薄暗い廊下にふわりと湯気がこぼれ出し、脱衣所の戸口から頭だけ覗かせた侘助が叫ぶ。
「理香ー!」
呼ばれた年上の姪は台所から声だけで返事をする。
「何ー!」
お互いその場から歩み寄らないので自然大声になった。
「着替え他にねーのかよ!」
「別にいいじゃない!」
取り合ってもらえないことを悟った侘助は小さく悪態をついて脱衣所へと引っ込む。
「チクショ」
その脱衣かごには下着やタオルと一緒に着古したジャージ一式がきれいに畳んで置かれていた。
酒屋の名前の入ったタオルでいい加減に頭を拭きながら居間に入ると、そこでテレビを見ていた甥が振り向いて次の瞬間に笑いだした。
遠慮のない爆笑にカッとなって頭のタオルを畳に叩きつける。
「揃いも揃って…!」
「姉ちゃんが選んだのか」
それ、と指さすとタイミングを図ったかのように理香が剥いた梨を持って現れた。
ジャージの肩越しに侘助と理香は三秒ほど睨み合い、理香が先に目を反らして脇をすり抜けテーブルへ梨の皿を置いた。
どっかり座りこんで予め人数分差してきた爪楊枝を一本つまんで一切れ口に運ぶ。
シャリッと涼しげな音がした。
「別にいいじゃないのよ、似合ってるわよ。」
「良くねえよ、こんな、大昔の高校ジャージが似合ってたまるか!」
胸には“上田”という学校名が大きく書かれ、その下に“陣内”という名札がついている。
防虫剤の匂いのする二十年物の学校指定体操服だった。
「まだこんなのあったんだ、物持ちがいいな。」
感心する理一を侘助が睨みつけ、理香はあてつけに明るい声で「でしょ?」と応じる。
「まったく、贅沢言ってんじゃないの。侘助アンタ結局あのナンチャラってプログラムのお金、ろくに残ってないんでしょ?」
ナンチャラというのは彼が開発したハッキングA.Iのことだ。
一年前、それが原因で大騒動が起こり、この一年間はその後始末作業に駆り出されていてこの家へ顔を出せたのは一度きり。
先代当主、陣内栄の四十九日だけだった。
「…理一」
「別に口止めされてたわけじゃないよな。」
侘助から聞いた話を右から左へと流した張本人は少しも悪びれた様子がない。
苦虫を噛み潰したような顔でタオルを拾ってテーブルの前に胡坐をかいた侘助の隣で皿の縁に爪楊枝を置いた理香がにやりと笑う。
「それにしても今更高校のジャージなんか着るとコスプレみたいね」
「お前が出してきたんだろ!」
言った瞬間に拳骨が飛んだ。
「お前とは何よ!」
「姉ちゃんも侘助も落ち着けよ。」
倒れ込んだジャージ男を丁度よく受け止めた理一一人だけ蚊帳の外で余裕顔だ。
「ったく…何でジャージなんだよ。しかもこれ、俺のじゃなく理一のだ。」
服の腹を掴んで見下ろす、その上からジャージの持ち主もまた覗きこんで「ほんとだ」と呟いた。
「は?見分けつくの?」
名札は名字だけ、それも二人分を理香がまとめて書いたものだ。
字を書いた本人でも区別がつかない。
「うっわー、細かい男!アンタ、アメリカでも全然モテなかったでしょ。」
「自分と一緒にするなよ。」
二発目の拳骨がこめかみにめり込む。
やはりにこやかな理一は「お前が悪い」と言って理香に味方した。
「ほんっと、ムカつく!」
言いながら理香は立ち上がり、エプロンの皺を伸ばしながら台所へと戻っていった。
片付けがまだ残っている。
居間には二度も殴りつけられた部分を抑えて静かに唸る侘助とゆっくり梨を齧る理一が残された。
テレビではスポーツニュース番組の合間にスポーツメーカーのCMが挟まり、そこに映し出されたキングカズマの姿に理一が眉毛を持ち上げる。
侘助が飛び出した十一年前まで五人で暮らしたこの家も今は四人きり。
昨日までは三人きりだった。
「この一年、何で俺にしか連絡しなかったんだ。」
野球の試合のダイジェストが始まる画面を見ながら理一が訊ねる。
侘助は袖をまくりあげて梨の爪楊枝をとった。
「別に、理由なんてねえよ。」
「俺より姉ちゃんの方がお前に優しかったのに。」
「お前は無関心、理香は優しいんじゃなくお節介だろ。」
鼻を鳴らす。
「無関心、ねえ。」
やっと視線を寄こした理一とは目を合わさない。
二口で梨を口に収めて奥歯でざらつく果肉を噛み締める。
「姉ちゃんはあれで一番お前のこと心配してるんだ。お前が、ラブマシーン事件についての重要参考人として出頭して収拾作業にアメリカに戻ってから一ヶ月後くらいだったか。寝込んだって連絡寄こしただろ。」
