バックパックの中には二台携帯が入っている。回線契約しているのは一台だけで、残りは一代前に契約していたものだ。あちこち傷だらけで充電器を繋ぐと正常に充電開始しないことさえある。回線契約を解除してあるので通信はできないし、いつの間にか時計も狂ってきたのであてにならない。捨てたって良かった。基本的には電源さえ切っている。でも、一ヶ月に一度は開く。三年前に届いたメールを見るために。
空港のベンチで一ヶ月ぶりに電源を入れ、鮫のイラストが壁紙の待受画面から馴れた手つきでメールフォルダを開いた。保護のかかっているメールがいくつか残っているきりで、目的の一通はすぐに見つかる。他のメールは郵便の送り先等事務的な内容で、家族や旧友の携帯から送られたものだからタイトルが「Re:」で埋まっている。丁寧に「凛へ」と書かれているのはパソコンから送られた一通だけだ。
暗記するほど何度も開いたメールを三秒だけ見てすぐ携帯をしまう。ちょうど搭乗案内のアナウンスが流れだした。
大きな窓ガラスの向こう。日本まで途切れ目のない空を見上げて黒いキャップをかぶり直した。
□ □ □ □
小学校六年ともなれば、男子と女子の間には大きな溝ができている。
女子はこそこそ集まっては誰それが好きだとか告白をしただとかいう話をしているし、男子は女子の目を盗んでシャツの腹から薄っぺらい本を引っ張りだし英雄になる。
「橘!ちょい、ちょっとこっち!」
手招きされて教室の角、掃除用具箱の前の人垣に加わった。教室に残っているのは男子が数人。膝を突き合わせて声を潜め、なにか盛り上がっていた。真琴は委員会で遅くなっている幼馴染の遙を待っていた。
二人の男子が僅かに空けた隙間に首を割りこませると、ずいっと一面写真が載った本を差し出される。開かれた見開きいっぱいに水着姿の女性が一人で寝そべっているが、スイミングクラブの休憩室にあるような水泳雑誌とは違う。やけに布面積が小さいビキニパンツと、紐の解けた胸元。ふっくらした肌色の丸みに乗ったピンクの乳輪にピタッと焦点が合った。途端に大慌てで後ずさって輪を抜ける。
「ええっ、な、何で?!」
「兄貴の隠してたやつ見つけたんだよ」
「先生にバレたら大変だよ!」
「だから静かにしてろって。うるさい女子も帰ったし、先生もしばらく来ないから大丈夫だって」
大丈夫だと再び手招きされても真琴は真っ赤な顔を振ってもう一歩後退した。興味は、ないわけではない。だけど、どうしても恥ずかしくて直視できない。少年漫画誌の巻頭に付いている水着のグラビアだってドキドキするのだ。大人じゃないから仲間たちが見るのは止めたりしないけど、自分にはまだ早い。
そうこうしているうちに委員会を終えた遙が戻ってきた。すかさず掃除用具箱前の人垣が遙を呼び寄せたが、真琴のように狼狽えるわけでもなく、ひと目だけ見て「いい」と静かに断ってしまった。そんな遙をかっこいいと思う。
「七瀬も橘もノリ悪ぃなあ」
「あ、松岡」
いいところに来たと言わんばかりの声で教室の入口を振り向くと、やっぱり委員会帰りの凛が駆け足で入ってくるところだった。凛は少し前に転校してきたばかりだ。人当たりがいいのですっかり馴染んでいるが、急にこんなことに巻き込まれるのは可哀想にも思う。
抱えていたプリントと筆箱を机に置いた凛は呼ばれて愛想よく仲間に加わった。
「うわっ、これ成人向けのやつじゃん」
「兄貴が持っててさ」
「そんなに兄ちゃんと歳離れてるの?」
「ううん、兄貴高一」
「だめじゃん」
みんなで笑いながらページをめくるのを、輪の外から眺めていた。遙はさっさと帰り支度をしているが、真琴は気になってしまって支度の手が進まない。
そこでふと、凛が小さく床を蹴っているのを見つけた。落ち着かない様子で何度も何度も。実は凛もこういうのが苦手なのに無理をしているのだろうか。そういえば、教室に入ってくる時走っていた。何か急いでたんじゃなかったのかな。
そこでピンときた。床を蹴りながら膝を擦り合わせている。凛はトイレに行きたかったんじゃないのか。
でも、一度話に加わってしまったらなかなか抜けられなくなったのだ。気持ちはわかる。ゲームの攻略本を囲んでいたなら素直にトイレと言えただろうけど、こういう、エッチな本を見ている途中では言い出しづらい。
ランドセルに体操着袋をひっかけた遙が横に立った。まだかと目が言っているが、凛を気にして捗っていないのも察している。少し迷って遙を片手で拝んで人垣に向かった。
「あの、松岡くんにちょっと用事があるんだけど」
「え、何?」
「えーっと、その……あ、見せたいものがあって」
「エッチなやつ?」
「ち、ちがっ」
「橘がそんなんもってるわけねーよ」
ドッと笑いが起きる。仕方ないのでちょっと強引に手をとった。
「ごめん、いいからこっち来て」
「なんだよ急に」
ちょっと面倒くさそうにする凛を引っ張って廊下に出た。勿論、見せたいものなんかないけれど。背後で遙がため息を吐いたのがわかる。聞こえたわけじゃないけど、付き合いの長い真琴にはわかるのだ。
手を引いたままトイレの前にきたところで真琴の意図に気づいた凛がやんわり手を振りほどいた。
「……気づいてた?」
「うん、後ろから見てたから、モジモジしてるのわかったよ」
恥ずかしそうに「うわー」と呟く。ついでなので一緒に入って真琴も用を足した。並んで立った小便器に向かって我慢を解放した凛がぶるっと身を震わせて、ホッと息を吐く。なんとなく、その横顔を盗み見てなぜかドキッとした。凛は、田舎町の小学校の中では少し垢抜けて見えた。転校前の小学校だって田舎度合いに大差はないんだけど、名前通り女の子みたいにきれいでさっぱりした顔立ちのせいかもしれない。髪の毛も男子の割りには長かった。当然女子は放って置かなかったけど、中身は結構ひょうきんで、女子に言わせると幼稚なクラスの男子たちとあっさり打ち解けた。人懐っこかったから。
「橘たち、すぐ帰るんなら一緒に行こうよ」
「うん、でもハルはもう帰っちゃったかも」
予想通り、教室にはもう遙の姿はなかった。凛が眉尻を下げて後ろ頭を掻いた。
「あー…ごめん」
「いいよ、別に毎日一緒に帰ってるわけでもないし、約束してたわけでもないから」
二人並んで上履きを履き替えて外に出ると、冷たい風が校舎を撫でるように吹き抜けていった。凛が上着の襟を引っ張りながら「さみぃ」と呟く。
空は分厚い雲に覆われていた。家に帰るまで雨は降らないだろうけど、今日がスイミングクラブの日だったら大変だったろう。
校門を出てすぐに一度立ち止まっった。
「松岡くんは、家、どっち?」
「こっち。えーっと、郵便局の方」
大雑把に指をさした方向は真琴の家から少し離れていたけれど、真逆というわけでもない。少しだけ遠回りを決めて一緒に歩き出した。
真琴達の住む岩鳶町は海辺の町だ。海岸から少しいくとすぐに急な坂が現れて、傾斜を段々に切り開いた土地に何軒も家が建っている。小学校や岩鳶スイミングクラブは海にほど近い、低い場所にあった。風が吹きしくポプラ並木を通り抜けると、海がよく見える交差点に出る。風の強い日だった。波が高いのが交差点からでもわかった。そこまでくると、信号の色も確かめず真琴が足を止める。凛も黙って立ち止まって、濁った色の海を見た。海辺の町に住んでいたら別段珍しくもないちょっとだけ荒れた海。五秒もそうしていただろうか。凛が振り向くと、真琴はすでに信号に向き直っていた。ちょうど車用が黄色に切り替わったところで、歩行者信号は間もなく青に変わった。どのみち車はいなかったけれど。
黙って自宅へ向かう曲がり角を素通りし、凛と並んで歩いた。
「岩鳶小ってさ、宿題多いよね」
「そう?」
「佐野小じゃ全然だったよ」
「学校の方針じゃなくて先生が宿題出すの好きなんだよ」
「俺たちスイミングもあるのにさ」
「習い事のない子も多いよ?」
「まあ………あ、そうだ。今度ウチで宿題やろうよ」
「松岡くんちで?」
頷いてから、凛は少し考えて言葉を足した。
「七瀬も誘ってさ」
真琴が遙に置いて行かれる原因を作ってしまったから、その埋め合わせだ。そういう気を回しているのはなんとなくわかった。家の近い遙とはいつでも帰れるのだから、別に気にしなくていいのに。だけど、凛が直接言ったわけじゃないから真琴も言わなかった。代わりに笑って頷く。
「そうだね。松岡くん、勉強得意だもんね」
「別に普通だよ。それを言うなら七瀬の方がテストの点数良かっただろ?」
「ハルはなんでもできるから」
