さまじろSS集/随時更新/45709

◇実は付き合っていた

 丈の足りなくなった中学の制服姿の二郎は言っていた。
『弟が一人いる。俺の兄弟はそれだけ』
 あの時の寂しげな顔が脳裏をよぎったのは、妹と二郎を含む人質事件が一件落着した後。山田一郎の左右を末弟と囲む二郎の姿を見送った時だ。
 二郎もその弟も一郎のためにわんわん泣いてしがみついていた。うちの妹と同じように。
(兄貴、いるじゃねーか)

 携帯に“J”からメッセージが入っている。
 時間はもうかなり遅く、ガキは寝る時間だ。だが眠れなくて連絡をくれたかと思うと少しムラッとくる。相手が大人の女なら部屋に呼び出されて同じベッドで寝るところだが、
『明日どっかで会うと思うけど兄ちゃんと喧嘩すんなよ!』
 予想が外れるにしても最悪のハズレ方だった。
 釘を刺してくるのも生意気だが「兄ちゃん」というワードが一番イラッとする。「兄」とか「兄貴」とかでもない。二郎は高校生にもなって甘ったれた呼び方で一郎を呼ぶ。
 両親がいないうちと似たようなものだが、山田兄弟は少し特殊な関係だった。
 三人揃って孤児院育ちだが、弟二人と一郎がすれ違っていた時期がある。その間、二郎は必死に弟を守ろうと頑張っていた。
 弟の三郎はとても頭がいいけど友達付き合いは上手じゃなくて、二郎と違って運動神経は普通。だから人に悪口を言われると言い負かして相手の怒りを買って、暴力を振るわれたら勝てない。だから何かあったらオレがとんでいって守るんだ、と。
 小中学時代を二郎はそうやって過ごしてきた。
 部活で期待をかけられていたけど、三郎が具合を悪くした日には躊躇わずに早退して一緒に帰った。乱暴なグループに三郎が目をつけられたら自分が代わりに戦った。
 だけど二郎の所属するサッカーチームが大会の上位に食い込んだ頃に手に負えないことが起きた。
 過去に三郎をいじめて二郎に潰された不良グループが、そのタイミングを狙って復讐に来たのだ。暴力沙汰になればチームに迷惑がかかる。孤児院にも、同じ施設のみんなにも影響が及ぶかもしれない。
 たった一人の弟とその他を比べるまでもないが、まだ中学生の二郎が大事にしている仲間たちや自分の目標を簡単に捨てられるわけでもなかった。
 葛藤と不安でいっぱいの時に出会って、他に頼れるもののない二郎の兄貴代わりのような気分で手を貸した。
 二郎は、立ち上がる支えにと差し出した手を目元に擦り付けて、涙を拭って自分の力で立つようなガキだった。
 兄貴ってのはそうでなくちゃいけない。昔、幼い妹を抱えて生き抜くのに必死だった自分と重なるところもあった。
 もっと大人になれば今よりずっと楽になるだろう。そうしたら自分の助けなんかいらなくなる日が来る。それまでコイツに足りないものは俺が与えてやりたい。そう願うくらいに意地らしい生き物だった。
 それが、いない者扱いまでしていた長兄と和解した途端、『頑張る兄貴』の鎧が弾け飛んだ。
 末尾にハートがつくような声音で「兄ちゃん、兄ちゃん」と一郎の後をピヨピヨついて回っている。
 気に入らない。気に入らないに決まっている。
 一郎は確かに根性のあるブラコン兄貴だが、俺様とは気が合わない。二郎は可愛がっているが一郎は嫌いだ。つまり二郎に懐かれている一郎は百億倍ムカつくということ。
 一応、二郎には隠しておこうかと思った時期もあったがさっさと見抜かれ、大人気ないヤツみたいに扱われてたまにこうしたお節介がとんでくる。
『兄ちゃんは自分から喧嘩しないんだからさ』
『左馬刻さんからふっかけなきゃ大丈夫』
『大人なんだから』
 これでは一郎の方が大人でこっちだけガキみたいに聞こえる。目の前にいたらゲンコツものだ。
 メッセージアプリは便利だが怒りを伝えるのには不便だ。機械的な文字にしたり絵文字やアホみたいなスタンプで表現するとふざけてるようで感情が上手く伝わらない。
 テキストメッセージの返信をやめて代わりに通話ボタンを押した。
『もしもし、オレもう布団の中だから。静かにしなきゃなんないし、ちょっとだけしか喋んないからな?』
 すぐに繋がったが、やれやれと言わんばかりの態度が生意気だ。
「うるせぇ。一丁前言うようになりやがって。お前こそ尊敬する“お兄ちゃん”にバレたくなけりゃ俺のことは知らんぷりしろよ」
『わかってるって。アンタも俺のことよく知らない設定守れよな』
「おうおう、テメェがキスの時に服だの腕だの掴みたがるとか知らねぇし、人が寝てる間にやたら首の周り嗅ぐ趣味があるとかも知らねぇよ」
『なんで知ってんの? 昼寝してるフリして実は起きてたってことかよ!』
 自分で「静かにしなきゃ」なんて言っておいてデカい声だった。
「人を嘘つきみたいに言いやがって。あんだけフンフンやってたらくすぐったいし鬱陶しくて起きるに決まってんだろ」
 こんな調子でよく兄弟にバレてないもんだ。
 兄貴代わりなんて思っていた二郎との関係も数年のうちに恋人同然になってしまった。
 大人の分別で高校のうちは、と線引きして付き合っているが、二郎の方が年頃で時々危うい時がある。自分の部屋で会う時は二人きりで邪魔も入らず、あっちもエロいことに興味津々。その状況でも我慢してやっている身になってみろ。
 いつかは兄弟にも打ち明けたいんだと二郎は言うが、それは今じゃない。今言ったら十中八九、ブラコン兄貴からの大反対をくらうだろう。俺だって妹が一郎と付き合うなんて言い出したら一郎をトウキョウ湾の魚の餌にしてでも妹を止める。
 だから、この関係は二郎と二人だけのものだ。誰にもバラす気はない。
「いいか、気を抜くんじゃねぇぞ」
『わかってるって』
「二人きりになるまで他人のフリだからな」
『大丈夫だってば。アンタは兄ちゃんの昔の知り合いでヨコハマのリーダーってだけしか知らない』
「そうだ。もし次会った時はどうする?」
『中王区で? えーっと……“あ、あんたが碧棺左馬刻……”』
「……プッ」
 意外と迫真の演技だった。笑いながら「イケてんだろー?」と得意げにする二郎に合格点を与えて時計を見た。
「そろそろ寝ろ。寝坊したら会えなくなるぞ」
『うん。多分喋るチャンスもないと思うけど、顔見られるの楽しみにしてるよ』
「ん。じゃあな、二郎」
『おやすみ、左馬刻さん』
 他人ぶった声で呼ばれる名前をひそやかな恋人の声で上書きして、今夜はもう他に誰の声も聞きたくない。
 明日はディビジョンラップバトル決勝に備えて中王区入りする。その前に目を通してくれと部下から渡された書類を放り出してベッドに倒れ込み目を閉じた。

2024/4/1

◇コンビニ

 客のことは紙幣と思え、と賢い人が言っていた。
 朝からタバコひとつだけ買いにきてレジでずっと自分の話を聞かせてくる客も紙幣だ。
 この紙幣は数百円で気軽に絡めるホステスか何かと思っている。レジ台に小銭を投げるようにして出した。ちなみにレジは自動精算機に一本化されており、機械に直接お金を投入してもらうルールになっている。先週も説明したが説明を諦めた方が楽なのでレジ台から身を乗り出して硬貨を機械に投入した。
 生憎客入りの少ない時間帯だった。店内にいる他の客は雑誌を立ち読みしているのでしばらくレジには来ないだろ。面倒な客はこういう時を狙ってくるのだ。
 よし、今日のバイトが終わったらアプリゲームに課金して推しキャラのピックアップガチャを回していいことにしよう。
 そう決めた時に新しい来店があった。
「いらっしゃいませー!」
 これ幸いとばかりに愛想良く発声する。
 若い男性二人組だった。というか、テリトリーバトル決勝トーナメント常連の碧棺左馬刻と山田二郎だった。推しだ。左馬刻が近くに住んでいるとは聞いていたが実際に遭遇するのは初めてで信じられない。そっくりさんかと思ったがそっくりさんにしては顔が良すぎるのでもはや本物だった。驚きと動揺でレジ挟んで向こうにいる厄介客の存在は頭から吹き飛び変な汗が出てくる。
「あ、一番くじ出てる。まだA賞残ってっかな」
 こちらの気も知らず無邪気に二郎がレジに近づいてレジ奥の壁に貼ってあるくじ引きの景品表を覗き込んだ。くじの半券を貼り付けていくと残りの景品の残数がわかる便利な表だ。まだ発売したばかりで半分も売れていないのでA賞の美少女フィギュアは残っている。
 それがわかると自分の財布をバリバリ開いて中身を調べ始めた。超有名人のラッパーといえども高校生だ。小遣いも限られているんだろう。
「うー…」
 唸って財布をしまい、二郎はドリンクコーナーに行ってしまった左馬刻を追いかけた。少ない小遣いではA賞を当てる自信がないのだ。ソシャゲの推しのピックアップイベントカードを引けていないので親近感が湧いた。
 二郎がレジから離れると、停止していたレジの時間が動き出した。つまり厄介客も固まっていたのだ。
 テリトリーバトル出場者でもシンジュクの観音坂独歩あたりなら威圧感も少ないが、左馬刻も二郎も身長が高く、左馬刻に至っては暴力団員幹部だ。コンビニでバイトに絡むのを楽しみにしている庶民にとってはメデューサみたいなものだ。
 そこで潮時を悟って帰ればいいものを、厄介客はまたおしゃべりを再開した。
「それでさあ、この間届いたクーポンメールのね、見方がわからなくて、ちょっと見てくれる?」
 見るとか分かるとか言っていないのにスマホを操作し始める。「これなんだけど」と言われて仕方なく見ようとしたのに、スマホをこちらに差し出すでもない。よく見えない。
 分かりませんすいませんで流せばいいものをうっかりレジ台に手をついて覗き込んでしまった。その途端に過敏な動きでレジ台に置かれた手を触ろうと客が手を伸ばしてきた。瞬きの速さだった。
 そんな時、
「おーい、オッサン。邪魔だからちょっとこっち来いよ」
 厄介客の背後に大きなふたつの影が迫っていた。
 客の手を掴み上げた山田二郎と、カゴにビールと漫画雑誌と菓子を入れた碧棺左馬刻だ。顔がいい。あまりに顔がよくてまたも厄介客のことが頭から抜け落ちかけた。
「左馬刻さん俺の財布からくじ二回だけ引いといて」
 そう言ってレジ台に財布を置いた二郎一人で顔面蒼白の厄介客を引きずり外に出ていく。
「オイ、俺が引いていいのかよ」
 いいと思います。こういうのは物欲センサーというものがあって景品に物欲がない人の方が当たるという言い伝えがありまして。
「はぁ…………百十五番」
「あ、はい」
 面倒くさそうに二郎の財布を拾い上げた左馬刻が番号を告げたので、コンビニアルバイトの仕事を思い出してタバコを取りに走った。
 タバコにビールにコーラに菓子。スナック菓子とつまみ。ジャンプ。
「あとそれから、あのくじ残り全部」
 ひとつひとつバーコードをスキャンしている時に言われて「は?」と声が出た。
「ああ、くじ引きの回数決まってんのか? なら二人…いやあのオッサン入れて三人分で買えるだけでいいわ」
 そうして二郎の財布を開くことなく、ポケットのマネークリップから抜いた数万円を案内にしたがって素直にレジ機に入れた。外で二郎に〆られているいるであろう厄介客のように自分でレジ精算機に金を入れるのすらやりたくないだとか面倒なことは言わない。ヤクザはカタギと余計な争いはしないというが本当だった。
 端数分の小銭を入れないのでジャラジャラ景気良く出てきた釣り銭の小銭は大きな手で一掴みに募金箱に入れ、出てきた千円札は適当に折りたたんで二郎の財布にねじ込んだ。現金を惜しみなくくれるって一体どういう関係なんだ。
 会計後に一番くじの抽選箱を持ってきて枚数を伝えると、悩むことなく上の方からつまんで渡され、なんだかもう何にドキドキしていいのか分からずくじをめくると、E賞、A賞、C賞、E賞、B賞…………
「お、おめでとうございます……」
 ヒキの強さに逆にドン引きである。
 並べられる上位景品に喜ぶでもなく袋に詰めさせ、左馬刻は大きくなったら荷物を邪魔そうに提げてさっさと店を出ていった。ちょっといい匂いがした。

 その日のバイト終わり、ソシャゲに課金してガチャを回した。今日は運気が最高に高まっている気がしたからだ。

2023/3/7 たまこさんのお誕生日記念

◇耳を塞ぐ、喉を震わす

 聞いたことのない独特のフローだった。ぐにゃぐにゃしてビートを無視しているようにも聞こえるのにちゃんと音にハメて何かをぶつけてくる。
 ラップの熟練度に反してダメージらしい感覚がなく、妙だと思いながら自分のヴァースを歌い始めて、言葉を発するごとにビートが聞こえなくなった。
 耳を塞がれたように、自分の声しか聞こえない。まるで一人の部屋で壁しか話し相手がいない夜みたいに。

 肩を控えめに叩かれる不快感にイラつきながら振り返ると、怯えた様子の部下が何度も頭を下げながら書類を見せてきた。なんのことはない。いつもの仕事だ。普段なら遠慮なく提出してくるものを申し訳なさそうにされると腹が立つ。
 だが部下が悪いわけじゃないのも分かっている。目上の人間がイラついていたら下は顔色を窺ってしまうものだ。そうじゃない奴は馬鹿か余程の器の持ち主か。
 応接用のソファで書類をチェックして顔を上げると馬鹿が向かいに座っていて舌打ちした。音が全く聞こえないと部屋に人が入ってきたことすらわからない。
 昨夜、シマを荒らしているチームとやり合ってから自分の声以外の音が聞こえなくなっている。
 人の声も、物音も、ヒプノシスマイクを起動して流れ出すビートも聴こえない。お陰で仕事は捗らないし、携帯が鳴ってもわからない。電話はもちろん取れないし、おまけに静かすぎてよく眠れなかった。
 寝不足と細々した不便さに苛立ちがピークの時に来た山田二郎はニヤけたアホヅラでこっちを見ていた。何か口をぱくぱくさせている。
 適当に視線を振って目が合った部下を呼び寄せ、二郎が言ったことを紙に書かせた。
『まじで聞こえてねーの? 珍しくドジったじゃん。この前俺がミスったの散々詰ったのになー。おーい。兄ちゃん最高。左馬刻より兄ちゃんの方がカッコイイ』
 手加減なしに全文書き起こされるのを見た二郎が逃げようとするのを応接テーブルを踏みつけて捕まえた。全く耳が聞こえないと不便だ。ガキにもナメられる。

