Restart/山崎宗介/13563

※二期終わりぐらいに書きました。

 軽い動きで腕を持ち上げた。手で庇を作って見上げた空を飛行機が飛んで行く。
 視界の端では花の散った桜の枝にはぱらぱらと緑が芽吹いていた。
 どこも痛くない。気温が上がってきたので被っていたパーカーを脱いだ。その動作にも肩は悲鳴を挙げない。そうなればいいと願っていたとおりに健康そのものだった。怪我が治った肩はふわふわ飛んで海風に吹き飛ばされそうなほどに軽かった。

 四月。
 窓際で庭の雀を眺めていたら、母親に呼ばれて、家の車庫にある軽トラに乗った。車体の前後に初心者マークが貼ってある。薄っぺらい財布には真新しい免許証。取得からまだ半月も経たないが、練習と言ってあちこち運転させられたから不安はない。
 助手席は空のまま、自宅の車庫からゆっくり発進した。行き先は親父の船が帰ってくる港だ。
 親父は結構大きな船に乗っている。到着した頃には仲間と荷の積み降ろしをしていて、先に俺に気づいた漁師仲間の徳三じいさんが大声で呼んだ。
「おーい、そうちゃん来たぞ!」
「お疲れっす。今日どうっすか?」
「好調、好調、絶好調!なぁ?」
 じいさんの振り向いた先で親父が面倒くさそうに頭をかく。
「徳さんはいつも絶好調じゃねぇか」
「いいじゃねぇか。今日みたいな日は船に乗ってるだけで気持ちいいぞ。そうちゃんも船乗らねえのかい?」
「いや、俺は……」
「コイツは漁師になりたいわけじゃねぇんだ。俺の船になんか乗せてやるかよ」
 ほれみろ、お前の親父は頭がかてぇぞ。そんな顔でじいさんが俺を見る。俺は肩をすくめた。

 半年前に進路について相談した時も親父は漁師になることを許さなかった。
 中学三年の時、競泳のスポーツ特待生として東京の私立高校に行きたいと言った時は黙って書類を書いてくれた。
 高校二年の時、オーバーワークで肩を痛めて競泳を諦め、地元の全寮制高校へ転校したいと連絡した時も静かにぽつぽつ質問されただけで反対なんかされなかった。
 そして地元に戻った去年、何度進路についての面談をやっても進学とも就職とも言わなかったら、ついには親が呼び出された。全寮制のおかげで遠方に実家があるやつも少なくなかったが、生憎と近場に実家があったので、親父がやってきて三者面談になった。親にも教師にも同じことしか伝えていなかった。行きたい学校もやりたい仕事も今はない、ということだけはっきりしていた。親父もペラペラ喋る方ではないし、「息子のしたいようにさせます」の一点張りで困った教師が訊いた。
「山崎さんのご実家は漁業だそうですけども、宗介くんに家業を継がせる、とかは…」
「させません。コイツがどうしてもってンなら下積みからやらせますが、やりたいことがねぇから手近な道を取るつもりなら許しません」
 はっきりと言われてしまった俺は晴れて無職となった。部活を引退したらやることがなくなったから、勉強だけはしっかりやっていたけど、やっぱり受験はしなかった。たくさんの金と時間をかけてまでどうでもいい学校に行くのも気が進まず、このご時世に高卒就職は楽ではなく、検討したというポーズ程度に調べた求人票の中に興味あるものはなかった。
 そんな俺に親父は「若い内はなんとでもなる。勝手にしろ」と言って、母親は実家に帰った日に俺の好物を山ほどこしらえてくれた。それは正直かんべんして欲しかったが。
 三年生の授業がなくなってからは教習所に通った。いずれ就職するにしても地元では普通免許は必須だった。今のところは家族の送り迎えにしか活用できていない。
 親父を乗せて家まで向かう道中にタバコ屋がある。そっちを見ていたような気がして寄るかと尋ねたら「要らん」と言ってガムを噛み始めた。喫煙家のくせに、俺がいるところでは吸わないようにしているらしかった。俺はもうスポーツを辞めた身で、気なんか遣ってもらうことないのに。

 三年の夏の大会が終わり、同級生部員たちと一緒に予定通りに引退した後の半年間。けじめをつけるつもりでプールには立ち入らなかった。