勉強だけじゃなく、水泳だけでもなく、図工でも家庭科でも人一倍の器用さを発揮している。真琴にとっては我がことのように誇らしいけれど、凛はちょっとだけすねた顔をした。「ずるいよな」と言わんばかりに。コロコロ表情の変わる凛は幼い弟妹みたいだ。表情の少ない遙は大人びてると言われるから、正反対だと思う。
ちょうど凛の家が見える郵便局の角まで来ていた。「ウチあそこ」と指さすと、家に続く路地に踏み出しながら笑顔の凛が大きく手を振った。
「じゃあ、土曜日のスイミング終わったら直接うちに集合な!」
□ □ □ □
小学校卒業後に海外留学した凛と再会したのは高ニの春だった。
桜が散り始める直前で、同じ高校に入学してきた渚に引っ張られるまま廃墟と化したスイミングクラブまで、遙も含め三人でやってきた。ここに凛がいたらな、と思うメンバーだ。ずいぶん前に廃業したこのスイミングクラブに沢山子供が通っていた頃、四人はチームだった。
四人がメドレーリレーで優勝した思い出はトロフィーの形で、ここの敷地に文字通り埋まっていた。
勝ち取ったトロフィーよりずっと輝いていたあの日から色々あった。誰より自由で速く泳いだ遙は中学二年になる前に水泳部を辞めた。渚に誘われても競泳は辞めたと首を振るくせに、プールの代わりに家の狭い浴槽で水風呂に浸かっているのは不毛に見えた。家の中だと言っても風呂場に暖房があるわけでもない。春先の寒い風呂でご丁寧に水着を着込んで膝を曲げて、水に浸かっていた。奇行もいいところだが、残念ながら遙らしいと思う。
スイミングクラブ跡地はほんの数年前まで人が通っていたとは思えないほど堂に入った廃墟ぶりだった。人が出入りしなくなった場所はあっという間に荒れていく。こまめに手入れされないのは勿論、必要とされなくなった建物は実際の老朽ぶり以上に色褪せていく。一人暮らしだった真琴の曾祖母が亡くなった際に空き家となった家がある。親戚の中で一番近いという理由で、真琴の母が定期的に風を通し、最低限の維持を続けているが、中の人がいなくなっただけで家の魂まで抜けたように見えた。
そんな建物自体が幽霊みたいなスイミングクラブに、凛がいた。後から聞いた話では奇跡のような偶然じゃなくて、同じ高校の新入生である凛の妹が立ち聞きした廃墟侵入計画を凛に伝えたからだったのだけれど、暗闇から現れたのが凛だと分かった瞬間、廃墟への恐怖がパッと吹き飛んだ。取り壊し直前の思い出の場所で四人が揃ったことが、凛に会えたことが運命のようで。
凛はオリンピック選手になることを夢見て水泳留学を果たした。気恥ずかしそうにする凛にメールをすると約束して、買いたての携帯で使うメールアドレスを聞いた。中学に進学したばかりの頃は三人とも携帯なんか持っていなかったので、代表して真琴が親のパソコンからメールを送っていた。メールをする相手なんか他にいなかったから、ゆっくりとした指運びでタイトルに「凛へ」と打ち込んだ。忙しいのか、返事はすぐに来なくなったけど、遙が水泳部を辞めた中一の冬、思い出してメールを打った。
『凛へ』
大した内容じゃない。遙が水泳部を辞めたことも結局書けなかった。海外で頑張っている凛を心配させるようなことは書いちゃいけないと思って。でも、遙の分まで凛には頑張って欲しいような気持ちがあって、励ます言葉を繰り返し書いた。
『凛の泳ぐ姿がまた見たいです。』
久しぶりに会う凛は記憶にある人懐っこさやひょうきんさを取り払って、その分ギラギラした目をしていた。真琴や渚が透明人間になったみたいに遙だけ見ていた。
いつか凛の夢が叶ってオリンピックの日本代表になって有名人になったら、小学校のほんの一時だけ過ごした田舎の仲間のことなんか相手にしていられなくなるかもしれない。それでも、寂しくても、テレビの前で応援出来たらそれで満足だとも思った。だけど、目の前にいるのに視界から締め出されるのは堪えた。小学校の頃のコロコロ笑う凛じゃなくても、ずいぶん大人びて印象が鋭くなっても、凛はやっぱり女の子みたいな名前に負けないできれいだった。
凛との再会を経て、遙は競泳に戻ってきた。遙はマイペースで自由に見えるけど、凛は簡単に遙のペースを乱していく。
日本を離れていた四年間、時間は流れているのに連中は何も変わらなかった。どうせ遙と真琴はセットだろうし、渚はうるさいままだろうと思っていたし、実際そのとおりだった。四人で一つのチームだった時と変わらず、そこには小学生の頃の自分のスペースがちゃんとあるのに、四年間で形の変わってしまった自分はすっぽり収まることが出来ない。三人が変わらない分、自分一人の歪さが際立った。懐かしい落ち着く空気にイライラする。
一人で掘り起こした思い出のトロフィーを三人の前に投げ捨てて春の夜道を足早に歩いた。ポケットには電源の入っていない古い携帯が入っている。その中の一通のメールが頭の中で勝手に開かれる。
『凛へ』
それを受け取った時、すでに自分は仲間が残していてくれる居場所に収まれないぐらい歪み始めていた。だけど、打っている顔が目に浮かぶような文面を読んで、目頭がカッと熱くなって、深く息を吐いたら少しだけマシになる気がした。それでも気持ちがどこかへ向かうと存在を忘れたりする。そして再び思い出して読みたくなった時には必ず何か後悔を増やしている。
遙は競泳を離れていた。それなのに変わらない。真琴と渚に囲まれて水泳を捨てきれないでいる。腹の奥の靄が鉛みたいに硬く重くなって、ポケットの中の携帯を握りしめた。足の動きが早くなる。息苦しいと思って、気がついたら走っていた。どこをどうしたか編入したばかりの学園の寮にたどり着いてこっそり自室へ戻り、キャップを脱ぐと、青い闇の中では白く見える桜の花びらが一枚だけ張り付いていた。どこに咲いていたのか、少しも憶えていなかった。代わりに小学校のプールの側に生えている桜が浮かんだ。遙たちと一緒に通った小学校だ。桜の足元に花壇を作って、並べたレンガにメッセージを書いた。
『For The Team』
六年生の冬に転校して卒業までの僅かな時間しか過ごさなかったから、あの桜が散るところはおろか咲いているところも見たことはない。見たことがないから、頭の中の桜も寒々とした空に枝を伸ばすばかりだった。
□ □ □ □
卒業まであと二ヶ月ほどだというのに、どうしてこんなに宿題が出るのだろう。
ぼやく凛を無視して遙は作文用紙を淡々と埋めていった。宿題と言っても、この週末に取り組むのは卒業文集用の作文だのクラス新聞の原稿だのだ。計算や漢字のプリントではない。言葉を駆使することはどちらかというと不得手らしい遙は微妙に難しい顔をして二百字詰め原稿用紙を睨みつけていたが、一度鉛筆を取ったら後はゆっくり休みなく手を動かし続けた。
凛の家は線香のいい匂いがした。襖で隔てられた仏間の隣の居間で、凛と真琴と遙の三人、それぞれが宿題の用紙を広げた。最初はみんな静かに進めていたけど、一番に凛がやる気を失って、完成前の原稿用紙をまとめて端に寄せるとテレビのリモコンを取った。咎める真琴を宥めるようにひらりと手を振る。
「宿題まだ終わってないよ」
「もうじきみんな終わるだろ?そろそろ休憩のタイミングだよ」
土曜の午後。子供の好きそうな番組は見当たらず、カチカチ切り替えていって比較的興味の持てそうな番組で手を止めた。旅番組だった。
「なんで冬に海なんだよ」
画面の中ではタレントが薄着で浜辺を歩いている。再放送らしかった。収録したのはまだ暖かい季節のようだったけれど、天候は生憎の曇り空。それを惜しむナレーションを吹き飛ばすようにはしゃいだグラビアアイドルがホットパンツからスラリと伸びた膝を曲げて白い砂に手のひらを押し当てた。カメラが切り替わって長いつけ爪が指先からはみ出した手のひらがアップになる。そこにはとげとげした星形の細かな粒がくっついていた。
「あ、星の砂だ!」
声を上げたのは真琴だった。じっと作文に向き合っていた遙も顔を上げる。
『ビーチを歩けば自分でもこうして星の砂を見つけることが出来ます』
ナレーションに続いてキラキラした光のなかで撮影された沢山の星の砂が映る。それを真琴は食い入るように見つめていた。
「いいなあ…」
「橘、この海行きたいの?」
「うん」
頷いた真琴を遙が黙って気遣わしげに見つめれば真琴はそれに答えるように穏やかに視線を返した。二人が物心つく前から一緒だったことは聞いていたけど、本当にこれで意思の疎通ができているのだろうか。凛はこっそり訝しんでいたけれど、口数の少ない遙を真琴が代弁するのを遙が訂正したことはない。そんな二人を渚は当たり前のものとして扱っている。幼馴染というのはこんなものなのだろうか。
