竹仙SS詰め/忍玉/36472

■■ 蜂と煙
 
 見上げれば、松の逞しい枝に実った不格好な実のような茶色い巣。
 そこから煙のように溢れ出す無数の蜂。
 ―もうだめだ。
 手には虫網一つ。振り回したって奴らは追い払えない。
 全身がざーっと冷えていく。
 
「この季節は危険な虫も活発だからよく注意しろ」
 生物委員会の活動として昆虫採取を始める際、委員長が厳しい顔で言った。
 一年生は何を想像したのか腰が引けていたが、自分は違う。
 飼育中の毒虫がたびたび脱走するので捕獲技術も身に着いた。知識もある。
 委員長の言葉は下級生に向けられている。
 そんな気持ちでいた。
 
 幸い腰を抜かすほどの間抜けではなかったが、逃げなければという気持ちに足の動きが追い付かない。
 茂みに足を取られているような錯覚さえ覚える。
 草の匂い。鮮やかな緑の中、黒い塊が視界をかすめた。
 ―硫黄?
 嗅ぎ馴れた匂いに振り返ると、先刻の黒い塊から煙がもくもくと立ち昇り、飛び交う蜂達を包み込んでいた。
 何だ、これは。
 風がないおかげであっという間に一体は煙に包まれた。
 
「何をしている、急げ」
 
 突然手首を掴まれた。
 鋭い声と手を引く強い力で目が覚める。
 茫然として足が止まっていたのだ。
 もつれがちな足を意識的に動かしてその場から逃げた。
 手首をつかむ手が途中すり抜けてゆきそうになったのを、夢中で捕まえると、今度は手をしっかりと握り返してくれた。
 節張った、けれど白い手だった。
 
 煙を抜けると、そこはまだ深い緑の中。
 けれど木立の間から日向が覗き、近くに水の流れる涼やかな音がした。
 汗ばんだ手と手が離れる。
 代わりに風が触れて、手のひらの熱を奪っていった。
 見覚えのある忍び装束の背中が長い黒髪を揺らして振り返る。
 汗だくで息を切らし、薄く涙さえ浮かべた自分とは対照的な涼しげな顔。
「生物委員だな」
 背などあまり変わらないはずだが、蔑むように顎をくいっと上げて見下されれば相手がとても大きく見え、肩を竦める。
「は、はい」
 ―生物委員のくせに蜂を恐れたのか。
 言われてもいないのにそう聞こえたのは、調子づいて油断した自覚があるからだろう。
 相手は山野に溶け込むような若竹色を纏う五年生。
 年は一つしか違わないというのに、教師に叱られる時のように覚悟の拳を固めた。
「刺されたところはないか」
 抑揚のない一言に今し方固めた拳が緩む。
「はあ」
 何とも間抜けな声が出た。
「確かになさそうだな」
 虚を突かれたのが顔に出ていたのだろうか。
 相手がにやりと笑うので、急に肩が軽くなった。
「あの、ありがとうございました」
「お前は運がいい。私とて常に煙玉を持ち歩いているわけではないからな。」
 蜂は煙に巻けば鎮まるのだ、と。
 素直に頷きながら、首にかかる髪がむず痒くて何気なく手をやった。
 直後にチクリとして首に激痛が走る。
「どうした」
 しゃがみ込み様、耳元で嫌な羽音がした。
「さては髪に紛れていたな!」
 流れるような動きで手裏剣が放たれ、それは蜂の羽を掠めて地に落とした。
 土の上でのた打ち回る仇を遮るように若竹色が膝をつき、患部を抑える手を退け、うなじに顔を寄せる。
 噛みつかれた。
 生温かい唇を当てて、熱を持った皮膚に歯を立てる。
 そのまま歯で扱いて毒液を吸い出し、すぐさま吐き出す。
 痛みと激しい拍動でめまいがした。
 
「熱はないようだね」
 しかし、濡れた手ぬぐいを首筋にあてがわれる。
 恩人、立花仙蔵は自ら毒液を吸い出した後、狼煙を上げた。
 その時五年生は演習中で、付近にいた保健委員の善法寺伊作が逸早く駆けつけた。
 事情を聞いた彼は的確に処置をしてくれたが、一方で立花仙蔵を怒鳴りつけた。
「口で吸いだしてはいけないと言っただろう。口内に怪我でもあればそこから毒が回ってしまうことだってあるんだ。」
 言われた側は「平気なのだから良いだろう」と話を打ち切り、先生の姿を見つけると「説明をしてくる」と言って場を離れてしまった。
 そっけない後ろ姿。
 
 二人の先輩のおかげで時間の経過とともに痛みも引き、無事に帰りついた学園で生物委員長の心のこもった説教を拝聴することができた。
 しかし、それも上の空。
 指で触っても歯形など残ってはいないのに、あの瞬間を思い出すたび触らずにいられなくなるのだ。
 
 
 
 2009/06/29
 
■■ 友情と手繰る糸
 
 縁というものが形を取るならば、最初に期待した瞬間から少しずつ細くなっていって、そろそろ蚕の吐く一糸と並ぶほどではないかと思う。
 ここ数日は特に、影さえも見つけられないのだから。
 
 黒板には大きく「自習」の二文字。
 もはや席などあってないようなもので、ここ“ろ組”で真面目に勉強している者は半分もいない。
 教室内に居ればまだいい方だ。
 学年中が自習というのをいいことに、鉢屋三郎は堂々と“い組”へ出かけていった。
 何故“は組”ではないかと問えば「“い組”の方が真面目だから」だそうだ。
 何をしに行ったのやら、普段なら竹谷八左ヱ門も冷やかしについて行くところだが、今日は気が乗らなかった。
 そんな様子を察してか、三郎の相棒である不破雷蔵も八左ヱ門と共に残った。
 けれど、窓辺でため息ばかりつく八左ヱ門に声をかけるべきか、それとも黙って見守るべきか悩み始め、結果的に黙って見守っている状態にある。
 面倒見の良いのが彼の長所の一つであり、決断力がないことが短所だった。
 
 真面目に自習している者も足を崩して筆を置く頃、勢いよく教室の引き戸が開いた。
 真っ黒な忍び装束と黒い頭巾。逆八の字の眉間には深い皺、迫力あるむき出しの歯とこめかみに浮かぶ血管。
「お前たち、真面目に自習せんか!」
 轟くような怒声に教室中が跳びあがって振り返る。
 しかし、次の瞬間には元通り。机に頬杖を突き、昼寝をし、視線を窓の外へ戻してため息を一つ。
 来訪者の相手をしたのはただ一人。
「おかえり、三郎。」
 担任教師に変装した三郎の相棒、雷蔵だけであった。
「やっぱりつまらないな、“ろ組”は。」
 教師の顔の皮をべりべりと剥ぎ取りながらぼやく。
 学年が低い頃はこの程度の悪戯に一々引っかかって肝を冷やしてくれた級友たちも、今ではすっかり飽きてしまい面白がってすらくれない。
 しかし「どうせ、また三郎の悪戯だろう」というこのタイミングにこそ、“偽者だと思って無視をしたら本物だった”という罠が必要だと考える。
 忍び装束も変装用に所持している黒いものから学年ごとに統一された桔梗色のそれに着替え、指定席と化した雷蔵の隣、すなわち、今はやはり八左ヱ門の背後へと腰をおろした。
「まだそうやってたのか。」
 八左ヱ門の話をあえて雷蔵に向ける。
 明るさが取り柄の男がひと月ほど前からよくぼんやりするようになって、最近ではそれが加速していた。
 ひと月前と言えば、委員会活動で山に入り、スズメバチに首を刺されるという災難に見舞われている。
 まさかそれが原因で頭の神経をおかしくしたのではなかろうなと保健室へ引っ張って行ったが、結局笑い飛ばされて終わった。
 今では刺された痕さえ残っていない。
「ご覧のとおりさ。」
 雷蔵の答えに「ふむ」と頷いた三郎は俯いて顔面を両手で覆い隠す。
 その指が蠢いたかと思うと、もう別人の顔へと変貌を遂げている。
 仕上げに前髪と髷を付け替えれば、そこに居るのは二人目の不破雷蔵ではなく笑顔の八左ヱ門だ。
 わざわざ本物の八左ヱ門の肘に肘をぶつけ、同じように窓枠へ寄りかかる。
 ゆっくりと顔を上げた八左ヱ門は素直に眉を顰めた。
「なんだよ」
「それはこっちのセリフだ」
「三郎には関係ないだろう。」
 すっかり傍観に回った雷蔵はつれない態度の八左ヱ門を物珍しく眺める。
 彼が三郎と喧嘩する姿はたびたび見るが、相手にしないことは滅多にない。
「いいや、関係あるね。」
 三郎はめげない。きっぱりと言い切った。
「腑抜けた顔ばかりしていたら人相が変わる。そうしたらこの皮も新調しなくてはならなくなる。」
「確かに。」
 認めたのは八左ヱ門ではない。雷蔵だった。
 明るい表情を基本として作られた“八左ヱ門の面の皮”は、今の物憂げな表情を上手く表現できていない。
 身勝手な物言いだったが、傍で見ている雷蔵にまで同意されたのはいささか効いた
「大したことじゃない。会いたい人がいるのに、なかなか会う機会が巡ってこない。それだけだ。」
 早口が「あまり聞かせたくない」という本音を映し出す。
 だからといって聞き逃してくれるわけではない。
「へえ、誰なの?」
 素直に質問する雷蔵と、無言で顔に手をやる三郎。
 早速「言わなけりゃよかった」と後悔の念に駆られる。
 言い躊躇う間に目の前では変装の名人、鉢屋三郎の七変化が繰り広げられた。
 くの一教室のマドンナ、山本シナ先生から始まり、面識のあるくの一教室の生徒たち。
 更には食堂のおばちゃんに事務員のおばちゃん、果ては山田伝蔵先生の女装顔。
「どれもハズレか」という言葉のどこまでが本気だったのか。
「言っておくが惚れた腫れたの話じゃないからな。」
「じゃあどんな事情だ。」
 年頃の男の頭の中など単純なものだろ?と。
 ここで黙れば肯定することになってしまう。そこで仕方なく口を開いた。
「前に、山で蜂に襲われた時、五年の先輩に助けられたと話しただろ。そのお礼を言いたいんだよ。」
「保健委員の善法寺伊作先輩なら保健室へ行けよ。」
「最初に助けてくれた、立花先輩の方だ。」
 名前を聞くや否や、三郎はその顔を再現して見せる。
 先刻から十余名分の変装を披露しているが、ここへきて初めて八左ヱ門の表情が揺れた。
「なるほど。それにしたって直接会いに行けばいいことだろう。」
「行けるか!」
 勢いで言い返したきり、八左ヱ門は押し黙った。
 俯き、頭でも掻くような仕草で首に手をやる。
「まあ、上級生の教室は行きづらいよね。」
 雷蔵が助け船を出したが、相棒はそれを簡単にひっくり返した。
「よし、一緒に行ってやろう。」
 残念ながら、八左ヱ門はこの一言に一寸も頼りがいを感じなかったという。
 