「…その話もしたのかよ。」
そんなに口が軽くてよく自衛官が務まるな。
厭味を言われても理一は笑って流した。
自衛隊の中でも一般にはあまり知られていない特殊な職種ということはおぼろげに知っているが、詳しいところは侘助も知らされていない。
「あの時は姉さん段ボール箱持って来てさ、『あのバカ野菜食べないから』って言ってうちの畑や貰いものの野菜を送ろうとして、俺に送り先聞いてくるから止めたんだ。」
「……」
「母さん譲りで世話好きだからな、弟の俺よりよっぽど可愛がってるんじゃないか。」
「どういう意味だ。」
「お前の方が手がかかるって意味に決まってるだろう。」
侘助の顔を見れば文句ばっかり並べる理香だが、理一もまた彼女から言われたことがある。
『アンタは可愛げがないのよ。頭も要領もいい、で、同僚の告白断ったですって?厭味ったらしい!』
内容は侘助に向けられるものと違う。
理一は食べ物の好き嫌いはしないし充分に自炊もできて体調管理も怠らない。
ついでに人当たりも良いので時々図らずも気を持たせてしまったらしい相手から交際を申し込まれることがあった。
そのどれも受けないので余計に理香は『厭味ったらしい!』というのだ。
そういう彼女だって職場の異性から食事に誘われることぐらいはあるようだが、なんのかんの言って結局実を結ぼうという努力をしていないようだった。
今夜からまた陣内本家に住む一員となった侘助は充分すぎるほどの学歴や仕事のあて、容姿を備えながらも結婚だの交際だのというものに興味がないようで、結局のところ本家筋は独身ばかりとなっている。
「けっ」
野球からサッカーへと移り変わるテレビを眺めながら、ふとビールが欲しくなったが台所まで行くのが面倒だった。
仕方なくテーブルに乗っていた麦茶を理一の使っていたグラスに注ぐ。
「俺はお前と同い年だし兄弟とは少し違う気分でいるけど、姉ちゃんはお前のこと俺と同じに思ってるんだ。“お前”なんて言わずにたまには“理香姉ちゃん”って言ってやれよ。」
「誰が呼ぶかよ。」
唇を尖らせる同い年の叔父をしばらく眺めていた理一が堪え切れなくなって笑いだす。
すると侘助はますます眉間のしわを深くしてアルコール分0パーセントの麦茶を煽った。
「何バカ笑いしてんのよ。」
戻ってきた理香の声に二人揃って振り返る。
「何でもないよ。」
しかしまだ笑いが抜けきらない顔で理一が手を振り、立ち上がり様に侘助の肩をポンポンと二回叩いた。
「さて、俺も風呂に入ってくるかな。」
「上がる時にお湯抜いてきてね。」
理一が出ていくのを見送って侘助はまた特別興味もないテレビに向かった。
去年、十年ぶりに帰国したらテレビが新しくなっていて、ボタンの増えたリモコンの扱いがいまいち分からない。
さわればじきに使い方を覚えるだろうが、これといって見たい番組があるわけでもないのでそうしない。
理香は愛想のない叔父の横で膝を折る。
「ほら、これ、アンタのやつでしょ?」
着なさいと言って差し出されたのは確かに侘助の寝間着だった。
「家を出てった時に服もほとんど全部持ってっちゃったから探したわよ。」
アンタは元からそんなに服を持ってなかったけど。
その寝間着は侘助が家を出たその日に洗濯されていたものだった。
彼が家を空けていた間に彼の部屋の空になった箪笥は別の部屋へ移動され、残された寝間着一組も家族共同の収納の隅にしまわれていた。
それをやったのは理香だ。
「……」
無言で受け取って膝に乗せる。
理香はまだ手が空かないらしくすぐに立ち上がった。
「じゃあ、着替えたらちゃんとそのジャージ洗濯機のところへ置いといてね。その辺に散らかしとくんじゃないわよ。」
「…ありがと」
小声だった。
「姉ちゃん」
でも、テレビの音にかき消されるほどではなく。
「…な」
理香が自分の両腕を抱える。
「何言ってんの、急に…!今更恥ずかしいからやめてよ!」
侘助が黙って顔を向けなかったのでお互いの顔を見ないまま、理香がドタドタと普段より大きな足音を立てながら出ていった後、廊下の向こうから理一の爆笑が聞こえてきた。
一人きりの居間で頭を抱え、渋い息を吐いた後、麦茶をもう一杯飲み干してジャージから寝間着へと着替える。
そしてその脱いだジャージを持って理一が入浴中の脱衣所へ、子供じみた報復をしに向かうのだ。