久しぶりの晩餐/スティレオ/

 扉の閉まる音を合図に上司が呼ぶ。自分は報告書から顔も上げずに。
「レオ、今日のランチの予定は?」
「特に決まってませんけど」
「じゃあ空けておいてくれ。ヴェデッドお手製のサンドイッチがあるんだ」
 そんなお誘いにも随分と馴れてすぐに了解した。
 どういうわけだかこの人は俺に物を食べさせるのが好きなのだ。

 妹と暮らしていたころにも「ご飯はちゃんと食べないとダメでしょ!」と言われたことがある。
 一人暮らしになった今では当然、定期的に財布が厳しくなることもあって、腹さえ減らなきゃ平気で食事の時間をスルーする。
 それを妹に知られたらまた言われてしまうだろう。
「人間ちゃんと食べないと幸せになれないんだからね!」

 その点、物好きな上司に誘われる最近は満足な食生活が出来ている。
 それというのも懐が寂しくなるタイミングを完璧に把握されていて、食費を削り出す頃になると決まってディナーに招待される。上司・スティーブンさんの家を訪れることにも馴れた。
 最初は公私をきっちり切り分け不用意に首を突っ込めばただではすまなそうな、つまり、ビジネスライクで冷たい人のような印象だった彼の自宅に誘われて緊張した。
 何もかもが自分の生活レベルからはかけ離れて高価そうな代物だったし、それでなくても彼の家のレベルに見合うマナーなんて身についちゃいない。まあ、そんな完璧な振る舞いなんか期待されてもいなかっただろうけど。
 でも、最初に招かれたその日には招かれただけの理由はあった。
 仲間とはいえ訊ねて悪いこともあるから詮索はしなかったけど、どうやら忙殺された疲労ピーク時にクソみたいな事件に駆り出されるよりも滅入らせる何かがあったらしいのは分かる。それも笑い飛ばせないヤツだ。
 奇遇ですね。僕もです。
 その日は本当にツイてなくて、妹へ仕送りするために通帳を持ち歩いていて、そんな日に限って街の外から来た性質の悪い“おのぼりさん”に当たってしまった。
 そんなピンチのときに同僚を見かけたのに無視されて心まで折れた。
 金だけはどうしても取り戻さなきゃならないから、あんまり好きじゃないけど武器を仕入れて連中に立ち向かったらあっけなく返り討ち。
 見るからにボコボコのジャガイモ状態で失った金の工面や、自分の非力さについて考えては落ち込みながら歩いていたら、クズに輪をかけてクソなヤク中下半身野郎に捕まって、自分だって大変なのに猫探しなんかさせられた。そのドタバタで少しは気も紛れたけど。
 生活費に残している金だけでも仕送りして、申し訳ないけど光熱費のかかることは事務所で済ませさせてもらえないかなんて情けないことを思っていた時だ。
 普段固い氷の仮面で穏やかそうに歪曲させた表情しか見せないような、どうも親しみづらいところのある上司と鉢合った。心なしか氷の仮面が薄く溶け落ちたような顔で。
 いつもと少し様子の違った上司はすかんぴんの腹ペコ部下を拾ってシャワーと食事を腹いっぱい与えてくれた。捨てる神あれば拾う神あり。
 なんと、食後にうっかり眠り込んでしまったまま朝食までご馳走になって家まで送られた。面倒くさいヤツだと思われて二度と誘われない可能性もあったけど、そんな予想を裏切ってちょくちょく食事に誘われている。
 あ、ちなみに奪われた通帳は一度見捨てられたと思った同僚が「拾った」と言って渡してくれた。本当は何とかして取り返してくれたんだ。拾う神様は二人もいた。
 ボコボコの俺を見ても自分の股間の心配ばっかりで一言の労わりもなかったクソ野郎の下半身は残念ながら助かった。もがれてしまえばよかったのに。
 とにもかくにもそういうわけで、スティーブンさんちの家政婦さんともすっかり顔馴染みの俺である。

 暴れまわっていた魔獣が細かな肉片にイメチェンした際に被ってしまった飛沫と爆風でドロドロのまま高級マンションの一室にお邪魔する。
