11月26日深夜/傑生存if傑駆/4420

 気がつくと兄の漕ぐ自転車の荷台に乗っていた。
 昨日まで兄との仲は拗れているとばかり思っていたから不思議だった。
 それでも、小さい頃みたいで嬉しかった。
 兄の声は聞こえなかったけど、僕は兄にサッカーを辞める決意をしたことを打ち明けた。
 スッキリすると同時にとてつもなく寂しくなって、兄のリアクションを待っていた。
 その時、ふと振り返ると鉄骨を山のように積んだトラックがゆっくり迫っていて、慌てて兄に「危ない、避けて」と叫んでも聞こえないみたいに無反応で。

 目を開くと薄暗い天井が見えた。
 息苦しくて、全身に汗をびっしょりかいているのがわかった。
 起き上がると汗が冷えて、ここが現実なのだと実感する。
 深く息を吸って、吐いて、今のは夢だったんだと自分に言い聞かせた。
 夢は一呼吸ごとに輪郭がぼやけていって、細部が思い出せなくなる。
 それなのに、あんまりにもリアルな夢だったというのは心から消えなかった。
 恐怖とショックがまだ心臓をわしづかみにして喉元を締め上げる。
 あれは夢だとわかっているのにどうしようもなく涙が出て悲しくなった。
 夢の最後に見えたのは、頭から血を流してピクリともしない兄の姿だった。

 傑はドアが開くガチャリという音で目を覚ました。
 頭だけで振り向くと、明かりも付けない廊下から駆が覗き込んでいた。
「……どうした?」
 声をかけるとようやく傑が起きていることに気づいたようで、そそくさと部屋に入って慎重に扉を閉じる。
「ごめん、起こした?」
「気にするな」
 その日は早くに眠り始めたお陰でたっぷり睡眠が取れて頭がすっきりしていた。
 これからまた寝直すのが難しいというほど冴えているわけでもない。
 寝間着姿で枕を抱いた駆は扉の前で立ち止まったまま、他の部屋で寝ている家族を気にしてか声をひそめて言った。
「あのさ、一緒に、寝てもいい?」
 思わず口を半開きのまま黙ると、慌てて付け足す。
「一緒じゃなくて…えっと、ベッドの横の床とかでいいんだ!」
 思えば昔は何度もこんなことがあった。
 テレビでホラー番組を見た夜とか、トイレが怖いというので連れていった後一人部屋に戻りたくないと言う駆を布団に入れてやったこともある。
 もう何年も前のことだ。
「……ダメ?」
 不安そうに尋ねられて断れなくなった。
 掛け布団の端を捲ってやる。
「ほら。」
 もうお互い中学生で、小学校の時に買ってもらたベッドに二人で寝るのは窮屈だった。
 でも、呼ばれた駆は素直にベッドに潜り込んだ。
「お前は壁側行けよ。落ちるから。」
「もう落ちないよ!」
「美都が起こしに行くと半分ベッドから落ちてるって言ってたぞ」
「それは、それは布団がずり落ちてるだけだってばっ」
 口を利いてみると何のわだかまりもないみたいに話ができた。
 部活やサッカーの話をするたびに嫌な空気になっていたのが嘘のようだ。
 小さい頃はいつだってこうだった。サッカーの話をする時が一番楽しくて。
「お前、袖が濡れてる」
 素直に壁際に移動して持参した枕をセットしたところで駆の袖のシミに目を留めた。
 最初は何かこぼしたのかと思ったが、恥ずかしげに隠した様子でピンと来る。
「さては怖い夢でも見たんだろ」
