賢い鳥2/鷹飛/28657

 最後の授業が終わって教師が退室すると、すぐに荷物をかばんに滑りこませた。
 右も左もそのまま自習をするため座ったままだ。部活のある生徒ものんびり片付けをしている。その中から一番に教室を出た。珍しいものを見る様子で見送る友人に軽く手を振った。
 今日は練習日だった。日が落ちる頃に始まる。まだ肌を焼くような日差しの下を享は駆け足で帰宅した。
 ひと通りの支度をしてダイニングに寄ると、皿に食事が用意されている代わりにおにぎりの包みがあった。朝のうちに母親に早めの夕飯を断っていたのだ。いつもは練習に出る前にそれを食べていく。今日は要らないと言ったから、おにぎりと外食できる分だけの小遣いが置いてあった。どちらもありがたくエナメルのスポーツバッグにしまい込む。
 玄関まで見送りに来た愛犬に「いってきます」を言って頭を撫でて玄関扉に鍵をかけた。
 いつもより早い時間の電車に乗ると、帰宅する学生の群れにぶち当たった。扉側を選んで立って、目的の駅のホームに到着すると人波に押されるようにして降車した。
 練習場とは反対側の改札を抜けて、努めて落ち着いた足取りで約束のコーヒーショップ前へ向かう。
 待ち合わせの相手は一週間ぶりに顔を合わせる瑛だ。
 先に見つけて盗み見た横顔は何も変わらない。それをつまらないと思う。その反面で安堵した。
 中学三年の夏。瑛は初めての日本代表合宿に招集された。一週間の日程で場所は同じ神奈川県内だった。一週間といっても、瑛とは学校が違う。会うのは週四日の練習日の、ほんの数時間だ。だけど、物理的な距離や時間以上に遠い場所のように思われた。
 日の丸を背負って日本のサッカー少年の代表として世界へ出る。まだ代表に選ばれた経験のない享にも、その夢がどれほど遠いか分かっていた。一度だけ、遠い夢に触れたことがある。昨年の秋に同世代の日本代表の中核を担う日本サッカー界の至宝と十分間だけゴールを奪い合った。
 相手は一学年下の同じ中学生だ。彼が到着するまでは点数的にも、展開的にも優勢だった。それをひっくり返された十分間のことは今も鮮明に思い出せる。
 最初は一人に引っ掻き回されているんだと思った。圧倒的な個人技で突破されてあっという間に一点決められて、浮き足立った仲間に声を上げて落ち着かせたのも束の間。
 たった一人がチームを変える。ボールを持っている瞬間にも、持っていない時でも、彼の首の一振りや少しのフェイントでそれまで疲れた顔をしていたチームメイトが動く。まるでそういう風に躾られているみたいだ。でも違う。まだ中学に上がって数ヶ月。しかも日本代表としてチームを抜けることも多い彼との連携が完成されていたわけではない。
 チーム全体が活性化して、その中で彼が最善の動きをしただけだ。
 練習を重ね、ベストメンバーで挑み、一時は自信も手応えも感じたチームが未完成のチームに負けた。
 腹の底から溢れてせり上がってくるいろんな色の感情にめちゃくちゃになった。自分もあそこへ行きたい。同じレベルに。それよりももっと上へいきたい。それまでは図鑑の中の真っ青な海みたいにキラキラしていて、そこに我が身を置くことを上手く想像できなかった世界を強く意識した。
 夢の舞台を求めたのは享だけではなかった。意識が変わったのは瑛も一緒だ。そして、一足先にそこへたどり着いた。
 合宿所から自宅へ戻った昨夜。瑛の方から電話があった。練習の前に会って話がしたいと言われて二つ返事で了承した。
 元々二人ともお喋りというわけじゃない。お互いの沈黙も苦にならないので喋るためだけに時間を取るのは珍しい。それもわざわざ電話をして約束を取り付けるほどだ。
 それだけのことで瑛が変わってしまったような気がした。不安と興味がないまぜになって緊張した。
 声をかける前に振り返った瑛がいつものように手をポケットに突っ込んだままぶっきらぼうな挨拶をする。
「よう」
「待たせた」
「たいして待ってねえよ。それより飯食おうぜ」
 小遣いのない中学生が選べる店なんかそう多くない。すぐ近くのファミレスチェーン店に入って腹ごしらえをした。積もる話はあるが、それよりも腹を満たすのが先だ。食べ盛りの男子なのだから仕方ない。
 注文してから料理が運ばれてくるまでの間にも会話を試みたものの、すぐに「腹減った」で打ち切られた。
 全ての皿を平らげてドリンクバーからとってきたカルピスを一口飲んで落ち着いたところで話を始めた。
 勿論、合宿の話だ。監督やコーチの話。全国から集められた少年たちの話や練習内容。語ることはいくらでもある。柄にもなく饒舌になるのも無理もない。
「すげー奴はいっぱいいたけど、やっぱ一番はアイツだ」
 ひとしきり話してから勿体つけたようにその名前が挙がる。
「逢沢傑」
 どんなにすごかったのか。語る顔が違う。
 全国屈指の選手が集まる中でも逢沢傑は特別だ。引力すら感じさせる足元の技術と広い視野とアイディアで魔法みたいに生み出されるパスが目立つが、それだけではない。厳しいトレーニングの後にも余裕を伺わせるスタミナ。年齢差を気にせず意見を交わせる度胸。試合で苦戦を強いられても苦い顔ひとつしない精神力。
 入れ替わりの激しい代表メンバーの座を与えられ続ける所以。
「練習試合でもアイツがボールを持った途端三人もマークがついた。他にも上手いやつがゴロゴロ走ってるってのによ。絶対パス出させてやるって思ってペナルティエリアに走り込んだら、マークのせめぇ隙間を貫くみたいにズパッとパス出してきやがった。ちょうどDFと俺の間で、絶対俺が先に拾うって確信してやりやがった」
 熱心に語る瑛の手元でカルピスが薄まっていく。
 一方、享のグラスはとっくに氷ばかりになっていた。時折ストローでかきまぜるけれど、手元は見ない。
 時計は意識して見ないようにした。話が面白くないわけではない。もし瑛から誘われなくても折を見て聞き出しただろう。でも、一度時間を気にし始めたら繰り返し確認してしまうだろう。まるで話を打ち切りたいみたいに。
 今ここで話を打ち切って、グラウンドへ急いで、寸暇を惜しんで練習したら次こそ声がかかるだろうか。焦燥が慰められるだろうか。少しだけ想像してみたが、そういうことではない気がした。
「そんで傑がさ、」
 あ。傑って言った。
 いつの間にか相槌を打つばかりになっていた享が目を上げる。親しげな様子が鼻についた。
 練習の様子や試合での活躍ぶりを聞かされているうちは良かった。合宿所での様子や逢沢傑が見かけによらず甘党だとか、弟がいるのだとか。つまらないことまではしゃいでしゃべるのが瑛らしくない。
 選手としての逢沢傑だけでなく、一人の少年としての逢沢傑の話なんか。
「やっべ、そろそろ時間だから行くぞ」
 ファミレスを出ると瑛は自分の話をやめた。一週間どころか一ヶ月分は喋っていたからもう充分といえばそうだった。
「留守中そっちはどうだったんだ?日曜には練習試合あったんだろ?」
 チームのことなんかすっかり忘れていたのではないかと疑っていたのに軽い調子で尋ねてくる。
 色々あった。練習試合は何度か苦しい場面があって、誰にもこぼすつもりはないが、瑛がいればと思ったシーンもある。攻撃を瑛に頼りすぎていたことを痛感したので対策も考えた。瑛の意見も聞いてみたかった。
 斜め上を眺めて思い出すような間の後、享は首を振った。
「特に何もないよ。試合も勝った」
「なんだ。もっと俺のありがたみを感じてる頃かと思ってたのにつまんねーな」
 グラウンドの前でチームメイトと合流した。みんな開口一番に日本代表合宿の話を聞きたがった。でも、ファミレスでしゃべりつくして満足したのか、瑛はもう饒舌ではなくなっていた。

 中等部から高等部への進学など進級のようなものだ。
 広いとはいえ同じ敷地の中に建つ校舎同士。そこに通うメンバーも入れ替わりはほとんどない。
 学生寮だってそうだ。それなりに社交的に過ごしていれば一人二人は顔見知りの先輩や同輩がいて、食堂の使い方から共同洗濯機の使い方まで面倒みてくれる。
 高等部進学と同時に入寮した享も不安はなかった。一人部屋に入ることが出来たし同じ新入生でサッカー部の真屋信之助は小ざっぱりしていて付き合いやすい性格の男だった。
 寮生には運動部員が多い。自宅通学できない距離ではなくても朝練参加のために寮を選ぶ生徒も少なくない。
「飛鳥もそのクチ?」
 そのクチ。つまり、部活のために入寮した真屋が朝食の焼き鮭を齧りながら享を振り返った。寮の食堂には逞しい運動部員がひしめき合って競うように白米の茶碗を空けていく。
「まあ、そんなところ、かな」
「ふーん。横浜だっけ?」
「うん。中等部の頃は部活はやってなかったんだ」
