遠くに見える教会の十字架が白い。針葉樹の並木も赤い家の屋根も。
雪降る季節は往来が少なくなって、道路は子供たちの貸し切り状態だ。足元が滑るのも厭わず教会に向かって駆けていく。
みんなどんどん自分を追い抜いて、上手く足が進まない自分はついには転んでしまった。それなのに誰も待ってくれない。ブルネットのかわいいあの子さえも。
悔しくて惨めで、もう帰ってしまいたいと思う心と「ダメだ」と急き立てる心が不自然に共存する。
民家の屋根の赤い部分がみるみる白に置きかわって早回しのような時間経過を当たり前のように感じていた。
そして教会の鐘が鳴る。耳をつんざくような酷い音で。
目を覚ましたのは仮眠室のベッドの上だった。
電話のベルが鳴っている。急に頭に流れ込んできた現実を冷静に処理しながら報告を受けた。
パソコンがなかなか起動しない。自分の頭より劣る機械の僅かなタイムロスに不満を抱きながら、紙にメモを取った。
その間にやっと起動したパソコンでメールを開く。そこに添付されていた画像を確認して夢と現実がわからなくなった。
雪の降る町の白い教会から出てきた男そっくりの絵がそこにあったのだ。
◇ ◇ ◇
ヘルサレムズロッド、ここは昔ニューヨークだった。
今ではロンドン顔負けの霧の街。晴れ渡る空と縁がないせいか、以前よりも平均して気温が低い。
その日は特別寒かった。少ない荷物で引っ越したレオナルドはコートがなかったのでインナーを重ね着して表に出た。そのまま服を買いに行きたいところだったが、それをやると食費と光熱費のどちらかが足りなくなる。すでに家賃は滞納しているし、気合で我慢できることならば我慢するべきだ。
スクーターに乗ればハンドルを握る手が凍るけど大丈夫。気の持ちようだ。寒くない。温度計も見なかった。シュレディンガーの猫だ。気温表示を見るまではまだ20度程度の可能性も残っている。20度なら全然寒くない。コートも手袋も必要ないから大丈夫。大丈夫ッたら大丈夫だ。
鼻水をすする彼の冷え切った手に白い綿毛のような結晶が落ちる。
「…………え、雪?」
音もなく落ちて溶けて消える視覚の暴力によって心が凍えた。
速く暖かい屋内へと急げば顔面に吹き付けてくる。貧乏に寒さのダブルパンチは心を折られるから勘弁してくれ。
すがる気持ちで職場に駆け込んだ。暖かな部屋の中へ。
「おはようございます……」
語尾におまけで鼻水を啜る音。
「おはよう少年。……なんだい風邪ひいたのか」
心配よりも呆れたような調子で上司が執務机から顔を上げる。いつもなら朝はわりと余裕があってお茶なんか飲んでるのに、今日は卓上に書類を並べていた。
まばらにメンバーが屯っているので緊急性高い事件発生というわけではないが、何かあったんだとすぐわかる。
「外は大変な寒さでしたね。暖かいお茶とタオルをお持ちしました」
影のように静かに控えていた執事のギルベルトが盆にカップとふかふかのタオルを揃えてくれるのを心底有難く受け取った。これです、こういうのを期待していたんです。この街に来てからずっと一人暮らしなので、こんな時には人のやさしさが沁みるのだ。
ここ、秘密結社ライブラの心優しいリーダー・クラウスはゲームに夢中だった。いつものことだ。大きくたくましい体に反してチェスのようなボードゲームが好きで、パソコンの通信対戦にはまっている。それも持ち時間が短く集中せねばならないとかで、レオナルドが入室しても片手間で挨拶を返したっきりだ。
諜報担当の少女もいないし、良心的同僚である半魚人青年は隣室の専用水槽で待機中。レオナルドの先輩であり戦闘員のザップは――特に理由もなく不在だった。理由なんて大方「寒いから」とか「愛人と修羅場中」とかそんなところだ。いつものまとまりのない集団ながら、やはり何か起きているらしい緊張感がある。それはゲームで遊んでいるリーダーさえもだ。
「あの、何かあったんですか?」
こんな時尋ねられるのはギルベルトだけだ。仕事や趣味に忙しい人の邪魔はしたくないので。
「血界の眷属に関する情報がありまして」
なるほど。しかし情報というだけで、実際に足取りは掴めていないようだった。だからこそ情報収集に長けたメンバーが動き回っているし、そうでもないメンバーは通常招集なのだ。
「そうだ、少年にダメ元で見てもらいたいものがあるんだが」
上司・スティーブンに呼ばれて見せられたのは絵の写真だった。毛皮のコートを着た細面の美しい男。繊細なタッチで描かれた写真のようにリアルな鉛筆画。
「この絵の男が恐らく血界の眷属なんだが」
血界の眷属―俗にいう吸血鬼だ―は鏡やカメラに映らない。そのため絵なんだろうけど、実物を見ないことには……。
「絵を描いた子供が見た眼球から何か詳細が分からないかと思ってな」
「うーん、記憶ってことは普通の眼で見た映像を覗くってことなので、がんばってもオーラが見えるかどうかはわかんないっすね」
「だよな。でも他に現場の状況でも何でもいいから情報が欲しいんだ」
「その子からは聞けなかったんすか?」
「残念ながら、事件以来言葉を失くしたみたいにだんまりだ。代わりに突然描きだしたのがこの絵なんだが」
「じゃあどうして血界の眷属だと疑ってるんです?」
何の気なしに抱いた疑問を投げる。この街では毎日事件が起きて、酷いショックで心神喪失状態になる人も少なくない。それら全てをライブラが追うわけではないからだ。
それまで普段と変わらない様子だったスティーブンの纏う空気が温度を下げる。
「コイツとよく似た血界の眷属とは会ったことがあってね」
それは自分の過去を覗き込んでいる目だった。
内容はありふれた集団失踪事件だ。
ありふれている、なんて思うのも悪いが、この街では日常茶飯事なのだ。
街の隅にある小さな公園で遊んでいた子供たちが忽然とどこかへ消えて、たまたま遅れてきた少女が怪しい人影を見た、と推定されている。
