無傷の11月26日/傑生存if鷹+駆+傑/16530

『11/25 練習内容:紅白戦』
 日が沈むスピードで暗くなっていく部室でそっと部活動日誌を閉じる。
 部長所感に差しかかって手が止まり、気づけば外も静かになってしまった。
 隣接する高等部も撤収したのだろう。少し前に帰宅する人の群れが通り過ぎる声が聞こえた。
 熊谷監督は残っているだろうか。
 霞む視界に瞬きを繰り返した。眉間を揉んでみたがあまり効果はなかった。
 何度目かのため息を落としたところでノックもなしに部室の扉が開いた。
 一瞬肩が跳ねて目が覚めたものの、訪問者が遠慮のない相手とわかると再び力が抜ける。
「鷹匠さん、どうしたんすか。」
 高等部の制服を来た鷹匠瑛は帰り荷物を床に放って当たり前のようにパイプ椅子に腰をおろした。
 ここは中等部。瑛は外部受験で高等部に入学した高等部生だが、人目がなければ遠慮なしに振舞う。迎える傑も慣れたものだ。
「そこで国松捕まえたら、まだ傑が残ってるつーから覗いた。」
「日誌に時間かかっちゃって。」
「じゃあ電気ぐらいつけろ。」
 指摘されて始めて思い至るが、入り口近くのスイッチまで行くのが億劫だった。
 傑が動かないのを見た瑛がパイプ椅子を滑らせてスイッチを押した。
「日誌つっても今日は紅白戦だったんだろ?詳しい記録は別に作ってんだから日誌なんか適当でいいじゃねえか。」
 言いたい放題の瑛に「色々あって…」と言えば間髪入れずに「どうせ弟のことだろ」と返ってくる。
「まあいい。終わったんならさっさと着替えて帰るぞ。」
 約束をしていたわけではないが、瑛がこうして傑を迎えにくることは珍しくない。
 傑はゆっくり立ち上がり、制服を丸めて放り込んだバッグをたぐり寄せた。
 練習着を脱ぐのも制服に袖を通すのも、ボタンを一つ一つ留める動きさえ緩慢だった。
 瑛の眉尻が上がる。
「顔色悪いな。」
「そっすか?…最近夢見が悪くてよく眠れてないからかな。」
「練習が足りてねえんじゃねーのか。クタクタで布団に入ったら夢も見ねえよ。」
「はは…」
 スポーツバッグを肩にかけて起こした上半身がグラリと揺れる。
「傑!」
 瑛が咄嗟に手を伸ばす。身体を支えるには間に合わない。腕を捕まえ引き上げようとしたが、傑はもう意識を手放していた。

 逢沢家に辿り着く頃にはすっかり暗くなっていた。
 一度だけ逢沢家の前まで来たことがあったので、自力でも傑を送り届けられると思ったのだ。
 それがどうだ。日が暮れてみると景色が全く違って見える。
 眠っている傑を背負っていくらか迷った挙句、途中で目を覚ました傑に家の前まで肩を貸した。気がついてもまだ足取りは頼りなく、家に入るところを見ないことには安心できなかった。
「ホントすいませんでした」
 深々頭を下げる傑にシッシッと手を振る。
「いいからゆっくり休めよ。」
「はい…」
「あ、チャリ学校に置いて来ちまったから、明日忘れんなよ。」
「はい…」
 この様子では明日の朝に自転車があるつもりで支度をして遅刻なんてことになりかねない。
 いつになく頼りない背中が玄関扉に消えるのを見送ってから瑛も帰路についた。

 横浜に自宅のある瑛は電車通学である。
 学校から見ると、最寄り駅と逢沢家は方向が違った。そのため、傑と下校しても一緒に歩く距離などあまりない。
 それでも瑛が傑を誘うのは、傑が瑛の進学理由だったからだ。二年前に傑が一年生ながらに10番を背負うチームと試合をしていなかったら、電車で三十分もかかる鎌倉を選ばなかったかもしれない。
 傑のまだいない高等部サッカー部は瑛の期待するレベルには達していなかった。
 日本代表合宿で傑のパスを受けるたび、毎日同じチームでやれるのが待ち遠しくなる。学校の部活に戻ると傑がいないことを悔しく思う。
 特に、瑛はまだ一年だ。上級生のプレイに文句をつけて睨まれることも少なくはない。中学時代、傑にエースナンバーを明け渡していた先輩たちではあるが、後輩に寛容なわけではなかった。傑ただ一人が別格なのだ。
 下校中も、そんな高等部チームへの不満を漏らすことが多い。そもそも、チーム内で何かあった日は必ずといっていいほど中等部に顔を出す。
 年下相手に愚痴など情けない限りだが、選手としての実力を除いても、傑には年下と思わせない空気があった。

