花降楼パロ/日比駆/27353

◇序章

 真っ直ぐで艶やかな黒髪を丁寧に結っていると、「あ」という声を上げて荒木が振り返った。
「髪をやっている間に動かないでくださいよ」
 せっかくきれいな髪をしているのに、きっちり整えなくても十分美しいからいいのだと嘯く。自意識過剰と切り捨てられないだけの魅力を備えているから嫌味とも思えない。
 苦情も気にせず床についた手に体重を預けて反り返った。
「今晩は傑がくるぜ。さっき予約が入ったんだと」
 嬉しいだろうっていう顔だ。嬉しくないわけではないけれど、こういうとき駆は戸惑ってしまう。
 逢沢傑は荒木の客だ。もちろん登楼するのは荒木のためだし、弟の駆と顔を合わせる僅かな時間はオマケでしかない。大好きな兄と尊敬している兄貴分……いや、姉貴分が逢い引きしていると思うと寂しくもあるが、上手くいっていないならいないで落ち着かないのだ。
 兄はあまり考えが顔に出ないけれど、荒木のことをずいぶんと大事にしていると思う。それを荒木に言うと茶化され冗談かと言われ真面目に聞いてもらえないのだけれど。
 今日も今日とて乗客の登楼を他人ごとのように言う荒木に困惑しているうちに見世清掻き<みせすががき>が聞こえてきた。着飾った遊女たちが張見世<はりみせ>につく時刻である。

◇玉響楼

 売春防止法廃止以来、昔ながらの見世構えの遊郭や娼館が復活した。そこだけタイムスリップしたかのような街、吉原にその見世はあった。
 男ばかりの遊郭、玉響楼<たまゆらろう>。
 再建からまだ十数年の浅い歴史ながら風格を感じさせる大門をくぐると、堂々とした娼館や木造の風情たっぷりの郭<くるわ>が建ち並ぶ。駆がそこへ連れてこられた時には少し変わった高級旅館に見えた。
 正面には暖簾がかかった入り口の横に紅殻格子の部屋がある。道から中が見えた。
「お前もじきにあそこに並ぶんだ」
 女衒<げぜん>にそう言われた時、ちょうど女のような格好をしたきれいな青年が白い指を格子にかけて隙間から顔をのぞかせた。気だるげに明るい外を見る。その瞬間、あれは檻だと思った。動物園の孔雀を閉じ込める檻。ここの孔雀は大金で買える。抱ける。
 ゾッとした。逃げたいと思っても逃げ出せないことはわかっていたので、これまでにも行動を起こしたことはない。
 養父母が多額の借金を背負ったまま自殺の疑いも捨てきれない転落事故で死んでからこっち、あれよあれよという間に風俗店と売り手との仲介を務める女衒がやってきて、それまで存在も知らなかった男ばかりの遊郭に連れてこられ、気が動転して涙も出ないまま顔や体を品定めされて着物を着せられた。
 このままどうにかされてしまうのだと思ったが、遊郭というのはそう簡単なところでもないらしい。
 まず、禿<かむろ>という身分を与えられ、先輩色子を紹介された。この見世では娼妓を色子と呼んだ。
 しばらくの間は先輩の部屋付き禿として面倒を見てもらう代わりに身の回りの世話をする。本当ならもっと幼い頃から仕込まれるのだが、駆は連れてこられたのが十七の時だった。同い年ですでに客をとっている妓もいた。
 割り当てられた先輩はほとんど年の離れていない荒木という人で、さまざまなタイプの美人が揃った見世の中でも目立つ華やかな顔立ちをしていた。きめこまやかな肌に何も塗っていないのにきれいな薄紅の唇。菖蒲の花みたいな涼しげで色気のある目元。
 売れっ子だと聞かされて納得と同時に気後れした。別世界の住人のようだ。お水の世界に身を置く人とカタギの暮らしを引きずった自分という意味じゃなく、浮世絵とか絵巻物の中に住んでいそうな、現代俗世間とは生まれつき縁がなさそうだった。
 ところが、
「今日から弟子入りってのはお前か。それじゃビシバシいくからちゃんとついてこいよ!」
 芝居がかった熱血口調で宣言して謎の素振りを始めた。
「ほらっ、一緒に!せーのっ」
 手刀の形にした手で胸の前の蠅でも払うような。真似しなければならないのかどうか迷って上げた片手が宙でくるくる回る。想像していた色子修行とはかけ離れていて何の役に立つのかわからない。
「荒木さん、こんなところへ連れてこられたばっかりの子がそんなギャグに対処できるわけないじゃないですか」
 近くにいた小柄な妓が呆れ顔で口をはさむ。こちらは肌も髪も色素が薄めで、小顔に気の強そうな大きめの目をした子猫みたいな可愛らしさの妓だ。自分より年下かもしれないと思ったが同い年だった。
 まだ一人前ではないというので同じ禿なのかと思ったら、独り立ちする前段階にあたる新造<しんぞう>という身分なのだそうだ。見るからに将来有望な彼、薫は新造の中でも売れっ子になると見込まれている振袖新造<ふりそでしんぞう>というものらしい。
 かつての吉原では駆のような年をくってから売られてきた妓は留袖新造<とめそでしんぞう>という低級の娼妓として客を取ることになっていたそうだが、この見世では一年でも禿、新造としての手順を踏ませる決まりになっていた。
「チビの頃から郭育ちじゃあるまいし、ツッコミぐらいわかるだろ?なんでやねん!」
「そういう問題じゃありません」
 裏拳は叩き落された。
「駆くんだっけ。ざっと聞かされているだろうけど、禿の間……研修期間中は客を取らされないから安心していいよ。禿一年の後に更に新造。水揚げは一年半後ってところかな」
「……そう、そうなんですか。えっと、ちょっとホッとしました」
 楼主や郭を取り仕切る役目の遣り手に説明されたことを何一つ理解出来ていなかったので本当に安堵した。冷え切っていた腕先に温かな血が通いだした。
 そこに荒木が水を差す。
「わかんねえよ。売れる見込みがないって遣り手が思えば新造だって突き出し資金のために内緒で客を取らされるんだ」
「荒木さん!」
「遅かれ早かれだ。禿の一年なんかあっという間だから早めに知って覚悟を決めておいたほうがいいんだよ」
 さっきまでふざけていた荒木が静かな目をする。賑やかに振舞っても優しくしてくれても、ここは体を売る見世であり、彼らは借金の形に誰かに売られて毎晩男に抱かれているのだ。
 じんわりとした現実味を持って状況を理解し始める。
「水揚げ前のお披露目を突き出しっていうんだが、そこには色々と金がかかるんで、出してくれる人がいなければ自分で稼ぐはめになる。本来は新造は客を取らないことになってるからこっそりな。薫みたいなのは別だけど、そういうヤツは少なくない。まして、この年で売られてきたなら覚悟しておいて損はねえよ」
 目の前が真っ暗になった。余命一年と宣告されたみたいに、毎日を大事に過ごそうなんて考えた。でも、人より憶えることが多い忙しい毎日を過ごすうちに色んなことに馴れ、そして諦めてしまったのだ。
 みんなそうして立派な色子となっていく。

