兄ちゃんのボール/傑生存if傑+駆/4939

 帰ると、居間のテーブルの上に新品のボールがあった。
 ピカピカの表面には油性マジックでぐしゃぐしゃ意味もなく落書きしたような線が書かれている。
 それはサインだった。プロのサッカー選手の。
 その横には「カケルくんへ」と名前まで入っている。
 幼い駆には独特のセンス溢れるサインが英語なのか漢字なのかひらがななのかもさっぱりわからなかったが、昨日の交流イベントでサインを貰って以来、家の中のどこにだって持っていった。
 風呂はさすがに濡れるからと諦めたが、食事のときにも寝るときもそばに置いていたらしい。
 トレセン合宿で三日ほど留守にしていた俺が帰ってきた時も手にはサインボールを抱えていた。
「兄ちゃんも一緒に交流会行けたら良かったのになあ」
 ひとしきりサインボールを自慢した後、そう締めくくった弟に曖昧に笑って「良かったな」と返してやる。
 普段は俺にべったりの弟だった。合宿の数日前に泊まりがけで家を空けると聞いたときは寂しがって随分ぐずったものだ。
 だから、合宿中の新鮮な刺激の多い中でもたびたび弟のことを思い出していたし、寂しがっているだろうと思いながら帰ってきた。
 ところが、「兄ちゃん待ってたんだ!」というのは自慢話のためだったのかと思うくらい熱心に交流会の話を聞かせるものだからがっかりした。
 交流会だって近所でやったものではない。合宿で寂しがる駆のご機嫌取りに父さんが横浜まで連れていってくれたのだ。
 俺がいなくても楽しくやっていたのだと思うと、弟の現金さが恨めしくなる。
 自分の話が終わってスッキリした駆はようやくサインボールをテーブルから降ろした。
「兄ちゃんは?トレセン合宿どうだった?」
「面白かったよ。今回初めて会った奴もいたけどみんな上手くてさ」
 帰宅した直後よりはしぼんだ気持ちが声に表れていても駆は気づかない。ぽつりぽつり話すせば身を乗り出して続きをせがむ。
 そのうち心も晴れてきた。
「じゃあちょっと外行くか」
「うん!」
 気持ちのいい返事の後にすかさず母さんが待ったをかける。
「もうじきお夕飯できるわよ!」
 台所からはさっきから香ばしい醤油の匂いが溢れ出していた。そのせいで腹も減っているけれど。
「ちょっとだけ!夕飯には戻るから」
「いってきまーす!」
 もう俺達は玄関で靴をひっかけていた。
 俺は玄関の隅に置いておいた自分のボールを持って、駆も自分の練習用ボールと、おまけに小脇にはサインボール。
 そんなの邪魔だと思った。でも、言ったら駆が拗ねそうだったから。

 家から走って五分もしないところに小学校がある。
 そこの誰もいないグラウンドに入り込んでボールを蹴った。
 最初にリフティングの競争をした後は駆のボールは横へ置いてパスやフェイントをやって見せた。
「この間兄ちゃんが練習してた奴だ!」
 抜かれて振り向き歓声を挙げる駆にVサインをして頷いてやった。
 合宿前に何度も挑戦して失敗ばかりしていたプレイだ。それを合宿中にコーチに見てもらって完成させたので、駆の前で成功したのは初めてだった。
「兄ちゃんのボール、足にひっついてるみたいだ!」
「お前もいっぱい練習したらできるよ」
 ちょうどその時、学校脇の電柱に設置されたスピーカーから夕方六時を告げるノイズ混じりの音楽が流れてきた。
「いけね、もう帰ンなきゃ。」
 ボールを拾い上げて駆を目で促したけれど駆けるは動こうとしなかった。
「駆?帰るぞ」
 手を差し出しても拳を固めてイヤイヤする。
 そして俯きがちにつぶやいた。
「……兄ちゃんのボール欲しい」
「は?」
 二度目は顔を上げてハッキリと言った。
「兄ちゃんのボールちょうだい!」
 いきなりのことでどういうつもりかさっぱりわからない。
 なんとなく手に持ったボールを胸に引き寄せて首を横に振った。
「駆だって自分のボール持ってるだろ?」
 本人が拾おうともしないので、仕方なく色違いの駆のボールを拾って差し出した。
 駆がサッカーを始める前、俺がサッカーを始めたときに駆が自分も欲しいと駄々をこねたから一緒に買ってもらった全く同じ品物だ。駆が青で、俺が黒。
 色違いの振り分けについての取り合いはとっくの昔に俺が譲る形で決着していて、今ではそれぞれ使い込んで傷だらけ。土埃にまみれた今は余計ボロボロに見えた。
 でも、駆は自分のボールに手を出さず、俺のボールを指さして「それがいい」と繰り返す。
「兄ちゃんのと僕の交換する!交換!ね?」
 それでも納得がいかず、いきなりわけの分からないわがままを言う駆にイライラして強く首を振った。
「同じボールなんだからいいだろ!」
「じゃあ交換してよ!兄ちゃんのがいいんだもん!」
「もういいから帰ろう。な?」
「やだ!兄ちゃんが交換してくれるまで帰らない!」
 そうしてしゃがみ込んでしまうと本格的に駆は動かなくなる。
 俺が置いていけないのをよく知っているんだ。
 でも、弟は置いて帰れないけどボールの交換もしたくない。
 意地の張り合いでお互い帰れないまま、背中でみるみる日が落ちていく。

