何にでも理由がある/さまじろ4/19514

 先月兄ちゃんがスニーカーを新調するのについていって色違いを買った。おまけに三郎も同じモデルの色違いを買ったから三人お揃いになったスニーカー、気に入って履いてた。その爪先がドブみたいな鼻血とよだれと吐瀉物で汚れている。ガラスの欠けた窓から差し込む月明かりしか光のない暗い床に視線を落として、汚れた足元を見つめていた。朝がきて眠りが浅くなって現実の音や光が夢に作用して起こる、眠りから覚める直前の夢の場面転換みたいに、静かだった倉庫に聴き慣れたエンジン音が近づいていた。

 見せたいものがあるからと友人に呼ばれ出向いたのは友人の父親が経営する小さなバイクショップ。正直足は重かった。ついこの間この友人、タケを俺の持ち込んだ薬物絡みのトラブルに巻き込んだばかりだからだ。悪いのは俺じゃなく俺に面倒な依頼をした警察とタケのバイト先に潜伏していた麻薬の密売人だが、売人探しに巻き込んだのは俺に違いがない。タケ本人は学校で顔を合わせた際に「気にするな」と言ってくれたが、タケの親に会うのはタケが麻薬密売の参考人として連れていかれてから初めてだった。店に行けば大体親父さんがいる。
 店の近くに到着してもすぐには声をかけられず、少し離れた所から店内の様子を窺った。もしかしたら配達で親父さんは留守かもしれないし、等という男らしくない期待はすぐに打ち砕かれ、息子より先に軒先に出てきた親父さんに発見されたのだった。
「二郎くん、そんなとこで何してんだい。こっちに来なさいよ」
 普段は躊躇いなく店先に愛車を寄せて挨拶するもんだから挙動不審は速攻でバレた。そうなるともう腹を決めるしかない。元々会ったら謝るつもりだった。ヘルメットを外しバイクを押して近づくと勢いよく頭を下げる。
「あの、この間は厄介ごとに巻き込んですんませんしたっ」
 これで今後息子と関わらないでくれと言われたらどうすればいい。人の道に反することはしないものの所謂不良グループに属する俺と関わり合いを持ちたがらない奴はいる。親ともなれば本人以上に心配もするもんだろう。多分。あまり普通の親のことはわからないが漫画ではそういう場面を見たことがある。
 せめて潔く謝ることで少しでも誠意を見せるしかない。
 握ったままのハンドルの高さほどに下げた頭の上から親子で似た穏やかな声が降って来る。
「巻き込んだなんて、助けてもらった方だろう?ほら、頭を上げて」
 言われて頭を起こす。背筋を伸ばすと背の低い親父さんを見下ろす角度になる。
「ヨコハマ署の刑事さんも丁寧に対応してくれたし、二郎くんが口添えしてくれたんだって聞いたよ」
「親父さん………………刑事さん?丁寧?」
 唯一顔と名前の一致するヨコハマ署の刑事と評価が噛み合わない。
「うん、担当してくれた入間さん」
「うっそだろ!?」
 人の顔を見れば嫌味を言わないと帰れないような男のはずだ。表面的には丁寧口調だが発言内容は問題ばかり。子供相手じゃなければ外面を崩さないんだろうか。悪印象しかないせいでつい苦い顔をしてしまう。
「そんな驚くほどなの?二郎があんまり心配してくれてたからどんな怖い人かと思ったけど真面目な人だったよ」
 店の奥から出てきたタケも親父さんに並んで口を揃えた。
「二郎はディビジョンバトルでは敵同士、ラップで戦う仲だから怖い印象持っちゃうのかもしれないけど…」
「いや怖くねーし」
「仕事熱心で気の回る人だよ、入間さんは」
「ないないないない、騙されてンだよ!」
 いい人が脅しをかけて売人探しの手伝いを強要するわけがない。いやそれは言葉の受け取り方の問題で、顔の広さを見込んでの純粋な捜査協力だったんじゃないのか。いやいやいやいや、性根が不純な人間だアイツは。入間銃兎の外面に騙され切った親子を相手に話は平行線をたどった。
「まあいいけど。この間の事件のお礼ってわけじゃないんだけど、二郎が言ってたマイクホルダー作ってみたんだ」
「マジで?!」
 ごく軽い前振りで出てきたのはバイクの手元にマイクを固定するマイクホルダー。走行しながらラップができる。する予定はないがヤンキー漫画の影響で欲しがっていた。現実にはそんなもの売ってないし必要な人間もいない。
「マジでー?!!」
 本当に出てきた漫画そっくりのアイテムに大興奮だが、手作りしてくれた製作者はやや冷めた目で見ている。
「やっぱり思うんだけど実物はカッコよくないよね」
「こーゆーのは付けてみるとカッケーんだって!」
 弱気な発言に人差し指を左右に振って早速自分のバイクに付けてみる。内側にゴムの貼り付けられた固定部にハンドル近くのパイプ部分を挟んでネジで締める。マイクはもちろん常に携帯している自前のヒプノシスマイク。過去にひったくりにあったことがあるから周囲に気を配りながらはめ込み。
「…………………」
「…………うん、まあ、こんなもんだよね」
 ダサかった。
