなこと言われてびっくりしたもんで」
顔面にくっきりとした靴跡がついた。
似たような建物が並ぶ通りの片隅にランブレッタが停まった。
「そっちじゃないって言ったっしょ!」
「うっせー!てめぇの眼力ナビがポンコツなんだよ!」
「大体最初に近道知ってるとか言って別ルート走って来たのアンタじゃねーか!」
「お前だって“見ればわかります”とか言ってわかんなかっただろうが!」
狭いスクーターの上で喧嘩して気が済んだところでいそいそ引き返した。現場への直行指示で来たものの、目印が少なく、同じ規格で建てられたビルが整列した林を作っているエリアだ。道端にカワイイ女の子や小銭が落ちているたびに気を逸らせて、そんなザップさんに苦情を入れている間に曲がらなければならない角を通過して、迷子になっていた。
いや、戻ればわかる。現場の建物自体は幻術で偽装されているから、僕が見れば間違えようがないんだけど。
ひとしきり争って満足したところで来た道を戻った。先に向かった上司の車はもう到着しているだろう。今回の作戦はクラウスさんとK・Kさんは外されている。
それというのも、行き先が孤児院なのだ。マフィアの根城が孤児院。厄介そうな上に、人に情をかけすぎる人、子供に弱い人を連れていくと更にややこしいことになる。そういう判断で選抜された。どのみち他でもやることがあったので、居残り組の二人も事務所にはいないんだけど。
僕は非戦闘員ながら、相手が高度な幻術を使うとわかってみんなの眼役で同行している。
目的の通りで曲がって少し行くと、目的の建物の手前で上司の車を発見した。
「お、いたいた。っつーか何やってんだ番頭」
道で小さな女の子たちに囲まれている。拾ったボールを渡したついでに何か話しているようだ。孤児院の子供たちなのかもしれない。作りものじゃない微笑みをたたえていた。ああ見えて子供は嫌いじゃない。
「お前のダーリンは幼女にもモテモテやのー」
「やめてくださいよ」
口には出さないが、昨夜も恋人関係なんかじゃなく、まるで親みたいな口ぶりで話をされて段々と自信がなくなってきたところなのだ。過剰なスキンシップだけが自信を繋ぎとめていると言っても過言ではない。それもあくまで行き過ぎたスキンシップであり、いつまでたってもセックスにはならなかった。
「ちゃんとお付き合いする約束したわけでもないし」
「じゃあセフレかよ」
「だから違いますって」
「まだ手出されてねーの?ゲイ向けのエロ下着売ってるとこ教えてやろうか?」
「何でそんなん知ってんだよ」
勘違いされたくないんだけど、肉体関係が欲しくて焦れてるんじゃなくて、気持ちの上で彼を受け入れると決めた時に思い描いた付き合いとの差に戸惑っているというか。不安なのだ。
唸りながら白い背中にヘルメット付きの頭を擦りつけるとザップさんが焦り出す。
「オイ、やめろそれ。いつ番頭が振り向くかわかんねーだろッ」
焦らなくてもあっさり「君シュミ悪いな」なんつって終わるんじゃないかな。最近そんな気がする。
幸か不幸か上司は振り向くことなく、建物近くで合流して少数精鋭のチームは突入した。僕はザップさんの背中に隠れながら見えたものを伝えてサポートする係だ。人類に見せかけた異形の職員を片っ端から行動不能にしながら進み、隠し階段を見つけたところで空間に対する偽装は終わった。そこから先の事務所を制圧するのにも時間はかからなかった。偽装といってもビルとビルに挟まれた狭い敷地内であることには変わりなく、敵組織の規模は見た目通りだったのだ。
みんなの技術の賜物で、収容されていた子供たちは人質に取られた瞬間もあったが無事だった。
一仕事終えて幻術の解けたみすぼらしい建物から出て、めいめいに過ごす中、上司は一人だけ忙しく電話をかけまくっていた。保護した子供たちの対処があるので単純な制圧作業のときより面倒があるらしい。
その足元にさっきの少女たちが集まってくる。彼女たちはずっと外で遊んでいたので、幻術が解けて突然見た目の変わった自分たちの“家”に驚いた様子で。
上司が優しげな営業用の表情を作って屈みこんだ。目線を合わせてゆっくり喋る。