 俺の進路が決まらず、勉強以外はぼんやり過ごしていることは同じ寮で暮らす後輩にもバレていて、理由をつけて誘われても断った。泳ぎを見てほしいだとか相談に乗って欲しいだとか。そんなのは凛に頼めばいい。松岡凛は卒業後、中一から留学していたオーストラリアに戻って競泳を続けることが決まっていたし、水泳部の部長を務めていた。凛にわからなくて俺にわかることなんかない。
「体鈍らせとくと太るぞ」
 凛にそう言われてランニングと筋トレだけは続けていた。筋トレだって怪我した肩に負担のかからない程度だ。今更痛めつける必要がなかった。不特定の誰かに追い抜かれるのが嫌で、タイムが落ちていくのが怖くて無理に泳いでは怪我を悪化させていたんだ。泳がなくなった今は負けもタイムもない。
「四十肩って知ってますか。要はアレのようなものです。おじさんとかが着替えの時に腕を上げづらそうにしてるのを見たことは?競泳を辞めたって服は着替えるし、高い棚の上のものを取ることもあるでしょう。若いのに四十肩なんて親戚の子に笑われますよ」
 近場の親戚に年下はいなかったが、逆らう理由がなかった。じれったくなるようなリハビリを暇つぶし程度のこなした。
 そうしたら、卒業する頃にはさっぱり痛まなくなっていた。皮肉なものだ。治療のために泳ぐなと言われても、競泳を諦めないうちは何ヶ月も水の中で練習できないなんてあり得なかった。だから症状が軽くなっては無理をして悪化させ、常に焦りに苛まれた精神とセットですっかり不治の病のようになっていた。実際、諦め悪く競泳にしがみついていたら永遠に同じことの繰り返しだっただろう。
 オーストラリア行きの飛行機に乗る凛を空港で見送った時、凛が缶コーヒーを投げてよこした。去年の夏に、隠していた肩の怪我を見破るために凛は同じことをした。あの時は思うように肩が動かずに缶を落としてしまったけど、今度は当たり前にキャッチした。
「お前、もう肩良くなってるんだろ?なら……」
「わかってるだろ、俺は半年も泳いでないんだ。今更やったって、お前みたいに夢は叶うなんて思わねえよ」
「そんなのわかんねえだろ。ハルだって、ちゃんとしたトレーニングから三年も離れてたんだ。それでも二年で巻き返して全国まで行ったんだぞ」
「十六からの二年と十八からの二年は違う。わかるだろ、凛」
「…………わかったよ。俺からはもう言わねえ」
 そう言って去っていった。同じようなことは後輩からも言われたし、医者にもやりすぎなければ泳いでいいと言われている。でも、やり過ぎるぐらいでなければ今から泳いでも仕方がないだろう。
 親は何も言わなかった。親父はそういう性格だし、母親は親父に口出ししないよう言われてるらしい。ありがたかった。

土曜の午後、外を半袖の中学生が走っていく。季節は夏に近づいていた。
 行きたい学校が見つかったときのためにと続けている問題集を閉じて一息ついた。
 この季節を実家で過ごすのは三年ぶりだ。高校の間はずっと寮生活だったから。
「着替え忘れた!」
「ンなもん乾かせばいいだろ。遅刻するから急げよ」
「パンツ濡れたら最悪じゃん」
「ノーパンでいいだろ、ほら早く!」
「くっそ、一緒に遅刻して怒られてくんねーのかよ!」
「ふざけんな、走れよノーパン!」
「まだ穿いてるっつーの!」
 開け放った窓から会話が丸聞こえだ。プール清掃だろうか。体操着でやるのが恒例だが、途中で水のかけ合いになって、終わる頃には男子は全身ずぶ濡れになる。小学校のプール清掃では、俺と凛は示し合わせたわけでもないのに水着で参加していた。
 プール開きが待ち遠しくて、面倒臭いと言っても誰より張り切って掃除した。ホースを取り合った凛は遠い海の向こうで今頃泳いでいるだろう。
 気持ちが半分だけ小学生の頃に戻って走り出したいような気がした。でも立つことすらせず、畳に伸びて何にもない天井を見上げた。畳の上からでは空も見えない。
 襖を引く音がして目を向けると、母親が宿題をサボったときみたいに呆れ顔で見下ろしていた。
「休憩中」
 先回りしておく。
「そう。ならちょっと車出して頂戴」
「どこまで?」
「秋沢先生のとこまでおつかい」
「秋沢って……スイミングクラブのか」