◇傑

 見世に逢沢傑が現れたのは駆が禿となって三つの季節が過ぎた頃だった。荒木の初会の客というので宴に混じっていたら、なんと何年も前に離れ離れになった実の兄が現れた。
 遊郭というのは客の方も簡単ではない。まずは初会といって、娼妓とは宴に同席するだけ。それも遠い席に座らされて娼妓は口も聞かなければ笑いもしない。これは本来は客の方が品定めされる場なのだそうだ。その資格がないと判断されれば娼妓に振られてしまう。とはいえ現在ではしきたりを守っているだけで、よっぽどの売れっ子でないと娼妓の好き嫌いで客を振ることは許されない。
 二回目は「裏を返す」といい、近くに来る以外は初会と変わらず何も出来ない。
 そして、三回目。やっと馴染みと認められて同衾できるという。しかし、一度馴染みになったら浮気は許されない。大門の外には最初から隣に女の子が座って酒が飲める店や、すぐに肉体的欲求をぶちまけられるソープ店もある。それでも吉原は古めかしい規則を頑なに守り、客もまたそれを楽しんでいるのだ。
 宴の席で再会した傑は少しも驚いた顔をしなかった。そこに駆がいるのを知っていてやってきたのだ。遊里に売られた人間に会うには客になるか、自分もまた同じ道をたどるしかない。
 初会の客と口をきけないのは荒木本人だけだ。楽器や踊りや唄で賑わう座敷で静かに、言葉を慎重に選びながら再会を喜んだ。場所が違えば盛大に抱き合って泣きわめいたかもしれない。
 実の両親が亡くなって別々の里親に引き取られ、もう二度と会えないかと思われた兄と会えたとはいえ、そこは遊郭。素直に喜んでいられない。それを頭の隅に追いやれたのは駆がまだのん気だったからだ。傑のほうがひどく心配して顔を曇らせていた。
「お前のことを知ったのがほんの一ヶ月前だったんだ。うちの養父は関わらせたくなかったみたいで報せてくれなかった。知ってすぐに見世になんとか引き取れないかとも頼んだんだが……」
 そういうことは出来ない。最初に聞かされた注意事項に含まれていた。
 大金を払って色子を完全に見世から引き取ることはできる。それを身請けというが、身請けは独り立ちした妓の馴染みであることが条件だ。つまり、水揚げまで誰にも見世から引き離せない。いくら積もうともこの掟は揺るがない。
「ごめんな。遅くなってごめん」
 何度も謝る兄に必死に首を振った。会いに来てくれただけで十分だ。傑が引き取られたのは跡取りのいない大金持ちの家だった。小学生の頃から非凡な才能を見せていた傑は兄弟の中で一番に里親が決まった。英才教育が施されてゆくゆくは立派に会社を継ぐ跡取りとなる。借金を背負った弟といえど、戸籍上はもう家族でも何でもない人間に関わるべきではないんだろう。
 これまで何年も養父に従順に生きてきた兄が無理をして来てくれたことが嬉しかった。
 その後、傑は裏を返して馴染みとなった。
 始めのうちは自分に会いに来てくれているのだとばかり思っていた。実際そうだったと思う。会うたびに困ったことはないか聞いてくれて、登楼するたびに「何か精のつくものを食べさせてやってくれ」と荒木に頼んで花代をはずむ。
「やってらんねー」
 仮にも売れっ子の荒木としてはプライドが傷つけられるのだろうが、それでも傑を振ることはなかった。おちゃらけた先輩だが面倒見のいい人だ。駆も含め、部屋付きの禿や新造はみんな可愛がってくれる。少しでも兄弟が対面できるよう気を回してくれることもあった。
 それでも。と駆は思う。いつ頃からか兄は荒木に会いに来るようになっていた。
 尊敬する兄のことをずっと見ていたからわかる。とっくの昔に弟の自分の方が荒木のオマケになっていた。
 荒木は「ありえない」の一点張りで信じてくれないけれど。

 普通に学校に行っていた時は授業の一時間にも満たない時間が永遠みたいに長かった。兄と一緒に住めなくなってからは、それまで楽しみだった放課後の時間も幸せな世界からひとりぼっちで置き去りにされたように寂しかった。
 駆を引き取った養父母は特別裕福ではなかったけれど、子供一人ぐらいなら養えたし、自分たちに子どもができなかった分まで駆のことを大事にしてくれた。のんびりした駆の性格はお人好しの養父母の影響でもある。
 お人好しがすぎた二人は知人に騙され多額の借金を背負っても、駆には苦しい顔を一切見せず、ある日車でガードレールを突き破って海に転落した。事故の多発する見通しの悪いカーブだったけれど、いつだって安全運転で無事故無違反が自慢の養父だった。
 その後、一時的に養母の姉夫婦に預かられたが、二度も親をいっぺんに亡くした子供など縁起が悪くて手間がかかる以前の問題だと養育を拒否された。ありがちな生命保険やら遺産やらで目がくらむほどの財産があれば多少は違ったのかもしれないが、残されていたのは負の遺産ばかり。
 相続放棄で借金だけでも受け継がない手段もあったと理解したのは女衒に売られてからだった。具体的な金額は聞かなかったけれど、親戚のつまらなそうな顔からしてあまり高くは売れなかったのだろう。
 自分の価値をこれほどまでに生々しく実感することなどそうそうない。本当に疫病神にでもなった気分だった。

◇日比野

 開け放たれた窓から差し込む健康的な陽の光を避けるように座って煮物を摘まんでいた荒木が話の途中で顔を上げた。
 朝食の真っ最中である。見世から色子に支給されるのはご飯と味噌汁だけで、それぞれ懐具合に応じておかずを買ってくることになっているが、荒木はあまりそういうものを買わない。小遣いは食事よりも甘いものや間食に消えてしまう。
「肉体労働をやめたら俺はすぐにぶくぶくに太る」
 自分でそう断言してしまえるだからすごい。そのくせ間食をやめる気はないので、時々遣り手にたしなめられている。
 ダイエットと称して暇な時間に鞠遊びを始めたのも荒木だ。鞠つきなんてかわいいものではなく、きれいに整えられた庭の砂利の上で着物をたくしあげて蹴鞠をやる。親元で暮らしていたころはサッカーをやっていたから、それより一回りもふた回りも小さな鞠でリフティングするのがどれほど難しいか分かる。それをこともなげにやってのける。
 蹴り間違えた鞠が調度品や盆栽の一つでも壊せば即刻禁止となっただろうが、今のところはそれもない。つくづくこんなところへいるのが勿体ない人だと思うのだけれど、荒木はどちらかといえば色子としての仕事も楽しんでいた。自信家で見た目も自信を持つにふさわしく美しいからだろう。平々凡々とした見た目の駆には羨ましいことだけれど、こればかりは真似できない。
 めまぐるしく色々なことを教え込まれ、先輩たちの仕事ぶりを眺めて焦ったり感心したり動揺したりするうちに一年と一ヶ月が過ぎていたが、駆にはまだ華やかな友人や先輩たちのように男に愛でられて満足させることなんか想像ができなかった。覚悟だって、決めたつもりでも何かのきっかけで不安になることが多くてちゃんとできているのか自信がない。
 今月から新造扱いで着るものが変わったが、荒木経由で傑から援助があったからこそ不自由せずに済んでいるだけで、それよりも多額のお金がかかる突き出しの準備をどうするかはまったく決まっていない。今は言われていなくても、いつ客を取れと言われるかわからない。
 突き出しがなんとかなったら、その後は水揚げが待っている。これは運がよくても避けられない。誰が相手なのかもまだ聞かされていない。遣り手に会うたびその話が出るかと思ってビクビクもしている。
 しかし、それは予想もしないところからやってきた。
「駆さぁ、日の出建設の御令息って知ってるか?」
「日の出建設?会社の名前は知ってますけど」
 郭にテレビはないけれど、娑婆にいた頃は何度かCMを見たことがある。業界のことは知らないけれど駆が知っているぐらいだから大手企業に間違いない。世間の話題についていくため目を通すことを義務付けられている新聞でも時々見かけた。
「あれ?日の出じゃなかったっけ。お前の知ってるヤツのはずなんだけど」
「御令息なんてすごい人、平凡な家庭で生活してた俺とは縁がないですよ」
「大財閥の御令息とはなにより堅い血のつながりがあってこの世の誰より愛されてるじゃねえか」
「それは……でも、兄ちゃんが御令息になったのははなればなれになってからだし、この世の誰よりなんて大層なものじゃなくて、兄弟なら当たり前の程度ですってば」
 何かといえばブラコンだとかなんとかからかわれるけど、複雑な身の上が盛りあげるからそうなっただけで、基本的にはごくごく普通の仲の良い兄弟のつもりなのだ。
「ガキの頃の知り合いだから家のことなんか知らなくてもおかしくねえか。名前、なんつったかな。日の出…日の……」
「日の出建設の社長だったら日比野です」
 横で卵焼きを食べていた薫が教えてくれた。荒木がポンと手を打つ。
「それそれ。その息子のこと覚えてねえ?お前と同い年のさ」
 日比野。もう何年も聞いていない懐かしい名前。
「日比野……光一?」
「それそれそれ!何だ、知ってんじゃん」
「だって、兄ちゃんも俺も小学校の頃通ってた習い事が日比野と一緒で……でも家業のことなんて何にも」
 いや、心当たりがないわけでもなかった。
 日比野とは同じ少年サッカースクールに通っていた。学校が同じだったわけではない。当時は学校の格式なんかには興味がなくて気にしていなかったけれど、そういえば有名な私立の小学校に通っていたかもしれない。
 それに、日比野が駆の前から去ったのは海外留学のためだった。
(本当の理由は違うかもしれないけど……)
 懐かしい思い出に浚われて、手に持った板前の美味い味噌汁が、減塩を唱える母の薄すぎる味噌汁に変わった。駆は日比野の家に行ったことがないけれど、日比野が泊まりにきたことはある。朝食の味噌汁を一緒に飲んで「ほら、薄いでしょ?」なんて言って。
「憶えてなくても間違いなくその日比野なんだよ。でさぁ――」
 話をすすめる声に我に帰った。先に食べ終わった薫が食器を重ねて席を立つ。
「ソイツが、多分お前の水揚げ相手になる」
「え?」
 ここしばらくはずっとそのことばかり考えていたのに、昔を思い出したおかげで頭がついていかなかった。
 水揚げの話と日比野の話が結びつかなくて何も言えずにいると、荒木はちょっと気の毒そうに眉を歪めた。
「知り合いが相手ってのもやりづぇれよな。こういうの珍しいんだけど、でもブサイクとか気色悪いヤツじゃないらしいじゃん。おかしなオヤジにあたるよりラッキーだって」
 優しい先輩のフォローも右から左で、水はけの悪い土みたいに頭の上に溜まって飲み込めないでいた言葉がすこしつづ、でも確実に落ちてきた。ここに連れてこられたときの説明みたいに。事実として聞かされても突拍子がなさすぎて理解出来ない。実感を得るまでに時間がかかる。
 口が乾いたので味噌汁を一口飲んだ。薄すぎない、適度な塩分と味噌のいい香りがする。
「あの、水揚げの相手って、何を」
 この期に及んでもまだ相手が幼友達と言われると、儀式の手伝いをする係の人みたいな想像しかできなかった。
「何ってナニに決まってんだろうが。最初の客だよ。処女を捧げる相手っつーこと」
 あんまりにも直接的な説明は太い撞木ように。動きの悪い頭は内側がすっからかんの重い鐘みたいに。ガツンと打たれて頭の中にぐわんぐわん反響した。
 ありえない。他の誰がきても、日比野だけは。

