窓ガラス越しに見える空が徐々に暗くなっていく。
それよりも更に暗い室内でパソコンの画面だけが明るく浮かび上がりそれに向かう少年の姿を照らし出していた。
一人で作業するときは必ずといっていいほど装着しているヘッドフォンは首にかけてある。
パソコンの横にはワイヤレスフォンと携帯電話が並べて置いてあった。
画面にはメーラーが表示され、OMCチャンピオンとしてスポンサー契約している企業からの堅苦しいメールが開かれている。
それを意味もなくスクロールしてはまた別の一通を開き、それもまた読むわけでもなく。
部屋の中があまりにも静かで壁掛け時計の秒針の音がやけに響く。
一時間ほど前から数えて十四回目のため息をこぼした時、画面の端に並んだ小さなアイコンの一つからぴょこんと吹き出しが表示された。
“ケンジ さんがログインしました”
吹き出しをクリックするとOZ画面が開き、白い背景の部屋の中に黄色いリスのアバターが表示された。
ケンジ、小磯健二のアバターだ。
彼は二ヶ月前に起きたラブマシーン事件以来、以前使っていたアバターデザインをやめてこの不細工なリスを自分の分身としている。
このリスが動き回っているということは健二自身が通信端末の前にいるということだ。
時間帯からして学校から帰宅しログインしたところだろう。
少年、池沢佳主馬は白いウサギのアバターを操ってケンジの部屋へ入室した。
『あ、佳主馬くん』
入室アラートに素早く反応した健二が音声チャットを開始させる。
その声に合わせて黄色いリスが手を振った。
OZにはユーザの声から感情を読み取りアバターの行動に反映させる機能がある。
「健二さん、今帰ったところ?」
おかえり、と言うとリスがもじもじした様子で照れを表現しながら「た、ただいま」と言った。
そういえば、この挨拶を交わしたのは初めてだ。
『こんな時間に佳主馬くんと喋るの、珍しいね』
そう、いつもならば平日のこの時間帯にパソコンに向かっていない。
丁度六時を回った。普段ならば母を手伝って風呂掃除と夕飯の配膳をしている頃だ。
池沢家にはこれといって親の決めた“子供の仕事”がないが、風呂掃除に関しては妊娠中の母の腹が目立ち始めてから自主的にやるようになった。
残業がなければ七時前に帰ってくる父と家族三人揃って夕飯に手を合わせる。
“ご飯は家族そろって”というのは母の実家である陣内家の先代家長が家族一人一人に幼い頃から教え込んだもので、佳主馬もまたそれが標準の感覚として身についている。
そのため、夕食が始まる夕方から風呂を済ませる九時頃まではパソコンに向かわない。
夏休みが折り返す頃まで一緒に上田で過ごした健二とは三日と置かずに連絡を取り合っているが、それも常に夜九時以降に限られていた。
今日は特別な理由がある。
「さっき母さんが病院に運ばれてったんだ。」
告げると画面上の黄色いリスが大袈裟に驚いて白いウサギの眼の前で小さな円を描いて走り回った。
佳主馬のアバター、キングカズマに比べてケンジはオーバーリアクションだった。
それはつまり、健二の声が感情豊かということだ。
『だだだ、大丈夫なの?』
「あ、ごめん。陣痛が始まったってこと。」
八月下旬に臨月に入ってから毎日のように「もうじきだよ」と言っていたので家族みんな心の準備はしてあった。
経産婦は陣痛が始まったらすぐに病院へ来るようにと言われていたので予めまとめてあった入院荷物を持ってタクシーに乗せた。
父は仕事が終わったら直接病院へ向かうという。
『佳主馬くんは病院へ行かないの?』
「今夜、九時から公式戦の予定があるから。」
公式戦と言うのはOZマーシャルアーツ・チャンピオンシップことだ。
夏の騒動の際、それまで王座を誰にも譲らなかったキングカズマがラブマシーンに負け、その腰からチャンピオンベルトが消えた。
公式戦でないとしても負けは負け。
そうしてチャンピオンの称号を失ったキングカズマだが、全世界が見守る中でラブマシーンを打ち倒した。
その功績と相手がハッキングAIという不正なアカウントであったことからOMC運営が特別措置として無条件でチャンピオン資格を与えると申し出たが、佳主馬はそれを断った。
何故運営からの申し出を断ったのかという健二の問いに佳主馬はこう答えている。
「どんな理由だって僕は負けたんだ。もう一度、イチから戦って取り戻すよ。」
その元チャンピオンの心意気を買ったスポンサーが新たな王者を決めるチャンピオンシップを立ち上げた。
新規エントリーを募ってプレイヤーを皆スタート地点へ並べたのである。
文字通り一からやり直しだが、データ上の経験値が0に等しかった新参者でも古参プレイヤーとぶつかりあえるチャンスとあって多くの旧OMCプレイヤーが参加した。
キングカズマも参加すると言う噂が絶大な集客力を発揮したのは言うまでもない。