「もう連絡してあるからね、玄関の袋に野菜入ってるから。ちゃんといって来てね」
 言い終わるか否かのタイミングでピシャリと襖を閉めて言い逃げした。何か企んでる。大方、また泳ぐ気にさせようって腹だ。でも今更プールを見たくらいでやり直すつもりはない。そんなので泳ぐなら怪我が治った卒業頃に高校のプールに飛び込んでる。
変な気遣いも期待も、もう辞めて欲しい。俺の夢はもう終わったんだ。
「まったく……………」
 気乗りしない。起き上がりもしないでいると、台所でガチャガチャ音を立て始めた。自分は手が塞がってるから必ずお前が行くんだと念押しされている。
 仕方なく思い腰を上げて軽トラのキーをとった。

 佐野スイミングクラブは車で五分の場所にある。三十分歩いて通った小学校より近い。
 昔は歩いたり走ったりして通ったものだが、今日は車だ。車を乗り回すようになると子供の頃平気で歩いた距離も億劫になると母親が言っていた。最近少しそれが理解できるようになった。身体鈍っているようで自分にがっかりする。
 訪れるのは三年ぶりだろうか。もっとかもしれない。凛に付き合って去年オープンした岩鳶町の新しいスイミングクラブを訪れた記憶と重なって、建物が思い出よりも古ぼけて見えた。玄関も自動ドアなどではなく、重いガラス戸を押し開けなければならない。
 ガラス越しの内側は昔のままだった。正面の受付に座っている職員の顔ぶれが違って、スタッフ用のポロシャツのデザインも変わっていたけど、ロビーのベンチも自販機もそのままだ。だけどドアノブの位置はずいぶん下になっていた。自分の目線が高くなった。何もかもが小学校の頃より小さく見えて、なんだか場違いな空間に迷いこむようで扉の前で立ち止まってしまった。
 玄関の目の前で立ち尽くしていると、受付の女性が気づいて事務所の奥へ声をかけた。すぐに受け付け奥の部屋から白髪の館長が出てきて向こう側から扉を開けてくれた。
「いらっしゃい、宗介くん」
 怒ると怖い人だけど、いつの間にか小さくなって、白髪に隠れた頭頂部のハゲが見える。
「……お久しぶりです、秋沢先生」
「よく来たね。ほら、入って。事務所でお茶でも飲んでくかい?それともプールの方へ行く?」
「いや、俺はすぐ帰りますから」
 野菜の入ったビニール袋を渡そうとしても秋沢先生は手を出さなかった。
「田舎じじいが客を黙って帰すわけないだろ。ほら、お茶入れるから入りなさいよ。柴谷くーん、宗介くん来たよ!」
 廊下の奥へと叫ぶと、水着の上にハーフパンツとジャージを羽織ったコーチがスリッパをパタパタいわせながらやってきた。小学校の頃に教わった人で、こちらは腹に肉が乗っている。
「宗介、今実家いるんだって?」
「はい、まあ」
「凛は?」
「オーストラリアに戻りました。中学ンときの留学中に知り合ったコーチのついてるチームでやってます」
「アイツ薄情だな。岩鳶の方には顔出したらしいのにこっちには顔も出しゃしねえ」
「柴谷くん、プールの用具の準備終ったの?」
「途中ですよ。館長が呼んだんでしょ」
「じゃあやっぱりプール見ていきなよ、宗介くん。内装ちょっとリフォームしたんだよ」
「壁塗り直しただけだぜ。去年にな」
「……いや、あの」
 体を軽く引くと、背中の真ん中をしわしわの手がポンと叩いた。
「大体の話はお母さんから聞いてるよ。それでも僕らは久しぶりに会った教え子ともっとお喋りしたいんだ。ちょっとぐらい寄っていきなさいな」
 優しい秋沢先生の反対側から、逃がさんとばかりに柴谷コーチが腕をつかむ。
「…………じゃあ、少しだけ」
 事務所に入った記憶は一度だけ、凛と大喧嘩して二人まとめて説教された時だけだ。そこで応接用の折りたたみ椅子を勧められた。
「今は怪我の方は大丈夫なの?」
 遠慮なしに訊かれても、誤魔化す気にはならなかった。昔の秋沢先生はなんでもお見通しで、調子が悪いのに無理してプールにいると早上がりするよう言われたものだ。
「動かしても痛みはありません。医者からもお墨付き貰ってます」
「そうか。じゃあ泳ぎたくはならないの?」
「……今から凛に追いつこうとしたら、またすぐに怪我が再発するでしょう。遊びで泳げればいいなんて性質でもありません」