 瑛は駅を目指していた。
 出発点は傑の家。一度学校まで引き返すのが確実だが、それは結構な遠回りだった。
 駅の方向はなんとなくわかる。傑の家を探して迷ったことなど忘れたかのような決断力で歩いた。
 もうじき七時半になる。携帯で時間を確認し、足を急かそうとしたとき、ボールの弾む音を聞いた。
 顔を上げると、暗い公園に人影があった。
 誰か、少年がボールを蹴っている。
 街灯の灯りはあるが、グラウンドの照明と違って頼りない光だ。ベンチや遊具の影は黒々としている。
 そんな中で一人練習だろうか。
 中学のサッカー部員に見えた。どちらかというと器用だが、その技術に目を留めたわけではない。
 ベンチにパスをし、見えないディフェンダーをかわし、ブランコに向かって強く蹴る。
 ブランコはチェーンを軋ませて大きく揺れ、座板の側面でボールを跳ね返した。
 少年が走る。夜の空に跳ね上がったボールを確かめもせず、ブランコに背を向け、道路に出る公園の入口へと向かう。
 そこには瑛がいた。入り口付近に人が立っていることは、振り向いてすぐにわかったはずだ。
 しかし、少年が足を止めたのはお互いの人相が確認出来る距離まで迫ってからだった。
 瑛の顔を見つめて足を止めた少年と、やはり少年を見つめた瑛との間にボールが落ちる。
(…間に合ったな)
 足を止めなければ丁度少年の足元に落ちたかもしれない。
 そうなるように狙って蹴ったとは思えなかった。そこまで器用ではない。
「今の、」
 足元に転がってきたボールをトラップしながら瑛が口を開くと少年は叱られた子供のように肩を揺らした。
「ここにくるように蹴ったのか?」
「え、…えっと、そういうわけじゃ…。」
 “嗅覚” そんな単語が頭を掠める。
 例えばゴール前で弾けたボールの行き先を感じ取る“嗅覚”。
「すいません、そのボール、返してもらえますか」
 黙り込んだ瑛に遠慮がちに言う。
 しかし、瑛は荷物と上着を放り出し少年の脇をすり抜けて公園のど真ん中までボールを運んだ。
「取りに来い。」
 街灯に照らされた少年の顔がゆっくりと戸惑いから闘志の色に変わる。
 影の落ちる瑛の口角がにやりと釣り上がった。

 ベンチの目の前でボールを止めた瑛はそのまま腰を下ろした。
 ボタンをいくつか開けたシャツの胸元を掴んで内側に風を送る。
「はぁ…はぁ…」
 暗い公園のど真ん中では少年が膝に両手をついていた。荒い呼吸に合わせて肩が上下する。
 とんだ見込み違いだった。
 突如始まったボールの奪い合いは、いつの間にか公園端の塀をゴールにした競り合いになった。
 言葉にしてルールを決めたりはしなかったが、自然とそうなった。
 およそ三十分、瑛がゴールを決めてもすぐにどちらかが球を拾い、勝負を繰り返した。
 そう、少年は一度も勝てなかった。
 ボールを持てばそれなりの器用さは見せる。
 特に遊具の配置をよく把握していて、苦しい時に鉄棒にパスを出しては跳ね返ったボールを拾い難を逃れる。
 そういう場面が何度もあった。
 うっかり高く跳ねさせてしまうと、身長と跳躍力で勝る瑛に奪われると分かって、途中試行錯誤をして工夫も見せた。
 しかし、少年には決定的な弱点がある。
 それではゴール前まで持ち込めてもゴールが決まらない。
「おい、」
 呼び掛けに頭を上げた少年は情けない顔をしていた。
 叱られると分かって呼びつけられた子供のような、怯えと反抗心を混ぜたような。
「お前、フォワードだろ。」
「…一応」
 煮え切らない口ぶりに舌打ちする。
「どこ中だ。この辺に住んでるなら鎌倉か?」
「はあ…」
「一年か?」
「ニ年です。」
「サッカー部か?」
 そこで返事が途切れる。
「…違います。」
 瑛の眉尻が跳ねた。
「じゃあどっかのジュニアユースにでも入ってるのか?」
「いいえ」
「じゃあどこでサッカーやってんだよ。」
 少年は少し迷った様子で人差し指を足元に向けた。
「えっと、…ここで。」
「ずっと夜一人でやってたってか?」
「そういうわけじゃ…けど、今はここでしか。でも…」
 言葉を切って顔を上げた瞬間、ボールが足元めがけて鋭く跳んできた。
 立ち上がった瑛がボールと同じほど鋭い目で睨みつけている。
「左足、何で使わねえ」
「え、」
「左足だよ。元から左が苦手なんじゃねえだろ。そういう感じじゃねえ。」
 ずかずか距離を詰める。
 一歩の距離までくると、少年が一歩後ずさった。
「使わねえのか、使えねえのか。」
「…っ!」
「こんなとこで一人で練習してるのと関係あんのか。」
 八の字だった眉根に力がこもる。
「いいじゃないですか!鷹匠さんにそんなこと関係ない!」
 細められていた瑛の目が一瞬見開かれた。
 一拍遅れて少年が口を抑える。
 その手首を目を丸くしたままの瑛が掴み上げた。
「俺のこと知ってるのか?」
 そうだ。この公園に来てから瑛は名乗っていない。
 小学生じゃあるまいし、制服にも名札はないしバッグにだって記名していなかった。
「あの、前に鷹匠さんの試合を見たことがあって…」
 それが後ろめたいことのように少年は言った。
 確かに、今年の大会にも鎌倉学館レギュラーとして出場した。
「やっぱりお前、元々サッカー部だったんだろ」
 少年は目を逸らした。
 そんな態度が気に入らない。
 少年のパーカーの胸ぐらを掴み上げる。そのまま殴られるとでも思ったのだろう。少年は目をきつく閉じた。
 その覚悟に反して、瑛は怒鳴ることさえしなかった。
「俺が興味あるのはお前の“嗅覚”と何でこんなとこでやってんのかってことだ。」
 恐る恐る目を開けると、予想より近くに顔があった。
 離れていても威圧感のある人だ。間近で見れば余計に圧倒される。
「でも、なんだよ。」
 悪いことを言うんだろう、言ってみろ。そう言われいるようで。
 しかし、唾を飲んで言った。
「もう、サッカーやめるんです。」
 目の前の切れ長の目が丸くなる。
 口を引き結んで視線を強く返すが、公園脇の車道を横切った車のヘッドライトが目元を非情に照らした。
 大きな目に溜めた涙はじきに決壊する。