 横断歩道でも信号待ちの間によそ見ができない。信号が変わったのを教える音が聞こえないのがこんなに不便とは思わなかった。
 人が周りに歩いているのに話し声も足音も何も聞こえないのが気持ち悪くて人の少ない道を選んだ。なのに、しばらく歩いた頃に死角から急に腕を引っ張られた。
 二郎だった。直後にすぐ近くを車が走り抜けていった。どうやら車が近づいているのに気づかず危ないところだったらしい。
 この俺が、殺す気で走ってくるわけでもない車に注意しなきゃならないなんてふざけてる。
 さっき事務所で会った時は面白がっていた二郎だが、さすがに事故に遭いかけた直後は真面目な心配顔で、素早くスマホに文字を打ち込んで差し出してきた。
『あぶないから一緒に行く』
 何が危ないだ。ハマを知り尽くしている俺様が、ブクロから来たガキに守られなくちゃならないってか。冗談じゃない。
「ブラコン野郎は中坊の弟の下校でも迎えに行っとけ」
 下唇を突き上げてスマホにまた文字を打つ二郎を無視して一人で帰った。大股で無駄に道を折れて追いかけてこないようなルートを通ってマンションに帰る。
 時間が早いが、こんな状態じゃ仕事にもならないし飲みに行くこともできない 。
 スマホのメッセージアプリに届いていた仕事の連絡──普段なら電話で済ます用事に返信して暇になると冷蔵庫にあった酒を飲みながら二郎が以前部屋に置いて行った文庫本をとった。読みたかったわけじゃない。眠気が来るまで音が聞こえないことをなるべく気にせず過ごしたくて読むものを探したが、家に古紙を溜めたくなくて雑誌や新聞は全部事務所に置いていた。それで見つかったのがアニメオタクご推薦のライトノベルだったというだけだ。しかし物語が始まって間もなくサラリーマンの主人公が過労死し、転生したファンタジー世界で出会う人物の名前だの魔法の名前だのが頭に入ってこない。まあ、熱中できなかったお陰で待望の眠気にはありつけた。起きる頃には音が戻っているよう祈りながら。

 ジャンクな揚げ油の匂いで目が覚めた。
 目を開くとローテーブルにピザとフライドポテトやフライドチキンが並べてある。いつの間に入って来たのか。合鍵を持っている二郎が勝手に広げたジャンクフードを食べていた。
 俺が起き上がったのに気が付いて紙コップのストローを口から放して唇を動かした。
「聞こえねえ」
 言うと眉尻を下げて、床に置いていたノートをめくって大きく文字を書いたページを掲げて見せた。
『だいじょうぶ?』
 小学生のガキみたいなひらがなだけのプラカードだ。
「放っとけ」
 こっちの声は聞こえているだろうに、二郎は自分が飲んでいたのと別のカップを寄こすから飲んだ。氷が解けて薄くなった不味いアイスコーヒーだった。味は良くないが喉は乾いていたから大人しく飲む。ついでにその辺にあったポテトをつまんで食べるとあからさまに二郎が安堵した顔をする。性根がお節介なのだ。
 家主がどれだけ「帰れ」と言ってもノートに書いた『いいえ』を掲げて居座るから、二郎のことは放置で安い油の味がする飯を食べる。
『何かあったら言って』
 視界でノートを振って見せられたが腹しか立たないので無視した。
 食事、一服。スマホを確認して部下から送られてきた資料を確認し、メッセージで指示を返す。知り合いのホステスからも営業メッセージはそのまま部下に回した。こういうのは店が暇で売り上げが悪い時に送ってくる。俺は今日は無理だが、適当に振っておけば誰か飲みに行くだろう。
 ついでにスマホでニュースサイトを適当にチェックした。あっという間にまた暇になった。
 世の中には一日中スマホでゲームやSNSを見てられる人間がいるが、俺には無理だ。生活の隙間を埋めていたのは騒がしい街の喧騒や音楽だった。
 生活の一部が奪われた。苛立ちがぶり返して髪を掻きむしる。うつむいた視界の端で二郎が動いた。また鬱陶しいノートを見せてくるのかと思ったら、テーブルを回り込んで隣に腰を下ろして背中をバシバシ叩かれた。
 そういえばいつも横に座るくせに、今日は向かいに陣取ってテレビを背に床に座っていた。テレビと向かい合いに配置したソファで寝ていた俺の目に入りやすいポジションだ。
 学校の成績なんかはブラコン兄貴に「出席日数が足りてれば卒業はできる」と言われるぐらいのくせに、こういう時は妙に頭を使ってくる。
 一人前に大人を慰めてやろうってか。隣りを見ると二郎はこちらを見ていなかった。ソファに文庫本が投げてあるのを見つけて自分で読み始め、普段部屋に遊びに来る時と同じように過ごし始めた。
 本に没頭している時の二郎は静かだ。俺も用がなけりゃ話しかけたりしない。これは普段通りの静けさだ。
 苛立ちがすぅっと薄れてきて、ソファに深く沈みこんだ。

 夜、ベッドで目を閉じて入眠を待つ間。考えたいわけじゃないのにその日あったことや気がかりなことが頭に浮かんで脳が無になろうとするのを邪魔することがある。
 無音で何も映らない真っ暗なテレビ画面だとか、壁だとか天井だとかを見ているとそれに近い状態になった。普通ならぼんやりすることもできるが、認めたくないが不安、みたいなものが頭の中にあると余計な思考が渦巻いてしまう。だが、こういう時になにか考えたって意味はない。差し迫ってなにか考えて結論を出さなきゃならないこともない。
 そうした余計な思考を止めたくて横を向いた。二郎が本を読んでいる、という視覚情報を頭にぶち込む。
 黙って真剣な顔をしていればガキにしては色気のある容姿で、本を読んでいる時に時々下唇を軽く噛んでから舌で小さく唇を舐める癖がある。あまり気にしていなかったがちょっとエロい。
 そんなことを考えていると話の区切りのいいところにきたのか、二郎が急に振り向いた。口パクで「いるよ」という。ちょうど唇ばかり見ていたからそれぐらいは読めた。
「わかってる」
 別にいつの間にかいなくなってやしないか心配で見ていたわけじゃない。確かに家に来たことにも気づけなかったからよそ見をしているうちに出ていっても分からないかもしれないが。
 さっき噛んでいた下唇を指で触ると本を置いて近づいてきた。キスされて、なんだかこっちが求めたみたいになった。
 頬や耳を触って首を撫でた時に二郎の喉が震えたのが手に伝わる。短い振動だ。聞こえないが、多分名前を呼ばれた。喉ぼとけの辺りの方がより振動が伝わると思って手を添えたのに何も言わなくなった。聞こえてないのが分かってるんだから、そりゃそうだろう。
「何か言え」
 命令したら名前より長い言葉を言ったのが手から伝わって来た。何を言ったかはわからない。大したことじゃないだろう。
「わかんねえ」
 自分でやらせておいて結局何の解決にもならないことを笑うと、二郎が口をへの字にした。でもそれで何か思いついたらしい。「あ」と声を挙げたのが喉の震えでわかった。
 ソファから飛び降りて手を引いてオーディオセットの前まで連れてこられた。CDラックからよく聞いているアルバムを出して、ジャケットを見せつけてからコンポにセットして再生ボタンを押した。当然聞こえない。でも手を誘導されてサブウーファーを触るとよく知っているリズムが体に直接響いてくる。流れる音楽が聞こえなくてもビートが頭の中に鮮明に流れ出し、二郎が手を振ってリズムを取りながら口を開いて歌いだすと俺の頭にも歌声が聞こえるようだった。俺が好きなユニットの曲で、二郎も気に入って、酒が入って浮かれて一緒に歌うこともあった。
「──────」
 歌うと自分の声だけが実際に聞こえる。その瞬間、頭に流れていた音楽が自分の声の存在にかき消されそうになったが、二郎がパッと顔を輝かせて歌い続けるからまた音楽が頭に戻って来た。
 手で歌う喉に触れる。待っていたように受け入れられる。
 どこにいても自分しかいないような無音の世界に音があふれ出した。

「なあ、それくすぐったいんだけど」
 首に鼻先を押し付けると髪を緩く掴んで抵抗されたが無視だ。くすぐったさを耐えるためか引き結ばれた口を指で開かせて「何か喋れ」と催促すると「無茶ぶりじゃん」と唸る。
 何でもいい。唸り声でも。喉を甘噛みしてそのまま舌を押し付ける。
「左馬刻さん、くすぐったいって。左馬刻さんってば」
 ああ、やっぱりあの時は名前を呼ばれた。甘ったるい恋人用の声が俺を呼ぶ。

2023/2/23 さまじろ合同誌「ヨコハマエイリアン」発行記念

◇にわとりとヒヨコ

 コイツと俺だったのは仲間の先頭で俺が戦っていて、コイツが兄弟を庇おうとして前に飛び出してきたからだ。
 衝撃を覚悟していた俺たちの脳が僅かに揺れる。ヒプノシスマイクの攻撃を受けた感覚がある。だが、苦痛を伴うようなダメージはなかった。
 俺とコイツ。同時に互いの方を見た。自分を掠めていった攻撃が弧を描いて相手に直撃したのかと思った。
 その時、デカくて白いニワトリが飛び立っていった。バッサバッサと羽ばたいて抜けた羽根をまき散らしながら、重そうな体でよくもまあと思うほど空高く飛び上がって消えた。
 ひらひら舞い降りる白い羽と一緒に視線を下げたところにコイツがいて、左右で色の違う宝石を埋め込んだような垂れ目をキラキラさせて、ポカンとした顔で俺を見ていた。
 それだけの脅かしだけの攻撃。もしくは精神干渉は不発だった。
 そう侮った俺たちだったが、これはまさしく精神干渉──、洗脳だった。

 ◆

 食ったら寝る。ガキはシンプルだ。もうじき成人するというのに二歳ぐらいしか違わない保護者に「友達の家に行く」とかいうベタな誤魔化しをしてやってきては、前に作ったパスタが美味かったとかなんとか強請り、食べたら皿だけ洗ってソファでウトウトし始めた。イケブクロの顔役なんて気取っちゃいるが、中身は幼児並みだ。
「おい、ここで寝んな」
 前に寝かせておいたら首が痛くなっただの乾燥でのどがやられただの文句を垂れたのでさっさとベッドに追い立てる。
 こういう時の聞き分けは悪くない。ちゃんと自分で歩いて寝室のキングサイズのベッドにもぐりこんだ。
 自分のガタイがいい方だからデカいのを買ったにすぎないが、大人の男二人で寝るようになってからは特にこのサイズにしてよかったと思っている。
 一服して仕事の電話をかけてやることがなくなってから遅れてベッドに入る。ちゃんと半分場所が空けてある。
 寝ているかと思ったガキは起きていて、布団をちょっとめくって俺を迎え入れた。
「寝る前に喫うんじゃねぇよ」
「うるせぇ。俺の家で何しようが勝手だろが」
 服のにおいを嗅いで文句を言うコイツの家に喫煙者はいない。においが気になるらしく、家のにおいに慣れても時々こうして苦情がくる。
「どうせ元からヤニくせぇのに今更一本や二本喫ってきたって変わんねぇだろ」
「今さっき喫ったばっかだとわかンだよ」
 臭いと言いながらもシャツの布地を引っ張って犬みたいに鼻を擦りつけてくる。こんな姿をコイツのブラコン兄弟が見たら泣くやら怒り心頭するやら。とんでもないことになるだろう。
 二年ほど前に違法改造されたヒプノシスマイクの攻撃を食らってから俺たちは洗脳が解けない。

 あの時、空に飛びあがるニワトリの後で初めて見たお互いの顔が頭から離れず、落ち着かなくてイライラして、どうしようもないから応急処置として術の影響が消えるまでの間の数日間を一緒に過ごした。目の届くところにいて触れる手を拒まないでさえいてくれたら大きな問題はなかったのだ。
 妙な攻撃を仕掛けてきた敵を捕まえて調べたところ、本来は最初に見た相手に強烈が執着湧きおこり同士討ちをさせるような術だったらしいが、俺たちは攻撃耐性があったために激しい混乱に至らなかったらしい。ごく弱い痛みを人がくすぐったく感じるよな生ぬるい執着だけが残った。
 時間の経過に伴って状態異常は薄まっていったが、二人で過ごした特殊な時間は記憶に残る。イケブクロの有名チームとして兄弟仲良くテレビに映った時。無駄な人懐っこさで他のチームの連中と食事して大口開けて笑っているのを見つけた瞬間。過去の数日間は俺だけのものだったのに、という念が腹の底で渦巻いてどうしようもなくなる。
 そんな時、とっくの昔に慣れて攻撃を受けることも怖くもなんともないと思っていたヒプノシスマイクが洗脳を施す兵器だと思い出させられる。意味の分からない相手に執着させられて気色悪ささえ感じられない。それは恐ろしい攻撃だった。
 ヒプノシスマイクに操られているのか、自分の意思なのかもわからない。人に動かされていると思うと腹が立つ。それでもコイツが兄貴と因縁のある俺にだけ懐かないのは許せなかった。

2022/3/24 何用に書いたか記憶にない

◇古着屋

「大体テメェは考えなしなんだよ!」
「あんなとこペンキ塗ってると思わねぇだろ?!」
 シャツの背中に不名誉な汚れを貼り付かせた二郎が言い返す。
「アンタだって油断したくせに」
「これは連中にやられたんじゃなく切れたフェンスに引っ掛けたって言ったんだろ!」
 袖が大きく破れたシャツの左馬刻が舌打ちする。愛用のサングラスに合わせて選んだシャツが台無しだ。
「チッ。こんなダッセェ格好の時に限ってバイク移動なんてふざけやがって」
「こっちのセリフだっつーの!アンタが単車でいいっつったんだろ!」
 そして出先で喧嘩に巻き込まれてこのザマだ。喧嘩には勝ったのに言い争いながらバイクを押して見知らない街で服屋を探している。運転する二郎の背中がペンキ塗れだからニケツは左馬刻が拒否。お陰で無駄に歩く羽目にもなった。
 バイクを押すのは当然二郎だし手ぶらで歩く左馬刻は欠伸なんかしている。そういう男だ。もう付き合って十年にもなるから二郎だって文句を言って解決するなんて思っちゃいない。だけど一言くらい言ってやらなきゃ気が済まないから文句を言って、息切れしたところで面倒くささが勝って口を閉じた。