 ライブラのことを知らない家政婦のヴェデッドさんがいるのにそんな血生臭い格好でいいのだろうかと最初は心配したのだけれど、なにしろここはHLだ。ちょっと表を歩けば強盗だの爆発だの大量殺人だの、いくらでも出くわすし巻き込まれる。道で小銭を拾うより確率が高い。
「いやぁ、ちょっと運悪く魔獣退治騒ぎの近くにいちゃいまして」
 近くどころかほとんど中心にいたのだが、あんまり嘘はついていない。実際俺は戦闘要員じゃないので野次馬と大差がないのだ。正真正銘の野次馬と一緒になって突っ立っていたらライブラの仲間たちの倒した魔獣の体液を浴びてしまったわけで。
「まあ、それは大変。すぐお召し物を洗いますからバスルームへ」
 いつもスイマセン。普通にきれいな格好でお邪魔する予定が、いつものトラブルメーカー堕落王の暇つぶしがアレでソレで。ちなみに一緒に現場にいて闘っていたスティーブンさんは何故か俺より被害がない。氷漬けにする戦闘スタイルのお蔭なのかどうかは定かでない。
 こうしたことは今日に始まったことじゃなく、ディナーに向かう途中でボロボロになってしまった日にはお風呂まで借りるのが慣例になっている。さすがに悪いとは思うんだけど、汚いままでピカピカに保たれているソファに座る方がヤバイ。
 家主のお言葉に甘えて全身丸洗いして、最近はこんな事態を見越してバッグに詰め込んでいる着替えを身に着けて食卓を囲む。
 あまりかさばらない服となると薄手のシャツとハーフパンツなんていう完全に部屋着しかない。風呂上りに部屋着でソファに座ると本当にこの家の住人みたいだ。
 そんなだらしなさも家主に許されているからだけれど、我に返ると、何してんだ俺。
 スティーブンさんにとって俺は友達でもないだろうし、まして家族でもない。間柄は上司と部下だけど、ライブラの中でも日の浅い方だ。こんなに良くしてもらう理由なんて思い当たらない。
 それなのに一方的に面倒を見てもらって、正直金欠のときはかなり助かってる。俺から返せるものは何もないのに、やっぱりこういうのに甘えきってるのはダメだろう。
「おーい、レオ。ちょっと鍋見ててくれるか」
 呼ばれてすぐにキッチンへ向かった。トマトスープの鍋をかき混ぜる仕事を仰せつかった。
 隣では上機嫌の―最近本当に機嫌のいい時ってのが少しわかるようになった―スティーブンさんがチーズをすりおろしている。まだヴェデッドさんはいるんだけど、自分で料理をするのも好きらしい。意外とエプロンが似合う。
 この間この話を良心的な同僚にしたところ「親子みたいですね」とコメントされた。彼自身にはそんな家族はいないんだけど、映画で母娘が一緒にキッチンに立っているのを見たんだそうだ。それお母さんと娘の話じゃん。
 ついでに故郷の父は家事はてんでダメで、母からキッチン立ち入り禁止令が出ているのでイメージと違う。
 名前のついていない関係ってちょっと落ち着かないってことを最近知った。

 その月はとても忙しかった。
 一難去ってまた一難、ひっきりなしに重大な事件が発生しては駆り出されていたお蔭で表のバイトはあんまり入れられなかった。ピザの配達より世界の危機が優先なのは仕方ないんだけど、時給制のバイトを休むってことはその分のバイト代が入らないってことだ。
 ライブラから貰う活動資金は基本定額で、状況に応じて融通はしてくれるんだけど、“懐がキビシイから多めに貰う”ってのはしたくない。
「今月は特に頻繁に出動されておりましたから残業代として上乗せしましょうか」
 申し出はありがたかったけど、他のみんなは各々他で十分な収入源があるんでライブラからの収入に依存してるわけじゃない。そこのところが引っかかって、ほんの少し。ほんの少しだけ、気持ちが許せるだけお願いした。