「横浜のジュニアいたんだろ?直接やったことねえけど試合見たことあるよ。飛鳥とさ、アイツ、FWの…タカ……」
「鷹匠?」
「そうそう、鷹匠が目立って上手かったんだよな」
「タカは…すごい奴だよ。チームメイトから見ても」
 視線が手元の味噌汁に落ちる。無意識に油揚げとワカメの浮かんだそれを箸でかき混ぜた。まだ数週間の付き合いでも享には似合わないと思う仕草に真屋は頭を掻いた。
「いや、飛鳥もすげーよ。俺の見た試合じゃ完全に攻撃封じてたし」
「別にタカが褒められて拗ねたりしてないよ」
「お世辞じゃねえって。監督からも昨日一人で呼ばれてたじゃん」
「ああ、あれは……」
 言いづらいことを何と説明しようか考えあぐねいて言葉を詰まらせた時だった。
「よお。飛鳥」
 寮生のサッカー部の二年生だった。その中でもGKとDFが三人。それから少し後ろにFWの先輩がいた。顔は作ったように友好的だが、朝っぱらから集団で一人の新入生を取り囲む状況が不穏だ。
 向かいの席に座りながらも完全に蚊帳の外にされている真屋が変な顔をした。
「それさっさと食って、登校前に俺の部屋に来いよ」
「どうしたんスか?」
 口を挟んでようやく真屋が視界に入ったようだが、
「ちょっとな」
 一言でまた閉めだされた。
 真後ろに立たれた享はやりづらそうに体をひねっている。一度申し訳なさそうに真屋を見て、頷いた。
 要件は分かっているのだ。真屋はますます顔をしかめた。
「わかりました。なるべく急いで伺います」
「時間かかるかもしんねーから早くな」
 二年生が食堂を出ていってから真屋が身を乗り出した。
「おい、大丈夫かよ」
「問題になるようなことはされないだろ」
 大丈夫。そう言ったのに、真屋はついてきた。二人で部屋に現れると、案の定、いい顔はされなかった。それでも享が追い返そうとしても真屋が譲らなかった。
 話というのは察しがついている。
「監督から飛鳥中心にした守備体制を作るって言われた。お前、知ってるよな?」
 一年生の真正面で椅子に座るのは部屋の主だ。残りの二年生はベッドや床に座り込んでいる。座れとは言われなかったから二人は扉を背に立ちっ放していた。
「キーパーのレギュラーも検討し直すそうだ」
 ベッドで床を睨みつけていたGKが顔を上げる。選手権大会で昨年の三年生GKが引退後にレギュラーを勝ちとった人だ。春休みから練習に合流しているので一年生も多少は人柄をわかっていた。
 恵まれた体格と瞬発力と勘の良さ。キーパーをやるに必要な資質を備えていて、それを自負している。冬の大会を見た限りでは引退、卒業した三年生GKよりも上手いかもしれない。新三年生の第二GKはよく言えば地道で真面目。悪く言えばパッとしない。それと比べると練習中の声の大きさからしても頼もしく目を引く選手だった。
「お前、監督に何か言ったのか?」
 飛鳥享は相手が年上だろうと、急に無理を言われようとも慌てたりしない。
 入寮した翌日にたまたま一緒に買出しに行くことになって、その途中で外国人に道を聞かれて困っている女性と出会った。
 英語で話しかけられているのだが訛りがきつくて女性と三人で当たっても上手くコミュニケーションが取れなかった。そこで享は買ってきたばかりのノートとペンを引っ張り出して地図を書いた。目印となる建物に添えるメモは当然英語だ。それを渡して短くやりとりがあり、外国人が明るい顔でお礼を言って別れるまで。最初に手こずったのが嘘みたいにスムーズだった。
 また、あるとき、職員室の外にまで怒声が響きわたる中に乗り込んでいったこともある。
 体育教師が似合いそうな数学教師が外部受験で高等部に入った一年生を叱り飛ばしていた。呼び出しに遅れたのが理由らしいが、その日は最後の古典の授業が長引いた上、中等部の頃から行き来のある内部進学生ならともかく、外部受験生はまだ校舎にも馴れていない頃だった。
 別件で職員室を訪れた享は一度退室して国語科準備室まで行って理由をつけて初老の古典教師を引っ張って戻ってきた。その上で丁寧に数学教師に頭を下げて口を挟み、職員室内の自分の席に一旦腰を落ち着けた初老の教師を紹介した。彼が「今日最後の授業だと思って引き伸ばしてしまってね、ご迷惑をおかけしましたね」と言えば彼より若く体育会系ノリの数学教師は黙るしかなくなる。
 後日、助けられた外部受験生が吹聴しているのを聞いて感心したものだ。関わり合いになりたくなくて見捨てる奴の方が多いだろう。割って入っても一緒になって怒られるのが関の山だ。
 入学から少しの間にそんなエピソードを耳にした真屋は、享には怖いものなどないように思っていた。
 渋面で居並ぶ先輩を前に、享は戸惑うような悲しむような顔をした。少し考えて短く返す。
「今のチームはどう思うか。理想はあるかと、訊かれました」
「で?」
「…………もっと守備が攻撃の起点となるべきだと」
「今はできてないってか」
「そういうつもりではなく……」
 なるべく穏便に済ませようという焦りが横にいても伝わってくる。いつもの冷静な顔で受け答えしても年上のプライドを傷つけたかもしれないが、叱られる子供みたいな歯切れの悪さも正解ではない。
 それまでじっと様子を見つめていたGKの少年が空気の淀んだ部屋に響き渡る声で口を開いた。声量のある人だが、それでなくても通る声をしている。
「俺は確かに足元が弱い。前線に送るロングパスも雑だ。そういうことだろ?」
「個人名を挙げて意見は言っていません」
「遠まわしにハズさせたってことに違いねえだろ」
「監督に訊かれたことに答えただけで決断されるのは監督です」
「なんだと?」
 GKと一緒にベッドに座っていた一人が立ち上がりかけるのをGKが制した。一瞬ひやりとしたが、紛いなりにも名門校だ。問題になるようなことはお互い避けたい。
 享の顔を盗み見た。上手いこと言って切り抜けられそうな余裕は感じられない。仕方ない。
「あのぉ、まだ“検討”って話なんスよね?」
「だったらなんだよ」
「今日のところは保留して決定してからまたヤキ…いや、ミーティングしませんか」
「部外者は黙ってろよ」
「いや、一応同じサッカー部ッスから。それに、そろそろ登校準備しねえと。今日コイツ日直なんスよ」
 最後のは方便だ。名前の五十音順に回ってくるので、出席簿で一番目の飛鳥享はとっくに順番を終えて二周目はまだこない。
 まだ渋りそうな先輩に勢い良く頭を下げて、享の頭も下げさせて大声を出した。
「今日のところはすんませんっ!」
 相手が怯んでいる間に「失礼します!」と続けて叫んで部屋を飛び出した。何も決まっていない今、こんなところで決定権を持たない者同士がぐずぐずしゃべっているなんて不毛だ。
 部屋を出てしまえばこっちのもん。のんびり自室へ向かいながら享の脇腹をつついた。
「やっかみなんかマジにとるなよ。大人相手だってもうちょっと上手くあしらってんじゃねえか」
「真屋が思ってるほど器用じゃないさ」
「まあ、同じチームで二年間も一緒にやる目上が相手となると簡単じゃねえか」
 真屋は飛び抜けて監督から目をかけられているわけでもなく、余計な嫉妬や恨みを買う理由がない。それに、親しみやすくてこざっぱりした性格が受け入れられて上級生とも上手くいっているように見えた。そこにも見た目以上の苦労があるのかもしれない。
「しっかし、監督もメンドクセーことするよな。入部したばっかりで今後のチームづくりに意見なんか求めたら、そりゃ上級生からしたら面白くねえさ。なあ?」
 半歩遅れて歩く享を振り返った。リノリウムの床を辿るように俯かせていた顔をゆっくり上げる。
「でも、必ず強くするよ」
「はぁ?」
 何を言い出すんだ。怪訝な顔をした真屋を通り越した遠くを見据えて享は言った。大真面目な顔で。
「俺が、葉蔭をもっと強くする。そして決勝まで行ってみせる」
「決勝まで、ね。確かにここ数年はベスト4止まりも多いけど、こちとら名門の葉蔭だぜ?全国制覇って言えよな」
 わざとらしいウィンクをきめて背中を叩く少しだけ背の高い真屋を見上げる。そして、夢を見ていたようなぼんやり顔で瞬きして、おっとり笑った。
「そうだな。一緒に全国だ」
 こんな柔らかい笑顔をまともに見るのは初めてだった。享は愛想は悪くない。むしろ人間関係を円滑にするための愛想笑いは惜しまない。シャープな作りの顔はどちらかというときつい印象を与えるのを良くわかっていた。ヘラヘラするわけではないが、目が合えば優しげな顔を見せる。
 でも。
(普段のやつは営業用か)
 ごく自然に和らいだ目元や薄い唇が今まで目にしてきた笑顔とまるきり違う。少しは親しくなれたということだろうか。誰にでも向ける隙のない顔じゃなく、どこか幼い空気を含む笑顔だった。
 女の子だったら母性本能をくすぐられることだろう。生憎と真屋は客観的にそう思っただけだったけれど。
