小さいころに野鳥を見に行ったことがある。いろんな色の羽。長い尾や小さな体。街中では見られない珍しい鳥も見た。
でも、そのどれよりも街で暮らす真っ黒なカラスが好きだった。漆黒の羽がきれいで頭が良くて。母親が嫌っていても好きだった。
母親に送られて練習場の門前にたどり着くと道路脇に人だかりができていた。子供ばかり五人。その足元に黒いゴミ袋が落ちていた。
いや、違う。車を降りて見るとそれはカラスの死骸だった。黒一色の動かない塊となって地面に落ちている。ギャーギャー言いながらつつき回したい奴がいるのだ。
悪趣味だと思うけど、わざわざ止めに入ろうとも思わない。無視して行こうとした時だ。集団の後ろを一人の少年が横切った。
この春のセレクションで入った新顔だった。子供ながらに整った顔をしていて物静かな方なのにやけに目に付く。
中学は偏差値が高いので有名な葉蔭学院中等部。練習も真面目だし人当たりが良くて大人好みの良い子という印象だった。
少し前によその保護者とヤツが話しているところに通りかかったことがある。耳に入ってきた会話によると、ヤツの父親が以前プロチームのチームドクターをやっていたらしい。その当時の知り合いに「お父さんによろしく」ことづかるところだった。
「はい。父に伝えておきます」
受け答えも、頭を下げて別れるまでの仕草も子供らしからぬ丁寧さで違和感さえあった。こんなヤツ周りにいたことがない。
中学二年生になってフォワードのレギュラーをとったばかりの鷹匠瑛は優等生とは真逆の、いわゆるガキ大将だった。気が強くて声もでかい。瑛を中心に集まる子供たちもうるさいヤツばかり。
そんな瑛の目には大人に媚びて見えた。優秀な頭、きれいな顔、その上練習熱心でコーチたちからも好かれて親は元プロのチームドクター。世の中何でも持っているヤツってのがいるものだ。
当然ヤツはカラスに群がる集団を無視した。背後を素通りしかけて、途中で何に群がっているか気になったんだろう。チラリと見て足を留めた。意外だった。
そして涼し気な目元を細めて片方の口角で笑った。しゃがんでカラスを取り囲む連中を見て。
「なんだそれ……」
グラウンドで再び姿を見たときにはヤツが笑った連中と仲良く喋っているところだった。連中は笑われたことに気づいていない。
その日もヤツは誰にだってイイ奴で練習にも真剣で行儀が良かった。
「イイ奴なもんか。とんだ裏表野郎じゃねーか」
その日からヤツの親切そうな笑顔が全て嘘くさく見えるようになった。みんな騙されてる。
「そこまで!」
コーチの号令でゴール前の一同から緊張が消えた。ミニゲーム形式の練習はそこで終わり。一時的な敵味方も解消でのんきな顔でコートを出る。その中で一人だけ苦い顔をして瑛は地面を蹴りつけた。
それまではむしろ機嫌が良かった瑛の荒れた様子に仲間も声をかけ躊躇った。
「飛鳥すげェな!」
対照的に普段は大人しいグループに属する少年たちが盛り上がっていた。普段は瑛たちに押されて萎縮しがちの連中だ。
中心にいながら移動の指示をきっちり守って歩みを止めない飛鳥享を睨みつけた。視線を感じてか偶然か、ちらりと瑛を振り返った享は気遣わしげな顔を見せた。気に入らない。
オーバーリアクション気味にそっぽを向いた。それをどう思ったのか享は引き返してまで隣に来た。まともに話すのは初めてだった。
「鷹匠くん」
「なんだよ、一回勝ったからって余裕を見せつけにでもきたのかよ」
優しげな態度を崩さなかった享もあんまりな言われようにきれいな弧を描いた眉をピクリとさせた。それでも嫌味に嫌味を返すようなことはしない。
「余裕なんてないよ。さっきは偶然上手くいっただけだってちゃんとわかってるんだ」
どうだか。小声でもすぐ隣にいれば聞こえただろう。それでも享は黙殺した。
「鷹匠くん上手いから、どうやったら止められるかずっと考えながら見てたんだ。良かったら今度一緒に練習しないか?」
はにかみながら頭を傾げて顔を覗き込んでくる。人懐っこい仕草が大人びた少年の印象を和らげた。それもこれも計算でできた表の顔でしかない。
「よく言うぜ。俺は騙されねえからな!」
きつく当たられる心当たりの無い享が戸惑っている間に瑛はズンズン大股で歩いていってしまった。怒鳴っても腹が収まらない。嫌いなヤツに負けたというのがプライドを傷つけて許さなかった。
嫌われている相手とは関わらない。それが享の結論だった。
理不尽に怒鳴りつけられて以来、享に味方する子供とそれ以外がはっきりわかれてしまった。
もちろんコーチや大人の目もあるからお互いに嫌がらせをしたり派手な喧嘩をするわけではない。ただ空気が悪い。
「おい、さっさとそっち片付けろよ」
瑛と同調する子供が必要もないのにせっつくとチーム内でも人一倍大人しい少年が柄にもなく眉をしかめた。ここ数日の享に対する当たりの厳しさに苛立ったのは享本人よりも周囲の方だ。
イライラが膨れ上がっていたところに最後の一刺しをくらって声を上げそうになったところを享が肩を叩く。
「手伝うよ」
発声のタイミングを逸らされて噴出しそうになった怒りが空中でから回る。慰めるように肩をポンポン優しく叩かれると熱い水蒸気が冷えて水滴になるみたいに怒りが情け無さに変わってしまう。
「飛鳥……」
「急ごう。君もごめん」
「あ、ああ」
戸惑うのは自分が理不尽だった自覚があるからだ。それ以上何も言えなくなって振り返る。少し離れたところで様子を見守っていた瑛に目で何かを訴える。向こうに落ち度があると思えるからこそ理不尽だって言えるのだ。これでは一方的な悪者だ。
そんなことが続くと瑛一人が悪いような空気が流れ始めた。瑛が誰かを煽動したことはないのに。
「何でアイツは飛鳥に怒ってんだ?」
ポツリと誰かがそれを口にしても答えは聞こえてこない。元々瑛と仲が良かった少年も、瑛のマネするように享やその周囲に辛く当たった少年も。
誰も知らなかった。聞かれたって瑛は何も言わないからだ。
一時的にピリピリしたチームも享の態度と瑛が無言を貫いたおかげで鎮火していった。瑛だけを取り残して。
もう夏かと思う日が続いていた。夏本番の前に梅雨がくるのは分かっていて、ちょっと雨が降るたびにいよいよかと身構えるが大抵は通り雨で終わる。肩透かしの連続だった。
「どうせならさっさとドバっと降りゃいいのに」
「そしたらグラウンド使えなくなるじゃん」
「でも大雨ってテンション上がらねえ?」
「つうか梅雨っていつからだっけ。飛鳥知ってる?」