 横で「オレも残業代下さいよ!」と全力でアピールしていた人も俺と同額だけ上乗せされることになり、「テメェがもっと素直に貰っとけば…」とかなんとか逆恨み甚だしい文句をつけてきた。ちなみにこの人の収入源は恋人とも限らない複数の女の人からの小遣いだ。ちなみにちなみに収入より借金の方が多いらしい。毎朝昼晩とクラウスさんの爪の垢でも煎じて飲めばいいのに。
 話が脱線したけど、要するに金欠だった。忙しさにかまけて食事もおざなりだったし、いつもなら状況を見透かして家に誘ってくるライブラの番頭役は俺なんか比べ物にならないぐらい忙しく、人の世話を焼く以前に自分自身がどうにかなりそうな有様だった。
 そうなると食事は純粋な作業になる。栄養摂取を目的としていて、手軽さを追求した結果、連日バンズに野菜や加工肉を挟んだもの―サブウェイかバーガーを交互に食べるような生活になった。三つめの選択肢としては食べないこと。
 元々食事に頓着しないせいでタイミングを逸したら一食ぐらい平気で抜けた。食事を抜いたほうが財布には優しかったし。
 しばらくしてようやく事務所を飛び交う緊急連絡のアラームや書類の処理が落ち着いた頃、
「レオッちちょっと痩せた?」
 二児の母ながら凄腕狙撃手K・Kさんが心配そうに覗きこんできた。さすがによく見ていてくれるというか、俺のことも子供みたいに見てるんだよな。
「ちょっとだけ……?計ってないからわかんねっすけど」
「どれ」
 ザップさんが子供に高い高いするみたいに両脇を掴んで持ち上げやがる。確かに何かと助けられてるんで抱きかかえられた回数なら一番多いかもしれなけど。
「わかんねーけど痩せたんじゃね?ダイエット?」
「どうでもいいと思ってんなら何でやったんすか」
 ダイエットなんかしてるわけねーだろ。
「確かに忙しかったけど体が資本なんだから大事にしないとダメよ」
 K・Kさんのセリフに既視感を覚えながら半笑いで頷いた。そんな輪の向こう側で未だデスクワークが終わらないスティーブンさんが顔を上げたのを見つけた。虚ろな目とは目が合わなかったけど。
 もしかして後で誘ってくれるのかな。
 頻繁に上がり込むようになっても上司はみんなの前ではその話をしない。俺だって話の流れで、口の堅そうなツェッドさんに告げたっきりだ。やましいことがあるわけじゃあないけど、あんまり詮索されたくなくて。――そう、詮索されそうな話なのだ。
 食事の相手がクラウスさんならまだしも、スティーブンさんは元々俺自身に興味があるわけでもない。表面上は必要最低限に気を遣ってくれるけど、実際はそこまで親身になってくれてるわけじゃない。クラウスさんの手前そう振る舞っているんだろうって瞬間もある。
 それがどういう風の吹き回しか。家のガレージ裏で母親に隠れてこっそり拾った犬に餌をやるみたいにして面倒を見てくれてる。汚い野良犬なんか拾わなそうな人が、だ。
 疑問は尽きないけど、実際助かってるし、何だか素に近い表情が見られて、俺はちょっといい気分になってる。優越感っていうのかな。
「そうだ!レオッち今晩うちにご飯食べにきなさいよ」
 ぱちんと手を叩いてK・Kさんが身を乗り出してくる。銃なんか持たせるととんでもないけど、この人こう見えてすごく家庭的ないいお母さんなんだ。
「いいでしょ!今夜はこっちの仕事の予定もないんだし」
「はあ。…………ごめんなさい、やめときます」
「エエー?!」
「ほら、K・Kさんもずっと働き詰めだったじゃないですか。久しぶりの家族団欒を邪魔したら悪いっすよ」
「そんなことないのに」
 断っちゃった。とっても嬉しい申し出だったけど。
 ちらりとスティーブンさんに視線をやったけど、もう机の上のパソコンに釘づけだった。