「驚かせてすまなかったね。もうここには住めないけど、新しい家を用意しているから心配はいらないよ」
少女が驚愕で取り落としたボールを拾い上げた。数分前のやり直しみたいに。受け取る格好で少女が手を上げる。
「スティーブンさんダメだッ」
咄嗟に叫んだ。いたいけな少女の手が指の先から裂けて肉片のまとわりついた銃口が剥き出しになる。一瞬の出来事だった。
十メートル先にいたツェッドさんとザップさんが得物を構えるより速く、少女の足元から発生した氷が腕の先まで包み込んだ。
「う、あ、あ、あぁ……」
首から下の動かなくなった少女たちが化け物を見る目で彼を見る。腕から銃を生やした彼女たちの方が歪なのに。それを見る彼の顔には何も浮かんでいなかった。
呻きが嗚咽に変わる彼女たちにはもう目もくれずに電話をかけ、保護施設のキャンセルと、武装した研究施設の手配を無感情に済ませる。それから視線をよこさないまま「助かったよ、レオナルド」と。
「やっぱりクラウスたちを連れてこなくてよかった」
呪詛みたいな女の子たちの嗚咽が耳にへばりつく。彼はそれを一身に受け止めていた。
帰りも行きと同じくランブレッタに相乗りだった。お互い往路よりテンションが低く、やっと口を開いたのはザップさんだった。
「動いたら腹減ったな」
「そっすね」
「ラーメン行くか、ラーメン」
「いいっすけど……」
赤信号で停まったついでに足を蹴られた。
「いってぇ」
「その暗い喋り方、うっぜんだよ」
「だからって蹴ることないでしょ!」
信号が変わって再び走り出すと、またしばらく黙った後に喋り出した。
「すげえよな、番頭。あの速さであそこまでやるかよ。しかもガキ相手に容赦ねえの」
「…………」
「ま、躊躇ったり容赦したりしてたら自分の葬式の手配する羽目になってただろうけどな」
「…………無事でよかったです」
「ホントに良かったとか思ってるように聞こえねえな」
「いや、ホント。仕方ない場面だったじゃないですか」
全てザップさんの言うとおりだったし、すっきりしない事件なんかいくらでもあった。その中の一つがたまたま今日だっただけだ。
「面倒クセェな。お前も旦那たちと一緒に別行動のが良かったんじゃねえか」
「バカ言わないで下さいよ。今回は僕の眼がないとダメだったでしょ」
「ケッ。マジでお前って番頭と正反対だよな。これしきで凹みやがって、顔色一つ変えないあの人見習えよ」
「は?」
どこがだよ。言いかけた言葉を飲みこんだ。多分、以前の僕だったら同じように思っただろう。無表情でも心まで凍り付いたような人じゃないってことを理解したのは肌に触れ合うようになってからだ。
「やっぱお前メンドくさがられてんじゃねーの?」
「……ッスかね」
「いちいち辛気クセェな。大体お前、眼のことが片付いたら実家帰るんだろ」
「え?まあ、そりゃあ……」
ライブラに来て少しは足掛かりが出来たとはいえ、神々の義眼と妹の視力を戻す糸口があるわけじゃない。出来たとしてももっとずっと先だろう。いつになるかわからないことだと思ってあんまり考えていなかった。そうか、義眼がなくなってライブラにいる意味もなくなったら、また別の仕事をして生活していくことになるのかな。特殊な眼以外は戦力にもならない、諜報に長けているわけでもない僕が義眼を失った後、ライブラでできることはない。
だけどザップさんの意図は別だった。
「番頭や俺らはもし血界の眷属を根絶やしに出来たとしても裏稼業から抜けるわけじゃねえ。姐さんなんかはわかんねーけど。あちこち恨み買いまくってるしな。来たばっかの魚類なんかは別だけどよ。そこらへん、所詮住む世界が違うってヤツじゃねえの?」
「なんすか、そしたら義眼がなくなったら俺は用済みっすか」
「専属運転手としてだったら召し抱えてやらんでもない」
「俺、元々記者志望だったんすよねーまた夢追うのもいいかなー」
「おい」
「アンタに雇われても給料でねーもん」
「給料出るとこだったらこの街に残るってか」
そう言われてしまうと、脳裏をよぎった妹の顔に即答ができなくなる。またミシェーラの眼が見えるようになったなら、毎日顔を見て話がしたい。今離れて暮らしている分もだ。
「…………そういうことなんかな」
「ああ?」