「お前さ、困ったときはそうやってた方がいいよ」
「困ったとき?」
「さっきみたいのだよ。あっちだってお前が凹んでるの見て喜ぶわけじゃねえし、逆にキツイこと言って怒らせるのも損だろ。だから、適当に上手いこと言ってニコッとやっとけ」
「簡単に言うけどそう上手くあしらえないよ」
「そうやって完璧にかわそうとするのが先輩方にはダメなんだって。甘え上手な可愛い後輩目指せってこと」
 そう言う真屋は失敗しても「しょうがねえな」で片付く方だ。即座に大声で謝って笑うだけでその件を流してもらえる。勿論、日頃の行いがあってこそだと思うのだが、享には自分よりもよっぽど器用に見えた。
 無意識に足が止まった享の一歩先で真屋も足をとめる。あまり深く考えて言ったわけではないのに立ち止まるほど真剣に考えてもらえるとは。
(真面目すぎるんだよな。こんないい加減な提案も腕組みで検討してくれるんだから)
「分かった。試してみる」
 新しい勉強法でも教わったみたいに真顔で頷くので思わず噴きだしてしまった。
「笑うなよ。……もしかして、冗談だったのか」
「いいや、本気本気。女は愛嬌、男も愛嬌ってな」
 何がそんなにツボに入ったのか、笑いが収まらないらしい。乱暴に叩かれる背中が痛い。
 真剣に相談に乗ってもらっていたつもりなのに笑われて心外とばかりに口を尖らせていた享も大笑いする真屋がおかしくって思わず破顔した。
「あ、飛鳥!真屋も。先輩に呼び出しくらったって聞いたよ。……なのに、なんで笑ってるわけ?」
 部屋の前まで来ると、心配してそこで待っていてくれたらしい同じ新入生の白鳥が怪訝な顔をした。
<改ページ>
 バスを降りると天に向かっておもいっきり身体を伸ばした。
「くーっ!やっとか」
「そんなに移動してないじゃないですか」
 続いてバスを降りた傑が呆れ顔で脇をすり抜ける。目の前は何度も訪れている合宿所だった。
「場所の問題じゃねえよ。やっとお前と一緒にやれるっつー話だろうが」
「先月に遠征あったばっかりッスよ」
「一ヵ月半も前のことじゃねえか」
「せっかく高校の部活に入ったんだし、そっちも楽しみましょうよ」
「うるセェ。俺の本番は来年からなんだよ」
 早足で傑に追いついてふくらはぎを蹴りつけた。たいして痛くもないはずだがオーバーリアクション気味に避けて「すぐ足が出んだから…」と独りごちる。
 瑛が鎌倉学館高等部に入学して二ヶ月が経った。逢沢傑は中等部の三年生で部活ではキャプテンを任されている。
 ユースからの誘いもあった瑛がわざわざ高等部から鎌倉学館を選んだのは傑と同じチームでプレイするためだ。傑が高校でも部活サッカーを希望していると知ってすぐに鎌学への入学を決意した。傑の方が一学年下なので一年間傑のいないチームで待つことになるが、瑛が高校に上がる前に代表に呼ばれるようになったので、一足先に目標が叶ったことになる。
 一度呼ばれても次また選ばれるかわからない入れ替わりの激しい代表選手の中で何年も傑はエースナンバーを背中に貼り付けている。お陰で中等部の部活も留守にすることが多い。それでも当たり前のようにキャプテンには傑が選ばれて、傑がいるから鎌学中等部を受験するというサッカー少年も一人や二人ではない。傑に憧れる少年と言うには横柄な瑛もその一人と言える。
 代表活動や様々な誘いで忙しく、サッカー部の試合にも顔すら出せないことが多い傑と出会えたのはラッキーだった。同じ代表として傑と親しくなった後に瑛はそう思った。
 中学二年の時の鎌学中等部との練習試合。そこに傑が間に合わなかったら。間に合っても残り時間僅かで出場を申し出なかったら。今頃は鎌学になどいなかっただろうし、代表に呼ばれるレベルにも達していなかったのではないか。
 人生を変えた出会いなんてドラマみたいな話がそうそう転がっているわけがないと思っていた。でも、傑との出会いを運命だったと信じている。
 ジュニアユース時代のあの試合。傑が登場するまで二点もリードしていたラスト十分。悔しがるのも忘れるほどの鮮やかさでひっくり返された。
 あれ以来、将来の目標やサッカーそのものに対する意識が変わった。
 小学校の卒業文集に書く夢の欄に「プロサッカー選手」と書いた。中学生になっても夢を訊かれれば一番にサッカー選手と答えただろう。でも、そういう子どものほとんどは十年後にサッカー選手にはなっていない。年をとるにつれて向き不向きや現実の厳しさ、周りの上手さに気後れして別の道を考え始める。もしくは、サッカーよりも追いかけたい夢をみつけて去っていく。
 中学から高校を卒業する頃まで。もしかしたら、小学校にもあるのかもしれないが。どこかに語るばかりの夢と実現するための夢をわかつ境目がある。瑛にとって決定的な境目が傑との出会いだった。
 望みどおり鎌学に入学してサッカー部にも入った。早くもレギュラー入りも確定している。昨年からの日本代表活動にも続けて呼ばれている。けれど、全てが上手くいっているわけではない。
「うちのトップ下の野郎、目が節穴なのか俺のこと嫌ってやがんのかわかんねーけどチャンスにボール回さねえんだよ」
 恐らく後者だとは分かっている。態度の大きい一年生レギュラーなど目の敵にしろと言っているようなものだ。
 その上、入部して間もない四月に十日近くも遠征。翌月の終わりにもこうして合宿で一週間留守にする。そりゃ面白く思わない部員もいるだろう。それがたまたま同じレギュラーの三年生でFWとしては仲良くしておくべきポジションの人間だった。
 向こうの大人気なさにも腹が立つが、うっかり愚痴って傑にまた呆れた顔をされるのにも腹が立つ。
「きっと、そのうちちゃんとしてくれますよ。中等部のことはともかく、高等部のことは熊谷監督がよく見てるから、ふざけたことやってらんないッスよ」
 高等部と掛け持ちの監督に放置され気味の中等部に居ながら、監督の期待をこれでもかというほど背負っている男が大人びた顔で言った。
「わかってるっつーの。いちいち真面目に返してんじゃねえよ」
 悔し紛れにヘッドロックをかけてやる。
「いてて。勘弁して下さいって」
 あまり意識することはないが、こんなときに思い出す。今、瑛が味わっている悔しさなんか傑はとっくに通過している。現在進行形なのかもしれないが、対処の仕方を身につけていた。憧れと妬みの的になることにかけてもキャリアが違う。選手以外の顔も年齢に似合わず大人びていることを知ったのは親しくなってからだ。大人びるどころかジジくさいとすら思う。実年齢の一年差が何の足しにもならないぐらいの溝があった。
(クソッ……口が滑った)
 こっそり舌打ちした。プライベートでも遠慮がなくなってから、いつか先輩らしいところを見せて傑に年上として尊敬されたいと思うようになった。ところが、現実には傑に感心することばかり。うっかり格好悪いところを見せてしまったときの悔しさときたら、ここぞという場面で空振りしてボールに触れさえしない酷いポカみたいだ。そんな失態はそうそうやらないけど。
(気合いれて来てんのにダッセェ)
 反省して口を閉じた。前後には同じバスで合宿所にやってきた少年がちらほら見える。顔を知らないので、今回が初招集だろうか。
 監督への挨拶と支度を済ませて荷物を置きに行く。その途中で見知った顔と出会った。
 以前から代表や神奈川ジュニアの試合で何度か顔をあわせている鬼丸春樹と、それから飛鳥享。
「飛鳥、お前も呼ばれてたのか」
「ああ。やっとだよ」
 初招集の享には緊張した様子がなくて可愛げがない。同じジュニアユースにいた昔からそうだ。チームに入ったばかりにも関わらず落ち着いていて器用に立ちまわる。子供らしくない享にむやみに腹を立てていた時もあった。
 享も傑と出会って変わった一人だ。でも、瑛と違って正面からぶつかる道を選んだ。
「お前も部活でやってるんだってな」
「だから、次に会うのは夏の予選だと思ってたよ」
 お互い以前のチームを離れてから数ヶ月だというのに懐かしそうに目を細めた。享はそんな風に言うけれど、こうしてすぐに再会することは何度も想像した。自分が先に招集されたのだって偶然でしかないと思う。同時期、もしくは享が先でもおかしくなかった。
「そっか。鬼丸も飛鳥さんと同じ葉蔭か」
 黙って二人を見比べていた傑がポンと手を打つ代わりに眉を上げた。
「そう。俺が中等部で飛鳥さんは高等部だけどな。そっちと一緒」
 鬼丸が補足した。
 初招集といっても享についての紹介は不要だった。同じ神奈川で試合経験もある。こうやってまともに挨拶するのは初めてだったけれど。
「中学の時の練習試合で少し顔を合わせて以来だな。これからよろしく」
「覚えてますよ。こちらこそよろしくお願いします」