「だよね。宗介くんは昔っから頭の固いところがあったもんなあ」
 そういう問題か。内心腹を立てながら苦笑いで受け流すと、秋沢先生がおもむろに立ち上がって故障していた肩に触れた。
「動かすよ」
 形を確かめるように撫でさすってからゆっくり持ち上げた。
「痛めてる時はこれぐらいでも痛かったの?」
「はい」
「楽な姿勢で動かしてない時は?」
「動かす時だけです」
「手術は?」
「してません」
「お医者さんの言うこと守ってた?」
「……………」
 叱られる時の空気だ。怒った顔はしていないし怒鳴るわけでもない。だけど細い目にじっと見つめられるだけで、自分の罪を責められている気がする。熱っぽいのを黙ってプールに入って上がろうとしなかった時にもこうだった。
「アスリートに大事なことはなんだい?」
「…………」
「肉体の限界を無視してでも続けるハードな練習かい?」
「………違います」
「信念のために他人の忠告を無視する直向きさかい?」
「………違いますっ」
「それなら、挫折を受け入れる潔さかい?」
「………………っ」
 答えられなかった。その質問は先の質問と矛盾して感じられた。息苦しさに目を逸らす。
「諦めることは必ずしも負けじゃない。逃げとも限らない。新しい素晴らしい未来もあるかもしれない。それを欲しいと思えるならね」
「……すいません」
「なんで謝るのさ。本当に競泳を辞めるならそれだっていい。でも、たまには会いに来て仲良くして欲しいけどね」
 緊張をほぐすように、仲直りの合図みたいに背中をさすられた。秋沢先生の手は魔法の手だ。小学生の時はそう呼んでいた。
 他で受けていたものと先生のやり方は違うけれど、要はスポーツ整体だ。少しの筋トレやランニングは続けていても、疲れがたまっている自覚はなかった。だけど、先生の手が背中から肩、首の下を動きまわると、心なしか肩周りが軽くなった。勉強疲れなのかもしれない。
「プールは見ていかないの?泳いでもいいよ」
「それは遠慮しときます……どうせ水着も持ってきてないし」
「そんなの別に……」
 入口のほうが賑やかになって二人で振り向いた。ちょうど会員の小学生が集まってくる時間だった。秋沢先生に促されて一緒にロビーに出る。
「秋沢先生、ちわーッス!」
「よろしくお願いしまーす!」
「はい、こんにちは。今日は早いね」
「今日学校休みだもん。早く来た方がいっぱい泳げるじゃん」
「俺今日からバッタやるんだ!」
「えー」
「シュウくんバッタ嫌い?」
「だってフリーのがかっこいいじゃん。はえーってかんじで」
「柴谷コーチあんまバッタ得意じゃねえしな」
「それは否定出来ないなあ」
 小学生と一緒になって秋沢先生が頷いているところへ、準備を終えた柴谷コーチが戻ってきた。顔を見せるなり大注目でため息をつかれて大袈裟に怒ってみせる。
「なんだお前ら!さては人の悪口言ってたな!」
「柴谷くんのバッタがダサいよねって言ってたとこだよ」
「館長まで悪口ッスか!ダサいってなんだよ、フォームはおかしくねえだろ!」
「あ、そうだ。宗介くんバッタ専門でしょ。柴谷くんの代わりに一本だけ泳いでいかない?」
 急に話を振られて身構えた。さっきからチラチラと「誰だコイツ」と言わんばかりに寄せられていた視線が一気に集まる。
「秋沢先生、誰この人」
「君たちの先輩。ここの出身でねえ、バッタがすごく速いんだよ」
「先生、そういうの勘弁して下さい」
「柴谷くんのバッタよりかっこいいよ」
「館長、そういう悪口やめて下さい」
 逃げ出したい気持ちで後退りするも、すぐに受付カウンターにぶつかってしまった。
「水着なら貸すって」
「でも半年も泳いでないんですよ」
「それでも、水の中で少しも前進しないとまでは思ってないでしょ?休む直前のタイムは出ないかもしれないけど、小学生には負けないって思わない?」
「それは……」
「中年太りの目立ってきたバッタの苦手な柴谷くんにも負けないって思わない?」
「館長!」
「その程度の自信でいいんだよ。ここは同年代の揃った大会の会場じゃないんだから。ストップウォッチだって押さない。本当に無理だったらやらなくてもいいけど……」