「ザップさん、やっぱラーメンなしで。事務所行ってください」
「ハァ?センパイをアシに使おうってのかよ」
「今度一回だけ奢りますからお願いしますよ」
「しゃーねえなぁ」
なんだかんだで進路を事務所に向けてくれる。態度は悪いけど結構いい先輩だ。調子に乗せると感謝が吹き飛ぶほどのクズっぷりを露呈するので絶対に言わないけど。
事務所は留守だった。先に着いてしまったらしい。
目的の人がいないのでテーブルセットの椅子に腰かけてバッグの中から出した手紙を広げた。妹宛の、ポストに入れる予定のない手紙。
少し書いては止めて、また頭がいっぱいになったら続きを書く。
便箋代わりのレポート用紙は二枚目に突入していた。
手紙というより日記みたいなものだ。最初の方は緩やかにエスカレートしたセクハラに困っていて、行動の裏を疑ったり、まんざらでもなくなって、後の方は夫の浮気を愚痴る妻みたいな、随分調子に乗った内容だった。でも、最後の一行にはこう書かれている。
『でも、僕は彼の恋人ではなかったのです。』
恋人がどうやってなるものかは知らないけど、多分約束があるんだと思う。自分だけのものになって、他の誰かに靡かないで。僕たちの間にはそういうものはなかった。あの人は平気で他の人の匂いを纏って帰るし、僕が他の誰かと生きていくのを後押しするようでもあった。
もしかすると、最初から将来の計算に入っていなかったのかもしれない。そう思うと理解できなかった言葉の数々が急に納得いくようになる。どうせ目的が果たされたら離れていく人間だと思って、線を引いていたんだ。そうやって割り切れる人。
ペンを取り出して手紙の続きを書いた。この手紙に切手を貼ることはないけれど、とてもミシェーラに聞いてほしい。
レポート用紙を埋め尽くしてペンを置いたときにドアが開いた。
「スティーブンさん」
ちょっと驚いた様子で、そのまま自分の執務机に向かう。
「てっきりザップと一緒に食べに行ったと思ってたよ」
「断っちゃいました。ツェッドさんは?」
「ザップから呼び出されて一緒に飯だそうだ。だから君も一緒だと思ったのに、珍しいこともあるもんだな」
「そっすね」
ほらね。やっぱり何だかんだ言っていい先輩だ。感謝の気持ちを目減りさせられないために絶対言わないけど。
机を回り込んで椅子のすぐ横に立つと当然のように腕が腰に回る。それを受け入れながら、キスの代わりに髪を撫でた。されることはあったけど、年下の僕がそうしたことはなかった。
彼は驚いたようだったけれど止めなかった。面倒な人。
無表情で誰にも知られず傷ついて、非力でお節介なガキを懐に入れてみたりして。どうせ手放すつもりなら最初からしなければよかったのに。
ものわかりのいい大人の顔でいても本当は割り切れていないんじゃないか。だから半端に触れてきたんじゃないのか。
しばらく撫で続けていたら柔らかく手を握って頬へ引き寄せられた。傷跡の上を滑らせて唇が触れる。
「スティーブンさん、お願いがあるんです」
「改まって何だい」
「レンタルした映画を一緒に観てほしくて」
「いいよ。でもしばらく忙しくてゆっくり帰る暇がなさそうだから、レンタル期間が過ぎてしまうな」
「大丈夫です。また借りるし、自前で買ってもいいし」
「タイトルは?」
「ワルツ」
余裕のある大人の顔が少しだけ揺れた。
「いつでもいいですよ。来週でも、来月でも、来年でも」
「気が長い話だな。さすがにそこまで徹夜続きにはしたくないものだね」
「三年後でも、十年後でも、五十年後でも」
「……君は僕がいくつだと思っているんだ」
こんな生活では寿命も早いだろうと自嘲して目元に疲れを滲ませる。
「ずっと一緒にいるっつってんですよ」
強く言ったら背中に氷を投げ込まれたみたいに目を丸くした。気分がいい。
弄ばれていた手を精悍な輪郭に添えて唇を寄せた。
『ミシェーラ。君の目が見えるようになったとき、僕が一番に会いに行きたい。
一緒にいろんな場所へ行って、少しでも君の目の時間を取り戻したいと思う。本当だ。
だけど傍では暮らせないかもしれない。その分沢山写真を送るよ。
僕の仲間や、住む街や、それから君のきれいな目で見てほしい。
僕の好きな人を。』