 先頭は木下鉄丸、続いて雷蔵、尻は主役のはずの八左ヱ門。
 木下の正体は例によって三郎である。
「何で木下先生なの?」
 一度脱いだ黒服を身につけた三郎に尋ねると、「保険」と答えた。
 お礼を言いに行くことのどこに保険をかける必要があるのかと思ったが、八左ヱ門の腰の引け方を見て、確かに必要かもしれないと考え直す。
「さっきの自習中に様子を窺ってきたけど、木下先生は学園長先生に捕まってもうしばらくは出てこないはずなんだ。」
 この周到さこそが彼を天才と言わしめる一因でもある。
 しかしながら、ここまで予防線を張りながら乗り込んだ五年教室は三部屋とももぬけの殻。
 いざとなれば木下鉄丸の顔を盾に廊下を素通りして帰るつもりすらあったのだが、予想外のことに忍ぶことも忘れて五年い組の教室を覗き込んだ。
「実技で外に出てるのかな。」
「いや、これは五年生合同の…」
 三郎が言いかけた言葉を途切れさせたのが早いか、三人は突如現れた気配に振り返った。
「合同演習で裏裏山ですよ、木下先生。」
 血の気が引く。
 そこに立っていたのは誰あろう、立花仙蔵だった。
 学年色の忍び装束姿で頭巾を片手に持ち、品の良い微笑みを浮かべている。
 着物の裾を引かれたのを感じ、雷蔵が僅かに視線をやれば八左ヱ門がじりじりと背に隠れようとしている。
 悪いことなどしていないのに、何故こんなことに。
 幼い弟妹を庇う兄の気分だ。
「あ、ああ。立花はこれから向かうのか。」
 さしもの三郎も動揺からか、木下鉄丸らしい覇気が足りない。
「はい、学園長先生のお遣いで数日空けて、今帰ったところです。」
「そうか、ご苦労。」
 そこで話を切るべく歩き始める。今まで一瞥もされなかった二人も教師に従って仙蔵の前を横切った。
 仙蔵が背に周り、視界から完全に消えたところで誰ともなく詰めていた息を吐きだした。
 それを狙い澄ましたように、仙蔵が声を上げる。
「あ」
 目に見えて八左ヱ門の肩が跳ねた。自習中に三郎が仕掛けた悪戯の比ではない。
「木下先生、最近少し痩せられましたね。懐中の石を一つ減らした方が良いと思いますよ。」
 錆びたつがいのように木下が顔だけで振り返るが、仙蔵はもう足音を憚ることもなく、頭巾をかぶりながら教室へと入って行った。
 小さな声で三郎が吐き捨てる。
「ちくしょう」
 
 そうか、ここ数日見かけなかったのは、学園に居なかったからか。
 逃げ帰った四年ろ組の教室で八左ヱ門は一人頷き、それが癖のように、髪に隠れた首に触れる。
 当初の“お礼”という目的は果たされず、下手に誤魔化そうとしたおかげで気まずささえ生む結果に終わりはしたが、気分はゆらゆらと上っていた。
 演習中で無人の教室へ、たった一人、仙蔵が現れた。
 落ち着きを取り戻しつつ、その事実を手に握りしめる。
 
 窓辺では雷蔵の姿をした三郎が不貞腐れ、変装の際の体重調節に使っていた石ころを外の木へ向かって放り投げた。
 その隣で雷蔵が相棒にかける言葉を探している。
「そんなに落ち込むなよ!」
 明るい声に双子のような二人が振り向けば、いつの間にか調子を取り戻した友人がいる。
「決めた。次に会ったらちゃんとお礼を言ってくる。」
「それはそれは、がんばれよ。」
 投げやりに返す三郎の背中を遠慮なしに叩いて睨まれても八左ヱ門はびくともしない。
 遅れて口を開いた雷蔵の「これで新しい顔の皮を作る必要がなくなったね」という一言が、三郎の頭の上を通り越して八左ヱ門の大きく開いた口に吸い込まれた。
 そして三郎は笑い声から耳を塞ぐ。
 
 
 2009/06/30
 
 
■■ 蕾を愛でる
 
 部屋の戸を開けると眩しいほどの朝日が差し込んできた。
 目の上に手で日除けを作る。
「今日は晴れか」
 井戸に向かう途中、体育委員の一行とすれ違った。
 一人元気な七松小平太が、ふらふらした下級生達を小脇に抱えていたので、おそらく訓練帰りというところだろう。
 もう冬が終わる。
 六年生は卒業を迎え、進路先の都合に合わせ、一人、また一人と学園を後にする。
 体育委員長もその一人であり、委員長の役目を引き継いだ小平太は張り切っていた。
 やる気があるのは良いことだが、それで振り回される下級生に同情もする。
 我が作法委員会も、数日前に先代の委員長を見送った。
「なあ仙蔵、この椿の蕾ぐらいは見られるだろうか」
 そう話していたのに、ついに赤い色を見ることなく旅立っていった。
 その日から、感傷に浸りながら一人で生け垣の椿を見に行くのが日課となっている。
 
 その椿は毎年見事な花を咲かせる。
 去年までは先輩に連れられ、また、自分も後輩を連れて眺めたが、可愛がっている後輩は花よりもその下の広がる地面の方にお熱だった。
 穴を掘ることばかり考えているような男なので、植物の周りは掘らないようにときつく言い聞かせている。
 
 井戸の冷たい水で顔を洗い、その足で生け垣へと向かう。
 艶やかな葉の間についた小さな蕾から、ほんのりと赤い色が見えた。
「今年は暖かいので開花も早いだろう」という先代の言葉はきっと当たる。
 水で冷えた冷たい指で一番育ちの良い蕾を撫でた。
 その心地よい気分を不躾な視線がかき乱す。
 ため息を一つ吐いて振り向けば、四年ろ組の生徒が連れだって歩いている姿が目に留まる。
 その一人、鉢屋三郎と目が合い、会釈をされた。
 しかし、視線の主が鉢屋でないことは分かっていた。
 
 教室へ入ると潮江文次郎が帳面から顔を上げた。
 彼もまた先代から委員長を引き継いだばかり。
 それも、他の委員会全てと戦う運命にある会計委員長だ。
 次の予算会議が初の大仕事となるため、いつにも増して睡眠時間が削られているらしい。
 隣に腰を下ろす。
「機嫌が悪そうだな、仙蔵」
 表に出していたつもりはないが、すぐに言い当てられた。
 付き合いが長いと要らないことまで悟られて面倒だ。
「後輩に睨まれるのが鬱陶しくてな」
「鉢屋三郎か」
 すぐに名前が挙がるのには二つ理由がある。 一つは、五年生の間でも鉢屋の名が有名だから。 もう一つは、以前、変装中の鉢屋含む数名が五年教室を覗いていたところに出くわし、鉢屋の変装の粗を指摘したという出来事から。
 しかし、本当の犯人は鉢屋ではない。 振り向くと顔を逸らす、鉢屋の連れの方だ。
 文次郎に首を振ると「よく恨みを買う男だ」と言われた。
「お前に言われるとは心外だな。それにあれは敵意などない。」
 敵意も、勿論殺意もない。
 ただ五月蝿いほど見つめられる。
 それだけだ。
 
 視線の主をこちらが先に見つけることも珍しくない。
 見つけたからといって、声をかけたり逃げ隠れすることもない。
 声をかけるほどの興味がない。逃げ隠れする必要もない。
 しかし、今日は事情が違った。
 視線の主、竹谷八左ヱ門が椿の根元で這いつくばっている。
 手には小さな壺と箸。
「今度は何を逃がした、生物委員。」
 見下ろして問う。
 すると竹谷は上半身で跳びあがり、直後に髷を押さえながら再び地に沈みこんだ。
 醜態を晒した後、こちらを一瞥し、やはり目を逸らす。
「知りたいですか」
 質問で返されたので「いや、やめておこう」と応える。
 生物委員の探し物などろくなものではないと相場が決まっている。
 まだ冬の明けぬこの時期に動き回るのがどんな生き物か、好奇心をそそられるが知らない方が良いだろう。
 代わりに、何故そこから動かないのかと尋ねると、椿に髪が絡まったのだという。
「切れば良かろう」
「刃物がありません」
 呆れたことだ。
 仮にも忍者の学校である。
 どこかの忍者や賊が侵入して襲われないとも限らない。
「もうすぐ五年になるというのに、箸と虫壺しか持ち合わせていないとは自覚が足らん。体育委員長の小平太など、いつだってくないを忍ばせているぞ。」
「七松先輩のアレは趣味で塹壕を掘るためではないのですか」
 確かに、必要がなくとも掘り散らかしている。
 仕方がないので自分のくないを貸してやった。
 すると竹谷は迷わず自分の髪に刃を当てた。
「感心せんな。毛が残れば自分がここに潜んでいたことを敵に教えてしまう。」
 椿の枝に仄明るい色の髪の毛を残したまま竹谷が身を起こす。
 ずっと腹這いだったおかげであちこち土埃に汚れていた。
 それを形ばかり叩き払いながら困ったように笑う。
「学園内ということで勘弁して下さい。それに、こいつは傷つけたくなかったから。」
 こいつ、と呼んで艶々の深緑の葉を触る。
「私が目をかけているからか。」
 反射的に振り向いて目を見開いた。
 やっと目が合う。
「気づかないとでも思ったか。」
 竹谷の耳が赤く染まる。
 この男はあまりにも素直だ。
 おかげで視線の意味が漸く分かった。
 何故だかは分からないが、竹谷は私を好きなのだろう。
 男色を毛嫌いするものもいるが、自分はそうではないので咎めない。
 こんなにもあからさまなくせに、竹谷はまた椿を見る振りをして目を逸らした。
 こんな好かれ方は経験がないので、どこか現実味がなく、他人事のように思われた。
 竹谷はバツが悪そうに後ろ首に手をやる。
 先刻乱暴に切り取ったのがどの辺の毛だったか、もう分からないほどぼさぼさの髪が手を覆い隠す。
 
「やっと蕾が色づいてきたんだ。」
 生け垣の前に座り込んだままの相手と目線を合わせるべく膝を折る。
 興味本位で近づいてみようかと思ったけれど、それはやめた。
 距離を保ったまま、腕を伸ばして色づいた蕾を指先で撫でる。
 それを見つめる竹谷の顔を見ていた。
「知っているか。椿は優秀な植物でな、種子からは髪艶を良くする油もとれる。」
「先輩はその椿の油を使ったことがあるんですか。」
「お前のと違って地が良いから髪油なんぞなくとも充分艶はあるがな。」
 相手が少しむくれたのが分かって、ほんの少し興味をそそられた。
「それじゃあ、こうして枝に絡まることも?」
「滅多にないな。」
 背中にかかる長い髪を指先で掬う。その端からさらさらと流れ落ちていく。
「なら良かった。」
 思わぬセリフ。
「もし先輩の髪が椿に絡まっても、俺のと違って、その髪は切れません。」
 この言葉が、例えば鉢屋から出たものなら厭味ととったかもしれない。
 しかし、竹谷の様子からして厭味でもなければ口説いているつもりでもないようだ。
「もし絡まっても、私なら間違いなく枝を切るがな。」
「そうでした。」
 馬鹿なことを言ったと気づいたらしい。
 また目が散ったかと思うと、私の向こうを見て突然「あ」と声を上げた。
「何だ」
 視線を追いかけて体ごと振り向こうとしたのを制止される。
「探しもの見つかりました、まだ、動かないでくださいよ。」
 貸したくないを箸に持ち替え、四つん這いでゆっくり動く。
 獲物を見つけた野生動物のようでもあるが、片手に壺を抱えて箸を構えた姿は滑稽だ。
「まったく、これだから生物委員は。」
 動くなと言われたので立ち去るわけにもいかず、会話相手も得体のしれない生き物に奪われてしまった。
 目の前には無数の葉を茂らせた椿の生け垣。
 先代の委員長と見守った小さな蕾。
 たかが植物、大事にしているとしても、いざとなればいくらでも手折れる。
 過剰に情をかける意義などない。
「なあ、生物委員」
「はい」
 お互い振り向かず、背を向けたまま。
「お前、よく阿呆と言われるだろう。」
 枝に絡まった毛を一本だけ摘まみ、そっと引っ張るとするりと枝を離れた。
 
 数日のうちに椿は少しずつ花開いた。
 髪の絡みついた、その枝にも。
 
 
 2009/07/03
 
 
■■ 合同演習 前篇
 
 
 空を流れる雲が速い。
 明け方に遠くへ見えた灰色の雲がすぐそこまで迫っていた。
 太陽が隠され、景色がくすむ。
 
「えー、これより、五、六年生合同演習を始める。」
 
 仕切り役の教師が声を張り上げた。
 影のような黒い忍び装束を着た教師陣の前には二色の少年達。
 右手に若竹色を纏う六年生、左手に桔梗色を纏う五年生。
 どちらも十日ほど前に進級を果たしたばかり。
 頭上に太陽を仰ぐ時刻であった。
 
 演習は学年混合の紅白軍に分かれて行われる。
 教室ごとにくじを引いて紅白の手ぬぐいを受け取り、所属の目印として身につける。
 そしてすぐに短い会議を開き、大将を選出する。
 