整列して待機中、指示を出していたコーチが呼び出されたことで出来た空き時間。すぐに戻ると言いながらもコーチはなかなか戻ってこなかった。だけどいつ戻ってくるかもわからないので列を乱したりできない。
立ちっ放しの並びっぱなしで出来るのはおしゃべりぐらいだ。背後からいきなり話を振られた享はゆっくり首だけで振り返った。
「今年は六月半ばって聞いたけど、去年はたしか五月終わりぐらいじゃなかったかな」
「えー俺梅雨って七月ぐらいだと思ってた!」
「飛鳥よく覚えてんなー。俺天気予報なんか試合の前しか見てねえよ」
「俺も毎日見てるわけじゃないよ」
語尾が笑いでほころぶ。落ち着いているのに気取らない。そんな会話を背中で聞きながら瑛はムッツリ黙り込んでいた。
たまたまグループ分けして整列したら享の目の前だった。視界に入らないんだから気にしなければいいと思ったのに、グラウンドに業者が入るからとあまり広がらないよう言われて窮屈な並びになった。その上背後で喋られたら否応なく声が耳に入ってくる。
それでも享は積極的ではなくて、話題が自分から離れるとまた口をつぐんだ。後から思えば黙りこくっている瑛に気づいて気を使ったのだが、瑛が気づくことはなかった。
今日の天気予報は晴れのち雨。朝は青空が見えていたのがあっという間に厚みのある雲に隠れてしまった。雲の流れが早い。
コーチが席を外している間に雲が一時的に流れて太陽が顔を出す。さっきまでいつ雨が降り出すかと思われたのに日差しは強くて毛穴からじんわりと汗が滲んだ。
密度高く並んでいると余計蒸し暑くて空気が薄くなる気がする。
(早くコーチ戻ってこねえかな)
腕組みして貧乏揺すりでもしていたいがこうも窮屈では誰かに邪魔にされるだけだ。そうなれば余計にイライラするはめになる。
急速に形を変えて太陽に迫ってくる雲を見上げた時だった。
前触れ無く背中を押された。咄嗟のことで耐え切れなくてドミノ倒しに目の前の男の後頭部に頭をぶつけたところで堪忍袋の緒が切れた。
「何すんだこの野郎ッ!」
勢い良く振り向いて勢いのままに享の胸ぐらを掴んだ。後ろによろめいた享をそのまた後ろのヤツが支える。
「今押しただろ?!」
「押してない」
「嘘つくんじゃねえよ!」
いつもなら困った顔で謝る享が、今日は眉間にシワを寄せて小さな声で否定した。
「ぶつかったのは謝るよ。でもわざと押したわけじゃ…」
「うっせェ。お前ずっと俺のことムカついてたんだろ」
「おい、お前ら何喧嘩してんだ!」
やっと戻ってきたコーチはすぐに自体に気づいた。それでも一度噴き出した怒りは収まらなくて手首をゆるく掴んだ白い手ごと襟を揺するった直後。享の体がぐらりと揺れて崩れ落ちた。
「なっ」
体重がかかったことで掴み上げた襟が手から落ちる。完全に力を失った体は後ろに立っていた仲間の足にもたれかかって地面に倒れこむのを回避したが、ぺったりと湿った地面に足をついて目を開かなかった。
「おい、飛鳥!大丈夫か?!」
列をかき分けてコーチが目の前に来てもうんともすんとも言わない。気を失っていた。
その顔は本当に一緒に練習をこなしてきたのか疑いたくなるほどに白くて、静かに伏せられたまつげの黒さがやけに目についた。
医務室の椅子にどっかり腰を下ろしたときには渋いため息が出た。病院とか保健室みたいな消毒液臭い場所は苦手だが、今だけは安息の地のように感じる。
倒れた享が医務室に運び込まれてから瑛を含め近くにいた数人がまとめて事情聴取にあった。最初から瑛が何かしたと睨んでの問い詰めだ。
「胸ぐらを掴んだだけで殴ったりしたわけじゃない」
「そもそも飛鳥が嫌がらせで後ろから突き飛ばしてきたのが原因だ」
何度説明したって納得してもらえない。周りも瑛が怒鳴ってからのことは見ていたので殴っていないことだけは証言してくれたが、発端の背中を押されたあたりを見ていた者はいなかった。
「鷹匠が一方的に飛鳥を嫌ってたって話も聞いたぞ?」
他の子どもを開放してから一対一の面談でそんな話を持ち出してきた。誰のチクリか分からない。
「そうッスけど関係ないッスよ。俺じゃなくてあっちが先に…」
「飛鳥は違うって言ってたんだろ?みんな飛鳥がそんなことするわけないって言ってるんだ」
だからどうだと言うのだ。嘘なんか言っていない。
しばらく睨み合った上、この件は享が目覚めるまで保留になった。保留といっても目覚めたヤツが「押してません」と言えばそこで瑛の罪が確定するだけだろう。
「飛鳥の保護者に連絡入れるからお前は医務室に見舞いに行っとけ。起きてたらちゃんと謝るんだぞ」
やっと解放されたと思ったら医務室に直行させられた。カーテンで仕切られた内側に入ると享はまだ眠ったままだった。倒れた直後はこのまま死ぬのではないかというほど不安になったが、真っ白のベッドに横たわっているのを見ると眠っているだけに見えた。
でも寝息も小さくてあんまり静かなので不安になって手のひらで呼吸を確かめた。微かに吐息が触れる。ホッとして引いた手が頬をかすめた。
「ん……」
「わりぃ、起こした」
眉間にしわを刻みながらうっすら目を開ける。普段の愛想が欠片もなかった。
「倒れたの覚えてるか?ここ医務室」
「……何でお前がいるんだ?」
お前。コイツの口から初めて聞いた。
「俺とモメてるときに倒れやがったから全部俺のせいになって謝れって連れてこられたんだよ」
「コーチは」
「お前んちの親に電話してる」
「…………」
掛け布団の上に乗った手が固い拳になる。
「親には言わないで欲しいってか。喧嘩の原因だってテメェが最初に手ぇ出したんだから自業自得だろうが」
「誤解だって言ったろ」
「意味わかんねー。お前の後ろに並んでたヤツらだってお前のこと押したりしてないって言ってたぜ。一人で勝手に転んだってか?つったってるだけなのに?」
「うるさい」
「ンだと?!」
身を乗り出した肩を突き飛ばされて丸椅子に尻餅をついた。後ろにつんのめりかけたのをカーテンを掴んで踏みとどまる。
「本性出しやがったな!」
声を荒らげた途端、手のひらでストップをかけられた。
「寝不足で辛いんだ。話は聞いてやるから静かにしゃべれよ」
「寝不足?気楽なもんだな」
素直に声のトーンを落としはしたが、その分一度の放出できない苛立ちを一つ一つ目の前に積み上げる。
「遅くまでゲームかなんかやってたのかよ。お前んち金持ちなんだろ?オヤジもプロチームで仕事してた医者だって聞いたぜ。いいよな、何でも持ってる奴は」
上体を起こしたものの顔を片手で覆って項垂れたまま黙ったまま。ちゃんと聞いているのかも怪しい。
「今日だって練習あんのに夜更かしなんて余裕だよな。調子乗ってんじゃねえの?この間だって…」