 膠着状態がしばらく続いた頃、まだ小さい妹の手を引いて母さんが迎えに来た。
 夕飯の時間から十五分も過ぎていた。
「夕飯には帰るって言ってたでしょうが」
 一番に俺が叱られて、でもすぐにうずくまる駆を見つけて事情を察したらしい。
 駆の目の前にしゃがみ込んで説得しようとしたけれど、それでも駆は諦めなかった。
 パッと立ち上がったかと思うとグラウンド脇のベンチに走って行って、そこに大事に置いてあったサインボールを俺の目の前に突き出した。
「これと、これと交換!」
「駆、アンタそれあんなに大事にしてたじゃないの。」
「いいもん、兄ちゃんのボールがいいの!」
 俺はサインボールなんかに興味はなくて交換もウンザリだったけど、ずっと離さなかったサインボールをあっさり手放すと言い出したのに面食らってしまった。
 何も言えない俺の脇腹をこっそり母さんがつつく。
「傑お願い。今だけでいいからウンて言ってあげて?おうちに帰ってからにしましょう?」
 結局、折れたのはやっぱり俺だった。
 “お兄ちゃん”だから。
 駆は泥だらけの俺のボールをがっちり抱いて、俺は駆の練習用ボールを蹴りながらサインボールを抱えて帰った。
「何でそんなのがいいんだよ」
 尋ねると、わがままが通って上機嫌の駆はにっこり笑顔で言った。
「兄ちゃんのボールの方がかっこいいもん!」
 俺には全然意味がわからなかった。

 後になって思えば、それも“おさがり”の一つだったのだと思う。
「俺も兄ちゃんいるからおさがり着せられるけど色薄くなってるし名前書いてあるしヤだよ」
「うちもうちも。うち姉貴しかいないから従兄弟のおさがり貰ってくるんだぜ」
「いいよなー一番上は」
 同学年の仲間たちからそう言われても「そういうものなのか」と他人事なのは自分が長男だからではない。弟がおさがりを嫌がらないからだ。
 年子の兄弟だから元からお揃いの持ち物も多かったけれど、駆は俺の“おさがり”で“一緒”が好きだった。
 服なんかサイズが合わなくなる頃には肘や膝はすり減って穴もあくしシャツの首も裾も伸びていた。それでも着ると言って、母さんには良い子だと褒められながらも引き止められた。
 駆があまりにこだわりがなさすぎて、ボロボロの服を平気で着たから親の目から見てもみすぼらしく思えたんだろう。
 兄弟一緒に通っているサッカークラブの仲間にはすぐにおさがりを見破られるし、それでも駆は誇らしげに言う。
「そう、兄ちゃんの!」
「普通おさがり嫌じゃねェ?」
 重ねて訊かれても何故そんなことを訊かれるのかわからないとでも言うように首を振る。
 でも、その話題の最後には「まあ、兄貴が傑さんだしな」で納得されてしまう。
 横で会話に混ざるでもなく立っていた俺は納得がいかなかった。