「マ――ジ――で―――――??!走ればカッコ良くなるんじゃね?!」
「なるわけないって。走りながらラップして加速するギミックは流石に再現できないし」
「何がダメなんだ?」
 店の中からマイクスタンドの登場する不良漫画を持ち出して店の前であーでもないこーでもない。結果的には漫画の中のマイクが俺のヒプノシスマイクより小さい、つまりサイズ比の問題ということに落ち着いた。無理やり結論を出したところで折角なのでバイクに跨りマイクスタンドに取り付けたマイクを構えた写真を撮って画像だけで兄ちゃんに送る。即座に返ってきたのは「ダセェフロウじゃビートが泣くぜ」という一言。漫画の主人公のキメ台詞だ。さすが兄ちゃん、わかってる。
 二人で頷き合っていると店の奥に戻った親父さんがお茶の支度をして呼んでくれて、もうすっかり平常運転でごちそうになった。
「そういえばさ、姉ちゃんから、今度久し振りに帰って来るって連絡があったんだ」
 店内の土間に設置された簡素な応接テーブルで麦茶を啜りながら話が飛ぶ。いや、飛んでないのかもしれない。兄ちゃんから返事が来たことから連想したんだろう。
「姉ちゃんって中王区いってんだよな。帰省もしてねぇの?」
「たまに連絡があるぐらい。ずっと行ったきりだったけど事件に巻き込まれた話したら心配してくれて顔見に来るって」
「ふーん。きっかけはともかく良かったな」
「うん。姉ちゃんが帰ってきた時のためにオムレツ作る練習もしてるところ」
「お前機械いじり以外不器用だもんな」
 タケの家は父子二人暮らしで、店も家も親父さんが切り盛りしている。昔は日本も両親そろった家が普通で家事は母親が、なんて時代もあったらしいけどH歴の現在は親が揃っていて円満という家庭の方が少ない。タケの家はもう一人、年の離れた姉がいるが、とても頭のいい人で、何年も前に中王区に就職してから戻ってこないんだそうだ。
 この町の端には高い壁がある。女だけが集まって暮らす日本の中心。男はその外で中王の女より貧しく暮らしている。壁の外には女への不満を抱えた男も少なくなくて、時々壁に八つ当たりして逮捕されたバカのニュースを見る。壁に落書きなんかしているヤツはまだいい方。最悪なのは壁の外で男に混じって普通に暮らしている女に不満をぶつける野郎だ。政治不満があっても壁の警備は厳重でどうにもならないから手の届くところにいる女を標的にする。裁判にでもなれば男には分がないと分かっていてもだ。壁の外で男からの加害に遭った女はもれなく中王区での暮らしに憧れる。自分自身の身に何もなくても、女の人生で壁の内側に住むこと以上の安定はないとさえ言われていた。バカな話だと思う半面で、
「便りがないのが元気な証拠さ。女の子は中王区に住んだ方が安全なんだから戻ってこなくていいんだ」
 親父さんが帳簿から顔を上げて穏やかに笑った。

「じゃあまたな」
 店の先前で見送られ帰宅した、その翌日。日が暮れる頃、自宅の固定電話が鳴った。普段あまり使われない電話だ。兄ちゃんの仕事も外に出ていることが多いため、依頼は全て携帯に受けている。幼い頃から固定電話契約がしてあって、ずっと飾り程度に置かれている電話機はあまり鳴ることがない。普段沈黙しているものが騒ぎ出すと不気味に見えた。
 三郎がとった電話の主は武谷モータースの親父さんからだった。大体いつもタケが携帯に連絡を寄越すのに、今夜は顧客登録されている固定電話の番号にかかってきた。
「遅くにすまないんだけど、……うちのがどこに居るか知らないかい?……何も言ってなかったのにまだ帰らないんだ」
 電話の向こうで何度か躊躇うような間があった。高校生とはいえ男だし心配しすぎかもしれない。でも、夜遊びするような子じゃないし連絡がないのはおかしい。そんなニュアンスの間だった。
 心当たりはなかった。自分でも探してみると告げて電話を切ってからスマフォの電話帳を繰ってみたが共通の知人がほとんどいない。いても知る限りでは夜まで遊ぶような仲じゃないはずだ。調べようにも誰に当たればいいか見当がつかない。
 ダメ元でメッセージアプリからタケ本人に連絡を入れて三十分後。メッセージ受信じゃなく着信があった。表示名は“じゅうと”。相手への私怨を差し引いても今目にしたくない名前だった。そういう悪い予感ほど当たる。
「手短かに忠告します。例の薬物売買の犯人が体調不良を訴えて検査中の病院から脱走しました。もし身近に現れたら余計なことせずすぐ私に連絡を」
 こちらの返事なんか待ちもせず苛立ちが滲む硬い声で話して一方的に電話は切られる。
 通話終了画面からすぐさまメッセージアプリに切り替えてタケに追加でメッセージを送った。五頭が逃げて行方をくらましてるからヤバイってことを。とにかく一人になるなって。