 ピリピリした空気を引きずりながら粛々と歩いていると、軒先にハンガーラックを出した服屋を見つけた。
 横並びを飛び出し、早足で店の前まで来てバイクを駐めた二郎が一番に店に飛び込んだ。見たところ古着専門店で、店の中はハンガーにかけた服がぎっしり陳列されている。
 もう二軒目はない。疲れた。ここで買う。二郎がそう決めた。
 一応ペンキを気にして店主に声をかけると、
「なんだって?喧嘩して塗りたての壁に転んだ?」
「転んだんじゃなくてちょっと寄り掛かっただけだって!」
「ははっ。大丈夫。もう乾いてるよ」
 おおらかに笑ってペンキがついたところを触って確かめる。
 さっきの相手は喧嘩慣れした二人が負けるような強敵ではないにしろ、なかなか性質の悪い連中だったが。呑気な店主のえびす顔を見る限りではつまらない喧嘩で失敗したドジなヤンキーのように思われている。
 晴れて入店許可を得たのに不満げな二郎を鼻で笑って左馬刻がのんびり店に入ってきた。
「ペンキでリメイクしたシャツの買い取りもやってんのか?」
「無料引き取りなら考えてやるよ」
 親指でレジの向こうのゴミ箱を指す。ここで着替えて不要になったシャツも捨てて行けるなら上々だ。
「おい、テメェはそっち見てこい」
「うっせぇ、指図すんな!」
 二人バラバラに古着の森に分け入っていく。
 ほとんどがメンズで選び放題だ。二郎は一応値札を見るが、左馬刻は防犯タグもなしでハンガーラックにぎゅうぎゅう詰めで売っている品物の値段なんか気にしない。
 服の種類や色で分けて、ブランドはごちゃ混ぜで並んでいる服を手早くチェックして好みのものをピックアップする。
 さっさと着替えたい気持ちはあるけれど、すぐ着替えられる環境にたどり着いた今は、どうせなら好きなものを選びたいという気持ちの余裕ができた。新品の服屋と違って種類も多い。
 すっかり機嫌を直して自分の好みのシャツを一枚選んだ後も鼻歌まじりにあれこれ物色している途中。白い開襟シャツを見つけて手が止まった。

「おい二郎。ちっとこっち来い」
 上下二段に分けて並んだ服の壁の向こうから左馬刻が呼ぶ。
 そっちが来い、と少しぐらい思いつつも素直にシャツの森を抜け出し、呼びつけた男を探した。ちょうど二郎も左馬刻に用事が出来たところだ。
 店舗面積は店主一人で賄える程度。すぐ見つかった。
 左馬刻は奥の方のジャケットコーナーにいた。
 木製ハンガーにかけられた一枚の青いスカジャンを突き出して面白そうに口角を吊り上げている。
「見ろ。お前が昔着てたのに似てンだろ」
 それは確かに二郎が左馬刻と知り合った十代の頃に着ていたものに似ていた。あの頃は毎日のようにこんなジャンパーを羽織ってあちこち走り回っていた。
「なんだよ、アンタもかよ」
 二郎も眉尻を下げて掴んでいたシャツを掲げて見せる。白いシャツの左右の胸にドクロの刺繍が入っている。
 二郎がスカジャンをトレードマークにしていた頃に左馬刻が気に入って着ていたアロハシャツによく似ていた。
 どちらの服も過去のそれに似た別物だ。だけど、新鮮な懐かしさが襲ってくる。
 他に客がいないのをいいことに早速シャツを着替えた二郎がいい塩梅に使用感のあるスカジャンに袖を通す。
「結構良くね?腰巻きにいいシャツもねぇかな」
「お前、昔の制服でコスプレする性質か?」
「残念だったな、制服は三郎にくれちまったから見たいって言われても着てやんねぇよ」
 生意気言う二郎の向こう脛を蹴り付けて左馬刻もぼろぼろになったシャツを脱いだ。
 そんな時、店先まで出ていた店主が戻ってきた。
「そこのバイク、君らのだろ?怖そうな連中が集まってるんだけど」
 片手に携帯電話を握って通報するか迷っている。
「あー、悪ぃなおっちゃん。迷惑かけねぇようにするからさ。ちっとコレ頼むよ」
 二郎が脱いだシャツを渡して足早に出ていった。
「二人分の服の代金と迷惑料だ」
 左馬刻がシャツを握った店主の手の上に数枚の紙幣を押し付け、服に合わないサングラスを外してゆっくりとした足取りで二郎の後に続いた。

 外から店内を窺っていた強面の男たちが店内から出てきた二郎の姿を認めて取り囲む。
「よう、色男。さっきはウチのが世話になったな」
「ああ、お陰で服が汚れたから新調したとこだ。でもクリーニング代なら受け取るぜ?」
「ふざけんな!」
 リーダー格の男が濁った地響きのような声で怒鳴った。その脇で年嵩のチンピラがジリ、と後退りして近くの仲間に耳打ちする。
「おい、アレってまさか…………じゃないか?」
 言われた仲間も二郎の細身を上から下、下から上へと確認して小さく息をのんだ。
 そこが逃げ時だった。後に病院で見舞いに来た友人に彼は語った。
 二人組が安いゴロツキじゃないと全員が理解したのはもう一人の客が店から出てきたその時だ。
 白い前髪の下で赤い瞳がギラつく。店の軒下で陰になっていたその顔が陽の下に晒されると一部のささやきは全体のどよめきになった。
「テメェ……碧棺左馬刻?!」
 誰だって知っている。白髪に赤目のアロハシャツ姿。その男のシマに立ち入らなくても噂でその名を聞き、テレビの中でその姿と、ラップと、暴力的なステージングを目撃したことがある。今は第一線を退いたとはいえ、未だにアウトロー界隈で知らない者はいないと言われる超有名人。
 テレビごしに見るばかりだったその姿を目の当たりにし、さっきまでは自信に満ちていた男たちに緊張が走った。
 ただそこに立っただけで全員の注目を集めた左馬刻が鼻を鳴らす。
「おいおい、俺は眼中に入ってねぇのかよ!」
 軽い跳躍。ぐっと近づいた人の気配に振り向く間もなく。左馬刻に気を取られていたチンピラの横っ面がきれいに蹴り飛ばされた。
 青いスカジャンの裾をふわりと翻して踊るように着地した二郎が左馬刻に夢中な連中に中指を立てた。
「俺様の前座が粋がってんじゃねぇぞ」
「前座だけで終わらしてやンよ」
 余裕綽々に二人にリーダー格の男が拳を振り上げて仲間に叫ぶ。
「イモ引くんじゃねぇぞ!囲め!」
 命令に従って前進したチンピラたちの目の前に刹那、好戦的な笑みが横切って視界が回る。殴り飛ばされ、もしくは蹴り飛ばされた頭に最後に残ったのは、仲良く遊ぶ悪ガキのような二人の姿だった。

2020/10/24 おかゆ様リクエスト

◇できたての恋人が可愛くて仕方ない期

 中王から新規の取材対応依頼─依頼とは名ばかりの命令を伝えたミーティングの終わり。左馬刻の携帯が鳴ってディスプレイに表示された名前を確認し、面倒臭そうにしていた眉間が和らいだ。しかしそれも一瞬のこと。携帯を耳に当てるのと同時に表情を引き締め、ともすれば不機嫌そうにも聞こえる声音で「なんだ」とかなんとか愛想なく応じる。
「──あ?テメェで調べろや」
 何か頼まれたらしい。文句を垂れながらしばらく話を聞いて、深く息を吐き出した。
「……仕方ねぇな、次の休みに現物持ってこい。部屋の方でいい」
 事務所じゃなく部屋ってことはデートの誘いじゃねーか。
 用が済むとさっさと通話を終え、煙草を灰皿に押し付けた。最早イラついた空気はない。
「待たせたな。お前らこの後暇ならメシ付き合えや」
「承知した。食材を確保してく…」
「俺が奢るから大丈夫だ」
 食い気味に理鶯を止める左馬刻と一緒に頷く。奢るというのだから素直に奢られておけばいい。理鶯に限っては奢られるより奢りたいんだ、俺たちは。
 足取り軽く事務所を出る左馬刻の後について歩きながら小声でつぶやく。
「春ですねぇ」
「幸福そうで何よりだ」
 今、うちのリーダーはできたての恋人が可愛くて仕方ないのだ。

2019/10/8 SS名刺メーカーでアップ

◇初夏のマーキング計画頓挫について

 風呂上がりに汗が引かない気温になってきた。服は下半身だけ身につけ、先に部屋に上がって寛いでいた二郎にエアコンをつけさせた。天井に近いところに据え付けられた機器から冷風が降り注いだ。
 額にも風を当てた方生乾きの前髪を?き上げると、猫のようにソファにだらしなく伸びた二郎が肘置きに肘を立ててこちらを観察する。
「なにジロジロ見てやがる」
「いやぁ、耳すげぇなって」
 今頃か。出会う以前からピアスだらけの耳に手をやって「これか」と二郎に向ける。
「それそれ。重くねぇの?」
「ホールが歪まない程度の重さのしか着けてねぇよ」
 言ってもあまりピンと来ない様子の相槌を打つ。まあ、真っさらな耳のヤツにはイメージのしづらい話か。カウンターを離れてソファ脇にしゃがみ込み、柔らかな耳朶をつまむ。穴もないし、穴が塞がった後のしこりもない。
「興味あンなら開けてやんよ」
 勿論ピアスそのものだって見繕ってやる。結構本気だった。そもそも、前にひっそり考えたことだったからだ。犬の首輪がわりにピアス。独占欲のアピール手段としてはベタ過ぎて自分で却下した案だが、ピアスを着ける本人が言い出したなら喜んでやってやる。
 親指でさすってやった耳朶をくすぐったそうに肩を竦める二郎もまんざらでもなさそうに見えた。でも急に視線を逸らす。
「……あのさ、兄ちゃんのヤツもアンタ?」
 聞きたくない名前が飛び出した。しかし何を気にしたかはすぐ分かった。兄貴の一郎が昔つけていたピアスのことだ。
 普段なら兄貴のことは禁句だけど今回は腹が立たなかった。二郎がこの世で一番崇拝する兄貴に嫉妬してるように聞こえたからだ。
 さもなくば、俺と決別した兄貴と同じことはやりたくないってところか。コイツは大好きな兄貴の後追いばっかりしているクセに俺とのことに関しては兄貴の真似はしたがらない。
「…………なにニヤニヤしてんだよ。ムカつく。もういい、一生ピアス開けねぇ」
 こっちの返答を待たずに結論が出た。言い方があまりにガキで笑うとますます機嫌を損ねた。
「なら刺青はどうだ。俺が入れてやるとはいかねぇから、いいスタジオ紹介してやる」
 別に機嫌を取ろうとしたわけじゃないが、膨れる目の前で上体を捻って背中を見せる。エアコンの風で汗が引いてひんやりした裸の背中にそっと指が触れた。そこだけ温かくて、図柄に沿ってなぞられるとくすぐったい。
「うーん、小さいのなら興味なくはないけど……兄弟にバレるとマズイから無理」
 指が離れるのと同時に断られた。昔は派手な図柄は極道の象徴だった。それでも昨今はタトゥーという名前で流行してからは堅気でも珍しくもなくなったが。ブラコン連中、特に過保護な兄貴が五月蝿いんだろう。一度入れた刺青はピアスホールを塞ぐみたいには消せない。
「バレないとこにすりゃいいだろ」
 寝そべる体の薄っぺらな服の上から下腹を指差した。下着で隠れる腰骨の内側。それから太股の付け根。さっきの背中の仕返しに指を這わすと、開いていた膝を閉じて薄い唇を尖らせる。
「ンなとこに彫って誰にも見せなかったら意味ねーじゃん」
 俺が見る。俺のためだけに入れりゃいい。
 そういう言葉を誘われてるんだろうか。ガキのくせに駆け引きか?
 言葉遊びや駆け引きの多い大人同士の付き合いに慣れているせいでそんな風に考えたが、揶揄われて拗ねただけのような子供っぽい表情を見ると天然にも思えた。
 こういうところ。アホなくせに考えが読めない。顔を覗き込めば睨み合いと勘違いして迷い混じりで睨み返してくる。
 見つめ合う片手間に寝間着がわりのハーフパンツの裾から手を忍ばせて日に焼けない生っ白い薄い皮膚を撫でると眉根を寄せて息を詰める。それを見ていたら細かいことがどうでもよくなって、下着の中まで指を潜り込ませた。
 それから。現状俺にしか許されない肌を再び服の下にしまう頃には、刺青彫師の手袋越しの手でも触れさせるのが嫌になっていて二度とこの話はしなかった。

2019/8/15アップ

◇2019御中元さまじろ

 走り出したばかりの車内は蒸し風呂状態だ。海浜公園の駐車場には、屋根はもちろん、時間帯が悪くて日陰もない。サンシェードのおかげでシートにケツを乗せることはできたがエアコンが効いてくるにも多少の時間がかかる。これが他人の車なら当たりようもあったのに、今日は自分の車を自分で運転してきた。
 暑い日が続いたから理鶯の様子を見に行こうと銃兎に声を掛けた。ところが警察は一昨日発生したテロ事件の対応でてんてこまい。仕方なしに暇そうなガキを連れてきたが、コイツは俺が言うより先に暑いと言い出す。同じように思っていても一秒でも先に言われると腹が立つ。
「クソあっちー!外の風も涼しくねぇし!絶対熱中症なるって!流行ってんじゃん、熱中症!」
 車に戻ってもこの調子だ。騒いだら快適になるとでも思ってんのか?
「うっせぇ!」
 怒鳴りつけると少しは黙っていたが、大人しく沈黙しているのは得意じゃない。「あ」と声を上げてまた熱中症を言い始めた。
「なあ、熱中症っつって。ゆっくり」
「あ?熱中症」
「ゆっくりだっつってんだろ」
「うっぜぇ!」
「いいじゃん、熱中症、って言ってみ?」
 助手席はさぞ暇らしい。頭にきて信号待ちで急ブレーキを踏んだ。
「うおっ!安全運転しろや!」
 揺れた体をアシストグリップを握って耐えて文句を垂れる胸ぐらを掴み上げ、うるさい口を塞いだ。
「オラ、したかったんだろ」
 放り出してステアリングを握り直す。そろそろエアコンが効き始めた。窓を閉めて冷やされた風を車内に溜め込む。涼しくなると車内もやっと静かになった。