スイミングクラブではいつも渚がくっついてくるし、クラスでは他にも沢山友達がいるけれど、こうして三人だけになると二人の特別さを改めて感じた。知り合って間もない自分が思うのは変なのかもしれないけれど、一人だけ蚊帳の外のようで、ちょっとだけ、面白くない。
肘をついて二人から視線を外し、民宿の部屋を紹介し始めたテレビを眺めた。そんな凛を気にすることなく真琴は話し続ける。
「修学旅行で水族館に行ったことがあるんだけどね、おみやげ屋さんで星の砂を買うつもりだったんだけど、女子がみんなでお揃いで買うって盛り上がっちゃって」
「ああ、女子ってああいうの好きだよな」
「男子は動く人形のついたボールペンとか文房具を買ってる子が多くてね、なんだか買いづらくって、迷ってる間に時間がなくなっちゃって、結局ハルとお揃いでイルカとシャチの人形を買ったんだよ。それも気に入ってるんだけど…」
すでに宿題に向かい直した遙が黙って頷く。お揃いのお土産とはいかにも仲が良さそうだ。凛にだって転校前の小学校に、なんとなくお互いの考えがわかるほど親しい友達がいた。だけどこんな風じゃない。お土産だってそれぞれ好きなものを買ったし、お互いのことがわかりすぎて窮屈なこともあった。顔にも口にも出していないことまでわかってしまう相手が四六時中そばに居ても平然としている遙が理解できない。当たり前に遙のフォローをして回る真琴のこともよく分からなかった。仲良くしたいと思うのに、なんだかちょっと二人が遠い。
まあ、自分も二人に何でも曝け出して近づこうとはしていないのだけれど。
「ああ、これこれ」
真琴の声で顔を上げた。顔はテレビに向かっていたのに、知らず知らずのうちに画面から意識が離れていた。
「瓶に入ってるやつが欲しかったんだ」
画面には小瓶の中に緑やピンクの派手な色の砂に少しだけ星の砂や貝殻が入っている土産物が映っている。そこでふと思い出した。
「あ、これ持ってるかも」
パッと振り向いた真琴が一瞬で目の輝きを収めて微笑んだ。
「そうなの?羨ましいな」
強請るわけじゃないとわかる落ち着いた言い方だった。決して人のものを欲しがって困らせたりしない。真琴は控えめで落ち着いた子供だった。だけど凛は辛うじて持っていた鉛筆を放り出して居間を飛び出した。
「ちょっと待ってて!」
自室の机の引き出しの中。少し前に引っ越したから、大体のモノの位置はちゃんと把握している。貰ってから少しして眺めなくなったから、ビー玉や動物の形のクリップや、細かなオモチャと一緒に引き出しに放り込んであるはずだ。学習机の右側に四段並んだ引き出しを順に引いて三段目で発見した。赤い砂と星の砂を小瓶に詰め込んだキーホルダー。
「ほら、これだろ?」
手のひらに乗せて差し出した。真琴は手を出さずに覗きこんで、ぽつりと「きれいだなあ」と呟いた。
「やるよ」
「え?」
「俺なんか持ってるのも忘れてたぐらいだから、橘にやる」
「でも……」
上半身ごと退いて凛と星の砂を交互に見て、やっぱり首を振った。それでも凛の方があげたかったのだ。一歩も引かなかった。
「松岡くんが貰ったものでしょ?貰えないよ」
「いいんだってば。旅行好きの親戚のおばちゃんがお土産でくれたんだけどさ、今まで机の中のガラクタと一緒にしてあったんだ。欲しいヤツが持ってたほうがコイツも幸せってもんだろ?」
胸の前で拒否の形に広げられた手に無理やり押し付けた。戸惑いながらも慎重に握りこんで、手首を返して自分の手の中にやってきた小瓶を見つめてほうっと息を吐いた。成り行きを静観している遙を振り返る。これは凛との間の話なのに、遙に「いいのかな?」と尋ねているみたいだ。持ち主がいいって言ってるのに。
たっぷり迷ってから小瓶の入った拳を胸に引き寄せた。
「ありがとう。大事にするね」
いつも浮かべている優しげな微笑みじゃなくて、ちゃんと嬉しそうな表情だった。拗ねた心がスッと撫で整えられて気分が良かった。
□ □ □ □
実家に用事で戻ったら、あれよあれよという間に夕飯が用意されて食べるはめになった。寮でも食事が用意されるから少しだけにしたわと言っておやつと夕飯の間の時刻に、言葉通り少しずつ、七品も出てきた。一品ずつが控えめに盛られていても品数でカバーされて腹が満足してしまった。留学から戻ってすぐに入寮したから一時帰宅のたびに引き止められる。なんだかんだで学校に提出する必要書類に判子をもらったのは日が落ちる頃だった。
暗い道を駅に向かう。昔の通学路を歩くのは落ち着かないけど、夜は昼間よりましだった。別の町みたいに見えるから。
少し歩くと風が強くなった。海に続くまっすぐな道を吹き抜けてくるのだ。少し長めの髪が流される。緩やかな下り坂の向こうはすぐに真っ暗な海が広がっている。駅に行くには少しだけ遠回りになる。海岸線沿いの道には路線バスが通っているが、田舎なので日が落ちればすぐに終わる。もう最終便が残るばかりだ。
電車の時間まではまだ余裕があった。徐々に強くなる風の音に吸い寄せられるように海の方へ進んだ。
実家には仏壇の他にもあちこちに父の写真がある。アルバムも日常的に取れる場所に配置されていて、幼い頃はよく母が凛と妹の江を膝に抱いてめくってくれた。父は凛が物心ついて間もなく海難事故で文字通り帰らぬ人となった。漁師だった。
死んだ人の魂がどこに居るのか考えたことがある。墓か、自宅の仏壇か。母は「いつでも凛と江のそばにいる」と言うけど、江と離れている間はどちらかのそばを離れるのか。まさか分裂するのだろうか。答えを確かめる方法はないので、挨拶は仏壇にする。決意を打ち明ける時は墓まで足を運ぶ。それから、漠然とした苦しさに喘ぐときは海に来た。三キロ沖に父が沈む海に。
天気が良ければ漁船もいたかもしれないが、今夜はベッタリとした黒い水が不気味に揺れていた。空に月もない。頼りない街灯の光を頼りに歩いた。ごうごう鳴る風を横っ面に受けていると責められている気がした。誰かに責められたいのだろうか。そうだ、とは思わなかったけれど、非難される理由は幾つでも思い当たった。
数日前にあった大会の予選で遙と泳いだ。そう久しぶりじゃない。帰国して再会してから一度勝負している。きちんとした場所では久しぶりだけれど。
結果は凛の勝ち。三年前の冬に負けて以来、ずっと勝ちたかった。公式の場で揺るぎない結果を出して、過去を清算したのだ。勝ったと分かった瞬間喜びが体を駆け巡った。自分の夢の前に立ちはだかる壁のような遙との決別。歓喜する凛と正反対に、遙は表情を揺らしていた。眉間にきつくしわ寄せ悔しがるわけでもなく、戸惑うような、悲しげな顔だった。三年前に遙に負けた自分とは違った。
でも、遙が傷ついたのはわかった。表情の変化に乏しい遙のあの日の顔が頭から離れない。
無意識にパーカーのポケットの中の携帯を握った。今日も電源は入っていない。これを起動するときは大抵ささくれだった心をなんとかしたい時だ。だけど、今日はダメだ。遙を傷つけたから。遙が一番大事の真琴がくれた優しい言葉は、こんな自分に向けられたものじゃない。最高のチームだった頃の自分に送られた言葉だ。自分宛のメールさえ脇をすり抜けて過去に消えてしまう。
そうなると、他に何にすがればいいか分からなかった。留学中の情けない姿は誰にも打ち明けられなかった。実家では家族がうるさくて、父の墓はふらりと寄れる場所にない。だから海へ来た。母なる海なんて穏やかそうな言葉から程遠く獰猛な海は今の気分によく合った。優しくされたくない。
海岸沿いの家々にはまばらに灯りが灯っていたけど歩く人も車の通りもなかった。風だけが頬を叩いて、時々背中を押して、行く手を阻んだ。潮の香りに雨の匂いが混じる。空を見上げたけれど、真っ暗で雲の具合もよくわからない。
ひたすら風の音が耳を包み込んでいた時、微かに別の音が紛れ込んで、反射的に振り向いた。歩いてきた道に光が落ちている。自転車だった。
「凛?!」
近づいた光に目を細めた瞬間に叫ぶように名前を呼ばれた。ブレーキ音と共にライトが消える。再び暗くなった視界で瞬きすると、そこに真琴がいた。合羽を着て自転車に跨っているのに傘を一本持っていた。凛はバツが悪くて顔を逸らした。大会で会ったときのやりとりは他校に所属するライバル同士という立場を差し引いてもお互いいい思い出じゃないはずだ。小学校の頃から争い事の苦手そうな真琴に厳しい物言いをされたのはほとんど初めてだった。
そんな凛の気持ちも知らずに真琴は何事もなかったかのような態度で横まで来た。真琴のこういうところが信じられない。
「何でいるの?!」