 メッセージを送って間もなく既読通知がついた。そのことにホッとしたのも束の間。メッセージの代わりに暗い写真が送られてきた。咄嗟に何が写っているのか分からずに目を凝らす。その間にメッセージが送られてきた。
『ひとりじゃないよ』
 写真は灯りのない殺風景な部屋に倒れている人の姿だった。顔が腫れているのか違和感があるがタケだ。地面は平らで壁が見えるから外じゃない。床に倒れているタケの顔のあたりに向けて撮られた写真だ。鳥肌が立った。
 何か考えるより先に通話ボタンを押した。コールが始まってから少しして繋がった。背景はやたら静かで、もったいつけて聞こえてきた声は案の定タケのものではなかった。
「お前、俺を知ってんのかぁ?」
「五頭、だな」
 もはや疑問符も要らない。
「そういうお前は山田一郎んとこの弟だろう?そうかぁ、そうだよなぁ。おかしいと思ったんだぁ。上手くやってたのに急にパクられてよぉ」
「何言ってんだテメェ」
「突然武谷が配達中のピザ落として中から不審物が見つかりましたぁなんて出来過ぎだろぉ?今までいっぺんも落としたことねぇのによぉ。テメェが噛んでたんなら納得なんだよなぁ」
 五頭が逮捕された件を、警察では「偶然発見した」で処理していたらしい。俺の関与は伏せられ、タケも喋らなかった。だから今しがた迂闊に「五頭が逃げた」なんてメッセージを入れるまで、五頭は俺の関与を知らなかった。
「今どこだ」
「どこぉ?ここどこぉ?」
 自分の言葉が面白かったとばかりに笑いだす。耳障りな笑い声は数秒でピタリと止んで、急降下するような低い声で続けた。
「お友達の武谷くんを助けに来ンなら一人で来いよぉ。警察もお兄ちゃんも連れて来ンなよぉ。わぁかってンよなぁ」
 そこで初めて五頭以外の声がした。短い呻き声だった。誰のものかなんて確かめるまでもない。人質の存在を教えるために何かされたんだ。
「テメェ、どこいる」
「どこかなぁ。俺にもわっかんねンだよぉ。夢中で逃げてきたんだぁ」
「ざけてンじゃねぇぞ」
「マジマジ。大マジだって。お前が調べてたどり着くまで人質は生かしとくからよぉ、一人で金持ってこいよぉ。集められるだけ沢山だぞ?適当こいてダチにも借りてよぉ。そしたらガキでもいくらか持ってこれンだろ」
「頭沸いてンのかテメェ」
 返事の代わりにまた呻き声と、荒い呼吸音を携帯のマイクが拾う。
「じゃーな」
 そこで通話が切れた。その後でもう一枚だけ、人物の映らない、暗くて広い、何もない室内の写真が送られてきた。

 バイクのカギをひっ掴んで玄関に向かう。途中、三郎が生意気な面を不安そうに歪めて台所の戸口から顔を出した。
「おい、こんな時間からどこ行くんだよ。もうじき夕飯だぞ」
「ちょっと野暮用だよ」
「答えになってないだろ」
 納得いく話し合いなんか端からする気がなかった。無視して家を出る背中に名前を呼ぶ声がぶつかって足元に落ちた。土間に脱ぎ散らかされた自分のスニーカーに足を突っ込み踵を半ば潰すように履いて玄関を飛び出した。
 すれ違う時も家を出るその時も、弟の顔は見なかった。

 イケブクロは庭だ。何人かの知り合いに情報提供のメッセージを流すと駅に向けてバイクを走らせる間に次々と連絡が入った。人間の目は天然の監視カメラ。様子のおかしい男は人の記憶にも残りやすく、目撃情報は簡単にあがった。情報を元に徘徊していたエリアを絞り込む。送られてきた写真は廃墟のようだった。住宅じゃない。倉庫か工場。あたりをつけた地域に詳しい仲間を捕まえて携帯に表示した地図からそれらしい建物を割り出す。
「こっちはしょっちゅうホームレスが入り込んでる。ここは前にボヤ騒ぎがあってから入り込めないようがっちり施錠された」
 そうやって潰していくと残るは一軒だけ。着いていこうかという申し出を断って一人で廃工場に向かった。もう仲間は巻き込みたくない。俺が巻き込んだからタケは攫われた。繁華街の光がヘルメットごしに流れて後方に消えていく。廃工場のそばは空き家も多く、人工的な光が少ない。長く放置された建物に蔦が絡みついて人の気配までも飲み込むようだった。
 バイクを降りると腰のベルトに差したマイクを抜いた。工場のサビが浮いた金属扉は誘うように数十センチ開かれている。それをさらに押し開いて体を滑り込ませると埃っぽい空気に包まれた。奥で人の気配がする。荒い呼吸音が一つ、二つ。
「……よぉう、山田二郎くん」
 苦しいのか興奮しているのかわからない跳ねた吐息の合間に粘り気のある男の声が響く。相手のいる位置はちょうど窓からの光が届かない場所で、月明かりが差し込む俺の位置からはよく見えない。耳を澄ませた。もう一人いる。男の側から掠れた声がした。
「じろ……ひっ、あ゛……」
 濡れたボールを蹴飛ばすような鈍い音と呻き声がして小さな声は消えた。見えないのに何が起きたかがわかる。脳裏に見えないはずの光景が鮮やかに浮かぶ。そうすると同時に脳の奥から音楽が湧き出てくる。人の呼吸音が聞こえるほど静かな場所にいながら、頭蓋骨の中は責め立てるようなビートがガンガンに響いている。