 着色されていない紙縒りを引いた竹谷八左ヱ門は、それに続く級友たちの手元を確認した。
「三郎も白軍か。雷蔵とは別れちまったな。」
 鉢屋三郎は紙縒りを指先でくるくる回し、「たまにはいいさ」と薄く笑う。
「それよりも、八は俺たちより他に気になる相手がいるだろう?」
 声をひそめて言えば、目を丸くして否定をしてくれるから絡まずにはいられない。
「何のことだ、妙なことを言うなよ。」
「さてね」
 ひらりとかわし、紙縒りを白い手ぬぐいと引き換え、二の腕に巻きつける。
 そして朱に染められた手ぬぐいを巻いた不破雷蔵と健闘を祈り合い、白い旗の下へと集まった。
 その中心には切れ長の目を細めて不敵に笑う立花仙蔵がいた。
 
「演習とはいえ負けは許されん。絶対に勝つ!」
 赤い旗の下で文次郎の号令に合わせて雄々しい掛け声が響く。
 教員に急かされるほど長い会議の末、大将を務めるのは六年い組の潮江文次郎と決まった。
 大将の座を争ったのは同じく六年ろ組の七松小平太と、は組の食満留三郎である。
 その言い争いの間、完全に蚊帳の外にいた五年生、久々知兵助は雷蔵の肘を突いた。
「また随分偏った軍編成になったな。」
「くじ引きだからね。」
 苦笑いして敵方を見れば、あっさり大将が決定して作戦についての議論に入っているようだ。
 円陣を組んで座り込み、時折地面に何かを描いているのが分かる。
 場を仕切るのは六年い組の立花仙蔵。
 その脇を固めるのはいつ見ても仏頂面の六年ろ組中在家長次と、不運で有名な保健委員会長、は組の善法寺伊作。
 どちらも自己主張が激しいわけでもなく、仙蔵を頭に据えて上手く納まっている。
 日ごろからいがみ合っている文次郎と留三郎、そこへ体力のあり余った体育委員長の小平太も加わって早くも収集がつかなくなっているこちらとは大違いである。
 最終的にあみだくじで大将を決定したが、三者とも委員会活動では委員長を務めている人物なので不安がるのも失礼というものだが。
「さて、先刻説明があった通り、今回の演習は捕虜奪還が本題となる。」
 
 
 その一、最初に双方、敵軍から一名捕虜を指名し拘束する。
 
 その二、それを自陣に置き、お互いに自軍の仲間を開放すべく作戦を立て行動する。
 
 その三、捕虜の拘束は各軍で行い、捕虜が自力で縄抜けしても良い。
 
 その四、解放された捕虜が先にゴールした軍の勝利となる。
 
 その五、捕虜を除き、敵から背中に墨を塗られたら失格者として戦線を離脱する。
 
 
「そのため、まず白軍から捕虜を選ぶ。これは、本来ならば一番手ごわい相手を指名し充分な拘束を行うのが定石である。」
 深いくまの刻まれた目が円陣の内側を舐め、仲間たちは疎らに頷き応じる。
「しかし、今回の捕虜は五年ろ組の鉢屋三郎を指名する。」
 言い放ち、文次郎は一瞬だけ雷蔵に視線をやった。
 三郎と言えば五年生とはいえ変装の名人であり、六年生を凌ぐ実力者とも噂される。
 異論は出なかった。
 大将の座を巡って争っていると思われた間に、六年生同士で相談を済ませていたのかもしれない。
 朱の手ぬぐいを身につけた他の仲間同様、雷蔵も静かに頷いた。
 
 号令とともに一斉に立ち上がり、足で地面に薄く書かれた線を掻き消す。
 円陣を崩した群衆を抜け、一歩前へ出た仙蔵が、同じく会議を終えた文次郎と向かい合った。
 開戦前の口上、そして捕虜の交換を済ませ、各軍会場となる裏裏山にて自陣設営に散る。
 そして各々、開戦を告げる狼煙を待った。
 
 捕虜の拘束はこれでもかというほどに行われた。
「しつこいぞ仙蔵」
 小平太が文句をつけても手を緩める大将ではない。
 きつく手首を縛りあげた上で胴を何重にも巻き、足も縛りあげた。
 お陰で持ち寄った帯類は一本も余っていない。
「縄抜けされては話にならんからな。」
 冷たく言い放つ。
 この演習において捕虜役は貧乏くじと言える。
 自力脱出する隙など与えられるはずがなく、仲間に解放されるまでは一切動けない。
 人一倍体力を持て余した小平太は捕虜に指名された瞬間からここまで、不平を訴え続けている。
「…小平太、諦めろ」
 木の葉の擦れる音にさえ掻き消されそうな声で長次が呟く。
 小平太は悔しそうに口を尖らせながらも漸く押し黙った。
 
 まず全員で二人組を作り、それを守備隊と攻撃隊に分ける。
 長次は伊作と組み、捕虜の一番近くで守備に当たることとなった。
 大将の仙蔵は偵察部隊として、開戦と同時に自陣を離れた。
 それに従うのは仙蔵直々の指名を受けた竹谷八左ヱ門である。
 
 会議で二人組を作る際、八左ヱ門の名前が呼ばれたのは一番最後だった。
「お前は私とだ」
 仙蔵にそう告げられ、思わず「は」と呆けた声を上げた。
「嫌だとでも?」
 と睨まれれば即答せざるを得なかった。
「滅相もない」
 こうして八左ヱ門は不釣り合いと感じながらも仙蔵の補佐についた。
 
 二人の最初の仕事は日暮れ前に偵察を済ませること。
 すでに日が傾き、鼠色の雲が空を覆い尽くそうとしていた。
 刻々と明るさを失っていく林を駆け抜ける。
 敵陣が近いことを察すると先を走っていた仙蔵が片手で制止し、大木を選んで葉の生い茂る枝の上へと飛び上る。
 八左ヱ門はここで、早駆け中には感じられなかった実力の差を実感する。
 仙蔵の動きはまるで猫のようにしなやかだった。
「ここまで敵陣の偵察班と相目見えなかったところを見ると、こちらとは別経路をとったようだな」
 遠目から朱色の旗と、その側に目隠しをされ、座り込んだ三郎の姿を確認した。
 そのすぐ側を守るのは五年生と六年生が一人ずつ。
「雷蔵と、潮江先輩ですね。」
「と、すると、紅軍の偵察班は留三郎と…久々知と言うところか。」
 周辺を見渡すと、こちらも二人一組で罠の設置に取り組む者、本陣から少し離れて警戒に当たるものの姿が見える。
 その中に見当たらない二人が偵察班と見て間違いない。
 守備部隊と罠の配置を一通り確認し、一度引き上げる。
 仕掛けるのは夜闇に紛れてと決めてあった。
 
 自陣へ戻ると、最後の確認のために再び円陣を組む。
「紅軍もこちらと同じく、基本は五年と六年で組んでいるようだ。偵察班がそのまま攻撃部隊となるならば、ここへ乗り込んでくるのは留三郎と久々知兵助。」
「留さんか、やりづらいな」
 ぼやいたのは長屋で留三郎と同室の伊作だ。
 同じ教室で丸五年間学んできたので実力も癖もよく知っているが、それ故に近接戦闘に持ち込まれたら自分が不利であることもわかっていた。
「なに、奴を懐に入れぬための“罠”を仕掛けたのだ。」
「上手くかかってくれるといいんだけどね。」
 視線を捕虜である小平太の周りへと向けると、地面のあちこちに小枝が十字に置かれているのが見える。
 そこに罠が仕掛けられているという印だ。
「敵が飛び道具で捕虜の紐に傷をつけてくることも想定される。いいな?」
 確認する仙蔵と目を合わせ長次が頷く。
 その腰には太刀、手には彼の得意の縄ひょうが握られている。
 長次は小平太のすぐ側での防戦を命じられていた。
 白軍の最後の砦である。
 更に、自陣までの経路を絞り込み、そこに一組ずつ配置する。
 残りは遊撃隊とした。
 攻撃の要は当然仙蔵と八左ヱ門だ。
「以上、散!」
 鋭い号令の声と共に円陣が弾けるように消えた。
 
 目隠しの布越しに、ぼんやりと日が暮れたことを感じ取る。
 同時に周囲の音から配置されている人物を察して声を発した。
「雷蔵。まだ支度は終わらないのか。」
 罠を仕掛け終えたら目隠しを外すという約束だった。
 捕虜が罠の設置状況を把握し、救出に来た仲間に教えては罠を仕掛ける甲斐がないというものだ。
 しかし、拘束されてから絶えず聞こえていた潮江文次郎の声と矢羽が今は聞こえない。
 恐らく細かな指示を要する段階は抜けたはずである。
「ああ、ごめん。」
 返事は予想より近くから聞こえ、すぐに目隠しが外された。
 辺りは暗かったが、ずっと視界を遮られていたおかげで夜目は利く。
 軽く左右に首を振って確認した限りでは、遠くに何人かの影が見えるきり。
 すぐ近くにいるのは雷蔵ただ一人。
 耳からの情報で立てた予想は間違っていなかったようだ。
「私の“檻”は雷蔵だけか」
「いいや、さっきまで潮江先輩がいたんだけど」
 戻ってこないね、と辺りを見回せば文次郎の代わりに久々知兵助が現れる。
「潮江先輩は食満先輩と敵陣に向かった。」
「兵助と持ち場を交代したの?」
 彼は太い眉尻を下げて頷く。
 文次郎と留三郎の場合、二人で行動したとしても組んだとは言い難い。
 詳しく聞かずとも張り合った末の暴走と分かるからだ。
 とはいえ、連携を捨てるわけにもいかないだろうが。
「雨が降るな。」
 三郎が真っ暗な天を仰ぐ。
 揶揄ではなく、本物の雨の臭いがする。
 兵助は気安く三郎の側まで来て、同じように上を見上げた。
 三郎救出部隊はまだ辿り着く気配がないので、構える必要がないのだ。
「ここに来るのは立花先輩と、中在家先輩かな。」
 何気なく会話に落とされた予想に三郎は応えない。
 今は敵なのだから当然、というのを兵助自身も、雷蔵も分かっている。
 だからそれはカマですらない。
「少なくとも立花先輩は来るだろうね」
 代わりに雷蔵が応じる。
「何てったって三郎を人身御供に差し出したんだもの。」
 三郎が苦虫を噛み潰したような顔をして、ようやく会話に加わった。
「全てはあの人の手のひらの上さ。」
 
 捕虜の選考前、教員から一通りの説明を受けた後に仙蔵が手を挙げた。
「作戦行動中の監督をされている先生方は、勝敗判定に関与しますか?」
 両軍揃っている目の前で、「監督担当は最終審判員と連絡を取り合わない」という言葉を引き出した。
 つまり、不正があっても勝敗を判定する教員が「勝ち」と言えば勝ちとなる。
 その回答に満足した仙蔵は、駄目押しとばかりに三郎へと視線を送った。
 一連のやりとりを目の当たりにした文次郎らは、“捕虜に変装した鉢屋三郎にゴールされる”不正への対策を取らない訳にいかなくなった。
 狙い通り、紅軍は三郎を捕虜に指名し、仙蔵自身は自由を確保した。
 
「我々はくじ運がなかったかもしれないな」
 兵助がため息混じりに続ける。
「七松先輩が捕虜として引き離されことで、潮江先輩と食満先輩の間に割って入れる人間がいなくなってしまった。これも狙い通りというわけか。」
 大将を決める会議時点でひと悶着したわりに、準備段階ではそれぞれ大人しく役目を果たしていたので安心していたが、結局はこうなる運命だったようだ。
 先輩一人一人の実力は認めているが、頭に血が上っている時の判断を信用してはいなかった。
「ご愁傷様と言いたいところだが、立花先輩の思い通りというのは素直に喜べないね。」
 敵陣へ売られた恨みや以前受けた屈辱が蘇るので、三郎としても面白くない。
 勿論、兵助や雷蔵も。
 本陣から六年生ばかり排除したということは、五年生だけならばすぐに片がつくと思われているからに他ならない。
 拗ねる捕虜から視線を外した兵助は闇の向こう側で見えない白軍を見据えた。
「その計算、俺たちの実力で狂わせてやろうじゃないか。」
 
 そして合戦の幕が開ける。
 
 
■■ 合同演習 後篇
 
 
 手の甲にぽつんと冷たいものを感じ天を仰げば、鼻に頬に、次々雨粒が降りてくる。
「雨か」
 仙蔵は忌々しげに吐き捨てた。
 雨は得意の火器と相性が悪い。
「いいか、竹谷八左ヱ門。今作戦は掃討作戦等ではない。」
 自陣を僅かに離れた地点で立ち止まり、最後の確認を行う。
「捕虜目前での戦闘に備え、武器も体力も温存するに越したことはない。よって、それまでの交戦は極力控える。」
 八左ヱ門は黙って頷いた。
 