「……実家に寄った帰りだよ」
「バス?電車?」
「電車」
「じゃあ駅に向かってたのか。一緒だ」
持っていた傘をひょいっと上げる。
「ちょうど俺も駅までハルを迎えに行くところだったんだ」
当たり前のように飛び出てくる名前に舌打ちした。いつでもそうだ。ハル、ハル、ハル。真琴の行動には大抵遙が関係している。
「何でお前がわざわざ行くんだよ」
「凛、ハルが今一人暮らししてるのは知ってる?ハルのお父さんの単身赴任先に両親揃って行っちゃってて、今日はお母さんが隣の市まで知り合いの結婚式に来るから、そのついでに食事するんだってハル一人で出かけてるんだ。それで、天気が怪しくなってきたんで携帯に連絡したら、ハルが傘持って出なかったって言うからさ」
「そうかよ」
このまま駅に向かったら遙にも鉢合わせるわけだ。最悪だ。交通手段をバスに変更したいところだけれど、学園がある鮫柄まで行くバスはとっくに終わっている。鮫柄まではバスの便が悪いので、大抵電車移動なのだ。
「ちょうどいいから一緒に行こうか」
「断る」
「だって、どのみち同じ道なんだから、結局一緒に歩くことになるよ」
「お前は自転車で先に行けばいいだろ」
「一緒に歩くよ」
言い切った真琴が自転車を押してゆっくり歩き出した。もう一度舌打ちして駅に向かって歩き始める。一緒に向かうわけじゃなくても結果的にそうなってしまうのだから仕方ない。さっきまではすぐそばに気配があった海が、真琴と自転車一台を挟んだ途端に遠くなった。身体の大きい真琴が風よけになるのか、頬を打つような風も少し和らいだ気がする。そんなこと望んでいなかったのに。
「電車、風で停まってないかなあ」
「待ってりゃいつかは動くだろ」
「寮に戻るの遅くなっても大丈夫なの?」
「別に……なんとでもなる」
母と妹の押しに負けて一応外泊届けを出してある。とはいえなるべく日帰りするつもりでいたから、念のため食事は頼んであったが、この調子では時間に間に合わないだろう。
「凛も傘持ってないね。寮に着くまでもつかな?」
どうでもいいことを言いながら真琴が真っ暗な空を見上げた途端にポツリときた。大粒の雨が鼻の頭を濡らす。一度降りだしたらあっという間だった。
「走るぞ!」
「凛、こっち!」
駅方向に向かって駆け出そうとした凛の腕を真琴が掴んで引いた。器用に自転車を押しながら駆け足で向かったのはバスの待合所だった。簡素な屋根と壁がある小屋だ。利用者もろくにいないのに、ご丁寧に薄暗い蛍光灯が灯っていた。自転車はさすがに入らないので小屋の横につけ、二人で屋根の下に滑り込んだ頃には凛はびしょ濡れだった。頭の水を払っている時に真琴が合羽を着ていて一緒に走る必要がなかったことに気づいた。
「……行けよ」
「え?」
「お前は雨宿りする必要ないだろうが」
「あ、凛、駅までこの傘差してく?でもこの風だとかえって危ないかな」
「借りねえよ」
「でも、すぐには止みそうにないよ」
「時間見てこのまま駅まで走る」
「体冷やすよ」
「お前には関係ねぇ」
「…………」
言ってから少し気になって隣の様子を伺った。特に悲しむような素振りはなかった。雨合羽を脱いで軽く振ると、丸めてベンチの端に置いた。そのままストンと座ってしまう。
「おい」
「凛が行くまでいるよ」
「……ハルのこと迎えに行くんじゃなかったのかよ」
「あ、そうだった!」
本当に忘れていたようで、慌ててポケットの携帯を探った。引っ張りだした拍子に一緒に何か落ちた。
「メールきてる…………ハル、タクシーで家の近くまで帰るから来るなって。もう……連絡遅いよ……」
ハァ、と深いため息をつく真琴の足元に落ちた何かを拾い上げた。鍵だった。恐らく家の。銀色の鍵にキーホルダーが付いている。赤い砂と星形の粒が詰まった小瓶のキーホルダー。凛はそれを思い出すまでに少しだけ時間がかかった。これを真琴にあげたっきり、すぐに忘れてしまったから。覚えている限りでは真琴がカバンなどにつけていたこともなかったから。
「真琴、これ」
「え?………………あ!」
焦って手を伸ばす真琴から鍵を逃した。奪い返したかったのは鍵というより星の砂か。凛が返す気がないと見ると、照れくさそうにしながら手を引っ込めた。
「そうだよ、凛がくれたやつだよ」
「くれた、って小学校の時じゃねえか。まだこんなガキくせぇもの持ってたのかよ」
「そりゃ持ってるよ。凛に貰ったんだもん」
素直な物言いに咄嗟に言葉を失った。真琴は友達は誰でも大事にするだろうし、それこそ遙とお揃いで買ったというお土産だって当たり前に飾ってるだろう。それでも、四年も疎遠にして再会してからも好かれるようなことは何一つしなかった自分にもこうなのだ。凛がどう思っていようと、真琴は未だに大事な友達の中に凛を数え上げている。それは今の歪な凛じゃなくて、今はいない小学生の頃の素直な凛かもしれないけれど。
「くだらねぇこと言ってんなよ」
キーホルダーのついた鍵を返すとあからさまに安堵した表情になった。大事そうにまたポケットに戻す。
何だか調子が狂う。頭を振ると、まだパタパタと水滴が落ちた。服もずっしり水気を含んでいる。タンクトップシャツの上に着た薄手のパーカーなんか絞れそうだ。実際脱いで雑巾絞りしたらポタポタ水が落ちてきた。絞ったぐらいで水気がなくなるわけでもなかったからうんざりする。シャツはベタベタ張りつくし、同じびしょ濡れになるのでもプールに飛び込むのとはわけが違った。
そういえば、真琴たちが鮫柄学園のプールに不法侵入したことがあったけれど、着衣のままで飛び込んでたっけ。タオルで拭いたとはいえ湿った服のままよく帰ったものだ。
思い出しながらシャツの襟ぐりを引っ張って肌との間に隙間を作っていると、バサリとビニールの雨合羽が被せられた。勿論真琴だ。
「なんだよ」
「や、そんな格好じゃ寒いかなって」
濡れたパーカーを着ているよりマシだと思う。風よけのあるここでは合羽なんか借りるほど寒くもない。一応まだ夏なのだ。脱いで突き返そうとするのを頑なに拒まれ、二度かけ直された。変なところで頑固で困る。
「ほら、まだ大会あるんだし、風邪引いたら大変だろ。俺は濡れてないから羽織っててよ」
そしてベンチの端に腰掛けた。凛も反対端に座ったのでやけに距離が出来た。みるみるうちに体温とシャツの水気で合羽の内側が蒸れていくのが不快だったけど、いつの間にか真琴がこちらを見なくなっていることの方が気になった。さっきまでの馴れ馴れしさは気を遣って“頑張った”ってことだろうか。その予想は凛自身に突き刺さった。「もういい」と言って飛び出したいが、肌に絡まっている合羽をもたもた脱がなければならないし、道を挟んだ目の前の海は風音に混じって唸りを上げている。
真琴と歩いた時に一度遠のいた暗い海が、またじわじわ迫っていた。会いたかった暗くて重くて静かな海じゃない。まさに、漁船に牙を向いた仇の海。
大丈夫だ。音はすごくてもそう簡単に水は来ない。そういう場所だからいつ建てられたのかもわからないボロ小屋がこうして残っているのだ。民家だってすぐそこにある。
意識的に細く長く息を吐いて、知らず知らずのうちに肩に入った力を抜いた凛はこっそり真琴の様子をうかがって、喉仏がゆっくり上下するのを見た。驚いた。しばらく前に海で合宿なんかしたばかりのはずだ。まだこんなに苦手にしてるんじゃないか。仲間のために我慢して承諾したっていうのか。
イライラして小さく床を蹴ったが気付かれなかった。じっと道の向こうの闇におぼろげに見える飛沫を見ている。叩きつけるような雨と遠くの飛沫が街灯や待合所の灯りを受けて辛うじてほの白い模様を闇の中に描いていた。死神のマントの内側はこんな風かもしれない。
「チッ」
ベンチを立つとさすがに真琴も振り向いた。まさかこの雨の中出るのではないかと思ったようだが、距離を詰めてすぐ隣に座り直したら、それはそれで狼狽えた。
「こえぇんだろ、海」
膝の上で落ち着かない様子で大きな手が動く。それが悪いことみたいに真琴はぎゅっと拳を作った。
「凛……」
「ちょっと弱まったらすぐ出るからな」
「…………ありがとう」
遙ならどうしていただろう。真琴は怖がりだから、小さな子供の頃みたいに腕にすがりついていたかもしれない。そういうところが変わっていないのは、再会した廃墟のスイミングクラブで見た。きっと遙はすがってくる真琴を黙って背中に庇ってやる。それを凛は出来ない。遙みたいには頼ってもらえないからだ。
風雨はなかなか収まらなかった。互いの気まずさで余計に時間が長く感じるが、それを差し引いても落ち着かない様子の真琴をどうしてやればいいのかわからなかった。