「おぉい、喋るなってさっき言ったじゃんよぉ武谷。俺はぁ、ハマのポリに尻尾振るポチとお話ししてンの。なぁ?ブクロの番犬さんよぉ」
「タケから離れろ」
「アー?そんな要求できる立場ぁ?先に金出せよぉ。武谷の息があるうちにさぁ」
 外で風が吹く。窓の半分を覆った緑が揺れて月明かりの端が五頭の足元まで伸びた。パイプ椅子の足元、男の足の下に頭がある。不思議と腕は拘束されていなかった。それを不審に思った次の瞬間に投げ出されたタケの手が見えた。袖口から見える肌全てがどす黒く鬱血して指が何本もおかしな曲がり方をしている。
 ビートが、頭に染みついたビートが脳内に流れ出す。頭の中で弾を込める音がする。
 マイクを口元に持ち上げるモーション。それを見た男が途端に余裕を失って、何か叫んで人質を傷つけようと足を振り上げた。一小節目はその足の動きより速い。
『ざけんなナメんな怯え喚くな Dragより高く高く高く飛ばすぜ Badtrip恋しがるほどヤバイ奈落の悪夢 見て這って泣いてそして落としてdie』
 頭に響くのはヒプノシスマイクによるビートなのか心音なのか、バイクのエンジン音なのか自分の声なのか。もうなんだかわからない。煮えたぎる頭から滑らかに言葉があふれ出て攻撃的なフロウに乗って声帯を震わす。次から次へととめどなく。
 自分の中の音がうるさくて他の音は微かにしか聞こえない中、汚い悲鳴がして椅子の倒れた音がした。呻き声、倒れた椅子にすがってもがく物音。それらすべてを塗りつぶして注ぎ続ける形のない拳。一歩ずつ進んで男の沈んだ暗がりにたどり着いた頃、そこはまた窓に絡む蔦で深くなった暗がりに飲み込まれ、床に這いつくばった頭を蹴りつけてから気が付いた。とっくに気絶した男が垂れ流した鼻血と吐瀉物が水たまりを作って足元を汚していることに。
「………きったねぇ」
 お気に入りの靴が汚れたのが気に入らなかった。男はピクリともしない。さっきまで荒く聞こえていた呼吸音も今はわからない。わざわざ汚らしい頭の側に屈みこんで生死を確認しなければ、とも思わなかった。どうだっていい。
 遠くから唸るような車の音が近づいてくる。なんとなく兄ちゃんだと思った。
 転がったままのタケの側にしゃがみ込んで口元に手をやるとやや苦しそうにしながらも吐息が触れる。そのことにホッとしたら急激に現実に引き戻された。あんなにうるさかった頭の中の音楽も余韻までもがピタリと止まって近づいてくる誰かの気配に焦りを覚える。
 自分の足はバイクで負傷した友人は運べそうになかった。携帯で手短に救急車を手配し、着ていたジャンパーをかけると一人で建物の外に出る。そこに一組のヘッドライトがサーチライトみたいにこちらを照らしながら走り込み、車は金属扉の三メートル前で停まった。その光から逃れるように自分のバイクに走り、エンジンをかける。
「二郎!」
 ほらみろ、やっぱり兄ちゃんだ。
 仕事用の軽トラックの運転席から降りてこちらに向かって来ようとするのを空吹かしで牽制した。
「兄ちゃんごめん、中にタケがいるから、頼むよ」
「おい、ちょっと待て」
 兄ちゃんの目が工場に向かって一瞬逸れた隙に走り出し、工場の敷地を飛び出した。

 静かな夜の住宅街を家とは真逆の方向に向かって駆け抜ける。途中で赤いランプを回したセダンとすれ違った。兄ちゃんが通報したんだろう。その後で救急車のサイレンが聞こえて、置き去りにしてしまった友人のことを思った。家に残した弟のことも。思えば思う程足は家から離れた場所に向かう。ホームグラウンドであるイケブクロディビジョンを抜け、海沿いに出て等間隔の街灯がまだらに照らす道を突っ走る。
 足を止めたのは海辺の公園の駐車場だった。正確な場所はわからなかった。すっかり見知らぬエリアに出てから人のいない駐車場を見つけて身を寄せた。
 バイクを降りてから公園の隅に水道を見つけ、そこでスニーカーを履いたまま靴先を洗った。水で流しても汚れが残っている気がする。オレンジ色の街灯の下で、水に濡れたのと血の色の判別がつかない。
 靴の中まで濡らすことには抵抗があって途中で諦め、海に向かって設置されたベンチの右端に腰を下ろした。家ではソファに兄弟で座るために一人の時でも片側に寄って座る癖がついている。ソファが埋まっていると兄ちゃんはカーペットに投げてあるクッションの方に座ってしまうから、隣に来てほしくて空けておく。二人で座っていると後から来た三郎がずるいと言って、兄ちゃんが反対側を空けてぎゅうぎゅうになって座ることもある。記憶の中では小さなころからいつでもソファの下で三人分の足が投げ出されている。こんな汚れた靴じゃ戻れないのに。
 膝に肘を立てた両手に顔を埋める。兄ちゃんから逃げ出してしまった。