「もう、サッカーやめるんです。左足は…鷹匠さんの言うとおり使えません。ゴールも決められません。だから…」
 何でこんなことになっているのだろう。
 一方的に知ってはいるが、ほとんど初対面の相手に問い詰められて、情けない告白をさせられている。
 本当は明日の朝、兄に一番に言うつもりだった。
 サッカー部ではないと答えたのは半分嘘で半分本当だった。春からマネージャーとしてサッカー部の部員でいたけれど、それも明日で終りにするつもりでいる。退部してサッカーそのものを辞める。
 物心ついた頃から兄を追いかけて、兄がやるからサッカーを始めた。兄のような天才と呼ばれるプレイヤーではないけれど、いつか追いつくつもりで続けてきた。
 それを辞める。

「だから…」
 惰性で出た言葉の続きを見失って口ごもった。
 フッと短い呼吸音。直後に額に頭突きをくらって脳みそが揺れるような鈍い痛みが走った。
「辞めるだ?こんなとこで一人でボール蹴って未練タラタラで。たかが、ゴールが決まらねえから、辞めるだと?」
 乱暴に突き飛ばすようにパーカーを開放される。
 フォワードがゴールを決められないことが「たかが」なわけがない。ずっとやっていたサッカーを辞めるのに未練がないわけがない。
 サッカー部のマネージャーになってからずっと考えた末の答えだ。
 それを簡単に語らないで欲しい。
 悔しくて睨みつけようとしたらまぶたが支えきれなくなった涙が大粒の雫になってこぼれ落ちた。
「フンッ」
 一直線に公園の入口まで歩いた瑛は放置していた荷物を拾う際に漸く少年を振り返った。
「そんなに辞めたいならさっさと帰れよ。」
 少年の足元にパタパタとシミが出来る。
 じきに瑛の気配が消え、少年はその場にうずくまった。
 頼りない灯りの下に置き去りにされたサッカーボールを見ながら泣いた。

 朝日が眩しい。
 重い頭を押さえながら支度を整えて食卓に顔を出すと、兄の姿はなかった。
「傑なら自転車を学校に置いてきちゃったからって先に出たわよ。」
 話をするチャンスを一つ失った、と同時にホッとした。
 退部すると伝えなければならないのに、ホッとした。

 家を出ると幼馴染の奈々が自転車に跨って家の目の前にいた。
「おはよう、セブン」
 約束しているわけではないが、奈々が同じ中学に通うようになってからは何度も一緒に登校していた。彼女もサッカー部のマネージャーをしている。
 彼女には珍しく朝から落ち着かない様子で視線をさ迷わせていた。しかし、今朝はそんな奈々の様子を気にする余裕もなかった。
 通学用の自転車を押して道へ出るのを待って奈々が口を開く。
「あのね…」
「あ、」
 ぼんやり視線を落としたタイヤが潰れているのを見つけて声が出た。
「パンクしてる。」
 ツイてない。そう思いながら自転車を家の脇に戻して戻ると奈々が自転車を降りて待っていた。
「歩いたら学校に着くのギリギリになっちゃうよ?」
「いいの、駆一人置いてけないもの。」
 横並びに歩き始めた時、彼女はもう一度だけ何かを言いかけ、やめた。
 俯くのを誤魔化すように携帯で時間を確認して大きく一歩踏み出す。
「ほら、遅れちゃう。かけ足かけ足!」
 二人で駆け出せばもういつもの彼女だった。

 兄とは同じ中学校に通っている。
 学年も一つしか違わないし部活だって一緒だ。
 校内で何度か見かけて一度すれ違い、部活でまた顔を合わせた。
 それでも、結局退部のことを切り出せなかった。

 その日は朝から落ち着かなかった。
 シャツのボタンもかけ間違えたし、寝癖もなかなか直らなかった。
 乱暴に髪を掻き回していると、一晩休んでスッキリした様子の傑と鉢合った。
「どうしたんすか。」
 昨日のことなどなかったかのような顔で言う。昨日倒れた男に心配などされたくない。
「どうしたじゃねえ!」
 自分の短い毛を掻きむしる代わりに傑のこめかみをグリグリ苛む。
「昨日俺が寝こけたお前を家まで届けてやったの忘れてねーだろうな!」
「痛っ、覚えてますって!すいませんでした」
 喋る様子も顔色も平常通りだ。
「そういえば、うちに着くまで時間かかったみたいっすけど、」
 痛いところを突く傑を横目で睨む。しかし傑は怯まない。
「帰りは大丈夫だったんすか?うちからじゃ駅の場所分かりづらかったでしょ。」
「あー…」
 無意識に前髪を掻き回す。
 そのことだ。
 落ち着かない原因は、傑を送り届けて駅に向かっていた時の出来事。暗い公園で会った名前も知らない少年の姿が頭から離れない。
 忘れられないほどボール捌きが上手かったわけではない。むしろ隙だらけで、ストライカーとして致命的な欠陥も抱えている。
 瑛の通う鎌倉学館の中等部に通っているようだがサッカー部ではないと言うし、高校から鎌倉学館に入った瑛にとっては後輩でも何でもない。
 そのくせ夜中に一人でボールを蹴りながら、必死に瑛にくらいつきながらも「サッカーを辞める」と言った。
「…ちくしょう」
 幼さの残る頬にこぼれた涙が頭をよぎる。
 何度も思い出すのはそれのせいだ。後味が悪い。キツイことを言ったし頭突きもした。泣かれたのはその後だ。
 瑛とは二歳差といっても年の差以上に小さく見えた。まるで弱い者いじめだ。
「鷹匠さん?」
 顔をのぞき込む傑の耳をつまみ上げる。紛れもない八つ当たりだった。
「てめーが自己管理なってねーからだ!」
「だから謝ったじゃないっすか!」
 中等部のサッカー部員らしい生徒がやや遠巻きに二人を追い越しながら、目が合った傑に丁寧に頭を下げて校門をくぐっていく。
 あまり表情豊かでないキャプテンのそんな姿が珍しいらしい。
「そうだ、傑お前…」
 アイツを知っているか。言いかけてやめた。
「何ですか?」
「いや…いい。」
 たった今気づいた。アイツの名前も知らない。