少女のすぐ後を追ってきた親が呆然と座り込む彼女と消えた子供が落とした靴を発見したのだ。その後入院した彼女が突然描いたのが、周囲の誰も知らない毛皮の男だった。
雪で濡れた道を滑らかに走る車で連れてこられたのは見知らぬ地域だった。自宅のあるエリアより気温が低い。
「なに、防寒着がない?だからもうちょっと活動資金を貰っておけと言っただろ」
いつもと変わらない格好で出かけようとしたレオナルドにスティーブンが大げさなため息をついた。
「いやぁ、中は着れるだけ着ぶくれてきたのであとは気合でなんとかしようかと……」
口先でなんと言おうと急な寒さに震えているのは間違いなく歯切れが悪い。そんなやりとりをしていたら、半魚人・ツェッドがジャケットを貸してくれた。冬眠的な習性があるのか調子を崩していて、今回は留守番になったのだ。これで乗り切れると思って車に乗り込んだが、少女との面会前に訪れた現場でオーラの残滓があることに賭けて地面に手をつき非常に後悔した。
「そんなの冷たいに決まってるだろう」
一応見てみると言い出したのはレオナルド自身だがこの言い草。恨みがましく思っていると、今回の同行者スティーブンが自分の手にはめた高そうな手袋を外し差し出してくれた。自分の買えない高価そうなものを見るとすぐ値段のことを考えてしまうのは貧乏の性だ。
「今汚したばっかりの手突っ込めないっすよ!」
「別に君が妄想してるほど上等な品物じゃないからつまらないこと言わず着けとけよ」
金銭感覚のベースが違うのでレオナルドからしたら十分上等な品物に違いないが、食い下がっても面倒くさがられるだけだったので大人しく手を通した。当たり前に内側に残る体温を不思議なもののように感じたり、指の先が余ることに今更過ぎる敗北感を味わったりしながら。
「やっぱダメっすね。時間が経ちすぎてる」
諦めて振り返ると、スティーブンは公園の近くの教会に向いていた。声をかけると夢から覚めたように振り返る。
「よし、次だ」
ギルベルトの待機している車へ戻った。
多忙を極めた時には度々虚ろな顔も見せる上司だが、どうやら今回はそういう類ではない。何か因縁がある敵なんだろう。過去にもそういうことがあった。レオナルドが何も知らないただの子供だった頃から牙狩りとして活動していた人だから、そんな相手が他にもいるのかもしれない。
目撃者の少女はすでに退院して自宅での面会になった。
自室の椅子に座る彼女はぼんやりしていて、ヘーゼルの瞳は何も映してないようだった。
「お医者様が気持ちの整理をつけるために絵を描かせることを提案してくださって、心の中の何か形にならないものを吐き出させてやれたらと思ったんですけれど」
渡されたスケッチブックには事件以前に描かれた子犬や友達や家族の顔があった。暖かなそれらに比べ、不完全なところが一つもないような毛皮の男の絵は同じ鉛筆画にも関わらず冷たく見えた。
少女の部屋で軽い紹介を受けてすぐにスティーブンは報告書で確認済みの事柄を喋る母親を子供部屋から連れ出した。レオナルドのことを何と説明して母親を言いくるめたのかあっさり二人きりになる。
窓の外には白い雪が舞い続けていた。
「やあ、マリー。僕はレオナルド」
話しかけても反応はなかった。わかってはいたけれど、何も言わずに見るのもどうかと思って。
「これから、えーっと、……ちょっと君の見たものを見せてもらうんだけど、僕は、うーん、なんといいますか……」
自己紹介しようにも神々の義眼のことはトップシークレットだ。困って糸目でわかりづらい視線をさまよわせ、壁にかかっていた魔法使いのポスターに目を留めた。
「魔法。そう、魔法が使えるんだ。魔法で君の目をちょっと見せてもらうよ」
彼女の座る椅子の横に立って慎重に頬を触った。少しだけ角度を変えさせて向き合い、瞼を開いた。青く光る至高の芸術品が眼前に現れた瞬間、それまで何も反応のなかった彼女の瞳が揺れる。
神々の義眼――妹の視力と引き換えに有無を言わさず交換された眼球には全てを見通す力がある。過去も、未来も、人のオーラのような常人の感知できないものだって。
青い光を反射してきらめくヘーゼルの瞳に集中する。様々な景色が何重にも重なる中から見たいものへピントを合わせていく。現在目の前にある情報が意図的に見透かそうと働きかけた過去の映像に切り替わった。今さっきの自分とスティーブンの姿、母親の顔、医師、看護師、警察、雪で白い公園と遡る。
数日分の景色を逆行すればプライベートな瞬間も見えてしまう。女の子のプライベートを覗き見するなんて変態みたいだ。なるべく無関係の部分は認識しないよう先刻の公園の映像まで早送りで意識を進めた。
「あ」
公園に面した道路を背景にスケッチブックで見た子供の姿を見つけた。マリーは本当に絵が上手いんだ。すぐにわかった。そこで逆行を止めた。レオナルドが望むとマリーの見た景色がそのまま映画のように流れ出す。
家に帽子を忘れた彼女が友達と別れて再び戻ってくる。視界が弾む。走ってる。それが事件現場に佇む毛皮の男を見つけてピタリと止まった。オーラは見えなかった。これはあくまでも彼女の眼球の見た過去だから。彼女の眼球が感知できないものは見えない。
マリーはながいこと目を奪われていた。オーラなんか見なくたって相手は人類じゃないと思った。肌は真っ白で唇の赤さが目立った。毛皮の男は無造作に顔を上げて彼女を見た。そして彼女に向かって何か言葉を発する。口が動いたけれど、何と言っているのかはわからなかった。読唇術でも習っておくんだった。
そして彼女には一歩も近づかないまま背後の木立に消えていった。
男の姿が消え失せた後、ゆっくりと視線が下を見る。男の立っていた足元のあたり。そこにはさっき別れたばかりの子供たちが倒れていた。
おかしい、集団失踪事件じゃなかったのか。そう思った直後に倒れていた子供たちがふらりと起き上がり、自分たちの足で木立の奥、男の消えた方向へ歩き出した。まるで操り人形のような一様でおかしな動きで。