 そこでチラリと小学生に視線をやる。期待と疑いの入り混じったたくさんの瞳がずらりと並んでいる。返事に窮していると、その中の一人がつまらなさそうに声を上げた。
「コイツ、ビビってんじゃねーの?」
「シュウ、コイツって言っちゃダメだろうが」
すかさず柴谷コーチが諌めるが、小学生は挑戦的な目で上から下まで俺を値踏みする。
「こんなこと言ってるけど、どうする?」
 秋沢先生が脇腹をつついてくる。凛だったら、絶対に受けて立つところだ。俺は凛じゃないけど。でも、ガキの頃からの負けず嫌いの魂は凛とそっくりだった。
 このスイミングクラブに通っていた頃、小さな凛が先を走りながら振り返って「やらねえのかよ」といえば細かいことなんかどうでも良くなって、叱られることでも苦労が待っていようとも駆け出していた。「踏み出す勇気もないのか」って馬鹿にされるのは我慢できなかった。反射的に走り出したい足が疼く。
 既視感が額を打った。指先で眉間を押さえて絞りだすように答えた。
「……一本だけなら」

 念入りにストレッチしながら体の調子を確かめる。痛みはない。違和感もない。一度フリーで軽く流してからスターティングブロックに上がった。
 真っ直ぐな青いプール。馴染み深いのにどこかよそよそしく水をたたえいてる。実家を出てから初めて帰省したときみたいだ。そこで毎日寝起きしているときにはわからなかった自宅のにおいを初めて知って、なんだか他人の家みたいに感じる。そこにいていいと許されているのに、居場所がないような居心地悪さがある。
 もう泳がないつもりでプールを捨てたのだ。居心地が悪くて当然だ。水に意思なんかないが、水を嫌えば水の中で体を思うように動かせない。
 慣れと、水の性質を理解すること。抵抗を減らす。効率的に水を掻いて推進力を得る。前に進むための姿勢と動きで水に適応していかなければ自由を奪われて終わる。
 何ヶ月プールを離れても一度覚えた知識は消えていかない。速く泳ぐための動きをイメージして、ゴーグルを額から下ろした。慎重に体を屈めて足に力を溜める。さっきまでプールサイドで騒がしくしていた小学生の声が消えて、意識がスタートの合図に集中していく。頭が空になるほど体はスムーズに動いた。一番力を出せる姿勢、足の位置。筋肉の動かし方。
 集中が最高点に達するのを見極めたようなタイミングでホイッスルが響いた。指の先から水に滑りこむ。集中していたのに反応が少し遅れた。でも、体の動くままに泳げばぐんぐん前に進んでいく。重い水を力づくで後ろに押しやって前へ。競う相手はどこにもいない。静かで、戦いの相手は自分自身しかいなかった。
 基準がないせいで速いか遅いかもよくわからないが、気づくと壁の前にいた。ターンしてゴールを目指す。思っていたより肩が軽く動いた。秋沢先生のおかげかもしれない。痛みや違和感もなかった。
 もっと強く体を動かしたい。もっと速く進みたい。そう思っているうちに遠くの壁がすぐ近くに迫り、慌ててタッチの形で手を伸ばした。
 水面に出ると少し息が切れていた。ちょっとやそっとの陸上トレーニングでは埋まらない確実な衰えを感じる。荒く呼吸するごとに背中から感じる必要がないはずの焦りが迫ってきた。荒くスイムキャップごとゴーグルを外した勢いで水面を打つ。
 情けなさで眉間に皺を寄せながらプールサイドを仰ぎ見た。穏やかに微笑む秋沢先生に並んで小学生たちが前のめりにこちらを見ている。その中の一人、生意気な口を聞いた男子、シュウと目が合った。ロビーでの疑うような目がまん丸になって、水面の光を反射してキラキラしていた。
「宗介くん、お疲れ様」
「いえ……」
 秋沢先生が子供たちを振り返る。
「みんな、どうだった?」
「すごい」
「すごかった!」
「コーチよりかっこよかった!」
「バッタはえーじゃん」
「高校生すげー!」
「宗介くん、高校は卒業してるけどね」
「柴谷コーチよりすげーじゃん」
「俺は専門じゃねえんだから仕方ねえだろ!いちいち比べるな!」
 水から上がると、シュウが難しい顔で近づいて見上げてくる。睨まれている。
「何だよ」