 相手は所詮ちんけな男だ。人質がいたなんてのも言い訳にならない。すぐ警察を呼んで任せる道もあったし一撃で手を引けば十分だった。その証拠に、攻撃を続ける間にも相手は逃れようとしてもがいていた。完全にオーバーキルだ。興奮していたとしてもそのことを覚えているんだから言い訳はできない。完全な私刑だ。自分より弱いと思っているヤツが動かなくなるまで叩きのめした。兄ちゃんは、生き方の見本にしてきた兄ちゃんはきっとそんなことはしない。
「うっ………くっ………ぅ」
 顔を伏せた手の中にぬるい涙が溜まって指の間を伝い、濡れた手の甲が海風で冷えていく。足元が崩れ落ちてどこへ向かえばいいのかもわからない。謝ろうにも誰に何を言えばいいのかわからない。後悔が押し寄せても、家を出る瞬間からやり直せたとしても同じことをしそうな自分がいて救いようがない。打撲痕だらけの友人の腕が脳裏に浮かぶと、どうしても自分が間違ったと認めきれない。自分のしたことを正当化したいんじゃなくて、今もまだ友人を傷つけられた怒りを正しいと思っている。
 物心ついてから昨日まで、困ったら兄ちゃんの顔を浮かべればやるべきことが分かった。今はまぶたの裏に思い浮かべても口を引き結んで睨まれるばかり。頭の中の山田一郎は何も言わない。
 いつも羽織っている上着を置いてきたせいか、夜が更けたのか肌寒く感じる頃。風が強く吹いて遠くにあった波音が近く聞こえた。計画的に植えられた広葉樹が葉を擦り合わせてざわめく。
 風向きが変わって潮の匂いに煙草の匂いが混じった。それを追うようにして硬い靴の足音が近づいてくる。顔を上げた。
「よう。べそかいてやがんのか」
 月の白っぽい光で白シャツと髪のシルエットが輝いて後光のように見える。逆光で暗いその顔は百回生まれ変わっても神様にはなれそうにない歪み方をしていたけど。
 煙草をふかしたその男、碧棺左馬刻がこちらを見下ろしていた。
「……なんで、アンタがここにいんだよ」
 腕で目元を擦る。その仕草が泣いていたことの証明するのにも頭が回らなかった。左馬刻はベンチの向こう端に腰を下ろして長い脚を組む。周囲を確かめても他に人の姿はなかった。恐らくここまで車か何かで来たはずだけど、送ってきた車を帰したのか駐車場にも俺のバイクがあるばかりだ。
 まったく自分のペースで煙草を咥え、風下のことなんか一切気にせず煙を吐き出す。
「ここどこだと思ってんだ?ウチのシマに邪魔してンのはテメェの方だろうが」
 どうしてだか足が向いてやってきたが場所が悪かったのか。だとしても出店があるわけでもない小さな公園までヤクザの縄張りとは思えない。
「そういうことじゃねーよ!なんでこんな時間にわざわざこんなとこ来ンだよ」
 左馬刻は煙草を摘まんでこちらを一瞥する。その目に怒りとか勝負の前兆のような荒っぽい気配はない。
「クソカス一郎の弟がやらかしてハマに向かって走ってったって連絡が入ってな。たまたま通りがかりにそれっぽいのを見つけたから正義のお兄ちゃんに逆らってしょぼくれてるツラでも見てやろうかと思ったんだよ」
「やっぱあンときすれ違ったのはクソポリ野郎だったかよ。クソッ」
 警察とすれ違った時にそんな予感はしたんだ。左馬刻に連絡がいくのは予想しなかったが、うちの兄弟仲にヒビが入って喜ぶのは理解できた。いや、仲違いしたつもりはないけど。多分、まだはっきりとそういうわけじゃないはずだ。でも例えば、五頭が取り返しのつかないことになっていたら。急に恐ろしくなって左馬刻から顔を背けた。
「良い様だな。どうだよ、初めての家出は?」
「……別に、初めてじゃねぇし」
「兄貴べったりのクセして家出したことあんのか?」
 素で意外そうな響きだ。怒鳴り合うわけでもなくお互いに何か要求があるわけでもない。普通に話しているのがおかしかった。
「……兄ちゃんがアンタらThe Dirty Dawgとつるんでてあんまり家にいなかった時に……暗い中迎えにきてくれてすげー怒られた」
「………そういや飯食いに入った店で一郎が血相変えてすっ飛んで行きやがったことあったな」
 確かに夕飯時だった。日が暮れてから俺が残した書き置きを見つけた三郎が兄ちゃんに連絡して、兄ちゃんが探しにきてくれた。まだ三郎も小さくて、一人ぼっちの留守番は心細かっただろうに。
「一郎の野郎、大盛りのハンバーグセット注文したの放ったらかしで戻ってこねーから俺があいつの分まで食わされて、吐くかと思ったわ」
「ハッ。迎えにきてくれた兄ちゃんも俺も腹ぺこで、帰ったら三郎が米炊いといてくれて、ろくなおかずもないのに夢中で米食ったわ」
 左馬刻が苦い顔で思い出を語るのを鼻で笑ってまた自分の思い出に耽る。当時はまだ三郎一人では包丁も火も使っちゃいけないルールがあって炊飯しか出来なかった。家に着く頃には腹の虫も鳴き疲れて惣菜を作る余裕もなく、ふりかけと漬物で炊きたての米を貪り食った。
 今日も三郎が兄ちゃんに連絡したのかもしれない。また家で待ってるんだろうか。
