爪先立ちのコツ/月山/5892

 急き立てるように笛が鳴る。その鋭い音に押し流されない。一呼吸置いて背後で床を蹴る音がした。
 ボールがネットの上を越え、向こう側の選手が素早く動いた。
 みんなが固唾を飲んでボールの落下点を見つめる中、僕は何も祈らなかった。神頼みなんて無責任なことする必要がない。今日はアイツの背筋が伸びていた。つま先に力を込めて、自分の目線より上へ行くときにはそうでなくちゃいけない。
 エンドラインを超えると判断した選手が「アウト」を叫んで手を引いた。ボールが床を打つ。
 衆目が一斉に移動する。ボールの行方からラインズマンに。旗が、一直線に振り下ろされた。

 ◆  ◆  ◆

 本がぎっしり詰まった棚を見上げて山口が困っている。
 小学校のクラスの中において山口忠は普通だ。体育で背の順に並ぶと集団の真ん中に埋まっている。低いヤツと高いヤツの間をなだらかに繋ぐ、そんなポジションにいる。五段の本棚の四段目までは届くけど、一番上の段はあと少し足りない。
 そして間が悪い。用意されている踏み台を探してキョロキョロするけど見つからない。困ってジャンプしては背表紙を指で掠めるに終わる。
 ぐらつくほど必死に背伸びをしても届かない。だから仕方なく声をかけた。
「どれ?」
「……まんが偉人伝の五巻」
「はい」
「ありがと、ツッキー」
 本を抱えて一番上の段にぽっかり空いた一冊分の隙間を見上げ、今更のように言った。
「ツッキーはすごいね。クラスの他の誰も届かないよ」
「別に。山口だって最近膝が痛いって言ってただろ。そのうち伸びるよ」
「そうかな。そう見える?」
 ちょっと面倒くさくなって、いい加減に頷いた。山口はそれでも嬉しそうだ。
「今度の身体測定楽しみだなあ」
 そしてすかさず「ツッキーのも」と付け足した。

「いいじゃん。背高い方が」
 ほら、と言ってオーバーハンドで跳ね上げたボールを上でキャッチされた。高校生の兄は僕よりずっと背が高い。
「そりゃ……バレーは有利だけど。ごちゃごちゃ言われるのは面倒くさいよ」
「みんな羨ましいんだろ。最近会ってないけど忠がもっとデカくなったら、どこのエースにも抜かせない壁二枚って感じで」
「夢見すぎでしょ」
「そういう蛍は夢がないよな。まだ小学生なのに」
 自分より高く上がる兄のボールを目で追った。兄は高校でもバレー部で、みんなから頼りにされる長身エース。夢なんか見なくても憧れはすぐそこにある。
「兄ちゃんはいいよね。部活で活躍しててさ」
 今のセリフ、ちょっと山口みたいだった。みんな誰かを見上げるときはこんな風に言いたくなるのかもしれない。
 兄は乱れたボールをキャッチして練習を止めた。それから少しぎこちなく笑って「蛍は俺よりすごいヤツになれるよ」と言った。県内の強豪校でエース以上にすごいヤツなんて雲の上の存在だ。そんなの想像もつかなかった。

 年間行事の中では地味な身体測定もちょっとしたお祭りだ。身長と体重測定の会場である保健室を出た途端に囲まれた。
「月島、背ぇいくつだった?」
「どんぐらい伸びてた?」
 先に測定を終えて暇をつぶしていたクラスメイトが絡んでくる。面倒くさい。周囲よりとびぬけて背が高いおかげで身体測定はの日はいつもこうだ。まるでテストの点数を比べるみたいに成長の記録表を持ち寄って。
「俺は……」
 答えようとすると、横から山口が割り込んできた。
「ツッキーは一六九センチだったよ。もうすぐ170センチだ!」
「おおー」
 我がことのように誇らしげに山口が答えた。難しいテストで一人だけ百点だったときみたいだ。
「なんで山口が答えるの」
「ごめん、ツッキー!」
 本当はゴメンなんて思っていないんだろう。僕のことでみんなが感心したのに気を良くして半笑いのままで、僕が歩き出すと、ゲームの主人公を先頭に一列で歩くキャラクタみたいに後をついてくる。そうでなかったらアヒルのヒナだ。刷り込みで親の後をついてくるヤツ。
「お前さ、勝手に答えるなよ」
「言っちゃまずかった?」
「別に、隠したかったわけじゃないけど、もうすぐ一七〇だなんて言って、ここで成長が止まったらどうするんだよ」
「大丈夫だって、ツッキーは絶対もっとずっと高くなるよ」
 そんなこと言われたら本当にそうならなくちゃいけないみたいじゃないか。僕がそれを目指してるわけじゃないのに、叶わなかったら僕がカッコ悪い。
 そんな風にひねくれても、身長はまだまだ伸びるだろうという自信があった。僕は自慢の兄の弟だからだ。

 それからしばらくして、初めて兄の試合を観戦した。正確には、兄の所属する高校の試合。
 その日、コートにもベンチにも兄はいなかった。レギュラーとして活躍しているはずの兄は、何故かギャラリーにいる僕と同じ目線にいた。体育館をぐるりと囲むギャラリー席の対岸で、自分よりよっぽど背の低いエースの応援をしていた。