 公園の時計が闇に包まれ七時半を指した。
 砂を踏むような足音に顔を上げる。
「何でここにいんだよ。」
 ぶっきらぼうな物言い。それに負けじと息を吸って言い返した。
「何でここにいるんですか。」
 暗がりから白い光の下に出てきた瑛は昨日と同じ、制服姿だった。
 大股で距離を詰め、あっという間に半歩程の距離に立つ。
 見下ろされて後ずさりそうになる足を叱咤した。
「サッカー辞めるんだろ。ボールまで持って何しに来た。」
 足元のボールを容易く奪われる。
 がっちり踏みつけられたボールに視線を落とす。
「何で、ここに来たんですか。」
 昨晩の冷たい目が脳裏をよぎる。じっとり汗をかいて首がひやりとした。
「ここで何してたって、鷹匠さんには関係ないじゃないですかっ」
 胸ぐらを掴み上げられて息を飲んだ。視線に射抜かれる。咄嗟に額を押さえて目を瞑った。
「………フッ」
 笑う呼吸が聞こえて額の手を緩め薄く目を開いた。その途端に眉間をデコピンが襲う。
「痛っ!」
「名前、」
「え…?」
「訊いてなかっただろ。」
 ポカンとして顔を見つめると、すぐに眉間にシワを寄せて急き立てる。
「名前訊いてんだよ。早く言え!」
「え、えっと、あ…」
 答えかけたその時、兄の顔が頭を掠めた。

「駆です。」
 声が小さい。また脅かしすぎただろうか。少しだけ反省する。
「苗字は」
「えっと、…中塚」
「そうか」
 中塚。聞き覚えがない。もしかしたら何かしらの接点があったのではないかと考えもしたが、名前を聞いてもピンとこない。顔にも見覚えはなかった。
 気になったのはやっぱり“嗅覚”だけだったのだろうか。
「あの、今日はそのためだけに…?」
 遠慮がちに駆が言う。目的は確かに果たされたが、これで帰るのも面白くない。
「今日も一人で遊具相手に練習するつもりならちょっと相手してやる。」
「は、」
 駆の返事も待たずにゴールに向かってドリブルを開始した。ゴールは昨日と同じ塀だ。あっという間に一度ゴールして跳ね返ってきたボールを足元で留める。
「ボサっとしてるうちに一点入っちまっただろ。」
「そんな、ズルい!」
 身を翻して向かってくる。ぐずぐずと喋っているときの顔にはイライラするが、ボールを奪いに向かってくる、その瞬間の顔は嫌いじゃない。心なしか昨日よりも肩の力が抜けているように見えた。
 身長も跳躍力も劣っているクセに跳ね上がったハイボールを競り合い、押し負けて転がってもすぐに立ち上がり追いすがってくる。
 瑛が十回目のゴールを果たして振り返ると、振り回されっぱなしだった駆はうなだれて肩を上下させていた。
「もう終わりか」
 高い目線から見下ろして言えば熱のこもった視線を返してくる。
 サッカーを辞める、諦めると決めてこぼした涙が嘘だったのではないかと思うほどに。
「まだです!」
 瑛の切れ長の目元が柔らかく細められ、十一回目のゴールに向けて駆け出した。

 父の帰宅に合わせて七時に夕飯のところを、母をせっついて一人分だけ先に用意してもらった。掻き込んで空の茶碗に手を合わせると、横でテレビを見ていた妹が呆れた顔をした。
「いってきまーす!」
 駆は玄関の隅に置きっぱなしのボールを担いで声をかける。
「また公園?」
「うん、あ、兄ちゃんには言わないでね!」
「はいはい、分かってるわよ。」
 二度目の「いってきます」を言って家を出た。
 まだ日が落ちきらない。
 途中で兄に会うかもしれないと思って通学路を避けて公園へ向かった。
 オレンジより闇色に近い夕日の中でも公園の電灯が点っていて、周辺の家々から夕飯のいい匂いが流れてくる。
 一人でボールを蹴っていると、帰宅途中らしい人がこちらを振り返ることがあって少し落ち着かない。
 やっぱりいつもの時間にすれば良かっただろうか。
 そう思い始めた時、公園内に踏み込んでくる影を見つけた。
 一直線にベンチへ向かって荷物を下ろす。今日は上下ジャージ姿だった。
「鷹匠さん」
「何だ、今日ははえーな。」
「鷹匠さんも」
「部活が短かったんだよ」
 舌打ちして続けた。
「うちは選手権も敗退したからな。」
「えっと、残念でしたね。」
「そんな顔すんじゃねえよ。来年は優勝するからいいんだよ。」
 来年。兄が高校に入学する年だ。
 きっと兄と瑛が組めばきっと優勝を果たすだろうと思う。県優勝どころか全国優勝もできるかもしれない。
 二人が組んでゴールを決める姿が勝手に頭に浮かぶ。憧れと同時に奥歯をかみしめた。
 瑛はそれを見逃さなかった。
「ま、お前には関係ねえ話だけどな。」
 言っておきながら駆が顔を歪めるとイラついた様子で強くボールを蹴る。
 キックオフだ。一対一のボールの奪い合いが始まる。