「それでまた兄貴が迎えにきてくれんの待ってるところかよ」
 心底バカにした口調だった。きっと左馬刻でなくてもバカにしたくなるだろう。自分のやったことを咎められるのを恐れて逃げてきたんだから。それでまた「迎えに来るまで帰らない」なんて言ったらもうつける薬がない。
「待ってねーよ。兄ちゃんだって、今度こそ呆れたかもしれねーし……」
「テメェは売人ぶちのめしてきたんだろ?」
「……そーだよ。アンタどこまでアイツから聞いてんだよ」
「銃兎の追ってた売人見つけてサツに売っぱらったらクソポリど間抜けが逃しやがって、復讐しに来てテメェのダチボコったから今度こそきっちり息の根止めてやったんだろ」
「全部じゃねーか。……息の根までは止めてねーよ、多分……」
 確かめなかったからわからない。
 人が悩んでいることを学生のつまらない小競り合い並みに軽くまとめたヤクザは短くなったタバコを地面に踏み潰して新たに一本咥える。点火の風除けにした手の内側が一瞬だけ暖かそうに光った。細く長く息を吐いて満足してから口を開く。
「相変わらず偽善者野郎の教育はクソ意味わかんねーな。それの何が悪いってんだ」
「悪いに決まってんだろ。売人つっても人質取らなきゃなんも出来ねー雑魚なのにころ……半殺しにしちまったし」
「全殺しにしろや」
「うるせぇよ」
「……ダチをやられて相手ぶち殺すのに大物も雑魚もあんのか?」
「そりゃあんだろ」
 無力化して警察に突き出すだけでも良かったはずだ。兄ちゃんならそうしたと思う。
 視線を足元に落としてふと気がつくと、首のそばに白い手が迫っていて仰け反った。ベンチから転がり落ちかけて背凭れを掴んで傾げた体の重さを支える。
「何すんだよ急に!」
 片手にタバコを摘んだまま、左馬刻は真っ直ぐに手を伸ばして俺の首を掴む。触っただけなのかと勘違いするほどゆっくり力が込められ、絞める気だと気がついて腕を引き剥がそうとしたら急に強く喉を握りつぶされた。
「今ここで大事な弟を縊り殺したらあのクソカス偽善者でも本気で俺の命取りに来ると思うか?」
 呼吸が苦しくて腕を力一杯掴むと漸く解放される。急に肺に流れ込んで来た空気に咳き込み、嫌な音を立てて荒い呼吸を繰り返す。左馬刻はそんな様子には全く興味なさそうで、暗い海に視線を投げて続けた。どこまでやれば失神してどこで死ぬのかよく分かっていて恨みも殺意もなく平気でこういうことをやる。背筋が冷えるほど静かな横顔だった。
「やったのが俺じゃなく、…この間の薬中女にシャブ漬けにされて滅多刺しにされたらどうだ。相手がか弱い女なら何もしねぇってか?」
「はぁ…はっ………そんなの、警察に……」
「そのボンクラ警察が逃したらどうすんだ。現に今回の売人は逃げて、そいつより更に弱ぇテメェのダチが酷ぇ目に遭わされたんだろ。最初にきっちり潰しときゃ良かったのによ」
 この男はめちゃくちゃなことを言ってる。
「知ってるか?逮捕されっと安全な檻の中で寝て過ごせるんだぜ。まあ、色々と面倒くせぇことはあるが。ムショじゃ飯も寝床もある。食うに困ってわざと捕まるヤツもいるぐらいだ。被害者が口から飯食えなくなったって早々死刑にはならねぇからな。塀の中は安全とくりゃ、まるで中王区の女みたいじゃねぇか。笑っちまうだろ?」
 だからどうした。弱いヤツを思うままぶん殴っていい言い訳にはならない。はずだ。
 黙りこくる俺に口元から煙草を離して煙い息を吐く。風に乗ってもろに煙がかかった。
「夢見がちなクソ兄貴は教えちゃくれねぇようだがな、このドブ底みてぇな世界で聖人君子のまま大事なモンが守れるほど、テメェも一郎も強かねぇ」
 それでも、と自分の中の山田一郎が言う。十数年かけて蓄積された兄の言葉が頭の中にたくさんある。いつもその一つ一つを思い出していろんな選択をしてきた。俺の中の山田一郎は、事実を突きつけただけのような平坦な左馬刻の視線を正面から受け止めた瞬間「それでも」の続きを失った。
 左馬刻を否定しなくちゃならないのに何も言えることがない。
 目を逸らして黙り込むと、笑ったのか気に食わなかったのかはかりかねる、鼻で笑うような声がした。
「………………その理屈ならアンタだって強くないんじゃねーかよ」
「ガキが一端に揚げ足取ってんじゃねぇぞ」
 後頭部を叩かれた。十分痛いがハマの狂犬と呼ばれる男のやることと思えば小突かれた範囲なんだろう。
 左馬刻がポケットから携帯を取り出したのを見て自分も携帯を引っ張り出した。電源を切りっぱなしで時間も分からない。電源を入れ躊躇っているうちに左馬刻が隣で電話をかけ始めた。帰るための迎えでも呼ぶのかと思ったらそうでもなさそうだ。
「ああ、今からだ。……銃兎は今仕事の真っ最中だろ。……いや俺はいいって。それじゃあな」
 携帯を耳から離すなり立ち上がって一瞥くれる。
「おい、腹減ってんだろ。特別に美味いモン食わしてやる」