 口を引き結びながらも何か言いたそうな様子で、じっと言葉を待った。
「…………バッタ、どうやんの」
「は?」
「速いバッタッ!どうやるんだよっ!」
 悔しさか、照れか。シュウは何かを爆発させるように叫んだ。思わず秋沢先生を振り返る。
「シュウくんは宗介くんの今の泳ぎでバッタやりたくなったみたいだよ?」
「そんなこと言われたって」
「もう来ねえの?バイトとかさ、やればいいじゃん」
「おいお前、勝手なこと言ってんなよ。ちゃんとコーチいるだろうが」
「ちっげーよ!バッタならなんでもいいんじゃなくて速くてカッケーのがいいんだってば」
 小学生の目には速かったのかもしれないけど、そんなに何度も褒められるような泳ぎじゃなかったはずだ。期待されたって困る。もう一度突き放す言葉を言おうとした時、秋沢先生が静かに割って入った。
「宗介くんの泳ぎはね、たしかに力強くてかっこいいけど、真似は難しいだろうね」
 濡れた肩を躊躇いなく触って動かされる。
「宗介くんは肩関節が柔らかいけど、大抵の人はもっと固いから無理にやれば肩を壊しやすくなる。宗介くんは教える方のプロではないしね」
「じゃあ、バッタやるのやめる」
「あれ、折角やる気の芽を出したのに摘んじゃったかな?」
「遅いんじゃ意味ねえし」
 いじけた一言に奥歯を噛み締めた。咄嗟に、言いかけた。「そんなことねえだろ」「やってみろよ」全てが即座に跳ね返って自分の頬を打つ。
 自分が小学生でバッタを覚えたばかりの頃には、今はいない別のコーチがいた。バッタが専門で、柴谷コーチがフリーを泳ぐよりも速かった。凛と何度も挑戦しては負けた。負けても諦める気はしなかったし、負けても楽しかった。勝つことだけが楽しいんじゃない。勝負そのもの、挑戦すること自体が楽しみだった。競争だけじゃない。新しく覚えた泳法や、コーチに修正してもらったフォームを自分のものにしていくのもいい。楽しかった。
「じゃあ、シュウくんは宗介くんが教えたらバッタやってみるの?」
 真面目な顔で頷く強い目が眩しくて目を眇めた。
「宗介くん、今はお家の手伝い?」
「いえ、親父は俺を船に乗せる気がないんで、……一応、浪人ってことで勉強してます」
「じゃあホントにバイトしてみる?」
「先生……」
「コーチじゃなくて基本的には雑用スタッフね。時給が安い代わりにプールが空いてる時は好きに泳いでいいよ。無理にならない範囲内でね。あと、柴谷くん、ちょっと不器用だけどちゃんとしたコーチだから頼れると思うよ」
 イエスもノーも即答できずに項垂れた。今更やり直してどうする。
 小さな頃にはみんな無鉄砲な夢を抱く。プロ選手、発明家、宇宙飛行士。だけど、他の子供と競争して、負けて
自分の才能のなさを知る。夢への近道となる学校に入ろうとしてふるい落とされる。いつか叶うと信じていた夢にタイムリミットがあることを知って、努力しても間に合わないと悟って諦める。
 諦めたかなわない夢にしがみついてどうなるっていうんだ。怪我をするまでまっすぐ見えていた向こう岸の壁が、ゴールが見えなくなったのに。
 東京を去った一年以上前に決断は済んでいるはずだったのに断らなかった。
「後でいいよ。うちの子たちの気が変わらないうちだったらね」
 踵を伝い落ちる水滴がプールに繋がっていた。

 プールサイドに並んだ少女が三人、肩を寄せあってぺこりと頭を下げた。
 最近入会した小学生だ。女性スタッフがついてあれこれ説明をしている。
 二学期に入ってまた新規会員が増えた。ある程度泳げる子供は大会に向けて練習を重ねている。更に先の市民大会のエントリー名簿を携えてプールを訪れると、ちょうど泳ぎ終えてプールサイドに上がってきたシュウが駆け寄ってきた。
「こら、走るんじゃねえ」
「なあ、俺次バッタ!バッタ出る!」
「何メートル」
「百!」
「何でだよ、試しに出るにしても五十にしとけ」
「じゃあ訊くなよなっ」
 泳げないことはないだろうが、元々フリーとリレーにエントリー予定だったから、どちらもやるのは厳しいだろう。コーチにお伺いを立ててからだ。括弧を付けて名簿に書き足しているのを不満そうに覗きこんでいたシュウが名簿に柴谷コーチの名前を見つけて指さした。