 遣り手から正式に決まった話として伝えられたのは一ヶ月後のことだ。
 そのまた三日後に傑が登楼した時、他の客が待つ廻し部屋まわりで忙しい荒木に代わって傑の通された本部屋に上がったところで詳しい話を聞かされた。
 荒木のような売れっ子は一晩に何人も客をとるので、一番の乗客を本部屋に通し、残りの客を別の廻し部屋に入れて順に相手をするのだ。ほったらかしになる客には新造が代理で相手をする。ちなみに相手とはいっても抱いてはいけない決まりになっている。
 傑のところにあてがわれるのは大抵駆で、そんなときは荒木はなかなか帰ってこない。他の客だったらとっくに怒っているだろう。兄に会えるとホッとするけど、兄弟といえど人の恋路を邪魔したらなんとやら。そんなに気を使ってくれなくてもいいのだけれど。
「本決まりになったからもう聞いていると思うが、ガキの頃に仲良くしてた日比野が水揚げの相手になった」
 どうやら先走って荒木に聞かされていたことは知らないらしい。神妙に頷く。
「小学校の時に留学してから数年で一度帰国したんだけど、少ししてまた海外に渡って、二ヶ月ほど前に帰国したんだ」
「日の出建設の跡取りなんだって?」
「ああ、ガキの頃は俺達と何にも変わらなかったのに、今じゃ一丁前の顔してる。一人息子だからいずれ後継者として教育されることは決まってたんで、小学校のうちぐらいはのびのびやらせてやりたいっていう祖父さんの意向で子供の頃は好きなことやらせてもらってたんだってさ」
「でも、まだ卒業前だったのに留学した……」
 日比野が留学を理由にいなくなったのは小五のときだ。祖父との約束が小学校卒業までだったなら一年半もの猶予があった。
 それを早めたのは間違いなく自分だった。日比野はきっと恨んでいる。だから仕返しに水揚げに名乗りでたというなら納得できる。腹いせに莫大な費用を叩いて、その上それが駆の借金を減らしていくのだから皮肉なものだ。
 こんなしがらみだらけの場所にさえいなかったら、お金や手間をかけなくてもいくらでも罰を受けいれたのに。ぶたれたって罵られたって仕方ない。日比野には。
「そんな顔するなよ駆。もうとっくに駆け回れるぐらい回復してるんだ」
「うん……」
 暖かい手が背中に回る。
「心配するな。アイツはお前を助けに来るんだよ」
 荒木の言葉がよみがえる。そうだ。復讐だろうと、そこでひどいことをされたとしても嫌な相手にあたるよりよっぽどいい。それに、これで少しでも気が晴れるなら。許されるならば何をされてもいいと思った。

◇水揚げ

 玉響楼に来てからちょうど一年半の月には駆の誕生日があった。そして、その日が水揚げの日に決まったのは悪い運命みたいに思った。十年前も一緒に誕生日を過ごしたのに。
 あの時は家に日比野や幼馴染みの少女が集まってみんなでケーキを食べた。おまけでついていたクラッカーを鳴らしたがって日比野と喧嘩して怒られたのも全てが楽しかった。
 今日は何もない。紹介者として初会は立ち会った兄もいないしケーキもない。日比野はいるのに二人の顔にあの日の笑顔はなかった。
 こちらもにこりともしない遣り手によって仮初の夫婦となる盃を交わし、部屋に二人きりになったら自分の誕生日ということも忘れた。何もかもが頭から消えてしまった。
 久しぶりに会う日比野は記憶とはずいぶん変わってしまっていた。長かった髪は男らしく刈りこまれ、シンプルな形の耳殻も逞しい首筋も額もむき出しになっている。背も伸びた。初会で見た時、すっかり大人の男のようで知らない人みたいだった。輪郭は骨っぽくシャープになって、面影が濃く残る目元さえも真面目な顔で黙りこくられると懐かしい友人とは思えない。昔はすぐ怒るし笑う子供だった。
 誰の目もない二人きりの部屋でさえ笑ったり怒ったりしてくれない。向かい合ったまま気詰まりな沈黙が首を締める。
 そのまま一分以上経ってから、自分が接待する側だということを思い出した。相手が知り合いだということですっかり立場を忘れていた。日比野はたくさんの花代を店に支払ってここにいるのだ。
「あ、あの、久しぶり……だね」
 敬語を使うべきか迷ってやめた。本当に他人みたいになるには寂しすぎる。
 たっぷり間があった。真剣な目に上から下まで観察された。まるで変な格好でもしてるみたいに。いや、しているんだった。
 何年もここで過ごしたお陰で違和感がなくなってしまったけれど、男のくせに髪を伸ばして緋襦袢に華やかな内掛けを着て。テレビのバラエティ番組なんかで見る女装とは違って化粧はしない。肌の手入れは丁寧にやっているけれど女の子みたいにアイラインを引いたり口紅を塗ったりしているわけじゃない。
 きれいな着物に長い髪を垂らしていても、ここの色子はみんなまごうことなき男だった。ごまかしのない男の素顔で、男のままの体を売る。
 荒木や見世一番の売れっ子である傾城<けいせい>みたいにきれいだったならこんな着物も似合うだろうけれど、ごく普通でよくも悪くもない容姿の自分では下手な仮装でしかない。
 せめて馬鹿にして笑ってくれたらいいのに。そう思ってもちっとも笑ってくれなかった。
「おう。そうだな」
 返事はそれしかなかったから、また新しい話題を探さなければならなかった。客との会話は修行の一部だった。お決まりの喜ばせはもちろんのこと、仕事の話も相槌くらい打てるように世の中の流れや一般教養の授業もある。外の世界にいたときよりずっと頭が良くなったと思う。
 禿や新造の頃にもお客様と話をする機会はあって、拙いのが初々しくて良いと喜んでくれる方もいた。それでささやかな自信をつけたのに、いざとなると役に立たないものだ。
 やっとのことで口にしたのは、言うか言うまいか散々悩んでいたことだった。
「膝、大丈夫?」
 言った瞬間にきつく睨まれる。やっぱり言うべきじゃなかった。
 スーツの布地に包まれたままの日比野の膝には傷跡がある。見ないでも予想がつく。小五のときに駆が負わせたものだからだ。残っているのは手術痕だろうけど。
 サッカーの練習中に前十字靭帯をやって、その二ヶ月後にギプスをはめたままオランダ留学のためいなくなってそれっきり。好きなサッカーも残された自由な時間も奪ってしまった。それなのに、のん気に「大丈夫?」なんて怒って当然だ。
「ごめん!あの、その…俺」
「もうとっくの昔に自分の足で歩けるようになってる」
 靭帯っていうのは骨折みたいに固定しておけば自然に元通りというものではない。靭帯の再建手術と長期のリハビリが必要なんだと、当時のコーチに聞いた。
「でも、あの、サッカーは……」
「やってるわけねえだろ」
 今度こそバカだった。聞かなくてもわかったのに。日比野はスッと立って窓辺に腰を下ろした。この部屋は見晴らしが良くない。窓からの景色が良くて座敷と二間続きになっている上等な部屋は傾城から順に売れっ子が使っている。成績順に教室を変えるみたいに部屋の入れ替えがあるわけではないのだけれど、独り立ちして部屋を貰うときに、期待されている妓が優先的に良い部屋をあてがわれる。駆は一間だけで窓の外に植えられた庭木が美しい庭を目隠しした部屋だ。
 手を伸ばせば届きそうに枝を伸ばした柳が風に揺れる。
 言えば言うほど無神経なことを言ってしまいそうで待っていた。部屋の前の廊下を二人分の足音が過ぎる。早い客はもう帰る時間だった。
「あの、何にもしないの?」
 背中を向けたまま日比野は振り返らない。窓辺に凭れかかってそのうち寝てしまうんじゃないかと心配になるぐらい。
「何かして欲しいのかよ」
 やっと振り返ったかと思ったら怖い顔で見つめられて顔を伏せたくなった。
「そうじゃなくて、えっと……」
「言ってみろよ」
 二歩で直ぐ目の前に来る。いよいよかと思ってギュッと目を瞑った。
「…………」
「フンッ」
 息がかかりそうなほどに迫った気配がすっと退いた。恐る恐る目を開くと、日比野はもう窓辺に戻っていた。
 まさか脅すだけ脅して気が済んだのだろうか。
「……な、殴らなくていいの?」
 途端に変な顔をして振り向いた。
「なんで俺がお前を殴るんだよ」
「だって、復讐しに来たんじゃないの……?」
「復讐って……足のかよ」
 頷いた。
「そんなつまんねえことのためにわざわざ花代なんて払うか」
 言われてみると、そうかもしれない。呆れ顔で頭を抱えて全身で馬鹿にされた。こっちは真面目に悩んで覚悟までしていたのに。
「大体、ボコボコにしたら見世が黙ってねえよ」
「じゃあ何で来たんだよ」
 またすっと目を逸らされた。
「傑さんに頼まれたんだよ」
「兄ちゃん?」
「自分じゃどうにもできないことだからな」
 兄は荒木の馴染みだ。浮気はできない決まりだし、形ばかりでも弟を買うだなんて外聞も悪いだろう。助けに来るっていうのは兄の代理で来るということだったのだ。
「なんだ……兄ちゃんが」
「ああ。だから、変な心配すんな」
 それから日比野は整えられた褥ではなく、畳の上にごろりと横たわってしまった。声をかけても応えないので枕を頭の下に入れて押入れから出した毛布をかけてやった。
 今日は張見世はいいと言われている。一人で褥に寝ることも出来ないし、かといって他にすることもない。日比野の近くの壁に背中を預けてそっと目を閉じた。
 明日からはみんなと一緒に張見世に並んだり、まったく知らない人と盃を交わして床に入ることになる。今回のように前々から相手を知らされて覚悟をする時間を与えられたり、相手が気心のしれた知り合いなんてことはない。想像すると気が滅入った。
 さっきまで日比野と再会することで頭がいっぱいで考えずに済んでいたことが洪水みたいに押し寄せてくる。一度客をとったら何かが変わる気がする。自分が変わってしまうんじゃないかという不安がずっとあった。その前にまた日比野に会えて良かった。
 昔みたいに楽しく過ごせたわけじゃないけど、今日は大事な思い出になる。