「おはよ」
「おはよー」
 挨拶が飛び交う玄関で山口に追いついた。下駄箱の向こうに姿を見つけたけど、わざわざ大きな声を立てて呼んだりしない。どうせ同じクラスだからすぐに顔を合わせる。
 他の子供と同じように上履きに履き替えていると山口の声が聞こえて顔を上げた。昨日一緒に試合を観戦した友人に呼び止められて立ち話している。通行の邪魔だからさっさと教室に向かえばいいのに。
 今日はアイツとは喋りたくなかった。今日一日すれ違っても無視してほしいぐらいだ。僕から話しかけることはありえないから。でも、相手はそんな気持ちを察してくれる性格じゃない。
「山口、今日は月島と一緒じゃねえのかよ」
「ちょっと遅れるから先に行っててっておばさんに言われて先に来ただけだよ」
「それってさ、もしかして、この間のことで落ち込んで学校来れねーんじゃねえの?」
 スニーカーを『月島蛍』の名札のついた下駄箱に突っ込んだ手が止まった。
「そんなんじゃないよ。すぐ行くっておばさん言ってたし」
 今朝は、たまたま腹の調子が悪くてトイレに入っていただけだ。そんな事情で山口を待たせておくのも嫌だったから、先に行かせただけで、他に理由なんかない。学校に行きたくなくて腹痛を起こしたわけでもない。
「でもさ、アイツ兄ちゃんに嘘つかれてたんだろ?兄ちゃんの真似してバレーやってたのにさ。クラブも辞めたりして」
 唇をかみしめた。そんなこと、ない――とは言えなかった。昨日の夜にちょっとぐらい考えたからだ。決心したわけじゃない。でも、吊り橋の上に立っているような気持ちで心が揺れている。目指していたカッコいい兄は幻だった。実在しないものを追いかけていたんだ。これからなんのためにバレーを続けたらいいのかわからない。練習を続けてたって、いつか兄みたいに、努力の及ばない天才の前に挫折してすべてが無駄になるかもしれない。
 一瞬で一晩分の葛藤がぶり返してきた。その波を切り裂くようにして山口の強い声が頬を張り倒した。
「ツッキーは辞めたりしないよ!」
 僕のことを何もわかっちゃいないくせに。
「ツッキーはそんなに弱くないから、辞めたりしない……!」
「な、なんだよ……冗談だろ。そんな本気で怒るなよ」
 山口の勢いに気圧された相手が話を切り上げて、二人は下駄箱を離れた。
 また勝手なことを言って。これで僕はクラブを辞められなくなった。今ここでバレーを辞めたら僕が弱いヤツってことになるじゃないか。一晩中悩んだのに、勝手に決めるなよ。
 腹が立つ。だけど、もうバレーを辞める選択肢がなかった。無自覚に山口は僕を追い立てるんだ。勝手に、理想の“月島蛍”を語ってハードルを上げてしまう。
 兄ちゃんも僕の憧れに追い詰められていたのだろうか。足りない身長を背伸びでごまかして、踵の上がった足元の秘密を暴かれてしまった。
 二人に追いつかないよう時間を置いて下駄箱を離れた。教室に入るなり山口がすっ飛んできた。いつもより声が大きい。さっきはあんな風に言っていたのに、内心では僕が休むかも、なんて思っていたのかもしれない。
「おはよう!今朝どうしたの?」
「別に。トイレに入ってただけだよ。待っていられると落ち着かないだろ」
「そっか。ねえ、今日のクラブは行く?」
「当たり前でしょ」
「だよね、そうだよね!俺はちょっと膝が痛いんだけど、ちょっとだけならいいよね」
「身長伸びてるからだろ。コーチに訊けよ」
「うん!そうする」
 一生懸命明るくしているんだろうが、気を遣うならもっと上手くやってほしい。いつもと比べ様子のおかしい山口を相手にしている僕は平常通りだ。放課後一緒にバレークラブの練習に行って、小さな小学生クラブの中で一番強い子供でいた。
 山口はコーチに言われて念入りにストレッチをしていた。

 ◇  ◇  ◇

 小六でも山口と同じクラスになった。背の順で並ぶ体育の整列では前後になって、小さく前へならえすると目の前につむじがある。
 去年は間に何人か挟まっていたから、最初に整列して後ろへ追いやられてきたときは嬉しそうだった。
 身体測定でも注目株だ。伸びっぷりではクラスで一二を争うほどで、保健室から出たところで暇な連中に絡まれていた。
 別に背が伸びたってどうってことない。バレーの大会に出たら山口程度はゴロゴロいたし、身長に応じて自動的に強くなったわけでもない。だけど、もう山口をいじめるヤツなんか一人もいなかった。
 そのせいか、下や上ばっかり見ていた目線が、去年までより真正面に向かっている。