「これコーチたちも出るの?」
「一般枠あるからな」
「宗介は?」
「呼び捨てすんな」
「大会出ねえの?よく泳いでんのに」
「俺は……泳いでたってタイムもろくに計ってねえからいいんだよ」
 何も考えていないシュウの目から逃れて反対を向くと、ちょうどそこに柴谷コーチが立っていて、危うくプール側によろめくところだった。
「宗介もタイム計ってやろうか?」
 ストップウォッチの紐を指にかけてガキみたいにぶん回している。
「いいです」
「つーかさ、お前出ねえの?年齢別だから近くの大学の奴らとやれるだろ。まだぐずぐず言ってんのかよ」
「そうだぜ、俺とは勝負してくれるじゃん」
 何をわかっているつもりか、シュウが口を挟む。
「小学生相手ばっかじゃつまんねえだろ。この間勝手にタイム計った数字見る限りじゃ、去年の大学生の部の記録といい勝負だったぜ?」
「何勝手に計ってンすか」
「じゃあ、宗介」
「呼び捨てすんなって」
「俺と勝負して俺が勝ったらエントリーしろよ」
「意味がわかんねえし、それじゃエントリーできねえよ」
「やんねーとわかんねーだろ!」
 名簿の空欄をペン先で叩く。
 再び泳ぐようになってすぐに体幹を強化するように言われた。同時にフォームを細かく修正して、量より質の練習を続けている。高校の頃みたいに遅くまで自主練ができるわけでもない。限られた時間で理想のフォームを身につけて、丁寧に泳ぐ。少しでも違和感があれば秋沢先生に報告して、休めと言われれば休んだ。小学生の頃の刷り込みで先生には逆らえない。それでなくても、高校の頃よりも医者やコーチのいうことを素直に受け止められるようになっていた。
 正直を言えば、今の実力がどれぐらいか知りたい。知ってしまったらまた焦りに潰されるかもしれない。今更地方の小さな大会で勝って何になるのかもわからない。だけど、秋沢先生は「大会で勝とうとする目的なんて……」と言ってシュウたちが泳ぐプールを指さした。
「いい成績が出たら自慢してやったらいいんじゃない?生意気な子に一目置かれるのって気持ちいいだろう」
「そんなの求めてません」
「じゃあ、大きな大会で勝ちたかったのはどうして?オリンピックで泳ぎたかったのは?」
 改めて聞かれると、「夢だから」以上の答えが見つからなかった。
「宗介くんが最初に大会で入賞した時、注目されてどうだったか覚えてる?次の大会の時には前回いい勝負だった子がちょうど隣のレーンで、チラチラ様子を窺ってきたって言ってたね。あの時、ワクワクした顔してた」
 自分が強いと思った相手からライバル視されるとゾクゾクする。最終的に、小学校時代の一番のライバルは凛だったけど、大会で目立つやつの名前は大体覚えていた。そいつと同じ組になって見渡すと目が合う。その瞬間が好きだった。
「小難しいことは後回しでいいんじゃないかな。夢は諦めたんだろう。今泳いでいるのだって、諦めたものを拾い直したからってわけじゃない。なら小さな大会の一つや二つ、楽しそうだから参加する、でいいじゃないの」
 そうして名簿に鉛筆書きで俺の名前を書き込んだ。それを元に正式にエントリーする作業は俺の仕事だった。

 大会の会場は老若男女でごった返していた。参加者の年齢幅が広く、更衣室でも同年代と隣合わせにならない。ウォーミングアップ中にようやく高校生や大学生といった同年代の集団を見つけたぐらいだ。張り詰めた空気もない。人口密度に反して自分のペースを守りやすかった。
 出番が近づく。小中学校の頃に見たような名前がいくつか混じっていて、時々視線を感じたのもどうでも良かった。横一列のスターティングブロックの上で体を折り曲げる。束の間、ざわめきが静まって、程よい緊張感が余計な情報を切り離していく。これが試合だ。合図でバネのように跳ぶ。左右に人の気配を感じながら潜り、浮上すると繰り返し身につけたフォームを丁寧になぞる。背中を真っ直ぐにしてストローク、リカバリー。ミッドラインを保ったまま腰を上下にうねらせる。
 ターンの後で、置き去りにした人の気配がまた迫ってきて胸が騒ぐ。焦りじゃない。闘争心が引き離したがって気を逸らせた。あと少し。壁に手が届く。固い感触を手に水面から顔をつきだした。