 駆けだすと三十町ほど進んだところで早速人影を見つけた。
 白軍で先行しているのは仙蔵と八左ヱ門である。
 相手は間違いなく敵であった。
 周囲にさっと視線を巡らす仙蔵の袖を八左ヱ門が引く。
 振り向けば八左ヱ門が黙って頷くのでそれに従って進むと低い段差があり、その陰に身を潜める。
 更に八左ヱ門が何かを探し動き回る間、仙蔵は遠くの敵の様子を窺う。
「あれは…まさか留三郎と文次郎か。」
 これは好都合だ。
 まさか本当に主力の二人が陣を空けるとは思っていなかったが、のこのこ出てきたというのなら頬も緩む。
 自陣で捕虜の小平太を守る長次や伊作等の負担は大きくなるが、それより早くこちらが三郎を開放すれば良いことだ。
 けれど、敵軍の二人が足を止めて周囲を警戒する仕草を見せた。
 ここで見つかるわけにはいかない。
 身を低くしたが、地に耳をあてた文次郎が的確に仙蔵に向かって手裏剣を放ってきた。
 それは頭すれすれの宙を滑り、背後の木に浅く刺さる。
 見つかったか。
 仙蔵がそう覚悟した時、横から一匹の野うさぎが駆けだした。
 その姿を見た留三郎が先に白軍陣営へ駆け出し、それを追うように文次郎も去った。
 地に耳を当ててもその足音が分からなくなるまで潜み、そこから顔を上げる。
「あのうさぎはお前か。」
 仙蔵が八左ヱ門に問う。
「ついこの間委員会活動で山に入った時、この辺に糞があったんで巣を探しておいたんです。」
 その答えに満足げに頷き口の端をクイと上げた。
 
 更に進み、紅軍陣営の中心に近付くと敵の気配も濃くなった。
 雨が目にも耳にも薄い膜を張り、周囲の気配を読みづらくなる。
 そして、目的地まで半里を切った頃、ついに避けられぬ戦闘に直面した。
 相手は五年生が二人。
 仙蔵の目配せで左右に飛び退き、追ってきた者を一人ずつを引き受ける。
 雨足が弱まってきたとはいえ、仙蔵得意の火薬は持ちだせない。
 相手はそこに勝機を見出し積極的に仕掛けてくる。
「見くびってもらっては困るな」
 くないを片手に飛んでくる手裏剣を捌き、自ら間合いを詰めると首筋に手刀を叩きこんだ。
 崩れ落ちる敵に最後の仕上げとして失格条件の墨を塗ろうとした時、相方の短い声が聞こえて振り返る。
 濡れた枝の上で足を滑らせ、転げ落ち様、体勢を崩した八左ヱ門の背中をもう一人の敵が今まさに狙おうというところだった。
 仙蔵は体を捻り、くないを投げつける。
 それを鼻先三寸でかわした敵が体勢を崩す。
 腐葉土の上に四つん這いで攻撃姿勢を立て直した八左ヱ門はこれを見逃さず、懐中の竹筒を顔に放る。
 反射的にそれをかわそうとする隙をついて相手の懐へ飛び込み、拳を叩きこんだ。
 倒れ込んだところをすかさず踏みつけ、拾った竹筒の墨を塗ると、監視担当の教員がどこからともなく姿を現し、速やかに失格者の確認と朱色の手ぬぐいを回収し失格を申し渡す。
 一勝に満足して仙蔵を振りかえると、そこにもまた背に墨を落とされ地に伏した敵兵。
 そして腕に怪我を負った仙蔵がいた。
「先輩、それは」
 慌てて駆け寄る八左ヱ門を片手で制止し白軍の証として巻いていた手ぬぐいを止血用に巻き直す。
 とはいえ深手ではない。
「構うな、よそ見をして油断しただけだ。」
 そう言って先刻投げたくないを回収しに八左ヱ門を横切る。
 そのくないを投げた際、仙蔵自身が相手をしていた一人に受けた傷だというのはすぐに分かった。
 お角違いと分かりながらも演習の敵を睨み、また己の不甲斐なさに拳を固める。
 相手はもう仲間と肩を叩き合いながら失格者の集まる学園前へと向かうところだった。
「こら、つまらぬことをする暇があったら手裏剣の一枚でも回収しておけ。」
 頭を小突かれる。
「もうすぐ敵の本陣だ。気を散らすな。」
 気づけば雨上がり、ひと段落ついたのを機に顔に張り付いた濡れ髪を払う。
 しかし、聞こえてくるはずの活きの良い返事がない。
 仕方なく振り返ってやる。
「竹谷八左ヱ門、お前は何故私が自分と組んだか疑問に思っているようだな。」
 事前の会議で名前を呼んだ時からずっと八左ヱ門の中で引っかかりとなっていることには気づいていた。
 本来ならば深く気にするべき点ではない。
 それを引きずるのは、この男が自分を特別視しているからだとも。
 だからこそ、迷う相棒をここまで放っておいた。
 しかし、この演習に勝つためには今声をかけることが必要だった。
「自分を足手まといとでも思っているのだろうが、私はそう思わない。お前を過小評価していない。」
 持ち上げすぎても悪い。
 この男の気持ちを上手いところまで上げることが今の自軍には必要だ。
 けれど、自分の今後のためには距離を保つことも必要だ。
「この山には詳しいのだろう?生物委員。」
 目を細め視線を合わせれば、素直に顔を歪めて機嫌を直す。
「はい!」
 ちょろい。声に出さない代わりに口元が意地悪くゆがむ。
 それを知らず、八左ヱ門は両手で乱暴に顔を拭い自分の頬を挟むように張った。
 ぱん、と小気味よい音が響く。
 
 草木や土の匂いが立ち上る林をわずかな風が吹き抜ける。
 奥へ行くほど木々にぶつかり消えていく風の強さから川が近いことを察する。
 先刻から敵の影もぐっと増えた。
「さすが文次郎だな。私のやり方をよく分かっている。」
 配置の偏りがあからさまに仙蔵の思考をなぞっていた。
 このまま進むには手間がかかる。
 そこで懐をさぐり目つぶしを取り出した。
 風上に向かうと案の定渓流があり、そこで二手に分かれた。
 仙蔵は目つぶしを放ちに包囲網の側まで戻る。
 八左ヱ門は風上を選んで遠回りの道を駆け続ける。
「風を読み、地形を思い出せ。道はお前が選べ。」
 そう言い残し、仙蔵は木立の奥へと消えた。
 その背を見送って八左ヱ門も走りだした。
 
 守備隊がざわつくのを感じ、兵助と雷蔵が身構える。
 また、風に乗って漂ってきた匂いを敏感に察し、顎下に下げていた覆面の口布を鼻の上までずり上げた。
 敵は目つぶしをばら撒いてきた。
 手足を縛られ対応できない三郎がくしゃみをするので、雷蔵が自分と同じように口布を上げてやる。
 そして息を潜め暗い林と睨み合った。
 そこへ一陣の風が吹き、一つの影が現れた。
「きたな、立花仙蔵」
 兵助がくないを握り直す。
 雷蔵もまた、三郎を庇うように立ち位置を改めた。
「久々知と不破だけか。随分と嘗められたものだな。」
 見え透いた挑発だ。
 しかし、兵助は素直に眉根を寄せた。
 仙蔵はさらに視線を奥へと向ける。
 こちらは目があった瞬間に顔を顰めた。
 可愛げのない後輩に愛想の良い笑顔でこう言う。
「おや、てっきり自力で抜けだしている頃かと思ったが」
「すぐいらっしゃる予定の立花先輩に拝顔してから、と待ってたんですが、なかなかいらっしゃらないんで考え直していたところです。」
「なるほど、そんなに慕われていたとは、今まで気づかずすまなかったな。」
 口を慎まない友人に級友たちの方がひやひやする。
 けれど警戒姿勢は崩さない。
 この挑発も隙を作ろうとしているに違いない。
 動き出す瞬間を見逃さぬよう、ゆっくりと歩みを進める仙蔵の一挙手一投足に集中する。
「さて、それでは可愛い後輩の期待に応えてやるとしよう。」
 長い髪を揺らして後ろへ跳躍し、手前の兵助に向かって手裏剣を放つ。
 その行方を確認せずにすぐさま横へ跳び、雷蔵に肉薄した。
 くないとくないがぶつかり合う。
 押し合いになるかと思われた次の瞬間、焦点を雷蔵に合わせたまま身を伏せる。
 頭上で兵助の足が風を切った。
 片手を地につけ兵助の軸足を払う。
 また、兵助の足を避けた雷蔵の一撃を間一髪でかわし、一度距離を取る。
「教室が違うわりにはいい連携だ。」
 二人を相手にしても余裕を崩さない態度が癇に障る。
「恐れ入ります。しかし、その余裕もすぐ消して差し上げます、よ!」
 両手に棒手裏剣を構え、仙蔵の動きに合わせて四本ずつ、二度投げるが、長い髪を掠めたきり。
 逃げ回る先に雷蔵が回り込み、両手にくないを構える。
 その目の前で敵が切り返したのを見た兵助がにやりと笑う。
 仙蔵が逃げた先には罠が仕掛けられていた。
 しかし、それもまた寸でのところで避けられた。
 かぎ縄をブナにかけ飛びあがる。
「まさか」
「これしき回避できないようでは悪戯小僧ばかりの作法委員は束ねられん。」
 枝の上に小さな光が見え、それが導火線の火だと察した二人が一斉に後退する。
 しかし予想したような爆発は起きず、代わりに派手な煙が辺りを包む。
「息を巻いたわりには度胸がないな。」
 笑い声が遠くで聞こえたかと思えばすぐ近くに呼吸を感じ、視界に現れる頃には敵がすぐそこまで来ている。
「雷蔵!右へ回れ!」
 兵助の声が叫ぶ。
 その声に反射するように飛んだ雷蔵の右こめかみに拳が迫り、咄嗟に腕で庇った姿勢のまま肩から地面へと叩きつけられた。
 着地した腐葉土が沈み込むのを感じ、そこが自軍の仕掛けた落とし穴であることを理解した時には回避できない状態に陥っている。
「馬鹿、今のは三郎だ!」
 本物らしい兵助の声を穴の底から聞いた。
 早く穴を出なければ。
 滑る土を這いあがり、漸く地表を掴んだ時、背中に何かが落ちるのと墨の匂いを感じ、手から力が抜けた。
「いつもの相棒だったらもうちょっと上手くやれたかもしれんな、不破雷蔵。」
 徐々に薄くなっていく煙幕の中、振り返るとそこには若竹色の袴が見える。
 その二本の足の向こうには桔梗色が。
「終わりなのはあなたもですよ、立花仙蔵先輩。」
 仙蔵の白い首筋にくないの刃がぴたりと添えられていた。
 兵助が呟く。
「王手だ。」
 もし足掻くつもりであれば、これが演習であろうが相手が先輩であろうが関係はない。
 多少の怪我ぐらいはしてもらうつもりでいた。
 しかし、顎を引いてちらりと背後を窺った仙蔵はあっさりと墨汁の竹筒を手放し、白い両手を上げて見せた。
「見事な動きだな。しかし…」
 風が煙幕をさらっていく。
 穴から這い出した雷蔵の姿も、手裏剣の刺さった木も、そして三郎のいた場所へ散らばる縄も。
「な…っ」
 思わず首を大きく動かし辺りを見回す。
 すると、ゴールへ向けて駆ける三郎の後ろ姿と八左ヱ門が目に飛び込んでくる。
「体術も武器の扱いも見上げたものだが、目的を見誤るようではまだまだだな。」
 兵助の気がそれた隙を逃さす仙蔵ではない。
 首を反らすと同時にくないを持った手を叩き落とす。
 そして間髪いれずに体を捻り、桔梗色の襟を掴んで引き倒せばあっという間に立場がひっくり返される。
「私の王手だ、久々知兵助。」
 腐葉土に背をつけ見た空は雲が薄れ、靄の向こう側で丸い月が輝いていた。
 