「……っおやすみ!」
 答えないままガバッと頭から布団を被った。それでも布団越しに傑の笑い声が聞こえてきて、意地を張り切れず、起き上がって吐息みたいな声で怒鳴った。
「兄ちゃん笑いすぎ!寝れないよ!」
「人の布団にきて偉そうに言うなよ」
 傑が寒いと訴え駆を布団に引き戻した。もうじき十二月で閉め切った二階といっても冷える。
 二人布団に潜って背中合わせになると、少し足を折りたたもうとしただけで膝が出そうになるけど、ひっつきそうで触れ合わない背中だけは暖かい。
「どんな夢見たんだ?」
「交通事故の夢」
 詳しくは言わなかった。最後に見た傑の死ばかりが鮮明に瞼の奥に張り付いて、それを傑本人には言いたくなかったから。
「昔より現実味があるな。小学校の頃はでかい雀に追いかけられる夢でビービー泣いてたっけ」
「そんなのもう憶えてないよっ」
「あと、そうだ、俺が代表招集されたときに代表チームが負ける夢見たって縁起でもないこと言って…」
「ゆ、夢なんだから仕方ないじゃん!あとでセブンに教えてもらったけど、現実の逆の夢を逆夢っていうんだって。」
「ああ、お前があんなこと言うから余計に負けるかって思ってさ」
 一点リードされて折り返した後半。見事な逆転劇だった。
「正夢より逆夢の方が多いんだって。深層心理が…えーと、そうなるんだって」
 詳しく聞いた説明は忘れてしまったけれど、逆夢の例えとして“死”の夢についても聞いた記憶がある。“死”を夢で見るのは再生、新しく生まれ変わるという意味がある。
 自分が死ぬのは「生まれ変わりたい、やり直したい」という願望。誰かが死ぬのはどんな意味だっただろうか。
 兄と二人で事故に遭って、何が再生するというのだろう。
 ふと、喧嘩をしていたことを思い出した。喧嘩といっても駆が一方的に怒ったり拗ねたりしていただけかもしれないけれど。
 同じ家にいてもどんな顔で何を話していいか分からずにいた。その関係が再生するという暗示ならいいのに。
ポツリポツリ話しているうちにゆっくり体が暖まっていく。一言ごとに駆の返事が小さくなり、そして
「……駆?寝たか。」
 傑がそれきり口を閉じると、暗い部屋は規則正しい呼吸音で満たされた。

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 眠りが浅くなった夢うつつに背中から包み込まれるような暖かさと重みを感じてゆっくり目を開く。
 白い壁。それはいつもの自分の部屋と同じものだったけれど、布団の色が違った。ここは兄の部屋だ。そこから記憶が繋がり始める。
 じきに背中に感じているのが兄の体温だと気づいた。一人で寝て目覚めるときにはない、安心とくすぐったさがある。
 だとすれば、この重みは。
「ん……」
 重さの正体を探るように身じろぐと、それは、腕はびくりとしてすぐにどけられた。その動きで目が覚める。
 まだ鈍い頭ながら驚いて振り向くと、傑は寝返りを打つところだった。
「兄ちゃん…?」
 返事はない。寝ぼけていたのだろうか。いや、起きていたから今背を向けられているのだ。
 ゆっくり一つ一つ考えて「何故」にぶち当たると、目の前の兄の背中が自分を拒絶しているように見えた。
 照れくさくて?バツが悪くて?僕に悪いと思って?