 遅れて他のレーンがゴールする。拍手と会場を照らす光が頭の中に溢れて、ゴーグルとキャップを握りしめた拳を胸に当てた。
 更衣室から出ると、廊下のベンチから二つの影が落ち着きなく走ってきた。
「山崎せんぱーい!」
 数カ月前に卒業した鮫柄高校の後輩だ。引退の直前に、一緒に凛と四人でリレーを泳いだ、仲間だ。
「なんだ、お前たち来てたのか」
「はい、出場したのは一部の一年生だけなんですけど」
「山崎ぜんぱい……また泳いでるンすね…俺っ……俺っ……!」
 特別落ち着きのない方、御子柴が鼻水のたれた顔で腕に飛びついてくるのをかわして、代わりに顔面にタオルを叩きつけてやる。
「先輩の名前があって僕達びっくりして……肩は大丈夫なんですか?」
 気遣わしげにジャージに包まれた右肩を見たのは似鳥。凛に指名されて今年の部長を務めた。
「ああ、無理はしてない」
「よがっだ……山崎ぜんぱいが復活して……」
 俺のタオルで遠慮容赦なく鼻をかみながら御子柴が何度も頷いた。その心に免じてタオルはそのままプレゼントしてやりたい。
「それにしても先輩すごいです、ぶっちぎりだったじゃないですか!」
「でもタイムはまだまだだ。お前らと泳いだ時には及ばねえよ」
「そんなことないです、山崎先輩なら大丈夫です!これからどこかのチームに入るんですか?来年大学受験するんだったらウチの先生にも話しておきますよ!」
「いや、そういうわけじゃ……」
「いいじゃない、大学受験しなよ。一応浪人生じゃないかキミ」
 やっぱり支度を終えて出てくるのを待っていたらしい秋沢先生と母親がいた。似鳥がとりあえずの会釈をする。
「先生……今回はガキどもに自慢するつもりでやればいいって言ってたじゃないですか」
「小学生どころか、後輩くんにも自慢できる結果を出したじゃないか」
「……できませんよ」
「そう?でも楽しかったんじゃないの?」
 先生の質問はいつも内側の答えを見透かして投げかけられる。
「アスリートに大事なことを知っているかい?」
 限界を無視しないこと。独りよがりにならないこと。色々思い浮かんで躊躇っていると、先に答えが告げられた。
「その競技の楽しさを知ってることだよ。そろそろ先へ進むときじゃないかい?」
 先生の後ろに控えていた母親が先生の言葉に深く頷いた。背中に御子柴の拳が突き刺さる。それを追ってもう一つ、似鳥がそっと拳を押し当てた。
 廊下の向こう側から子供が走ってくる。廊下は走るなと何度言っても覚えない。高校生になったって変わらないだろう。俺の騒がしい後輩がそうだ。
 シュウは先生が振り返った途端にブレーキをかけて早足に切り替え、走るような勢いで叫んだ。
「宗介やっぱスッゲーじゃん!」
「呼び捨てすんなよ」
「じゃ、宗介先生!」
 犬の毛より短い頭に手を置いて、しゃがんでやると俺の方が目線が下になる。暗い廊下でも大きな目が輝いている。
「悪いな、これからはあんまり一緒に泳げなくなりそうなんだ」
 キョトンとするシュウの代わりに御子柴が背中に飛びついてきた。
「ぜんばぁい!」
 ジャージの肩に鼻水をつけてくれた。似鳥が俺の迷惑を察して引き剥がそうとしてくれたが、結局御子柴と一緒になって三人で団子になった。
 凛にメールを送ろうと思う。高校を卒業して、凛がオーストラリアに渡ってからは向こうからの近況報告に短く返事をするばかりだった。
 こんな状況になって初めて、中一の頃の凛の気持ちを察した。小学校卒業とともに留学してから何度か送られてきた手紙は、凛の挫折と同時に絶えてしまった。辛うじて届いた手紙の文面からは水泳についての話題が減っていって、ついには手紙自体が届かなくなった。
 俺だって、何もせず家にいながら燻って、頑張っている凛になんと書けばいいかわからなかった。自分のことを一切書かない返事を遅れ遅れに送って、自分から伝えることは何もない。スイミングクラブの手伝いを始めたことも、なんとなくきまりが悪く感じて黙っている。
 だけど、今度は自分からメールを打とう。一番に伝えなければならない。凛は俺に「待ってる」と言ったから。