上田にて/カズケン/7094

 酒屋の瓶ケースを踏み台に庇の上を覗いた健二さんが「あ」と小さく声を上げた。
 バドミントンのラケットでチャンバラをしていた祐平と真悟が敏感に振り返る。
「カブトムシだ」
 健二さんの呟きに間髪入れず二人が叫ぶ。
「見たい!」
 健二さんは真悟の脇に手を差し入れて持ち上げた時、少しよろけた。
 チビ達のリクエストは肩車だったが、やめて良かった。
 あまり力のあるように見えない腕で真悟の体を掲げるとギリギリで庇の上が覗けるようだった。
「おおー!」
 歓声に順番待ちをしていた祐平が焦れて「交代!交代!」と飛び跳ねる。
 真悟よりも体重のある二番手もしっかり掲げ上げていたが、「おおー!」の直後に下ろしたところを見ると、やっぱり余裕はなかったようだ。
 祐平を着地させた後、両手が僕に差し出される。
「あ、」
 僕の顔を見て一度差し出した手を引っ込めた。
「ごめん」
 余裕がないくせに「つい」って顔に書いてある。
 引いた肘、抱き上げようとしたのを誤魔化すように緩く握られた手。
(子供扱いだ)
 への字になりそうな口を一文字に引き結び、地面に投げ落とされてからカブトムシに注目を奪われたシャトルを拾い上げる。
「別に、気にしてないよ。」
 チビ達が振り回すラケット目がけてシャトルを放った。
 勝負再開と同時に健二さんは両手を上げて得点板となり、僕はその隣で審判になった。

 まだ十三年しか生きていないけれど、気持ちひとつで世界が色を変えるのを何度か見たことがある。
 一度目はOZで自分の分身がチャンピオンになった時。
 二度目はついこの間、強大な敵に追い詰められた時。
 それから三度目――それは瞬間ではなかった。ラブマシーンとの戦いの中で自分でも意識しないうちに一人の人の印象がどんどん変わっていって、気がついたら誰よりも輝いて見えた。
 初めて会った時なんか、印象そのものが薄かった。
 それが、日陰から真夏の陽の下へ歩みだしたように輪郭を光らせ、心にくっきりとした陰を刻みつける。

 屋敷の被害状況の確認には三日を要した。
 一時的な立ち入りは許されたものの、案の定部分的な補修では済まず、すぐに建て直しの準備が始まった。
 いくらか吹き飛んでいるとはいえ広い屋敷から荷物を運び出すには人手がかかり、頼まれると弱い健二さんもズルズルと滞在期間を伸ばしていた。
「これが一段落したら本当に帰るの?」
「うん、先輩のご両親も仕事が始まるっていうし、一緒に車で東京に戻るよ。」
「そう。」
 土埃に足跡が散らばる廊下を歩きながらこっそり唇を噛んだ。
 大伯母の万里子に納戸からタオルセットの入った箱を取ってくるよう頼まれた際に健二さんが当たり前のように一緒に立ってくれたことで軽くなった足が、照れた様子で夏希の話をする姿を見て重くなる。
 古い家らしくて好きだった本家の匂いには土の匂いが混じり、屋内は以前より薄暗く見え、何度も訪れている屋敷がよそよそしく感じられた。

