一瞬だけ牙を剥かれた。あの時だけは本当の顔だと思った。
他の誰でもなく、俺に向けられた鋭い王者の牙。
卒業式も終業式もとっくに終わって街は平日でも学生が溢れている。部活もあるが明るいうちに解散になる。日も長くなった。
チームも体も新しい目標に向かって動いている。
三年生の少ない江ノ高サッカー部も先輩の引退で少なからず空気が変わった。新キャプテンは満場一致で決まったが、賑やかすぎるほど賑やかなチームに改めて手を焼いている。
その様子をみんなが笑うので人数が減ったようには感じない。それでも沢村を困らせてばかりいた人たちが新米キャプテンをフォローするために先回りをして動く。みんなが前を向いて歩き始めていた。
そんな中、駆はあの日ばかりを思い出していた。選手権大会の決勝。後半二十分の対峙。一生忘れないと思う。鼓動は早いのに神経が研ぎ澄まされて視界がクリアだった。自分の目で見ているはずなのに焦りも高ぶりも他人ごとのようになって一歩引いた場所から冷静にモノが見えた。
過去にも似た経験がある。でも、それは駆一人のモノではなかった。確信がある。駆の中の傑が引き起こした奇跡のような時間だった。
もうこの世にいない兄は何度か駆の中から顔を覗かせた。最初は支配されるような形で。その後に隣で兄が走っていてくれるような不思議な感覚がきた。尊敬する兄が側にいてくれると感じられるのは心強くて逆境も何もかもが怖くなかった。
でも、あの日だけは。レオナルド・シルバと正式な舞台で対決したあの決勝だけは100パーセント自分の意思で、力だけで戦いたいと望んだ。
テレビを通して見るばかりの雲の上の人だと思っていたのに、いつの間にか兄ではなく自分を認めて欲しいと思うようになっていた。だから、ゴール前で向き合ったときの鳥肌がたつような表情が自分だけに向けられたものだったら、と。
そればかりを思い出すのには理由がある。決勝の日以来レオと連絡をとっていなかった。顔も見ていない。
向こうは東京でこちらは神奈川だ。携帯のアドレスも駆が知っているのはレオと同じ蹴球学園の群咲舞衣のものだけだ。特別用事があるわけでもないのに舞衣につなぎをつけてもらうのも気が引ける。
目の前からいないとなると余計に思い出してしまう。小学校の頃に仲が良かった友達が一人二人転校してしまった直後もそうだった。それから時間の経過と一緒に徐々に思い出す頻度が下がっていく。
でも、レオはそうはならないだろう。テレビや雑誌で見かけるたびに思い出す。思い出すたびにきっと向き合った時のたまらない感覚も蘇ってくるのだ。
もどかしさから何度も落ち着きなく座り直して、スポーツニュースの冒頭でテロップと共に蹴学のユニフォーム姿のレオが映ったのを見てテレビを消した。
どんな話題だったのか気になるがテレビに映る彼を見るのが面白くなかった。以前はたくさんいるファンの一人と同じに自分から遠い人として平気で見ることができたのに。親しく話せるようになって、愛称で呼ぶことを許されて、調子に乗ったのだろうか。
もうじき新学期だ。春休み中からこの春入学する新一年生が数人練習に参加している。
中学でも先輩だった時期があったのに何だか勝手が違った。選手権大会の影響か、初対面でも名前を呼ばれることが多い。選手として、先輩として期待されているのを感じるとしっかりしなければと思うのに。
落ち着かないときはじっとしていては駄目だと思ってボールを持って玄関に向かった。靴につま先を突っ込んだところで携帯が鳴る。
知らない番号だった。迷惑電話の類を受けたことは殆どないが、少し警戒しながら受話ボタンを選んで端末を耳に当てる。
「もしもし、……どちらさまですか?」
『やあカケル。誰だと思う?』
機械越しの声は記憶より低く聞こえた。独特の発音の癖。驚きで心臓が痛い。
上手く声が出なくて答えられないでいたら返答を待たず、でも誰だか分かっているのを確信した様子で続けた。