 グラウンドでは誰より背筋が伸びていて歳の差が一つだなんて信じられないくらい広い背中が、今は年相応に小さい。
(兄ちゃんも怖い夢でも見たのかな)
「兄ちゃん」
 二度呼んでも返事はなく、そっと触れると、一瞬だけ背中が震えた。服の襟から氷でも入れられたみたいに。
 振り返らない兄を追いかけなくちゃいけないような気がした。狭いベッドの上で、兄はそこから動かないのに。
 傑は頑固だった。自分が正しいと思う限り誰が相手でも譲らない。でも、駆を無視したりはしなかった。
 もう一度手を伸ばして肩に触る。もうピクリとも動かなかった。
 身を乗り出して、肩に乗せた手を腹に回して、グッと近づいて首元に額を押し付けた。
 兄の匂いがする。毎日同じものを食べて、布団もまとめて色違いで買ったものだし、洗濯洗剤も一緒。シャンプーも一緒。それでも傑の匂いは駆とは違う。
 幼い頃はもっと簡単にひっついてこの匂いを感じていた。懐かしさに目を閉じる。
 いつ頃からだろう。一緒の布団で眠ったり抱きついたりしなくなったのは。
 傑が中学に上がる頃にはもうしなかった。
 どこかから「ブラコン」っていう単語を覚えてきた同級生に連呼されて恥ずかしくなったからだ。
 中学生になった今も新しいエッチな単語を覚えると大喜びで言いたがる奴がいるけれど、小学生のときはもっとだった。
 始めはなんだかわからなくて、意味を聞かされてバカにされてるんだと思ったらいたたまれなくなった。
 それ以来、外で兄と距離をとり始めた。傑もしばらくして一人で風呂に入るようになり、理由がない限り同じ布団に入れてくれなくなった。
 年を重ねるごとに傑は忙しくなっていった。物理的に離れている間に、駆は大きなトラウマを作った。
 兄弟の距離がもっと近かった頃ならば、傑はもっと手を差し伸べてくれたかもしれない。でも、海外遠征から帰った傑は、落ち込む駆を甘やかしてはくれなかった。
 それを境に駆の不調と比例して兄との距離は大きくなるばかりだった。
 あと四ヶ月ほどで傑は中学を卒業し、また距離が生まれる。
 寂しさにが冷たい風のように胸に吹きこんできて傑の腹に回した腕にギュッと力を込める。体がぴったりとくっついて、冷えた胸が傑の体温で中和されていく。
 兄の背中にしがみついているのは気持ちよくてそのまま眠ってしまいたい。
 しかし、身じろいで足が触れたとき、傑が身を捩った。
「……駆」
 向き合うと体と体の間に隙間ができて冷たい空気が滑りこんできた。奪われたぬくもりが恋しくても、正面から抱き合うのは変な気がして手が伸ばせない。
 暖かい手が駆の頬に触れた。布団からはみ出した頬が冷えているせいで熱く感じる。気持ちが良くて目を閉じるとやんわり上向きにされ、唇にも体温が触れた。
 驚いて目を開けても近すぎて焦点が合わない。
 それでも、見えなくてもわかる。唇が重なっていることぐらい。
 反応できずいると、軽く唇が離され、今度は生暖かい下が触れた。口を割って唇の裏を舐められてゾクリとした。腹よりもっと奥が疼いて背筋を這い上がって胸にじんわり沁みる。痛いぐらいに心臓がドキドキして苦しい。
 これはいけない。反射的にそう思って兄の体を押し返した。
「に、兄ちゃんっ…」
 少し離れてようやく輪郭を結んだ傑はカーテンの隙間から差し込んだ月の光を目元で反射していた。どうしようもなく弱々しい、兄のそんな顔を見たことがなかった。
 そこが境目だった。拒絶しなければいけないのは駆の方だった。
 でも。
「駆…ごめん」
 そう搾り出してベッドを降りようとした傑のシャツの裾を捕まえてしまった。覚悟だとか、選択した自覚などないまま傑を引き止めた。追いかけなくちゃいけないような気がしたから。兄が遠くへ行ってしまうような気がしたから。
 引き寄せられるまま傑は駆の腕の中に戻る。そして両腕で自分より一回り小さい体を強く抱いた。
 お互いまだ十五と十四になったばかりの冬のことだ。
 家族の寝静まった時計の音のうるさい夜。狭いベッドの中で寒くて仕方ないみたいにひっついて兄の忙しない拍動を感じながら眠った。
 夢を見た。怖くて泣いた夢の続きのようだった。
 兄が自分の中にいて、でも話せない。駆の胸に傑がいた。
 眠りに落ちるまで感じていた兄の鼓動が自分のものになっていた。
 一つになって二人じゃなく一人でピッチに立って、でもずっとそばに兄がいた。
 もう怖くはなかった。