「気楽はどっちだ」
「あぁ?」
聞かせるために言ったというよりついついこぼれたぼやきだった。
「どういう意味だよ」
表情を窺おうにもゆるく立てた膝に肘をついて顔を上げようとしない。俯いたまま、今度ははっきりと話し始めた。
「お前、いつも親に送り迎えしてもらってるよな」
「だからそれがどうしたってんだ」
「俺はいつも自分の足で来てる。セレクションも親には黙って受けて、受かってから説得した」
「…………」
「本当は親はサッカーなんかさせておきたくないんだ。お前の言うとおりうちは医院やってて、俺はその跡継ぎって決まってる」
「決まってるっつったって自分の人生だろ?」
「期待されてるんだ。そんな簡単に振りきれない」
「だってお前、セレクション受けたんじゃねえか」
やっと顔をあげたかと思えば醜い顔をしていた。機嫌が悪いところに水でもぶっかけられたみたいだ。今なら一方的でない喧嘩ができそうだった。
「俺は自分の力で、頭で選んで本気だって見せつけなくちゃいけないんだ。誰かのすすめに従うんじゃだめだ。頑張れば親もきっと認めてくれるって思って、セレクションに受かってから報告した」
「で。今練習に通えてるってことは納得したんだろ?」
少し間があった。横目で小馬鹿にするように笑われてカチンときたがそこは堪えた。相手は倒れたばっかりだ。
「条件がある。成績は落とさない。塾に通えない分自分で勉強する。もちろん練習も休まず通う」
瑛にはそれがどれほどのことかわからない。享の通う葉蔭学院の偏差値を聞かされたってピンとこない。自分の通う市立中学よりも上だというのが漠然とわかるだけだ。
「条件が守れなかったら即アウト。辞めさせられる」
「……!」
「だからゲームなんて買いに行く暇もないんだよ。家では勉強ばっかりしてる。昨日だって週末だからって沢山宿題が出て、土日を丸々練習に集中できるようにしたくて徹夜でやって……」
「結局倒れてんじゃねえか」
「…………だな」
素直に頷かれたのがショックだった。むき出しの穏やかでもない、柔らかでもない享が自分の揶揄を受け入れたことが気に入らなかった。
もっと自分の苦労を主張して駄々をこねればいいのに。優等生の皮を被っているのが気に食わなかった。どこかで何かをズルして得な人生を送っているように思っていた。
やっと化けの皮が剥がれたと思ったのに、こんなのは面白くない。
家族にも応援されず練習時間も無理をしないとひねり出せないような奴に俺は負けたのだ。気楽なのは俺の方だ。投げつけた言葉が跳ね返って頬を打つ。
「お前が言ったの当たってるんだ」
「あ?」
「ずっとムカついてた。俺が何した。絶対負けたくなくてずっと見てたよ。鷹匠を止めたくて研究してたんだ」
「この間の、止めて嬉しかったかよ」
「ああ。すごく嬉しかった」
「このヤロ……」
歯を剥き出しにして威嚇した顔を見てヤツは噴き出した。大人向けの大人しい笑い方じゃなくて、遠慮無く俺を馬鹿にする笑いだ。謝りもしない。
「じゃあさっきのも寝不足が原因でフラついたってことかよ」
「最初から言ってるだろ。弱ってるところに陽が照ってきたら耐え切れなくなって。……体調管理ができてなかったからやっぱり自業自得か」
また優等生らしい享が顔を見せる。良い子のふりをする必要はもうないから、これは享の本質だ。自分ばっかり責めるような口ぶりに腹が立った。
「これが親に知れたらお前、辞めさせられるのか?」
「……かもしれない。まだ二ヶ月も経ってないのにさ」
段々細く高くなる声がいつか涙声になるんじゃないかと思った。喉を握りつぶされるみたいだ。布団の上の拳に力が入って白くなっていた。冷たそうな手だった。
たっぷりの沈黙の後に廊下から足音と話し声が近づいてきた。案の定目的地は医務室で、コーチと享の母親がカーテンを開けてベッド脇に並んだ。
コーチの紹介で瑛が頭を下げると母親も子供相手にも関わらず丁寧に頭を下げてくれた。
調子を尋ねられても享は大丈夫の一点張りで、話はすぐに騒動の原因に戻ってきた。
「鷹匠、ちゃんと話はできたか?」
「……はい。さっき飛鳥に押されたって言ったけど、やっぱ俺の勘違いでした。別の奴の腕が当たったのを真後ろの飛鳥と勘違いしてたみたいッス」
「鷹匠っ」
こっそり布団の端を引いて口を挟もうとした享を黙らせる。
「別の奴?誰だ」
「あ?えーっと、平迫?」
「平迫にもさっき話を聞いたけど何も言ってなかったぞ」
「大騒ぎになったからアイツぶっこいてんじゃないッスかね。ちょっと当たっただけなんで、殴られたとかじゃないからアイツも悪くないッス」
まだコーチは納得いかないようだったが「勘違いした俺が悪いってことです」と言い切るとそれ以上は追求されなかった。
「そんで、前の練習中に飛鳥に負けたのが悔しくてつい大騒ぎしちまって、胸ぐら掴んですげー揺すったら目回ったみたいで、そんで、えっと……」
「いいよ鷹匠」
「よくねえだろ。殴られた相手庇ってんじゃねえよ」
「結局殴ったのか?」
「いや、殴ったっつうか。どさくさ紛れに頭突き食らわしちゃって。俺ヘッド得意じゃないッスか」
「このアホウ!」
「すんません」
戸惑いでいっぱの目で様子を覗っていた享に向き直って深く頭を下げた。
「飛鳥、悪かった」
くるりと回って母親にも謝った。
「あらあら、享はもう大丈夫なのね?」
「うん。頭も冴えてるしどこも痛くないよ」
「じゃあいいの。鷹匠くんももう頭を上げてね。男の子は喧嘩ぐらいするものだものね」
享によく似た目とふっくらした色っぽい口元でゆったり微笑んだ。
「母さん……あの、父さんには」
「わざわざ報告することでもないでしょ。たかだか子供の喧嘩ぐらい」
母親がいいというので瑛の両親へ連絡されることもなかった。享は家族に反対されていると言ったが、母親はそうでもないのかもしれない。
コーチたちが医務室を出て帰りの準備をしに行った隙に飛鳥が恥ずかしげに袖を引いた。
「……ありがとう」
「しおらしくなりやがって気持ちわりぃな。どうせほとんどホントのこと言っただけだろ」
「でも、寝不足のこと黙っててくれただろ?」
「お前が辞めさせられたら勝ち逃げみたいでムカつくんだよ。だから黙っててやるけど、代わりに練習前日はちゃんと寝てこいよな。調子悪い奴に勝っても何の自慢にもなりゃしねえ」
「うん、もうしない」
歳相応の顔で嬉しそうに笑った。そのときふと以前みた冷たい顔が頭を過ぎった。コイツを嫌いだと思ったきっかけの質の悪い表情と今の享が結びつかない。
(また俺の勘違い、か?)