「いや、減ってねーけど……」
 波音にも風音にも負けない舌打ち。
「気の利かねぇガキだな。減ってんだろっつったら今すぐ減らせ」
「無茶言うなよ!急に何なんだよ?!」
「いいから行くぞ」
 返事も聞かずにどこへ行くのかと思えば駐車場に停めてある俺のバイクのタンデムシートに跨った。誰もいいなんて言ってない。
「ふざけんなよ?!」
 と怒鳴ったはいいが決着をつけるほどの気力がなくて、結局左馬刻の指示に従って走り始めた。知り合いの飯屋にでも行くんだろう。優しくしてくれようとしているのなら、相手がたとえ碧棺左馬刻でも、多少は気持ちが動かないでもない。言われた通りに走って行くとまずコンビニに着いた。そこで左馬刻は一人分の弁当と二人分の酒を買って、今度は海辺の森に向かうよう指示してくる。森に一番近い駐車場の一番奥でバイクを降りると左馬刻は迷わず森に踏み込んで行った。まさかこんなところに店はない。
「おい、どこ行くんだよ。こんな森の中で夜中にピクニックってわけじゃねーんだろ?」
「無駄口叩いてっと罠にハマるぞ。足下気をつけとけ。何かあっても助けねーからな」
 優しさの感じられない忠告を受けてますます不安になった。罠ってなんだ。この森はなんなんだ。さっきまでとは違う不安で左馬刻のそばを離れられない。森の中は月明かりもあまり届かず、左馬刻が携帯のライトを懐中電灯がわりにしているのだけが頼りだ。
 質問してもろくな回答がないまま、かれこれ一時間も歩いただろうか。時間の感覚に自信がない。気がつくと木々の間から光が見えて、やっと人のいる気配がした。
「理鶯、客連れてきたぞ」
「よく来たな。そこで少し待っていてくれ」
 明かりのあるあたりの数メートル手前で左馬刻が声を掛けると、奥から背の高い人影が近づいてきて足元の何かを回収した。それから顔の見えるところまで来て、
「もう大丈夫だ。ようこそ、山田二郎」
 夜の森に紛れるような迷彩服に暗がりでもわかるオレンジ色の髪。ヨコハマディビジョンの三番手、毒島メイソン理鶯だった。街中にいるとコスプレにしか見えない服装が、森の中では正装とばかりに馴染んでいる。
「アンタここで何してんだ?今何した?」
「ここは小官の住まいだ。罠を解除した。しないと立ち入れないようにしていたからな」
 焚き火に照らされた辺りにはアウトドア用の調理器具や折り畳み椅子しか見当たらない。おまけにキャンパーは罠を張らない。意味を計りかねて左馬刻に視線を投げると面倒くさそうにしながら、
「理鶯はマジでここに住んでんだよ」
 一言でさっさと置かれた折り畳み椅子に腰を落ち着ける。それから持参したコンビニ袋からビールを一本取り出し、理鶯に差し出した。
「ありがたくいただこう。しかし左馬刻は本当に食べないのか?」
「生憎とこっちの賞味期限が近くてな」
 コンビニ弁当の袋を低く掲げて見せる。賞味期限なんか見てないが値引き品でもないしおかしなことを言う。
「は?アンタそれさっき…んグッ」
 コンビニで買ったばっかじゃん、と言う言葉は左馬刻の手で塞がれ、背筋が凍るような目で睨まれた。地獄に落ちろのハンドサインで余っている折り畳み椅子を示され、訳もわからず座らされた。バイクで向かう間に勝手に感じていた不器用な優しさだとか僅かばかりの感謝の心はたった今、底をついた。
「それは残念だ。では左馬刻の分まで少年に食べてもらうとしよう。今日はいい食材が手に入ったから一人で食べるのが勿体なくてな」
「いつも誘いを断っちまって悪ぃな。今日は俺の代わりにコイツがたらふく食うから頼むわ」
 勝手に話が進んで行くのを気持ち悪く見つめていたが、理鶯が火にかけていた鍋の蓋を開けると美味そうな匂いが漂ってきた。デミグラスソースの匂いだ。湯気の中を覗き込むと野菜や肉がゴロゴロ煮込まれていた。腹は減っていないつもりだったのに情けない音を立てる。
「沢山あるからいっぱい食ってくれ」
 これを作ったらしい理鶯が変化の少ない顔で薄く目元を綻ばせ、早速プラスチック製の腕によそってくれる。そんな優しげな理鶯と違って左馬刻はさぞ馬鹿にした顔をしてるんだろう、と言う予想は裏切られた。隣をチラ見したら、なんとも言えない微笑のような、憐れむような顔でこちらを見ていた。
「左馬刻も少し食べるか?」
「いや、弁当でいっぱいだから遠慮する」
 即答だった。
 こうして暖かな椀とスプーン、それから、こちらも自分で焼いたというクルミ入りのパンが用意された。
「遠慮なく食べてくれ」
「いただきます……」
 手を合わせると理鶯が満足そうに頷く。でも食べるのをじっと見つめてくるわけでもなく、理鶯は自分の分をよそって食べ始める。おかしな大人だとばかり思っていたが、意外と居心地のいい人だった。一口食べたシチューもその辺のファミレスじゃ太刀打ちできないほど美味い。野菜はよく火が通っていて形を残しながらも柔らかく、鶏肉もさっぱりして食べやすい。パンも中のクルミが香ばしくてシチューによく合った。