(ハルならこういうとき――――)
結局自分だって遙のことばかり思い出していることに気づいて腹が立った。
「お前、そんなんでよく海で合宿できたな」
自分への苛立ちの八つ当たりだったけれど、そんなことには気づかない様子で真琴は困ったように笑う。
「うん、自分でもちょっとそう思うよ。昔よりはマシになったみたい。今日みたいなのはさすがに怖いけど。その点、凛はすごいね」
返事はしても視線を寄越さない真琴から真っ暗な海へと目をやる。小学校の帰り道、真琴と二人で交差点から見た濁った海と、父の弔いの最中に見た不気味な海面を思い出した。凛が海難事故の弔い行列の中で妹の手を引いていた姿を、当時の真琴と遙は見たという。それがお互いだと知ったのは小学校最後の大会の時だったけれど。
「…………俺は、……俺も、ガキの頃は怖かった」
ポツポツと語りだした凛に、真琴が遠慮がちに顔を向ける。そして凛が睨みつけている闇の向こう側を見た。ゴウゴウという風の唸り声が収まった分、波が打ち付ける音が大きくなる。
「怖くて逃げたくて、でも毎日海はすぐ近くにある。逃げるったって行く場所もない。一人で逃げたって仕方ない。家も、家族も、学校や友達も、親父の墓もみんな海の側にあったから、どうしようもない」
「――――」
「それに、あそこには親父がいる」
真琴は開きかけた口を閉じた。静かな声だったのに、よく耳に残った。
「…………凛はお父さんのこと、あんまり憶えてないって言ってたけど、すごく意識してるよね」
肉親を喪ったのだから当たり前といえば当たり前なのかもしれない。それでも妹の江は父親の話をすることがない。凛は出会った頃からそうだった。小学校卒業間際にわざわざ岩鳶に来たのも、単純に家の事情というだけではなくて、凛自身が父親の地元から足跡をたどりたいという希望を持っていたからなのかもしれなかった。
「自分の記憶はあんまりないけど、親父の写真はしょっちゅう見せられてたし、思い出話も聞かされてたからな。俺はともかく、江は本当に小さかったし、お袋やじいちゃんばあちゃんも気の毒だって思ったんだろうな。だから、親父の大人の時の姿と同じぐらい、もっと若い頃の姿も知ってる。親父に関係する思い出は本人がいなくなってからの方が多いぐらいだ」
母親や祖父母だけじゃなく、生き残っている父の漁師仲間にも、子供の頃の水泳の仲間にも会ったことがある。法事のたびに顔を合わせるのだ。みんな、凛が父と同じように競泳をやるのを喜んで応援してくれる。小さな頃は父の代わりにオリンピックでメダルを取るのだと堂々と宣言していた。それを思い出してこっそり唇を噛んだ。
「そっか。よく亡くなった人のことを心の中で生きてるとかって言うけど、凛のお父さんは本当にそうなんだね」
月並みな感想を述べる真琴が微笑んでいるのを想像して横目で盗み見た。予想は外れた。ぼんやりして自分の内側を見ている。
真琴は凛の父と同じ海難事故で、親しかったおじいさんを亡くしている。親戚じゃなかった。ただ、偶然会えば優しく話をして、時々何かくれた。おじいさんが亡くなったのを知ったのも、弔いの行列を見た後だった。事故の後、子供たちは子供だけで一部の浜に近づかないよう言われた。死体が打ち上げられたのだ。地形の関係でどこでも打ち上がると言うわけではなかったけど、漠然とした恐怖で親と海沿いを行くのも怖かった。
怖いという気持ちはあるのに、おじいさんの死はよくわからなかった。いつも約束していたわけじゃないから、今までの偶然がさっぱりなくなっただけのようでもあった。目の前に冷えきった死体があるわけでもない。遺影なら弔い行列の中にあったかもしれないけど、白装束の集団が怖くて、それに気づくほどよく見てはいない。親戚じゃないから家も墓の場所も知らないし、当然仏壇や悲しむ家族も見ていない。おじいさんは急に真琴の生活から消えた。
死を意識したのはそれより後だ。隣の村に住んでいる真琴の曾祖母が亡くなった。随分前から余命宣告されていて、高齢だったのでみんな覚悟ができていた。真琴が初めて参加する葬式もあまり湿っぽいものではなかった。故人の孫である母親も「いい式だった」「きれいな顔だった」と言っていたけど、曾祖母の家の座敷に作られた祭壇の前に横たわった曾祖母の顔の布がめくられたとき、どうしようもない恐怖で泣きながら家を飛び出した。海難事故に遭ったのはおじいさんで、今回はおばあちゃんだった。それでも生きている時と明らかになにか違う姿、真っ白の布団に真っ白の着物で、床の間にパッとしない掛け軸しかなかった座敷に不釣合いな祭壇の前で、黙って眠っている姿がおじいさんと重なった。おじいさんが眠っている姿を見たことがないのに、やけにリアルに想像した。頭を撫でる温かな手が冷たくなって、布団に寝かされたまま足元に満ちてきた海水に沈んでいく。早く起きないと溺れてしまうと思うのに、呼んでも呼んでもおじいさんは目を覚まさない。水の冷たさに飛び起きないし、顔まで沈んでも指一本動かない。その晩、真琴はおねしょをした。おむつが外れてからずっと失敗したことがなかったのに。
あれから真琴の中のおじいさんはずっと死体のままだった。凛の父みたいに、誰かが生前のことを教えてはくれない。おじいさんの家族とは知り合いでも何でもなかったからだ。死を象徴して完全に動きを止めた。
「おい、大丈夫か。顔色悪いぞ」
すぐ隣で身を乗り出すようにして顔を覗きこまれて、真琴が気づいた時にはかなり近くに凛のきれいな顔があった。反射的に仰け反って、小屋の木板とトタンで出来た壁に後頭部を打ち付けて派手な音がした。
「本当に大丈夫かよ……」
「だ、大丈―――――」
言葉に被さるタイミングで闇の中に光が滑り込み、バスが音を立てて姿を表した。ややあってから扉が開く。
「…………動いてたんだ」
正確な時刻は確かめていないけれど、多分ずいぶん遅延している。小屋に退避はしたが、そもそも乗るつもりはなかったから確かめなかった。呆気にとられていると、運転手が叫ぶように言った。
「乗りますか?乗らないんですか?」
この状況だ。小屋の入り口につけるように開いているとはいえ、雨風が吹き込む扉を早く閉めたいんだろう。
「乗ります」
乗りません、と答えようとしていた真琴は声を上げた凛を振り返った。立ち上がった凛が手をつかむ。
「行くぞ」
ぐいぐい引っ張られて、あれよあれよという間に二人がけの窓際に押し込まれた。他に乗客はいなかったけれど、隣に凛が座って窮屈そうに足を組んだ。
「えっ、え?何で?」
「あの場所を離れるチャンスだったろ」
「自転車とか……」
「数日なくたっていいだろうが。今度取りに来い」
「俺、財布持ってなくて……」
「俺が出す」
「このバス、家の方にも駅の方にも行かないんだけど」
「繁華街の方には行くだろ。とにかく海から離れて、雨宿りできる場所で家の迎えかタクシー呼べ」
言い放った凛はすぐに反対側の窓に向いてしまった。濡れた髪束をかけた耳や首筋がよく見える。いちいち強い調子で言い切るわりに、自信がなさそうだった。自分を守ろうとしてくれたんだってことはわかる。さっき、心細そうな顔をしたから。膝の上に置いた手が動いてしまいそうでぎゅっと握った。感謝だけで思考を止めなくちゃいけない。可愛いなんて失礼だし、思うままに動いたらきっと嫌われる。そう思うのに、自然な流れでくっついた膝や肘に意識を集中していた。触れ合わないようどけることだって出来る。だけど、ほんの少しの面積で、濡れた布越しでも、バスがいつまでも到着しなければいいと思うぐらい惜しい。黙ってしまった凛の横顔を盗み見ながら心の中でずっと謝っていた。
(ごめん、本当にごめん。だけど俺は―――――)
□ □ □ □
終わりの会で先生が「あ、それから」と言った。
「少し暖かくなってきましたが、最近不審な車から声をかけられた児童がいるそうです。知らない人の車には絶対に乗らないようにしましょう」
教室の中がざわざわひそひそ、『不審者』をキーワードにざわめいた。
「不審者だって。ホントにいるの?」
いるよ。
「ウソー」
本当だよ。
ざわめくクラスメイトに心の中で答えた。だって、先生の言う児童というのは俺だから。
こういうのは初めてじゃなかった。まさか転校先でも、という気持ちはあったが、数年前から何度か遭遇しているから慌てたりしなかった。
下校途中にスッと横に停まった車の助手席のドアが開いて、運転席に乗ったオジサンが胡散臭い笑顔で言うのだ。
「ちょっと道を聞きたいんだけど」