母親と一緒に帰る姿を見送った。道路脇に植えられた街路樹の上にカラスがとまって真っ黒の目でキョロキョロあたりを観察していた。享の髪と同じ真っ黒の羽と真っ黒の瞳で。
<改ページ>
平日の練習は夜闇の中からナイター照明で切り取られたグラウンドでやる。
光の当たる場所が特別な舞台のようで気持ちが盛り上がる気がする。
そんな光の舞台の外へ飛んでいくボールを見送った。闇に溶けこむグリーンのネットに当たって転がって、また光の中へ戻ってくる。
自主練のたびに瑛が享を引っ張って行く。一対一を挑んでは止められる。白っぽいボールが享の出した足にひっかかって明後日の方向に弧を描く。
「クソッ!もう何度目だよ」
「十三回目」
外野から誰かが教えてやったら睨まれた。二日前の練習日に散々練習していたのがさっぱり通じなくて名前のとおり鷹みたいな眦をさらに釣り上げている。
付き合わされている享も肩ごとため息をついて自分でボールを拾いに行った。瑛に回収されると間髪入れずにもう一回。さっぱりした性格の男だけど意外にしつこいところがあるんだというのを最近知った。享が入ってからだ。
それまではチームの中で瑛は飛び抜けていて、こんな風に何度も止められることはなかった。DFの連中の間にも「瑛が相手なら仕方ない」という空気が漂っていた。
今思えばそれで強くなれるわけがなかった。態度はつっけんどんでも最近の瑛は楽しそうだと思う。
「説明するから一旦やめよう」
「説明だぁ?!」
「自信満々に仕掛けたのが何で通用しないかっていう話だよ」
ボールを瑛に返して動きをゆっくり再現してみせる。足元からボールが大きく離れる直前でストップを掛けた。
「ほら、今右を見た」
「!」
「それから外側にちょっと体を振るから何しようとしてるかすぐ分かる」
「ゲッ。でも同じ技を何回もやってんだからンなの毎回一緒だろうが」
「でも七回目と十二回目は別のことやろうと思わなかったか?結局意地で思い直したみたいだけど」
「何でそこまでわかんだよ!」
「右を見る前にいつも見ない場所を見たし、全然勝てなくて焦ってるのが顔に出てたからそろそろかと思ってた。結局同じことの繰り返しを選んだようだけど」
語尾に絡んだため息が「頑固者」と言いたげで一層不機嫌にさせた。
誰にでも親切で真面目で、親に「飛鳥くんを見習いなさい」と言われても一言も言い返せない。享はそんな子供だった。
だからといって優等生ヅラをしているわけじゃない。くだらない話にも控えめながら参加するし大人に媚びているわけでもない。まだ入って数ヶ月なのにみんなのことをよく見ていて声をかけてくれる。
ちょっと大人びた笑顔と、練習中の厳しい顔。それから気遣わしげな顔と大人しそうな困り顔ばかり見せていた享が、こんな皮肉っぽい顔を見せるようになったのはつい最近だ。
そもそも瑛と一緒にやるようになったのも二週間ほど前からで、それまでは瑛の方が一方的に嫌っているようだった。
チームの中心にいた瑛と、正反対のタイプから好かれた享に事件が起きたのはやっぱり二週間前。二人がモメて享が倒れた。
その時に二人と、コーチや親の間で何があったかはみんな知らない。でも、子供同士の喧嘩に大人が介入するとろくなことがない。瑛の享への態度が改善されたのを見て享を悪く言い始めた奴がいた。
「親に言われたらタカも黙るしかねえじゃん」
享と同じDFだった。中学二年にもなればそれが瑛のためじゃなく自分の劣等感とか妬みでできた鬱憤だとわかる奴もいる。
黙っていてもそれに乗っかる奴は多くなかったと思う。でも、
「ごちゃごちゃ言ってんのはテメーだろ」
瑛本人が怖い顔をした。
それから周囲の動向を窺う視線もきにせず享に声をかけた。
『練習、付き合えよ』
全てはそれからだ。
享は頭から湯気が立ちそうな瑛に臆することなく続けた。
「来るのがわかってれば止めるのは結構簡単で、こう…こうしたら」
「…………チクショッ!」
周りから拍手が起こる。それに瑛が怒るのを見て享が噴き出した。
「でも、飛鳥くん一回目から止めてたよね」
「そうだ!その理由説明しろ!」
パッと顔を上げて食って掛かる瑛をじゃれかかった迷惑な犬にするみたいに避けて不思議そうに小首を傾げる。
「一回目?何度も見てるよ」
「あ?」
「この間波多野相手に繰り返し練習してただろ?」
「してた、けど……その間お前も別で練習してたじゃねえか!」
「ああ。でもずっと見てたから」
ドキッとした。瑛が黙ったからだ。
「タカが新しいこと始めたから。どうやったら止められるかって、いつも観察してるんだ」
「うちじゃタカが一番上手いもんなー」
「上達の近道ってやつ?」
どこか冗談半分の軽い調子で投げられた言葉をなんとでも取れそうな笑顔で享がいなす。こういう時の享は少しおっとりして見える。
「あ!そうだ。飛鳥にチェックしてもらったら上達するんじゃねー?」
「そっか!じゃあ俺も見てくれよ?」
「俺も俺もー!」
ぱっぱっと挙がった手はすぐに瑛に叩き落された。前のめりに享を囲んでいた仲間を押しのけて進み出ると、上体がほんの少し逃げかかった享の手首を捕まえる。
「お前は俺だけ見てろ」
顎を引いた顔にナイター照明の光が濃い影を作った。犬だったら猟犬だと思う。鼻っ面が長くて鋭い目と長い手足の。こんな顔で突進されたら逃げたくもなる。
「ずりぃぞ、タカ」
「うっせぇ!お前らコーチに見てもらえ」
どうしていいかわからない空気を何とかしようと茶化したのが裏目。瑛がちっとも笑わないので誰も割り込めない。
享が掴まれた手首を居心地悪そうに揺すった。
「勝手に決めるなよ。それに何が気に入らないのかわからないけど、そんな言い方ないだろう?」
子どもの喧嘩を仲裁する教師みたいな落ち着いた口調で。それでも動揺しているのが落ち着かない手元でわかる。
「タカだってきっと俺じゃなくコーチに見てもらったほうが勉強になるよ」
「それじゃダメなんだよ」
「どうして」
「お前に負けっぱなしだからだ」
「だったら余計に俺に手の内を見せるのは不利じゃないか」
「どのみちコソコソ練習するのは性に合わねえ」
「だからって…」
言葉を切って自由な方の手で額を押さえた。瑛は頭の回転は早い方だけど口が立つわけではない。理屈で争ったら享が負けるわけがない。瑛の言うのは屁理屈だ。それもいびつに組み立てた理屈じゃなく、破綻したまま力で押し通す。
譲る気がないのはすぐにわかった。
「仕方ないな。俺の練習にもなるから付き合うよ」
享が折れたと同時に拘束していた手首を開放してさっさとボールを蹴り始めた。
「タカの奴、勝手だよな」
「飛鳥に勝てないの、そんなに気にしてんのかな」
「……どうかな」
曖昧な返事をしたのは享だ。
「前から強引なところはあったけどこんなに自己中じゃなかったんだよ」
「そうそう。最近……飛鳥につっかかるようになってからかな」
「ライバル視してんじゃねえの?」
「ライバル、か。認められてるってことなら嬉しいけど」
「えー?嬉しい?飛鳥心広すぎだって。本気で嫌だったら怒っていいんだからな。俺たち味方する」