 屋敷の中でも納戸は比較的被害が少なかった。
 積まれていた物が崩れて散らばってはいたが、“あらわし”墜落当時たまたま引き戸を閉めていたお陰だろう、廊下を満たしていた土埃も届いていない。
 僕らは万里子おばさんの曖昧な記憶を元に「白くて箔押しでロゴが入っている箱」に入ったタオルを探し始めた。
 まず、床に散乱した箱を確認した端から壁際に積み上げる。床が一通り片付いても目的の物は見つからない。
 仕方なく棚に収められた荷物を確認しようと顔を上げた時、それを見つけた。
 箱の側面に堂々と黒マジックで「タオル」と書かれた白い箱。やや高い棚の上に積まれている中の一つだった。
 箱の上に更に箱があって、まるで積み木ゲームのジェンガのようだ。
 背伸びすれば届きそうだと思って僕は手を伸ばした。
 しかし、爪先で立って精一杯腕を伸ばしても箱に触れさえしなかった。
「取るよ」
 健二さんがぴったり横に立ったので一歩引いて場所を譲る。
 そこで腕を目一杯伸ばしても箱を引き抜くにはまだ足りなかった。
 健二さんの踵が浮く。
「また取って貰った。」
「え?」
 つま先立ちを一旦やめて振り向いた。
「ああ、この間のバドミントンのことかな。気にしなくていいのに。」
 健二さんの足ばかり見ながら返事をしようとして何度も打ち消す。
 聞き流して欲しい格好の悪い独り言だった。自分の情けなさに拗ねているだなんて悟られたくないのにこぼしてしまった。
 上手いフォローの言葉が見つからずに困っていると、その沈黙を返答と解釈したらしい健二さんは控えめに言い直す。
「えっと、背のことだったらすぐに伸びるよ。」
「…ホントに?」
「うん、足が大きいと背も大きくなるって聞いた事ない?」
 自分と健二さんの足を見比べる。
「佳主馬くん、結構足大きいよね。あと数年したら僕より高くなるよ。」
 再び踵が上がる。
 軽く前に傾いだ体のバランスを取るために腰反らせ腕を伸ばすと肩の方へたるんだ半袖シャツの袖裾から日焼けの境目が見えた。
 薄暗い中では目立たない程度の日焼けだけれど、こうして焼けていない白い肌と比べるとよく分かる。
 見るからに文化系の力のなさそうな腕の先、両手の指の腹で目的の箱を引っ張り出した。
 その時、引き抜いた箱の上に積まれた小箱が滑り落ちるのが見えた。
 咄嗟に踏み出して手を伸ばす。
「健二さん!」
 頭だけで振り向いた健二さんが短い悲鳴を上げる。
 縺れるように床に転げた僕の上に箱が降り注いだ。
 重い箱が一つも無かったのが不幸中の幸いで、うつ伏せたまま撫でた後頭部には瘤も痛む部分もなかった。
 箱がぶつかり合い床に転がる音が止んで一瞬静まり返った納戸にうめき声が響く。
 ハッとして慌てて両腕を床に突っ張った。
 倒れ込んだどさくさに下敷きにしてしまった健二さんを見下ろした途端に音が聞こえそうなほどに心臓が脈打った。
 まるで檻に閉じ込めているように腕の間に頭があって、四つん這いの膝を動かすと膝の内側が健二さんの脇腹だか腰だかを摩った。
 一度意識し始めると堰を切ったように下心混じりの恋心が溢れ出して頭が一杯になる。
 瞬きしたその目と目が合うのに怯えて顎を引けば暑さに多めにボタンを外した襟元から肌が見える。そこに柔らかな膨らみなどないのにいけないことのように思えて視線をまた上に戻すがどこを見たら良いか迷ってしまった。
「…佳主馬くん?」
 見下ろした唇が名前を呼ぶ。目の前で手を叩かれたように目が覚めた。
「あ、」
「どうしたの?どこか打ったのかな」
「いや、だ、大丈夫!」
 慌てて体の上から退いた勢いのまま床に散らばった箱の上に尻もちをついた。
 ますます情けないが、そんなことも気にならないほど焦っていた。
 それを隠そうとして手当たりしだいに箱を壁際に積み上げて片付けるフリをしたが、雑に積んだ山は途中で崩れ、動揺がバレてしまうという心配で頭がガンガンした。
 気持ちを切り替えろ。
 頭を激しく振ると背後から気遣わしげな声が掛かる。
「やっぱりどこか痛くしたんじゃない?大丈夫?」
 恐る恐る振り返って表情を見たが、健二さんは普通だった。
 一人で焦ってバカみたいだ。
「何でもないよ!」
 気持ちを隠さなければと内側に押し込めて渦巻いていた感情がパンパンの風船のように、そこへ空いた小さな穴から中身が飛び出したみたいに、その一言は自分でも予想しないぐらいに尖って怒ったように響いた。
 健二さんにもそう聞こえたのだろう、目を丸くしていた。
「…大きな声出してごめん。」
 早口で謝って納戸から逃げた。
 走って玄関まで来たところで箱が散らかったままであることに気づいたけれど、引き返すことはできなかった。
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* * * *

