雨は嫌いじゃない。暑い季節の小雨は涼しいし、土砂降りはワクワクする。
長く続く雨が終わる兆しを見せ、今日の降水確率は50パーセント。お天気アナウンサーが「小雨が降るでしょう」っていうからわざと傘を忘れて登校した。雨は好きでも傘は自由が奪われるから好きじゃない。
いつ泣き出すかという分厚い雨雲は放課後まで持ちこたえ、江ノ島駅の軒下に入ったところで爆発した。泣くなんて可愛いもんじゃない。たくさんの神様がホースで水遊びしているような土砂降りだった。駅には待ち合わせに来たのに、それも忘れて外を振り返ったまま呆然とした。家までは歩いて十五分はある。今日は自転車でもない。走ればなんとかなる距離でもない。
洗う予定のジャージを頭に乗せれば。いや、かばんそのものを乗せたほうが…。
計算とも言えない浅知恵を絞っているときに肩を叩かれた。
「すげぇ雨だな」
「日比野!」
ちょっとびっくりして肩が跳ねた。人を待っていることなんかすっかり忘れていたから。
「お疲れ。駆、傘持ってねえの?」
「うん。……もしかして日比野も?」
日比野と同じ電車を降りて雨に戸惑い出口で足をとめる人で狭いスペースに身を引いてお互いの手元を見るが、持っているのはスポーツバッグとコンビニの小さな袋だけ。
仕方ないから近場で安い傘でも買おうか考えていると、それを見透かされた。
「新しく傘買うのも勿体ねえしうち行くぞ」
本当は日比野がうちに来るはずだったんだけれど、たしかに日比野の家はすぐそこだった。小遣いに余裕のない駆はほんの少しだけ迷って、素直に頷いた。
すぐそこといっても軒続きなわけじゃない。鎌倉から江ノ島付近を覆った雨雲は時折狭い範囲を集中攻撃しながら長く降り続いた。
少し身を屈めた日比野の「Go!」の合図は「行くぜ」じゃなくて「勝負だ」って意味だ。
「ずるいよ!」
発生と同時に走りだした幼馴染を追って雨の中に飛び出した。痛いくらいに打ちつける雨粒を受けながら立派なマンションのエントランスに駆け込んだ。
「勝った!」
「くっそ……はぁ、はー……長距離だったら負けねえのに」
負け惜しみを言いながら日比野が鍵を使ってエントランスホールの自動ドアを開けた。びしょ濡れで踏み込むのが申し訳なくなるぐらいきれいになっているホールを抜けて、同じくアイボリーですっきりまとめられた明るいエレベーターに乗って四階で降りた。
日比野の実家は、今はこのマンションの一室だ。小学校の頃に住んでいた家は借家だったそうで、帰国してからここを買った。中三で帰国して高校は寮に入った日比野も「あんまり実家ってかんじはしない」らしい。前の借家には何度も足を運んだ駆もここは初めてで全く知らない人の家みたいだ。
蝉のぬけがらが詰まった虫かごが置いてあった玄関には花が活けられているし、息子があまり帰宅しないおかげで泥だらけのものが何一つない。靴も大きな造り付けのシューズボックスに収められて三和土には一足も見当たらない。
そこに雨と土埃で汚いスパイクを置くのは躊躇われたが、日比野が何一つ気にしないので揃えて脱いであがった。
距離はないし走ってきたので雨に当たっていたのはほんの数分でもずぶ濡れだった。ちょっとでも立ち止まれば足元に水たまりができるので、一直線に脱衣所に向かう日比野についていく。
「このまま洗濯して乾燥機までかけちまうから全部脱いで放り込んで」
日比野は脱衣所の一画に置かれたドラム式洗濯乾燥機に制服のシャツもネクタイもベルトを引きぬいたスラックスも靴下も何でも放り込んでさっさと全裸になってしまった。横の棚から乾いたタオルを出して頭に被る。
「シャワー使うか?」
「ううん」
自分も浴室は無視して脱衣所でもたもたする駆を置いて出て行った。少しして奥の部屋から声がする。
「着替えねえよなあ?」
かばんの中にジャージはあったけど、汚れてくたくただし着る気にはならない。
「借りれる?」
返事をするとしばらくしてジャージを持ったジャージ姿の日比野が戻ってきた。
「なんだ、まだ脱いでねえのかよ。冷えるぞ」
慌ててシャツを脱いだ。なんとなく背を向ける。日比野は何も気にならないように振舞っているけれど、駆にはそうする理由があった。
日比野は駆を好きだといった。好きって言うのはつまり、友達としてではなくて、恋愛の相手として。交際を迫られたわけではないし、聞かなかったことにしても良かったのに、返事を保留にしたのは駆自身だ。もしそこで聞かなかったことにしてもどのみち平気ではいられなかったと思う。
何かされるなんて思っていないけれど、自分のことを好きだといった相手と二人きりでリラックスしろっていう方が無理だ。肌に張りつくパンツに手間取っていたら小さなため息が聞こえてきた。意識しすぎなのを呆れられているんだろうか。