◇蜜月

 遅い時間に日比野は目を覚まして帰っていった。大門まで送る時もあまり会話はなく、ついに「またきてね」も言えなかった。あっさり門を抜けて去っていく後ろ姿を名残り惜しく見送った。
 これが本当の最後になるかもしれない。次の約束はないから。見えなくなるまで見送って、すっかり冷えて赤くなった鼻をすすって帰った。
 ところが、翌日の昼過ぎに日比野から予約が入った。
「傑さんの頼みは断れねえだろ」
 台の物と呼ばれる料理を二人分とって食べ終わると、また窓辺に肘をつく。郭での食事は少ない朝食の他はそれぞれが客にねだるか小遣いで買って食べることになっている。養ってくれていた荒木から離れて独り立ちしたばかりの駆は当然のように空腹でいたから助かった。今後どれだけ稼げるかもわからないので僅かばかり手元にある小遣いは節約しようと思って、朝のおかずも昼も我慢したのだ。
 何が食べたいか訊かれて何でもいいと答えたら焼き魚のお膳が二つ運ばれてきた。
「給食みたいだ」
 そう言ったらちょっと笑ってくれた。学校が違ったから一緒に給食を食べたことはないし、記憶にある給食はこんなに豪華じゃなかったけれど。
 満腹になったら「好きなことをしていろ」と言うので、勉強道具を広げた。いつかは年季が明けてここを出ていくことになる。その時のために外の世界でも仕事が見つかるよう勉強は必要だった。何かやりたいことがあるわけではなかったから、身請けされて去っていった人が置いていった高校の教科書を使っている。
 途中でどうしても問題の解き方がわからなくなって、ダメもとで尋ねたら難なく解くので感心してしまった。
「こう見えても跡取りとして恥ずかしくないぐらいには勉強してんだよ」
「小学校のときはしょっちゅう勉強が嫌だ、家庭教師なんか来なきゃいいのにって言ってたくせに」
「お前だって宿題せずにボールばっかり蹴ってておばさんに怒られてたじゃねえか」
 とりとめない話の延長で昔話もできた。気を使うと逆に嫌がられるので、サッカーの話も遠慮をやめた。
「兄ちゃんの馴染みの荒木さんがすごくリフティング上手いんだよ。見世にグラウンドがついてたらいいのに」
「そんなの喜ぶの傑さんぐらいじゃねえか」
「あは。兄ちゃんも荒木さんがボール蹴るところ見たがってたけど、さすがに部屋の中でやったら怒られちゃうから残念がってたよ。じゃあ庭でって言うんだけど登楼するのはいつも暗くなってからだし無茶言うよね」
 そんな話をした翌日も日比野はやってきた。手土産に鞠をくれた。
「着物や髪留めよりこっちのほうがいいだろ」
「でも、部屋の中じゃ何も出来ないよ」
「昼間に庭でやっとけ」
「日比野も昼間に来たらいいのに」
「夏休みの自宅に遊びに来てるんじゃねえんだぞ。仕事もあんだからバカ言うな」
 すでに跡取りとして仕事をしているらしい。社長の息子といえども他の社員と扱いは同じで、結構忙しくしているのだという。
「それじゃあ夜まで兄ちゃんに頼まれてこんなところへきて休む暇がないんじゃないの?」
「どうせ帰ったって飯食って寝るだけなんだから変わんねえよ」
 連日の登楼は一週間になった。時間はまちまちでも必ず予約を入れてくる。お陰で遣り手から文句を言われるようなことはなく、遅くに日比野を見送ってから張見世についても端っこでのんびりしていれば時間が過ぎた。
 年季が明けるまでこのままならいいのに。どうしようもないことを考えては首を振る。駆みたいな値打ちの低い色子でも花代は一人前にかかるし、毎日食べていく台の物だってその辺のファミレスで食べるのとではわけが違うのだ。
 いつか日比野からの予約が入らない日がきっとくる。そして本当に初めての客をとることになる。考えたくないと思っても考えなければならないことだった。