 襖が滑る音で夏希は手を止め振り返った。
「…佳主馬?」
 本家屋敷が半壊状態になったために廃業した民宿に身を寄せていた。
 夏希は母と、本家家長となった万里子おばさん、その娘の理香と四人で一部屋を使っていたが、そこを訪ねるのは数日の間でもこれが初めてだった。
 昼食が済んですぐに遊びに立ったチビ達の声も今は聞こえない。健二さんと一緒に広間で昼寝をしているのだろう。
 大人たちが事後処理に忙しくする間、子守は主に健二さんに任されていた。
 一昨日までは僕もその輪にいた。子守をしている側だったのかされている側だったのかは分からないが、僕は健二さんと一緒に過ごしたくてついて回っていただけだった。
 しかし、この二日は食事の時さえ何のかんのと理由をつけて顔を合わせないよう動き回っていた。
 その理由は誰にも打ち明けられない。
 夏希は僅かに驚いた様子を見せ、それからお姉さんの顔で笑った。
「どうしたの?私のところに来るなんて珍しい。」
 畳に広げていた荷物を片側に押しやってスペースを作ってくれたので、少し躊躇った後になるべく距離をとって腰を下ろし、膝を抱えた腕で口元を隠した。
「今日、帰るの?」
「うん、お父さんとお母さんと、健二くんも一緒にね。」
 昨日決まったことを今朝聞いた。
「まだ仲直りしてないの?最後だし、帰ることは健二くんから聞いてると思ってたのに。」
「喧嘩じゃないよ。」
 小首を傾げて「そうなの?」と言う夏希は身内の贔屓目抜きに美人で愛嬌があって、つまり、可愛らしかった。
 恋なんてものではないが、親戚の集まりで会ったはとこの夏希にドキドキしたことがある。
 一緒にすごす内に見た目に反して大味なところやしたたかな面が見えてきて“きれいなお姉さん”はすぐに“親戚の姉ちゃん”に変わったけれど。
 従兄の翔太は二十歳を越えても夏希に夢中だ。
「じゃあ、佳主馬が一方的に拗ねてるのね。」
 彼女はあっさり見抜いて言い切った。
「拗ねてなんか…」
「ほーら、拗ねてるじゃないの。」
 腕の内側でこっそり唇を噛む。
「…夏希姉はズルいよ。」
「え?」
 眉を顰める夏希から視線を外す。
 大きな旅行バッグに着替えやパーティーグッズを閉まっている途中の散らかった畳に視線を滑らすと朝顔模様の浴衣が綺麗に畳んで置かれているのが見えた。曾祖母、栄のお誕生日会で着ていたものだ。
 浴衣姿で髪には朝顔を挿し、隣には鼻の下を伸ばした健二さんがいた。
 始めから健二さんは彼女が好きだった。そうでなければ彼女の嘘に付き合って上田に来ることもなかっただろう。
 僕はこの夏にスタートラインに立った。その頃に夏希はゴールラインからスタートした。
 健二さんのゴールは夏希の隣にあった。
「健二くんに何があったのか聞いても分からないって言われるし、佳主馬はだんまりのままお別れする気なの?」
 腕に額を擦りつけるようにして頭を縦に振った。
 俯きっぱなしで見送ったって意味がない。
「もう!素直じゃないんだから。」
 畳に手をついて身を乗り出した夏希の長い髪が揺れて剥き出しの腕をくすぐる。
 近くで美人のはとこが顔を覗き込んできたけれど、今はちっともドキドキしなかった。
「仲良くしたいなら素直にならないとダメ。」
 夏希は傍らにあったカーディガンを手繰り寄せてポケットを探り僕の右手を取る。
「佳主馬にいいものあげる。」
 手の平に乗せられたのは四つ折りの小さなメモ用紙だった。
 開くと見知らぬ携帯電話のメールアドレスと080から始まる番号が書かれている。
「これ…」
「健二くんから預かってたの。もし佳主馬が怒ったままだったら代わりに渡して欲しいって。」
 よく見れば暗号解読の時にも使っていたレポート用紙の切れっ端だった。数字のクセにも見覚えがある。
「健二くん、多分玄関にいるよ。」
 僕の気持ちを予想もしない夏希に背中を押され走り出すのは間違いかもしれない。
 本当のことを知っていたら仲を取り持ったりしなかったかもしれない。
 メモを持った指に力が入ってしわになった。
「姉ちゃん、ごめん。僕も、ズルい。」
「佳主馬…」
 部屋を駆け出した。

 玄関にいくつも並ぶ靴の向うに自分のサンダルを見つけ出し、丁寧に足元に引き寄せるのももどかしく、大股で誰かのスニーカーを踏みつけ、そのままの歩幅で玄関を出た。
 世界が眩しくて目を細める。
 砂利敷きの民宿の駐車場脇に叔父さん達が集まっている中心に健二さんはいた。
 上田に来た日と同じ服装で取り囲む大人たちにぺこぺこお辞儀をしている。
「健二さん!」
 駆け足で振り返った大人達の間に割り込んで目を丸くしている健二さんの手を掴んだ。
「ちょっと来て」
 答えを待たずに走り出す背中に冷やかし半分の声援が飛んできた。
「佳主馬、がんばれよ!」