 仙蔵は学園へ向かう途中で狼煙を見た。
 演習終了の合図だ。
 山中でも監督員の教師が姿を見せ、声を張り上げて撤収を促している。
 撤収まで残っていた生徒は半数を少し超える程度で、失格になった者も多い。
 学園の前に着くとすでにほとんどの生徒が帰還して紅白に分かれて集まっていた。
 その真ん中でぼろぼろの文次郎と留三郎、そして暴れたりない様子の小平太が怒鳴り合っていたのを見て、自軍の勝利を確信する。
 最後に長次と伊作が帰還し、すぐに勝敗の正式発表と各軍失格者数の発表、また短い講評が述べられた。
 小平太を除くみんなが疲れ果てていたので、簡潔な終了式だった。
「解散!」
 最後の号令でぞろぞろと敷地内へ移動する。
 その人の群れを縫うようにして八左ヱ門は仙蔵を追いかける。
 そして、「ありがとうございました」と一言だけ。
 すぐに踵を返し、早速いつもの場所へ納まっている三郎と雷蔵の側へと戻って行った。
 長屋へ向かう途中で学年ごとに道を別ち、もうその姿は見えない。
 
 順に風呂へ入り、五月蝿い腹に飯を詰め込み、それぞれの長屋で布団に入る。
 演習の疲れと全身に渡る記憶を抱きながら。
 
 
 2009/07/15
 
 
■■ 可愛い人
 
 
 ふわりと花の香りがした。
 風上を見ると、門の傍にいた事務員、小松田秀作と目が合った。
「えーっと、君は確か…」
「竹谷八左ヱ門です。」
 小松田は「そうそう」と頷く。
「竹谷くん、手が空いてたら、この人をくの一教室まで案内してほしいんだけど」
 この人、に合わせるように、花売り姿の若い女性が門をくぐる。
 ああ、先刻漂ってきたのはこれの匂いだ。
 くの一教室へ花を売りに来たのだろうか。
 案内して歩く途中、女性から花とは別の匂いを感じて振り返った。
「どうかしましたか」
「いえ、珍しい香りがしたので」
 風向きが変わったのか、もうその匂いは感じ取れなくなっていた。
 気のせいだろうか。
 すると、女性は柔らかく笑って「鼻が良いのね」と。
 幼いとばかり思っていた顔に色気を感じ、少しだけドキリとした。
 
 くの一教室の敷地との境でくの一教室の生徒へと案内を引き継いだ。
 その去り際、女性は思い出したように言った。
「ついでにもう一つお願いしても良いかしら。七松小平太に花売りが来ている、と伝えて欲しいの。」
 断る理由もなく、頷いた。
 しかし、と首をかしげる。
 七松小平太といえば、底なしの体力と天性の身体能力でもって山を駆けのぼる姿などは幾度となく見かけるが、花を愛でているところなど記憶にない。
 六年長屋の彼の部屋でその姿を見てもやはり花とは結び付かなかった。
 しかし、忠実に伝言を伝えると、ややあってからぱっと笑顔を浮かべ、手入れ中の武具を放り出して部屋を躍り出た。
「すまんが留守番を頼む。すぐに戻る!」
 よく用事を頼まれる日だ。
 好奇心に駆られ、走り出そうとする小平太に問いかける。
「あの人はどういう人なんですか」
 すると、小平太はにっこり笑ってこう答えた。
「私を“男”にしてくれた女だ」
 
 庭に雀が五羽集まり、人の足音で飛び去った。
「おや、そこで何をしている」
 やってきたのは立花仙蔵だった。
 留守番というのはこのためだったようで、七松小平太の不在を告げると「そうか」と言って、仙蔵は二人分空けて並び腰を下ろす。
 待つつもりらしい。
「裏裏山で罠を作る練習をしようと約束していたのに、困った奴だ。」
 明日の五年生には裏裏山で実習の予定があるので、これは聞き捨てならない。
 黙っていたのに警戒心を見抜いた仙蔵は「安心しろ」と続けた。
「最後にはちゃんと撤去して帰るとも」
 その余裕に満ちた笑みからは目を逸らす。
 ここのところ、この先輩が苦手で仕方ない。
 嫌いなわけではなく、むしろ尊敬する一人のはずだが、気後れしているのか対面すると落ち着かない。
 今も間が持たない居心地の悪さを感じ、視線をさ迷わせた。
 おそらく、そんな胸の内も見透かされているのだろう。
 沈黙を避けるように仙蔵が話を変える。
「小平太に客とは珍しいが、家の者か?」
「いいえ、多分違います。くの一教室を訪ねてきた花売りで…」
 ふと、花に混じって届いた謎の香のことを思い出した。
 薬草のようだが、今まで一度も嗅いだことのない香りだった。
「ふむ、その女はくの一だな。」
 花売りではないのかと尋ねれば「勘が悪い」と言われてしまう。
「知らない匂いの正体はくの一にのみ伝わる秘薬か何かだろう。話に聞いたことがある。」
 詳細はついに教えてもらえなかったが、と。
「匂いの強い花を抱えて、その香りを紛らわしていたのかもしれん。」
 なるほど、せっかく変装しても、忍び特有の匂いを撒き散らしていたのでは意味がない。
「それを嗅ぎ分けるとは鼻が利くものだな。」
「例のくの一にも言われました。」
 褒められた、と思い、喜びにやけた矢先。
 笑った彼女に少しばかり胸が躍ったことまで思い出し、何故だか浮かれた気持ちがいけないことのように感じられて顔の筋肉が動きを止める。
 心を悟られぬようにと焦って口を動かし、まず接続詞をひねり出した。
「そういえば」
 そうすると必然的に続きを待たれ、用意していない言葉を必死に探す羽目になった。
 我がことながら誤魔化しが下手で困る。
「七松先輩が、相手のことを、自分を“男”にしてくれた人だと…」
 口にしてから、おかしな話題を投げてしまったと後悔した。
 しかし、咄嗟に出てくるのは往々にして直近の記憶にあることばかりだ。
「そうか、小平太は開けっ広げだからな。」
「いえ、俺が訊いたんです」
「それにしたって正直に言う必要などない。」
 もし、聞かれたのが小平太ではなく仙蔵であったなら、隠したのだろうか。
「…気になるか。」
 またも心を読まれた。
 切れ長の目がちらりとこちらを見る。
「そんなつもりでは…」
「よい、色事が気になる年頃だ」
「…はい」
 素直に頷くと可笑しそうに顔を歪める。
 俺は息を詰めて目を細めた。
「なあに、恋人などという甘ったるいものではない。男忍びも女体を知っておかねばならんのだ。任務で女中を籠絡するときや、敵方のくの一に惑わされぬためにな。」
 しかし、小平太のはしゃぎ様はそのような事務的なものではなかったと思う。
「当たり前だろう、修行の一環であれ、初めて抱いた女が可愛くないわけがない。忍びも人の子。まして、お前と一つしか違わぬ。」
 上級生というのは昔から壁のようなもので、飛び越えたくともなかなか飛び越えられない。
 そんな存在だった。
 春に進級を果たし、最高学年へと進んだ彼らは更に高いところの人のように見えた。
 しかし、仙蔵の言う通り、この学園へ入学した時から常に距離は変わらないのだ。
 それは隣に座る仙蔵とて同じこと。
「立花先輩も、そんな可愛い人がいらっしゃるんですか」
 好奇心から、というには勇気がいった。
 相手が仙蔵だからだろうか、口にしてすぐに質問を取り消したくなる。
 この気持ちを知ってか知らずか、仙蔵はたっぷり間を取ってから答えた。
 
「いる。」
 
 酷く動揺した。
 予想をしなかったわけでもないのに、何故焦るのか。己が分からない。
「じきにお前の周りにもおなごを知る者が増えるだろう。おかしなことではない。」
 白い横顔を盗み見ると、きれいにまつ毛の生え揃った目を伏せ、口元はゆっくり動き続けている。
 そこから影の落ちる首筋をなぞり、若竹色の着物の肩を辿り、袖から突き出た腕へ。
 そして床板についた手の先へと辿り着き、やはり男の手だ、と思った。
「お前にもいつそういう機会が巡ってくるかもわからんぞ。」
 言われ、はっとして視線を横顔へ戻す。
 端正な顔がこちらを向いたが、そこには笑みなどはなかった。
 何故だか子供を諭す大人のような表情をしている。
「…えっと」
 後悔によく似た動揺と、思いがけぬ仙蔵の真面目な様子に戸惑う。
 間違った言葉で応えてはいけないような緊張を感じていた。
 
「すまんすまん、待たせたな!」
 そこへ重く沈みこむようにあった空気が一瞬で蹴散らされる。
 小平太が駆け戻ってきたのだった。
「遅かったな。」
 仙蔵が立ちあがる。
「これでもすぐ帰ってきたんだぞ。一目会ったら『相変わらず元気そうでなにより』と言ったっきりで追い出された。今夜忍んで会いに来いの一言もない。」
 前から愛想のない女なのだと拗ねた顔をした。
「ぬかせ。今夜は体育委員に招集をかけていたと聞いているぞ。」
「おお、そうだった。」
 手を打って、小平太は自室に投げ出された手入れ途中の武具を片付け、仙蔵と共に出かけるための支度をした。
「それじゃあ、俺はこれで失礼します」
 小平太に控えめに声をかけると「ああ、助かった」と手を振られ、仙蔵には頭を下げ、すぐにその場を去った。
 
 用もなく、足は五年生長屋へと向かっていた。
 歩きながらふと思い返せば、小平太があの女性のことを話す姿には何も思わないのだったと気がつく。
 仙蔵の言う通り、「おかしなことではない」のだし、少しばかりそわそわしたきりだ。
 それを動揺とは思わない。
 おかしなことだ、仙蔵の言葉にだけ腕先の冷たくなるような思いをした。
「あ」
 気づけば考えに夢中で足が止まり、視線は地面に落ちていた。
 視界の端で蟻の行列が弧を描く。
 不意に胸が大きく鳴った。
 風がひんやりした手のように頬を撫でる。
 そして、阿呆のように開いた口を片手で塞いだ。
 叫びだしそうな心地で強く口を押さえ、声の代わりに地面を蹴る。
 長屋へ向けた足を変え、誰もいないはずの飼育小屋を目指す。
 友人たちにも打ち明けられない。
 これが“恋”と呼べるのなら。
 
 
 2009/08/01
 
■■ 瓜二つ
 
 
「姫の護衛」
 担任が告げた任務内容に十三、四の男達はざわめき立った。
 それというのも、依頼主であるイチアゲタケ城の姫といえば美姫という噂なのだ。忍びといえど年頃の男児達であった。
 そんな浮き足立った五年ろ組の教室で、たった一人ぼんやりとした様子の男がいた。
「どうした、八左ヱ門。ノリが悪いじゃないか。」
 右から雷蔵が声をかければ左からは雷蔵と瓜二つの顔をした三郎が肘を突付く。
「美人だぞ?お前、好きだろう。」
 双子のような見た目の二人に挟まれた八左ヱ門は面倒くさそうに眉をひそめて息を吐いた。
「今、そんな気分じゃねえよ。」
 座学よりも体を動かせる実習や任務が好きだったし、美人は気になる。しかし、今は別の“美しい人”のことばかりが心に浮かび、とても気乗りはしなかった。
 
 ところが、彼女が笠の縁を押し上げた瞬間に背筋が伸びた。
 城門の内側に集まった少年忍者達は、その時まで期待と好奇心にざわついていた。八左ヱ門ひとりだけ肩を落としていたが、彼も他も、初めて見る彼女の見慣れた顔に目を丸くした。
「おや、どうしたのかね。」
 様子のおかしい少年たちに城主が首を傾げる。
「いえ、おそれながら、姫のお顔が学園の者とよく似ておりまして…」
 引率の木下鉄丸が尻すぼみに答える。
 学園の者、生徒、それも彼らの一つ上で、確かに美しい…
「立花先輩…」
 阿呆のように開いた八左ヱ門の口を雷蔵が素早く押さえる。
 立花仙蔵。姫は学園が誇る火器の名手によく似ていた。
 