 昼見世といって、見世は昼にも営業している。とはいえ真昼間から登楼する客は少ない。通りには客よりも遊女や物売りが多いことだってある。稀に前夜から泊まって昼まで滞在する客もいるが、大抵の色子は身支度を済ませて自由時間さながらに過ごす。
 楽器を弾いたり客に登楼を促す手紙を書いたり。馴染みが一人きりの駆は手紙をだすあてもなく、出来る楽器もなければ興味もなかったので、荒木に誘われて中庭に出ていた。一応張見世につく時間なのだが、昼間は多少のお目こぼしもある。
 この間貰った鞠を見せたら中庭に連れだされ、ちょっと蹴ろうというので付き合ったら、せっかく整えた髪や着物がぼろぼろになった。以前荒木がやっているのを見たときは軽く直せば十分だった。習字の上手い人は墨で手を汚さないというのを思い出した。荒木と同じようにやれると思ったらいけない。
 早々にギブアップして着衣の乱れを直すと、恐れ多くも荒木が髪を梳いてくれるというので断りきれずにお願いした。上下関係がしっかり存在する見世の中でも荒木は戯れが好きで気さくで、自分を任されたのがこの人で運が良かった。
 馴れた手つきで髪にくしを通しながら厨房で今何を作っているだとか、外に飴屋がいるだとか、敏感な鼻で食べ物話ばかりする。運動したお陰でお腹が減っているらしい。
「傑が今度すげえ美味い洋菓子持ってくるって言ってたのになかなか持ってこねえんだよな。買いに行ったら店が閉まってたとか、欲しいやつが売り切れてたとか」
 しかし、話したら空腹に拍車がかかったらしい。私物を入れる引き出しから飴玉を二つ取り出して一つを駆に、残りの大きい方を自分の口に放り込んだ。
「そういやあ、お前んとこよく続くよな。毎日ヤッてて飽きねえのかね」
「飽きる?」
「あ、わり。別にお前がつまんねえってことじゃなくてさ、頻繁に登楼してると普通にヤるんじゃ物足りなくなって変なプレイ要求してくるヤツもいるんだよ。だから頑張ってんなあと思って」
 言われて顔にカーっと血が上る。
「何照れてんだよ。今更だろうが」
 荒木がストレートにモノを言うのは今更だ。一年半で馴らされた。耳まで真っ赤になってしまったのはそのことじゃなくて。
「あの……実は、や、やや、や……し、してないんです」
「はぁ?」
 冗談だろうと背中に裏拳が叩きつけられたが、これはボケでもギャグでもない。そもそも荒木のギャグに付き合ったこともないのだが。
「マジかよ……」
 口をパカっと開けてくしを取り落とした。もう十分だったので、くしを拾って強引に交代する。
「あんな顔して若いのにインポなんて……」
「いや、そういうわけじゃないと思うんですけど」
 確認したことはないが、この際そういう問題ではない。
「毎晩毎晩他の男に渡したくなくて通ってるくせに禁欲なんて意味がわからん」
「違うんです。好きで通ってるんじゃなくて、兄ちゃんに頼まれて俺がお茶引かないように来てくれてるだけだから……」
 一晩中客がつかないことをお茶を引くというが、稼げないだけでなく遣り手から嫌味を言われたり、肩身が狭くなったりするのだ。
「頼まれたからって本当に毎晩来るもんかよ。傑本人だって週に三日しか来ねえくせに」
 月に一度くれば良い方という客も多い中で週三日は大したものだが、それでもまだ不満らしい。特に売れっ子の荒木ともなれば花代だって駆とは比べものにならない。
「大体、傑に頼まれて他の客がつかないように通ってるとしてもだぜ?いつまでもそうしてるわけにゃいかねえんだから、さっさと身請けでもなんでもすりゃあいいのに」
 放って置かれても他に客なんかつかないと思うのだが。それ以上に身請けなんて大金のかかることはとんでもなかった。
「さすがにそこまでは兄ちゃんに頼まれたって無理ですよ。それに、俺だってここを出る前に貯金を作らなくちゃやっていけなくなるし」
 娼妓は年季が明けるまでに借金を返済するだけでなく当面の生活のためにまとまったお金が必要になる。遊郭あがりと分かれば雇いたがらない会社も多いので、すぐには新しい仕事口がみつからないとも言われている。
「普通身請けされたら旦那の家に囲われるもんだろうが」
「それこそ無理ですよ。義理でそこまでの迷惑はかけられないし、兄ちゃんのところも俺とは関わり合いになりたくないだろうし」
「お前は考えすぎ。傑なんかできるモンなら明日にでも自分で身請けして兄弟水入らずで暮らしたいって思ってんだぞ」
 実際にそういうセリフがあったのだろうか。大人しく髪を梳かれて振り向かないが、唇を尖らせているに違いない。拗ねた口調がなんだか可愛かった。
「兄ちゃんでもそんな冗談言うんだなあ」
「冗談じゃねえよ、アイツの目は気持ちわりいぐらい本気だった」
「いつも真顔なんでよくわからないです」
 髪を満足いくまで梳いたら低い位置で一つに束ねる。
「傑のことはいいんだよ。今はお前んとこの旦那の話だろ」
 恥ずかしいので忘れたままでいてくれてよかったのに。
「いいんです。頼まれて仕方なくでも来てくれるだけで嬉しいし」
「ンなこと言ってると、そのうち別の誰かに抱かれちまうんだぞ?」
 考えたことはある。でも、変な考えのようで考えるのをやめたのだ。
「これから先、貞操なんか大事にできないんだから最初ぐらい大事に考えろ。気に入ってる相手に抱いて欲しいって思うのはおかしなことじゃねえよ」
 言うとおりだ。売れっ子でもなければ客の選り好みなんか許されない。それなら、どうせなら最初ぐらいと思ったことは何度もある。
「でも、俺がどう思ったって向こうがその気じゃないなら……」
「その気にさせりゃあいいんだろ?」
 ほつれ毛一本なく整った荒木がくるりと振り向く。ねずみを見つけた猫みたいな顔をしていた。
「作戦会議だ」

 玉響楼でお職<おしょく>を張っている一番の売れっ子の飛鳥という人がいる。生真面目で仕事熱心で美しく頭もいい。まさに彩色健美の人の次に売れっ子なのが荒木と島。二人張り合ってはいるが、荒木は仕事熱心ではないし、島はこの仕事が天職というぐらい楽しんでいる。お陰でライバル関係でありながら、二人は案外仲がいい。
 荒木の部屋付きの禿だった駆にも島は優しかったし、今も気さくに話しかけてくれる面倒見のいい人だ。
 二人は仲が良く、面倒見が良く、そして何より面白いことに目がなかった。
「それじゃさり気なさすぎるんだよ。もっとちゃんと触れ」
「いや、恥じらいが逆にイイんだって。ここまで手を出してこないってことは花嫁は処女がいみたいな夢見がちタイプなんじゃねえの?」
「それをオトすにはもっと押さねえとダメだろ。つうか、いっそ正面きって抱いてくれって頼んじまえば……」
「それは無理です!」
 両腕でバッテンを作ってストップをかけた。飛鳥や他の妓は手紙を書くのに忙しそうだったのに、島ときたら荒木に何か耳打ちされた途端に手紙を放り出してやってきた。心強い味方ではあるが。
「やっぱり自分から迫るなんて無理ですよ!」
「何言ってんだ。そんな甘ったれてちゃ傾城なんか夢のまた夢だぞ!」
 そんなもの目指した覚えはない。荒木が拍手に指笛で盛り上げるが駆は盛り下がる一方だ。
「お二人とも駆くんが困ってます」
 先輩の暴走を止めてくれるのはいつだって薫である。
「ちぇ。仕方ねえなあ」
 そして半ば命令されたのがこれだ。
「ね、寝るなら膝っ、貸すよ」
 正座でポンと太ももを叩いた。ちょうどよく仕事が長引いて疲れたと言ったのを好機と実行してみたのだが。
「…………急に何思いついたんだよ。正座なんか得意じゃないくせに」
 視線が冷たい。
「もう一年半も毎日正座でご飯食べてるから馴れたもん」
 急かすようにまたポンとやったのは単純に落ち着かないからだ。アドリブは利かないし話術も何もないから勢いが肝心である。
 精一杯見つめても胡乱気に見るばかりの日比野に見切りをつけて強引に褥に引っ張り込んだ。大丈夫。抱かれることが目標じゃなくて、膝枕をするだけなんだから。必死に自分に言い聞かせて羞恥に耐える。
「布団の上でやんのか」
「畳の上じゃ足がしびれるから」
「結局しびれるんじゃねえか。無理すんなよ」
「無理じゃないって!」
 裸で寝るために敷かれている布団の上に帯も解かないまま膝を揃えて座る。
「ほら!」
 これで拒否されたら辛い。そもそも、日比野は男になんか興味がないかもしれない。兄に頼まれて登楼しているのだから十分ありえることだ。荒木はその疑惑を自信たっぷりに否定してくれたが、もし男を抱けるとしても、それは自分なんかじゃなくもっと美人で色っぽい、傾城みたいな人に限るんじゃないか。
 目を見て待つなんてことはできなくて、沈黙に耐えかねて俯いてぎゅっと目を瞑った。
 数秒おいて日比野のかおりを含んだ空気がふわっと揺れて、ずっしりあたたかな重みがかかる。
 俯いたままそっと目を開けた。すると、思いの外近くに日比野の顔があって、しかも仰向けで駆を見上げていた。
「うわぁ!」
 思わず叫んで後ろに仰け反ってしまう。
「やれって言ったの駆のくせに何で驚いてんだよ」
「だって、普通横向きじゃないの?!」
「知らねえよ。幼稚園の時に大人に歯磨きやってもらって以来なんだから」
「歯磨き……」
 荒木たちの命令ではオプションとして耳かきなんてのもあったけれど、さすがに歯ブラシは準備がなかった。
 なんだか日比野も恥ずかしそうで横を向いてしまう。入り組んだ耳殻がよく見えた。
 人の頭は想像していたよりも重くてすぐにも足がしびれてしまいそうだったけれど、思えば再会してからまともに触れ合ったのはこれが初めてだった。手を握ったりもしていない。触れるのさえ嫌なのかと思えばこうして付き合ってくれるけれど。
 手の置きどころを探して短い髪を撫でると柴犬みたいなさわり心地だった。くすぐったいのか身じろいで、また仰向けになった。髪を触る手を掴まれたかと思うとその手に前髪を引かれてぐっと顔が近づく。
 女の子みたいに長い髪が肩から落ちて二人の顔に影を作った。息を止めてぎゅっと目を瞑る。あたたかな唇の端が触れた。何か呟くように口が動いて薄い皮膚が撫でれられる。くすぐったさが背筋を駆け抜けて腰のあたりで線香花火みたいに弾けた。
 髪を引く手が緩んで少し離れた隙にたまらず息を吐いた。緊張で心臓が忙しくていつもより息切れが速い。顔に吹きかけないよう顔を背けて呼吸を繰り返す間に頭が膝から滑り降りて、枕をたぐりよせて背を向けてしまった。
「あ……」
「寝る」
 今晩はこれで終わり。そうわかってホッとしたような、残念なような寂しさを胸に抱えながらいつものように毛布をかけてやった。今日は一応布団の上だ。
(いいかな?)
 邪魔にならないようギリギリ背中に触れないよう気をつけて横に滑り込んだ。すぐに眠れそうにはないけれど、緊張で疲れていた。

