再会/傑荒/4714

 朝から熱があって寒気がした。そんなものすぐにおさまると思ったのに、母親が病院に寄ってから登校しろとうるさいから。
 早い時間に行ったつもりが総合病院は混んでいた。日増しに寒くなるせいか、マスクをして咳き込む学生の姿もちらほら見える。待合室のベンチで参考書を開いているのは受験生だろうか。
 俺も高校受験を控えているが、体調の悪い時に勉強なんて頭に入るわけがないと思っている。見知らぬ学生を見習う気にはなれなかった。
 スポーツ推薦枠は取れなかったが、担任に頼み込んで通常の推薦入試を受けることが決まっている。根拠はないが、落ちる気がしない。
 受験勉強よりも気になることがあった。
 会計窓口の上に掛かった時計をみると、もう二時間目の授業が折り返す頃だった。窓口からの呼出は一向にかからない。どうせならちょうど四時間目の終わりに学校に着けばいい。それまでこの空気の悪い待合室で座りっぱなしも嫌だけど。
 暇つぶしにバッグに入れっぱなしの雑誌を引っ張り出して何気なくページを開くと、無意識に指が選んだみたいに見知った顔が紙面に現れる。何度も読んだページだから指に引っかかりやすかったのかもしれない。
 文字は読まなかった。試合中の頼もしい表情を観察するように見つめているうちに、種で重くなったひまわりみたいに頭が下がる。風邪のせいじゃない。前を向くのが苦しいような気がして項垂れた。
 膝の上の雑誌に近づくごとに視界が暗くなる。
「あら、大丈夫?」
 声に顔を上げる。腰の曲がった老婆の「苦しかったら看護婦さん呼びましょうか」という親切を慌てて断った。病院の待合室で項垂れていたら確かに紛らわしい。
 妙な感傷を振り払うように雑誌を閉じた。風邪のせいか気持ちまで弱っている。
「気分が悪くなったら恥ずかしがらずに言うのよ。じゃあね。」
「すンません、ありがとうございました。」
 まだ心配してくれるらしい老婆に丁寧に頭を下げて見送り、会計窓口に向き直ったとき、隣に人の気配を感じて驚いた。
 いつの間にか、すぐ隣に人が座っている。よそを向いていたとはいえ歩いてくるのも座ったのもわからなかった。しかも、その人物というのが、
「……傑!」
 膝の上の雑誌で見たばかりの男だった。逢沢傑。雑誌の中で青いユニフォームを着ていた傑が制服姿で当たり前のように座っていた。
 どうもバツが悪くて雑誌を乱暴にしまう。いつからいたのだろう。傑のページを見ていたところから見られていたのなら恥ずかしくてたまらない。
 傑は何も言わなかった。試合中のベンチからピッチを見渡すように前を見て、こちらを見もしない。こんな近くにいて俺がわからないはずもないのに。
 これは喧嘩の延長なのかもしれなかった。喧嘩というか、絶交か。
 進学する高校のことで傑を怒らせたのはほんの三週間前のことだ。

 U-15の代表合宿で出会って少しの間一緒に過ごして以来、久し振りに会った。
 監督と上手くいかず合宿途中で飛び出してからも時々連絡を取り合っていた。そのつもりはなくても話す間に傑から不真面目さや奔放さについて説教をされるのは毎度のことで、それでも傑からメールがくれば嬉しかったし、代表チームの様子を聞けば悔しかった。
 多分、それを分かっていたから傑も俺を気にしてくれていた。
 監督よりも他のどのチームメイトよりも俺自身よりも、俺のことを買ってくれていたのは傑だった。
 久しぶりに会おうと言ったのは俺の方だった。話したいことがあった。
 サッカーではあまり強豪とはいえない江ノ島高校の、しかも、サッカー部ではなく同好会の監督と会ったのは代表候補を外れて一ヵ月半程経った頃だった。
 岩城監督は俺の教わったどの監督よりも若く、頼りない印象とは裏腹に大きな夢を語る人だった。名門校や代表チームの実績ある監督への反発心がなかったとはいえないが、伝統あるチームなんかよりよっぽど性に合う。
「俺は叱られるより褒められて伸びるタイプだから」
 と言って周りを怒らせたことがある。
「それだからお前は駄目なんだ」とも言われたけれど、何が自分に合って合わないかはわかっているつもりだった。岩城監督の指導でなら力が伸ばせる。そう直感して手を取った。
 妥協や遊びで同好会を選んだわけじゃない。
 それが、傑には伝わらなかった。
『失望したぜ、荒木っ!』