新OMC開幕から数週間。OZはちょっとしたお祭り状態だった。
独自の採点基準に基づいて付与される勝利ポイントの累計でランキングが決まり、一定ランク以上のプレイヤーは試合相手を指名もできる。
キングカズマのメールボックスには対戦申込みで溢れていた。
「あと一回、最高得点で勝てばチャンピオンリーグ入りなんだよ。」
現在までランキングトップを独走しているキングカズマだが、まだチャンピオン資格には到達していない。
一定ポイント以上のプレイヤーでトーナメントが組まれ、それに勝ちぬいた一人が新生チャンピオンとなる。
今夜の試合の結果次第ではトーナメント入り確定第一号となるはずだ。
それを不戦敗にしたくない気持ちを抱え母に付き添うべきか迷っていた時、母はあっさりと息子に留守番を命じた。
数日前に立ち合い出産の話さえしていたくせに、さも当然と言う様子で「行ってきます」と言って一人で出ていった。
そうして予定通りに試合に臨むことを決めたはいいが、いつお産が始まるのか、無事に産まれてくれるかと思うとどうにも落ち着かない。
一人で過ごす夕暮れ時は世界から取り残されたような気持になる。
『出産てどれぐらいかかるのかな』
「前の子の半分ぐらいって言ってたけど…」
『佳主馬くんが生まれた時、何時間くらいかかったの?』
「知らない。」
一瞬、よく切れるハサミでテープをちょんっと切ったように話が途切れる。
『そ、そうだよね。僕も知らないや。』
慌てた様子で返す健二の声に失敗したと思った。佳主馬にはよくあることだった。
陣内家の本家で顔を見て話していた時はもっと上手く話が出来ていた気がするが、それぞれが家に帰ってOZ経由で通話するようになってからは何度かこういうことがあった。
先週の通話の際にもこれを何度もやってしまった。
さすがに健二にも“愛想のない奴”と嫌われたかもしれない。
そう不安に思って思わず謝ったが、健二は『僕もよくやる』と笑った。
『僕も人づきあい得意な方じゃないから、場を白けさせることも多いんだよね。』
「ああ、健二さんてそんなかんじだよね。」
『………。』
折角フォローしてくれた健二を黙らせてしまい、再び慌てて謝ることになったのだけれど。
パソコンの前でこっそり頭を振って「健二さんは気にしてない」と心の中で唱えた。
静かな暗い部屋で何かを気に病み始めたらドツボにはまってしまいそうだ。
健二の芯の強さは良く知っているし尊敬してもいるが、普段はどこか抜けていてどちらかと言えば気も小さい。
あまり年上という気がしないので気が緩んで失言をしてしまいがちだった。
そうやって細かい失敗を悔やんだり気を使うことに疲れてもケンジがOZにログインしていれば声をかけるし、形ばかりの様子伺いで会話を止めることはない。
佳主馬には珍しいことだが、面倒に思いながらも親しくなりたいという気持ちが絶えないので新しい話題を探す。
お喋りを繋げたいのは健二も一緒。
『赤ちゃん、女の子って言ってたよね。名前は決まってるの?』
「まだ、でもいくつか候補は挙がってるよ。」
僕もちょっと考えた、と小さく漏らした言葉も高性能なマイクはしっかりと拾ってくれたようで、それまでこれといったアクションもなく口ばかりぱくぱく動いていたウサギのアバターが照れたように後頭部を掻く。
この感情反映機能はあからさまでいけない。
恥ずかしさに耐えかねてオフ設定にしてしまおうかと設定変更メニューに手が伸びたが、ウサギの目の前にいるリスが嬉しそうに花を飛ばして笑うので止めた。
ケンジは真顔でいれば可愛いと言うよりも不細工なのだがひとたび動くと愛嬌たっぷりだ。
ラブマシーン騒動で愛着を持った健二がこのアバタを使い続けている気持ちもなんとなくわかる。
こうしてアバタを見ながら喋っているせいで余計に健二に対する間の抜けた印象が育っていくのだけれど。
暗い部屋の中でパソコンに向かって話し続けているところへポーンというアラート音が鳴る。
それと同時にOZ画面に「PM8:30になりました」という表示が現れる。
九時からのOMCに備えて佳主馬自身がセットしておいたアラームだった。
タスクバーの端に表示された時計と無言のままの携帯電話を確認する。
母が病院へ出発してから三時間半。
お産はまだまだ先なのか、健二とのチャットを開始する前に一度父から連絡があったきり着信音の鳴る気配もない。
マイクに拾われないようこっそりため息を漏らしたが僅かな沈黙で見透かされる。
『まだ連絡こないね。』
喋ることで焦る気持ちをいくらか紛らわせていたので佳主馬にとっては思っていたよりも時間が過ぎていたくらいだけれど、健二もまた気にしていたのかもしれない。
『佳主馬くん、今日はヘッドセット使ってないでしょ?』