 今日で三日目になる。
 約束したわけではないが、偶然出会って険悪な別れ方をした翌日も瑛は公園に現れた。驚いたけれど嫌ではなかった。
 二日目にも約束はしなかったが、駆がマネージャーとして在籍する中等部のサッカー部もまた早上がりだったので、瑛が来るのではないかと思って早めに来た。
 予想というより期待だ。
 瑛には厳しいことを散々言われたけれど、目の前で泣いた時に余計な緊張や萎縮も流れていった気がする。後に残ったのはぶつかり合う楽しさだった。
 ボールを追いかけていると、ほんの少しだけ瑛が笑うのだ。
 切れ長の目を細めて口の端を吊り上げる。男らしくて大人に見えた。
 瑛の一瞬だけ見せる笑顔にドキッとした。自分とサッカーをして楽しいのだろうか。相手として不十分なのはやる前から分かっている。でも、瑛が笑うから。
 サッカー部のキャプテンを務める兄が部活の終わり時間を伝えたとき、真っ先に「また公園に来てくれるかもしれない」と思った。
 昨日の朝までは怖くて酷い人だと思ってばかりいたのに不思議だった。

 ボールを止めてベンチの中央と端に腰掛ける。
 前者は瑛、後者は駆だ。その間には瑛の荷物がまとめてあった。駆のスペースはやや狭いが別のベンチに座るというのもおかしい気がしたので遠慮がちに同じベンチに座った。
 それぞれ水分補給を済ませたところで瑛が自然に名前を呼んで、駆は大袈裟に肩を揺らした。
「おい中塚」
「えっ?!」
 何故かといえば、それが自分の名前ではなかったからだ。
 でも、確かに昨日の夜はそう名乗った。本当の名前は逢沢というけれど、その名前を言いたくなくて咄嗟に友達の名前を言った。
 そんなこともすっかり忘れていたので突然飛び出した名前に慌ててしまった。
 ダラダラと口をつけていたドリンクが気管に入って咳き込む。
「……なにしてんだよ。」
「ゲホッ…すいません。なんですか…」
 胸を抑えて「僕は中塚。僕は中塚。」と三回唱えた。
 瑛はしばらく訝しげな目で見ていたが、駆が落ち着く頃合いを見計らって話を続ける。
「お前、ほんとにサッカー部じゃなかったんだな。」
「え?」
「中等部のキャプテンに中塚ってやつがいるか訊いた。そうしたら…」

 傑もまた瑛の口から唐突に飛び出した中塚という名前が意外で首を傾げた。
『中塚ですか?髪をこんな風に立てて下心全開で女子を追っかけてはギャーギャー言われてる…』
 頭の上のコック帽を両手で撫でるようなジェスチャーをした。
『髪も立ててねえし、そんなアホじゃねえな』
『うちの部に中塚は一人だけですけど』
 控えめに詮索するような視線を片手で払って話を打ち切った。

「コソコソ調べるようなマネして悪いが、サッカー部じゃないって言葉を疑ってたんだ。」
「……」
「どこかのチームに入んねーのかよ。サッカー辞めるのは辞めたんだろ?」
「……」
「お前がやりたいのはこんな二人っきりでやるサッカーなのかよ。」
 怒鳴るわけでもなく睨むわけでもなく、落ち着いて語られる言葉は静かに胸にのしかかってくる。親に正座で叱られてるみたいだ。
 膝の上に作った拳をじっと見つめて俯いた。
 すっかり夜になって公園脇の道にも人通りがなくなった。
 隣で折りたたみ携帯を開く音がする。呆れられた。
 焦って言葉を探しても怒らせそうなセリフしかみつからない。
「お前携帯持ってるか?」
「へ、携帯?」
 死角から飛んできた軽いボールが側頭部を打ったような驚き。
 思いもよらぬ質問を取り落としかけて、ついでに頭の上でまとまらないまま渦を巻いていた言い訳はポンッと消えた。
「あ、あります!」
 ベンチの背もたれに掛けたパーカーのポケットから取り出したのは白い二つ折りの携帯だった。サッカーの年代別代表で合宿や遠征も多い兄が携帯を買う際に駄々をこねて一緒に買ってもらったものだ。
 メモリーの0番は“自宅”、1番は“兄ちゃん”だ。
 携帯をひったくった瑛は白い外装の上隅に幅一センチ程度の黒いパネルを発見して返した。
「アドレス送れよ。俺のも登録しとけ。ここに来ない日はメール入れろ。」
「え、じゃあ、僕が来る日は来てくれるんですか?」
「毎日来るわけじゃねえからな。気が向いてここに来ても誰もいないんじゃバカみたいだろうが。」
「はあ。」
「それとも何だ、俺とアドレス交換するのは嫌だってか?」
「そんな、滅相もない!」
 大袈裟に首を振って慌てて赤外線通信メニューを開いた。
 中学で携帯を持っている仲間はそう多くない。メモリーも十数件で、登録番号が一番新しいのは確か奈々だ。彼女が転校してきた学期始めに登録した。
 あまり使わない機能にもたついたので、無事通信が完了したときはホッとした。
 だから、瑛から送られてきたアドレスを登録完了して顔を上げるまですっかり忘れていた。
「…お前、」
 携帯の画面を見つめる瑛の眉間に皺が寄る。ただアドレスを交換しただけのはずが、何が癇に障ったのか駆には分からない。
 ただ肩を竦めて言葉の続きを待った。言葉よりも先に眼前に携帯画面を突出される。
 それは送ったばかりの駆のアドレスだった。プロフィールを送信したのでメールアドレスも電話番号も、プロフィールに設定されている情報が一括で届いている。
「逢沢駆」
 瑛がフルネームを読むのと駆が携帯画面の名前欄を目でなぞるのはほぼ同時だった。