相手はダサい私服の人もいればスーツの人もいた。でも必ず一人で背の低い車に乗っている。言葉で説明してもわからないふりをして、横に乗って欲しいと言う。道がわかったら家まで送るから。お礼をするから。見え透いた言葉で誘ってくる。イマドキの小学生がそんなのにひっかかるわけないのに。
凛はすぐ横に知らない車が停まると、さり気なく離れる。できれば助手席のドアが全開になっても触れないぐらいがいい。わざわざ幅が狭い道で少し追い越して停まり、行く手を阻むようにドアを開けるヤツは本気っぽくてたくさん警戒する。近くの民家に人はいるか。防犯ブザーに指はかかっているか。時には防犯ブザーを携帯に見立てて耳に当てる。
「ごめんなさい、親から電話がきたから待って下さい」
子供用の小さな携帯電話が売っていて、凛の持っている少し大きめの防犯ブザーは手で隠すように持てばハッタリが効いた。相手も後ろめたい気持ちがあるから、親や先生を持ち出すと冷静さを失って嘘に気づかない。
「じゃあいいよ」
とすぐに去っていく。そういうのには慣れていた。人よりは声をかけられるタイプだ。
それが男に好かれやすい容姿のせいだと自覚したのは留学してからだった。
小学校卒業と同時に渡ったオーストラリアでは挫折の連続だった。
日本では明るくてよく喋って愛想がよくて、新しく習い事をはじめても、転校しても、すぐに友達が出来た。ところが、当たり前に英語が飛び交う海外ではそうもいかなかった。当然言葉の勉強はしてきたけれど、地元で日常的にに英語を喋る人はいない。学校の先生もネイティブとは程遠くて、必死に覚えた英語も本場の発音で早口に喋られるとさっぱり聞き取れない。わからないと緊張して、余計に何がなんだかわからなくなる。段々と自分から話しかけることが減った。自分抜きで笑っているグループがあると気になるようになった。他の子供はみんな英語が達者だったから、あからさまに浮いているのは自分だけだった。
周囲に溶け込めなくても実力を見せればそのうち認められる。ゴーグルのゴムを引いて後頭部でパチンと鳴らし、気合を入れてスタートを切った。結果は散々だった。タイム自体はそう悪くなかったけれど、周りは同じ小学校の子供じゃなく、水泳をやるために世界のあちこちから集まってきたスピード自慢の子供たちだ。日本の田舎のスイミングクラブでどれだけ早かろうと、ここでは凛は凡才だった。当然、一目置かれるような成績は出せなかった。
あっと言う間に物静かな子供になった凛は冬の帰省を誰にも知らせなかった。会って何を言えばいい。明るい話は一つもない。愚痴や弱音を積み上げて、自分がただの調子に乗った子供だったことを打ち明けることは出来なかった。
そんな時、遙に会った。本当に偶然だった。でも、他の誰より会いたくなかった。だって、留学先で上手くいかないのは留学直前にリレーなんかにかまけていたからだと考えていたから。ギリギリまで自分だけの泳ぎに集中して練習していたら違ったんじゃないかと、そう考えるようになっていたから。感動的な勝利で幕を引いたリレーをそんな風に考えていることを知られたくなかった。本当は、そんなのただの責任転嫁だって心の奥底でわかっていたからだ。
遙は表情の乏しい方だけど、嬉しそうにしてくれた。一緒に喜べないのが苦しくてさっさと別れたかった。でも、その時思ってしまったのだ。遙にだったら勝てるんじゃないかと。遙は凛の知る限りでは、地元で一番速く泳ぐ子供だった。その遙に今だったら完璧に勝てるはずだ。留学先であれだけ苦しい思いをして練習を重ねているのだから。それで自信を取り戻したかった。
勝負の結果は、凛の負け。才能なんか最初からなかった。オリンピックも金メダルもない。田舎の部活で泳いでいる子供にすら勝てない。父親の果たせなかった夢は息子の自分にだって果たせないのだ。
叶わない夢は捨てよう。水泳ごと。そう思って、荷物をまとめるつもりでオーストラリアに戻った。親には早く言うべきだと思ったけど、父の写真と、小学校の頃の大会でメダルを貰った凛の写真が並べてあるのを見ると、どうしても喉が詰まったようになって言えなかった。
オーストラリアでも、まず誰かに辞めると言わなければならなかった。辞書を引きながら、なるべく上手に説明できるようにシミュレーションした。ここでもなかなか切り出せなくて、数日かけて覚悟を決めた時、しばらく連絡の途絶えていた真琴からのメールを受信した。春頃はちょくちょくやりとりしていたのに、心が折れるたびに返事の文字数が減り、ついには返事をしなくなった。そうすると新しいメールも届かなくなったから、数カ月ぶりのメールだった。
いつも通り、日本の友達の様子や、凛を気遣う内容が並んでいた。『がんばっている凛を』『凛ががんばっているから』何度もそんなフレーズがあった。ポタポタ落ちた涙が携帯電話の液晶を濡らした。袖で画面を拭ってスクロールした。
『凛の泳ぐ姿がまた見たいです。』
辞めようと思ったのに。遙みたいに人を魅了する泳ぎをするわけじゃない。最早褒められるほどの速さでもない。それなのに、一生懸命考えた競泳を辞めるための文句をすっかり忘れてしまった。
ベッドで携帯を握りしめて泣いているところへルームメイトが帰ってきた。慌ててももう遅い。いつも悔しい思いで泣くときは寝たふりをして布団に隠れて泣いていたのに、ついに見られてしまった。ルームメイトは驚いた様子で、一直線にやってきて凛のベッドに腰掛けた。
「どうしたの、何を泣いているの」
日本語だった。彼は小さいころに二年ほど日本で暮らしていたから日本語がわかる。だけど、ここでは誰もが英語だったから、部屋でもいつでも英語で会話していた。留学先でまともに日本語を聞くのはずいぶん久しぶりの気がした。
「泣かないで、リン」
自然な仕草で濡れた頬を撫で、親しい人に挨拶するときのように唇を押し当ててきた。同い年だけど、身体はずっと大きかった。大型犬を思わせる赤みがかった茶髪でそばかすがあって、大きな手でぐんぐん水を掻き分けて泳ぐ。温和で凛にも優しかったけど、こんな風にされるのは初めてだった。
「泣かないで」
彼が日本を離れたのは幼いころだったから、中学生にかけるには拙い言葉を繰り返して大きな手で肩を撫でる。唇に触れられた時もおかしいと思わなかった。次の日も、部屋で二人きりになると側に来て日本語で「大丈夫?」と声をかけられた。肩を抱いて額に宥めるようなキスが落ちてくる。そんな手順を踏んで唇へ。ゆっくりと艶っぽいキスに変わり、慣れる頃には耳元で囁かれた「かわいい」に反発する気持ちは少しもなくなっていた。
水泳は辞めなかった。ほとんど状況は変わらなかったけど、苦しい時は彼の胸で泣けた。当然、キスだけでは終わらなかった。体を触られても何を要求されても、彼を好きだったから全部受け入れた。丸ニ年間、関係は続いた。
中学三年の年、彼にガールフレンドができた。彼が留学を終える三ヶ月前のことだ。一ヶ月間は見て見ぬふりをしていたけれど、無視し続けるにも限界があって、二ヶ月目で問い詰めるとあっさり言われた。
「いいだろ?リンと僕は別に恋人同士ってわけじゃないんだから」
英語だった。部屋に入る前と同じ調子の英語で、少しも悪びれずに言われた。確かに、何度「可愛い」と言っても「愛してる」とはついに言わなかった。それ以来体を求められても「彼女に悪い」と言って断るようになったが、責め立てたりはしなかった。女でもないのにみっともないと思ったし、変に納得してしまったのだ。自分だって本当は彼を好きだったわけじゃない。この二年、何かのきっかけで地元やリレーのことを思うたびに彼との関係を後悔した。男に女の子みたいに可愛がられるために海を渡ってきたわけじゃない。だけど、心の弱った時には人肌が必要だった。迷うたびにメールを開く。深く後悔して、でも反省は出来なくて、ズルズルと彼に依存した。
彼が去ってからの一年は長かった。中性的だと言われていた容姿も成長とともに男らしくなったと思っていたけれど、何度か別の男から誘いを受けた。そこまでくると、自分が男に好かれやすい見た目なのだと理解するようになった。誘い自体は断ったけれど、望んで男に抱かれていた自分はもう連中を蔑んだり出来ないと思った。無邪気に笑っていたかつての仲間たちが遠くて遠くて、機種変更済みの古い携帯だけが過去につながっている気がして何度も握りしめて眠った。
□ □ □ □
バスはこれから車庫に向かう。降り立った場所は繁華街だったけれど、他に地元へ向かう便は残っていなかったし、電車のアクセスも悪い場所だった。