着替えはジャージとTシャツだけだったからノーパンで履く。日比野のものだからぶかぶかだ。元々骨格にも差がある上に、日比野は怪我した膝を補うために下半身を鍛え上げている。歩けばすぐずり下がってきそうだ。
「……これさ、もうちょっとちいさっ……!」
言いたくはないが、古いサイズの小さいジャージに替えてもらえないか。そう言おうとしたときに背中に触られて危うく悲鳴を上げそうになった。悲鳴の代わりに息を飲む。一瞬指が掠めただけだったし、ちょっとくすぐったいだけだったのに心臓がバクバクいって顔が熱い。
「あ、わりぃ」
「いや、えっと……変な反応して、ごめん」
過剰反応だった。このまま洗濯物と一緒に洗濯槽に入り込んでふたをとじて何が何だかわからなくなるまで回りたいぐらいだ。駆を除くすべての洗濯物がドラムに収まったのを確認した日比野がスイッチを押した。雨と泥と汗にまみれた衣類が真っ赤な駆を取り残して回転し始めた。
「傷跡、背中にまであるんだな」
洗濯機を見たまま日比野が言った言葉が何のことかわからなくて、傷といえば日比野の膝のことばかりが頭にあって、とっさに自分の心臓の話だとはわからなかった。
「ああ、うん。鉄パイプが貫通したから」
そういえば、日比野には裸の背中を見せたことがなかった。心臓移植のことを打ち明けたときにも正面しか見せていないし、日比野のいる湘南大サッカー部との合同練習でも、代表召集されたときにも、他の誰かに傷跡を見られないよう気を付けているので日比野にも見られていないはずだ。心臓の真裏にも正面と似たり寄ったりな派手な痕が残っている。
「もうなんともないんだよな?」
「薬も持ってはいるけどほとんど飲んでないよ。痕になってるところを触られるとほんのちょっとだけ他と違うかんじがするけど痛いわけじゃないよ」
「多分、なんとなくわかる」
もう触ったり見たりしないようなので、シャツを被って二人で脱衣所を出た。
窓の大きなリビングは晴れの日なら明るかったんだろうけれど、今日は生憎の雨で薄暗い。激しい雨音とそれにかすかにまじる洗濯機の音に閉ざされている。
土砂降りは檻みたいだ。小さい頃は雨の日だろうがなんだろうが外で遊びたくて、でも母親に叱られるので、兄と二人で窓にへばりついて雨があがるのを待っていた。
『二人ともカエルと一緒ね』
四階の窓にはカエルも兄もいない。一人で外を眺めていると、背後でチーンと音がなる。
「ほら、ウーロン茶」
「わざわざチンしたの?」
「身体冷えてんだから温かいもんの方がいいだろ」
自分はグラスに注ぎっぱなしで飲んでいるくせに、渡すのはマグカップに注いで温めたお茶だ。不公平だと思ったけど、湯気がのぼるお茶も美味しかった。胃から暖かさが染みこんでくる。
「おばさん、今も仕事してるの?」
「いや、オランダ行くときにやめた。今日は別の用事。駆んち寄って夕飯前に帰ってくりゃちょうどいいと思ってたんだけど、母さんが帰ってくるまで飯食えねえんだよな」
「服が乾くまで外にも出られないしね」
何気なく言って、自分でドキッとした。静かな部屋が二人きりということを強調する。ついつい日比野を盗み見た。平気なのかと思って。でも、そんなことはなかったらしい。同じように控えめに視線をくれた日比野と目があった。
思わず逸らした目の先にテレビのリモコンがあって、静かなのがいけないんだと手を伸ばしたら手がぶつかった。
「わっ、ごめん」
驚いて反射的に引いた手を掴まれた。今度は偶然とか、一瞬じゃなくて、強く引き寄せられて身体が密着する。マグカップに半分残ったお茶があやうくこぼれるところだった。抗議するために顔を上げたいのに頭に顎が乗ってそれをさせない。
くっついた腕がまだ雨を引きずっている。胸はパリっと乾いたシャツの柔軟剤のいい匂いがした。体臭と混じっても嫌なにおいじゃない。体から力を抜いて寄りかかりたいような気もする。もし、そうしても、胸の早鐘は収まらないだろうけど。
「……何かねえのかよ」
何かってなんだろう。パンとか、お菓子とか、何かかばんに残ってたかな。食べ物しか浮かばないのはお腹が減っていたからだと思う。さっきも日比野が夕飯の話をしていたし。
「放せとか、気持ち悪いとか、……怖いとか」
食べ物のことではなかった。ネガティブで攻撃的な言葉を並べ立てながらも尻すぼみになっていく。
「ないよ。日比野のこと、なんで怖がらなくちゃいけないんだよ」
驚いたのは怖がったうちに入らないことにする。
「フツウ怖がるもんだろ?襲われるかもしれないとか」
襲うっていうのは、殴られるとか身ぐるみ剥がされるって意味じゃなく。いや、ある意味身ぐるみ剥がされるんだけど、身体をどうにかされるっていうことだ。そういう心配をするのは大抵女の子だ。駆は少なくともそんなこと考えたことがない。でも、男から告白されることだって考えたことがなかったのだ。そういう心配もすべきだったのかもしれない。