享はやっぱり曖昧な笑顔で「ありがとう」とだけ言った。それでも、二人が他人を巻き込むような喧嘩することはないような気がした。瑛に急かされて走りだした横顔がまんざらでもないように見えたからだ。
享と二人で場所を確保する間に何か言われたらしい瑛が顎をそらして口を尖らせる。
「――――お前の時間が勿体ねえだろ」
それから享はほどけるように笑った。
炎天の日曜日に練習試合があった。3-0で圧勝だった。
黄色のユニフォームのゴールキーパーが大きくキックした瞬間に長い笛が鳴った。
前半で2点。後半、試合終了直前に享からパスを受けた瑛が二人抜いて更に1点決めた。連勝中だった。
お陰でチーム全体が活気づいていた。悪く言えば浮かれている状態だと監督はいうけれど監督だって悪い気はしないだろう。
応援にきていた父兄も混じって賑やかにグラウンドから捌けていく顔も明るかった。
瑛が携帯をポケットにしまったとき、享はもう駅に向かって歩き出していた。いつも電車で通っている。それは練習試合の日だって変わらない。
誰も待たず一人で歩く背中を追いかけた。
「ちょっと待ってろ。うちの親が車で迎えに来るから乗ってけ」
「いいよ。遠回りになるし」
「たいした距離じゃねえだろ」
「自分で運転するわけじゃないんだからそんなこと言うなよ」
「だから今電話しといたんだろうが。お袋はお前も乗せてくつもりでこっち向かってんだよ」
「でも乗らなくたって困らないだろ?」
享が足を止めないので瑛も歩いた。大きな車道沿いだ。迎えの車が来たらグラウンドの目の前でなくても見つけてもらえるだろう。
「こっちがいいって言ってんだからいいじゃねえか」
「よくない」
「電車より楽だろ?その分時間とか体力とか節約できんじゃねえの?」
「そういう問題じゃないんだよ」
徐々に歩くペースを上げる享に舌打ちした。
こうやって一緒に帰ろうと誘うのはこれが初めてではない。大抵はさっさと帰ってしまって誘う暇もないが、予め捕まえておいても車の運転席に座る瑛の母親に丁寧に頭を下げて結局一人で帰ってしまう。
それが面白くなかった。
「じゃあどういう問題だって……」
そっぽを向いて独り言のように吐き捨てた。それから一緒に歩いていた足音が消えたことに気がついて振り向くと享が三歩後ろで立ち止まっている。
「何だよ急に」
見るとすぐ側の生垣の向こうに子どもが集まっていた。
「あ、飛鳥くんにタカじゃん!」
「お前ら何してんだ」
「へへ。そっちから回ってこっち来てみろよ」
勿体つけて手招きされた。
しゃがみ込んで何かに夢中な仲間たちとそれを見つめる享の姿があの日に重なる。初めて享を意識した日。あの時の冷めた顔がずっと違和感として残っている。
それでも享と親しくなってからしばらくの間忘れていた。急に胸がざわついて享の顔を覗き込もうとした。けれど享はひらりと身を翻してあっという間に生垣の向こう側に回った。
(何があるってんだよ)
仕方なく同じように回りこむと、人垣の真ん中に汚いダンボール箱が見えた。中にふわふわの毛並みの子猫が何匹か見える。
「捨て猫?」
「そう。人懐っこいんだよ」
「今さ、田倉が母ちゃんと交渉中。アイツんち猫好き一家だから」
「飛鳥も猫好きだよね?」
言われて享が遠慮がちにしゃがみこんだ。地面に手をついて這うようにして輪に割り込む。意外だった。
他の子どもと同じように子猫の鼻先にそっと指をさし出して。そして、ひっかかれた。
「痛っ……!」
「大丈夫?」
「おかしいな。誰も噛みついたり引っかいたりされてねーのに」
小さな傷を作った指を握りしめて享が俯いた。本気でしょげているのかと思ったらおかしくなった。
ついつい噴きだしたら振り向いた享が睨み上げてきたけれど少しも堪えない。人間には嫌われないよう誰にでもイイ子でいるくせに。猫には愛想が通用しないのかもしれない。
「飛鳥くんち犬飼ってるから、それでじゃないかな?」
「そうかな」
「そうだよ、うちの猫もよそで犬触ってくると気にするよ」
自分のシャツを摘まんで観察したら細かな犬の毛を発見したらしい。享はそのフォローを信じて子猫を諦めて立ち上がった。
そこへ田倉が指でオーケイサインを作りながら戻ってきて解散となった。
瑛のポケットで携帯が鳴る。
「迎え来たからいくぞ」
当たり前の顔で享の手を取って元いた道に戻ると黒い軽自動車がハザードを焚いて待っていた。運転席から助手席側に身を乗り出してキャップを被った女性がひらひらと手を振る。
「お待たせ。後部シートが散らかってるから、瑛、荷物どけちゃってくれる?」
母親に言われたとおり後部ドアに手をかけた瑛を享が止めた。
「すいません。折角なんですが、帰りに寄るところがあるので遠慮しておきます」
「そこまで送っていこうか?うちは用事もないからこのまま帰るだけだし」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
折り目正しくお辞儀をしてまた駅に向かって歩き出した。
「おい、飛鳥!」
「じゃあ、また来週」
呼び止めるのも無視して愛想程度の微笑みで手を振って享は背を向けた。まっすぐ駅に向かって足早に離れていく。
「……またフラれちゃったね」
「うるせぇ」
ハンドルに凭れかかっている母親の揶揄に毒づいて助手席に乗り込むと乱暴にドアを閉める。その頬を容赦なくつねりあげられた。
「もう。口の利き方にも車の扱いも気をつけなさいって言ってるでしょ」
「わかったっ!わかったから……!」
解放されて頬をさすっている間に車が滑らかに発進する。すぐに享を追い越した。多分気づいただろうが、享は視線もくれなかった。
「丁寧だけど毎回きっちり断るよね」
「…………」
「自分の足で通いたい理由があるんじゃないの?もう無理に誘うのやめた方がいいんじゃないかなあ」
「別にこっちは親切で言ってるだけなんだ。断られたって痛くもかゆくもねえよ」
「そうじゃなくてね、一緒に帰りたいならアンタも電車で通ってもいいのよ?って言ってるの」
少し間があって、運転席を振り向いた瑛はニヤけた母親の顔を見て眉間にシワを寄せた。
「やるかよ!めんどくせぇ」
別に移動時間まで一緒に過ごしたいわけじゃなかった。
ただ、享がしんどそうにしているとき。練習中に調子が悪そうなとき。少しの顔色の悪さが気になって仕方ない。
サッカー以外の享にのしかかる負担を少しでもなんとかしてやりたいだけだった。それが上手くいかない。
快勝の余韻なんかとっくに消え去って、憂鬱な気持ちで窓越しに流れる街並みと線路を眺めていた。
九月半ば。まだ気温の高いグラウンドでこの夏何度目かの練習試合が行われた。
相手は鎌倉学館中等部サッカー部。中学のサッカー部と試合をするのは初めてではなかったが、試合相手が発表されるとレギュラーから補欠まで落ち着かなかくなった。緊張と興奮で笑いの沸点が低くなって、それを誤魔化すみたいに練習中の発声が大きくなる。
その中でも享は変わらず冷静だったが、浮き足立つ気持ちもよく理解できた。
今年の鎌学中等部には逢沢傑がいる。一年生にもかかわらず10番を背負う天才児。すでにU-15日本代表としてその名が知れ渡っている。同じ神奈川のサッカー少年だと考えようとしても桁の違う相手だった。