2019/8/7 新書ページメーカーでアップ

◇雨宿りの鍵

 携帯に入ったメッセージに呼ばれて夜の予定を変更する。車を呼んで雨上がりまでいる予定だった店を出た。
 雨が降ったせいで一部の道路が冠水して通行止め。迂回路が混雑してマンションまで三十分もかかった。車窓はまるで滝の裏側だ。ワイパーはアップテンポなビートを刻む。
 車をマンションのエントランス前につけさせて降りた。道路わきから歩道を横切る数メートルでも傘を差すほどの雨だ。そんな中、マンションの軒先で濡れそぼったガキが雨宿りしている。ヘルメットに守られた頭のてっぺん以外は前髪も、襟足も、首下からつま先まで余すところなく雨水を被っていた。
 しゃがみ込んでぼんやりしていた奴の目の前に来ると顔を上げた。雨が激しいせいで近づく気配も感じ取りにくい。
「おうおう、大した濡れ鼠じゃねぇか」
「おっせぇよ」
 立ち上がるのを待ってマンションに入る。水っぽい足跡をつけながらガキもついてくる。
「文句言うぐらいなら他のダチでも当たれや」
「ここが一番近かったんだよ。四輪で走れても二輪はキツイんだって」
 それで三十分も外で待ってりゃ世話ない。
 夜の帳と同時に雨が降り出し、しばらくしてからメッセージが届いた。兄貴の仕事の手伝いでヨコハマまできたが、雨が酷くてバイクで帰れないから家に寄せてくれと。俺に外せない用事があったり気分が乗らなくて承諾しなかったらアウトなのに返信するまで十分待って、それから俺が到着するまで三十分かかった。それだけあれば友人の一人二人捕まりそうなもんだ。
「…………言い訳くせぇ」
「あ?」
 ぼやきを半端に拾って面倒くさそうに聞き返されたが無視した。
 部屋の鍵を開けて先に入ると玄関にヘルメットを置いて、リビングまで来ないで手前の風呂場に直行する。脱衣所から顔を出して叫んだ。
「廊下後で拭くからそのままにしといてくれ」
「誰が拭くかよ」
「あと着替え!」
 舌打ちしてクローゼットの端に少しだけ詰まれた俺の趣味じゃないTシャツとパンツだけ拾って脱衣所の洗濯機の蓋の上に放り投げた。
 ガキの風呂は烏の行水だ。間もなくタオルで髪を雑に拭きながら出てきた。
「左馬刻さん入んねーの?」
 訊かれたのは、脱衣所に俺の着替えはなかったからだ。続けて入るつもりなら自分の分も置いておく。ソファの真ん中から少しずれてスペースを作り、他意なく尋ねた様子のガキを呼び寄せる。
 ガキの考えることはよく分からない。計算でやってるのかと思えば自分の打算に無自覚だったり、こっちの想定より遥かに幼稚なことを考えていて驚かされたことは一度や二度じゃない。多分今日も。
 素直に「座る場所を作ってくれて助かる」みたいなアホみたいな顔で落ち着いてタオルで髪の裾を挟んで拭き始めた肩を抱いて唇を食んだ。慌てるかと思った。煽ってんのかと思って応じたら驚かれるパターンだ。最初の頃なんかセックスはベッドでしかしないと思っていたような節がある。エロ本ぐらい見るだろうに、自分の身に起こる出来事としては酷くベーシックで幼稚な発想しかないらしい。
 だからって合わせてやる気はない。慌てようが適当にしてやりゃ丸め込める。そういうつもりで口を開かせようと下唇に親指をやると、先に自主的に口を開いて浅く顔を覗かせた舌が親指の先を舐めた。こっちの方がちょっとだけ驚かされた。
 乞うように動く舌に素直に食いついて体を引き寄せると、風呂の方で指輪を外してきたらしい手が俺のシャツの裾から潜り込んでくる。キスの下でやり辛そうにボタンを外していく。ベルトのバックルが外れたところで押し倒した。
「……あ、カーテン開いてる」
 今更気にして俺から目を逸らした。どうせ覗かれるような低層階でもないし外は変わらず。真っ暗な空をバックに強弱抑揚をつけた雨が叩きつけている。
「放っとけ」
「夜の窓って鏡みたいに映るじゃん」
 言われて振り向くと、鏡ほど鮮明じゃないにしろソファの上に屈みこんだ自分が映っていた。
「わかんねぇな」
「何がだよ」
 組み敷いた体から退く。ガキは俺がカーテンを閉めに行くと勘違いした様子で起き上がる気配がない。だから腕を引いて起こしてやると不思議そうにして、反対に仰向けに寝そべった俺の腰の上に引き寄せてやっと焦りだした。ガキの計算の匙加減はやっぱりわからない。
「ハメられてるとこ鏡で見たいっつーフリじゃねぇのかよ」
「なんだよそれ!」
 もうこっちはその気だから譲りやしないが。
 ひとしきりやり終えて俺が風呂に行って戻ってきたらカーテンが引かれていた。まったく今更だ。
 欲に素直に動いている間に雨脚は多少弱まった。窓をほんの少しだけ開けて湿った夜気を取り入れる。
 雨の音と程よい疲労感。抱いた後の余韻で肌が恋しいらしく、素直に寄り添ってくる体の重みと肌のぬるさ。雨はうっとおしいが、こういう時間は長く続いても構わないと思う。
 そのうち眠りこみそうになったガキを起こしてベッドに移動する。本気で眠そうだ。首元に鼻先を擦り付けてくるのを顎を引いて顔を上げさせ、犬みたいなやり方じゃなくて人間様らしく口で甘えさせる。
 あんまりやるとこっちが眠るのが惜しくなって困るが、その前にガキの方が眠気に屈服した。それに一晩腕を貸してやって、翌朝だ。
 洗濯機に突っ込んでおいた服を乾燥機にかけて、昨日と同じ服装で身支度をする横から声をかけた。
「持っとけ」
 何にもついていない鍵一本。ぽかんとしてアホ丸出しの顔で見つめているから、追い立てて失くす前にキーケースに入れさせた。説明は要らないだろう。コイツは酔った俺の代わりにこの部屋の鍵を鍵穴に突っ込んだことだってある。見りゃわかる。
「今度帰れなくなって雨宿りに来る時は先入ってろ」
 来たって構わないが風邪でも引かれたら迷惑だ。俺が帰ってくるのかどうか、コイツなりに賭けたりしていたのかもしれないが。連絡を受けて何分、何時間で帰れるかは、まあこっちが善処するしかない。「いいのかよ」とか「でも」とか抜かすのは放っておく。もうこっちは渡すと決めたんだから譲りやしない。
 テレビの天気予報が傘だらけの日本列島を映す。まだ関東は雨の季節だ。

2019/7/18アップ

◇頬濡らす思い出

 遂にその時は来た。一生来ないかと思ったその時だ。
『おい、認めるとは言ったが、もしうちの弟を泣かせるようなことがあれば今度こそ一生許さねぇからな!』
 多彩なワードセンスと堅いライムで俺様とも何度も殴り合ってきた男が吐くにはあまりに陳腐なセリフだった。この世で何より可愛い弟が男と付き合うのを認める時にはあの山田一郎だって凡夫に成り下がるのか。不要な知見を得た。
「何他人事みたい顔してやがる。お前だって妹が男連れてきたらそうなるんだろうが」
「馬鹿か?そんなもんその場でぶっ殺すに決まってんだろ」
 そんなことも分からないとは銃兎のヤツ、ずいぶん酒が回っていると見える。まあいい。今日は気分がいいから聞かなかったことにしてやる。
「しかし、少年は芯の強い男だ。左馬刻相手でも怯まずよくやっている」
 きっと厳しい軍の訓練にも耐えるだろう、と。こちらも明後日の仮定で話をする理鶯に銃兎が頷く。
「まったくです。左馬刻に怒っているところはしょっちゅう見ますけど、泣いて他人に庇ってもらわなきゃならないような場面は見たことがありませんね」
 言葉に「子供の割に」といったニュアンスが垣間見えた。大人の男が人前でおいそれと泣くもんじゃないが、警察署に来るガキってのは大抵が被害者か加害者。未成年の加害者、つまりやらかした側も知らない大人に囲まれ、それに耐えると今度は保護者や教師を呼びつけられる。未成年が泣きわめく姿も銃兎にとっては特別じゃないんだろう。
 酔っ払いが肴を寄越せとばかりに性質の悪い横目で突かれる。
「外野が見たことがなくても恋人相手には弱みを見せてる可能性もありますよ?」
 実際どうなんだ、という視線で手元のグラスに半分ほど残る琥珀色の酒を眺めて考えた。泣き顔を見たことがあるかないかと言われれば、ある。瞬きでまつ毛を濡らす雫が弾けるほどとめどなく泣く姿を憶えている。
 あれはそう、自宅に持ち帰った仕事がひと段落した時のことだ。

 相手が男だからか、単純に二郎がそういう性格だからかは分からないが、忙しいからと構ってやらなくても文句を言うことは滅多にない。都合が合わなければ何週間も会わないことさえあるし、毎日電話だのメールだの欲しがるわけでもない。ガキの交友関係なんかいちいち把握していないが友人は多くて小うるさい兄弟もいる。俺が構ってやらなくても暇はしない。
 だからって丸二ヶ月も事務的なメールのみで過ごしたのはさすがに長かったとは思う。立て続けに押し付けられて迷惑していた仕事もひと段落して、つまらない書類仕事が残るばかりの時に二郎から連絡があった。兄弟が揃って留守にするから自分も泊りに行ってもいいかという確認だ。そこでしばらく顔を見ていないことに気が付いて、残りの仕事は持ち帰ることを決めた。
 俺が細かい用事を済ませて帰ると二郎はすでにいつものマンションに到着して合鍵で上がり込んでいた。お互い飯は済ませてくる約束で、帰ってすぐに仕事を済ませることを告げると「別にいい」と軽く了承して二郎も自分のリュックサックから漫画本を何冊も取り出し、テーブルの隅に積んでソファで膝を抱えて読み始めた。
 勉強はからっきしのくせに漫画やアニメ絵の表紙の小説を読み始めると途端に集中して静かになる。だからこっちも遠慮なく仕事ができた。数字が並ぶ書類を確認してチェックを入れ、何件か電話をかけ、舎弟にメールで指示を飛ばしてからテーブルに広げた全てを片付け携帯を放り出した。すぐに終わるつもりだったが時計を見ると予定より遅い時間だ。またほったらかしにしてしまった、という自覚は少しぐらいはある。だが黙って読書に耽っていれば文句なんて言わないだろう。
 そう信じて疑わずに隣を顧みて、俺は目を瞠った。
 黒い髪がかかる頬に音もなく涙が零れて顎まで伝い降りるところだった。驚く間にも次々に涙は下まぶたのところで盛り上がってぽろぽろと溢れていく。そんな姿は初めて見たからさすがに動揺した。どんな喧嘩をしても泣されるぐらいならテメェを泣かすという気合で噛みついてくるから黙って涙するなんて想像したこともなかった。
 べたべたに濡れた頬を二郎が袖口で拭う。こっちは一切見なかった。それでも拭っても拭っても涙は止まらず、ついに広げていた本に指を挟んで閉じ、乱暴に目元を擦り始めて思わず手首を掴んだ。掴んだ手首も濡れていて、やっと振り向いた目も、擦った目元も赤くなっていた。ぐずぐずの目と見詰め合う。
「放せよ」
 言われたって素直に聞けるか。掴んだままにしていたら振り払われて前のめりになっていた肩を押し戻された。
「おい、お前何で泣いてんだ」
「うっせぇ、邪魔。放っとけよ」
 顔を背けてまた本を開こうとする。苛立って肩を掴んで無理やり振り向かせた。赤く濁った目で睨まれる。
「邪魔だっつってんだろ!」
「ふざけんな、放っといて欲しけりゃぐずぐずになってる理由を言えや!」
 女相手ならもう少し優しい口も利けたかもしれないが、二郎相手には見慣れないものを見た焦りもあって上手く宥めるセリフが出てこなかった。コイツとはいつだってそうだ。喧嘩腰にしか話ができない。
 涙で潤んだ締まらない顔でキツく眉根を寄せると、二郎は片手に持っている本とは別に、積んである漫画の一冊を掴んで俺の胸に押しつけた。
「読めばわかる」
 二郎が持ち込んだ二十数巻に渡る漫画の一巻だった。

「六巻は、ありゃあ不可抗力だ。良心を太平洋に捨てたテメェでも泣くわ」
 泊りと来ればベッドまでがルーチンだが二人とも一晩中ソファから動かず漫画本を手放さなかったからその晩は何もせず朝を迎えた。そのくせティッシュは新品の箱の中身が底をついてテーブル脇のゴミ箱が一杯になった。
「そういう話を要求したんじゃねぇんだよ」
 読みたいと言えば全巻貸してやったのに銃兎はタイトルを尋ねることすらしなかった。徹夜で最終巻まで読んだ朝に二郎に置いていけと言って断られたから自分で買い揃えたものが家にあるというのに。つまらない野郎だ。
 うんざり顔の銃兎に苦笑を漏らして理鶯がフォローを入れる。
「銃兎が聞きたかったのは左馬刻のために涙した話ということだろう?」
「それなら最初からそう聞けや。あるある、あるぜ。ベッ……」
「下ネタなら未成年者淫行でしょっぴくぞ」
 先回りしてダメだしされて言葉を飲み込み舌打ちを返す。不良警官のクセに妙なところでまともぶりやがる。
 話を聞こうという姿勢の理鶯の眼差しに促され、腕組してしばし考えた。期待するのをやめた銃兎も次は何が出るやらと胡散臭そうな視線を向けてくる。酔っ払いを喜ばせる義理はないが銃兎の態度に腹が立ったから真剣に考えた。もう何年の付き合いになると思ってるんだ。色気のない元気ばかりが取り柄のガキだっていっぺんぐらいは俺様のためにさめざめと泣いたようなエピソードが、
「ない」
 記憶の隅々まで振り返っても口か拳かマイクで喧嘩した思い出ばかりで銃兎の鼻を明かすような話が出てこない。
「ハッ」
 だろうな、といった腹の立つ表情で笑われてネクタイを掴む。その拍子に倒れかけたグラスを素早く回収した理鶯が穏やかに締めくくった。
「怒ることはないさ。悲しみはない方が幸福だろう」
 そういうことだ。