 それ以来、何度携帯に連絡を入れても返事はなかった。ちゃんと話をすれば傑なら理解してくれると思ったのに。人の事をわがままだバカだと言いながら絶交なんて、お前の方がガキくさい真似をして。
 言ってやりたいことは山ほどあったけど、わかってほしいことはそんなにいくつもなかった。
「傑、今日どうしたんだよ。俺、風邪なんだよ。お前伝染ったら困るだろ。マスク持ってねえなら近くくんなよ。」
 返事はなかった。少しだけ視線をくれて、すぐにまた正面を向く。
「まだ俺とは話したくないってか。じゃあなんでわざわざ隣座るんだよ。他に空いてる椅子いっぱいあんだろうが。」
 案の定だんまり。ガキくさいところはあったが、こんなに意地を張る奴だっただろうか。
 そう思ったけれど、すぐに思い直した。傑と過ごしたのは合宿の僅かな時間だ。その後も携帯でやりとりがあったとはいえ、知らない顔はいくつもある。
 短い間に一気に親しくなったせいで相手のことを何でも知っているような勘違いをしていただけかもしれない。
 なるべく今日は怒らせないようにしよう。病院でまで喧嘩なんてまっぴらゴメンだ。
 あてつけみたいにならないようそっと席を立ってすぐ目の前のベンチに座り直した。
「言っとくけど、風邪伝染しちゃ悪いからわざわざ移動してやったんだからな。」
 譲歩で少しぐらい顔色を変えるかと思ってチラリと見ても変わらない。今日は始めから怒った顔ではなかった。何を考えてるんだかわからない無表情。元から傑は表情豊かというほどでもないから珍しくはない。もしかしたら傑もやはり体調が悪くてぼんやりしているのかもしれない。
「制服ってことはお前も学校行く途中だろ?鎌倉からここって遠回りじゃねえの?」
 怪我やリハビリで有名な医師がいると聞いたこともない。登校前にわざわざ寄るほど体調が悪そうにも見えないし、寄るにしてももっと立地のいい病院があったんじゃないかと思う。
 訊いても返事がないことには馴れてきた。もしかしたら二度と顔も合わせてもらえないかもしれないと思っていたのだ。どういうつもりかは知らないが、わざわざ隣に座ったということは傑なりに歩み寄ってくれたということだ。本人が何も言わないからそう前向きに受け取った。
 逆に何も言われないならチャンスかもしれない。慎重に言葉を選んだ。
「あのさ、しばらくそのまま黙って聞いててくれよ。」
 同好会のこと。岩城が高校時代に同好会の主将として一度だけ神奈川制覇を果たしていること。今までの江ノ島FCが廃部寸前だったことも隠さず話した。今年は岩城があちこちの中学やジュニアユースを回って選手を集めていること。
 岩城に語られた話を、聞いて感じた感動を、そのまま傑に伝えたくて記憶と言葉を必死にたぐり寄せたけど拙い気がした。直接会わせることができたらいいのに。きっと傑も同じ風にワクワクする。
「でさ、この間は“まともな大会にも出られない”って言われたけど、そんなことないんだぜ。
 お前がキレてさっさと帰っちまうから言いそびれたけど、校内試合で公認クラブに勝てば、俺たち同好会の方が学校の代表として大会に出られるんだ。
 来年は俺が絶対にチームを大会に連れてく。それで、お前のいる鎌学とだって戦える。」
 傑と別々のユニフォームを着てピッチに立つのを想像したらそれがどうしても叶えたい夢のように思えて、蛍光灯しかない病院の天井を見上げて目を瞑った。
 大会で実績を作ればまた代表候補にも呼ばれるかもしれない。そうしたら、今度はもっと上手くやろう。この間会った時に傑を怒らせたのは、突然同好会に入るなんて言ったからだけではないように思われた。落ち着いて話を聞いてもらえなかったのは、何度も蒸し返しては叱られている合宿を飛び出した一件で「荒木=わがまま」みたいな図式が傑の中に根づいているような気がした。否定はできないが心外である。
「お前にだって勝ってやる。」
 膝の上で拳を作った。
 言ってやった。
 そして傑が「負けない」と応じて固く握手でもして仲直り。のつもりだった。
「…………」
 力強い宣言の余韻も消えようかという頃、
「……おい、もう喋っていいんだぜ?っていうか何か言えよ。」
 黙ってろと言ったのは俺だ。俺だが、ここは空気を読んで口を開くところだろう。律儀に黙っているにしたって程がある。
 まさか寝てるんじゃないだろうな。こっちが必死で話をしたのに。
 その時、
「アイザワさーん」
 声につられて会計窓口を見る。担当の職員が何度も“アイザワさん”を呼びながらキョロキョロしている。
「おい、お前呼ばれたんじゃねえの?」
 背後では立つ気配がなくて、いよいよ寝ているのではないかと思って振り返った。でも、
「傑?」
 そこには誰もいなかった。ベンチには傑も、他の誰の姿もない。空っぽだった。
 古い椅子が軋んだ音も、すぐ後ろで人が立ったのもわからなかった。
 自分の話にそんなに夢中になっていただろうか。ずっと傑のことを気にし続けていたのに、いなくなったことにも気づかない程?
 待合室を見渡しても傑の姿はなかった。代わりに会計窓口から離れた席でよぼよぼの老人がゆっくり立ち上がって、付き添いの女性と一緒に“アイザワさん”を探していた窓口へ歩いていった。
 胸がざわざわして落ち着かなくなる。声を張り上げて名前を呼ぶこともできない待合室周辺を歩き回ってみたが、結局傑を見つけることはできなかった。