それから何もなくなった現場、駆けつけた母親、警察と遡った際に流れていった映像が戻ってきた。事件のすべてはそこで終わった。
人の姿なのに異様な男と、操られたように彼についていく子供たち。
「なんだこれ……まるでハーメルンの笛吹き男だ」
思わずこぼれた呟きに彼女がビクリと体を震わせた。身体を固めていた氷が溶けたように、俯いて小さな肩が小刻みに震えだす。
しまった。今まで何の呼びかけにも反応がなかったから、聞こえていないような気になってしまっていた。
レオナルドは反射的に跪いた。固く握って白くなった手に手を重ねる。一度口から出た言葉をやり直すことはできない。それを今更悔いても仕方ない。人より良く見える眼があるだけの自分には仇を討つ約束も出来なかった。
だけど、お人よしの彼は少女を放置することも出来ないのだ。
子供部屋に母親を呼び戻すと、娘が呼びかけに応じて顔を上げたのを見て涙を流して喜んだ。
母娘の邪魔にならないようひっそり見えたものをスティーブンに報告した。結果、彼女が再び狙われる可能性を考えてライブラのメンバーから適当な女性をカウンセラーとして派遣することになった。戦闘員としては非力でも牙狩りについての知識のある女性だ。何かあればすぐにスティーブンに連絡を寄越すことになっている。
「それから、彼女にもGPSの携帯をお願いしたいのですが」
いざというときのために親の携帯からでも監視できるようにする旨を説明するとすぐに承知してもらえた。娘が動き出したことでずっと傍にいるわけにもいかなくなったから、その方が安心なのだ。
上司と母親のやりとりを黙って聞いていたけれど、マリーの家を出て再び現場に戻る車中でつい尋ねてしまった。
思い浮かんだ疑惑がどうしても気になってしまって。
「あの、もしかしてなんですけど、マリーを囮にしようとか考えてませんよね?」
口に出してからすぐに取り消そうと思い直した。いくら何でも酷い発想だ。薄情なやつだと詰られても仕方ないし、そうしたらすぐに平謝りする用意があった。
だけどスティーブンはすぐに否定してくれなかった。
「彼女が連れて行かれたら、他の子どもたちの居場所が分かるかもしれないな」
「そんな、だ、ダメですよッ!」
「はは、さすがにしないさ。ちゃんとボディガードもつけるって言っただろう?」
現に目の前で派遣する女性に連絡を取っていた。レオナルドも会ったことのある信頼のおける人だ。事務所で待機しているクラウスにも報告を入れているし、心配することなど何もない。だけど、スティーブンの様子がどこかおかしく感じて勘ぐってしまった。
もう一度公園に向かって子供たちと男が消えた林を探索した。しかし事件から一週間以上が経っているし、周辺は警察も捜索済みだった。木々の間を歩き回ってやっぱり何もないことを確認して振り返ると教会の十字架が見えた。
伝承の中の吸血鬼はニンニクや十字架で撃退できるけれど、血界の眷属はそれでは太刀打ちできない。どんなに神様に祈りを捧げても敵わないのだ。
安アパートの自宅まで送られて帰ったころには真っ暗だった。
日中不在にしていたお蔭でぬくもりはひとかけらもなく、干した服は乾いておらず、とにかく明かりをつけて暖房を入れなければとスイッチを触った。
「あれ?」
つかなかった。灯りも、暖房も、電化製品は何一つ。慌てて窓の外を見ても普通に灯りは点っているし、窓から首を出して同じアパートの他の部屋を確認しても何の異常もない。停電状態なのはこの部屋だけだ。
真っ暗で不便と言えば不便だったが、夜目だけは利く。というか目自体が発光しているぐらいなので、冷静に玄関に戻ってポストインされた手紙をかき集め、電気代滞納による送電停止の通知を見つけた。この寒い日においては死刑宣告のようだった。
そのまま布団をかぶって寝る選択肢もあったが、風呂も入れないし着替えも乾かない。困り果てて生乾きの洗濯物を鞄にかき集めると事務所に向かった。恐らくまだ誰かしらが残っているだろうし、ひとまず一晩だけ暖房のあるところで凌がせてもらおう。ついでに服も乾かしたい。
なるべく静かに扉を開けて控えめに「すいません」と声をかける。中は最低限の灯りだけ残して消灯済みだった。灯りがあったのはただ一つ。スティーブンの机だった。
「どうしたんだ、さっき帰ったばかりじゃないか」
そうですよね、同じ車に乗ってましたもんね。バツが悪いにもほどがある。
「ちょっと、自宅の電気止められちゃいまして……」
暗いのにどんな表情で見られているかわかってしまう。眼がいいとかそういうことは関係なく。
「仮眠室が空いてるよ」
「すいません……」
仮眠室へ向かう前にハンガーラックに鞄から引っ張り出した服をかけていく。背中でこちらを見ているに違いない上司からはコメントすらなかった。振り向くまい。気にするまいと心で唱えて仮眠室にこもり毛布を被る。被ったが、二時間ほどで目が覚めてしまった。一緒についてきた相棒の音速猿が寝ぼけて目元を殴ってきたのだ。非力な猿と言えども急所はさすがに効く。
目が覚めたついでに水でも飲もうと仮眠室を出ると、まるで時間が経っていないみたいにスティーブンは机に向かっていた。この人はこうして徹夜を重ねて整った顔にくまを作るのだ。それで多少やつれたって様になるから狡い。男前はそれだけで得なのだ。
あんまりにも静かで、スティーブンは扉の音に敏感に反応した。
「ああ、すいません」
「いや、いいよ。眠れないかい?」
「ソニックのせいで起きちゃっただけで家のベッドより寝やすいです」
「そいつは良かった」
無防備にあくびをして体を伸ばすと、スティーブンはまたすぐに卓上のパソコンに目を落とす。これはもうしばらく眠るつもりがないんだな。
お節介心が首をもたげて、机の端で空になっているカップを回収して紅茶を入れてきた。好みなんか聞かずにミルクティーにした。