2019/5/28 新書ページメーカーでアップ

◇憧憬

 その感覚には憶えがあった。それまでの、どんな印象も好悪も頭から抜けていって圧倒される。スピーカーを通した音に全身が震えるようだ。
 直接目の前にいた時には音が耳に届くとほぼ同時に精神干渉を受けて感想なんて抱きようがなかった。ステージを降りてから見た、他人へ向けて喉を震わすその姿に息が止まった。
 強さ、固めた拳のような、重く太く鋭く叩きつける力が人の形をしていたらきっとあんな風だ。あの歌の形をした拳に殴りつけられたい。肌でその圧を感じて体の動くままに殴り返したい。それが出来るだけの強さが欲しい。
 照明を反射して輝く赤い眼を追っているとカメラが切り替わって相手チームを映し出した。それはもちろん俺たちじゃない。
 負けたんだ。一回戦が決着したその時にも事実として理解したそのことを改めて思い知った。今あの人と殴り合ってるのも、あの眼に映っているのも俺じゃない。負けたからだ。
 俺たちと対峙した一回戦。あの人は兄ちゃんの敵だと思っていた。実際、俺たちのことなんか明らかに格下と思って歯牙にも掛けてなかっただろうし、俺だって敵わないから俺の相手はこの人じゃないと思っていた。だからあの人がどんな表情だったかも、今はよく憶えていない。
 モニター越しのヒリつくバトルを見つめながら、自分たちの試合が終わった直後に感じたのとはまた別の焦燥がわき起こる。
 これと似た感情には経験があった。兄ちゃんのパフォーマンスを初めて目の当たりにしたあの時。誇らしくて、俺も同じことが出来るようになりたかった。その背中を追って努力すればいつか肩を並べられるような気がして。
 それなのに今はどうだ。兄ちゃんに憧れたあの時みたいな輝かしい気持ちの代わりに押し寄せる、自分の弱さへのもどかしさで奥歯を噛み締めた。
 歌声とビートが終わり、歓声が会場を揺らす。俺と同じようにモニターを見ていた兄ちゃんの顔を盗み見た。
 かつて、この本戦に勝ち進んだ四チームのリーダー四人でチームを組んでいた。あの人と肩を並べて、背中を預けられ、対等に殴り合って認められ。それはどれほど気持ち良かっただろう。
 胸の奥でかすかに種の割れるような音が聞こえた。
 今しがたのバトルの結果がコールされる。深いため息を吐いて兄弟たちが椅子から立ち上がった。
「行こう」
 遅れて立ち上がり、モニターのリモコンを取る。眩しい照明の下で天を向いて瞼を閉じた静かな白い横顔を眼に焼き付け、電源を切った。

2019/5/5 文庫ページメーカーでアップ

◇山田一郎という男

「山田一郎とはどんな人物だ?」
「あ゛?!」
 そんな質問が飛び出したのは初回のテリトリーバトル前ではなくて。
 左馬刻と二郎で差し入れがてら理鶯のキャンプを訪れた際の一コマだ。
「なんつーか、今更だなぁ」
「そうだな。……先日、町に出た時に山田一郎がマイク強盗に襲われるところを目撃して────」
 ヒプノシスマイクを欲しがる連中は少なくない。正面からディビジョン代表の座を狙ってラップ勝負を仕掛けてくる奴もいるし、不意打ちや拳でなんとかしてやろうって輩もいる。強盗と言うからには後者だ。
「死角から殴り掛かってきた敵を実に隙のない動きで躱して敵の利き手を叩き落とし、瞬く間に制圧していた」
「さすが兄ちゃん!」
「しかし敵が何か言うととても冷たい目をしてトドメは刺さずに立ち去った」
「相変わらずうぜぇ野郎だぜ」
「バトルでは何度か合間見えているが、俺個人としてはよく知らなかったので気になってな」
 囲んだ焚き火で炙っていたスルメを不味そうに噛みちぎる左馬刻と得意げに串に刺して焼いた鶏肉をかじる二郎。同じ男の話にも関わらず二人の反応は正反対だ。
「お目が高いぜ理鶯さん。兄ちゃんはスゲェんだよ!芯が一本通ってて」
「融通は利かねぇし」
「しっかりしてて」
「ガキのくせに粋がりやがって生意気で」
「やるって決めたら諦めない強さがあって」
「引き際ってもんをわかってねぇ傲慢なクソ偽善者で」
「最ッッッ高の神なんだよ!」
「最低のクソ野郎だ」
 どっちが早いか、並んで座っていた互いの胸ぐらを掴んで額を打ち付けんばかりの近さで睨み合う。少し前まで二郎が左馬刻に乞われるまま酒瓶の蓋を開けて酌をするほど仲睦まじかったのに。
「ふむ、まっすぐで愚直な男ということか」
「そこがいいんだよ!」
「あんなヤツァ愚だ、愚!愚かモンだ!」
「アァ?!愚かはテメェだろうがクソヤクザ!」
「教育者がクソだと弟も賢くなりようがねぇよなぁ?!」
 それぞれヒプノシスマイクを握ると躊躇なくスイッチを入れた。
 こんな喧嘩も見慣れたもの。左馬刻だって二郎とは懇意にしている。ひとしきりやり合ったら適当なところで気が済んで面倒見よく連れ帰るのだ。
 突発ラップバトルを肴に差し入れのウィスキーを傾けながら理鶯はフッと?を緩める。傍目にその変化は些細なものだったが。
「まっすぐに生きて尚、こうも評価が別れるとは。興味深い男だ」
 そしてきっと彼もまたいい軍人になれる。一人頷き酒を啜った。

2019/1/18 文庫ページメーカーでアップ

◇さまじろワンライ『初詣』

「三が日の神社なんか人が多いばかりで面倒くせぇ。俺は神様なんか信じてねぇから詣でる意味がねぇ。むしろ俺様を崇めて詣でなクソガキ」
 新年の挨拶ついでにちょっと初詣に誘ったアンサーがこれだ。きっと除夜の鐘の音も聞いたことがないんだろう。
 素直に部屋までサマトキサマ詣でに行ったら酒びたりで女優が危うい格好で逃げ回るゾンビ映画なんか観ながら何かの唐揚げをつついていた。後で聞いたところお歳暮がわりに理鶯がくれたものらしい。食べるのが嫌そうでも捨てないあたり、この人は根っからの悪人じゃない。
 一年の計は元旦にありとか初夢で運勢がわかるとか、年明けはこの先の一年を決める大事な時期と言われているのにまるで去年と変わらない有様だ。
「アンタももっと正月気分楽しめばいいじゃねぇか。一年に一回きりなんだし」
「正月は一回でも他にもイベントごとはたくさんあんだろうがよ」
 そんなこと言いながら、テレビCMで晴れ着姿の女の子が映ったときには黙ってそれを見ていた。それからまた日本酒のグラスを傾けて視線もくれずに言う。
「おい、お前今年でいくつだ」
「十九だよ」
「そうか」
 今はまだ十八で、二月の誕生日を迎えると十九歳だ。
 タッパーに入れて持ってきた煮物やかまぼこなんかの正月料理を皿に少量ずつ盛ってつまみに差し出すと、ソファの隣を叩いて呼び寄せられた。
「財布出せ」
 それで素直に財布の小銭を開けば「賽銭」と言って自分の財布から適当に引き抜いた何枚かの紙幣をねじ込んでくる。そこは小銭を入れるところだ。
「年玉じゃねぇのかよ」
「うるせぇ。賽銭入れたんだから願いごと聞けや」
 酔っ払いめ。仕方なく金をしまい直して話を聞いてやる。神様だって確実に願いごとを叶えてくれるとは限らないから言うことを聞くかどうかは内容次第だ。
「神様なんか信じてねぇクセに何をお願いするって?」
 くだらない余興でも言いつけられるのかと思って言葉を待つ。こちらを向いた赤い目が熱っぽくて溶けそうだ。
「成人式には俺が手配した袴で出ろ」
「はぁ?変な柄のやつじゃねぇだろうな」
「ちゃんとした呉服店で仕立ててやる」
「なら別にいいけど」
 その返事に満足した左馬刻はそっぽを向いて皿の料理をつまみ始めた。
 その時の左馬刻が本当は何を願っていたか理解したのはそれから二週間ほど経った頃。街中に袴や晴れ着の人が溢れたその日のニュースで「今日の着物はお母さんが用意してくれた」と話す女性のインタビューを見た時だった。

2019/1/3 文庫ページメーカーでアップ

 

◇ゼラニウム

 その日、二郎は左馬刻の機嫌がいいのだと思っていた。
 なにしろ最近知り合ったラッパーと遊びに行くと言ったら左馬刻愛用の高価なヘアワックスを出してきてその手で丹念に髪を整えてくれた。
「間部さんは俺も昔世話になってた人でな、洒落た人だからお前も気合い入れてった方がいい。俺がカッコよくしてやる」
 珍しく車で送ってくれたし。
「昨日車に煙草忘れてよ、回収ついでに送ってやるわ」
 ちょっと優しすぎる気がしたが、怒るとすぐ怒鳴るし顔に出る人だからちょっとした違和感は気のせいだと思うことにした。
 だけど左馬刻の車を降りてから合流した間部も様子がおかしかった。
「え、あれ?マジかぁ。そっちかぁ」
 間部の車の助手席に収まった後で言われた。間部という男はマメで、会ってすぐにいつもと違う二郎の髪型を褒めて愛想よくあれこれ話してくれたが、このセリフを境に大幅にテンションが下がった。
 予定通り遊んだがなんとなく、さっさと解散したような、気がした。
「?」
 なんとも言えない気持ちで間部の背中を見送り、さて帰るかとモヤモヤした気持ちで駅に向かって歩き出したとき。
「やっほー!なになに二郎、帰るところ??」
「おわっ、飴村乱数!ひっつくんじゃねぇよ!」
 雑踏の中で二郎が振り返ると乱数が背中飛びついてきた。付き合いの長い兄や左馬刻だからそういうことをやるのかと思えばそうではなくて、揶揄い甲斐の有無で絡む相手を選んでいるらしい。
 兄達にやるように鬱陶しく離れないのかと思って首に巻きついた腕を叩いた二郎だったが意外にも乱数はあっさり離れた。
「あれー?さっきマベくんといたのに左馬刻の匂いだ」
「見てたのか?間部さんと出掛けるっつったら髪やってくれてさ」
 ごく普通に答えた二郎は気がつかない。何気ない返事で出掛けるまで左馬刻と過ごしていたことや、世話を焼かれる仲だということまで伝わってしまっていることに。
 対する笑顔の乱数もそのことを教えてはくれない。代わりに違和感の答え合わせをしてくれた。
「そっか、なるほどね。左馬刻ってば心せっまーい!」
「あ?」
「二郎は知らない?そのワックス、左馬刻が知り合いのお店で調合してもらってるオリジナルなんだよね。マベくんて昔っから女の子にも男の子にも手が早かったから、虫除け的な?」
 そこへきてやっと左馬刻の機嫌が悪かったことに気がついた二郎の顔色が悪くなっていく。それを見透かしたようなタイミングでスマフォにメッセージ通知が入った。左馬刻だ。
『終わったら迎えにいくから呼べ』
 数時間前と変わらず優しい申し出風だが、今ならわかる。この誘いが迂闊さを詰るためのものであることが。
 頭を抱えると袖から薄っすら、送りの車中でついたらしい左馬刻の煙草の匂いがした。

2019/1/3 文庫ページメーカーでアップ

 

◇セリフお題「可愛い顔すりゃ許されると思ってんじゃねーよ」

 コイツと知り合って早七年。年明けといっても去年同様に家で年越しを済ませたコイツを車で拾って初詣に行って飯を食うっていう、取り立てて何かあったわけじゃないこの日、長年の謎が解けた。
「テメェ、可愛い顔すりゃなんでも許されると思ってんじゃねぇぞ!」
 俺より八つも下で今年二十四になるガキが叫んだ。雑煮が食いたくて作らせたけど後で組の集まりで餅つきが行われるから入れる餅を減らせと言ったのが直接的な理由だ。もう餅の調理を始めていたせいで「今更言うんじゃねぇ」と怒られた。
 もちろんかわい子ぶって言ったわけじゃない。十数年もやくざをやっている三十三の男がそんな真似するわけがない。いや、そういうお遊びが好きなオッサンも存在するが俺は違う。
 今回だって合流までに仕事関係の都合で予定が二転三転して文句を言われたし(これは俺が悪いわけじゃない)、初詣に行ったらはしゃいだ堅気のガキが目についてシメに行ったら俺にキレてくるし(自分も喧嘩してんじゃねーかって話だ)、賽銭用に細かい金がなかったから五千円入れたら金銭感覚がどうたら煩いし(自分の財布に五円玉が二枚あったとか言うのが遅い)、なんとなくその気になったから買い物の予定を取りやめて姫初め決め込もうとしたらまた文句言うし(結局自分だって楽しんでたくせに)、正月早々に怒鳴られる程イラつかせた過程のどこに可愛い要素があったのか。
 全く予想もしない言い草に毒気を抜かれて言い返すのも忘れた。何か小言が続いても耳に入ってこない。
「おい!聞いてんのか?!」
 どうせ聞き飽きた説教だ。それよりも、
「かわ?いい?」
「…………え?」
 聞き違えたかと疑い半分に聞けばあっちも口走った言葉は予定外だったらしくてポカンとした。だから本当に聞き間違いだったかと思いかけたのに、じわじわとアホ面が歪んで毛を逆立てて騒ぎ出す。
「ちが、か、か、わがままっつったんだよ!」
「いや言ってねぇだろ」
「かわ、カワハギみたいっつった!」
「どんな顔だよそりゃ」
 こりゃ本気で言ったな。しかも言うつもりなかったんだろう。心底マジの奴じゃねぇか。
 どさくさ紛れに餅の件の説教は終わり、ぶつくさ言いながら自分の器に五つ、俺の器に一つ餅を入れた雑煮がテーブルに並べられる。
 文句は多いがなんだかんだでコイツは許すんだ。
 喧嘩してると割り込んで自分が代わりに俺と喧嘩するし、俺がだらしないと偉そうに説教しながらなんだかんだで代わりに片付けだのをやっていく。まともに付き合ってからはあんまりやらなくなったが、やくざ者を相手にしてるんだから承知してることだろうと思って外で女を抱いてきても愛想を尽かすことはなかった。
 コイツを懐に入れた当初は何がそんなに気に入られているのか気になったりもしたが、何度喧嘩しても変わらず通ってくるから悩むのもやめた。その理由がまさかこれなのか。可愛いつもりもなければ可愛がられた記憶もないから理解に苦しむが。
「…………なにニヤニヤしてんだよ」
「してねぇよ」
「ぼさっとしてないでさっさと食えや!」
 自棄っぱちで食べ盛りを過ぎた胃に餅を詰め込む横顔を眺めていると箸を持っていない方の手で顔を押しやられた。
 誰だったか、酒の席で「可愛いってのは何も若い女や赤ん坊や動物の見た目を褒めるためだけの言葉じゃないんだよ」と言っていた。本能的に好ましいものを可愛いと評したくなるもんなんだと。
 知り合った頃より大人びて幼さが色気に変わった滑らかな?がよく血の通った色をしている。雑煮を食っているからかもしれない。
 そうだな。口の中いっぱいに餅やら大根やら詰め込んだ不細工な面でも可愛いと思う。理屈じゃない。
 隣に比べ一回り小さい丼から餅をつまんで食べるとラーメン用の丼で食っている隣に手を出した。まだ半分しか減らない汁の中から具を巻き込んで餅を一つ分自分の丼に奪う。
 また行儀が悪いだの、さっきは食わないって言ったクセにだのと文句を言われる。
 昨日までと変わらない賑やかな一年が始まりだ。

2019/1/1 文庫ページメーカーでアップ

 