「――――うん、うん、ごめん、そうだよね。わかった。大丈夫、なんとかするから。何時になるかわからないから鍵はかけて、うん、おやすみ」
電話越しに自宅の親と話す真琴の声に耳を傾けながら、凛は周囲の店をチェックした。カラオケ、ビジネスホテル、深夜営業のファミレス。どれも入店時には身分証を確認されそうだ。ガタイのいい真琴が成人に見られるならいいけれど、年齢確認されたら一発で追い返される。
「ごめん、今日父さんが出張に行ってて、母さんも蘭と蓮を置いて出て来られないって」
真琴には幼い弟妹がいる。強引に連れてきてしまって失敗したな、と思いながら首を振った。
「別にそんなにアテにしてねえよ」
「タクシー拾うしかないかな」
「…………」
少し歩けば交通量の多い道路があって、そこなら簡単にタクシーが拾えるだろう。だけど、岩鳶町は少し遠い。
「ここからお前んちの近くまでどれぐらいだ」
「うーん、七キロぐらいかな?」
そこから更に鮫柄まで。気づいたらずいぶん遠くまで来ていた。最初からこの町まで来ようと決めていたわけではなくて、どこか、一時的に身を寄せられる場所を確保できる場所で降りようと思っていたらここまで来てしまったのだ。田舎は町と町の間に広い畑だの田んぼだの林だのが挟まっているので、あっと言う間に距離がかさむ。距離とタクシーの料金をざっと計算して凛は近くのビルを振り返った。入り口に掲げられた料金表はさっき確認したばかりだ。
「そこ、入るぞ」
「えっ、ちょっ、そこって」
ビジネスホテルとよく似ていたけれど、明らかにシステムが違う。まっすぐ歩いていく凛を追ってロビーに入ると、フロントスタッフがいない代わりに部屋を選択する機械がある。
「だ、だ、だ、ダメだよ凛!」
「騒ぐな、目立つだろ」
言われて声を潜めたものの、服の裾を引いて出るように必死に訴えかけた。
「うるせぇな。ビジネスホテル代わりだよ。こういうとこなら人に会わねえから年でごちゃごちゃ言われることもねえだろ」
「そういう問題じゃなくて!」
そうこうしている間に一番安い空き部屋を選択して鍵をとった。廊下を行く間も真琴はうるさかった。
「だーから、こっからタクシーで帰るより泊まって朝のバスで帰ったほうが安上がりなんだよ」
「そんなの後で俺、返すよ!」
「どのみち俺が立て替えるだろうが」
「だって凛、バスに乗ったときは大丈夫だって……」
「だから、ここの料金と帰りのバス賃出すつってんだろ!」
小声で言い争いながら部屋の前まで来たところで真琴がきつく腕を掴んだ。
「ホント、待ってよ」
「体冷やすなって言ったのは真琴だろ」
「それはそうだけど、そうじゃなくてっ」
「なんだよ、金のことなら……」
「違うんだ。一番困るのはそういうことじゃなくて」
緩く首を振って、情けない顔で凛を見下ろした。
「俺、凛のこと、好きなんだよ」
長いまつげで縁取られた目が見開かれる。
「だから、凛がそういうつもりじゃなくてもこういう場所に二人で入るのは辛いんだ」
「何で…………」
尋ねようと思ったわけでもないのに口からこぼれ落ちた。
「上手く言えないけど、昔から凛のことキレイだなって思うとドキドキして、再会したら凛はハルのことばっかりで俺なんか目に入らなくなっちゃったのかと思ったのに、さっきだって俺のこと助けようとしてくれて…………」
「理由になってねえだろ。ハルのことばっかりなのはお前だろうが。さっきだってお前一人でさっさと帰れば良かったのに」
「ごめん、凛のこと困らせるってわかってたから言うつもりなかったんだ。ごめん」
本当に困る。帰国してからこっち、嫌われそうなことならいくらでもしたが、好意を寄せられるなんて想定外だ。イライラと前髪を掻き上げながら、ふと思い出した。ルームメイトのこと。その後で声をかけてきた男たちのこと。見た目で寄って来られるのは初めてじゃない。真琴もアイツらと同じだったというだけのことだ。
わけのわからない失望で眉間のあたりがちりちりする。真琴も昔のままではなかったということだろうか。表面からはわからないところで歪んで、幼馴染の男なんかに興味を持ってしまうようになったのか。あの、優しいメールをくれた真琴が。
顔を上げると悲しげな目にぶち当たる。胸が苦しくてすぐに顔を背けた。ショックの後にきたのは、悪い考えだった。自分に触れさせたら、真琴もこちら側に来るんじゃないか。後悔まみれでふとしたことで苦しくなって惨めな気持ちになったりする。告白なんかしてしまったのだから、すでに片足を突っ込んでいる。ここで気の迷いだと諭して引き返してやるのがいい友達というものだろうけど、凛はとっくにイイ子でも友達でもない。少なくとも凛自身はそう思っている。
中一の冬に遙に勝負を挑んだ時と似ていた。今度は真琴を貶めて自分だけじゃないことにしたがっている。自覚がある分遙の時より悪い。それでも目を覚ますチャンスのつもりでわざとスレた風に言った。
「いいぜ。したいことさせてやるよ。ヤりてぇんだろ?慣れてる」
「え?」
背中を押されるように一歩踏み出した真琴が腕を掴んだ。痛いぐらいに。引かれるかと思ったのに、嫉妬するのか。
「凛、それってどういう………」
掴まれた腕を振りほどいてドアを開ける。しつこく追ってくる手を逆に掴んで部屋に引き入れた。
内装はほとんどビジネスホテルと差がなかった。丸めて小脇に抱えた合羽とウェストバッグを投げるように置いて浴室へ向かった。
「ちょっと、凛ってば!」
浴室の内側を確認してシャツを脱ぐ。水着姿の時にいくらでも見ているくせに、真琴は目を逸らした。
「オーストラリアでずっと男と寝てた」
「それって、えっと、付き合ってたってこと?」
「…………違う。お互いに都合が良かっただけだ」
「………………」
「処女じゃなけりゃ興味なくなったってか」
「そんなことっ……!」
さっさと全て脱ぎ捨てて浴室へ入った。少し体が震えている。夜でもまだ気温は高いけれど、さすがに冷えた。暖めなくては。
「だったら、お前も脱げよ。服、ハンガーにかけときゃちょっとは乾くだろ」
そして扉を閉めると本格的に震えが来た。湯を浴びながらうずくまる。慣れているのは本当だし、今更抱かれるのが怖いなんて言う訳じゃない。それなのに、体が温まっても体の芯が震えるようだった。何度も顔を擦ってから漸く浴室を出た。
頼んだつもりではなかったのだけれど、脱ぎ捨てた服はきれいにハンガーにかけられていた。こうやって真琴に世話を焼かれるのは大抵遙だった。唇を噛む。
わざと腰を隠さずに目の前に立った。体を見てやっぱり無理だと言われるなら早いほうが良かった。ベッドの端に座って項垂れていた真琴が顔を上げ、唾を飲む。素っ裸のまま足元に膝をついてチノパンの股間を触った。ちゃんと硬くなっていた。
頭の上で慌てた声がするのを一切無視してベルトを外し、窮屈そうなそこを開いてやった。下着越しに唇を当てただけで敏感に反応した。頭を退けようと手がかかっても本気の力づくで引き剥がすのはできないらしい。結局されるがまま、口と手で刺激されて呆気無く達した。
「ご、ごめん!」
口に出されたものをティッシュに吐き出す凛の背後で、性器をさらした間抜けな格好で謝り倒しているが、これで終わりじゃない。まだほとんど着衣のままの真琴にのしかかって押し倒した。男の上半身にたいした価値はないだろうに、やっぱり直視できないらしく目を逸らされた。
「凛、本気なの?」
「この体勢で訊くことかよ」
「後悔したりしない?」
絶対にする。相手が真琴だから、凛はもうあのメールも開けないかもしれない。真琴だってこの夜のことは遙にさえ言えないだろう。真琴の性格なら、もう凛と顔を合わせられなくなるかもしれない。大会やなんかで鉢合わせても岩鳶の仲間の後ろの方でこっそり顔を背けて、勿論優しい言葉なんかかけてくれなくなる。想像したら急に足元から地面が消えたような気がした。遙みたいに四六時中そばにいるわけでもないし、自分から遠ざけてばかりだったくせに。
考えを振り切るためにわざと強く言い切った。
「しねえ」
その途端に体勢をひっくり返されて真琴が上に来た。今までの及び腰が演技だったのかというほど真っ直ぐで熱っぽい視線に貫かれる。
「じゃあ、もう我慢するのやめる。凛は俺のこと好きなわけじゃないと思うけど、」
好きなわけじゃない。正しいはずなのに喉の奥がきゅっと締まった。
「ここまでされたら俺だってキツいよ」
凛の僅かな変化にも構わず唇を寄せて噛み付くように合わせてきた。普段の大人しそうな顔に似合わず荒くて飢えたようなやり方だった。心の中で「下手クソ」と毒づきながらも舌を絡める。色気がない。あまり気持ちよくもない。だけど、本当に好かれていると思い知らされるようで堪らなかった。