 玄関扉の外に妹の歌声がこぼれている。
「近所迷惑だろ、この音痴」
 ただいまの代わりに八つ当たりをすればすぐにそうと見破られて
「お兄ちゃん機嫌悪ーい!」
 生意気な妹が唇を尖らせた。
 それでも素直に楽譜を片付ける。
 小学校の合唱サークルで発表会が近かった。今の歌も発表会用の曲なのだろう。
 音痴というのは本心ではないが、飛び抜けて上手いというわけでもない。
 それでも楽しげに続けている。兄の瑛の影響でサッカー観戦もするが、自分でやることには興味がない。中学に上がれば女子サッカー部がある学校はそう多くないので勧めようとも思わないが。
 台所から飛んでくる母の「おかえり」にもいい加減な返事をして一直線に自室へこもった。
 着信もメール受信の表示もない携帯画面を確認して、布団の上に放り投げた。

 駆は追ってこなかった。
「逢沢駆」
 本当の名前を呼んだ途端に表情が凍りつく。
「カケルって名前に聞き覚えがあると思ってたんだ。顔があんまり似てねえから、まさか傑の弟とは思わなかった。
 でも、考えてみりゃ色んなことに納得がいく。
 今はサッカー部のマネージャーやってるんだってな。チームに入ってないといえばそうだ。
 兄貴と一緒にずっとサッカーやってきたんだから、それなりにやれるのも当然か。」
 やや大きめの目がじんわり光を増す。
 唇をかみしめている顔を観察したが、やっぱり傑には似ていないように見えた。
 それも当たり前かもしれない。傑はハートの強さが違う。
 傑は上手くいかないからといってサッカーを辞めるなんて言わない。
 つまらない嘘なんかつかない。
「す…すいません」
 やっと出た言葉は上ずった謝罪だった。
 脇に置いていた荷物をまとめて肩に担いでベンチを立った。追って駆も立つ。
「すいません、あの、僕は…」
「言い訳か?」
 一度だけ振り返り、駆が言葉を飲み込むのを見届けてから二度と振り返らず立ち止まることもなく大股で公園を出た。
 駆はベンチ前に立ち尽くしたまま追ってこなかった。
 公園前の道で通りすがりの女と目が合って僅かに怯えた顔をされた。
 自覚はなかったが怖い顔をしていたのかもしれない。
 舌打ちが出た。

「集中できてねーぞ瑛ー!」
 散々だ。部活でつまらないミスを繰り返した。
 以前から瑛を良く思っていない先輩からここぞとばかりに注意が飛んでくる。
 いつも以上に長く感じる部活の後、自主練にも混じらず着替えもせずに中等部のグラウンドを覗いた。
 中等部は一足早く部活が終了してとっくに無人だった。
 大抵残って練習している部員が一人二人はいるものだが、今日はたまたまそれもいなかった。
 部室まで足を運んで窓から様子を窺っても誰もいないので踵を返し、何をしに来たのだか分からなくなって汗っぽい頭を掻きむしった。
 その背後から声がかかる。
「鷹匠さん」
 驚いて振り返ると見覚えのない女子生徒が帰り支度をして立っている。
 見覚えがない?いや。不安そうに曇った表情で思い出した。
 昨晩会っている。公園の前で。
「あの、わたし、中等部のサッカー部マネージャーをやっている美島奈々といいます。」
「マネージャー…」
「駆と傑さんとは幼馴染で、鷹匠さんがあの公園に現れるまで駆の練習相手をしていました。」
「…つまり、お前もグルってことか。」
 何がとは言わなかったが奈々もまた何のこととは訊かなかった。
 彼女は事情を一通り知っているらしい。
「違います!駆は今まで一緒に練習してたのがわたしとは知りません、正体を隠していたから。昨日もわたしが公園の側にいたことを知りません。
 勿論、傑さんも関係ありません。」
「じゃあいいだろう。俺はもうあの公園に行かない。今夜からまたお前が遊び相手になってやればいい。」
 遊び、と言う言葉で少女の眉が跳ねる。初対面で怯えた顔を見たせいか気弱なイメージを抱いていたが、実際はもっと気が強くてプライドも高いのかもしれない。
「また駆の相手をしに来てやってくれなんて言いに来たんじゃありません。見て欲しいものがあって…」
 そして彼女は瑛をそこへ引き留めると部室から一冊のファイルを持ってきた。
「これ、この間やった紅白戦の記録です。」
 日付は11/25、駆と初めて会った日だ。三日前のことだ。
 ファイルをめくると出場メンバーに駆の名前があった。傑と同じチームでフォワードを務めている。
 しかし、得点の記録はない。
 それどころか途中交代している。
「アイツ、マネージャーだろ。何で出てるんだ」
「傑さんが」
「あのブラコン野郎、職権乱用じゃねえか」
 兄に無理に引っ張り出されたもののこれといった活躍ができず、自信喪失していたところに追い打ちをかけられていよいよ諦めた、というところだろうか。
 あの日傑が調子を崩したのもそれが原因の一つだったのかもしれない。
「で、俺にどうしろっていうんだ?」
 冷ややかに見下ろしても強い眼差しで見返してくる。駆よりよっぽど芯が強い。
「いいえ、それを見せたかっただけです。失礼します。」
 脇をスッと通り抜けて足早に校舎の影に消えていった。
 重さを感じない足取りだった。
 駆の練習相手をしていたというが、女子だからといって舐めてかかったのは間違いだったかもしれない。せいぜいパスを返す壁代わりかと思っていたが、傑たち兄弟と一緒にサッカーをしてきたのだとすると。