「コーヒーが良かったんだが」
言うと思いましたよ。
「それじゃ眠れなくなりますよ」
「眠らないために飲むに決まってるだろう」
「ちょっとぐらい寝た方が効率上がるっていうじゃないですか」
文句を言いながらも素直にミルクティーを飲み干してくれた。
「なんだったら俺がソファに移動しますからベッド使ってください」
「いいよ、どのみち今日は眠れそうにないんだ」
仕事が終わらないという意味ではないようだった。モニターにはマリーの自宅付近のGPSマップが開かれている。彼女はちゃんと自宅にいるようだ。
「あの事件のことですか」
尋ねるとマップを閉じられた。大きな片手で目をこすりあげながら前髪を掻きあげる。意外と雑な仕草をする。
「まあ、色々あってね」
話したがらないことは聞くべきじゃない。そう思う半面で拗ねる自分もいる。あんまり信用されていないのかって。そういうことじゃないのはわかるんだけど、眠れないほど気を取られることなら尚更打ち明けてほしいような。だけど、同じライブラの仲間であっても彼とはそれほど親しいわけじゃない。それどころか頻繁に顔を合わせるメンバーの中では一番距離がある気がする。
仕方ないのかもしれない。だけど、暗い闇に包まれた広い事務所で二人きりでいると無条件に距離が縮まるような妄想に囚われる。
「こちらはいいからゆっくり休んでくれ」
「……はい」
レオナルドはあっさり引き下がって仮眠室に戻った。それから間もなく予備の枕と毛布にソニックを乗せて再び出てくる。
「レオナルド、仮眠室で寝ていいって言っただろう」
「いやー、あそこのベッドは柔らかすぎて、スプリングもクソもないベッドに慣れた貧乏人は逆に落ち着かないんでこっちで寝た方が休まるっす。お気になさらずに」
「さっき寝やすいとか言ってなかったか」
そんな鋭いツッコミは無視だ。応接セットのソファは充分な長さがあって、そこに枕と毛布と相棒をセッティングして速やかに横になった。
「あと僕、明るいの気になる方なんでなるべく早く切り上げてもらえると助かりますんで」
言うだけ言って何か言わせる前に「おやすみなさい」で会話を打ち切った。
「……やれやれ。灯りが気になるも何も、君真昼間に寝てたことだってあったじゃないか」
もっともなつぶやきだって毛布の下で無視だ。もう眠ったのでさっぱり聞いてません。
それでも間もなくデスクライトが消えて仮眠室に引き上げたのが音でわかる。目を瞑って横になるだけでも休まるというし、何かが少しでも癒えるといい。
次にレオナルドが覚醒したのはギルベルトとクラウスが出勤した際だった。室内にスティーブンの姿が見えなかったので仮眠室まで起こしに行った。
心なしか触った金属のドアノブが冷たい。妙に思いながら薄く開けると明らかな冷気が溢れだしてきて、慌てて灯りのスイッチを入れた。外より寒いんじゃないか。
蛍光灯の光で照らされた室内を見た途端に愕然とした。床から壁から天井まで氷が這い上がって霜が雪のようにパラパラと降り注いでいたのだ。
「スティーブンさんッ!?」
ベッドの上で眠っているスティーブンに飛びついた。ベッドは足元以外は氷を免れていて、顔を触ると体温は低かったが呼吸はあった。
眉間にしわを刻んで唸りながら目が開く。
「……レオ?」
夢と現の狭間で目の前の少年の名前を不思議そうにつぶやく。そうするうちに少しずつ覚醒してきた。
「ああ……そうか」
そこが職場であることを思い出しながらも両目を片手で覆ってしまった。そんなスティーブンがまた眠ってしまいそうで手を添えると、「わかってる」というように空いている方の手で制された。二日酔いの人が小うるさい隣人を黙らせるみたいに。
起こすという役目は終えたことにして出ていくべきなのか。迷っていると目隠しをやめて室内を確かめたスティーブンが安いおもちゃみたいに跳ね起きた。
「なんだこりゃ」
「なんだって……自分でやったんじゃないっすか」
眼以外に特別な能力なんてないレオナルドに能力の“おもらし”があり得るのかはわからなかったが、仮眠室には一人しかいなかったのだから間違いない。
やった本人も信じられない様子で氷の発生源である足元や被害範囲をせわしなく目で確認している
「なんかうなされてましたけど大丈夫っすか。もうクラウスさんとギルベルトさん出勤してますけど呼びますか」
「いや、大丈夫だ」
絶対大丈夫じゃないだろ、コレ。
「顔を洗ったらすぐ行く。ここは、すまないが暖房の出力を最高にしといてくれ。どうせ日中に仮眠とるヤツはいないからその間に片付けるよ」
無理に平常を装ってベッドを降り歩き出そうとした途端にふらついた体を受け止めた。スティーブン自身もベッドの支柱を掴んだのでレオナルドが支えなくても転びはしなかっただろうけれど。
触れた手が冷たくて、でも凍っているわけではなくて、そんな当たり前のことに安心した。
「体冷えてるんすよ。ここのことは俺がやっとくんで暖まっててください」
必要なくても支える手を離さなかった。
脱いであった背広を引っ掴んで暖かな隣室に連れ出し、レオナルドだけ仮眠室に戻って暖房を強める。天井の霜が水っぽい塊になってぼたぼた垂れてくるのでベッドの毛布を丸め、探してきたレジャーシートを被せて水濡れを防いだ。風呂場みたいに防水ではないにしろ、元倉庫を改造した壁紙もない部屋なのでなんとかなるだろう。ならなくても事務所直結の部屋で待機しているツェッドは風を操れる。良い人なので頼めば乾燥の手伝いぐらいしてくれるだろう。
忙しく動き回って落ち着くと、すでにスティーブンは執務机に座っていた。湯気の立つカップに口をつけながらだったけど。
「湯たんぽとか要ります?」
尋ねるときまり悪そうに「結構だよ」と断られた。
その机の片隅にはやっぱり毛皮の男の絵があった。
事態が急変したのはその三日後。マリーがいなくなったという連絡を受けて現場に駆け付けた。