「ところで、彼らは五年生というが、本当に大丈夫なのでしょうな。」
 着物の袖で口元を隠して疑わしげな目で旅人に扮した半人前の忍者たちをちらりと見る。
「学園で一番優秀な忍びを、とお願いしたはずですが。」
「勿論です、六年生にも見劣りしませんとも。」
「しかし…」
 城主の言葉に割り込むように笠集団から鉢屋三郎が歩み出た。
「この顔だったら何度も化けてますから、すぐに変装してご覧に入れますよ。」
 衆目の中、依頼主の反応も待たずに顔の上で両手をせわしなく動かした。手が止まり、彼が顔を上げると城の者たちが感嘆の息を漏らす。
「なんと、姫に瓜二つじゃ!」
 これには渋っていた城主も黙る他なかった。「まあ」と呟いた姫の声を真似て「いかがかしら」等と言えば、鉢屋三郎を初めて見た人々から拍手さえ起きる。
 改めて手筈の確認を始めた鉄丸と城主から離れ、姫に化けたまま定位置の雷蔵の傍らへと戻った三郎は、雷蔵の更に隣の八左ヱ門に向けて人の悪い笑みを浮かべた。それはそれはそっくりでたちが悪い。目の前でお淑やかに佇むお姫様にではなく、八左ヱ門の胸をいっぱいにする、立花仙蔵に、だ。
 
 今夜の宿へは何事もなく辿りついた。
 影武者として先発した三郎を中心とする一行の状況は定かではないが、本物の姫の身には何もなかった。影武者一行と姫に従う者の他にも、道中の罠の有無を調べる者や、姫とは無関係な旅人として離れて守る者もいる。
 城からの従者も含め計五班に分かれて活動する中、八左ヱ門は、不本意ながら、姫に一番近い場所へ配置されていた。
 不本意というのは当然ながら姫の見慣れた容姿のお陰だ。同じ顔ならばまだ影武者班の方が良かった。中身が三郎の方が気が楽だ。仙蔵と同じ顔で正真正銘の女性と過ごすのは雑念との戦いだった。
 好奇心旺盛なお姫様は何かを見つけては「あれは何だ、これは何だ」と訊ねてくる。人懐っこい性格で良く笑う。八左ヱ門は、姫と仙蔵の違いを見つける度に、何故だか安堵した。
 
 一行が宿に着いても護衛の仕事に暇はない。姫が侍女と共に二階の部屋へ篭ると、その扉の前に座り込んで気を張り詰める。体が頑丈だから、いざという時には盾になれよと選ばれた。
 扉一枚隔てて別の空間にいるというだけでも、八左ヱ門にとってみれば幾分気が休まるというものだった。
 日が傾き、宿の人の出入りも激しくなる。魚の焼ける匂いがして腹の虫が鳴った。あらゆる生き物を手懐ける八左ヱ門といえども、こいつには手を焼き続けている。誰にも聞こえないのだから今はいい。ついでに重苦しい溜息も一つ。
 少しぼんやりしてしまった瞬間、外のどよめきが聞こえて反射的に腰を上げた。窓から外を覗くと糞尿の匂いが鼻を突く。
「うっへー」
 鼻を摘まんで更に様子を見る。どうやら旅客と百姓がぶつかって糞尿をばら蒔いたようだ。旅姿の男が怒鳴り声を上げ、百姓姿の男が何度も頭を下げていた。人々は二人を大きく避けて歩くので、そこだけぽっかりと道が空いている。
「どうなさったの?」
 振り返ると細く開けた戸の隙間から姫が顔を出している。しかし、質問に答えるより先に異臭に気づいた彼女はピシャリと扉を閉めた。二階にも臭ってくるのだから当然である。戸を閉めたっていくらかは漏れるだろうが、一度この直接的な刺激臭を感じてしまえば鼻もバカになっていることだろう。
「表で百姓が糞尿をばら蒔いたようです。」
 扉越しに報告すると、再び扉が開く。
「あらまあ。」
 鼻を袖で覆った姫が八左ヱ門を見上げて憐れむように眉根を寄せた。
「あなたもそこへ居ては辛いでしょう。お入りなさい。」
「いけません!」
 鋭く飛ぶ侍女の声にも取り合わず、姫は繰り返した。
「ほら、早くしないと私たちの着物にまで臭いが移ってしまうわ。」
 八左ヱ門が辞退しても彼女は退かなかった。問答する内に、彼女の目に善意だけでなく好奇心の芽を見つけ、ますます弱った。
「入りなさい。」
「…失礼したします。」
 彼が折れると彼女は満足げに微笑んで扉を大きく開いた。
 
 燃えるような空に無数の鳥の影がかかる。それがきれいなへの字型で山陰に消えるのを窓辺で眺め、美しい長い黒髪を指に絡ませた。華やかな袖には少々骨っぽすぎる、その指。
「随分静かになったこと。」
 高い声で女言葉を操る美少女、しかし、その中身はお姫様ではない。
「雷蔵、どう思う?」
 傍らに控える従者に親しげに声をかければ、彼は眉を八の字にする。
「姫、そのように話しかけないで下さい。」
「真面目だな。大丈夫さ、わかるだろう?さっきから敵の気配がない。」
「…やっぱりバレたのかな。」
 二人の会話に廊下で見張りをしていた者も戸口から顔を覗かせる。窓から目の前の道を見下ろすと、ちょうど宿へ立ち寄った旅人という風体の男が空模様でも確かめるように天を仰ぎ、二階の窓辺にいる三郎と一瞬だけ視線を交わす。
 部屋の内側に向き直った三郎は女声を捨てて自らの本物の声音で喋った。
「出発から一里半も行かない内にあれだけ襲ってきたのがぱったりだ。」
「これはバレたな。」
 深刻な顔で雷蔵が頷く、その一方で三郎は大きく首を逸らして呻いた。
「俺の変装が見破られるなんてありえない!」
 その自信家ぶりに呆れた視線が集まるが気にした様子もない。
「八左ヱ門のヤツ、まさか何かヘマしたんじゃないだろうな。」
「最近様子がおかしかったからなあ。」
 三郎の卒のなさを誰より知る雷蔵も暮れゆく空を見て八左ヱ門の顔を思い浮かべる。影武者一行が平和ということは、つまり。
 
 侍女が漏らすこれ見よがしのため息を合いの手に姫は語る。そんな居心地の悪い部屋の隅で膝を揃えて背筋を伸ばし、曖昧な相槌を打つ。八左ヱ門の空っぽの胃がキリキリ痛んだ。
 任務について八左ヱ門たちが聞かされていることは多くない。忍の世界では、漏洩を防ぐため、予め余計な情報を知らされないことも多々ある。自分を率いる首領や教員が納得していることに疑問や追求は不要だ。今回だって忍たま達は姫の旅の理由も敵の正体も朧気にしか伝えられていない。少ない情報から真相を想像はすれど、具体的な真実など確かめない。
 姫の話し相手として聞かされたのは、そういった話だった。
「もうじき顔も知らない人のところへお嫁にいくの。その前に色んなものを見ておきたくて、無理を言ってしまった。」
 政略結婚、よくある話だ。イチアゲタケ城は小さな城だったので、有力な城に娘を嫁がせ、戦を避けねばならなかった。八左ヱ門としては、まるで女装した仙蔵のような彼女がニヤけた狸親父に嫁ぐ姿を考えると胸糞悪いが、そんな感想を口に出来るはずもない。
「我侭に付き合わせてごめんなさいね。」
 きっと同情を求めているのだろう。慰めるような言葉はいくつも思いついたが、だからといって口にするのは憚られた。彼女の父親が望む結婚を否定するわけにいかない。だからといって突き放すような物言いも、儚げで美しい彼女を前にすると、できなかった。
 何かを言いかけては思いとどまって口を閉じる運動を三回ほど繰り返した時、痺れを切らした彼の腹の虫が飼い主に代わって返事をした。
 ぐー。
「まぁ」
 顔面蒼白。間が悪いにもほどがある。まるで姫を馬鹿にしているようではないか。躾のなっていない腹を押さえながら切腹まで覚悟した。
「すいません!これはその、さっき下から焼き魚のいい臭いがして…」
「お腹がすいているのね。」
 怒るどころか慈悲深い微笑を湛えた彼女は、しどろもどろの弁解を片手で遮り、侍女に荷物を紐解かせた。
「ここへ来る途中に買ったお団子だけど、きっともう硬くなってしまったからあなたが食べて」
 差し出された団子と、姫と、渋い顔のまま頷く侍女を順番に見て、深く頭を下げて団子を受け取った。茶店で食べた時よりは硬くなっていたが、まだまだ充分に美味しかった。味を半減させていたのは団子の硬さよりも厳しい侍女の視線の方だ。
「そんなに睨んだら食べにくいでしょう。」
「姫はお優しすぎるんです!」
「じゃあ、こうしましょうか。」
 ポンと手を打った姫は団子を頬張る八左ヱ門に見返りを要求した。
「忍びは色んなことが出来るのでしょう?お団子のお礼に何か見せて頂戴。」
 彼は団子を喉に詰まらせかけた。
 
 窓辺に寄ると泥の臭いがした。宿の裏手は堀になっていて、見下ろすと夕焼けが反射して水面が輝いていた。
「少し離れていて下さい。」
 逆光の中、彼は上手に指笛を吹いた。夕焼けの中を渡る鳥が軌道を乱し、その向うから一羽の鳥が飛んでくる。雀かと思われた鳥は鴉ほどの大きさになり、間近までくると、その正体が一匹の鷹だとわかった。大きな翼で風を切って滑空し、宿の上を旋回したかと思うと、八左ヱ門のいる窓へと降りてくる。鋭い爪は木枠に跡をつけた。
 若い姫にとって、こんなに近くで見るのは初めてのことだった。爪や嘴も然ることながら、その鋭い眼光に息を飲む。けれど、子猫を愛でるような眼差しで鷹を見、餌をやる彼を見ているうちに恐怖も薄れた。
「よく馴れているのね」
 畳に足袋を擦るように一歩踏み出す。その鳥が大人しい犬猫のように見えたのだ。
「いけません、」
 吸い込まれるように伸ばされた白い手を掴む。彼女は驚いて少年を見上げ、彼女を見下ろした少年もまた驚いていた。
 掴んだその手が思いのほか細く、火傷跡もたこも一つもない。あまりにも当然のことに八左ヱ門は驚いた。見つめた白い顔は斜めに差した陽の光で赤く染まっていた。ドクン、胸が大きく鳴る。掴んだ手のひらにじっとりと汗をかいた。そのまま胸に引っ張り込んでしまいたいような気持ちとどうしようもない虚しさが、束の間、動きを止めた。
「あ、…ごめんなさい。」
 ハッとして手を放す。
「いえ、その、大人しく見えても危ないんで。」
「まったくです、お戯れが過ぎますよ!」
 侍女が姫の肩に手を添えた。恐ろしい爪を持った鳥から遠ざけたいのか、未熟な忍びから引き離したかったのか。八左ヱ門は後者だと思った。同じ顔をした人への下心を強く意識したばかりだった。肩を押されるままに背を向けた姫から視線を外した。
 その時、それまで微動だにしなかった鷹がピクリと頭を上げ、主の合図もないままに飛び立った。
 八左ヱ門の耳が微かな音を捉える。ジリジリ、迫ってくるような。
「…しまったっ」
 吐き捨て、振り向いた二人に叫ぶ。
「お逃げ下さい!」
「え?」
「いきなり何を…」
 突然のことに立ち竦む二人の袖を引いて窓へと押しやるが一歩遅い。
「すいません!」
 断ると同時に侍女を窓から放り出し、その悲鳴が水しぶきに消える前に姫を抱きかかえた。窓枠に足を掛けたところで爆風と木片が背中を襲う。窓から落ちて着水するまでの、ほんの一瞬の間。沈む間際の真っ赤な太陽を背景になびく黒髪に、いつかに見た椿に絡む長い髪を思い出した。
 
 
 遠くで鳥の声がした。
 
 
 
 
 