「大丈夫だ。逢沢は上手いかもしれないが、サッカーは一人でやるもんじゃない」
監督はそう言ったけれど、監督自身が傑を強く意識しているのは明らかだった。享は瑛の家で何度も傑の出場した試合の録画を見た。自宅では親の目が気になって出来なかったからだ。
鎌学との試合というより逢沢傑への挑戦だった。
ところが、当日鎌学イレブンと顔を合わせてみたら10番の姿がない。ヨーロッパ遠征していた日本代表チームが帰ってくるその日だった。練習試合の会場に来るかどうかも分からないと説明された監督は「はぁ」と間抜けな声を出した。
「逢沢がいないなら余計に負けられる相手じゃない」
「ああ」
監督がベンチを離れている間、享は肩透かしをくらって士気の下がったメンバーの肩を叩いて回った。中には逆にホッとしている選手もいる。そういう仲間には言葉を変えて。
注目の的だった逢沢傑抜きで始まった試合は横浜の1点リードでハーフタイムを迎えた。鎌学は10番が不在でも決して弱くはなかったが横浜は強かった。
享が反復練習で裏打ちされた安定感のある動きで巧みにボールを奪い、前線では瑛が肉食獣のような獰猛さとボディバランスでゴールに喰らいつく。ふたりともこれまでで一番の仕事ができている手応えがあった。
後半五分過ぎた頃に追加点。それからも横浜の優勢で後半を折り返し、そのまま勝ちが見えた気さえした。
そこに新鮮な緊張感が加わったのは残り十五分を過ぎた頃だった。
逢沢傑が現れた。鎌学選手がベンチを気にするので見ると、逢沢傑と向こうの監督が交渉しているところだった。こんな半端な時間に到着したということは空港から直行してきたのだろう。まさか出場するとは思わなかった。
しかし、選手交代で10番がコールされた。
残り十分。移動の疲れも残っているはずだ。いくら天才といえどひっくり返せるわけがない。この日のために重ねた研究や練習や、その時まで上手く行き過ぎていたプレイが驕りを招いた。
いや、油断なんかしなくても結果は同じだったかも知れない。その十分はそれまでの時間を全て忘れさせるほど鮮やかで、強烈で、そして鋭く頭の奥深くを貫いた。
ほぼ一人で持ち込んでのゴールから始まり、一人で2得点、1アシスト。何度もビデオで見て対策を練ったからこそわかる。逢沢傑はただの天才じゃない。重ねてきた努力や度胸も自分とは比べものにならない。
すぐには敗北を悔しいと思えなかった。呆然と背の低い背中に大きく書かれた「10」の文字を見つめていた。
その日の終わりのミーティングでは負け試合だというのに妙に興奮した空気が漂っていた。
解散後。いつもどおり瑛が親の迎えで帰るのを見たが、今日は乗って行けと誘われなかった。それどころかほとんど何も話さないままだった。
(わかるよ)
興奮と、じわじわ沸き上がってきた悔しさともどかしさが言葉を食い散らかしてしまう。何か叫びたいのに上手くまとまらず口をつぐんだ。逢沢傑はかっこ良かった。
(あんな風になれたら)
(参考書も問題集も全部捨ててサッカーボールだけ残せたら)
その夜は次の日の予習も何も手につかず、何度か携帯の電話帳から呼び出した瑛の名前を見て、何もしないまま遅くに眠りについた。
<改ページ>
足元にボールを止めると遠くの車の音が聞こえてきた。一息ごとに汗が引いて剥き出しの肌が冷える。それでも風は泥と草が混じったような、春の匂がした。
中学校はとっくに春休みを迎えていた。宿題もあってないようなもので、朝から晩までボールを蹴っている。一年前とは違う、去年よりもずっとサッカー漬けの生活だった。
それでもまだ焦っていた。こうしている間もU-15日本代表は合宿や様々なチームとの試合を重ねている。代表は、逢沢傑は進み続けている。
額で冷えた汗を拭って時計を見るととっくに十時を回っていた。もう少し練習するのと迷ってから瑛は自宅へと戻った。やり過ぎないことも自己管理の内だ。体を冷やして体調を崩したら元も子もない。
半年前に根を詰めて練習していたら享に一日のタイムテーブルを問いただされた。起床時間から練習時間と睡眠時間。ついでに学校の成績まで確認されて「焦るな」と言われた。
『早起きして練習しても授業中寝てるんだろ。うちほど厳しくなくても成績が目も当てられないくらい落ち込んだら困る』
セレクション応募条件に申し訳程度に書かれている「文武両道」を唱えて無茶な練習スケジュールを訂正させた。出会った頃には享が身を削って文武両道を成立させようとしているのを瑛が諌めたのに、いつの間にか逆転している。それを言うと「余計に無理して自滅できないだろ?」と控えめな照れ笑いを見せた。
焦っているのは享も一緒だった。直接気持ちを尋ねることはないが、一緒に練習していれば嫌でもわかる。自分にも他人にも厳しくなった。練習中の細かい指摘が増えた。今まで黙っていたことを全て口に出すようにしたのだと言っていた。
『悪いところは何でも言い合ったほうがいいといっても受け入れる姿勢がなかったら逆効果なんだ。訊かれたら教えるつもりだったけど、現に訊いてこなかっただろ?』
親しくなってから猫は剥ぎ尽くしたつもりでいたのに、まだ一匹かぶっていたのかと思うと悔しかった。
詳しく話すようになって享が自分よりずっと長い目でモノを見ていることに気づいた。どうも医者である父親の蔵書にも手を出しているらしい。関係が上手くいっていないらしい父親から直接アドバイスを受けているわけではないのは予想できた。享こそまた休息時間まですり減らしているのではないかと疑いたくなる。
それでも享が倒れることは二度となかった。自律が服を着て歩いているような男だ。努力家で、同じ失敗は二度とやらない。頼れるパートナーだった。
それもあと一年っきり。
ジュニアユースチームを離れると同時に終わる。もし享がユースに進んでも、瑛は高校の部活でやると心に決めていた。
いつもダメと言われているのも無視してボールを蹴りながらマンションの五階にある自宅玄関を開けると母が待ち構えていて思わず踏み込むのを躊躇った。一言断って出かけたし怒られるほど遅くに帰ったつもりはない。
「アンタ携帯持って出なかったでしょ?」
おかえりもそっちのけ。しかし怒ってはいない様子なので靴を脱ぎ散らかしながら応じる。
「忘れた」
「じゃあ今すぐ携帯確認して欲しいの」
「何でだよ」
「さっき飛鳥くんのママから電話があってね、飛鳥くんが瑛のところに来てないかって訊かれたの。今まで飛鳥くんと一緒に遊んでたわけじゃないんだよね?」
「なんだよ、アイツがいなくなったって?」
「ハッキリとは言ってなかったけど、多分そう」
家出か。らしくない。享は親に黙って家を出るようなタイプじゃない。でも、動機はあった。
バタバタと自室に駆けこんでベッドに投げてあった上着のポケットを探る。生憎と着信履歴もメールの新着もない。数日前の履歴から享の番号を呼び出して発信する。しばらく呼び出し音を繰り返してダメかと思った頃に享は出た。
「オイ、お前今どこだ」
「…………」