 お互いはしゃいだ様子なく、だけどにこやかに握手を交わす。優等生同士らしい穏やかさが鼻につくな、と思っていたところに傑が余計なことを言った。
「鷹匠さんとも、飛鳥さんがいつ呼ばれるかってよく話してたんです」
「しょっちゅう話してたみたいな言い方すんな!」
「期待されてたなら光栄だな」
 額面通り受け取られても嫌だが、こうサラリと流されるのも癪だ。
 享たちに遅れて着替えを済ませて出ると、見知った少年が手を挙げる。
「タカー!傑も、おっせーぞ!」
 遠方からはるばるやってきた選手が早々に到着して輪をつくっている。その中には享と鬼丸も混じっていた。
「今回初めての奴多くないッスか?」
 まだ七割程度の人数だが、確かに享を含めて三人は新顔だった。新しい誰かがいるということは、今回から声がかからなくなった誰かがいるということだ。あと三ヶ月後、夏には海外遠征も控えている。
 知らず拳を固める瑛の横で傑が子どもっぽい仕草で唇を尖らせた。
「仕込み、足りるかな?」

 心地良い疲労感を提げた夕方。日の落ちる前の宿舎ロビーに少年たちの声がハモった。
 体育会系のノリは全国どこでも変わらない。日頃からの仲間でもなんでもないのに、代表して一人が声を出せば合唱が続く。笑いじわが柔らかな中年女性と丸顔の初老の男性がにこにこと人の良さそうな笑顔で迎えてくれた。
 二十五名の日本代表候補メンバーは、上は冬から春生まれの高校二年生から。下は中学三年生の傑が最年少だった。出身地を見ると北は北海道。南は鹿児島まで。その広さも毎度のこと。代表合宿や全国規模の大会で顔見知り同士を中心に年齢も出身地も関係なく喋りながら宿舎内を練り歩く。飛び交う方言や訛りがまとまりのなさを象徴するかのようで面白い。
 選手同士の交流を狙ってか、部屋割りもまとまりがない。出身地やポジションもてんでバラバラ。初参加の選手はそれぞれ経験者が二人の部屋に一人組み込まれている。瑛は経験者ばかりの部屋割りだったが、傑の部屋には茨城出身のMFがいた。
 享は静岡のFW永瀬と福島のDF勝田と三人部屋。それを確認したとき(運がねえな)と思った。
 まず、永瀬はうるさい。背が低くてよく走るのが落ち着きのない小動物のようだ。散歩の大好きでよく吠える小型犬とか、小猿とか。よく言えばムードメーカーだが、ひょうきんすぎて面倒な時がある。ジュニアユースのときも比較的落ち着いたメンバーに囲まれていた享は気疲れしそうな性格だ。
 もう一人の勝田は対称的に大きくて無口で気難しい。厳つい顔の作りのせいで不機嫌に見られやすいようだが、楽しそうなところをあまり見たことがないので、顔の作りばかりの問題でもないと思う。瑛も勝田も自分から積極的に喋ろうとするタイプではないので、親しくした覚えがなかった。
 協調性がない人間は生き残れないが、かといって全員が全員社交的で付き合い易いというものでもない。一週間も同じ部屋で寝泊まりするのだから当然やり易いメンバーがいい。自分だったら士気の下がりそうな部屋割りにこっそり同情した。

 夕食を待つ時間に携帯が鳴った。傑の名前だからとったのに、出てみたら永瀬だった。毛嫌いするつもりはないが第一声はやたらとドスが利いた。
「そーんな怖い声やめろよなー!子供だったら泣いちゃうぞ」
「うっせぇ。わざわざ何だってんだよ」
「今さあ、ミーティングしてんの。ミーティング」
「だから何の」
「初招集のお約束の…」
 言葉尻に被って野太い悲鳴が聞こえてきた。初招集の、恐らく傑の部屋のメンバーだろう。鬼丸の声もする。「ちょっとごめん」の後には怒声が二人分。
 それで大体の事情を把握した。
 この合宿には初招集恒例の行事がある。経験者たちが寄ってたかって悪戯を仕掛けるのだ。
 内容はいくつかのパターンがあって、大抵は男ばかりだから許されるような内容だ。このためにこっそり小道具を持参で来る呑気な奴もいる。瑛は着替えに用意していたボクサーブリーフがどピンクのブーメランパンツに置き換わっていた。タオルを腰巻したまま手当たり次第に笑っていた連中を締め上げたらあっさりと白状したが。
 永瀬に言わせると“親睦を深めるためのレクリエーションの一種”であり、これをやって初めて真の仲間と認められるのだとか。誇張も含め淀みなくまくし立てるのを聞いていると、サッカー選手よりもセールスマンの方が向いているのではないかと思う。
 大抵はターゲットと同室のメンバーが仕掛け人となって個々に片付けるが、今回は初参加の人数が多かった。そのためか協力してレクリエーション業務に励んでいるらしい。
 耳元で紙を丸めたようなガサガサ音の後に永瀬が戻ってきた。
「…それでさあ、今3人まとめてオヤジ風呂に放りこんできたんだけどー」
 オヤジ風呂というのは、何のかんのと言いくるめてコーチや監督の入浴時間に浴室に放り込む悪戯のひとつだ。うっかり頭から水を被せるところから始まり誰も入っていないと嘘をついて全裸で突入させるのはまだいい方で、女風呂と偽って覗きを唆して管理用の外扉からドボンなんてパターンもある。
「うちの部屋の飛鳥くん、まだなんだよね。タカ、仲いいんだろ?飛鳥くん。鬼丸に聞いたら飛鳥くんはエロトラップはひっかからないって言うじゃーん?うちの勝田は頼りになんねーしさあ。タカ、何かいいアイディア持ってねえ?」
 特徴のある間延びした喋り方だがポンポンモノを言うのでいっそ早口に聞こえる。喋り方と高めの声のお陰で集団で騒いでいても一発で分かるのが永瀬だ。
 いつでも取り澄ました享の顔を思い浮かべる。そういえば、あまり下品な話をしたことがない。他の友達とはするのだろうか。女の胸の話だとかセックスの話だとかを明け透けに語る享。違和感がある。育ちがいいというよりも真面目すぎる。人並みに汚い言葉もいやらしい言葉も言うのだろうか。いかにも清潔そうで体温の低そうな白い肌に乗った薄い唇で。
 少しだけ想像してやめた。何故だかあまり考えるべきじゃないことみたいに感じて。それは享に悪いと思ってのことではないのだけれど、腹の奥がざわざわして居心地が悪い。
「そういう悪だくみは俺より傑の方が得意だろうが」
「えー?」
 背後に向かって永瀬が傑に話を振る。そうしたら、遠くで傑の不満そうな声がした。誰より合宿参加経験豊富な男は悪戯のレパートリーも豊富だ。
「鷹匠さん、飛鳥さんの好きなものとか苦手なものとか知らないんスか?」
 自分の携帯を取り返した傑はあくまでも瑛を巻き込むつもりらしい。
 サッカーを続けること以外にあまり頑固な顔を見せない享の苦手なもの。好きなもの。
「猫」
「ネコ?」
「アイツ、猫見るとすぐ触りたがるぐらい好きなんだけど、猫には嫌われるんでいっつも逃げられてばっかりなんだよ」
「へぇ。すげえどうでもいい情報ッスね」
「お前が訊いたんだろうが!」
「だって猫なんて捕まんないじゃないッスか。風呂に押しこむダシにもならないし」
「だからお前らで勝手にやってろっつってんだよ」
「いいじゃないッスか。元から親しい鷹匠さんも一緒のほうが飛鳥さんもヒドイ目にあっても慰められるってもんでしょ。一緒にやりましょうよ」
 ヒドイ目と言い切った。耳障りいい言葉で丸め込むのが上手い永瀬とは正反対に傑は潔くて容赦がない。
「飛鳥さんって人当たりいい分ガード堅そうだし、しっかり歓迎会しとかないと」
「ガード、な」
 防護壁というよりも、誰とでも上手くやりすぎる違和感。広くて深そうに見える懐に潜り込もうとしても底が見えない。
 その理由を知っている。父親にサッカーを続けることを認めさせるためだ。
 享の父親は以前プロチームのチームドクターをやっていたという。その経験から息子がプロ選手に向かないと判断してプロとしてやっていけるわけがないと思っている。挫折が眼に見えている夢よりも堅実に医者の勉強をして跡を継いで欲しいのだろう。息子が求めているのとは別の期待をかけている。
 親の期待を無下にしてサッカーばかりやれるほどワガママではなく、親に従ってサッカーを諦めきれるわけではなく。勉強の方でもサッカー部としても名門の葉蔭学院で文武両道を体現している。もっとも、勉強を疎かにしないのはサッカーをやるのを認めてもらうためでしかないようだが。
 サッカーのために疎かにしないのは勉強だけではない。礼儀正しく人当たり良く、間違っても問題なんか起こさない。この上ない自慢の息子でいる。中学の頃からだ。昔は確かに優等生を演じていたと思ったが、今となっては癖づいてほとんど地なのではないかと思う。
 数カ月ぶりに会って初対面ばかりの中でも上手く立ちまわる姿を見たが、出会った頃よりも自然にそれをこなしているように見えた。それを「ガードが堅い」なんて感じる傑は鋭い。しかし、今更子供じみた悪戯で剥がれる仮面ではない。