 聞こえたかな。聞こえたよな。いかにも「ご飯奢ってください」みたいな、期待してますみたいに聞こえたかな。別にそういうつもりじゃないんだけど、誘ってくれそうな気がしたから予定を空けておきましたってのもな。
 言ってすぐに明後日向きの後悔をしたが、間もなく訪れた二人きりのタイミングを狙って声をかけられた。
「レオ、今晩の予定は?」
「うちに帰って寝るだけです」
「K・Kの誘いを断っておいて?」
 何と答えたものか迷ってうっかり見つめ合ってしまった。
「うちへの招待も断るかい?」
 俺の頭の中をどこまで見透かして言ってるんだろう。
 死に物狂いで働いて、あんなに山積みだった書類があと数センチになってる。まさか恒例のディナーのために頑張ったわけじゃないんだろうけど。やっと落ち着いて食事にありつけるって晩にご指名を受けてしまった。
「……気遣ってくれちゃってます?」
「ただ久しぶりに君と食事をしたくなったから誘っただけだよ」
 お疲れのお蔭か事務所なのに気怠そうなプライベートな空気を纏ってそんなことを言うからちょっとドキッとした。こりゃあ女の子にモテるわけだ。俺が女の子なら何でもかんでも捧げてたかもしれない。生憎いわくつきの眼しか取り柄のない男なもんで、捧げるものが何にもないんだけど。
 返事を迷っているうちに部屋の扉の向こうから騒がしい足音が近づいてくる。
「すまないがうるさいのが来る前に決断してくれ」
「行きます!いきますいきます、もちろん!」
 その数秒後には勢いよくドアが開かれて言い争いをしながらザップさんとツェッドさんが飛び込んできた。その頃にはもうスティーブンさんは机に残った数センチ分の書類を手にしていて、俺は応接セットのソファに座って相棒の音速猿を撫でているのだ。<改ページ>
 最後の書類をファイリングした卓上にはパソコンが一台だけ。
 霞む目は焼き付けを起こして視界に白くて四角い幻がちらつくが、大丈夫だ。手で触っても机の質感しかない。
 最後にパソコンを閉じようとして、やめた。マップにGPSマーカーを表示させると、ちょうど自宅のあたりにブルーの点が乗っていた。彼はもううちに着いているようだ。それを確認しただけで妙な満足感があって、しばらくその画面をぼんやり眺めていた。
「何でレオッちがアンタのうちにいるわけ?」
 反射的に振り向いた。胸がバクバクいってる。過労で弱った心臓をフル稼働させられた哀れな同僚に向かってK・Kは犯罪者でも見るような目を向けてきた。
 あんまり静かで、いつの間にか部屋に一人きりのような気分でいたが、そういえば彼女が出て行ったところは確認していなかった。迂闊だった。疲れていたにしろ、睡眠不足にしろ、こんな近くの人の気配までわからないとは。
 驚きの次にはマズイところを見られたという焦りがわいてくる。いや、仲間が危険に晒されていないか定期的にGPSで監視するのは仕事の一環なのだが。
「まさかアンタが先に晩御飯の約束してたってこと?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ何なのよー、どういう取り合わせで何のために家に上げてるわけ?」
「何って……夕飯をご馳走するためだけどね…」
「ってことは、ウチのディナーを断ってからアンタと約束したってこと?納得いかなーい!」
 マズイ。面倒な相手に見られてしまった。
「――なんて」
 ひとしきり騒いで見せたかと思えば茶化した口調をピタリとやめて、威圧感のある長身でデスクに乗り上げてきた。片目で冷やかに見下ろされると、いよいよ悪いことをしたみたいな気になってくる。
「まさかだけど、レオッちに何かしたの?」
「意味が解らないな」
「まだるっこしいわね。神々の義眼所有者だからってあの子のこと手懐けるような真似したんじゃないでしょうね」
「酷い妄想だね。僕がそんな男だと…」
「そんな男でしょ」