GPS信号は連絡を受けた時刻で途絶えている。それまで一定時間ごとに記録されていた足跡を辿った道中で彼女のボディガード役だった女性の遺体が発見され、携帯は件の公園の噴水からポシェットごと発見された。
「僕が見ます」
いつも首に提げているゴーグルを装着してレオナルドは進み出た。今ここで何か見つけられるとしたらきっと自分だけだ。前回より事件発生からの経過時間も少ない。至近距離で見たマリーを、マリーのオーラを思い出せ。沢山の人の気配の中から掬い取れ。
瞼の裏に呼び起こした記憶が薄れないよう集中してゆっくり瞼を開く。前回の事件があった場所に薄っすら残るマリーのオーラが続く先を探して。
手袋越しにも冷たい地面に手をついて低いところから痕跡を追った。犬が臭いを追うときにも地面を嗅いだりするけど、人のオーラもまた何かを媒体にして残るものだ。空気であったり、地面であったり、他人の体であったり。だけど空気はすぐにどこかへ吹き飛ばされてしまうので地べたに這いつくばることになる。
「……あった」
「本当か少年!」
「はい、でも、……これ、林の方に向かってません」
公園の出口まで続くオーラの残滓を見届けて地面から顔を上げると、スティーブンはすでに見えないはずの行方を知っているようだった。
彼の視線の先にあったのは最初にここへ来たときと同じ、十字架を掲げた教会だった。
スティーブンは背中にレオナルドを庇いながら長い脚で教会の扉を蹴破った。
周囲への聞き込みによれば今日は無人のはずの教会に人の気配があって、扉の隙間にも確かにマリーを含む複数のオーラが絡み合って残っていたのだ。血界の眷属の仕業と断定してのクラウスを入れたスリーマンセルで飛び込んだ。
乱暴に開いた扉の立てた音だけが響く。そこは何の変哲もない教会。真正面の祭壇の向こう側で十字架をモチーフにしたステンドグラスが光を透かして通路に絵柄を浮かび上がらせていた。
何者もいない。無人の。静かな。
「います」
鋭く叫んだのはレオナルドだ。神々の義眼に幻術は通用しない。
「祭壇の前に、マリーだけじゃない、みんないます!」
義眼を通した視界では子供たちが絵本の読み聞かせを聞くみたいに大人しく座り込んでいる。その子供たちの目の前に男はいた。紅い羽根のような―血界の眷属の証であるオーラを広げて。ちょうど講話をする先生みたいだった。
レオナルドの言葉で一気に緊張感を高めた二人の上司が戦闘に備えて身構える。その途端に軽い笑い声がして、二人の目の前の景色が歪んだ。何もないように見えた空間に突如子供たちと毛皮を着た美しい男が出現する。
「なんだぁそりゃあ……結構上手に誤魔化せてたと思うんだけど、バレちゃうの?」
幻術を解いた毛皮の男はあっさり子供たちのそばを離れた。散歩でもするみたいな軽い足取りで何の気負いもなく歩いてくる。気負いなんか必要ない自信がそこにある。人類が自分たちに対抗できるなんて微塵も思わないのだ。
道端で猫を見つけた子供が驚かせて逃がさないよう静かに近づくのに似ている。キレイな顔に穏やかな表情を浮かべて、まるで久しぶりに再会した友人みたいな気安さで。
無言で拳を構えるクラウスの意図を察して背後に隠れてポケットの携帯に手をかけた。それは武器だ。血界の眷属に対抗しうる唯一の武器。
神々の義眼でもって敵の諱名を看破し、それを受け取ったクラウスの技で“密封”する。神々の義眼を持つ凡人・レオナルドがライブラに貢献できる最大の役目だった。
「んんー、キミたちが探してるのはこの子たちでしょ?まだ何もしてないんだけどな」
「子供が拉致された時点で人類にとっては大問題だ」
「そう?みんな自分の足でボクを選んでついてきたんだよ?」
男が離れても祭壇の前の子供たちは身動きしなかった。魅入られたように美しい男の姿を目で追うばかりだ。
ゆっくり男が近づいてくる。いつでも攻撃できる体勢で二人は身動きせず、スティーブンは会話を続けた。レオナルドが諱名を読む時間が必要だった。
「過去にも各地で子供の集団失踪事件があった。それもお前の仕業なのか」
「いつどこであった話をしてるのさ」
否定も肯定もしない男に硬い声であまりにも具体的な言葉が返る。
「…………三十年前の冬、イギリス北部だったらどうだ」
男はこれから間もなく密封されて口もきけなくなるはずだった。そのための時間稼ぎであり言葉の信憑性もわからない。本気で捜査の足しにしたいという意志のないやりとりだ。それには不釣り合いな発言にみんな―クラウスも、毛皮の男も、諱名の解読に集中していたレオナルドさえスティーブンに意識がいった。
「んーんー、そんなこともあったかもね」
面白そうに首を傾げ、マリーたちを顧みてポンと手を打った。
「あ、あったあった。そうだねえ、あの時も今回みたいに一人だけ獲り逃しちゃってさ、結局もう一度連れに来たら牙狩りに追い返されちゃった」
その瞬間、冷え切った空気が頬の横を駆け抜けていった。開け放たれた扉から突風が吹き込んだのかと思った。一瞬にしてあたり一面冷気が広がり男の喉元まで氷の槍が伸びる。それは届かなかったけれど。
「スティーブン!」
叫んだのはクラウスだ。常に冷静な友人の感情的な行動に、止めようというよりも驚いて声が出た。
けれど一度仕掛けたものは止れない。
男の反撃を二人がかりで防ぎ、また攻撃を仕掛けた。冷静さを失った行動の後でも連携の取れた動きを繰り出し一歩、二歩と男を後退させる。その間がチャンスだった。
諱名を入力してクラウスに送信することだけに特化したアプリに名前を打ち込む。
「ボクこういうのは得意じゃないんだよね」
きれいな顔にいくつかのかすり傷を受けながらも男はのんびりした口調を崩さない。
「どっちかっていうとさあ……」
攻撃を仕掛けていた二人から軽く視線を外し、ピタリとレオナルドに目を留めた。視線がかち合ったレオナルドの手が一瞬止まる。
その瞬間高く跳躍して二人の攻撃をすり抜け、レオナルドの背後に着地した。