「傑が心配するようなもんじゃねえよ。確かに外面野郎だけど、サッカーに感しちゃ頑固で物怖じしねえんだ」
「…………」
「それに、悪戯にひっかかっても何にも変わらねーだろうよ」
「そッスか。……つまんねえな」
 独り言みたいなトーンで呟くのがおかしかった。あけらかんとした顔も目に浮かぶ。
「だからどうしてもやりてえんなら、あんまり盛り上がるのを期待しないで適当にやっちまえよ」
「はーい」
 それから永瀬に戻される前に電話を切った。

 夕飯は全員で畳敷きの広間で食べる。席は指定されていないのでこれまた部屋割りとも違うメンバーで固まっていることが多い。
 瑛は大抵同学年の誰かか傑の隣を確保していた。傑の近くにいると自然と人が集まってくる。その輪に入るでもなくとりとめもない話を聞いているのが面白い。どちらかといえば口数は少ない方の瑛にはそれがちょうどよかった。
 食器が粗方空になった頃、グラス片手に永瀬がやってきて傑との間に割り込んだ。小声で話しかけてくるので仕方なく顔を寄せてやる。
「歓迎会の件、作戦Fっつーことで」
「俺を巻き込むなって言っただろうが」
「つれねえなあ。ホントはタカにオトリを頼むつもりだったのによう」
「はぁ?」
「予想外に勝田がいい仕事してくれて助かったわ」
 言われて勝田と享が並んで座る席を盗み見た。何やら二人で話し込んでいる。驚くことに、気難しいとばかり思っていた勝田がはにかんだ笑顔まで見せていた。
(外面にまんまと騙されてやがる)
 それが享の処世術であり、チームをひっぱる際の武器だというのもよく知ってるが、惜しみなく振舞われるあの笑顔が好きじゃなかった。ああいう風になりたいわけではないから妬ましいのとは違う。本当は見た目ほどの余裕があるわけでもないくせに器用ぶるのが気に入らない。
 背後を通りざまに背中を蹴られたようで「わるい」とか「大丈夫」とかいうやりとりで勝田から気が逸れると、すぐに肘をつつかれて勝田に引き戻された。よっぽど気に入られたようだ。
「よく手懐けてんなー。ムツゴウロウさんじゃん飛鳥くん」
 傑の頭をライオンのたてがみに見立てて両手で掻き回しながら「よぉしよしよしよし、いい子ですねぇ」なんて似ていないモノマネをやってみせる。苦笑いで済ませてやる傑は心が広い。
「勝田さん浮きやすいからな。嬉しいんじゃないッスか?」
「ポジションもDF同士だしちょうどいいじゃねーか」
「喜んでやるならもうちょっと優しい顔しようぜ。み・け・ん」
 ん、のところで眉間を人差し指で突かれてシワが寄っていたことを知った。
「優しい顔もクソもいつも大体こんな顔だ」
 わざわざ横から覗き込もうとしていた無言の傑の額をゲンコツで押しやる。
 ニヤニヤしてからかい口調で「へー?」だの「ほー?」だの言っている永瀬の中では享に相手にされなくて寂しい嫉妬野郎にされているようだが、現実はそうじゃない。強いて言うならば猫っかぶりの享を元チームメイトとして(代表候補としては今もチームメイトだが)心配しているだけである。
 たまにからかうネタを見つけて大喜びなのだろうが見当違いもいいところだ。小さな子供じゃあるまいし、新しい場所に来てまで付き合いの長い友人相手に得られるなまぬるい安心なんか求めない。お互いに特別声をかけ合おうとしないのも当たり前だと思っている。
 勿論、同じチームメイトでポジションを考えてもコミュニケーションを図るべき相手と熱心に交流しているのは大正解だ。ずっと営業用の笑顔しか浮かべていないように見えたって。

「よし、そんじゃそろそろ作戦Fいきますか」
 たちの悪い顔で笑って永瀬が動き出した。何をするのかと思えば、堂々と享の脇まで行って話しかける。身長の話をしているらしい。享と勝田が立って一番小さい永瀬が頭の上で手を振って見せる。
 それから、近くに座っていた長身GKを呼んで勝田と並べて何か笑っている。その途中でポケットから何かを落としてしゃがみこんだ。
「普通に喋ってるだけじゃねえか。作戦Fって何なんだ」
「鷹匠さん知らなかったっけ。FってフルチンのFッスよ」
「……小学生かよ」
「古典的ですよね」
 グラスの烏龍茶を一口で飲み尽くす。
 長身の二人を享が見上げている隙に永瀬がジャージの腰にそっと手を伸ばした。

ーーーーガシャーンッ
 薄いガラスの割れる音に一瞬場が静まり返った。
「うっわ、鷹匠さん何してんスか!」
 まとめて置いてあったグラスがなぎ払われて畳の床にガラスと残っていた液体をまき散らしている。
 思い思いに騒いでいた連中の視線が現場に集中していた。その中で享と永瀬だけが、目をまん丸にしてお互いを見ている。
 ウエストを数センチほどずり下げたところで永瀬の手を享が捕まえていた。永瀬が無言で笑うと享が手を開放し、永瀬もまたジャージからゆっくり手を離す。
「悪い、傑は怪我ねえか?」
「こっちまで飛んできませんよ。鷹匠さんこそ大丈夫ッスか?」
「ああ。手ぇ滑った」
 グラスの中身も少なかったお陰で座布団や服にも染みていない。傑が手近にあったおしぼりで欠片を集めようとしたのを止めた。
「危ねえから掃除道具借りてくるわ。触らずに待ってろよ」
 片付けに取り掛かったのを見届けた少年たちはまた元の会話に戻って賑やかさを取り戻した。
 自分のグラスが割れてしまった傑はデーブルに乗った誰のものかわからないそれをとって、一口飲みながらまた永瀬たちの様子に目をやった。
「飛鳥くん、えーっと、あのねえ……」
 他と違い元に戻れない永瀬がごまかし笑いするのを享は無視した。
「片付け、手伝ってくる」
 勝田が引きとめようとしてもひらりとかわして座敷を出て行った。

 故意か違うのかと言われれば、故意だ。うっかりで三つもグラスを割ったりしない。
 でも、何故そうしたのか説明もできなかった。
 人気のない廊下を歩きながら乱暴に頭をかきむしる。
 初招集祝いの悪戯を妨害することに意味なんかない。誰も彼もが一度はやられるのだ。最初は気を悪くすることも多いが、思いっきり笑われているうちに気がほぐれてどうでも良くなってしまう。そういう儀式だ。
 享だって自分が悪戯をする側に回らないだけで冗談が分からないわけじゃない。みんな男だし、一緒に風呂だって入る。過去に見てきた悪戯の中ではマシな方だと思う。享だったら怒鳴りもしないかもしれない。それこそ児童の悪戯を受け止める小学校の先生みたい大人の対応で、永瀬に「飛鳥くんつまんない」なんて言われて。
 冷静に考えれば考えるほど、あの時沸き起こった衝動の正体がつかめなくなった。
「タカ!」
 振り向いた先にいる享の渋い表情に舌打ちが出た。露骨に嫌な顔をされる。
「話がある」
「永瀬からは聞いてねえのかよ」
「お前に話があるんだ」
 遠くから人の足音がした。ため息をひとつ吐いて近くの部屋に享を引っ張り込んだ。邪魔が入らないほうがいいと思ったんだろう。享も何も言わなかった。
「あれは何だ」
「あれって」
「永瀬も、……お前も」
 灯りをつけない部屋の中で享の表情が動いたのがかろうじて分かった。それがどんな風かはわからない。怒っているのかも知れない。
「永瀬だけじゃねえよ。勝田も仕掛け人」
「タカも?」
「巻き込まれそうになったけど俺は断った」
「どういう事か分からない」
「……代表初招集の時にはみんなやられんだよ。ネタはバリエーションあるけど、一発悪戯されて親睦深めてからは遠慮せず意見し合おうっつう恒例行事になってんだ」
「なるほど。そういえば今回初招集って言ってた杉下と広川が夕飯の時に変な顔してたな」
「杉下や広川のことは知らねえけど、大体同室のやつが仕掛けるんで、永瀬が俺に協力するようには言ってきた。でも断ったから関係ねえ」
 ちょっと考えるような間があった。
「じゃあ、グラスを割ったのは?永瀬たちも驚いてた」
「…………」
「誰でもやる恒例行事なんだろ?俺を助けたつもりなのか?」
「……そういうわけじゃねえよ」
「別にあれぐらいなんてことないおふざけだろ。邪魔する方が野暮だ」
「うっせぇな。助けたわけでも邪魔しようと思ったわけでもねえっつうの」
「じゃあ何で……」
「知らねえよっ!」
 享の頭のすぐ脇の壁に拳を叩きつけた。顔が近いおかげで表情が読めるようになった。怒りとか怯えじゃない。頼りない、戸惑いが見えた。
 綺麗に舗装された道を歩いていたら突然足元がブヨブヨした得体のしれない何かに変わって掴まるところを探しているような。でも、目の前にいる瑛には掴まれない。得体のしれない何かは瑛自身だからだ。
 沈黙によろめくみたいに、吸い寄せられるみたいに、瑛の唇が享の唇をふさいだ。
 緩慢な瞬き一回分の時間。押し当てられただけ。