一度離れていく時に寂しさを覚えて首に回した腕に力を込めてしまった。真琴はそれを優しいく外し、起き上がってシャツを脱ぐ。服の下にあるのが自分より逞しい体だって知っていた。きれいに筋肉のついた力強い上半身は何度も見ている。今更狼狽えることなんかないはずだった。それなのに、体の奥がざわついて仕方ない。ルームメイトと抱き合っていたときにはそんなことなかった。脱いだって肌を合わせなければ意味がないと思っていた。
慣れている、はずだった。愛撫の仕方も男の受け入れ方も。でも、そういうことじゃなかった。まだ自分が何かされたわけでもないのに体は熱くなってくるし、優位に立っているのは自分のはずだったのに気持ちはグズグズで、こんなはずじゃなかった。
見下ろされると震えが来る。優しい顔に隠した牙で頭から食べられてしまいそうだと思う。だけど、ただ怖いんじゃない。期待のこもったドキドキが足の指の先まで響いて落ち着かない。
胸に顔を伏せて胸を吸われた。熱い手が腹筋から腰を伝い尻を掴む。急に止めたくなって髪を掴んだけれど戸惑いはさっぱり伝わらず、皮膚の上を這いまわる舌はどんどん下がっていった。
「ホントにここ、きれいにしてるんだ……」
視線の先には丁寧に処理された股がある。留学中には周囲がみんなそうしていたから凛も同じようにした。でも、そんな習慣のない日本で生活してきた真琴は妙に感心した様子で、柔らかな吐息がかかって太ももがビクついた。
「見てんじゃねえよ変態」
悪態も弱々しくて様にならず、足の間で笑った気配がしただけだ。
内腿に吸い付かれるといよいよ指が尻の谷間に滑りこむ。本当に真琴は体をつなげようとしている。他人が知ったらきっと白い目で見られるような、そんな関係を結ぼうとしている。そんなつもりはなかったのに、涙が出た。
「やめろ」
「え?」
乱暴に髪を掴んで腰から引き離した。驚きの表情が凛の顔を見て焦りになる。
「な、なんで泣いてるの?やっぱり俺とするの気持ち悪い?」
弱気なことを言うくせに体の上から退く気はなく、むしろ真っ赤でぐしゃぐしゃになった顔に手を添えて覗きこむ。それを押し返して頭を振った。
「やっぱりやめる。お前とはしない」
「凛、どうしたの。俺のことそんなに嫌?」
「違う。ダメなんだよ、俺は……お前がガキの頃と変わらないのが、俺ばっかりこんな風になっちまってるのに腹が立って、男なんか抱いてハルにも誰にも言えない汚点作って、後から悔やんだりすればいいって……」
腕で雑に拭っても後から後から溢れてくる涙が頬を濡らした。どうすれば納得の行かない過去を清算できるのかわからなかった。一度捨てた夢を叶えればいいのかと思ったけれど、遙に勝っても期待した結果にはならなかった。留学中の経験をなかったことにはできないし、地元で友達に囲まれてぬくぬくと過ごしていた連中を見れば無性に腹が立った。でも、真琴が自分みたいに後ろめたい気持ちを抱えて距離を置かれるのを想像したら、それが一番耐えられなかった。
「凛は俺のことどう思ってたの。変に美化したりしてない?」
首を振った。すぐに鋭く否定された。
「嘘。凛と、その……エッチしたら、俺が後悔するって?そりゃ周りに言いふらすことじゃないけどさ、変わらないってなんだよ。言ったろ?俺は凛が留学するより前から凛のこと、多分好きだったんだよ。今みたいな自覚はなかったけど、みんなが女の子のグラビアを見て興奮するみたいに、凛を見てドキドキしてた。再会してからも前と同じ友達として振る舞ってても、どうしても気になって、凛が聞いたら絶交されそうなぐらいいやらしいことも考えたよ。人に言えないことなんかとっくに抱え込んじゃってるよ!」
「真琴……」
「でも凛はハルしか見てないし、ハルばっかりズルいって、そんなこと思うの初めてだった。さっきだって、凛が知らない誰かと抱き合ってたのかと思ったら頭に血が上っちゃって……」
かすれた声だったけれど凛みたいに泣いたりはしなかった。小学校の卒業式でも情に厚そうな顔をして、先に泣きだした凛に驚いたからと言って結局遙と二人だけ泣かなかった。あの頃にはもう凛のことを意識していた。
「ねぇ、凛。凛とエッチしても俺は変わったりしないんだよ。元からこうなんだからさ」
宥めるように優しく笑いながらそんなこと言うのがおかしくって、やっと涙が止まった。ゆっくりまばたきすると目を閉じた隙にキスが降ってくる。体の奥が震えた。部屋に入った時のような凍えるような震えじゃない。首を抱いて引き寄せて頬を擦り合わせる。濡れて僅かに冷えた頬が温まる。
「あのさ、凛がイヤじゃなかったら、このまま……」
返事の代わりに唇を寄せて舌を出した。やっぱり下手くそで、だけど満たされるようなキスだった。
この四年間、失敗と後悔続きだった。いつも焦っていて、余裕がなくて、望んでやったことが本当は希望通りじゃないなんてことも沢山ある。それでも懲りずにまた間違えて、誰かを傷つけたりして、もがき続けている。それでも、これだけは間違えていないといい。
何度も男に体を開いてきたのに、好きだと囁かれながらするのは初めてだった。止まったはずの涙がまたこみ上げてきた。
くたくたになって朝を迎え、外に出ると、昨夜が嘘のように晴れ渡っていた。
朝イチで帰る予定だったけれど、どうしても離れがたくて、翌日の予定の相手に断りの電話を入れた。それから一緒にバスに乗って、昨日乗ったのと同じ海辺の停留所で降りた。波は穏やかに砂をさらっては打ち寄せる。空との境目もちゃんと見えた。
「そういえば、凛の実家から駅なら海の側なんて通らないよね?なんで昨日あんなところにいたの?」
「今頃言うのかよ」
「だって不意打ちで会ったから焦ってて……」
さっぱりそうは見えなかった。
「色々、考えてたら親父に会いたくなったんだよ……」
濁してもそれがリレーのことだというのはわかっただろう。だけど、ここでそれを言うのはしなかった。
凛が聞いたら嫌な顔をするだろうけれど、真琴は遙と凛がまた泳げるならそれでいい。凛が今の自分を好きではないなら、それを変えられるのは多分遙だと思うから。凛が泳ぐところがまた見たいと送った気持ちはいつでも少しも変わらない。
「凛、海にはお父さんがいるって言ってたもんね」
そこで真琴がピタリと足を止めた。
「なんだよ」
「や、想像したら、なんか」
「だからなんだよ」
「俺、合わす顔がないなって。凛のお父さんに」
「はぁ?……………………………っ!」
間をおいて理解した途端に真っ赤になった凛が肘を叩き込む。間一髪、手でガードしたことに不満気に鼻を鳴らした。
「ハァ。大会近ぇってのに、天気、大丈夫かよ」
「一晩だけだったし大丈夫じゃない?」
涼やかな目元が海の光を反射している。きれいな目がずっと遠くを見ていた。泣き虫なのに、行動力は人一倍で、一人で何かに向かっていっては傷ついている。苦しい時には苦しいと言ってくれたらいいのに。小学校を卒業して別れるまでの間に、頼ってもらえる人間になれていたら良かった。凛が後悔ばっかりというなら自分だってそうだ。遙だってそう。凛が目の前で傷つけば歯がゆさで苦しさが伝染する。そういうのをきっと凛はわからない。
「親父のこと、直接憶えてることはほとんどねえけど、」
ぽつりと言った。
「こんな静かな朝の海を一緒に見たことはすげぇ憶えてる」
「漁師だったんだよね、お父さん」
「ああ。でもまだ背も低くて、ちょうどガードレールとか、その辺のコンクリの壁で視界が遮られちまうぐらい小さくて、親父に肩車してもらってやっと海全部見渡した時に、ちょうどこんなキラキラした海でさ。あんまりきれいで、親父が死んでからしばらくは怖くてたまらなかったけど、結局嫌いにはならなかった」
「うん」
真琴が相槌を打っても海から目が離せないようだった。寂しさを覚えて少し屈むと、腕を回して抱き上げた。凛はバランスを崩して真琴の頭にしがみつきながら、宙に浮いた足をバタつかせる。
「何すんだよ!」
落ちるのが怖いようだから腕でがっちり抱きしめる。
「肩車ってどのくらいかな。これぐらいかなあ」
「バカ、親父はお前ほどデカくねえんだよ!」
しばらくして抵抗を諦めた凛はまた遠くを見つめた。この海の三キロ沖には大事な人が眠っている。凛をリレーに導いた人が。
潮風が凛の長い髪を揺らし、きれいな横顔を暴いた。頬を涙がひと粒だけ伝い落ちた。
風は海から来て、立ち止まる二人をすり抜け、町へと駆けていく。幼い日を一緒に過ごした海辺の町へ。