NYの夜/モブスティ/4247

 濡れた頭にタオルを乗せながら事務所に入ると熊のような男が手にした受話器を置いてすっ飛んできた。
「どうしたんだ」
「どうしたもこうしたも、外は土砂降りだよ。ああ、ここは地下だからな。次に事務所を引っ越すことになったらやっぱり地上にしよう」
 髪の露の落ちるあたりしか濡れていないスーツの肩を誤魔化すためタオルを引っかけていたら彼はあっさり信じた。観察力がないわけじゃなく、全面的な信頼があるので慎重にこちらを観察してこない。
「来たばかりで悪いがバンパス氏が行方不明との連絡が入った」
「どうせ愛人のところにでも行ってるんじゃないか」
「いや、欠かさず出席していた会合に無断で欠席しているらしいんだ」
「そうか。でも人探しは僕らの出る幕じゃないだろう。トラブルの正体が判明するまで一旦落ち着こう、クラウス」
 心配性のリーダーを椅子に押し戻してタオルを被って背広を脱いだ。クラウスの死角にあるクローゼットのハンガーにかけ、手狭なキッチンでコーヒーサーバーをセットした。コーヒーが飲めるまでの時間にあまり吸わないタバコに火をつける。換気扇は回しているが、どうしても空気がこもりがちだ。普段は誰からともなく禁煙を守っているが、二子を身ごもった女性メンバーは産休中なので見逃してほしい。
 我らがスポンサーの一人であるミスタ・バンパスは愛煙家なんだ。寝床でぐらい遠慮すればいいのに、お蔭で毎回美味くもない煙を食わされてる。
 でもそれももう二度とない。彼が馬鹿なことを言い出したから。箱の中のタバコはちょうど今のが最後の一本だ。
 そういえばバンパスは仏教徒だった。仏教の弔いには線香をあげるんだそうだ。愛煙家の男にはタバコの煙の方がいいだろう。
 スティーブンは天井を見上げて紫煙を細く吐き出した。

 彼女が産休からの育児休暇終了を申し出たのは次男が三歳になった頃だった。
 電話連絡があったすぐ後にたまたまスーパーで遭遇した。彼女、K・Kはスティーブンを嫌っていたけれど、可愛い坊やの前では口を慎む方針らしい。
「やあ、久しぶりだね」
「あら、奇遇ねスティーブン」
 よりによってなんであなたなの?そんな色の滲む目だけで牽制しながら、口先では穏便に「ママの会社の人よ」なんて紹介する。
 腕にしっかり抱いた次男坊はやんちゃそうな目で一人前に“ママの会社の人”を値踏みする。それに対抗してスティーブンは一番優しそうな笑顔を作った。女ならこれで食事の誘いぐらいは受けてくれるが、人並み外れて強いママを守護する三歳のナイトには通用しなかった。
 K・Kの腕の中で暴れて床に降ろさせると、流行りのアニメヒーローのキメ台詞を舌ったらずに叫んでスティーブンの長い脚にパンチやキックを繰り出してきた。
 いい教育してるよ。「こら、やめなさい」なんて言いながら口元が笑っているよ、K・K。
「そういえば、来週末イタリアから来客があってね、接待にバーンズの店を使おうと思ってるんだけど」
 足元を走り回る子供を追いかけまわしていた彼女が顔を上げ、スッと目を細めた。
「それは素敵ね。来週のいつですって?」
「土曜の夜、十時の予定だけど今からでも予約はとれるだろうか」
「そうね、大丈夫じゃないかしら」
「ありがとう。バーンズに電話してみるよ」
 にこやかに手を振り陳列棚の陰に消えていく男を彼女は忌々しげな舌打ちで見送った。

 深夜十時の廃ビルの窓がフラッシュをたいたように明滅する。
 それを合図に引っ越し屋のトラックが入口を隠すように停まった。
 ワンフロアぶち抜きの三階は機械の残骸と人間の残骸が氷まみれになって床を埋め尽くしていた。階段から湧き出るように音もなく現れた黒服の集団がフロアの中央のスティーブンとK・Kに道を空ける。スティーブンは彼らに片手を挙げて、足音も潜めず階段を降りた。そこがデスクと電話の音と書類の飛び交うオフィスで、黒服たちが部下であるかのように、スーツ姿のスティーブンだけが何気ない表情と足取りで出ていく。その後をK・Kが続いた。
「いつ見ても気分悪いわ」
 黒服たちを指して彼女が言う。三年も現場を離れてごく普通に赤ん坊の世話に勤しんでいた分余計に思う。
 連中はスティーブンの命令で何でもやる。今夜もあらゆる残骸を回収し、ここで何もなかったことにするのだ。そしてスティーブンを狙ってのこのこ現れた武装集団は行方不明になる。
「仕事復帰したばっかりだってのにすまないね」
「そう思うならこれしきのことで巻き込まないで」
「それについては心から謝るよ。まさか僕相手にこんな無勢でくるとは思わなくてさ」
「噂の新型生体兵器さえ出てこなかったじゃないの。舐められてるのよ」
「どこで温存してるのやら。でもま、早く終わって良かったじゃないか。この報酬は以前と同じ口座でいいのかい?」
「相変わらず金払いだけは抜群ですこと」
「手厳しいな」
 スティーブンの個人的な“お願い”の報酬は専用の口座に貯めてあった。私財の中で一番汚い金なので手を付けないことにしている。“お願い”を聞かなければ、最悪組織の番頭役の身が危ういこともあるので渋々引き受けるが、報酬目的ではないし、無償で働くのも嫌なのだ。
「今回なんかライブラとしてやっつけても良かったじゃないの」
「向こうが全員参加で仕掛けてくれたらね。残党を残してこの間酷い目にあったんだ。二度手間はもうこりごりだよ」
 そしてスティーブンは廃ビルの陰に停めてあった車に、K・Kはバイクに跨った。
「さて、じゃあ僕はもう一仕事行ってくるよ」
「この続きでもしてくるわけ?」
「そんなところかな」
 更に言葉を続けようとするスティーブンを片手で止める。
「詳しいことは聞きたくないから結構よ。ろくなことじゃないのはわかってるもの」
「はは。それじゃまた事務所で」
 男の運転する車が高級ホテルに向かって発信するのを見届けて「やっぱりろくでもない」と呟いた。