 両肩を掴んで力いっぱい引き離した。たったそれだけのことで息切れするような気がした。
「なんのつもりだよ」
「……いや、その、わりぃ」
 自分がしたくせに、瑛のほうが突然の事態に訳がわからないという顔で瞬きを繰り返している。
 享はハッとして部屋の入口と窓を顧みた。
「……どうした?」
 どちらもきっちり閉められている。二階の部屋の外に見える木に誰かが登っているなんてこともない。
「これも、恒例行事の延長じゃないのか」
「違う!」
「じゃあ説明しろよ!分かるように!何でグラスを割ったのか。それから、今の……キ、キス」
 消え入りそうな尻すぼみの声も誰もいない部屋の静寂のおかげで聞き取れてしまった。腹の底のもっと奥が熱い。内側から叩きつけるような感情が一気に膨れ上がった。
 今の今まで説明できなかったことを全て説明できるようになってしまった。
 それと同時に、気安く手を伸ばせなくなった。顔に触れたかったのか、抱きしめたかったのか。とにかく触りたくて浮いた手が悪いものみたいに感じられてきつく拳を握りしめて、体側に下ろした。
「わりぃ」
 繰り返すと享は頭を強く振って部屋を出て行った。
「もういい」
 引き止めて弁解したかった。でも、弁解のしようがなかった。
 享の周りにいる誰かへの嫉妬も、唇に触れたくなったのも全てストレートな欲求だからだ。他に理由なんてない。
 享のことが好きだという、ただそれだけ。
<改ページ>
 初めての女と付き合ったのは中学二年のときだ。
 小柄で可愛い顔をした、となりのクラスの女だった。当時はまだ付き合うということがどういうものかよくわかっていなくて、でも悪い気はしなかったから告白を受け入れた。
 言われるままに一緒に出掛けたり、暇なときには放課後に一緒に残って喋ったりした。しろというから手もつないだしキスもした。
 でも、それも二ヶ月ぐらいで終わった。イライラしているとすぐ顔にでるせいで怖いと言われて。自分から告白してきたくせに怯えた顔をするのが腹立ったが、惜しい気持ちはなかった。簡単に別れを承諾したら傷ついた顔をされた。理不尽だと思う。
 二人目はその翌年。可愛いというより美人で男友達も多いサバサバしたタイプだった。元々は友達で、友達付き合いは楽だったからその延長のつもりで付き合い始めた。これも向こうからだ。
 友達だった頃から都合が合えば一緒に帰ることもあったし、サッカーで忙しいのも知っていたから「邪魔にならない程度でいい」というのが最初の約束だった。正直言えば女と付き合っている場合ではなかったし、代表に呼ばれるようにもなってますます忙しかった。でも、友達関係が壊れるかもしれない不安を抱きながら軽い提案を装って告白してきた彼女が可愛く見えたのだ。
 最初は良かった。合宿なんかで離れている時にもメールや短い電話をしたし、会えるときはもっと恋人らしく過ごせていたと思う。
 上手くいかなくなったのがいつ頃からかはわからない。自覚がない。急に彼女がめそめそしだして、「今まで我慢していたけど寂しい」だの「私のこと本当に大事?」だの言うようになった。鬱陶しくて、ついつい「急になんなんだ」と声を荒らげてしまった。
「急じゃない。本当は元からこういう性格だった。瑛はちゃんと私のこと見ててくれなかったから気付かなかったんだよ」
 詐欺だと思う。自分から別れをきりだしても良かったが、何もかもが面倒で、放っておいたらじきに向こうから「新しい好きな人ができたから」と言われた。
 その後、俺がユースを蹴ってわざわざ高等部から鎌倉学館に入ると知った女が何を勘違いしたのか「私のせい?」なんて言ってきたが、その思考回路がさっぱり理解出来ない。きっぱり「ありえない」と教えてやったら、またここでも傷ついた顔をされた。
 女は面倒くさい。面倒くさいと知りながら胸とか尻とか甘ったれのふっくらした顔なんかで迫られると弱いのだから、男もどうしようもないなと思う。
 でも、当分女なんかにかまけている暇はない。性欲は自分でどうにでもできるし、恋愛感情なんかもっとどうでもよかった。振り返ってみれば二人の女のどちらにも夢中だったことはないと思う。恋愛で馬鹿になるヤツの気がしれない。
 そう思っていた。

「モロにシカトッスね」
 背後から急に声がして内心びくつくのを必死で隠して頬杖をつき直す。
「何の話だよ」
「飛鳥さんに今シカトされたでしょ。ちょうど近くにいたから見ちゃった」
「知らねえよ」
 そんなにあからさまに享を見ていただろうかと心配になる。わざとそっぽを向いて享を視界から外した。
「今日ずっとそうじゃないッスか。露骨じゃねえけど上手に鷹匠さんだけ避けてますよね」
「……」
「飛鳥さんに何したんスか」
「……何もしてねえよ」
 否定しても傑は信じていない様子だ。バツが悪くていつもの睨みも出ない先輩の顔を無言で観察して勝手に何か納得している。度胸が据わっているところも観察力のあるところも頼もしいエースだが、今ばかりは恨めしい。
「シカトだなんだって言っても練習中は普通なんだから問題ねえだろ」
 それもそれで面白くないが。飛鳥享はこの代表チームイチ“公私混同”という言葉が似合わない。スイッチのオンオフみたいにキッチリしている。だから昨晩の出来事も全て水に流して選手として仲間として接してくれる。のだが、ひとたび休憩時間に入ったり、一日の練習が終わって宿舎に引き上げてくるとこれだ。
 人の輪を盾に瑛を近づけない。今もひっきりなしに誰かが側にいて話しかけていた。
「まあ、そこんトコは心配してないんすけど」
「なら、俺らに何かあってもお前には関係ねえんだし放っとけ」
 瑛が顔を背けている傍らで傑は無遠慮に享を窺い見る。そこで目が合って、やっぱり逸らされた。
「……そッスね。鷹匠さんが何やらかしたのかなんて俺には関係ないし」
 やっと先輩いじりに飽きたのか立ち上がる。
「飛鳥さんとこ行ってきます」
「はぁ?!」
 うっかり大きな声が出て一瞬注目を集めてしまった。
「だって俺は飛鳥さんと喧嘩してねーもん。鷹匠さんが避けられてんのも俺には関係ないんでしょ」
 言うが早いか料理の皿で賑わう長机をぐるっと回って反対側の島にいる享に突進していく。それを止める言葉や理屈を思いつくより先に傑は享の目の前に腰を下ろしていた。

 享は内心後ずさりたいのを必死で隠して箸を持ち直した。
 人懐っこい笑顔の逢沢傑が目の前に腰を落ち着けて、まだ食べ終わらない夕飯のラインナップを眺めている。まったく同じメニューを傑も食べているので目新しい物などないはずだが。
「飛鳥さん、黒豆貰ってもいいッスか?」
 残っていたとはいえ遠慮なく指さしたのは黒豆を甘く煮たものだ。箸も付けていない。
「ああ。実を言うと苦手で困ってたんだ」
 その辺に置かれている使用者不明の箸を平気で借りて美味そうに一粒食べた傑が頷いた。
「やっぱり。もしかしてこういうのもダメかなって思ったんスよ」
「……こういうの、も?」
「つぶあんダメなんスよね?鷹匠さんに聞きましたよ」
 当たり前に飛び出した名前にこっそり唇をかむ。さっきこちらを見て何か話していたのはこのことだったのだろうか。
「あ、聞いたってのは今回じゃなくて、前に大福の話してたときにポロッと出てきただけで、馬鹿にしてたんじゃないんで誤解しないでください」
「大丈夫。そういうヤツだとは思ってないよ」
 安心させるように笑顔を作る。
「豆の形があって甘いのがどうしてもダメなんだ」
「甘納豆とかも?」
「食べたことがないけど、多分無理だな」
「羊羹とかこしあんは?」
「食べられるけど、そもそも和菓子が得意じゃないからな」
「じゃあ困ったら俺が食べますよ」
 小学生みたいに手を上げてアピールする。手の中の小さな器はもう黒く濁った甘い汁しか残っていない。
 箸と器を戻して丁寧に手を合わせる姿が育ちの良さを感じさせる。
「俺たち代表以外じゃ共通の知り合いがあんまりいないせいか、鷹匠さんてよく飛鳥さんの話するんスよ。だから実際より親しいような気分。一方的ッスけど」
「俺も色々聞いてるよ。甘いモノが好きだとか」
「うわ、マジっすか。黒豆狙ってガッついたみたいで恥ずかしいな」
「違う?」
「そうッスけど……」
 二人で空気を弾ませて笑った。
「あの人、ああ見えておしゃべりッスね」
「そうでもないさ。熱心に聞かされたのは逢沢のことぐらいだよ」
 素直に照れる表情が幼い。練習中や試合での鋭さとリラックスした子どもっぽい顔のギャップが彼の、人間としての魅力だ。
 年上ばかりの中でエースを張る彼が思いの外可愛がられているのが意外だった。ポジション争いをしている選手には当然厳しい目で見られているようだが、実力だけでなく練習態度や素直さにやられて、妬みよりもついつい認めてしまう気持ちが勝るんだろう。