◇美人

「へー、それで?」
「たったそれだけじゃねえだろ?」
 髪部屋を訪れると島があくびをしていて、挨拶をするや否や部屋の隅に引っ張っていかれた。そこへ薫が来て、荒木が来て、昨日の作戦会議さながらの包囲網が完成した。
「それだけです」
「マジかよ、いよいよアレなんじゃねえの?」
「強そうな顔してアレかよ。可哀想になあ」
「お二人とも失礼ですよ」
 良い報告ができたと思ったのに哀れまれている。
「アレかどうかは置いといても、その甘酸っぱいやり取り。マジっぽいよな」
 島が口で軽い音を立てる。
「だって幼なじみだぜ?十年ごしでおいそれとは手も出せねえってか」
 脇腹をつつかれたが着物越しのおかげでくすぐったくはない。他人ごとらしい冷静さで薫が「よかったね」と微笑んでくれた。
 禿になった当時は最初に見た色子の憂鬱げな表情が頭に染み付いて、みんなが人生を悲観しているのだと思っていた。実際そういう妓もいる。お茶を引くことが多かったり、馴染みに乱暴なことをする人がいたり、肉体的に苦しい目にあっている妓だっている。
 その一方で、ほとんど来る者拒まずの島や、見世が許す範囲ギリギリまで好きに振舞っている荒木の明るさは救いだった。
 最年長禿から水揚げまできれいな身で済ませ、どんな事情であろうと毎日通ってくれる人がいて食うに困らない駆はずいぶん恵まれていた。男ばかりの園でも嫉妬や意地悪をする妓は当たり前にいる。荒木の馴染みが兄というのも半ば知れ渡っていて、荒木を妬んでいる分まで嫌味をたたきつけられたこともある。
 苦しい生活をしている妓やボロボロの状態で年季が明けて出て行った人も見た。だからそれも仕方ないと思って受け入れている。
 ただし、余計な嫉妬にさらされる必要もない。寄り集まって声を押さえて話していたのだけれど。
「駆くん、はしゃいでるようだけどさぁ」
 外側から声をかけられてビクリと振り向いた。明るめの髪を背中でゆるく波打たせた小柄な少年が髪にくしを入れながら視線をよこす。飛鳥の元々部屋付きで駆の数ヶ月前に水揚げを済ませた巧だった。すでに毎日食べるに困らないだけの馴染みがいて駆よりよっぽど上等な本部屋を割り当てられている。
「そんなのままごとあそび、いつまでも続かないと思うよ?」
 巧とは犬猿の仲の薫が睨めつけた。今までにも馬鹿にされたり挑発的なことを言われたことはあるけれど、駆はあまり巧を嫌いではなかった。飛鳥をすごく慕っていたり、見世の与えた勉強も人一倍真剣に取り組んでいる努力家の顔を知っているからだろうか。癇に触ることがしょっちゅうでも薫みたいに怒れない。
「やぶからぼうだな。お前何か知ってんのか?」
 薫の頭を優しく叩いて宥めながら荒木が口をはさむ。
「日の出の御令息でしょ?僕のお客さんに知ってる人がいるんだけど、彼が美人の女の子と料亭から出てきたのを見たって言ってたんですよ。それもご両親と一緒に」
 何も言えなかった。何度も会話の端々に出てきた跡取りという言葉がきれいな格好をしたのっぺらぼうのお嫁さんと一緒に浮かんで視界をさえぎる。いずれ誰か家族も認める女性と結婚することぐらい人に指摘されるまでもなく分かっていたはずなのに。
 もしかしたら、すでに付き合っている人がいて、その人のために触れてこなかったのかもしれない。だとすれば昨晩のことはほんの戯れで意味はなくて、この先のことなんてないのだ。
「だとしたらなんだ。俺達は元から花嫁候補じゃねえし、妻子持ちの客だっている。そういうことにいちいちこだわる場所じゃねえんだよ」
 軽い調子で荒木が言い放ってシッシッと手を振った。自分にも冷水を浴びせかけられたみたいだった。恋愛みたいな気分ではしゃぐなんて、巧の言うとおり、遊郭で起こる恋はほとんどがままごとや勘違いのそれなのだ。まして、体を求められたわけでもなく甘い一言も貰っていない。
 俯いた駆の背中を薫が抱く。それでも気休めの慰めは言わなかった。誰もが受け入れねばならない未来を予想している。

 次に登楼したらそれとなく訊いてみよう。そう思っていたのに、その日は夕刻になっても予約は入らず、水揚げから初めて日比野と会わない夜になった。
 それから数日、巧の話を裏付けるように日比野の登楼しない日が続いた。他に馴染みもなかったので三日ほどお茶を引くことになった。懐には余裕があったけれど、この先いつまでこれが続くかわからないので多少空腹でも少ない食事で我慢した。
 四日目に遣り手から呼ばれて喜んだのもつかの間、初会があるからと座敷へあげられた。二度目の初会、上手くいけば二人目の馴染みとなる。今後も色子として生活していくためには大事にしなければならない。表向きは違っても事実上の水揚げ相手にもなる。
 それでも、肩書きや名前も耳をすり抜けていき、同じ座敷に座っていても仕立ての良さそうなスーツを着ていたこと以外憶えていなかった。
 それから一日空けてもう一人初会があり、更に二日後に一人目が裏を返した。自分に色子としての魅力なんかひとつもないと思ったのに不思議なものだ。全てがつつがなく進んでしまい、もう後がなかった。
 同日遅くに登楼した傑と顔を合わせたら、酷く心配された。一応食事は出来ているのだけど、顔色が悪く見えたらしい。もう禿でも新造でもない身の上では他人の馴染みとゆっくり話している時間も取れず、逆にそれが幸いと思って別れた。相手が兄といえど相談するのはお門違いだし、困らせてしまう。
 そして翌日。深夜に荒木からこっそりと手紙を渡された。
「傑からだから早いうちに読め」
「兄ちゃんから?」
「いや、アイツも伝書鳩」
 兄からではないとすると。期待するだけ馬鹿だと思いながらも心の何処かで期待してしまう。条件反射みたいなどうにもならないものだ。
 張見世の隅で袖に隠して読んだ。きれいな真っ白い一筆箋に丁寧な文字が並んでいる。
(日比野じゃない)
 勉強を教わったときに見た文字はちょっとがんばったぐらいじゃここまで矯正できないぐらいのクセ字だった。
『私と彼を信じていてください』
 たったそれだけのメッセージ。暗号や便箋を透かすと見える仕組みなのではないかと疑ったが、便箋を炙ってみる前に隅に小さく書かれた「7」という文字を発見した。すぐにその意味がわかった。彼とは日比野のことだろうかとついつい考えてしまっていたからだ。
 日比野と兄との思い出にはいつももう一人の仲間がいた。男の子みたいな短い髪をした少女が。
「セブンだ」
 奈々という名前からセブンという名前で呼ばれていた彼女は日比野が留学する一年前に別の国に引っ越していた。駆にとっては幼い初恋の相手でもある。その彼女の手紙を兄が持ってきたということは。
 私と彼は奈々と日比野。巧が話していた日比野の相手の美人とは奈々のことだったのだ。昔も男の子みたいな髪で服装で走り回っていたからごまかされていたけれど、可愛くて、しっかり者で頭が良かった。一緒にいたのだから日比野にとっても初恋や、いまだに好きな相手なのかもしれない。
 これまでのっぺらぼうだった想像上の花嫁に顔がつくと途端に重さと温度を持った実感となって降りかかってきた。
 何年も会っていなくても奈々なら立派に成長しているだろうし、大事な友達が幸せになるのなら祝福しなければいけない。きっと二人は結婚しても、もし年季が明けて吉原あがりとして外界に戻っても、遅いお祝いに行ったら受け入れてくれるだろう。信じるって多分そういうことだ。
 日比野に抱いてなんて言わなくて良かった。
 時刻になって張見世に残っていた色子たちもそろそろ自分の部屋に戻って行く。泊まりの客がいなかったらしく何人か見送って張見世に戻っていた巧が隅で動かないでいる駆を見つけてそばへ来た。
 また意地悪を言われるのだろうか。だとしても今はそれどころじゃないし、この手紙以上にひどいことは何もない。隣に気配を感じながらも気づかないふりをしていたら、思いの外優しい声で言われた。
「ほら、帰るよ」
 見上げると手入れの行き届いた手があって、躊躇いがちにとるとみかけによらない力で引っ張り起こされた。そのまま手をつないで巧の部屋の前まで連れてこられたので仕方なく待っていたら大きな金平糖を一つくれた。巧が甘いモノが好きだなんて知らなかった。
 素直に口に入れると追い払う勢いで自分の部屋に返された。一人の部屋で甘く懐かしい味を転がしていたら、これはこの間のお詫びなのだろうかと思い至った。やっぱり悪い妓じゃないのだ。こんないい仲間に囲まれているのだから、明日からもきっと大丈夫。