 被せて言い切られた。思い当たる節しかないので本気で怒らせる前に黙るに限る。
「別にそんなことしなくたってレオッちは私たちのために頑張ってくれるし、裏切ったりなんかしないわ」
「わかってるさ」
「本当にイイ子なんだから、詰まんない計算で誑かすのはやめてちょうだい」
「K・K、君は誤解してるよ。心配しているようなことは本当にないんだ。ただ、時々一緒にディナーを食べる…ディナー仲間」
 あ、変なことを言ったな。K・Kも変な顔をしてる。でも、だって他に説明のしようがないだろう。
 ディナーでなくてもいいんだけど、一緒に手料理を食べてとりとめない話をしてリラックスしたい。そんなことを懇切丁寧に説明したら、K・Kはもっと険しい顔になると思う。それはもう異界人特有の舌の裏に生息する寄生虫を見つけたときぐらい。自分だってわかってるんだ。妙なことにハマってるってことは。
「……君はよく“家族は最高”って言うだろ。それが最近ちょっとわかるんだ」
「レオッちと家族ごっこしてるっての?」
「うーん、そういうわけじゃないけど、家政婦の作った好物を一緒に食べたり、たまには一緒に料理したり、疲れていたなら横で休ませたり……本当にただそれだけなんだ。息子……というほど歳は離れてないが、弟……」
「図々しい」
「まあまあ。とにかく君の言う家族ってのはこんなかんじかと思ってさ」
 意外と楽しくて参ってるんだよ。を
 俺にだけ厳しい彼女は言葉の真偽を見極めようと眉間にたくさんしわを寄せている。全く信用がないな。珍しく掛け値なしの本心をさらけ出してみせたのに。
 本当に珍しい。これからも他の誰かに彼との時間について話すつもりはないし、はぐらかしても良かった。すぐ見破られて信用を更に損なうだろうが。
 もしかしたら、家族ってものを一番よく知ってる彼女に聞いてほしかったのかもしれない。自分の行いが何なのか、長年一人暮らしで婚約者もいない自分にはよくわからなくなっていた。
「それ…………」
 彼女が形のいい唇を開いたときだ。五分ごとに自動更新されるGPSのブルーの点が赤で塗り分けられた小道に移動したのが映し出される。この街、HLは極めて危険な街だ。目に見える騒動の他にもターゲットを待ち構える犯罪者や理性さえ持たない魔獣の類があちらこちらに潜んでいる。そのために危険度が随時マップ上に表示、更新されているのだ。
「なんでそんなところに…!?」
 悪い予感がする。大体にして彼はトラブルを拾ってくる天才だ。なにしろ最初に見つけられたのがライブラの恥部みたいな男だ。咄嗟に携帯を確認したが、何の連絡もなかった。ただ、この場所までは少し距離があって、近くに仲間もいない。何もなければいい。だが、エリア内の生存確率は極めて低い。
「………ッ!」
 上着と車のキーを取って飛び出した。とんだ心配性だ。彼のことをあんなに心配しているK・Kだって何の連絡もなしに動いたりしない。安全確認のためのGPSだが、プライベートを邪魔するためのものじゃないんだから当然だ。
 だけど、今日はダメだ。寝不足で判断力が鈍ってるのかもしれない。一瞬よぎった、自宅に帰っても彼がいないって想像が頭の中でどんどん膨らんでどうしようもない。
 駆けつけて本当に何もなかったらいくらでも笑ってくれ。その時は、俺も一緒に笑うよ。

「――――何が“家族”よ。乙女みたいな顔しちゃって」
 正真正銘、一人きりになった部屋でK・Kが吐き捨てた。<改ページ>
 あぁ、来てよかった。
 路地の入口に滑り込むようにして車を停め、小さな影に覆いかぶさろうとぬらぬらした皮膜を広げていた異形を捕捉する。
「エスメラルダ式血凍道・ランサ デル セロ アブソリュート」
 放った氷の槍が敵を貫いて触れたところから氷結させる。一瞬でご自慢の皮膜の先の爪まで凍り付いて、何が起こったのか確かめようとした首の動きをきっかけに脆い氷像は崩壊した。