 ずっと一方的にライバルのつもりで目標にしてきた享にもその気持がわかる。
 この代表チームの誰より若いのに落ち着いていて、かと思えばサッカーを覚えたての小学生みたいに好奇心旺盛に技術や戦術を学ぼうとする。少し、眩しいぐらいに。
「そういえば、今日の練習で当たりましたよね」
 何の話かはすぐにわかった。ミニゲーム形式の練習で傑にやり込められた話だ。
 ジュニアユース時代の練習試合以来だった。紅白戦ですらないけれど、成長を自分自身で確かめるつもりで挑んだ。それがどうだ。シンプルなフェイントであっさり抜き去られた。
 苦笑いで頷く。
「あれ、実はタネがあるんですよ」
 遠慮がちに、少し声を落として上目遣いする。
「タネ?」
「一発で抜けたの、鷹匠さんのお陰なんス。飛鳥さんのクセを聞いてたから……」
「クセ……」
 ほぼ反射的にあの時の動きを細かく思い出そうとした。それを遮るみたいに傑が話を変える。
 いや、変わっていない。傑は話しかけてきたその時から同じ話をしていたのだ。
「鷹匠さん、飛鳥さんのことよく見てますよね」
「……どうかな」
「何があったかは教えてくれないんですけど、今日、ずっと気にしてましたよ」
「何のことかな」
「鷹匠さんも同じこと言ってはぐらかすンすよね」
 笑う傑とは対照的に享は作り笑いを引っ込める。素がちらりと覗いた顔を傑はどこか面白そうに眺めた。
「鷹匠さん何度もシカトされてるし」
「それは、気のせいだと思うけど……仲直りしろって言いに来たのか」
「いや、そこまでお節介じゃないッスよ。鷹匠さんがあんな風にグダグダしてるの珍しいから面白いんですよね」
 素直な子どもみたいだと思った矢先にこれだ。遠まわしな気の遣い方で年上のフォローに回る。
 ひたむきで憎めないと思っていたけれど、やっぱり鼻につくかもしれない。どんなに無邪気に見えても何度も世界の芝を踏んでいる不動のエースなのだ。
 サッカーの実力ではまだ敵わないと分かっていても、こうしてプライベートでまで負けた気分になるのは予定外だった。
 スッと肩の力を抜く。まだ瑛に対する苛立ちや落ち着かない気持ちの整理はついていないけれど。ピッチの上では勿論、それ以外でも第三者に変に思われないよう気をつけて避けていたつもりだった。見破られているなんて思っても見なかった。
「……わかったよ。元々大した理由じゃないんだ。普通にするよ。きみに心配させるのも悪いしな」
 ちょっとした悪戯をいつまでも根に持つのも大人げない。
 そういう応えを求めて来たんだろうに、傑はキョトンとした。本当に仲直りさせようなんて思ってなかったみたいに。
 そうなるといよいよ意図が読めなくて、迷ってこっそり瑛に目を向けた。その途端、またこちらを見ていたらしい彼とばっちり目が合ってしまった。慌てて目を伏せた。

 携帯のアラームが鳴る前に目が覚めた。ルームメイトがまだ寝ているのを確認して起こさないよう部屋を出る。
 まだ他の部屋も静かだった。人の気配すらない廊下を足音に気を使って歩いて洗面所に来た。
 一番乗りかと思ったら先客が顔を洗っていた。
 後頭部では誰だかわからなくて、少し考えてから丁寧にあいさつした。今回のメンバーの半分以上が年上だ。
「おはようございます」
 先客が水から顔を上げる。瑛だった。
「なんだ、タカか」
「……わりぃかよ」
 両手で前髪を掻き上げる。享は隣りの蛇口を捻った。
 ゆっくり手に水を溜めて顔を浸す動作ごとに気が紛れた。狼狽えたのを知られなくない。いつもより念入りに顔を洗って、普段なら雑に拭き上げるタオルもそっと押し当てた。従姉に「顔はこするもんじゃない」と教えられたことがあるが、女の子ほど肌にこだわりはないしニキビ体質でもなかったから、普段なら時間のかかりそうなやり方はしない。
(……部屋に戻れよ)
 どれだけ時間をかけたって顔を洗いに来ただけだ。すぐにやることが終わってしまった。
 その間、瑛は黙って待っていた。何か言うのかと思って顔を向けても今更目を逸らされる。珍しくて面白いどころじゃない。居心地が悪いのはこちらだ。いっそ腹が立ってくる。
 話がないならこのまま振り切って部屋に戻ろうかと考えたが、昨夜の傑を思い出して頭を振った。
「これからすぐ部屋に戻るのか?」
 他の誰かに話しかけるようにさりげなさを装った。
「え……ああ、いや。ちょっと走ってこようかと思ってる」
 待っていたくせに、話しかけられたのがよっぽど意外だったらしい。
「じゃあ一緒に行くよ。支度してくるから」
 意識的に目と口元を柔らかい笑みの形にする。子供とか、接客してくれた店員だとか、笑顔を向けると釣られて笑顔になる人は多い。程々の笑顔は人とコミュニケーションを取るときにかなりの武器になる。昔から愛想笑いは得意な可愛くない子供だったけれど、ハッキリそう思ったのはつい最近のことだ。
 同じサッカー部の真屋は大抵ニコニコしていて敵らしい敵を作らない。享のような計算というより本能的に使いこなしているように見えるが。見習うところは大きい。
 しかし、狙いに反して瑛は同調してくれなかった。
「…………」
「ダメなのか?」
「そういうわけじゃねえけど」
 仲直りのポーズがわからない瑛ではない。やたらめったら周りに気を回すことはしないが、人の顔色ぐらい読める。
「……昨日、傑になんか言われたのか?」
「大したことは話してないよ。タカがずっと俺を気にしてるとは聞いたけど、仲直りさせたいわけじゃないとも言ってた」
「アイツ……変な世話焼きやがって」
「そう言ってやるなよ。心配してくれたんじゃないのか」
「それはねーな。面白がってンだ」
 断言した。傑と再会して日の浅い享には素直に納得していいものかもわからない。平気で悪態が吐ける親しさがかいま見えた。
「逢沢のことを抜きにしても、つまらない喧嘩を引きずるのも馬鹿馬鹿しいだろ。水に流そう」
 瑛のスット伸びた眉尻が跳ね上がる。
「馬鹿馬鹿しい?」
「だろ?昔にも些細なことで喧嘩して怒鳴り合ったけど、もうそういう年じゃない」
「……些細なこと、か」
「そうだよ。俺達も成長しないよな」
「…………」
「だから俺も態度が悪かったのは謝るし…」
「……気に入らねえ」
「え?」
 シャツの胸ぐらを掴まれた。引き寄せられたわけじゃないのにあの夜のことを思い出して無意識に仰け反る。
 そのまま何もされないのでそっと手を引き剥がした。ここは合宿所だ。本気の暴力が出るわけがない。
 それでもさすがに笑顔は引っ込んだ。
「何が気に入らないんだよ」
「ヘラヘラ笑って何でも上手くいくと思ってんじゃねーよ、外ヅラ野郎が」
 あまり手を入れていない割にきれいな弓形を描く眉が不愉快に歪む。
「そこまで言われる謂れはない。大体、そんな風に言うのはお前ぐらいだろ」
「そうかよ、俺から見たら自分で思ってるほど器用でも何でもねえ」
 あてこすりが思いの外鋭くつき刺さった。言葉を詰まらせると厳しかった瑛の表情が僅かに緩む。
 付き合いが長かったり親しかったりするのは不便なこともある。突かれて嫌な部分を的確に刺激される。特に、瑛には誰にも見せなかった内面までさらけ出している。一方的に親友みたいにも思っていた。
「タカはいつもそうだな。こっちのこともよく知らないのに好き勝手言って」
 出会った頃もそうだった。問題を起こさないように慎重に行動していても、親切にしても瑛だけには裏目にでる。相性が悪いとしか思えない。でも不思議と離れていかない。瑛は喧嘩することに躊躇いがない。
「何で些細だとか馬鹿馬鹿しいだとか言えるのかさっぱりわかんねーよ」
「な、」
 じゃあどうしろっていうんだ。頭の奥がチリっと熱くなるのを慌てて踏みつぶして打ち消した。
 まともに考え込んだらいけない気がする。
「そうやって笑っとけばなんとでもなると思いやがって。お前の本性なんかとっくに分かってんだからな」
 もうとっくに愛想なんか丸めて放り投げている。
「わかってるからタカに愛想振りまいたりしてないだろうが」
「さっきしただろ」
「そんな……仲直りしようとしただけじゃないか」
 冷たい指先で重い額を押さえた。
 話せばわかると思っていたのが間違いだった。昔から話が合わないことはいくらでもあった。
 何か言うタイミングを見計らって、顎をそらしてほんの少し上から見下ろす目の前に指を揃えた片手を上げる。声と一緒に怒りを吐き出そうとしたのを挫かれて変な顔をした。
「つまり、タカ相手にヘラヘラするなってことか」
「あ?」
 いきなりなんだと顔を顰めたが、アの口のまま少し考えて曖昧に頷いた。
「……ああ、まあな」
「じゃあもうしない」
 言い切ってやった。