 俺が傑の行方を知ったのはその日の昼のことだ。
 鎌倉の近くで今朝の登校時間帯にトラックが事故を起こし、巻き込まれた中学生が重体で救急搬送されたと噂になっていた。
 夕方のニュースで「兄の逢沢傑さんは搬送先の病院で死亡が確認された」と言っていた。搬送先が俺のいた病院と同じはずもなかった。
 すぐにはどういうことか理解ができず、呆然とテレビを見つめていたら母親に慰めるみたいに肩を抱かれた。
 両手に顔を埋めたら涙が溢れてきた。

 まだ納得がいかず、傑の携帯に電話をしたら母親が出た。
「そう、ニュースで…わざわざありがとう」
 傑の母親はすごく疲れた声をしていて、病院で傑に会ったなんて言えなかった。
 どんな顔をして会いに行けばいいのかもわからなくて葬式は断った。
「それじゃあ…」と墓の場所を教えてくれたのを震える手でメモして、実際に墓参りに行ったのはそれから三ヶ月も経ってからだった。
 冬風にさらされ続けている黒い墓石は冷たくて、当たり前ながら傑と結びつくところなど正面に刻まれた「逢沢家」という文字ぐらいなものだった。
 ここにはいない。そんな気がした。
 それでも、他のどこで傑に会っていいかわからない。傑の気配のない墓石に向かって尋ねた。
「何で俺のとこに来たんだよ。」
 病院と同じ。答えはない。
「ちゃんと最後まで聞いてたのかよ。またろくに話も聞かずいっちまったんじゃねえだろうな。ちゃんとわかってくれたのかよ。」
 目を閉じても寒々しい曇り空を仰いでも、何故だか鎌学のユニフォームを着た傑と江ノ島のユニフォームで向きあう自分は想像できなかった。
 それでも、病院で傑に会ったのが夢や勘違いとは少しも思わなかった。あれは間違いなく傑だった。
 傑は俺に、会いに来たのだ。