「聞いてんのか。今どこいるんだよ。一人か?」
やや間があってから小さな声がした。
「…………うちから連絡がいったんだろ。ごめん」
「人の話聞けっつってんだろ」
「大丈夫。帰るよ。自分で母さんに連絡もしておくから」
「うるせぇ、ンなこと訊いてねえだろ。鬱陶しいからはいかいいえで答えろ」
「……」
「今、外だな」
「………はい」
後ろで微かに電車の音と車のクラクションが聞こえた。妙に素直に「はい」と言うのが子どもっぽくておかしかった。
「一人だな」
「はい」
「今どこだ」
「……いいえ」
「ふざけてんのか!」
「お前がはいかいいえで答えろって言ったんだろ」
「じゃあ地名で答えろ」
「嫌だよ。ちゃんと頭が冷えたら自分で帰るから放っておいてくれ」
「俺が親にチクると思ってんのかよ」
「そういうわけじゃない、けど……」
「いいか?はいかいいえか地名で答えろ。今から出かける。お前を見つけるまで帰んねー」
「タカ……」
心細そうな声。ポーカーフェイスで目の前にいられるよりずっと心が透けて見える。電話越しの方が享が近く感じる。
「居場所を教えろ」
「………………………………はい」
財布と上着をひっつかんで飛び出した。
「飛鳥くん探しに行くの?」
「まあな。あ、アイツ自分で家に連絡入れるってさ」
「うちに連れてきてもいいからね」
「ン」
それから財布に五千円札を一枚入れてくれた。
「アンタも飛鳥くんも危ないことしないでちゃんと帰ってくるって信じてコレ渡すんだからね?暖かいものでも買って食べな」
何かあったらサッカーが出来なくなる。それを子供たちは言われなくても分かっている。それを認めて信じてくれる。
母親のこういうところが好きだ。念押しに素直に頷いて家を出た。
電車で一駅、そこから歩いて十分ほどの場所に享はいた。
公園にいると言っていたのに近くのコンビニにいた。寒かったのかと思ったら、補導員とも思えない中年男に声をかけられて逃げてきたらしい。その意味を察すると迎えに来て良かったと思う。どんどん体つきが大人の男に近づいていく瑛に比べ享は筋肉の付きにくい体質なのか首もまだ細くてなまっちろかった。
「そんなんでビビってんなら最初から一人で家出なんてしてねーで友達んちにでも転がり込めよ」
「そんな風に迷惑かけられる友達なんていない」
「なんだそれ」
「俺が家出してきたなんて言ったらみんなビックリするだろ。するわけないって思ってる」
「そりゃ驚いたけどよ。どうせサッカーのことで親とケンカしたんだろ」
「……そう分かるのはタカだけだよ。他には誰にも話したことないから」
「…………」
チームの中で事情を知っているのは自分だけだろうとは思っていたが。
「じゃあ俺に連絡すりゃいいだろうが」
「連絡してどうするんだよ」
「こうして来てやる」
「要らない」
「変なオッサンにナンパされたくせに」
「ハッキリ言うな!」
嫌そうに自分の腕を抱えた。手の甲に深く筋が浮き出るほどきつくパーカーの布地を握り込む。声をかけられたと言うが、実際はもっと怖い目にあったのかもしれない。やっぱりもっと急いでくればよかった。
「俺がいたら変なヤツは声かけてこねえよ」
「同い年のくせに保護者ぶるなよ」
「背伸びてから大学生にも間違われるし腕力だってお前よりはあるっつの」
ここ半年ほどで身長がぐっと伸びた。享と出会った頃はあまりなかった身長差も十センチ近くまで開いている。実際の数字以上に大きく見られるのは元からがっしりしていた骨格に筋肉が乗ったせいだろう。
対する享は平均的身長ながら線が細くて手の指も細長い。日焼けしていた夏間はまだ逞しくも見えたが、元来の白い肌にもどった冬はひ弱に見えた。
言葉を途切れさせた享は右腕の袖をまくり上げ、瑛の服に包まれた左腕に並べた。瑛も同じように袖をまくる。白い腕とやや色の色素の濃い腕をじっくり見比べて、それから手のひらを合わせてみた。
そこまで比べた享はがっかりしたような顔で静かに息を吐く。
「俺だって筋トレしてるのに何でこんなに違うんだろう」
手の大きさはそう違わないが指は瑛のほうが太い。そのまま合わせた手指を組んで力いっぱい握り込む。享も負けじと力いっぱい握ったけれど先に根を上げた。握力勝負も瑛の勝ちだ。
「気にするほどかよ。長期的に考えてトレーニングしろって言ってたのお前だろ。それぞれ成長する時期がナントカって」
右手をさすりながら顔を上げて苦笑した。それもみるみるうちに曇っていく。
「…………父さんにさ、アスリート向きの体じゃないって言われたんだ」
「なに?」
「うちの父がプロのチームドクターやってたのは知ってるだろ。いろんな選手の体を見てきているから俺には向かないのが分かるんだってさ」
「だからどうしたっていうんだよ」
「今日、……飛び出してくる前に、父さんに本気でプロを目指したいって言ったんだ」
「…………」
「うちの学校はエスカレーター式だから高校受験はないけど、もう中三だろ。高校になったらいよいよ医大を目指して真剣に勉強しなくちゃならなくなる。予備校にも通えって言われるかもしれない」
「……医者になりたいのかよ」
「サッカーのプロにないたいって言ったろ。今だって勉強の時間全てサッカーに費やしたいって思ってる。だからそう言ったんだ」
でも理解されなかった。
淡々と話しているが享が父親を尊敬しているのも、今までずっと父親に従ってきたのも知っている。ぶつかり合ったのはセレクションを受けたあの頃以来かもしれない。この一年で随分親しくなったつもりだが、親と喧嘩をしたという話は聞いたことがなかった。
「それで怒って出てきたのか」
「……出来る限りの説得をしても聞いてくれなかった」
「クラブもやめんのか」
「やめない!……そこまでは言われてない」
崩れ落ちるように両手のひらに顔をうずめた。
「やっぱり馬鹿なことした。飛び出したりなんかしたら立場が悪くなるばっかりなのに……」
ここで素直に反省するのが享らしい。汚い公園のベンチの上に丸くなる勢いで後悔しているのがおかしくて思わず鼻息で笑ったら真っ赤な顔で睨まれた。
余計に面白かったが顔に出すのは我慢して腕をつかみ上げる。
「とりあえずうち行くぞ」
「え?」
「家に帰るんなら止めねえけど。うちのお袋がうちに連れてこいってさ」
「悪いよ」
「うっせェな。そんなんだから友達いねーんだよ」
面倒くさくなって享を置いて歩き出した。途中で何か食べ物を買って帰ろう。家にも何かあるだろうが折角小遣いがあるんだから使わない手はない。手付かずで持ち帰って徴収されても癪だ。
駅前の牛丼屋の前まできて振り返る。ちゃんと享はついてきていた。
「うちに帰って何食う?テイクアウトできるやつな」
「あんまりお金は持ってきてないからいい」
「じゃあ特盛り牛丼だな。二つ買って俺が食うからお前は余った分処分する係だ」
「…………並でいい」
券売機で特盛りと大盛りの券を一枚ずつ買った。
それからコンビニで紙パックのお茶二パックとプリンを三つ。一つは母の分だ。
まだ小遣いが残っていたので切符も享が財布を探っれいる間に瑛が二人分まとめて買った。