『今から会おう。以前舞衣に呼び出された公園がイイネ』
一方的に決められて吃音みたいな言葉にならない文字ばかり口からこぼしていると、ダメ押しされた。
『来てくれるネ?』
はい、以外の答えが言えるわけがなかった。電話では見えるわけがないのに何度も頷いて、転げかけながら家を飛び出した。
電話の時にはもうそこにいたのだろう。家から走ってほんの数分の公園に着いたときには彼の姿があった。以前と同じくバイクで来たらしい。舞衣と奈々と四人で会ったときにはチラリとしか見えなかったバイクが公園の入口の脇に寄せて停めてあった。
闇の中でも存在感を放つ、彼によく似合う黒いバイクだった。
「早かったネ」
「は、走ってきたから」
「そんなに会いたかっタの?」
冗談だと分かっていてもイエスともノーとも言えなかった。学校の友達相手のように「そんなんじゃない」と軽口を叩くのも躊躇った。図星だから「はい」と言うのも恥ずかしかった。まだ接し方を決めかねている。
「急に、えっと、どうしたの?」
敬語は使わないと決めているのに緊張するとおぼつかなくなる。
「もうすぐ日本を立つからサ。挨拶をしておこうと思ってネ」
「……!」
「もう日本でやることもナクなったし、特別面白いこともないしネ」
やること、というのは高校サッカーで勝つことだろうか。確かに夏と冬を制した以上、学校やチームに思い入れがあるわけでもないレオが目指すものはない。レオナルド・シルバの率いる蹴学に勝つことを夢見ているいくつものチームには悔しい話だけれど。
そもそも、彼が日本に来たのは間違いなく兄、傑のためだ。他界した傑の断片を弟の中に見つけて確かめにきたに過ぎない。直接戦って見極めが済んだらもう用はなくなった。
新しい何かが彼を日本に引き留めるとも思えなかった。日本代表に選ばれる誰も。勿論、駆も。
死んでも尚彼を日本に連れてきた兄のようにはなれない。体にすっかり馴染んだ兄の心臓は動いてないみたいに静かだった。だいぶ暖かくなったと思うのに指先が冷たい。
「……そう。あの、……今まで色々ありがとう。レオに会えてすごく成長できたと思うから」
長い足の先にある黒い靴を見ながら適当な言葉を探した。改まってお別れを言うのって難しい。相手がレオだという緊張もあって立派なスピーチをしなければならないような気持ちで、誠実で独りよがりにならなくて失礼にもならない当たり障りないセリフを必死に探した。
上手に締めくくれず言葉を詰まらせる。沈黙にレオが深くため息をついた。
呆れられた。焦って顔を上げるとお気に入りの服で出かけた瞬間に土砂降りにあったみたいな不機嫌そうな表情をしていた。
「カケル、今日が何の日か知ってる?」
「え?今日って……」
慌ててポケットから携帯を引っ張り出した。
<<4月1日 00:03>>
見ている目の前で時計の表示が4分に変わった。
「舞衣なんか三日も前から誰をどんな風に騙そうかって嬉しそうに作戦を練ってたよ。
リトルウィッチィにブラジルで俺と結婚するってメールを送るっていうアイディアは中止させたけどネ。
カケルのところにもそのうち“レオは実は泳げない”なんてメールがくると思うヨ。彼女、俺に意地悪するの好きだから」
場を和ますための冗談なんかではなく本当にそういう会話があったらしい。とても演技とは思えない疲れた顔で肩をすくめた。
「え、じゃ、じゃあ、まだ日本にいるんですか?!」
「それは本当」
期待は一瞬で砕かれた。落胆がよっぽど顔に出ていたようで慰めに頬を撫でられる。サラサラした指の腹が気持ちよくて静かだった胸がざわざわした。
「元々蹴学との契約は一年だけで先の予定もあるんダ。コレは留学が決まった時から決まってたことダヨ」
「なら、嘘っていうのは」
「他の全部。どういうコトかわかる?」
「……わからない」
「嘘だネ。わざわざ呼び出されておいテ」