 瑛は眉根を寄せたり首を傾げてみたり。怒りの矛先が迷子になっている。もしここで癇癪を起こしたら本物の子供だ。
 怒り始めた原因なんかつまらないことで、感情が盛り上がって原因そっちのけになる。冷静に問題が解決されても一度沸騰した頭が疼いて収まりがつかず、すぐには素直になれない。
 拗ねて突き出した下唇が子供っぽくて本当に懐かしくなった。人と揉めるのは馴れないしなるべく避けて通りたいけれど、瑛との喧嘩は嫌いじゃないかもしれない。
 喧嘩になるのはお互いに関心があって遠慮のない証拠だ。レベルの違う者同士では喧嘩にならないとも聞いたことがある。
 急に瑛に対して感じていた距離を意識した。
 一年前の、瑛が代表初招集から帰ったあの日。間違いなく不満を感じていた。先を行かれた悔しさだけじゃなく面白くなくて気を惹きたくて仕方なかったのに、遠慮した。この合宿所に来てからだって。
 わざと神経を逆なでする言葉を選ぶ。怒らせたくて人を怒らせることなんて滅多にない。
「今更タカに変に気を使った俺が馬鹿だったよ」
「ひっかかる言い方すんな」
 あっさり挑発を受けて噛み付いてくるのがおかしかった。
「それで、あとは何が気に入らないって?」
「何って……」
 一瞬虚をつかれた瑛はまた渋面で押し黙った。怒りを引きずってるんじゃない。不味いものを口に溜め込んで吐くことも許されないみたいな顔で視線を外した。
「忘れた」
 いがみ合って昔に戻った気でいたのに。その一分後にはまた突き放される。
 何でも打ち明けて欲しいなんて言わない。でも、ズルイと思う。
 他人行儀を嫌がったのはそっちなのに。

 土曜から始まった合宿は金曜の昼に解散した。
 それぞれ「またな」を交わしてバラバラになっていくが、この内何人かとはもう会えないかもしれない。
 部活の終わりよりも重くて、過ごした時間の長さだけ卒業よりもこざっぱりした別れだ。もちろん、みんなまた再会するつもりで帰っていく。それぞれのホームグラウンドへ。
 同じ電車で帰路についた傑は湘南に帰るために乗換駅で下車した。続いて鬼丸が足取り軽く降りていくと瑛と享だけが残された。隣に座っていた老人が鬼丸と一緒に下車したので、シートひとり分享から離れる。広く使いたいのだというポーズのために足を広げて座った。空いているので誰に咎められるわけでもない。
 少しうとうとしている享を目だけで確かめた。初招集で身も心も疲れたんだろう。練習中はあまり露骨にバテた顔を見せず、鬼丸が隣に座っている間も背筋を伸ばしていた。やっと取り憑いた優等生がほどけた。
 眠そうに揺れる頭に肩を貸してやりたい。きっと拒まれない。だけど駄目だ。
 欲しいのに手に入らない物に対して「目に毒」だなんて言うが、半端に触れ合うのは肌に毒だ。
 体温が伝わるところから染みこんで血管を巡って心臓をじんわり絞り上げる。
 一週間の合宿は長かった。
 三日目の朝に喧嘩らしい喧嘩と和解のようなものをした後、享からあれこれ声をかけられるようになった。といっても、元々の友人なら不自然でない程度のことだ。それまでの二日間はまったく避けられていたようなもので、それに比べれば態度が急変したと言えなくもない。
 まるで中学の頃に戻ったような気安さで気づくと側にいて当たり前の顔をしている。元々親しかったのだからおかしい事は何もない。おかしいのは自分自身だ。
 丸二年も友達だった。同じ風呂にも入ったし同じベッドで寝たこともある。それなのに今頃になって享を強烈に意識している。ライバル心等ではないのはすぐに分かった。
 人を好きになる気持ちがこんなに分かりやすいものだとは思わなかった。中学の頃に付き合った少女たちにもこんな風にはならなかった。なりゆきと芽生え立ての欲求に従っただけだったかもしれない。
 最低だと思うのに女に感じるような引力を享にも感じた。何かの勘違いかもしれないという疑いは身体が否定した。最低だ。
 中三の春に家出した享を迎えに行ったことがある。夜中の公園を指定されたのに、行ってみたら近くのコンビニに入っていた。
 公園のベンチにいたところを変な男に声をかけられたらしい。詳しくは話したがらなかったが様子から察するに援助交際でも持ちかけられたんだろう。世の中には家出中で行き場のない女子中高生をひっかけて家に連れ込む大人もいる。
 当時の享は改まって逞しいと評されるほどではなかったが、女子と見間違えて声をかけられる容姿でもなかった。モノ好きがいるものだと思ったもんだが、今では自分がそのモノ好きだ。
 細い腕を抱いて嫌悪や恐怖を隠しきれないでいる姿が脳裏を焼く。あの日怖がっていた、世にも恐ろしい変態野郎と同じになってしまった。
 恋愛のふわふわした幸福感なんてこれっぽっちもない。
 でも、
「本当言うとタカがいてくれて少し心強いんだ」
 どうしようもなく落ち着かなくて、ついどういうつもりか尋ねてしまった。
「初日はそんな素振り見せなかったじゃねえか」
「俺にも意地ってものがあるんだよ」
 内心を窺わせないポーカーフェイスでしれっと答える。心強いなんて可愛いことを言うが、心細そうにしていたことなんてないんじゃないか。さっさと打ち解けて、相変わらずの品行方正、真面目な態度で年上からの覚えもめでたく心配することなど何もなかった。
 元から本気で心配していたわけではないが、最初に顔を合わせて以来、今回知り合ったばかりのメンバーとばかり楽しそうにやっているのを見るのは面白くない。後から思えばそれはあからさまな嫉妬心だった。
(ダセェ)
 無自覚とはいえ男相手に嫉妬までして、挙句に器物破損。頭で理解する前に身体が動いて怒らせた。その上、好きだなんて言えないおかげで質の悪い冗談だと思われている。
 下心っていうのは面倒くさい。自覚したら偶然指と指が触れ合うのさえもどこかで欲求に繋がっているような気がして申し訳なくなる。頭の中身を読み取られたら、ばい菌扱いで触った指を殺菌ハンドソープで念入りに洗われたって文句が言えない。
 そんな風に一人で緊張したり焦ったりする時間が一日も続くといっそ面倒になってきた。どうせ相手をどうにかしようと思っているわけじゃない。適当に理由をつけて突き放しておけばそのうち頭も冷えるんじゃないかと考えた。
 でも、結果は計画倒れ。勝田が隙あらば享に張り付いているのに腹が立って突き放すどころではなかった。向こうはただ仲良くやれる仲間を見つけて嬉しいんだろうが、それすら放っておけない。ここ数日で心が蟻の巣穴並に狭くなったような気がする。
 結局、解散する頃には仲良く帰る約束をさせられていた。傑と鬼丸も一緒だったが。
 平日の昼過ぎの電車は程良く空いていた。凭れかかるところのない享の身体が揺れる。傑や鬼丸なんか気にせずに最初から寝ておけば良かったのに、もうすぐ下車駅に着いてしまう。
 ホームに入った車体がガクンと揺れた拍子に享も大きく揺れた。熟睡しているらしく目を覚まさない。
「クソッ」
 一歩距離を詰めて無人のシートに倒れこみかけた腕を掴んで引き寄せた。肩で受け止めるのと同時に空気の抜ける音がして車両のドアが開いた。
「…………んっ」
 薄目を開けた享を乱暴に揺すり起こして無理やり立ち上がらせる。優しくするより雑に扱ったほうがましな気がした。
「ほら、降りろ」
 お互いにここで乗り換えになる。同じ路線で一駅違いだったはずだ。
 真っすぐ歩いて行こうとする背中で享が立ち止まった。
「それじゃ、ここで」
「お前んちもこっちだろうが」
「今日はそっちには帰らないんだ」
「そっち?」
 皮肉っぽく笑った。
「高等部から寮に入ったんだ」
「中学の時は自宅通学だっただろ」
「距離はないけど、父さんがいい顔しないからさ。高等部で部活に入るのを決めたときに家を出るって約束したんだ」
 咄嗟にいつの話をしているのかわからなかった。
「家出したあの時か」
「いや、そういう話になったのはもうちょっと後だけど」
「聞いてねーぞ」
「タカは代表に呼ばれるようになったばかりで忙しそうだったから。父さんが反対してるのは前からだったしわざわざ言う事でもないと思ってたんだ」
 何でもないことのように言うが、親を懐柔するために何年も優等生を貫いてきた享にとって家を出ることがどれほど重大な決断だったか想像も出来なかった。
「親子の縁でも切られたみたいな顔するなよ。……それじゃあ、またな」
 地下鉄を目指して歩いて行くスッキリ伸びた背中。
 信用されていて、大事なことは何でも知っているような気になっていた。
『こっちのこともよく知らないのに好き勝手言って』
 住んでいる場所だって知らなかった。
 いつの間にか享に一番近い場所から閉めだされていたのだ。
 自惚れていた自分が馬鹿みたいで頭を掻きむしった。
 そんなことが心底腹立たしいぐらい重症だった。