・・・・

 散らかした部屋を渋々片付けていたら棚に本を捩じ込んだ拍子に棚の上のものが転がり落ちてきた。一つ片付けた端から一つ散らかった事実が心を折りにくる。
 この部屋を自分の部屋にしてから十数年。モノを捨てるのが苦手なお陰で散らかり放題だ。
 気を抜くと散らかしてしまって、それを放置すると母親が踏み込んでくる。
 見つかってまずいものなどそんなにないつもりでいてももう高校だ。勝手にあれこれ見られるのは嫌だ。
 隣の部屋では弟もまた同じような作業をしていた。
「そんなところばかり似て困るわ」
 そうため息をついた母さんは一階でのんびりお茶なんか飲んでいる。
「ったく!」
 早々に休憩を決めた。とはいえ学習机の上を片付ける際に下ろしたプリントや本が散らばっていて床は見えない。
 仕方なく足元をみると、さっき棚から落ちたピカピカのボールが目についた。
 ピカピカだけど、棚の上でずっと放置されていたのでホコリを被っている。
 頓着せず袖でホコリを拭うと、誰かのサインが書かれていた。
 筆記体のアルファベットだろうか。誰のものか考えてみたけれど、読めない。
 横には「カケルくんへ」と添えてあった。
 なるほど、自分がもらったものではないから思い出せないんだ。
 それと同時に小学校の頃の思い出が蘇ってくる。
 サインの主には申し訳ないが、駆のわがままで押し付けられたボールが好きになれなくて、小学生には高い棚の上に飾ってそれっきりだったのだ。
 駆本人もすっかり忘れて取り返しにこない。
 芋づる式にいろんなことを思い出して可笑しくなった。
 ちょうどよく貸していたものを返しに俺の部屋に顔を出した駆は一人で笑う俺に顔を顰める。
「兄ちゃん…何笑ってるの?」
 普段から愛想はない方だけれど、そんなあからさまに不気味なもののような扱いを受けると少し傷つく。
「いいところに来たな。これ、お前に返すよ。」
 腕いっぱいに抱えていたサッカーの本や漫画や、俺のものでもないCDを床の雑誌の上に置いた駆に懐かしいサインボールを投げてやる。
 そこで一つのボールと入れ替わりに十品以上の返却品が部屋に増えたことに気づいてがっかりした。
 せめて自分のものでないものはこの場で突き返そうと思って駆の足元で分別をする。
 すると、数秒呆けていた駆が頭上でわめき始める。
「わー!これ、兄ちゃんがトレセン合宿行ってたときの…っ!」
 この分だと俺が思い出したエピソードも一緒に思い出したようだ。
 結局CD三枚しかなかった返却品で頭を小突いてやりながらダメ押しのように「交換したやつ、な」と教えてやったのはちょっとした八つ当たりだ。部屋が片付かないことの。
 駆は今更な言い訳をするか一緒になって笑うかすると思っていた。
 それが、何が引き金か頬を染めて、ついには頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 しゃがむ際に腕で引っ掛けた雑誌タワーが倒壊する。
 いい加減に積んでいるように見えても分別して避けておいたものだ。気をつけて欲しい。
「変なこと言ったことまで思い出しちゃったっ!わー、もう兄ちゃん忘れてよ!」
「変なことって“兄ちゃんのボールがいい”?“兄ちゃんのボールの方がカッコいい”だっけ?」
「黙って、黙って、黙れよー!」
 耳まで真っ赤にして恥ずかしがってくれて気分がいい。やっと仕返しができた。
 今なら、幼い駆が何であんな駄々をこねたのか、今こんなに恥ずかしがるのかがわかる。
 わがままに隠れた強烈な愛情表現を理解できる。
「一生忘れねーよ。」
 きっともう「兄ちゃんのボールが欲しい」なんて言ってくれない。
 あの頃みたいに俺だけを見ていてはくれない。あの頃は特別だった。
 目の前を走れば簡単に駆の視界を占領できた。
「忘れてよー!」
 すがりついてきた拍子にまたその辺に積み上げてあった荷物が雪崩を起こした。
 これでは一向に片付けが進まない。
 小学校の頃と変わらず要求を飲ませるまで動かないと座り込んだ駆は力づくでつまみ出して扉を閉めた。
 そんなに恥ずかしがるほどのことかとも思う。
 扉の内側には散らばった雑誌の上にサインボールが転がっていた。
 それを再び慎重に棚の上に置いて袖を捲り上げる。
 扉一枚隔てた廊下からはまだ駆の唸り声が聞こえてきて、雑誌を集めなおす作業だって笑いながらできそうだった。