 いつもは三冊まで貸し出しの図書が長期休みの前は五冊まで借りられる。
 そう言われると、普段は本に興味のないヤツでも図書室にやってくる。安売りだと普段行かない店でも寄ってみたくなる心理なんだろう。いつもより人の多い冬休み前の図書室で山口が本棚を見上げていた。
「あ、ツッキー。もう借りた?」
「まだ。山口はまだ選んでるの?」
「うん、いや、このシリーズあと三巻だから最後まで借りちゃおうかなって」
 自分に頷いて決心したようだ。一度足元を目で捜したけど踏み台はなかったので、なるべく本棚に近寄って高く手を伸ばす。言えばすぐに取ってやるのに。そのチャレンジを無駄な時間みたいに思った。でも、
「あ」
 挑戦した自分で驚きの声を挙げて背表紙に指がかかる。片手を本棚の中段にかけて支えながら、猫背気味の背筋を伸ばし、可能な限り高く背伸びをしたら届いた。
 なんとか三冊まとめてひっかけて本を背中から倒し、一度背伸びを止めて立て直してから引き抜いた。
「取れた」
「…………背、ずいぶん伸びたしね」
「ありがとうツッキー」
 事実を言っただけで褒めるつもりなんかなかったのに。この一年で山口はグッと背が伸びた。僕だって伸びたけど、山口の方が伸びているから差は縮まった。そのうちもっと差がなくなって、高校になる頃には追い抜かれたりして。想像したら面白くなかった。一方、山口はそんな将来なんか想像もしないらしい。
「クラスの中じゃ高い方になったけど、やっぱりツッキーには追いつかないや」
「なんでだよ」
「うーん、うちの家族はツッキーんちみたいに高くないし……バレー始めたから伸びたのかな」
 だから一緒にバレーをやってる僕には敵わないってことらしい。
「でも、ちょっとでも背が高くなったら中学や高校でも一緒にバレー部で試合に出れるかもしれないし」
「身長じゃなくて実力で出れるように練習しなよ」
「だね」
 練習したって背が高くたって試合に出られないかもしれない。チラリと浮かんだ言葉は言わなかった。
 卒業まで三か月ほどに迫った小六の冬。身長のおかげか、練習のおかげか、一緒に所属しているチームでは山口もミドルブロッカーとしてコートに立っていた。兄が言っていたようなカッコいい活躍ができていたわけではないけれど、山口はそれなりに充実しているようだった。
 山口は、中学や高校でも一緒にバレー部をやるつもりらしい。兄の一件以来、何かの節目でバレーを辞めるかもしれないと思っていたのに。山口が当然みたいに言うから、たぶん、高校まで辞められないんだろう。一年前にも当たり前にクラブを続けることにしたのだから。
 どこかの本で読んだ。言霊というものがあって、人間は優しいと言われ続けたら優しく、ダメだと言われ続けたらそうなってしまうんだそうだ。そんな風に山口が語る数年先の未来は叶うような気がした。僕が望んでいるわけじゃないから呪いみたいなものだ。
 僕の心の中なんか少しもわかっちゃいない山口は三冊の本をボールに見立ててオーバーハンドで支えていた。

 ◆  ◆  ◆

 サービスエースは長くは続かない。まして相手は強豪だ。経験値が違う。山口のサーブはすぐに捉えられた。
 ボールが再びネットを越えて戻ってくる。誰が上げて誰が打つ。誰が狙われる。追い立てられるような心が集中力を高めていく。気持ちを急き立てるのは対峙している敵じゃない。サーブを打ち込んですぐにサーバーから一転して他メンバーと同じコートの一員になり、不安を滲ませている山口だ。振り返らなくてもどこか頼りない表情が見えるようだ。
 ピンチサーバーは文字通りサーブのためだけに、ほんの僅かなチャンスにコートに立つ。
 それでもサーブという、自分一人の実力で点を稼げたら、その場所に居続けることができたなら、注目を独り占めするヒーローだ。レギュラーでコートに立つメンバーよりも、その瞬間だけは誰よりカッコいい存在になる。そういうものに山口はなった。
 四年も前の空想が背筋を震わせる。やっぱり壁二枚なんかじゃない。アイツは一人きりでヒーローになった。プライドが踵を押し上げて、数か月前、数年前に想像もしなかった場所へ指をかけた。
 背筋から足元へこまかな波のような痺れが走り抜け足の裏にわだかまる。まだ、床を蹴るタイミング、方向をギリギリまで見極める。延命のためじゃなく、相手のボールを文字通り殺すために。溜めた力で高く跳び上がった。
 瞬間、目線が上がる。ネットの向こうで跳んだスパイカーの険しい顔が、それを切り取った写真みたいに鮮明に見えた。叩きつけられるボールの熱さ。相手コートで跳ねる球の、敵をねじ伏せた時の胸がすくような音。
 昔から同年代の中では飛び抜けて背が高かった。兄を見上げなくなったら下ばかり向いて過ごすようになった。見下ろしていたはずの山口はいつの間にかすぐ近くまで迫っていた。見上げる角度のままの山口が横に並べば、僕なんか視界から消えていくだろう。だから、追いつかれたくない。いつだって山口の目線の少し上にいるために、涼しい顔で踵を浮かす。