 少女の背を見送ってから返し忘れたファイルを思い出した。
 仕方なく無人の部室へ侵入すると見計らったかのようなタイミングで国松が現れる。
「鷹匠さん何してるんすか!同じ学校だからって鷹匠さんは高等部なんですから、こっちの部室にいるのが先生に見つかったらうるさいことに…」
「お前がうるせえよ。いいじゃねえか、OBみたいなもんだろ」
「鷹匠さん、うちの中等部に在籍してたことないでしょう。」
 あからさまなため息をついて視線を落とした国松は手元のファイルに目を留めた。
「この間の紅白戦の記録なんてどっから持ってきたんですか?」
「ちょっとな。そうだ、お前傑と別のチームだったんだろ?」
「ええ」
「傑の弟のこと、知ってるか?」
「駆のことですか?勿論。その紅白戦でもずっと相手してましたから。」
「マネージャーしてたんだろ。どうだった。」
 漠然とした質問に少し考えて国松は答えた。
「アイツは半年もマネージャーやってたんで、正直少し舐めてたんです。
 でも、どっかで自主練してたんじゃないかと思うぐらいよく動くんですよ。
 傑もメンバー発表でいきなり指名しておきながら厳しいパス出し続けて、駆もそれを諦めなかった。」
「諦めなかった?」
「ええ。傑が部の中であんな厳しいパス出す相手はいません。
 勿論なかなか拾えなくて、でも、兄弟だからどこに来るか察しがついてるんですかね。
 惜しいところまでいくんで、俺も振り回されて、駆が交代する頃には大分足にきてました。」
 国松の予想は的外れだと思った。相手が兄貴だから察しがつくんではなく、あれはボールの行方を嗅ぎ分ける嗅覚だ。
 幼い頃のプレイをなぞったのなら拾えないパスなんか飛び出さない。
 傑は幼い弟ではなく今の駆に向けてパスを送り続けたのだ。
 それを駆は諦めなかった。
「交代を言い渡されるまで、駆はずっと傑にパスを要求し続けてたんです」
 夜の公園で何度負けても立ち上がり「もう一度」という顔で走りだす姿が頭の奥によみがえる。
 それは明るいグラウンドになり、走る先はゴール前。
 ディフェンダーの裏から飛び出して目で要求するのは勝負の続きではなく、傑からの手加減なしのパス。
 それを「辞める」と言ってこぼした涙が塗りつぶしていく。

 練習終了を告げる笛が響くと冷たい風がひと吹き。
 汗だくの肌がいっきに冷えて寒くなった。
 上級生から順に更衣室に入って瑛がロッカーを開ける頃には外は薄暗くなっていた。
 着替のシャツよりタオルより先に携帯を取り出したが待ち受け画面には何の通知もない。
 二日。駆と喧嘩別れしてから二日になる。
 携帯のメモリには律儀に「逢沢駆」とフルネームで登録してあった。
 プロフィール情報を丸ごと受け取ったので、メールアドレスも電話番号もある。
 その画面から少しキーを押せば電話発信もメールの作成もできた。
 でも、どちらもせずに携帯をバッグの底に投げ込んだ。

 国松は駆のことを気に入っているようだった。
 素直で生意気なところがないから、年上には好かれるだろう。
 傑が弟を可愛がるのもわからないでもない。過保護だとは思うが。
「紅白戦でいきなりマネージャーやってる弟を引っ張り出したんですから、贔屓だって思ってる連中もいたみたいですけどね、そうやって僻んでる奴なんかよりよっぽどアイツは強いですよ。」
 話の先を促すと、自然と国松と一緒に帰る流れになった。
 傑から聞く駆の話は弟可愛さに目がくらんでいるブラコンの言う事と決めつけていた。
 何しろマネージャーをやっているというし、過去にもこれといって目立った成績がない。
 傑の目と正直さは信頼していても、弟のこととなると。他では見せないようなにやけた目をする男の発言を全て信用する気はなかった。
 しかし、国松と自分の目で見た駆を思い出すと、傑の期待もいくらか理解できた。
「そいつは、何でマネージャーなんかやってんだ」
「鷹匠さん、駆と知り合いなんすか?」
 詮索する顔の国松に急に面倒になった。
「やっぱいい。言いづれーことなら訊かねえよ。」
「ちょっと気になって訊いただけじゃないっすか!
 ……別に、うちの部内じゃ結構知られてる話だし本人も隠してないんでいいっすよ。
 アイツ、昔練習中に友達に怪我させちまったらしいんですよ。小学校の時に。」
「大怪我だったのか」
「靭帯やっちまったらしくて。それでも一年の頃は頑張って練習してたんすけど、結局…」
「トラウマで“左”が使えないまま、か。」
 尻切れになった言葉を引き継ぐとすかさず
「やっぱり駆のこと知ってんじゃないっすか」
「うるせえな、そんなには知らねえよ。」
 実際、左足のことを本人に尋ねたこともあるが答えは聞けなかった。
 知ったとしても同情はしなかっただろう。
 その程度の奴なのだと思って、それきりだったかもしれない。
「傑も、俺も戻ってくるの待ってるんすけど、傑の奴はあのとおりスパルタっすからね」
 最初にあった夜に駆が言った言葉が思い出される。
『もう、サッカーやめるんです。』
 目にいっぱい涙を溜めて、少し怒ったように言った。
 あんなのは本当に辞めたいと思っている顔じゃない。