「マズいッ」
靴底から生み出した氷の塊を足掛かりにスティーブンが跳ぶ。クラウスもまた大きな体で機敏に振り返ったが、男が羽織っていた毛皮を広げる方が早かった。
「殺さないよ。キミ面白いことやってたもんね」
毛皮の内側が窓のように真っ白な光景が広がっていた。思わずその正体を見ようとしてしまうレオナルドに“窓”が襲い掛かる。
「ちょっと待っててね、後で迎えに行くからさ」
呆然としながらもレオナルドは指を動かし続けた。続けたからこそ逃れられなかった。
「レオッ…………!」
スティーブンは夢中で手を伸ばした。紙一重で吸い込まれていく体に指がかかる。
だけど窓から向こうに乗り出した体は重力に引かれて落下していく。窓の向こうは地べたではなく、どこか高さのある場所だった。不安定な体制でなんとか掴んだ服を握りしめ、引き留めようと踏ん張った足が耐え切れずに床から離れる。そうなったら誰にもどうする術もなかった。
もつれ合った友人と部下が正体不明の空間に落ちていくのを見送ったクラウスのポケットで携帯のメッセージ受信音が鳴ったのだった。
死ぬときはとても寒いのだろう。死体には体温がないし、寒いと漠然とした死を意識する。その前に感覚がなくなったりするのかもしれないけど。
だから寒くて体が痛くてむき出しの頬の感覚が麻痺してきたので、死ぬのかと思った。
「おい、起きろレオ!おい!」
頬を叩かれて気が付くとスティーブンの腕に支えられて吹雪の森の中にいた。どうやら生きているみたいだ。お互いに。
「………ヤツは?クラウスさんは?!」
首をめぐらせても木と雪ばかり。吹雪のせいでほんの数メートル先までしか見通せない。それでもこの眼ならば、と開いた義眼に手で目隠しをされた。
「消耗するからそれはいい」
「スティーブンさん……でも……」
「クラウスもヤツもいないよ。ここは幻術の中でもなさそうだ」
スラックスのポケットから取り出した携帯は電波圏外だったが、時間はそう経っていない。
「目を凝らさないで見てくれ。ここは現実なんだろう?」
集中して無理な使い方をしなくたってそれぐらいは看破できた。四方を見渡しても針葉樹林と雪の粒しか見えない。神妙にうなずいた。
「よし、それならここはヘルサレムズロッドの外と考えた方がいい。ヤツに使われたのが単純な空間連結術式と仮定して、体感からいってここは永遠の虚とも異なる。とすると、ヘルサレムズロッドでこんな地域はなかったはずだから、街の外に飛ばされた可能性が高い。まず身を寄せられる場所か電波の届くところを目指して移動しよう」
身体を支え起こされ、身を寄せ合って歩き出した。視界が頼りにならないので、足跡に背の高い氷のとげを生やして進んだ。雪に埋もれない程度の大きさの目印だ。茨の道を背負いながら一方向を定めて進んだ。電波が届かないだけで、磁場は安定していたので磁石が使えたのが救いだった。
小一時間も彷徨った頃、
「あ、あそこ!」
木々の間に薪割り小屋があった。吹雪で視界の悪い中でも人工物があるのはすぐにわかった。
「よし、この吹雪が弱まるまで一旦留まろう」
逃げ込んだ小屋には本当に何もなく、まだ使われているのか放棄されたものかもわからなかったが雪は凌げた。壁板の隙間から吹き込む風には我慢した。
動きを止めるとすぐに体温が下がっていくので暖を取れるものを探したけれど、そこには毛布も何もなかった。
事務所を出た時にそれぞれ羽織ってきた上着は所詮街中を歩くための装備だ。足元もぐちゃぐちゃだしコートもぐっしょり濡れて重い。
「こういうときにアイツがいればな」
「ああ、アイツっすね」
思い浮かべるのは火を操る仲間の顔だが、クラウスとスティーブンが揃って留守にする事務所を任せてきたのだ。もちろん他の仲間と一緒に。
仕方なしに暖の取れそうなものを探したが、湿った薪とスティーブンが嗜み程度に携帯しているライターしか出てこない。本人は喫煙の習慣がないので接待時に活躍する火種だけだ。
「火は諦めるしかないな」
「濡れたものって着てるとまずいっすか?」
「ああ、でも薄着でいるわけにもいかないから絞れるだけ絞って……」
水分を含んでいるお互いの衣服を見下ろせば、確かに濡れているが半ば氷ついていて絞るどころではない。
「やめておこうか」
「はい……」
結局なるべく風の当たらない場所で肩を寄せ合って座った。
「何の足しにもならないけど、こっちのコートに入るかい」
広いコートの懐を広げて提案されてお言葉に甘えた。身を寄せ合っていても体と体の間を通り抜ける隙間風が気になって仕方なかったからだ。
小さくなって小脇に潜り込む格好で肩を抱かれて、こんなに上司に近づいたことはないという程近づいている。そうしてみると彼のスーツの生地が思ったよりも頼りないことに気づいた。当たった腕に体温が伝わってくる。
レオナルドの方が体温が高かったけれど、確かに血の通う熱を感じて手袋を借りた時のことをぼんやり思い出した。氷を操る術の使い手でも冷血漢のように思う一面があっても、同じ体温を持つ人間なんだな、なんて。
借りた手袋は諱名を入力するときに外してこちらで目を覚ました時につけ直したので今も手を包んでくれている。
一方、これの持ち主は素手で雪の中を歩いてきたのだ。そのことに気づいて手袋を外した。
「あの、今更なんですけど、手袋返します」
「ああ、ここから助かったら洗濯して返してくれ」
洗濯機で洗っていいんだろうか。洗剤だって安物しかないんだけど。
「普通に洗濯機でやっちゃっていいんすか?」
「試してくれてもいいけど言い訳は聞かないからな」
こんなことだったら実家を出るときにもうちょっと家事を習っとくんだった。
扱いに困る手袋を揉みながら見つめていると「とにかく今はつけておけよ」と言われたけれど、これを必要としているのはやっぱりスティーブンの方だろう。長い指が赤くなっている。