期待が抑えきれない。急かしたいような気持ちで柔らかく細められているのに挑戦的な目を見つめた。
「カケルにはまだまだ用がある。今日はボールを持ってきていないネ?残念ダ」
慌てて出てきたからだ。一人で蹴るつもりで用意していたボールが玄関に転がっているはずだ。
「この国を離れたらこんな風にいきなり呼び出すワケにもいかナイ。しばらくは日本に来る予定もナイ。だから、今日はカケルに頼みに来たんダ」
思わず唾を飲み込んだ。
「な、何を?」
「俺が会いに来れない分、カケルが会いに来てヨ」
隣の町に引っ越すから遊びに来てね、とか。クラス替えで離れてしまったから休み時間に教室においで、とでも言うような軽さで誘われた。
日本とブラジル。いや、どこのチームに所属する予定なのか聞いていない。ヨーロッパかもしれない。兄が遠征するときに飛行機で何時間かかるだとか、時差はどれぐらいだとか聞いた記憶があるが具体的な数字は思い出せなかった。
移動時間と、それから飛行機の代金。きっと貯めたお年玉を叩いても足りないだろう。貯めたと言っても一部は毎年小遣いとして使ってしまう習慣だった。
いや、そんな話ではない。的はずれではっきりしない数字のことばかり考えようとするのは動揺を紛らわそうとしているだけだ。
サッカーの実力を周りに認められて会いに来い。そういうことだ。
飛行機に何時間も乗るより、旅費を貯めるよりずっと難しい要求だった。でも、兄なら――傑ならやってのける。求められなくたって同じ土俵に上がる。
でも、今レオに求められているのは逢沢傑じゃない。
「行きます。また、同じピッチに会いに行きます!」
「マス?」
「あ…い、行く。行くよ!」
「約束だヨ」
顔をほころばせて小指を差し出した。
「?」
「日本風の約束はこうダロ?」
指切り。日本に滞在したのはこの一年きりだというのによく知っている。思わず笑って子どもっぽい約束の儀式に応じようと手を差し出した。その途端手をガッチリ掴まれて引き寄せられる。
不意をつかれてつんのめった勢いのまま荒く編まれたニットの胸に受け止められた。何かつけているのかもしれない。名前はわからないけれどいい匂いがして皮膚の下に細かい波が走った。
ギュッと抱きしめられて前髪越しに体温を感じる。髪、耳、頬と下って軽く唇が押し当てられるたびにぞくぞくした。試合中に感じたのとは正反対で、頭がぼんやりして考えがまとまらなくなる。
何で、とは思わなかった。国も育ちも能力も何もかも違う相手だから予想外の行動も驚くことではない気がした。
「Te amo」
「な、何?」
「カケル、約束は絶対ダヨ」
至近距離で見つめて、小さく頷くと唇が触れ合った。
さすがにこれは。それまでは日本人には馴染みのない親しい相手にやるスキンシップなんだと解釈していた。でも、唇は特別な場所だという感覚があって挨拶だと割り切れない。
レオが体を話すと同時に両手で唇を押さえた。彼はそれを気にした風でもなくヒラリと身を翻して公園を後にした。本当になんでもないことだったみたいに。
バイクで送ろうかと言われたけれど近いからと断った。
「またネ。おやすみ」
「おやすみ」
そうして別れた数日後、彼は本当に日本からいなくなった。
その夜の話を奈々に漏らしたのは始業式の前日のことだ。
レオの名前に挙動不審になったところを問い詰められて、上手く掻い摘むこともできず包み隠さず白状してしまった。
「ああいう挨拶されたの初めてだから、俺焦っちゃって」
笑ってごまかしてこの話は終わりにしてしまおう。そう思って次の話題を探して視線を彷徨わせた。それを奈々が唸るような声で阻む。
「駆……それね。確かに海外は日本より大胆なスキンシップするけど、誰にでもすることじゃないのよ?」
途端に恥ずかしくなって奈々の視線から逃れようと顔を背けた。
頬が染まる。桜色より、もっと赤く。