◇迎えに

 日比野が再び登楼したのは九日ぶりだった。それでも十分マメな方だけれど、気持ちの上では何ヶ月も会っていなかったように遠い。思わず久しぶりなんて言いそうになったくらいだ。
 いつもどおり予約があっていつもより早い時間に登楼して、いつもなら二人でのんびり選んで食べる台の物も今日は駆一人分しかとられなかった。
「日比野は食べなくていいの?」
「いい」
 奈々の影がちらつく。奈々とは小学校も一緒だった。キャンプで見た野菜をむく手際の良さを思い出すと、今では料理上手の非の打ち所がないお嫁さんなのだろう。
「そっか、食べてくる日もあるよね」
 窓の外ばかり見ている横顔から目を逸らして一心不乱に口に運んだ。これからの客が気前よく台の物もとってくれるような人かはわからない。宴どころか部屋で飲み食いすることもしない人だっているのだ。ゆっくり満腹まで食べさせてもらえる貴重な時間なのに味がわからなくて、半分ほどで食べられなくなってしまった。
 箸を置く音でやっとまともにこちらを見た日比野がお膳にたっぷり残った料理を見て眉をひそめる。
「具合でも悪いのか?」
「ううん、何でもないよ」
「いつも俺より先に食い終わる奴が何でもないわけねえだろ。熱でもあるんじゃないのか」
 額に伸びる手を反射的に避けた。仰け反って後ろについた手がやけに音を立てて焦る。
「ご、ごめん。急でびっくりしちゃって」
「…………」
 必死に笑ってごまかそうとしても駄目だった。元々そういうのは上手くない。
「お前、馴染みができそうなんだって?」
 突然言われて作り笑いが引っ込む。膝ですぐそばまで来た日比野が怖い顔をしているように見えた。
「誰に聞いたの」
「傑さん」
 あまり喜んでもくれないだろうからと兄にも言っていないはずだが、荒木が言ってしまったのかもしれない。
「もう馴染みの客もいるのかよ」
「まだ……でも裏を返してくれた人はいるよ」
「で?」
「え?えっと、だから、無理して通ってくれなくてもこれからはなんとかなると思うし、日比野にも兄ちゃんにも心配かけないで済むかなって」
「もう来なくていいって?」
 頬を触ろうとした手をまた避けてしまった。触られたくないわけじゃないのに。
 聞えよがしの舌打ちをして日比野は強引に駆を抱き上げた。ここに来てからあまり太れず筋肉もつかずで軽い方ではあるけれど、そんなに軽々持ち上げられると少しショックだ。どうするのかと怯える暇もなく褥に乱暴に降ろされて、起き上がろうとしたのを阻むようにのしかかられる。
「日比野、急に何っ……」
「他の誰かに抱かれるから安心しろって?ふざけんな!」
 半開きの口を塞がれた。肉厚な舌が差し込まれて奥に逃げた舌先を掠める。柔らかいのに力強く口腔を暴れ回る。官能よりも支配することが目的みたいな荒々しさ。呼吸ができなくて、解放された隙に大きく胸を喘がせた。あんなに熱く痺れるようだった舌が空気にさらされてひんやりする。
「他の奴に譲ってやるために今まで我慢してたわけじゃねえよ」
 襦袢の裾を割って大きな手が太ももを撫で上げる。その先には何にも包まれていない腰があった。色子は下着をつけることを許されていない。薄い尻肉を揉んで性急に谷間に指を這わせる。乾いた指が確かめるようにそこを押して、本気だと分かった。
 こうなるのをずっと待ってたのに今はできない。押し流されそうな体を叱咤して無理やり日比野の体を押し離した。
「色子のくせに拒むのかよ。他の誰ともわからない奴は良くて俺は駄目か!」
 目を伏せて首を振るとまつげに涙が溜まった。
「駄目だよ……日比野、セブンと結婚するんだろ?」
 ぴたりと動きが止まる。本当だったんだ。確信を得たのはその時だった。それまでは勘違いかもしれないという期待があったのに。
「何で知ってんだ」
「二人がご両親と一緒に会ってるのを見た人がいて……それに、この間兄ちゃんづてにセブンから手紙を」
「手紙?」
 体の下から這い出してしまってあった手紙を渡すと、深く深く息を吐いて手のひらで額を押さえた。返ってきた便箋には手の触れた部分にシワがよっている。どんな手紙であれ久しぶりの奈々からの手紙を大事にしていたので、そのシワを丁寧に伸ばしてから封筒に戻した。
「アイツわざとじゃねえだろうな」
「この手紙、やっぱりセブンなんでしょ?結婚も、本当なんだよね」
 重そうに渋面を上げて否定するように首を振りかけて、止めた。
「結婚じゃねえよ。婚約しただけだ」
 あんまり変わらないことのように思う。
「それはたしかに美島の手紙だけど、お前が勘違いしてるような意味じゃねえことは確かだよ」
「でも、婚約したならいずれ結婚するってことだろ?俺とこんなことしたらセブンきっと嫌がるよ」
「嫌がってもかまうもんか」
「なっ……」
 今度は優しく引き寄せられて、少し躊躇って肩に頭を預けた。
「お前が心配することねえんだって。別に俺たち好きで結婚するわけじゃねえんだ。アイツに嫌われるのは俺一人なんだからさ」
「待ってよ。言ってる意味が分からないってば」
 好きでもない相手と結婚することなんか珍しくはなかった。時代錯誤の政略結婚も家柄を大事にする上流階級にはまだ根強く残っていて、その憂さ晴らしに吉原に通ってくる客もいる。それでも二人は幼なじみだし、日比野がどう思っていても奈々の気持ちはあるかもしれない。
「俺がうちの跡取りっつう話は知ってんだろ」
「うん……」
「家を継ぐってことはいずれ後継者を残さなけりゃいけなくなるってことだ」
 つまり結婚して子供を作るってことだ。黙りこむ駆に気にせず話を続けた。
「とはいえ、うちの曾祖父さんと親父は世襲させたがるが、俺を可愛がってくれた祖父ちゃんはそうでもない」
 小学生の日比野を自由にしてくれたのも祖父だった。
「祖父ちゃんも若い頃に家のために諦めさせられた相手がいて、そういう思いを俺にさせたくないんだと。会社だって無理やり親族に継がせてりゃいつか腐敗するときもある。だから何かあったら味方についてくれることになってる」
「じゃあ、なんでこんなに早くに婚約なんて」
「ダセェんであんま言いたくなかったんだけどよ、跡取りつってもまだ一存で動かせる金があるわけじゃねえし、正直水揚げの費用だけでいっぱいいっぱいだったんだよ。傑さんに頼まれたつったけど、あの人が本気出せば俺が代役やる必要なかったんだ」
「……どういうこと?」
 すでに荒木の馴染みである傑には水揚げすらできなかったはずだ。
「荒木さんに頼んで振ってもらえりゃいい」
「そんな!兄ちゃん、荒木さんのこと本当に好きなのに」
「お前が侮ってるだけで、傑さんはそんぐらいする人だよ。実際俺が帰国した頃にはその方法を考えてたみたいだし」
「でも、そんなの兄ちゃんの家の人が黙ってないだろ?」
 駆が借金を負って困っているときにも、そのことを傑に教えなかった家だ。日比野が言うほど簡単にことが運ぶとは思えない。
「まあな。でも、お前の血縁関係を伏せ通せば、ただ馴染みに振られて新しい色子を買ったというだけになる。家に囲うことが認められなくても近くに部屋でも借りてお前を住まわせて、資金援助して普通の生活に戻してやることぐらいならわけねえんだよ」
 以前荒木が言っていたことは本当だったのかもしれない。傑自身が身請けして、兄弟水入らずで暮らす。恩がある家を捨てられるわけではないから、一緒に暮らすことは叶わなかっただろうけど。
 ふと、疑問が浮かんで日比野を見上げた。
「じゃあ、何で日比野が来たの?」
 至近距離で見下ろす目が呆れで細められる。察しが悪いと言外に言われているのが分かって唇を尖らせた。しばらくの間にらめっこしていたらギブアップの代わりに唇をつままれた。
「仕事のつてで久しぶりに会った傑さんにお前のこと聞いて、俺が馴染みになるって申し出たんだ。最初はあんまいい顔されなかったけどな」
 あの人ひでぇブラコンだから。当時のことを思い出したのか喉の奥でくつくつ笑った。
「でも、お前の言うとおり、あの人も荒木さんのことも真剣だからわざわざ頼んで振られたいわけじゃねえんだよな。だから苦渋の決断で俺を認めたってわけだ。だけど水揚げだけできりゃいいってもんじゃねえ」
「だから、兄ちゃんも日比野も心配しすぎなんだよ。俺のこと見くびってる」
 一人でもちゃんとやっていこうと思ったばかりだ。俯いたほっぺたをつねられる。
「それが勘違いだっつってんだろ。お前より可愛いものなんかないと思ってる傑さんがそんな心配するかよ」
 そこまで言わしめる傑と兄とが一致しない。駆にとってはいつだって冷静で正しいことばかり言う人だ。それに、荒木のような美人を相手にしているのだから美醜感覚も人並なはずである。ますます納得いかないが、日比野は不毛に言い争うつもりはないらしい。
「俺が登楼する条件は駆に他の男を寄せ付けないことと、早いうちに身請けすることだった。だからって俺んちもうるせぇからいつづけってわけにゃいかなかったけど」
 登楼して朝になっても帰らないことを流連<いつづけ>といった。勿論途方もない金がかかる。
「でも、日比野、水揚げ代しかなかったって」
 思い出して聞けばバツが悪そうに頭を掻きながら答えてくれた。
「できたらずっと隠しときたいぐらい言いたくねえんだけどさ、………‥傑さんに借りてんだよ」
「借金?!」
 ここへ売られた原因が養父母の背負った借金だったのでどうにも敏感に反応してしまった。自分の声の大きさに驚いて口にチャックをする代わりに唇を噛む。
「どのみちあの人が自分で登楼するつもりでいたわけだし返さなくていいって言われてるけどそういうわけにいかねえだろ。それじゃ結局傑さんが助けたことになっちまう。身請けのための金だって払うって言われたけど断った。……その分お前を待たせちまったけど」
 話が見えない。身請けするって、自分をだろうか。
「やっと傑さんの援助なしに請け出す支度が整ったから、今日はその話を通しに来たんだ。もう遣り手には伝えてある。」
「ちょっと待ってよ。身請けって水揚げどころじゃないたくさんのお金がかかるんでしょ?それに日比野だって家の人が承知しないんじゃないか。セブンだって……」
「それだよ。身請けするにあたって駆に了承してもらわなくちゃならないことがある」
 なんとなく真面目な様子だったので、居心地のいい肩を離れて居住まいをただした。
「な、なに?」
「俺と美島は婚約した。いずれ正式に結婚するハメになるかもしれない」
 改めて言われるまでもない。最初にそれを問い質したがったのは駆だ。何度も言われると、そのたびに腹の底に石が溜まっていくようで勘弁してほしい。
「だけど、これはうちの親父を説得するためのものだ」
「説得?」
「ああ。うちの連中頭が古いから、元々色子に惚れ込んで囲うことに反対する気はないんだと。でも、嫁もいないうちに妾を抱えるわけにいかねえから、今は許さないって言われて、困ってたところへ出てきたのが」
「セブン」
 ゆっくり頷いた。
「そんな……どうしてセブンが」
「俺より先に傑さんから事情を聞いてたんだよ。でも、女じゃ色子は買えねえだろ?」
 吉原はほぼ男のための街だった。この玉響楼でも客は男だけと決められている。
『駆のためだったらわたしが隠れ蓑になる』
 美島家は家柄も申し分なく、彼女自身も聡明で結婚相手としてはこの上なかった。トントン拍子で話は決まったが、まだお互いに若いということで婚約にとどまったというわけだ。その折に奈々は駆の事情も一から説明し、身請けに自分も賛成であることを伝えた。
「だから俺たち好き合って婚約してわけじゃねえんだよ。そこのところは間違えないようにって美島からも念押しされてる」
「セブン、そんなに不本意なのに、俺のために……」
 涙目でもれた呟きに難しい顔をしたけれど、結局日比野は口をつぐんだ。
「そのへんのゴタゴタでしばらく登楼してなかったら客がついたっていうじゃねえか。手順を踏まなきゃ馴染みにはなれないからって甘く見てて失敗した。傑さんからすげぇおっかない顔で言われて急いでこようとしたんだけど、仕事がどうにも都合つかなくて今日になっちまって……その間に美島の奴、こんな紛らわしい手紙だしやがって」
 信じて、は本気の結婚ではないということか。勘違いして身を引こうなんてしないように。
「ったく、本当なら細かいことはこんなとこで話さずに連れ帰って驚かす予定だったのに」
 荒木から話を聞いた傑が奈々に伝えたのだとすると、巧から二人の結婚をほのめかされたことまで彼女は知っていたのかもしれない。兄や日比野だけでなく奈々やそれぞれの家まで巻き込んでしまってどうしたらいいのかわからないけれど、今日までの不安が肩の上からスッと消えて入った。
 褥の上で日比野が背筋を伸ばす。
「そういうわけだ。身請けされて俺たちのところへ帰ってくれるか?」
 つられて正座の足を揃え直して背筋を伸ばした。こういうことはもっとよく考えたほうがいいのかもしれないと思う。荒木や、兄や、薫や、尊敬する頭のいい人たちに相談したい気持ちもある。これで日比野や奈々が本当に幸せでいられるのかどうか不安で仕方ない。でも。
「嬉しい……謹んでお受けします」
 指をついて丁寧に頭を下げた。下を向いた拍子に涙がこぼれて布団に染みこんでいった。