■■ 長屋の軒下の越冬蛹
 
 
 学園の庭が白く染まっている。
 寒いはずだ。
 虫や蛇は冬眠に入っているが、犬小屋にボロの一枚も入れてやった方が良いかもしれない。
 忍術学園は数日前に長い休みに入った。
 そのためほとんど人はおらず、雪の積もった後の静けさが余計に響く。
 八左ヱ門にも実家から「帰れ」という手紙が届いていたが、飼育している生き物たちの世話を理由に断りの返事を出してある。
 生物委員会の顧問である木下先生も帰省で不在なので誰かが引き受けねばならなかった。
 とはいえ、この役目は押し付けられたものではなく、志願して引き受けたものだ。
 部屋へ戻るとすぐに自分の荷物をひっくり返し、着られなくなった着物を探した。
 後輩たちにくれようかと考えたが、傷みが酷いので迷っていたのがあるはずだった。
「何を探しているのだ。」
 声をかけられ、戸口を振りかえると若竹色の忍装束を着た男が立っている。
 立花仙蔵。彼もまた帰省を断って学園に居残っている。
「着古した着物を犬小屋にやろうと思ったんですけどね、どこへやったかな」
「冬場は生物委員の仕事が少ないと言っていた割には忙しいな」
 これは時間がかかると見て、仙蔵が柱に凭れかかってすぐに「あった」と言ってあちこち擦り切れた藤紫の布切れを引っ張り出す。
 元は桔梗色だったが、しつこく洗濯をするうちに随分と色褪せた。
「委員会のチビ達にやろうかとも思ってたんだけど、まあいいだろう」
 掘り散らかした着物をいい加減にしまい直し、部屋を出ると、手元の着物を見た仙蔵が眉根を寄せる。
「こんな血の染みが目立つぼろ布など誰も欲しがるものか。」
「そんなこと…」
 ないと言おうとしたが、広げてよく見てみると、言えなくなった。
 最近は忍務でも訓練でも刃物を受けることは減ったが、これを着ていた当時はよく傷を拵えていたのだ。
 そのお陰で勘が鍛えられたと考えば誇らしい、と、八左ヱ門は思う。
「それを犬小屋に置いたら中庭へ来い。寒さ凌ぎに稽古の相手をしてやる。」
 言いたいことだけ告げると、仙蔵は返事も求めず五年長屋を後にした。
 その背中に「すぐ行きます」と良い返事を投げ、八左ヱ門も犬小屋へ向かう。
 
 新雪をぎゅうぎゅうと踏みしめていると、音を聞きつけてか臭いを感じてか、犬たちが迎えに飛び出してきて八左ヱ門の周りをぐるぐる駆け回る。
「はは、お前たちは寒くても元気だな。」
 尻が冷えるのも気にせずしゃがみ込み懐を差し出すと、大型犬の一匹がいの一番に圧し掛かってきた。
 顔面と肩に前足が乗った勢いで背中から雪へと倒れ込み、自分の上で目を輝かせる駄犬を少し恨む。
 その横から他の犬まで群がってきて舐め回されると、自分が餌の塊にでもなった気分だ。
「わかった、わかったって。」
 やっとのことで起き上がってみると、抱えていたはずのボロはすでに奪われた後。
 寒かろうと用意したはずが、良い玩具となってびりびり引き千切られるところだった。
「…まったく」
 しかし、ボロを犬たちに届けるという目的は果たされた。
 体と髪の雪を払い、犬たちの引き留めを宥めて軒下へと戻る。
 ふと見ると、屋根の縁に茶色い蛹がついている。
 恐らく、蛹のまま冬を越すのだろうが、このままでは屋根の雪やつららと共に落ちてしまいかねない。
「また妙な所へ落ち着いたもんだ。もっと上手いところを選べよな。」
 着物で指先の水気をぬぐうと慎重に蛹を掴み、自室へと運んでから中庭へと急いだ。
 
 まだ薄暗い時刻、肩をぶるりと震わせて仙蔵は目を覚ました。
 隣に横たわる八左ヱ門はまだまだ起きる様子がない。
 その暖かい体を名残惜しみながら起き上がり、乱れた髪を指で梳いた。
 こうして同じの屋根の下で朝を迎え続けて何日目になるだろう。
 灯りの油が勿体ないからといい、忍術について説いてやると理由を作り、夜が来る度部屋を訪れては、寒いと言って身を寄せ合い熱を貪り合って眠りにつく。
 二人とも口に出すことはないが、そういう時間を過ごすために学園へ残った。
 片時も惜しい気持ちから居残りを選んだら、相手もまたそうしていた。
 先に目覚めるのはいつも仙蔵だった。
 自分より暖かい八左ヱ門に縋り、二度眠ろうとしても、結局先に起きてしまう。
 今朝は一段と寒い。
 耐えかねて火鉢に火を入れ、膝を抱えた。
 背後で言葉になりきらぬ声が聞こえたので振り返れば、八左ヱ門が何か良い夢を見て口元を緩めている。
 起きていたって笑顔が絶えない男だが、夢の中でもそうなのだろうか。
 呑気な寝顔が時々憎らしくなる。
 自分はお前にどれほど抱かれても、幸せな夢など見ない。
 
 縁側の床板を踏み外して庭に倒れ込む夢で目が覚めた。
 体がびくりとして飛び起きた。
 そこが自分の部屋の布団の中で、尻の下が土や石ではなく平らな床と潰れた布団であることに安堵する。
 顔を上げると先に寝床を抜け出していた寝間着姿の仙蔵が呆れたような顔をして見ており、説明をすると深いため息を吐かれた。
「あれ、」 仙蔵がそこへいるのに目を留める。
 同じ寝床で眠り、あちらが先に目を覚ますのはいつものことだが、大抵は八左ヱ門の目覚めを待たず、さっさと自室へ戻って次に会う頃には身支度が済んでいる。
 こうやって部屋にいてくれることは珍しい。
「ずいぶんと冷えたのでな、火で暖まっていたら少しうとうとしていた。」
 見ると、なるほど、火鉢が部屋の隅から移動している。
 火鉢一つで自分が起きるまで部屋へ帰らず居てくれるならば、毎日でも火を入れればいいと思うが、単なる気まぐれなのだろう。
 折角なので八左ヱ門もその隣へと這っていって胡坐をかく。
 きれいに束ねられる前の黒髪や涼しげな横顔を眺めていようと。
 髪のかかる肩から腕へ、腕から火箸に絡まる白い指へ。
 下心のままに視線を動かしていると、その向こうの床へ丸まった木の葉のような茶色いものが落ちている。
 鈍い頭で記憶から正体を手繰り寄せようとすると、思考を遮るように仙蔵が声を上げた。
「蝶だ」
 驚いて一緒になって天井を見上げれば羽を広げたアゲハ蝶がひらひらと舞っている。
「しまった」
 床に転がる茶色い抜け殻もアゲハ蝶も、昨日の昼間に保護したつもりで部屋へ連れ帰ったものだ。
 火鉢で暖まって羽化してしまったのだろう。
 片手で頭を抱える八左ヱ門に仙蔵が問う。
「あれはこの先どうなる」
「あいつらは、蛹の状態でしか冬を越せません。表はまだ寒いし食料もない。」
 狭い部屋に広がる仮初の春を飛び回る蝶は自分の運命に気づいているのだろうか。
「本当の春は迎えられません。」
 仙蔵の横顔を盗み見ると、目を細めて口を噤み、じっと蝶を見つめていた。
 その白い頬にかかる髪に、無意識に手が伸びる。
 しかし、無言のまま軽く叩き拒まれた。
 
 その日は部屋を冷やさぬよう温め続け、鍛錬にも食事にも出ず、二人閉じこもり蝶を眺めて過ごした。
 せめてその姿だけでも、鮮明に記憶しておこうと。
 
 立花仙蔵が学園で過ごす最後の冬であった。
 
 
 2009/07/09

■■ 綾部と生物委員と小さなお墓

手の中で固まるふわふわしたものを、棒切れで掘った穴に埋め、土をかぶせた。
 毟るように摘んできた菫を捧げ、小さな手を固く結んで別れを告げた。
 
 
 昨夜まで続いた嵐が嘘のような青空が広がっている。
 見上げ、眩しくて手をかざした。
 午前中は学園総出で嵐の後始末に追われていた。
 雨が吹き込める場所全てが酷い有様だったし、風が吹き飛ばせるものは全てどこかへ吹き飛ばしていた。
 片付けの悪い生徒が頭に拵えたこぶを擦りながら毬を探し回っていた。
 用具委員は雨漏り箇所の修復をしていたそうだが、重量級の一年生が屋根に乗って穴を広げたそうで、委員長の食満留三郎などは昼を回ってもまだ作業をしている。
 八左ヱ門が所属する五年ろ組は腹の虫が昼を告げる頃には持ち場が片付き、無事昼食をとることができた。
 腹が落ち着いたところで友人たちと別れ、朝から気になっていた飼育小屋へ急ぐ。
 飼育生物の避難は済んでいたため後回しになっていた。
 一休みしたら生物委員を招集して生き物たちを戻す作業が待っている。
 
 飼育小屋を訪れると、その陰に茄子紺の後ろ姿を見つけた。
 ゆるく波打つ髪と手に握られた鋤から四年い組の“穴掘り小僧”綾部喜八郎とわかる。
 さては、早々食事を終えて穴を掘りに出たな。
 呆れたものだが、綾部喜八郎よりも飼育小屋の確認が先だ。
 そう思い扉に手をかけた時、聞きなれた高い声が耳に入った。
「ここ、お墓だったんですよ!」
 生物委員の夢前三治郎だ。
 何やら揉めている様子だったので小屋の裏手を覗けば三治郎の他に、同じく生物委員の佐武虎若と初島孫次郎がおり、綾部喜八郎に非難めいた視線を向けている。
 喜八郎はといえば、常にそうなのだが、三人の存在などないかのように横の松の枝ぶりを眺めている。
 顔を覗かせるとすぐに孫次郎が「竹谷先輩!」と声を挙げた。
 三治郎が駆け寄って八左ヱ門の袖にすがりつく。
「先輩、聞いて下さい」
 ぐいぐい引かれて三人の立っていた更に奥へ来ると、そこにはぽっかり空いた穴。
 落とし穴か塹壕かは分からないが、それを掘ったのが喜八郎であることは訊くまでもない。
 穴の横で山になった土の横へしゃがみ込んだ孫次郎が小枝でそれをつつく。
 虎若はそんな孫次郎を綾部から守るかのように立っていた。
「この間死んだ亀のお墓を綾部先輩が掘り返したんです。」
 言葉にしなかったけれど、三治郎が目で「酷いでしょ?」と訴えかけてくる。
「目印に板を立てておいただろう。それはどうしたんだ。」
 尋ねると、孫次郎が顔を挙げ、土山をつついていた小枝の先で一丈先を指し示した。
 そこには泥と濡れた木の葉にまみれ、墓石代わりとは到底分からない小さな板が転がっていた。
 嵐で吹き飛ばされたのだ。
 板ではなく石でも据えてやれば良かったかと思ったが、後悔先に立たず。
 目印が吹き飛ばされたそこを墓と気づかずに穴を拵えても喜八郎に罪はない。
 墓といっても小さな亀一匹、もしかすると掘っている間も亀の死骸を見なかったのかもしれない。
 この亀を可愛がっていた三人の心は晴れないかもしれないが、喜八郎が悪いわけでもない。
「綾部はここが墓と気づかなかったんだろ?」
 喜八郎本人に向かって尋ねると、やっとこちらを向き、あっさり「はい」と答えた。
 彼は常からしてこうではあるが、興味のない亀の墓よりも松の枝を観察することに忙しい様子で、それっきり再び視線が外れ「はい」以上の言葉はない。
 下級生の怒りも悲しみも亀の死や墓の存在だって彼の感情を揺さぶらないのだ。
 せめて上辺だけでも三人に謝ってしまえばいいのに、気が回らないのか必要を感じないのか、はたまた意地でもあるのだろうか。
 謝罪も弁解もしようとしないのが余計に三人の癇に障るらしい。
 生物委員の後輩たち、特に三治郎は八左ヱ門を味方につけたつもりで援護を求めている。
 しかし、と八左ヱ門は思う。
「お前たちは綾部に謝ってほしいのか」
 尋ねると威勢の良かった三治郎が途端に表情を曇らせ、虎若や孫次郎も俯いてしまい返事がない。
 みんな喜八郎が悪いわけではないと分かっているのだ。
 意地の悪いことを訊いてしまった。
 中立に徹しようとして引き締めていた表情を優しく緩め、袖に縋るのをやめた三治郎の頭を撫でてやる。
「墓、作り直そうな。」
 今度は小さく「はい」と返ってきた。
 