少しでも暖められないかと思って自分の両手を脇に挟んでみてから「失礼します」と控えめに断って両手でスティーブンの手を包み込んだ。体温がないみたいに冷たい指先に自分の熱を染み込ませるように時間をかけて暖め、自分の手の方が冷えてきたら摩擦熱を狙ってこすり合わせた。焼け石に水だったけれど。
随分年上の上司はされるがままでもみくちゃにされる手を見ていた。
どれほど暖められたかはわからないけれど、多少はマシになっただろう。ずっとぴくりともしなかった指先がやんわり握り返してきた。手のひらを合わせて指を交互に重ねて握ると相手の指の先が自分の手の甲に触れる。そうするとまだまだ冷たいな、と思う。そんな手遊びの何が面白かったのか、スティーブンはゆるゆると握ったり緩めたりを繰り返して手の感触を味わっていた。
子供っぽい仕草だ。
「スティーブンさん」
「なんだ」
「さっきの、三十年前の事件のこと訊いてもいいっすか」
なんとなく訊くなら今という気がして踏み込んでみた。三十年というとちょうど子供の頃のことなんだろう。話の着地点には予感があった。
「君って結構物怖じしないよな」
少し間があって、抱えた膝の間に白い息をこぼしながら語り出した。コーヒーにミルクを垂らしたみたいに、いつも冷静で計算の張り巡らされた横顔に幼さが混じった。
「僕の子供の頃の故郷の話だよ。まだ普通の子供だった。むしろ人より発達が遅くて仲間に置いて行かれることもしょっちゅうだった」
「今からじゃ想像つかねっす」
「誰だってほんの幼い頃とはまるで違った大人になったりするもんだよ」
レオナルドは人外の力を手に入れてしまった以外は特別変わったことなどないので「そういうもんすか」としか言えなかった。
「事件の被害者はそんな仲間たちだった。何かが一つ掛け違っていたら僕も被害者だっただろう。たまたま鈍くさくて、いじけた野郎で、転んだ自分を誰も心配してくれなかったのに拗ねて転がってたから助かった。みんな先に教会に行ってしまった。」
追いかけなかったらそのうち誰かが心配して引き返してきてくれると思っていたのだ。置いて行かれてもみんな友達だと思っていたし、いつもならすぐに誰かが様子を見に来てくれた。そういう優しさに甘え切った子供だった。
だけど、その日は待っても待っても誰も戻ってこなかった。雪の日だったから尻は冷たくなるし、なんだかもうすべてが嫌になって家に帰ろうかと思った。そんなときに教会の鐘が鳴ったのだ。教会には今仲間たちしかいないはずだから悪戯でやったらな大目玉だ。だけどみんなそういうヤツじゃない。
帰ろうとしていた足も止ったが様子を見に踏み出せもしなかった。そのとき教会の扉が開いて男が出てきた。記憶と少し格好に違いはあるが、絵を見た時に間違いないと思った。同じ男だった。
「男はやっぱり礼拝帰りの住民と何ら変わらない自然な態度で、だけど明らかに異質な容姿だった。田舎町にあんな美しい男はいなかったし、具体的には言えないが人間らしくない雰囲気があった。子供の方が敏感というから、僅かでもオーラのようなものが感知できていたのかもしれない。
そのままそこに立ち止まっていたら彼女のような道を辿って一緒に捕まったのかもしれない。だが、その時は偶然にもある女性が街に滞在していたんだ。
牙狩りの、エスメラルダ式血凍道の師匠になる人だ。恐らく、当時はまだ今ほどの力を持っていなかった奴は師匠一人に苦戦して子供たち諸共どこかへ消えた。
残された子供を回収しに来る可能性はやはり師匠も考えたようだった。今の僕らはライブラという組織で動いているが、師匠はそうじゃなかった。しかも、ちょっと突き抜けた性格だったもんで、勝手に僕を弟子にとることを決めて親を言いくるめて連れ出された」
「牙狩りの人ってみんなそんなんなんすね」
思い出すのはザップとツェッドの師匠だ。やっぱり突き抜けた性格で、突然連れてきたツェッドを一方的に「預ける」と言ってライブラに託してどこかへ行ってしまった。レオナルドらも一度だけ会ったことがあるが、それはもうとんでもない人物だった。ザップ曰く“ボロ雑巾”のような人間かどうかも怪しい見た目で人語すら話さない人物を思い浮かべていると「さすがにうちの師匠は見た目上は普通のヒトだから勘違いしてくれるなよ」と釘を刺された。
「強引ではあったが、今は師匠の判断に感謝してるよ。技も、それ以外でもかなり鍛えられたからな」
それ以外って言うのは電話一本で人を脅したり何日も徹夜で鬼のような書類を捌いたりすることも含まれているんだろう。なんとなく察して口を閉じる。
「忙しい人で、世界を飛び回ってたから故郷にはずいぶん帰ってない。そのうち師匠と離れてからもクラウスと一緒にライブラとして忙しくしていたし」
「そうして例の血界の眷属を探してたんですか」
「どうだろう」
戦う力を手に入れたときは仇討ちが頭をよぎったが、ヤツではないたくさんのバケモノと対峙しているうちに固執する気持ちはどこかへ隠れてしまった。敵は一人じゃない。目の前に立ちはだかり世界に害をなす全てのものだ。いつか出会うかもしれないと思ってはいたが、わざわざたった一体のことを探していたわけじゃない。
気づけば何十年も過ぎていたし、最早攫われた仲間の生存に夢は見ていなかった。
「もう、過去の友人たちのような子供が出なければいいとは思っていたよ」
父から「お前は助かってよかった」と言われた。何がいいのか少しもわからなかった。
近所の同年代の子供が一度に消え、一人だけ助かったお蔭で妙な勘繰りにもあった。バケモノの仲間だとか、他の子供を犠牲にして一人だけ逃げ出したんだとか。冷静に考えれば馬鹿なことだけれど、可愛い我が子を喪って亡骸も戻らない親たちは何か理解できる存在を恨みたかったのだ。大人になった今ならば納得には至らずとも理解はできる。
そんな状況を見透かした上で師匠は親元から生き残りの子供を奪ったのだ。
「…………だが、未然に防ぐのは難しかったな」