 人気のない場所を探して走った。
 馴れた本家の敷地ではないのが不安を煽って迷う内に民宿の建物から随分離れた所まで来てしまった。
 落ち着かない心を紛らわすように手を強く握った。
 緊張と興奮で頭がいっぱいのことろに健二さんの「痛い」という言葉が聞こえてようやく我に返る。
 立ち止まって手を開放すると健二さんはその手を膝について腰を屈め、ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返した。
 同じ速度で走った僕の顔も真っ赤だったが、これは健二さんのそれとは種類が違う。
 走った疲労からすぐには立ち直れない健二さんのつむじにフライング気味に叫ぶ。
「帰ったらメールする!」
 手の中のメモ用紙は強く握っていたのと手汗でヨレヨレだった。
 ゆっくりと健二さんは顔を上げ、僕を見て安堵の笑顔を見せた。
「はぁ…よ、良かった」
 その言葉に被せるように僕はぶちまけた。
「健二さんのこと、好きだから!」
「ありが…」
 “とう”の二文字が僕の胸で溺れる。
 まだ屈んだ姿勢の頭を勢い任せに抱きしめた。
 心臓がどうにかなりそうなぐらいに暴れまわっているのが聞こえるだろうか。
 穏やかな「ありがとう」なんて言わせない。
「夏希姉が好きでも諦めないよ!」
 会話なんてものじゃない、叩きつけるような告白だった。
 抱え込んだ頭を放しても健二さんは何も言えず、動けずにいる。
 深く呼吸して吐き出せる限りの空気を吐き出すとほんの少しだけ落ち着いた。
 精一杯の平静を装って声を出す。
「…じゃあ戻ろうか。」
 来た道を引き返した。二、三歩進んで振り返ると健二さんは未だに呆然としていて歩き出す気配もない。
 戻って恐る恐る手を繋ぐとそれまでぴくりともしなかった健二が大げさにビクついた。一瞬にして体温が下がって心臓が握られたような心地がする。
 嫌がられても仕方がない。放そうとした手を逆にそっと握られた。
 健二さんの親指がちゃんと手を繋ぐ形をしているのを目で確認しても信じられない。
 顔を上げても健二さんの方が俯いていて表情は見えず、ただそっと握り返された手のじんわり広がる温かさや汗ばむ様子を観察した。
 家族たちの姿が見えるまでゆっくり歩いた。
 その時の景色や空気の匂いや聞こえてくる音さえも、僕はよく覚えていない。
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* * * *

「あの、ありがとうございました。」
 健二がお礼を言ってこの家を出るのは二度目だ。
 数日前は手首に手錠が掛かっていたので明るい別れではなかったが、今度は笑顔で「また来ます」と言えた。
 一通り挨拶を済ませて荷物を積み込み、夏希と共に車の後部座席に乗り込むと、夏希の父が運転する車が緩やかに走り出す。
 家族たちの姿が見えなくなるまで窓を見つめ続けた。

 夏希が一連の騒動のどさくさで溜め込んでいたメールの返信に追われている間に健二はゆっくり瞼を閉じて上田で過ごした時間を振り返った。
 沢山の思い出があって、たった十日ほどの出来事だなんて信じられない。
 印象的なことはいくつもあった。でも、一定のリズムで頭の中のアルバムをめくっていた手がふと止まる。
 それはほんの一時間前の記憶だった。思い出すだけで頭が熱くなる。
 レポート帳を使い切るほど計算をした後のように頭がガンガンして、開いた拳の内側には汗が滲んでいた。家族の輪に戻る前に繋いでいた手は離れ、佳主馬は“普通”になった。
 元から健二に比べれば内面が表に出ない。
 そんな佳主馬の様子を見ていると告白を受けたのが幻の出来事だったようにも思える。
 でも、引かれた手の感触や自分の手の甲に褐色の指が添えられている様子を細かに思い出せた。
 そこでようやく佳主馬に対して何の返事もしていないことを思い出した。応えられないと思うのに手を握り返したことが罪のような気がしてきて新たな焦りが襲う。
 あの時は冷静に考える余裕なんてなかった、全ては後の祭りだった。
「…くん、健二くんったら!」
 肩を叩かれて振り向くと眉を八の字にした夏希と目が合って思わず「ごめんなさい!」という言葉が飛び出した。
 その勢いに夏希が身を逸らしたのにも気付かない。
「ううん…、そんな大事な話じゃなかったから頭まで下げてくれなくて良かったんだけど…」
「え…あ、はあ」
 後部座席のちぐはぐなやりとりに夏希の母、雪子がクスクス笑う。
「ずっとチビちゃん達やおじいちゃん達の相手をしてたものね。健二くん、疲れてたら寝ててもいいのよ。」
「いえ、その、…すいません。」
 違う、と感じながらも雪子の言葉に甘えておいた。
 疲れていたせいでぼんやりしていたわけではない、夏希に頭を下げたのも話を聞いていなかったことへではない。
(あれ?じゃあ何に謝ったんだろ)
 膝の上で緩く丸めた両手を見る。そしてブンブン頭を振った。
「健二くん?」
「何でもないです!本当に何でもないです!」
 両手を大げさに振って繰り返す健二のポケットでメール受信のランプが点滅する。
 一人慌てる彼がそのメールに気付くのはもう少し後のこと。