「す、すすす、すてぃーぶんさん……ッ!」
 細かな氷の粒になって降り注ぐ下から震える声が聞こえて、やりすぎたことに気づく。力の加減を少し誤った。巻き添えを食ったレオナルドが凍えている。
「大丈夫か。怪我は?凍傷は?」
「し、霜焼けぐらい……です」
 冷たい手を取って引き上げると、反対側の腕に抱えていた紙袋から亀裂の入った大玉のトマトが零れ落ちた。見ると他にも路上に野菜が散乱している。
「こんなところで何をしていたんだ君は。もうちょっと自覚を持て」
「スイマセン……」
「食料だったらこれからうちで食べるんだから―――」
 そこでふと気が付いて、散乱している野菜を再び数え上げた。蔕の際まで真っ赤な潰れた肉厚トマト、ズッキーニ、折れたセロリ。見覚えのある品揃えだ。
「まさか、ヴェデッドにお遣いでも頼まれたってのか」
「ちが、違います!」
「でも一度うちには行ったんだろう?」
「はい……その、ヴェデッドさんにレシピを教わってたまには俺がご馳走したいと思って……」
「買い物ならヴェデッドが済ませてるはずだ」
「それじゃ結局スティーブンさんの奢りじゃないですか!でも予算が厳しかったんで、なるべく安い店で……と思ったんですけど」
 どういうルートで仕入れているのか、この路地の奥に格安のスーパーマーケットがあるんだそうだ。恩返しのつもりでウキウキ買い出しに出たらお約束的にピンチに陥って、結局余計な手間をかけさせたと。しかも折角買い込んだ材料は半分以上ぐちゃぐちゃになってる。
「迷惑ばっかりおかけして、本当にスイマセン」
 寒さだけではない鼻水が鼻の穴から覗いている。さっきまでは迂闊さを叱るつもりもあったのに、これじゃあ小言の一つも言えないじゃないか。
 中身が減っても大事そうに抱えた紙袋を取り上げて車に置いてまた路地を戻る。取り上げたところまでは黙って見送ていたのに、戻ってきた俺の行動が読めなくなったレオナルドが疑問符をまき散らしていたので、肩を抱いて路地の奥へ促した。
「あの、俺もう手持ちがなくって」
「いいかレオナルド。足りない材料費は出資するけど、作るのは一から十まで君一人だ。野菜を洗うのも鍋を混ぜるのも盛り付けまで全部だぞ」
「でも……」
「こっちは何日もろくなもんを食べてない。胃に優しいやつを一つ頼むよ。疲れてるんだ。これ以上は“でも”も“だって”も聞きたくない」
 手を添えたままの肩が小さく上下する。おいおい、何で泣くんだ。君も俺も心底疲れているけど、きっともう悲しいことは何もないよ。

「へい、おまち!」
 ラーメン屋の店主みたいな掛け声で並べられたスープ皿には熱々のスープ。トマト色の中にゴロゴロした野菜とベーコンが顔を出していた。
「私まで頂いてよろしいんですの?」
 遠慮がちにイスに座ったヴェデッドがスープと俺とシェフの顔を順に見る。
「いいんだよ」
 糸目のシェフも力強く頷いた。
「それじゃ俺は失礼してお風呂いただきます」
「ああ、ゆっくり暖まっておいで」
 帰って真っ先に体を温めるように言ったんだけれど、それを承知しなかったのだ。まったく頑固で困る。だから彼がトマトスープを作り上げる時間に合わせてバスタブに湯を張っておいた。
 座って落ち着くのが居心地悪そうな家政婦と一緒にスープに手を付けた。彼女から教わったレシピで作ったはずだが、全く同じ味にはなっていなくて、新鮮さと懐かしさが胃にしみわたっていく。
 この家でヴェデッドの料理を食べていた時に彼が妹の話をしてくれたことがある。
『人間ちゃんと食べないと幸せになれないんだからね!』
 そのセリフはもっともだ。だけどその中にも特に幸せな食事って言うのがあるんだ。どこのトラットリアでも食べられないやつが。
 そんな特別な時間を与えてくれる相手を、どんな名前で呼べばいい?