◇さまじろワンライ『聖夜』

 小さなツリーにケーキにご馳走。チキンはなくて山盛りの唐揚げとポテトとサラダ。
 うちはもうサンタを信じてはいなくて、俺たちのサンタクロースだった兄ちゃんを含め三人でプレゼントを贈り合う。
 クリスマスの夜は予定を入れないで家族で過ごす。世間ではカップルの日みたいに言われるけど、本場では家族で過ごすのが一般的なんだと。三郎が言ってた。
 それも当日の十時を過ぎると閉幕だ。手分けしてケーキの皿も洗って風呂も済ませ、後は片付けそびれたツリーが居間に残るだけ。ひと段落ついて明日から年越しまで掃除と買い出しと宿題と。
 何だかちょっと寂しいような気持ちで、兄弟たちがテレビの特番を見ている居間を離れた。
 携帯にはパーティを開いている仲間からのメッセージや写真が届いている。俺は家族優先だから参加しなかったけど、仲間と過ごすヤツもいる。
 届いているメッセージに返信を済ませてから部屋のベッドに転がって、仲間とは別のメッセージウィンドウを開いた。あまり返信に期待せず送ると予想外なことにすぐレスがつく。
────「今日どうしてんの?」
────『仕事』
────「こんな時間までかよ」
────「お疲れ」
────『もう終わった』
────「帰れんの?」
────『もう少ししたらな』
────「飯もこれから?」
────『多分な』
────「食わねぇの?」
────「クリスマスなんだしいいもん食えよ」
────『うるせえ』
────「やくざでもクリスマスあるだろ」
────『バカか』
────「年越す前にはまたそっち行くから」
────「なんか美味いもん食おうぜ」
────『意味がわからん』
────「まだ仕事場?」
────『だったらなんだ』
────「何もないけど」
────「ちっとだけ電話ダメかなって」
 既読がついてから間もなく着信があって、自分から言いだしたのに驚いて携帯を取り落としそうになった。
 電話なんて特別なことじゃないのになんだかドキドキして、一呼吸置いて受話ボタンを押すと「はい」に被って声がした。
『暇ならもう寝ろクソガキ』
 こっちが何か言い返す前に電話は切れてトーク画面に戻る。
 なんだよもう。寝ろって言うならおやすみぐらい言わせろや。
 それでもまだ仕事が終わらないらしい電話の向こうの様子を思い浮かべてスリープ状態になったスマフォを握りしめ、まだ落ち着かないような気持ちで目を閉じた。

 何か見抜かれているのかと思った。
 堅気に蔑まれることばかりのやくざ稼業だが、実際の仕事はピンキリだ。的屋に金融、風俗店経営。一見普通の企業だってたくさんある。
 そういう社会に紛れ込んでしのぎを削る中で金や面子を巡って揉め事が起きる。団体同士の大掛かりなドンパチは多くないが、他人のシマを荒らす連中や上司の指示で意図的に発生するトラブルなんかもある。
 俺に求められる仕事はまさに揉め事の現場に乗り込んで片をつけることだ。銃も小刀も女共に取り上げられたこの世で一番恐ろしいヒプノシスマイクって武器を使って。
 こっちのルールを侵害した奴が二度と舐めた真似をできないようにする。舐めた真似どころかまともに生活を送ることもできないだろう。こうなると生きているだけマシかどうかもわからない。
 標的が口もきけなくなったところで俺の役目は終わり。後は別の担当者が現場の後片付けのためにやってくるのを待って帰る。
 そういう時に携帯にメッセージ通知が来た。今夜は仕事の予定があったからなんの約束もしていないのに。カビ臭い他人の会社の一室で、マイクのスイッチを切ってその辺にあった机に腰掛けたところを狙いすましたように通知音が鳴った。
 標的たちの嗚咽も吐瀉音もなくなり古い換気扇の音だけが残る室内に軽い電子音が響いた。
 悪いことをしたのを見咎めるようだと思った。仕事に対する罪悪感なんてものはとうの昔に捨てたはずだが、昔妹に言われた言葉が頭をよぎる。
『また危ない仕事なの?』
 何も言わないのに仕事の指示を受けた後なんかに言われて勘の良さに驚いたものだ。でも生活のためにやっていることは理解していて、やめてくれとは言わなかった。言いたかったかもしれないが黙っている、優しい妹だった。
『ご飯作ってるから、一緒に食べようね』
 引き留める代わりにそう言って見送ってくれた。外で何をしても妹は家で待っていてくれた。あの日までは。
 世間は一ヶ月近くも前からクリスマスムードで浮かれている。イルミネーションで彩られた街の陰で仕事なんかやっていると息が詰まる。
 そこに事情も知らずに届いた呑気なメッセージを見たら手の先に血が通い始めるような気がして、暇に飽かせて返信を打った。あっちはどうせ兄弟で楽しく過ごしてたんだろうと明後日の方向に腹を立てたりもした。
 そのくせメッセージが届く限り柄にもなくマメに返事をして、短い一方的な電話を最後にメッセージが届かなくなると無性に会いたくなって携帯を強く握りしめた。
 外で事後処理を引き受ける車が到着した音がした。

◇2018/12/25 新書ページメーカーでアップ

 

◇帰宅

 与えられた仕事を済ませ、飯の誘いを断って家に帰る。家ってのは複数所有している部屋の一つだ。今朝もここから出かけた。
 仕事としてうちのシマで勝手に荒稼ぎしていやがった連中を潰し親父に報告を入れて、ついでに言いつけられた雑用を片付けたのが午後五時過ぎ。この季節の五時といえばほとんど夜だ。
 特に理由なんてないが、日暮れから夜が深まるまでの時間は苦手だった。何もなけりゃ仕事も兼ねて飲みに出かけることも多い。勝手にあれこれ喋ってグラスが空にならないよう酒を注ぎ続ける女を隣に侍らせておけば気分もいくらかマシだった。
 親父に二度目の報告を済ませた携帯には締め日が近づいた馴染みのホステスからの営業メールが届いていたが、それを無視して舎弟にマンションまで送らせた。
 車窓から外に目を向ければ暗い街の中で目立つ飲食店の灯り。その下を連れ立って歩く会社員の群れ。住宅街を横切ればリビングの窓に暖色のひかり。窓を開ければ煮炊きする匂いも流れ込むんだろう。
 その一つ一つが遠い世界のことのように感じる。堅気の世では仲間同士一日の疲れを労い、家族の待つ家に帰る時間だった。
 仕事の現場から四十分。余計なことを喋らない舎弟の転がす車でマンションに着く。もうすぐ六時だ。エントランスを通過してエレベータで八階で降り、自分の鍵で部屋の玄関扉を開ける。
 わざわざ外食を断ってまで帰ったのに、内側から鍵が開くことを期待していなかった。いつ帰ってもこの部屋は無人だったからだ。それなのに。
 ドアノブを引くと同時に室内から出汁と醤油の匂いが溢れだした。
 玄関は暗いが、廊下の奥の扉にはめ込まれたモザイクガラスの向こうには灯りがある。リビングから微かに音楽も聞こえる。
 人の気配がある。
 二年間、いつ帰宅しても家は暗くて静かだった。冬は寒くて夏は熱がこもりっぱなし。散らかして出かけりゃ同じ場所に物がある。台所は酒の空き瓶とゴミを溜め込む場所だった。なにしろ自分しか立ち入らない部屋だ。
 そこに人がいる。暖かな飯がある。
 扉の向こうから妹が、もう同じ家には居ないはずの家族が出てくるような気がして、暗い玄関で靴も脱がずに立ち尽くした。
 ドアノブが回る。
「────おかえり?」
 リビングの扉を開けて二郎が顔を出した。帰宅した音はするのになかなかリビングまで来ないのを訝しんで出てきたらしい。
 出てくるのが妹じゃなくて、いるとするならコイツだってことを知っていた。昨夜から二泊の予定で泊まりに来ていて、今朝急な仕事が入った時に終わる時間が分からなかったから「帰ってもいい、好きにしろ」と言って置いて出かけた。いるとしたらコイツの他にはいなかった。
 リビング側のスイッチで廊下の灯りがつく。多分、ぼんやりした表情の俺を見て二郎はもう一度言った。
「おかえり」
「…………おう」
 目を逸らして靴を脱いだ。二郎のスニーカーの横にブーツを転がして。そのまま部屋に入ろうとすると遠慮なしに背中を叩かれる。
「おう、じゃねぇだろ?た、だ、い、ま!」
「うっせぇな」
「ったく。いい大人なんだから挨拶ぐらいちゃんとしろや」
「ガキのくせに口うるせぇ野郎だなテメェはよ」
 部屋は炊事のお陰か、暖房を焚いているわけでもないのに外より暖かかった。
 テーブルに並ぶ二人分の食事。黙って箸を取ると向かいに座った二郎がこれ見よがしに音を立てて手を合わせた。
「いただきます」
 同じようにやれってか。クソ生意気に。
「うっせぇな。…………いただきます」
「おう、食ってよしっ」
 控えめに手を合わせると満足したのかタレ目を細めて笑った。
 二郎の作る飯は和食中心で肉が多い。大皿に盛って真ん中に置く。
 山盛りにされた生姜焼きを摘みながら尋ねた。
「なんで帰らなかった」
 結局一日仕事だった。いつ終わるなんて連絡も入れなかったし、うちにはガキの喜ぶようなものはない。帰っていてもおかしくなかった。
 二郎は「はぁ?」という表情で茶碗から顔を上げると、口いっぱいに詰め込んだ肉と米をもどかしそうに咀嚼してお茶で飲み込む。
「……そりゃ居るだろ。アンタだって飯食わずに帰って来たじゃん」
 そんなことは一言も教えてないが、手元の茶碗はもう一口程度しか残ってない。言い繕うには分が悪かった。
 二郎は今夜のこの食卓が当たり前みたいな態度だ。明日には「いってきます」も言わないでこの部屋から帰るくせに。
 ちんたらしている間になくなりそうな残りの肉をごっこり摘んで米に乗せ、「ずりぃ」だのなんだの騒ぐガキをシカトして掻き込んだ。

2018/12/18 文庫ページメーカーでアップ

 

◇ちゃんこ居酒屋ふくふく

「────米の炊けるふっくらした……あったかくて、柔らかい、うまそうな匂いでゆるやかに目が覚める。覚醒したら今度は、味噌の匂いと、包丁がまな板を叩くトントンっつう音。
 腹が空いて寝室を出る。キッチンで炊飯器と鍋から湯気が立ち昇ってて、顔を見ると「もう少しだから待ってろ」ってタッパーに入れた漬物を渡される。
 鍋や炊飯器は元々うちで長いこと眠ってた奴だ。タッパーや食材はアイツが自分で買ってきた。漬物はしば漬けで、他にも梅干しとか味付け海苔なんかもあった。
 アイツは俺が一人の朝に飯なんか食わないのをよく分かってたが、つい色々買い込みすぎるんだと。その日の朝だけじゃ食べ切れないことを気にして梅干しのパック指差して「酒飲むときにも使える」とかなんとか要らん言い訳された。
 メインは鮭だった。あの部屋を買ってから初めてグリルが使われた。それを言ったら「どおりできれいだと思ったんだ!」って騒ぎ出して妙な遠慮しやがる。帰るときも念入りに掃除してった。どうせアイツしか使わねぇのにさ。
 そこまででも十分な朝飯だったが、なんとなく家族と暮らしてた頃を思い出したら卵焼きが欲しくなって、冷蔵庫を開けた。もちろん俺が生卵なんざ買っておくことはないが、ある。そうしたら「だから待ってろって」とかなんとか言って俺が開けた扉のドアポケットからアイツが卵と牛乳を取り出す。牛乳使うときは甘い卵焼きだ。
 待ってろって言われてもテレビは面白くねぇし、携帯見てる間に仕事の連絡なんか来てみろ。最悪だ。寝室に投げっぱなしにした。急用がありゃ電話鳴らしてくんだろう。メッセージ通知は音が鳴らないようにして無視だ。
 最近買ってやった卵焼き専用のフライパンで卵焼きが作られる間にタッパーとか箸とかグラスとかを運んだ。ソファに座ってるとまた寝そうだった。いい匂い嗅ぎながら寝るのも悪くはねぇが、時々キッチンカウンターの向こうでちまちまやってんのを見てたかった。
 アイツは手際がいいから、待つと言ってもほんの数分だ。皿に卵焼きと焼き鮭、二人分の木椀に大根と油揚げの味噌汁、米は炊きたて。
 材料費渡してケチらず使えって言ってあるからな。アイツが普段家で買ってるよりいい米とミネラルウォーターで炊いてる飯は、型の古い炊飯器でもツヤツヤに炊けてて、口に入れると一粒一粒の舌触りがいい。噛むとほんのり甘くて、魚や味噌汁がやたらと美味くなる。
 別に口に出して美味いとか言うわけじゃねぇのに、俺が美味いと思って食ってるとアイツは満足そうにする。無理に言葉を求められねぇのは楽だ。
 朝から健康的に飯食ってると、なんつうか……。アイツのクソ兄貴をぶち殺したい気持ちは変わんねぇけど、アレをああいう風に育てたことだけは、ほんの爪の先ぐらいは……いや、ねぇなぁ。あのクソが望みゃアイツは毎朝でも大喜びで飯拵えんだろうからな。
 あー腹立って来た。クソ。」
「……そうかそうか。……理鶯、彼に連絡入れてもらえます?」
「今メールを打っている」
「さすがです。あ、お兄さん、お会計お願いします。あとタクシー二台。すみませんが一台はイケブクロのタクシー会社で、萬屋ヤマダに向かってもらって下さい」
「家の前で立ってるよう言っておく」
「ということです。よろしくお願いします」
「五分程で家を出られるそうだ」
「丁度いいですね。それじゃ今日は帰るとしますか。……おい、左馬刻寝るな。部屋までは運んでやんねーからな、イケブクロからのタクシー代払ってから寝ろよ」
「銃兎、もうタクシーが来た」
「ああ、はいはい。ほら、立て左馬刻!マンション前で転がすぞコラ!」

2018/12/2 文庫ページメーカーでアップ

 