対策をしたつもりだったのにマリーは連れ去られてしまった。今こうしている間にも事態は進行しているだろう。頼みの綱の携帯も繋がらないので何もわからなかった。記憶を覗き込む瞳の中で雪が静かに世界から色を奪っていく。子供たちの消えた街は精彩を欠いて、春は来ないかのように思われた。
虚ろなスティーブンの眼前にずいっと携帯が差し出される。
「大丈夫ですよ。俺ちゃんと送信しましたから」
ディスプレイには長たらしい諱名と、送信成功の印が表示されていた。
「クラウスさんなら絶対に大丈夫です」
糸目に力強い自信が漲っていた。青く輝く義眼も瞼で隠れている今、彼はどこからどう見ても小柄で非力な一般人だった。それなのに鼻水を垂らしながらも気丈で、全てなんとかなると思ってる。そんな風に見えたし実際思っているんだろう。
「自信があるんだな、少年」
「そりゃまあ、もし残されのが自分だったならヤバかったっすけど。僕、ライブラにきてからクラウスさんが負けたとこは見てないんすよ」
レオナルドがやってきたのはライブラにとっても転機だった。少年はクラウスと一緒に何体もの血界の眷属が密封され力を失うところを見ているが、それは少年がいる現在だからこそできることなのだ。誰より非力な彼がいるからクラウスは勝てる。
「確かにそうだ」
スティーブンは指を絡めていた手を一度離して改めて差し出した。レオナルドがスティーブンの手と顔を見比べる。
「こんなときだが言わせてくれ、レオナルド。ライブラにきてくれてありがとう」
少年は自分より大きな手を握り返した。信頼の握手の形で、固く。
幸いなことに吹雪は程なくして収まった。
しかし雲の薄いところを通して見えた陽の位置からして日暮れまで時間もない。いくら天候が落ち着いていても夜の森を歩くのは危険だ。
もし人里に出られなければ一旦小屋に戻ることを決めて外に出た。
歩きづらい腐葉土を踏みしめ、後ろにはもちろん氷の茨を残して。
「ちょっと待ってください、この先に何かあります」
一キロも歩いた頃に立ち止まって義眼を使うと、そこから更に二キロ先に何かとがった人工物が見えた。
「塔か何かありますね。あと多分そのへんに人もいます」
「よし、急ごう」
ボロボロの体を支え合って足を前に出す。コンパスが違うレオナルドにスティーブンが合わせた。鬱蒼とした木立の隙間から光が差すようにして街並みが見えてきた。
「…………教会だ」
レオナルドの見た塔のようなものがスティーブンの眼にも輪郭を結んだとき、二人は歩みを止めた。教会の十字架が道を示すように、二人の立つ森に向かって真っ直ぐに影を伸ばしていた。
その建物には見覚えがあった。多少記憶よりも違うところもあるが、傍に赤い屋根の家があって、反対側には煙突の目立つ家がある。
堪らず駆け出した。疲労で競歩と変わらない速度ではあったが。レオナルドも必死に追いついて夕暮れの街に飛び出した。
森から車道に野生動物よろしく飛び出してきた二人にクラクションを鳴らして車が横切っていく。
道の対岸で初老の女性が見つめてくるが、どうも不審者扱いだ。仕方ない。軽装で吹雪の森から飛び出してきたスーツの男と少年のコンビなんて不審がらない方がおかしい。
通報される前にここがどこか訊いた方がいいだろう。レオナルドが声をかけようとしたとき、老女がその名前を呼んだ。
「スティーブン!」
「えっ」
「母さん……」
「えええっ?!」
彼女は冷たい地面に崩れ落ちた。両手で顔を覆って。その姿がレオナルドにはマリーの母親と被って見えた。
車道を渡ってボロボロのスティーブンが母親を抱き支え、母親は息子がびしょ濡れなのも気にせずにすがりついた。
レオナルドは思いがけない久しぶりの帰郷に立ち会ってしまったのだった。
◇ ◇ ◇
「はい、はい、大丈夫です。っていうか普通にスティーブンさんのポケットマネーで帰れそうなんすけど」
暖かい風呂に暖かい食事に暖かい布団でゆっくり休ませてもらって洗濯までやってもらった。きれいになった服にはセーターのおまけまでついて戻ってきた。なんでも息子が顔を出したら渡そうと思って用意していたのにちっとも帰らないままで、やっと再会したら父親より大きくなってしまっていたから行き場がないんだそうな。それがちょうど今のレオナルドにちょうどいいサイズなのだとか。何歳のスティーブンを想定して作られたものかはついに聞けなかった。
家の固定回線を使ってやっと通じた電話でライブラに連絡を取った。例の毛皮の男は無事密封され、子供たちも解放されてケア施設に運ばれたそうだ。
「ね、クラウスさんは大丈夫だったでしょ」
茶化すつもりで言ったら思いのほか優しい顔で微笑まれた。実家効果なのか九死に一生効果なのかはわからないが、貴重なものを拝んでしまったレオナルドは非常に動揺した。一蓮托生雪原行軍でずいぶんと距離が縮まっちゃったもんな。などと浮かれていたらすぐに「手袋の洗濯忘れてくれるなよ」と釘を刺された。いつもの何を考えているのかわからない顔で。
ヘルサレムズロッドまでは飛行機の距離に飛ばされてしまったので、自家用ジェットだのなんだのという話も飛び出たが、スティーブンが実家を離れている間にも仕送りし続けていた多額のお金で二人分の交通費を立て替えるぐらい簡単だったので辞退することになった。ただ住み慣れた街に戻るだけだけれど、戻ったら戻ったで書類や街で勃発する事件に忙殺されるのだ。今回ばかりは留守番組に任せて急がず帰ろうという意見に、レオナルドも賛成だった。
「今度はちゃんと正面から、連絡寄越して帰って頂戴ね!」
三十年分ぐらいまとめて世話を焼いてくれた母親に何度も念押しされて故郷を後にした。
旅立ちの朝はヘルサレムズロッドにいては拝めないような青空で、教会の十字架も民家の屋根も子供の駆けていく路上の雪も、森の残した氷の茨もすべて融けていた。二人は雪解け水が太陽に反射してキラキラ輝く道を歩いた。