 下校する運動部が疲れた流れを作る校舎脇を回って正門に向かうと、門の内側に見るからに柄の悪い集団がいた。
 それなりに名門の鎌倉学館には珍しい。
 こういう連中が遅い時間まで学校に残っていることも珍しいので、運動部の瑛とは余計に縁がなかった。
 何をしているのか、見やると、人壁の間から中等部の制服が見える。
「ほんとに人を待ってるだけなんです!」
 どうやら集団はカツアゲだとか暴力をふるおうとしているわけでもなく、高等部に紛れ込んでいた中等部生をからかっているだけのようだが、相手はそれがわからず必死の様子だ。
「もう人なんかそんなに残ってねえよぉ?」
「学校に忍びこんで日頃のウップン晴らしにいたずらしようとしてたんじゃねえの?」
「ちちちがいます!」
「あっやしー」
「部活で遅くなってたらまだ残ってるかもしれなくって…あの…」
 集団の横を通り抜けようとした時、門塀に追い詰められた中等部生が見えた。
「……お前、何やってんだ」
 飽きもせず埒の明かない、その気もない問答を繰り返していた不良集団と中等部生、駆が一斉に振り返った。
 そして、駆は救世主とばかりに顔を輝かせた。
「鷹匠さん!」

「ご迷惑をおかけしました…」
 声をかけると駆はあっさりと開放された。
 そのため瑛は何もしていないが、駆は丁寧に頭を下げた。
「謝りたくって、鷹匠さんを待ってたら兄ちゃんが通りかかって、思わず門の内側に隠れたら…」
 捕まったらしい。
 高等部の敷地に中等部生がいたら確かに怪しいし目立つ。
「昨日も来たんですけど、タイミングが悪かったみたいで…」
「昨日は用があったんで中等部の門から帰った」
 国松と一緒に下校したのでそうなった。
「あ、そうなんですか。」
「何時まで待ってたんだよ」
「えっと、門が閉められるまで」
 サッカー部はやや早く解散になったが、瑛が下校する頃にもまだ練習を続けている部活もあった。
 門が閉まる時間というと、間違いなく真っ暗だっただろう。
「バカか!携帯のアドレス教えてあんだろ!」
 怒鳴りつけると漸くその存在に気づいた様子で目と口を丸くした。
「あ!すすすすいません!」
 この二日間携帯を気にしていたのがバカバカしくなる。
 ペコペコした勢いのまま、改めて嘘をついた件の謝罪と弁解をごちゃまぜに語られたが、その内容は最早どうでもよかった。
「条件がある」
 言葉を遮って目の前に指を立てるとキョトンとして首をかしげた。
「へ。何の、ですか?」
「ここまで何しに来たんだよ」
「えっと、謝りに…」
「許してやるっつってんだ」
「!」
 パッと晴れた表情は次の一言でいっきに曇る。
「お前、マネージャーやめろ」
「……はい。」
 聞き分けよく頷きながら、小さな声で「どうせそのつもりでした」なんてぼやくので思わず手を上げそうになったがデコピンで勘弁してやる。
「そうじゃねえ。マネージャーやめて、選手に戻れ。」
 弾かれた額を押さえる両手の下で、顔立ちを幼く見せる大きな目がこれでもかというほど見開かれた。そして戸惑うような顔。
 それでも、さっきの「はい」よりずっと晴れて見えた。

 部室の窓が開いていた。
 中から調子外れの鼻歌が聞こえてきて覗き込むと、鼻歌の似合わない男がせっせと部活動日誌をつけている。
「ヘッタクソだな」
 窓越しに声をかけると大げさに机と椅子を鳴らしながらこちらを振り向いた。
「鷹匠さん!」
「最近機嫌いいじゃねえか。」
「そうですか?」
「お前の鼻歌なんか初めて聞いた。それにしたって下手くそだな」
「何度も言わないでくださいよ」
 垂れ流していた音痴な鼻歌まで口に引っ込めて二度と漏らさないとでもいうように固く口を引き結ぶ。
 見た目はいつもの無表情に近いが、夕日のせいか羞恥に染まっているのか、赤い顔が面白くて声を上げて笑った。
 グラウンド脇を集団が歩く賑やかな声が聞こえて目を向けると、練習着姿の駆と目が合って気恥ずかしげに会釈をされた。
 きっと駆は知らないだろう。兄の鼻歌もこんな顔も。
 そして傑も、二人の出会いを知らないまま。