家の鍵はかかっていなかったのでそっと開けて入ると母がリビングで録画予約していたセリエAの試合を見ていた。
「飛鳥くんいらっしゃい」
笑顔で迎えられて面食らいながらも享は深く頭を下げた。
「おうちには連絡した?」
「いえ、まだ、これからです」
「そう。じゃあ今電話かけるから、途中でかわってね」
「はい、すみません。よろしくお願いします」
家出しても丁寧な享に苦い顔一つせずに軽快に電話番号をプッシュする。三年前に瑛が家出した時とはエライ違いだ。瑛のときはゲンコツが飛んできた。うちの子とかよその子とかいう差じゃなくてひとえに普段の素行の問題に違いなかった。
「どうも、お世話になっております。鷹匠です。……ええ、うちの瑛と享くんが一緒に帰ってきまして……はい。あ、いえ、瑛がムリヤリ連れてきたんですよ。…………そう、それで今日のところはうちに泊まっていってもらおうと思って……迷惑だなんてとんでもない!享くん本当に行儀が良くって、うちの子と同い年なんて信じられないくらいで」
いつの間にか悪口が混じりだしたのでスリッパを履いた母の足を軽く蹴ったら仕返しにつま先を踏まれた。サッカー少年の足に何をしやがる。
「そういうわけですからご心配なく。明日には帰しますから。……はい、享くんに替わりますね」
享に受話器を渡すと、母はそのまま台所で夕飯の残りの野菜スープを温め始めた。ダイニングテーブルの上に買ってきた牛丼とプリンを並べたら何も言わないうちに母が一つ確保して銀色のスプーンを乗せた。
「お電話ありがとうございました」
「どういたしまして。お風呂も沸いてるからね」
「すいません」
「先にこれ食べてちょうだい」
湯気を揺らしながらスープマグに盛りつけた野菜スープをテイクアウト用器で冷めた牛丼に並べる。二人が食べている間にふたり分のバスタオルと着替えが用意された。享の分は瑛の替えのスウェットだった。パンツも新品をだしてこようかと言われたけれど断った。
それぞれスープ一滴、米一粒残さず食べて手を合わせる。時間も遅かったので腹を休める間もなく風呂をすすめられて、享が譲らなかったので瑛が先に入った。
瑛と入れ違いに享が脱衣所に入る。そこでラベルのないシャンプーボトルの並びと脱衣かごの場所を教えた。普段から大人しい享が輪をかけて静かで視線が落ち着かない。借りてきた猫状態だ。いつもは伸びている背筋もやや猫背気味になっている。
面白がって眺めていたら、
「もう出てってくれ。脱ぎづらい」
目の前で着替えたことも何度もあるのに何を今更気にするのか。でも、嫌がるのを見ている理由もないのでリビングに引き上げた。
享の風呂はカラスの行水で十分もしないうちに出てきた。湯船に浸からなかったのかもしれない。首に張り付いた真っ黒な濡髪はカラスを思わせた。
「ドライヤーこれね。使ってね。それから享くん、悪いんだけどお客さん用の布団が寝室の押入れにあってね、その部屋でパパが寝ちゃってて出せないの」
「大丈夫です。僕はソファでもどこでも……」
「ううん。瑛の部屋に毛布と枕が運んであるから」
「ンなの適当にやるからもういいって」
「適当って、図太いアンタと一緒にしないの」
「あの、本当に僕はどこでも大丈夫なので……」
「えー、でも…」
「もう俺達でナントカすっから寝ろって!」
「ンもう、風邪ひかないようにしてね」
寝室に母を押し込んでからちょうど放送していたスポーツニュースを見て、サッカーの話題が終わったところで部屋に移動した。
部屋には毛布と枕が運び込まれていた代わりに脱ぎ散らかしてあった服が消えていた。上着はハンガーにかけられている。やましいことは何もないつもりだけれど勝手に部屋のものを触られるのは面白くない。舌打ちして八つ当たり半分にベッドの上の上掛けを蹴散らした。
「せめぇけどベッドでいいだろ」
枕を二つ並べて毛布を半分だけ引き入れる。窮屈でも毛布を一枚ずつ使えば布団を全て奪いとってしまうことはないだろう。
「いいよ、床で寝る」
「寝相悪けりゃ自動的にそうなるからベッド入っとけ」
先に布団に滑りこんで半分布団をめくってやると遠慮がちに入ってきた。誰かと雑魚寝した経験は何度もあるけど、これは何か違う気がした。お坊ちゃんだからか友達と距離を置いているせいか、こういう雑な扱いに享が馴れていないせいだ。
客用の枕に頬を摺りつけてふんわり笑った。
「よその家の匂いだ」
「押入れの匂いだろ」
「確かに布団とは違う匂いがする」
「あんまり嗅ぐなよ」
上掛けは昨晩も被って寝たものだからお日様の匂いなんかとっくに消えていて臭いばかりだと思う。自分の体臭は自分ではよく分からないけれど。からかうわけでもなく穏やかに嬉しそうにされても居心地が悪い。
「合宿とか修学旅行とか、他人と一緒に寝ることはあるけどこういうのは初めてだ」
「友達いねえもんな」
「家に遊びにいくぐらいはしてたよ。泊まったりしないだけだ」
「じゃあ緊張して今日眠れねえんじゃねえの」
からかったつもりが返事がない。代わりにもぞもぞ動いて背中を向けられた。
「あんまり端に行くと落ちるぞ」
「……人が同じ布団の中にいると落ち着かないから」
「そうやって気にして避けてっからダメなんだよ」
薄っぺらい腹に腕を回して引き寄せた。
「うわっ」
暴れた足がぶつかり合う。風呂上りなのに少し冷たかった。
わざと足を蹴ると背を向けたまま蹴り返される。また蹴ると今度は二度蹴られた。ムキになって布団の中で蹴りつけあう。
仕掛けたのは自分なのに柄になくやり返す享がガキ臭いと思った。大人や仲間の前では澄ましているくせに外泊ぐらいで緊張して眠れなくなって。くだらない小競り合いにだって乗っかる。
そんな享を無性に構い倒したくなってそっと襟足にて伸ばした。指が髪に触れる瞬間。享が体をぐっと丸めてくしゃみをした。反射的に手を引っ込める。何故だか急に悪いことをしようとしていたような変な緊張が襲ってきて手を体の後ろに隠した。
「ちゃんと布団被ってろよ」
「大丈夫だよ。十分暖かくしてる」
端に寄るのをやめても暴れればすぐに上掛けから手足がはみ出る。こたつの上掛けも持ってくれば良かったかもしれない。
動きまわるのをやめて口を閉じると途端に居た堪れない気持ちになった。
「あ―――……」
「何だよ」
沈黙が耐えられなくて無意味に声を出しただけなのだけれど、それを素直に言うのもきまりが悪くて無理に話題を探した。
「なあ」
「うん」
「……高校行ったら――――や、違う。高校行っても、なんとかしてサッカー続けろよ」
「当たり前だろ。何て言われても、新しくどんな条件を出されても辞めたりしない」
「そっか」
「なあ、タカ」
「ン」
「ありがとう」
「改まって言われるとムズムズするから要らねーよ」
「茶化すなよ。今日のことだけじゃなくて……」
「いいからさっさと寝ろ」
また足を蹴ってやったけど、今度はやり返されなかった。代わりに毛布に口を埋めながらクスクス笑って「おやすみ」を言った。
「おやすみ」
慎重に背を向ける。足が触れないように。眠れそうもないのに目を閉じた。
その年の夏前に瑛はU-15日本代表に召集された。逢沢傑のいるチームに。