悪戯っぽい声音で言い当てられる。
「どうして…あ、スピーカーからの音まで拾ってた?」
スピーカーから流れる健二の声を佳主馬側のマイクが拾って再び健二の元へ届けてしまっていたらしい。
これを避けるために普段は少なくともヘッドフォンを使用しているのだけれど。
『うん。どうしたのかなって思ってたんだけど…もしかして電話の呼び出し音を聞き逃さないようにしてるのかな、って。違った?』
「健二さん、たまに鋭いよね。」
たまに、は余計だったかもしれない。乾いた笑いが聞こえてきた。
「手元に携帯も子機も持ってきてあるんだけど、家じゃノイズキャンセラヘッドフォン使ってるし…してても目の前にあるんだから連絡が来たら気づかないわけないんだけど…」
落ち着かなくって。
産むのは母親で自分はどこも痛くなったりしないし妊婦健診の結果もここまで順調にきているのできっと大丈夫とも聞いている。
それでも一人ではあんまりにも時間が長く、家は広く、夜闇は深く感じられた。
「健二さんがログインしてきたの見つけてホッとしたんだ。」
『僕なんかでも、ちょっとでも支えになれたかな』
「勿論だよ!」
飛びつくように言うと照れた様子で『ありがとう』と言われてしまった。
「感謝してるのは僕の方なのに。健二さん、帰ってからずっと付き合ってくれてるんじゃない?」
『喋ってる間にこっそり着替えてたよ。』
冗談めかして言うけれど、それは途中で声が遠くなったので佳主馬も知っている。
「ごめんね。夕飯の時間とか、大丈夫?」
佳主馬自身は出がけに母が冷蔵庫から出して並べてくれた作り置きの惣菜で早々に済ませていた。
一人で食べるのは滅多にないことで、やっぱり手元に携帯電話を置いたまま心細さを感じながら食べた食事はあまり美味しく感じられなかった。
『平気だよ。うちは僕一人だから自分の好きな時に温めて食べたらいいし。』
「あ…」
本当に普通のことのように、普通のこととして話した健二の言葉で沈黙が生まれる。
『え、あ、大丈夫だよ。うちはずっとこうだったから、馴れてるから。』
数秒かけて沈黙の意味を察した健二が慌てて明るい声で凍りついた空気を打ち破った。
『それに、上田から帰ってからは仕事で遅く帰った母さんと一緒に夜食を食べたりしてるんだ。』
健二の家は父が海外に単身赴任、母も仕事が忙しく遅くまで帰らないことが多い。
その状態がもう何年も続いているので自宅では一人の時間が長いのだと佳主馬も聞いていた。
毎日朝食と夕食を家族揃って食べる佳主馬にとっての普通は健二にとって普通ではない。
一人きりの食事が味気ないことをほんの数時間前に実感したせいで必要以上に健二に同情心を抱いてしまう。
画面の中ではリスが両腕を精一杯広げてばたばたを動かし、家庭のささやかな進歩を嬉しそうに説明しているのに、寂しいというのは自分の価値観の押しつけかもしれない。
それでもはしゃぐアバターを見つめる眉間にやるせない皺が出来る。
近くにさえ住んでいたら、毎日だって一緒に食卓を囲めるのに。
そんな思いがちらりと頭を掠めた時、着信音が暗い室内に響き渡った。
生まれたての妹は予想以上に小さく見えた。
3,800グラムと言われてもピンとこなかったけれど「お前の生まれた時よりも500グラムも大きいんだよ」と言われたら凄いことのように思えてきた。
あんまりにも脆く見えて恐る恐る指先で触ってみたが、当然触れたところから崩れていくようなことはなく、勇気を出して頭を撫でると今度は頭蓋骨の感触があると思ったところが予想外に柔らかくてビクリと手を引いたのを両親に笑われた。
赤ちゃんとはそういうもので、その頭蓋骨の穴は成長と共に閉じていくのだそうだ。
無事産まれたという連絡を受けた後に臨んだOMCの試合は絶好調で勝利し、チャンピオントーナメントにも第一号エントリーを果たした。
試合が終わってから父が帰宅するまで再び健二と過ごした。
暫くは興奮が収まらずいつもより饒舌になっていて、それが落ち着いてからどっと疲れが来た。
翌日、父に連れられて病院を訪れ妹と初対面した時は、今度は感動でなかなか言葉が出なかった。
「今が0歳で、僕と13歳離れてるから…僕が18の時にはまだ5歳か。」
病院からの帰り道、青い空を見上げて一人ごとのつもりで呟くと父が返事をした。
「なんだ、高校卒業したら家を出る予定でも立ててるのか?」
「別に、そんなんじゃないけど…」
東京に住む人と毎日食卓を囲むには名古屋では遠すぎる。
産まれたての妹と会ったばかりなのに離れて暮らすことを考えているなんて悪いことのようにも思われたけれど、妹の他にも出来てしまった。
毎日一緒に温かいご飯を食べたい人が。
それを考えたらとても素敵なことのように思えて嬉しくなる、そんな相手。
上田の大家族の中で見た柔らかい笑顔が目に浮かぶ。