 ひとしきりしゃくりあげて落ち着くと、「じゃあ」とばかりに布団に転がされた。
「なに?!まだ何かあるの?」
「こんな状況で何もクソもねえだろ」
 再び足を撫でられて背筋がぞくぞくする。襦袢の帯も解かれて開かれそうな襦袢の合わせを必死でかき合わせた。
「だって、今まで何もしなかったじゃないか!いきなりどうしたんだよ」
 肌を見せまいとする手と襦袢を剥ごうとする手との力比べは呆気無く日比野の勝ちとなった。細い体が赤い襦袢の中で顕になる。逞しい喉仏が上下するのが生々しくて慌てて顔を背けた。
「ホントにお前は察しがわりぃよな。ずっと我慢してたのがまだわかんねえのか」
「何で我慢なんか……この間だって結局何にもしてくれなかったのに」
「傑さんに登楼させてもらってる身で抱けねえよ」
「わかんないよ」
「まだ甲斐性のない俺にだって男としてのプライドってもんがあるってこと」
 問答が面倒になったのか薄いピンク色の乳首に吸いついて舐りあげる。同時に下半身を探られて駆の方も話しどころではなくなってしまった。しばらくそうして弄ってから顔を上げて、熱っぽい苦しそうな顔で訊くのだ。
「それとも俺には抱かれたくないって?」
 そんな事言うなよ。そう懇願するような切ない音で訊かれてどう答えられただろう。頭をギュッと抱いて頭蓋に直接吹き込むように唇を寄せて小さく答えた。

◇終章

 翌日には盛大は宴会が開かれ、離れがたい仲間に見送られて大門を抜けた。久々の洋服は新鮮で、まだ寒いからと巻かれたマフラーはくすぐったかった。それでも伸びた髪を切って寒々しくなった首にはちょうどよかった。
 日比野家の本邸に連れていかれるものとばかり思っていたら、高そうなマンションに到着して、その一室に「新居」と言って通された。
「駆!」
 ほどよく温かい空気と一緒に出迎えてくれたのは奈々だった。想像していたよりも長い髪を背中に落として女の子らしくなっている。成長ぶりに驚いていると飛びつくようにして抱きしめられて動揺して、助けを求めて日比野を見ると、つまらなさそうに横を向いている。彼女に気を使っているらしい。
 いろんな躊躇いがあったけれど、背中に手を回して自分より細い体を抱きしめ返した。
「ただいま」
 大きな手が頭に乗って、二人分のおかえりが降ってきた。