◇秋風吹く

 中王区内は風が少ない。何しろバカみたいに高い壁で囲まれているから。
 二郎は空を見上げて、雲が早いことをどこか自分と無関係な場所での出来事みたいに感じていた。
 今月もプライドと命と領土と賞金を賭けた戦いを終えた。あとはチームごとに取材で引き止められたりさっさと荷物をまとめて帰路についたり、各々のタイミングで壁に設置された堅牢な門を潜って娑婆に戻るだけだ。
 テリトリーバトルは決着がついた瞬間、ステージを降りた瞬間と中王区を出た瞬間に段階的に解放感がくる。内側のゲート前に立った時点でその気配はあって気が緩みかけた二郎だったが、前方からヨコハマチームが歩いてくるのを見留めた瞬間に兄の纏う空気がヒリついたのを肌で感じて気を張り直した。今回はタイミングが悪かった。
 だけど帰りは比較的平和だ。みんな言いたいことはステージ上でぶつけ尽くして来たし、疲れているからさっさと帰りたい。数秒睨み合ってすぐにどちらからともなく顔を逸らしてシカトを決めた。シカトしながらもライバルに道を譲る気がなくて、結局団子になってゲートを潜る。
 外側の扉を出ると新鮮な空気が、突風となって男達に吹き付けた。壁の中と外では風速が全く違う。
 油断していた二郎は落ち葉を巻き上げて顔にぶち当たる風に目を閉じた。風は二郎のキャップのつばを跳ねあげて奪い去ろうとする。
 頭から浮いたそれが加速をつけてどこかにいく前に捕まえて頭の上に押さえたのは左馬刻だった。ちょうどすぐ後ろにいたから咄嗟に手を出したまでだ。
 大きな手のひらで帽子を被せ「気をつけろ」と言う代わりに帽子の上から柔らかくポンと叩く。無言で二郎を見れば風に肩を竦めていた二郎も軽く見上げて視線が絡む。言葉はなくても言いたいことは目でわかるから小さく唇を尖らせた。
 それはほんの数秒のこと。すぐにチームごとにまとまって、さよならの挨拶もなく駐車場とイケブクロの街に向かって別々に歩き出す。
 帰り道、二郎の兄である一郎は誰にともなく言う。
「いいか、家に帰るまでがテリトリーバトルだ」
 一方のヨコハマチームは車移動で、ステアリングを握った銃兎がルームミラー越しに左馬刻を見て言う。
「最近ちょっと油断してるんじゃねぇか」
 テリトリーバトルの間は純粋に敵同士。公私切り分け手加減なしにぶつかり合う。だけどそれが終わった後の二人は、俗に言う恋人同士だった。
 それぞれの保護者役のため息は秋の風に絡めとられて中王区の頑丈な壁に吹き付けるのである。

2018/10/10 文庫ページメーカーでアップ

 

◇「今日、人を殺した。」 ※胸糞ネタ注意

「今日、人を殺した。」
 そう告げるとそれまで生返事でゲームを続けていた二郎が顔を上げ、手元で機械的な爆発音とゲームオーバーのメロディが流れた。
 だが取り乱すと言うほどのことはなく、一度ゲーム画面に目を落として中断するための操作をし、再びこちらを向く。ソファの背もたれに肩肘をついて。
「珍しいじゃん。わざわざ俺に言うなんてさ。仕事でだろ?慰めてほしい気分かよ」
 涼しい顔して詳しく話してみろと促す。一年も前なら済んでしまった罪に対し、どう向き合えばいいかわからず難しい顔をしただろう。慣れたもんだ。
 手酌でグラスに酒を足し、二郎が作ったつまみの皿を眺めながら、手は付けずに答える。
「……仕事だが、俺のことを目の敵にしてやがる連中が依頼してくるからおかしいとは思ってた。こっちの首狙ってやがんのかと思ったが、そういうことじゃなかった」
「勿体つけンなぁ」
「お前、スナッフビデオって知ってっか」
 そこにきて二郎はわずかに顔をしかめた。横目でその表情をイエスとみて続ける。
「ヒプノシスマイクで精神ボロボロになって死ぬとこを見たいっつー悪趣味な金持ちがいるんだとよ。終わった後で撮影してやがったことも知らされた」
「それ……表に流れたらさすがにヤベェんじゃん」
「ンな心配はしてねぇよ。ウチの親父は当分は俺を手放さねぇ。幹部連中が何と言おうが、そんだけの価値が俺にはあるからな。……だから外に出さねぇ信頼のおける客にだけ渡る」
 口に出した不安に対しては一応の否定をしたが、人間のやることだ。間違って流出する可能性もあるだろう。二郎の表情も晴れなかった。何を言ったって明るい顔をするような話題でもない。
「で?」
 続きを催促されて鼻で笑った。話がここで終わりではないと思うらしい。
 二郎の予想する通りだ。話には続きがある。
「仕事の数時間後にまた呼び出されてな、連中が下衆な顔して応接間にプロジェクターなんか用意して、撮影したのを見せられるのかと思ったら……」
「思ったら?」
 言葉を止めるとあまり待たずに相槌が入る。
「知らない女が自殺かます動画だった」
 息を飲む気配がした。ローテーブルの上に視線を向けたまま、二郎の顔は見なかった。
「例の俺が殺した動画を見た女が、……多分男の身内か恋人だったんだろうよ。絶望しておあつらえむきに用意された縄で吊るところを固定カメラで撮影した映像をな、面白いだろうって見せてきやがる。間接的に俺が殺したようなもんだ」
「違う」
「別に今更だろ。今回はクソ共が介入したが、知らないところで他にも似たようなことが起きてたかもしれねぇ」
「もしもの話すんじゃねぇよ!」
「でかい声出すな。話はこれで終いだ」
 グラスの残りを呷ってしょうゆ味の染みた牛筋肉を口に入れる。
 甘えた気持ちは多少はあったが、慰められたいとかフォローされたいとか、そういう願望はない。今夜二人で会ったのがコイツだったからコイツに打ち明けたし、もし他の信頼できる仲間だったらそいつに話したのかもしれない。口の堅い人間なら知られてもいい。その程度の話だ。
 殺しは慣れてる。今回は手の込んだ嫌がらせのせいでいつもより胸糞悪かっただけのことだ。
 一人で抱えていたものを口から出してしまったらやっと酒の味がマシになった。ボトルに手を伸ばすと二郎が先に取り、普段は酌なんかしないくせに九分目までどぼどぼと注ぐ。持ち上げたらこぼれそうだった。実際口に運ぶまでの間に少し零れて指が濡れた。
 右側で落ち着かない様子で二郎が座りなおすたびにソファが軋む。反省する気はないが、コイツにとってもこれは嫌がらせだ。下衆連中は自分たちの楽しみのために俺に胸糞悪いモノを見せた。俺は自分が少しでも楽になるために二郎に胸糞悪い話を聞かせた。どっちもロクなもんじゃない。聞かない方が良かったかというと、多分コイツは首を横に振るだろう。損な奴だ。
 しばらくして横から煮物に手を出し、こんにゃくをひとかけら食べた後で二郎はまた背もたれに肘をついてこちらを向いた。飲み食いすることに飽きたころ合いで、俺もグラスを置いて半分ほど体を傾け、煙草を片手に持ったまま火をつけずに向き合った。
「もしもアンタがさ」
「もしもの話すんのかよ」
「うっせぇよ。黙って聞けや。アンタがクソポリにもみ消してもらってるヤベェネタが世間にバレたり、今の生活が続けらんねぇと思ったときはさ、一緒に海外でも行こうぜ。俺日本語しかわかんねぇけど」
 陳腐だな、と思いながらも話に乗る。
「ハワイあたりだと結構日本語通じるらしいぜ」
「旅行の話じゃねぇよ」
「一丁前に高飛びってか。そりゃ面白ぇな。弟が極悪人と高飛びして泣くクソ偽善野郎のツラが拝みたくて海外なんか行ってる場合じゃなくなるわ」
「すぐそういうこと言いやがって」
 鼻を摘まみに伸びてきた指を捕まえて逆に噛んでやった。痛がるぐらいに。ついた歯形を見たら興が乗って、人差し指を丸々口に含んでしゃぶってやる。美味くはないが、それで動揺する顔が見たい。
 だが今日はそれで流されなかった。口から逃げた涎まみれの指を自分のシャツの腹で拭って真面目な顔で。
「冗談じゃねーから。信じないならこれから英語勉強するし」
「英語より兄弟への書き置き作って俺に預けて見せろや」
「書き置き?……って何書くんだよ。今まで大切に育ててくれてありがとうございました?」
「結婚前夜の娘かよ」
 場合によっては似たようなものか。黙り込んだ二郎の顔にも微妙な納得が見える。
「まあいいや。アレだろ、二度と会えないかもしれないけど元気にやってくから探さないでくださいって書きゃいいんだろ?」
 どこまで本気なのか。ソファを降りるとリリック用のノートを引っ張り出してきて、ボールペンに雑な字で凡そ口で言った通りの文面を綴る。
「あと、あ。“こっちの心配はせず兄ちゃんたちも楽しく長生きしてください。どこにいても幸せをいのっています。”これだな」
 最後に名前をフルネームで書いたものをノートから切り取って差し出された。これを山田家の住所を書いた封筒に入れて切手を貼って出せばいつでもコイツを連れ去れるってわけだ。如何にも高校生のガキが好きそうな夢見がちな誓約書だと思う。
 今夜の感傷が醒めたら兄弟を捨てる決意も消えてこの手紙を破り捨てるかもしれない。本人の決意のほどは知らないが、こっちから二人で逃げてくれと頼む予定はない。いつでも破り捨てられるようにテーブルの上に投げたらグラスの結露が作った水たまりに着地してさっそく端が濡れた。
「信じなくてもアンタが逃げたくなったら俺に言えよな」
「せいぜい忘れないようにするわ」
 軽口を繰り返していると何かとどうでもよくなってきた。酒が回っているのもある。
 欠伸をするとソファで寝るなと言ってベッドに連れていかれた。珍しく二郎の方から抱きしめてくるからシャツの背中に手を突っ込んだら「黙って寝ろ」と頭を抱え込まれた。
 
 その夜、記憶に残っている限りで二度叩き起こされた。起きるとどんな夢を見たかすぐに忘れてしまったが、よっぽど魘されでもしていたのか、寝直すたびに熱心に頭や背中を撫でて子供みたいに寝かしつけられた。俺が眠るまでそうして、次に目を覚ますときには必ずすぐ目の前にいた。
 
 手紙は、ある年の春に切手を貼らずに一郎の上着のポケットに投函された。
 “山田二郎”と書かれた下に「妹を頼む」と書き添えた。過去に何があったとしても妹のことを頼む相手として一郎はどうしようもなく信頼出来た。
「安心しろよ。兄ちゃんに依頼したら果たされないことなんかねーんだから」
 兄に全幅の信頼を寄せている次男坊は涼しい顔をして肩を並べ、物心ついてからの長い年月を過ごした土地を離れた。
 月もない夜だった。

2018/9/21 キャラベルにアップ

 

◇助手席/さまじろ ※spoon2Di 41号にて公開の情報含む

 年明けに雪が降った。バイクでの移動が出来なくなると不貞腐れた調子で電話があったから、年玉代わりの優しさでイケブクロまで車を回してやった。といっても自宅まで送迎ってわけじゃなく、駅前で回収して即ヨコハマに戻る。
「あれ、今日左馬刻さんが自分で運転してんの?」
「うっせぇ。……完全な私用の時ぐらいは運転するわ」
「そりゃ嘘だろ」
 私用の種類にもよる。未だに外じゃ舎弟未満後輩気分のガキにはピンとこないだろうが、ドライブのつもりで舎弟に運転させて迎えに行くのは野暮ってもんだ。
 助手席に乗せるとさっさとギアチェンジして走り出す。
 最終目的地であるヨコハマの自宅は市街地にあるが案内標識の矢印を無視して海岸方面に向かった。断わりはしなかったが助手席から異議もない。
 むしろ機嫌よく、スマフォを車のオーディオに繋いでプレイリストを選び再生した。流れ出したのはほんの数年前の曲だったが、懐かしく感じる。
 しばらく住宅街の間を走るとサーフショップや海水浴客向けの店が増え始め、真正面に水平線が見えてくる。海岸線にぶち当たったところで右折して海沿いに西に走った。
 冬の海は人っ子ひとりいない。空は雲の覆われて夏場の青さは上にも下にもなかった。それでも車内に流れる海にまつわるナンバーは夏の歌で鮮やかな景色が歌詞に織り込まれている。
 海沿いの景色を助手席から眺めるとどこまでいっても海だ。しばらくして飽きたのか振り向き、運転する手元を見ていたかと思うと「あ」と声を挙げる。
「来月までちょっと忙しくすっから」
「なんだ、受験なんて柄じゃねぇだろうが」
 受験にしたって焦る時期が遅い。そもそもうちで広げていた教材は高二のものだった。一年前から受験勉強するような真面目でもない。
「違うって。どうせ俺就職だし。車の免許取ろうと思ってさ」
「バイクやめんのか……ん?」
「ん?」
「お前免許取れんの来年だろ」
 高校生の自動車教習ってのは大抵が卒業を控えた三年生が通うものだ。十八になる誕生日の一か月前ほどから教習は始められるはずだが、高校二年は受講する余地もない。
 すると二郎はちょっと嫌そうに答えた。
「……来月で十八歳になるから取れンだよ」
「留年か」
「うっせぇな!はっきり言うんじゃねぇ!」
「テメェが留年しようが高校浪人だろうがどうでもいいからでかい声出すんじゃねぇよボケ」
 銃兎あたりが聞けばバカにするかもしれないが、俺が学歴にとやかく言える立場でもない。
 テリトリーバトルの広報資料で基礎的なプロフィールは垂れ流しにされているから調べようと思えば知る機会はいくらでもあったが、そういうことに興味がなくて今更ながらに歳や二月生まれであることを知った。知らないことが多いな、と思った次に遅れて、あぁ、十七なのか、と気づく。
 これの兄もあの頃は確か十七だった。たった二年前のことだ。
 あの頃のアイツは今の二郎より大人びていたがやっぱり生意気なガキだった。三年の間に可愛げを捨て去った現在の山田一郎を大人だとは微塵も思わないが、当たり前に当時のアイツは今よりはずっとバカで幼かった。
 仲間内で一人だけ未成年だったから、「二十歳になったら」の約束をいくつもしたが、去年の夏の誕生日に果たしたものはひとつもない。
 先のことなんてわからないもんだ。
「やっぱマニュアルの方がいいよな。金かかるからオートマも考えたんだけどさ」
「マニュアル運転する予定がなきゃいいだろうが」
「そりゃ兄ちゃ……うちの車はオートマだけどさ。……マニュアルの方がカッケーじゃん」
 視線がまたギアに落ちた。なるほど。この車はマニュアル車だ。言葉の後半、トーンが落ちて密やかな色が滲んだ。
 ガキでも二人きりの車内が部屋と同じ密室であることは知っていたらしい。
 どこまで流すか決めていなかった進路を次の大きな交差点までと決めた。適当な駐車場に入ってもいいが、全く人目に付かない駐車場というのがしばらくない。
「免許取ったら運転の練習付き合ってくれよ」
「テメェんちのボロい軽は乗らねぇぞ。初心者マークにゃこの車も貸さねぇからな」
「クッソ、腹立つ。じゃあ一年経ってショシマとれたら俺の運転でドライブだからな!?」
 一年後。順当にいけば二郎が高校を卒業する十九の年だ。一年先だって随分遠い約束になる。
 赤信号で停まった際に隣に目を向けると窓のふちに肘をついてこちらを見ていた。運転する様子を見ていたんだろう。目が合うと睫毛を伏せて目を逸らし、鼻の下を擦る仕草で口元を隠す。
 一年後。お前は十九になってもこの距離にいるつもりか。
 煙草を灰皿にねじ込むと空けた手を首に伸ばして引き寄せ、唇に触れた。視界の端で歩行者信号が点滅している。間もなく正面の信号も赤から青に変わる。
「一年後、な」
 解放してから青信号で走り出す合間に約束をした。
 三年経っても懲りない自分に辟易した。