好きだと言われて焦りはしたけれど、いまだに具体的なところが想像出来ていなかった。
「お、おお、お、襲うって?」
「具体的に言わせんなよ」
おいそれと言えないことらしい。熱いお茶よりずっと即効性のある熱で頭が火照る。
小さい頃から仲が良かったから、喧嘩もあったし、無理矢理何かさせられて怒ったこともある。もちろん、まずいとわかっているものを食べさせられるとか、そんな可愛いいたずらばかりだけど。やられたらやり返せばいいのだから、心配なんかしたことがない。
本当にやられて嫌なことはしないと信じていた。
「お、襲いたいの?」
馬鹿な事を訊いたと思ったのは駆本人だけではなかったようで、頭の上でこれみよがしなため息が漏れる。
「お前に“好き”の一言で理解されると思った俺が甘かったよ」
「わ、わかってるよ!ちゃんと」
「ほんとかよ」
試すように腕を拘束していた手が手首から手の甲を撫でて、指が指の側面をなぞった。下半身や胸元に触られたわけでもない、いくらでも触ったことのある手への愛撫がどうしてそんなにいやらしく感じるのかわからない。でも、身体に理屈はなかった。
指先から手の甲を走って腕から胸、それから腰にしびれのような細かな波が伝染する。すごく、悪いことのような気がした。相手が日比野だからだ。平気で手をつないだ過去の美しさを台無しになってしまう。急に怖くなって自分の手を握りしめた。
「な?平気だと思ってても実際やられるとビビるだろ?」
名残惜しむこともなく身体ごと開放された。首根っこを掴んで懲らしめて放り出されたいたずら猫みたいに。日比野はさっさとソファに座ってテレビをつけた。全自動洗濯乾燥機が止まるまでやることがない。迷った駆はすぐ隣に座った。面倒くさそうな顔をされても仕方がない。
「お前なあ」
「別に、怖くないもん」
「強がるとこじゃねえだろ。別に嫌がっていいんだって」
本当は言われたくないくせに。察しのいいほうじゃないけれど、これはわかる。
小学校の頃に、日比野の家で二人がおやつの取り合いをして、仲裁する大人が日比野のお母さんだけだったから、日比野が譲るはめになった。拗ねて意地になって「お前が食えばいいじゃんそれ」って言った顔が憎たらしくてたまらなかった。望みがかなっても嬉しくないことがあるんだって覚えた。小さなものでも半分こすればいいんだって気づいたのはもっと後だ。
強がっているのはどっちだ。今日の強がり顔は憎らしくない。自分のプライドのためとかじゃなく、本当は嫌なのに突き放されたがる日比野が可愛くて繰り返した。
「嫌じゃないし怖くないよ」
訝るような顔。でも少し期待が混じった。耳が赤い。そういうのを可愛いと思うのは怖くなかった。
「そんなこと言って後で後悔すんだよ。俺がお前でどんな妄想してるか知ったら口も聞きたくなくなるぜ」
「日比野さ、ゲームで負けた時もそれ言うよね。温めてる技を見せたら二度と対戦したくなくなるから見せないとかって」
一瞬怯んだけれど、虚勢を張る時のちょっと上目遣いで口角を上げる仕草が一緒で思わず笑ってしまう。カッと赤くなってクッションを叩きつけてくるところまで読めて腕でガードした。いやらしい手つきで触ったその手で小さな頃と同じに叩いてくる。
「そんなこといちいち憶えてんじゃねえよ!」
「今まで忘れてたのに日比野が思い出させるようなこと言ったんだよっ…と!」
奪い取ったクッションで反撃すればそれをまた奪われて、喰らいつけば体の大きさと腕の長さをフル活用で獲物を逃がされ。そして駆は日比野の身体の上に倒れこんだ。日比野の手からクッションがポロリと落ちる。
正面から折り重なって、駆がソファの肘置きにつっぱった腕から力を抜くだけで頬が触れる。
「おいっ、マジでやめとけって」
やっぱり焦るのは日比野の方だ。男同士でも冗談で抱きついたりすることはよくある。でも、頬を寄せることはあんまり経験がない。幼い頃はあったかな。小さな頃の思い出のある相手だからかもしれないけれど、男同士だから気色が悪いなんて思わなかった。少しだけ体温が低いのを確かめるように頬をくっつける。さっき日比野だけ冷たいお茶を飲んでいたからだ。
女の子に触る時みたいに焦ってパニックになるようなドキドキはなかった。安定感のある胸の上は居心地が良いのに腹の奥で、手術痕の残る胸の中で、強くゆっくりと脈が速くなる。
「何度も言ってるじゃん。嫌じゃないんだって」
繰り返した言葉をもう一度耳元で言うと、初めて小学校の兎を触ったときみたいな慎重な手つきで、さっきみたいないやらしい触りかたじゃなくしっかり捕まえるように抱きしめられた。
雨の音が心臓の音い閉めだされて遠くなる。
自由な雨の檻の中でふたりきり。