 
 たまたま飼育小屋の脇を通った際、喜八郎らしき姿を見つけて立ち止まった。
 そしてその向こうに竹谷八左ヱ門を認め、僅かに目を細めた。
 素通りしようか思案していると喜八郎が唐突に振り向き、それを追いかけて顔を挙げた八左ヱ門とも目が合ってしまう。
 仙蔵は密かに舌打ちをして後輩の側へと向かった。
「こんなところで何を集まっていたんだ。」
 まず、同じ作法委員会の後輩である喜八郎に尋ねる。
「塹壕を掘っていました。」
 タコ次郎というらしいその塹壕を八左ヱ門ら生物委員の足の間から垣間見る。
 一番向こう側では顔色の悪い一年生がしゃがみ込んでいた。
 恐らく1年ろ組の生徒だ。
 八左ヱ門の側に立っているのは同じく1年は組の生徒であり、この三人はきっと生物委員だ。
 年長の八左ヱ門が遠慮がちに口をはさむ。
「その塹壕の場所が、先日うちで飼ってた亀の墓を作った場所で…」
「墓?」
「はい。でも、埋めて板を立てたっきりだったんで、昨日の嵐で墓と分からなくなってたみたいなので綾部が悪いというわけではないんです。」
 生物委員側であるはずの八左ヱ門が喜八郎の代わりに弁解をするが、当の本人は仙蔵も八左ヱ門も見ていない。
「喜八郎、それは本当か。」
「はい」
 見てはいないが、聞いていないわけではない。
 この様子では生物委員の一年生たちにも何も言っていないのだろう。
 自分の考えや場を収めるための謝罪や言いわけを。
 八左ヱ門の側にいる一年生は口を真一文字に引き結び、眉根を寄せて目を伏せる。
 拗ねたように唇を尖らせて恨みがましい上目遣いでこちらを見る。
 また、その向こうではそっくり掘り荒らされた墓だった場所を無表情に見つめている。
 喚かず泣かず、まだ小さな拳を震わせている。
 懐かしさがふわりと手の内側をくすぐった。
 
 まだ忍術学園の存在も知らず、他の子供と一緒に遊び回って喜んでいた頃のこと。
 木の下で上手く広がらない羽をばたつかせもがく一羽の雀を拾った。
 その雀が飛べないと知り、手ぬぐいを敷いたざるに乗せ、自分の食事の米を分け与えて自分のものにした。
 雀をとても気に入って、幼いなりに可愛がったけれど、それは雀にとっては負担でしかなかった。
 元から弱っていた雀は二晩持たずに動かなくなった。
 ふわふわなのに固く感じる死骸を両手で包んでいたら、自分がしたことが雀の寿命を縮めたのではないかという不安が湧いた。
 雀を好きだから可愛がったつもりが裏目に出たという考えは受け入れ難く、それを振り切るように墓を作った。
 庭の垣根の根元近くを棒切れで掘った穴に死骸を入れて平らに土を被せた。
 もしも雀の死が自分のせいだったとしても、丁寧に弔えば許されるような気がしたのだ。
 喪に服せば責められるべき立場ではなく、悲しみ同情されるべき立場で居られると思った。
 墓には菫を供えた。
 心の底に泥のように溜まる罪の意識から、雀のことは大人にも、遊び仲間の誰にも言わずに一人で手を合わせた。
 そうして徐々に罪悪感が薄まっていった、翌日のこと。
 新しい花を供えようと墓を参ると、そこにあった菫は踏みつぶされ、ぬかるんだ足跡の中に泥だらけの羽が露出しているのを見つけた。
 朝方に少しばかり雨の降った日で、浅く掘り埋めた雀はたった一歩分の足跡で掘り返されてしまっていたのだった。
 もっと考えて墓を作れば良かったと後悔した。
 それと同時に墓を作ることで紛らわした罪悪感が蘇ってやりきれない気持ちでいっぱいになった。
 自分が悪いと認めることは容易ではない。
 あれから十年も経った今でもそう思うのだから、当時の幼い自分は尚更だったろう。
 泣きたい気持ちを堪え、素手で雀の上に厚く土を盛り直している時、二つ上の子供が通りかかった。
 彼は隣の家に住んでいる不作法者で、垣根をぐるりと回るのが面倒と言ってはそれを乗り越えて行く癖があった。
 墓は垣根の目の前。
 いつものように垣根を越えようとする姿を見た時、直観的に墓を荒らした犯人が彼だと思い、彼を激しく恨んだ。
 自分の失態を全て彼の罪のように怒って「おい!」と呼びとめた。
 しかし、相手は自分よりもよっぽど体が大きく腕力もあることを知っていたので、臆病風に吹かれて口ごもり、ついには一言も責め立てられなかった。
 後から思えば逆恨みを表に出さずに済んで良かったのかもしれないが、当時は勇気のない自分に失望し、悔しさで眠れないほどであった。
 誰にも言えずに一人で奥歯を噛み締め耐えた悔しさと情けなさで胸が膿んだようにじくじく痛んだものだ。
 
 ふと頭に手のひらの重みを感じて喜八郎が振り返る。
「喜八郎、謝れ。」
 思いがけず仙蔵がそんなことを言うので、素直な眉がぴくりと跳ねる。
「え?」
 まさかと思ったのは喜八郎だけではなかった。
 喜八郎に怒っていたはずの一年生たちも、それを宥める八左ヱ門も目を丸くして仙蔵を見ていた。
 仙蔵はまん丸で色素の薄い瞳を見詰めて繰り返す。
「謝りなさい。」
 静かな声の後間があり、慌てた八左ヱ門が仙蔵を止めようと片手を伸ばし、「いいんです」と口を開きかけた。
 しかし、それが声になる前に喜八郎が振り向き、ぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい」
 あっさりしたものだ。
 すぐに上げた顔はやはり無表情そのものだったが、一年生たちはすっかり咎める気持ちを失っていた。
「いいえ、」
「僕たちこそ、ごめんなさい」
 それぞれ控えめに頭を下げたのを見てから喜八郎は仙蔵に向き直り、仙蔵はそんな後輩を褒めるように一度頷いた。
 そして二人はその場を歩き去った。
 
 ついて来いと命じたわけでもないのに、当たり前のようについて歩く喜八郎を振り返る。
 ずっと後ろ姿を見ていたらしく、仙蔵が目を向ければすぐに視線がぶつかった。
「不思議そうだな、喜八郎。」
「不思議です」
「では、お前はあの場に何故居続けた。」
 喜八郎は問いの意味が分からず黙った。
「私が現れなかったら、何も言わないまま生物委員たちに睨まれ続けているつもりだったのか。」
 人の目を真っ直ぐ見ることに躊躇いのない少年が目を伏せる。
「お前も生物委員連中も不器用で世話が焼けるな。」
 子供の喧嘩の仲裁をする趣味などないというのに。
 再び歩き始めると、やはり喜八郎がついてくる。
 どこへ行くとも告げていないまま、親を追いかける小さな子供のように。
 
 その日の夕方、再び飼育小屋の脇を通った仙蔵は作り直された墓を見た。
 長細い石が縦に半分ほど埋め置かれ、その前には株ごと移動してきたらしい菫が供えられていた。
 今は空っぽの手のひらを見つめ、握り、仙蔵はその場を後にする。
 
 
 2009/08/12

■■ 青紫

あれは、まだ九つになったばかりの頃のことだ。
 両親が俺を忍者の学校へ入れると言い出した。
 しかし、俺は忍者になりたいとはこれっぽっちも思っていなかった。
 幼い兄弟の面倒を見て、百姓仕事をしているのが好きだった。
 それを口にしたことで父と喧嘩になり、自分は家から追い出されるのだと勘違いをして、自分から家を飛び出した。
 学費を工面するために両親が苦労をしてくれていたことなど、その時は知らなかった。
 行く当てのない俺は山を走り、息が切れて立ち止まると虚しくなった。
 その時、茂みから一匹の犬が飛び出してきた。
 (野犬だ) と思ったが、怖くはなかった。
 俺は昔から動物には懐かれる方で、犬猫に牙を剥かれたことがなかった。
 屈みこんで声をかければすぐに寄ってくると思い、虚しさを埋めるように犬を呼んだ。
 しかし、その犬は俺を無視して走り出した。
 俺は悔しくて、その犬を追いかけた。
 犬はあまり大きくなかったが、人間とでは足の造りが違う。
 あっという間に見失ってしまった。
 重たい足の膝に手をついてゼェゼェ呼吸をした。
 そして顔を上げると、木々の向こうに何か青いものが見え、興味を引かれて歩み寄ると、そこには一面、青紫の花が咲いていた。
 後で名前を知ったそれは桔梗の花だった。
 あんまりきれいだったので、俺は疲れも忘れてその周りをぐるぐると駆け回り、姉妹の数だけ花を摘んだ。
 そして満足して帰ろうと思い、振り返ると、帰り道が分からない。
 どちらから歩いてきたのか、ここがどこなのか。
 その山には何度も入ったことがあったが、こんな一面の花を見るのはこれが初めてだったので、やはり自分がどこへ居るのか、ここはまだいつもの山であるのかも自信がなかった。
 帰れないと悟ると、途端に心細くなり、先刻まで輝いて見えた花々さえ、真っ暗な夜空を切り取って敷いたように見えた。
 自分がどこか、夜の森へ囚われてしまったかのような。
 薄気味悪く感じて、折角手折った花も手放して、一心不乱に駆け出した。
 しかし、花畑から離れても山を抜けられるわけではない。
 心臓が痛いほど鳴って、呼吸は苦しく、足は重く、ついには泣きだしてしまった。
 すると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「おいおい、情けないことだな。」
 驚いて嗚咽と涙が引っ込む。
 辺りを見回す俺の目の前に降ってきたのは見知らぬ百姓姿の男だった。
 しかし、身のこなしはあからさまに常人とは異なったし、そもそも普通の百姓が山中に降ってくることなどない。
 化け狐だと思った。
 身構える俺に男は青紫の花を差し出した。
 それは先刻手折ったのと同じ数だけあったので、自分が投げ捨ててしまったものだと分かった。
「勿体ない事をするなよ。」
 得体のしれない相手に、薄気味悪い花を差し出され、拒みたい気持ちを抱えながらも逆らうのが怖くて手を出した。
 俺がそれを受け取ると、男は指笛を吹いた。
 するとすぐに獣が駆けてくる。
 この山奥へと誘った、あの犬だった。
 男はその犬を撫で、何か言い聞かせるようにしてから俺を振り返る。
「こいつが郷まで案内してくれるからついていくといい。」
 花の茎を握りしめて疑いの眼差しを向ける俺に、男は「分かったな」と強く言い、また風のように姿を消した。
 取り残された俺は犬を見、また屈みこんで手を伸ばしたが撫でさせては貰えず、犬は少し走って立ち止まると屈みこんだままの俺を振り返った。
 ついて来いと言っている。
 もう他に頼るもののない俺は犬を追いかけた。
 くたくただったが、犬はちゃんと俺がついてきているか確かめながら進んだ。
 日が暮れ、徐々に光を失っていく林から逃れるように、犬を追いかけた。
 辺りが真っ暗で、犬の姿もよく見えなくなる頃、木々の向こうに灯りを見つけた。
 人里の灯りだ。
 急に元気が出て、夢中で斜面を駆け下りると、そこはまさしく自分の村だった。
 安堵してから犬のことを思い出し、辺りを見回したがどこにもいない。
 そうなると、犬のことも百姓姿の男のことも、最早夢の中の出来事だったのではないかと思えてきた。
 しかし、手の中には花が握られている。
 これを父に話すと、得意げににやりと笑ってこう言った。
「それはきっと忍びだな。その犬というのは忍犬というやつだ。忍びがよく訓練したやつさ。」
 その日から俺は忍びに憧れを抱くようになった。
 翌年には両親の言う通りに忍術学園へと入学し、渡された学年で揃いの忍び装束が桔梗の花とそっくりの色をしていたので、
 (これは運命だ、自分は忍びになるのだ!)
 と一人盛り上がった。
 その後、思い描いていた忍びと現実の食い違いに気づき、迷い悩むこともあったが、それはまた別のお話。
 半人前ながら実習の名を借りて実践へ送り出されることも度々あったが、あの犬を連れた忍びには未だ再会していない。
 
 
 2009/07/24