2018/9/1 キャラベルにてアップ

 

◇シャボン玉

 コンビニのレジで会計をしようとする二郎の横から酒瓶を置いた。近づいた瞬間、煙草の臭いがして眉を顰めた。
 レジ台に乗せられたガムだの虫よけスプレーだののバーコードをスキャンする店員に「あと、タバコ一個」と告げた二郎はいいところに来たって顔で振り向いたが、顔を合わせた途端に鏡映しのように眉間にシワを刻んだ。
「……マルボロ」
 呟くと酒までスキャンした店員が速やかにレジ奥の煙草陳列台に向かう。
「はーい、マルボロおひとつですね」
「え、いや、一六二番で!」
 慌てて言い直した二郎の頭に鼻を寄せて確かめてもやっぱり普段しない臭いがした。家も兄貴命令で禁煙のはずだ。俺の知る限りで親しくしている連中にマルボロを愛煙しているヤツもいない。知らない誰かに移されたか。
 においを嗅がれて自分のシャツの襟を引っ張った二郎は八の字眉の尻を更に下げ、尋ねる前ににおいの理由を回答した。
「そんな臭う?ここ来る前に会ってた仲間があんまり勧めてくるから一本だけ喫って来たんだけど」
「自分で喫ったんかよ」
「ちょっとだけな!」
 ちょっとを強調してくるのは兄の教育に背いた後ろめたさだ。俺が兄貴にチクるわけもないのに。コイツが気にするポイントは大抵こっちが腹を立てている点の斜め下だ。
 他人の残り香じゃない分マシだがそれでも気に入らない。
「ガキが粋がりやがって。これでも吹かしてろや」
 レジ横に並べられた子供用のシャボン玉セットを顔に押し付けた。マイペースな店員が煙草のための年齢確認ボタンを押すよう言うから手を放し、シャボン玉セットは二郎の手に落ちてからレジ台に置かれた。
「アンタ未成年だからどうとかって柄じゃねーだろ」
「お会計、三千と二九四円です」
 ガキの文句に被せて店員が値段を告げた。予め紙幣を握らせていた二郎は慌てて店員に向き直って万札を置き、自分の財布から小銭を漁った。別に返されなくても困りやしないが、釣銭の札はその場で返される。取っておけと言ったって理由がないと言って返してくる。財布が寂しいとよくぼやいているクセに。
 店を出ると少し歩いたところにあるベンチに腰を下ろした。
 今日は久しぶりに理鶯からディナーの誘いがあった。元々は俺と銃兎だけ招待されていたが、大猟だったと言うから人数は多い方がいいだろうと二郎を連れてきた。メニュー次第では食べ盛りの胃袋に全て捧げる予定だ。二郎が毛嫌いしている銃兎も今回の二郎同伴には大賛成だった。コイツは味さえ問題なければ理鶯のゲテモノ飯も「珍味と思えば食える」と言ってまともに食う。この件に限っては俺たち二人とも一目を置いていた。
 携帯で銃兎からの連絡時刻を確認し、銃兎の車が到着する時間を計算して買ったばかりの煙草を咥える。間にコンビニのレジ袋を挟んで少しの距離を置いて座った二郎も買ったばかりの袋を漁った。
 今日は天気がいいから森歩きは暑そうだ。酒以外の飲み物も買ってくれば良かったが店に引き返すのも面倒だ。煙草をくゆらせて雲の少ない空を見上げていると、青空に虹色を重ねたシャボン玉が風に乗って流れてくる。大小いくつも。こんな近くでこんなもの見るのは数年ぶりかもしれない。
 風上を振り向くと思ったよりもすぐ近くでそれは発生していた。すぐ隣で、小さなボトルに入ったシャボン液に専用のストローの先を浸しては吹き口からそぉっと息を吹き込む。ちょっと唇を突き出した子供っぽい横顔をしばらく見つめ、
「なにやってんだ」
 一瞬前まで静かに吹いていたストローを口から離し、勢いよく振り向いた二郎が恥ずかしそうに怒る。
「アンタがやれっつったんだろ!」
「本気でやるか?っつーかそれ買ってたのかよ」
 高々百円か二百円のものだからどうでもいいが、どさくさ紛れに会計されていたらしい。
「テメェが持ち出してきたのに茶化してくんな!」
 シャボン玉を吹く時とは打って変わって唾を飛ばす勢いで言うと、たっぷり中身の残ったボトルにキャップを閉めようとする。まだ手の届くところには透明の球体がふわふわ漂っていた。それに手を伸ばすとすぐに割れてしまう。
「いいじゃねぇか。まだやってろよ」
「……どこまで冗談かわっかんねー」
「ごちゃごちゃ言わずにやれよ」
 訝りながらも一度拾い上げたキャップをベンチに置き直し、二郎はまたストローに口を付けた。膨らんだシャボン玉は一つずつストローの先から離れ、風が吹くと煙草の白い煙と同じ方向にゆっくり流れていく。それを見ていると、シャボン玉が浮かんでいる間は時間がゆっくり進む気がして悪くなかった。
 
 目の前の路肩に一台のセダンが停まり、そのルーフの端でシャボン玉が弾けた。助手席のウィンドウが下がって見飽きた面が覗く。
「おや、どこの子供が遊んでるのかと思えば二郎くんでしたか」
 こっちへの挨拶よりガキ弄りを優先した下衆の言葉でベンチから腰を上げた。
「うっぜぇ絡み方してくんじゃねぇぞ、このクソポリ公!」
「健全でいいじゃないですか。いつも持ち歩いてんですか?」
「ンなわけあるか!左馬刻さんがやれっつーから」
 へぇ、と面白がる目がルームミラー越しに後部シートに乗り込んだこっちを向く。鬱陶しい。運転席の背もたれを蹴りつけた。文句を言いつつ車が走り出す。
「……ガキにゃ煙草よりお似合いだっつー話だ」
「煙草?」
 今度は二郎が視線を受け、仮にも警察相手だからか目を逸らして答えた。
「仲間にやってみろっつって一本貰ったんだよ。そしたら臭いで左馬刻さんにバレて…」
「はぁ?」
 この気の抜けた相槌は俺へ。お前はそんな青少年健全育成なんて柄じゃないだろうっていう。これに返事はしなかったが、しばらく後部シートでそれぞれ外を見ながら黙り込んだ数秒後。当事者のガキよりよっぽど察しのいい運転手が叫んだ。
「クッソ、惚気じゃねーか!」
 それはもう、シャボン玉も声量で割れるような大声だった。
 
2018/8/18 新書ページメーカーでアップ

 
◇怪我/さまじろ
 
 余計なことに首突っ込んだのが悪い。待ち合わせ場所に向かう途中、薄暗い路地の奥で誰か倒れているのを見つけて近寄った。困っている人は誰でも助けますってわけじゃない。知り合いなら助けるが離れた場所からじゃ誰だかわからない。それにこんな場所で倒れていそうなどうしようもない人物には何人か心当たりがある。
「おい、大丈夫か?」
 周囲に何者かが潜伏している可能性まで考えて警戒しながら声をかける。倒れていた男がピクリと手を動かした。
 あ、他人だ。放っときゃよかった。
 ある程度の距離まで来てそう判断し、引き返すか迷った矢先。しっしんしているかとすら思った男が跳ね起きて何かを右手に持って突き出しながら襲い掛かって来る。獲物が上からの光を反射した。ナイフだ。
「チッ、めんどくせぇな」
 癖で腰からヒプノシスマイクを引っ掴んだがビートがいいところまで鳴るのを待つ状況じゃない。ナイフを躱して横から腕を叩き落とし、バランスを崩した男の足を払って転がしてやる。
 倒れ込んだ男の手元近くに運悪くナイフが落ちていたのでこれも遠くまで蹴飛ばし、改めて男を見ればどうも様子がおかしい。
 強盗か何かかと思ったが、倒れた際に頭を打ったとかじゃなく目の焦点が合っていない。口も声が小さくて聞き取り辛いが、ブツブツ言い続けている。厄介なものと関わってしまった。
 再度起き上がってこようとする首の上に靴底を押し当てて携帯でここら一帯を仕切る男に、待ち合わせ場所変更の電話を入れた。電話の向こうで不機嫌そのものの声がしたが、ものの数分で路地の入口に黒塗りの車が横付けされる。
 後部シートから出てくる白い頭を確かめ、踏みつけていた男に少しの同情を送った。
「ポリの方が好みだったら悪ぃな。でもこの街のお巡りなんざやくざとそう変わんねーから」
 
 向こうが指定した店の前まで向かう車の中で電話を受けた。
「テメェが決めた場所変更してんじゃねぇぞ」
 文句はつけるが、まだ到着していない。ハンドルを握る部下に指示して行き先をわずかに変更した。
 到着してみると面倒事を踏みつけにして待っていた。俺様との待ち合わせを変更してまで何をしているのかと思うが、相手が薬物使用者となればこっちも無関係の話じゃない。
 部下に拘束を任せてこの手の話が大好物の野郎に連絡を入れた。最初に通報するのが俺だろうと警察だろうと、結局情報は共有される。ただ、先に参考人を確保した方が優位に立てる。相手が仲間と言えど、やくざと警察が仲良しになるわけじゃない。
 薬中野郎が落ち着くまでは話も出来ないからそのまま車に押し込み、今日の予定に戻ることにした。
 それを告げるとガキは仕切り直すときのルーティンでキャップを被り直す。その手に真新しい傷を見つけた。垂れるほど出血はないが、赤く線を引いたような切り傷だ。
「ああ、これは……さっきの奴のナイフ捌くときにちょっとミスった」
 ダサいから聞いてくれるなって顔だ。ガキはガキの物差しで喋る。こうしてやくざと顔を繋いで大人ぶってブクロをまとめ上げてると言ったってガキはガキだ。
 手を掴んで傷の塩梅を確認すると居心地悪そうに「大したことないって」と言うが、自分の怪我より身内の怪我の方が五割増しで癇に障る。もう犯人はこの場所にいないからどうにもしてやらないが。
「ほら、もう行こうぜ」
 ガキは本気で自分の不手際が恥ずかしくて怪我の話を終わらせようとする。こっちも、ガキとはいえ一人でナイフを持った薬中を制圧できるような男相手に心配を口にするのも躊躇われて押し黙る。
 これが自分でやり返せないような女やもっと弱い男なら素直にブチ切れることができた。だけどその気になれば自分で薬中野郎の首をへし折ることだって出来たコイツ相手に言うことじゃない。
 甘っちょろい子供だとしてもコイツの強さは知っている。今はもう、コイツを舐める気はない。瀕死の重傷を負わされたわけでもなく、勝ったおまけの些細な傷だ。
 だが気に入らない。だからといって自分を棚上げにして喧嘩をするなとも言わない。
 仲間なら強さを承知で多少危険に晒されていてもギリギリまで放っておける。守ってやるべき女なら最初から危険から遠ざける。
 コイツはそのどっちでもなかった。
 ブラコン兄貴は弟を信頼しているだとかなんだとか言って放っておくんだろうか。妹相手とは勝手が違いすぎる。
 やり辛ぇな。
 先を歩く二郎は立ち止まったままの俺を振り返って急かす。
「うぜぇな。はしゃぎ回んな。……薬局寄ってくぞ」
「えー、要らねーよぉ」
 傷の長さのせいで無駄に大きな絆創膏を買った。大袈裟だなんだとずっと文句を言っていたが、雑魚相手に傷を受けた方が悪い。
 嫌なら強くなればいい。何の心配も必要ないぐらいに。

2018/08/10 段組みジェネレーターでアップ

 

◇下手くそ

 揉め事の収拾に追われ久し振りに会う約束をした。数日前に電話した時は普通だった。その後に何かあったんだ。
 部屋を訪れると部屋の防音性能を過信したような音量でオールドスクールが流れていた。インターホンの後ろで音楽が鳴っていても玄関を開ける時には音量を控えるか音楽自体止めていることが多いのに。
 左馬刻はソファで煙草をふかしていて、部屋に入ると気怠げに目の動きだけで俺を迎えた。歓迎されていないとは思わない。部屋に迎え入れられただけですでに許されてる。
 多分、仕事のことで何かあった。こっちに来る前にたまたま理鶯から連絡があって何も言っていなかったからチーム内のいざこざはない。仕事に無関係な交友関係は極端に狭い人だ。
 何でも気に入らなきゃすぐ怒り出してぶん投げるこの男がひとつだけぶち壊して捨てられないものがある。それが極道社会における立場だった。
 今の生活も、いつか妹を取り戻す希望も全てそこにある。やりたくない仕事でも上に言われれば断ることができない。この人と知り合ってから見た目よりよっぽど不自由に生きていることを知った。知ったとしても、俺にできることはない。
 荷物と一緒によくガキ臭いと言われるキャップを脱いでソファの隣に膝をつく。そこまで近づいても何も言わない。話してくれれば聞き役くらいにはなれるのに、中王区の壁ほどに高いプライドが弱音を吐かせてくれない。
 こういう時、兄ちゃんくらいしっかりしてたらもっと上手く立ち回って頼りにしてもらえるんだろうか。もうこの人が兄ちゃんを欲しがってるわけじゃないのは分かっているけど、長年の習性で迷った時には兄ちゃんの行動をトレースしようとしてしまう。だけどダメだ。こんな時に兄ちゃんがどうするかなんて知らない。まだ左馬刻と上手くいっていた頃のことも知りたくない。
 他にいい手が思いつかなくて悔しいな。
 口元の煙草を奪って灰皿に入れ、膝に手を置いて口付けた。される時みたいにスマートにはやれなくてイマイチ座りの悪いキスになる。それでも襟足から髪に潜り込んできた指に勇気を貰って言う。
「なぁ、ベッド行こうぜ」
 こういうのは絶対に断らないから。いっぱいやらしいことして、難しいこと考えらんなくなればいい。いつも俺の方が余裕がなくて頭ん中いっぱいになるから上手くやれるかは分からないけど。
 恥ずかしさを押し隠して返事を待っていると、少しの間見つめ合ってから左馬刻が噴き出した。
「下手くそ」
 言うんじゃねぇよ、気にしてんだから。
 そして左馬刻は腰を上げる。下手くそなガキのリクエストに応えるために。