 プライベート用の携帯から電話を入れるとすぐに部屋のドアが開いた。
「いらっしゃい、コールガール」
 出迎えたのは個人的なスポンサーだ。付き合いは長い。機嫌さえよければ資金でも情報でも何でもくれる。
「シェリダンさん、すまないんだけど先に一つ頼みをきいてもらえるかな」
「私が君の頼みを断ったことがあったかい?」
 紳士然とした微笑を浮かべてエスコート馴れした仕草で腰を抱いてスティーブンを部屋へ迎え入れた。手短に情報を聞き出して始末屋に連絡を入れると携帯の電源を切る。それがマナーだ。
 件の残党掃除がわざわざ自分で手を下すほどのものでなくてよかった。先に頼み事をして作った借りを返さないで一度帰るハメになったら面倒だ。ツケは可能だけど利子が高い。
 ネクタイを引き抜いて襟元を緩め男に身を委ねた。

 朝の通勤ラッシュの街の流れに乗って移転して間もない事務所に戻ると数時間前に別れた彼女がいた。
「おはよう。K・Kが留守番?クラウスは?」
「温室の世話よ。それよりあなた、着替えぐらいしなさいよ」
 目敏くスーツが昨夜と同じことを見抜かれた。似たようなやつを何着か持っているのに女性はこういうところをすぐに気づく。
「いいんだよ、クラウスには昨日は会ってないから。それにちょっと仕事したら一度帰るさ」
 クラウスに知られなければ何とでもなる。少なくともK・Kは凡その事情を知っている。もう何年も前、お互い若かった頃にへまを踏んだところを助けてくれたのが彼女だ。そのおかげでクラウスに隠れてやっていることを彼女は知っているし、困ってヘルプを頼めば何だかんだいって無下にできない。頭が上がらないのはスティーブンの方だけれど、彼女だってスティーブンの働きがクラウスや組織のためになっていることも理解している。理解しているだけで気に入らないとは言い続けているが。
 温室に臨む窓辺に立つと朝の光が眩しくてスティーブンは目を眇めた。
「朝日の似合わない男ね」
 彼女はスティーブンが何をしたって気に入らないのだ。特に今朝のような闇の臭いべったりで帰ってくる日は。
「いつまでクラッちに隠れてそんなこと続けるつもりなの?昔に比べたらウチの資金源も増えたし仲間も増えたじゃない」
「世界が平和になるまで…かな?アッチの方は僕もいい歳だし、向こうが飽きる頃かと思うけど」
「そんな事情を訊いてんじゃないわよ性悪男!」
「んー、心配してくれるのは嬉しいけど……汚れ仕事はどうしても出てくるもんさ。個人的に恨みを買ってる部分もあるしね」
 ライブラのリーダーは清廉潔白な紳士だ。大きな体で野獣のように見えて繊細で優しく、頑なに正しい。それは一般人の夫と幼い子供を立派に育てているK・Kと比べてもだ。頼もしく美しい。でも、どれだけ強くても真っ直ぐ前に進む駒だけではゲームには勝てないものだ。
「そこまで不器用だと見ていて頭に来るわ」
「不器用だなんて初めて言われたよ」
「何それ自慢?ムカツク!」
 緑と光の中に大きな体と赤い髪が見える。幼い頃見た絵本の中の熊みたいだ。心優しく森で泣いていた子供を助ける熊。
「俺はコレでいいのさ。良心は全部クラウスに預けたんだ」
 好きでもない相手と寝ることには馴れたが、夜明けにはいつも溶けてなくなりたくなる。
 昔訪れた海外で連れ込み宿に窓がないのを見て理由を尋ねたことがあった。その地区の客は売春やワケアリの客が多く、行為の後の自殺が多いのだそうだ。男の部屋から帰る朝にはそのことを思い出す。同時にクラウスの姿を見たくなって、無理やり出勤する。
 眩しく優しいクラウスを見ると、伝承の吸血鬼みたいに陽の光で溶けて消えそうな魂が人の形に戻ってくる気がするのだ。
「その分小狡いことはクラウスの分まで俺が担当する。釣合とれてるだろう?」
 茶化した口調で振り向いた先ではK・Kが背を向けていた。彼女だって愛情深い人だ。クラウス同様光の中で生きる方が向いている。
 温室からこちらに気づいたクラウスが片手を上げたのでスティーブンも片手で応える。そうするとクラウスは微笑む。少し距離があってよく見えないが、それでもスティーブンにはわかるのだ。

 数年後、ニューヨークは霧に包まれた異界との境界“ヘルサレムズ・ロッド”になった。
 元々牙狩り集団であった秘密結社ライブラは改めてヘルサレムズ・ロッドに腰を据え、世界の均衡を保つため異界との境目で活動する組織として動き出した。
 世界の平和に向かって大きな一歩を踏み出すのは、それから更に三年後のこと。