「どうだ?」
 尋ねてきたのは理鶯じゃなく左馬刻だ。やっぱり食べたいんじゃないかと思いながらシチューの残りを掻き込み、
「すげー美味いけど?」
「そうか。ところでそれは何の肉だ?」
 食べないくせに変なことを訊く。まさかその辺でぶち殺したチンピラの人肉ってわけでもあるまいし。鶏肉なんて大体鶏の仲間に決まってる。首を傾げて理鶯を振り返る。
「今日はウシガエルだ。丸々とした個体がたくさん捕まったから煮込んでみた」
 何も狙っていない穏やかなしゃべりでウシガエルって言った。ウシガエル。その単語の意味する生物が頭に浮かぶと同時に左馬刻を顧みる。一人だけコンビニで買った唐揚げ弁当を突いている。味なら絶対に理鶯特製シチューの方が美味いのに、食物としての安全性が保証された冷たい唐揚げを口に運ぶその顔。全て分かっていてコンビニに寄ったんだと一目でわかる。
「アンタ……」
「きれいに食べてくれたな。おかわりはどうだ?」
 左馬刻への苦情に理鶯の親切が被って、全く悪意のないその顔に負けて器を渡した。胃の中がモヤモヤするが胸焼けではなくて、本当に鶏肉じゃないのか、カエルを食べて平気なのかと自分自身に問いかけ続けている。おかわりを注がれた器を覗けば当然至極、カエル肉が浮かんでいた。
「………今更なんだけどよ…カエルって食っても、大丈夫なのか?」
 過去には弟と銃兎を混じえて対決した仲だが、単独の毒島メイソン理鶯という人間は悪意が見えなくてやり辛い。つまらない挑発をしてくるわけでもなく、口が悪いわけでもない。手料理を振る舞うのが好きなんだということはもう聞かなくてもわかる。変人には違いないが、ディビジョンバトルに参加する面々の中では善良な、ヤクザや悪徳警官とつるんでいるのが不思議なほど“いい人”だ。疑うようなことを言うのも申し訳ない気持ちになる。
「カエル肉は初めてか。大丈夫だ。捕獲後すぐ捌いてよく火を通してある」
「そ、っすか………」
 大抵の人間はカエル肉を食べたことがないだろう。新鮮でよく火を通せば安全なのかもよくわからない。しばらくシチューの水面を見つめ、覚悟を決めてスプーンを口に入れた。もう一度食べてしまっているから今更だ。味は鶏肉としか思えなかったし、何より理鶯には料理で罠にはめようという意図が見えない。
「……美味ぇ」
「それはよかった。喜んでくれると小官も作った甲斐がある」
 考えてみればテレビで海外のカエル料理をタレントが食べるところを見たことがあるし、おそらくこれまでにもカエルを食べたことがあるであろう理鶯が平然としている。少しばかり予想した人肉パターンに比べれば遥かにマシでまともな食材だ。冷蔵庫で賞味期限を一日過ぎた鶏肉を見つけて焼いて塩振って食べるのに比べてもまだこちらの方が良いかも、いやそれはどうだろう。
 悩みながらも段々と慣れてきておかわり分も平らげた。
「きれいに食ったな」
「気になるならアンタも食えよ」
「そうだぞ、左馬刻。まだあるから遠慮はいらない」
「いや、いい」
 隣の左馬刻は疑わしそうな目で見てくる。大方ゲテモノ料理を振る舞う相手を探していた理鶯に何も知らないガキを生け贄のつもりで差し出したんだろうが、予想外に適応してしまったんで今頃困惑してるんだろう。いい気味だ。
「理鶯、さんって、本当に毎日こんなことしてんの?」
「こんなこと、とは……ここでの生活のことか」
「飯とか、罠とか」
 他にも何か常識外れなことをしているのかもしれないが、全部ひっくるめてだ。
「ああそうだ。小官は軍人だからな」
 軍が解体されたのはとっくの昔。火薬もサバイバルも必要としない現代ではヒプノシスマイクだけが力だ。今はもうミリタリーウェアもサバイバルナイフも、ファッションか一部のミリオタが所有するレプリカだけだ。軍が復活する兆しはないし、ヒプノシスマイクで争いの全てを解決するのが世界のルールとなった世の中に戦車や軍艦を率いての国防はない。かつての軍人は災害対策部署に収まるか、退役して各ディビジョンに散ったと学校では教わっている。
 理鶯自身も軍事用のヒプノシスマイクを持っている。ディビジョンバトルへの参加も承認されているところを見ると、反政府活動家というわけでもないはず。中王区の壁に向かって街宣車で男性の参政権復活を叫ぶ活動家のような騒がしさもない。
「……この間、ディビジョンバトルの前日に、軍人のコスプレとかバカにしてすんません」
 今も変人とは思うが、一人で森の奥に罠を張ってカエルを獲って生活しているところを見ると真面目にやっていることは疑いようがなかった。
 一飯の恩もある。自分が過去に放った非礼を今更反省して、座ったまま頭を下げた。
「ふ、素直な少年だ。よかったらデザートに甘いモノも食べていってくれ。桑の実でこの間作ったジャムだ。シブヤの男も美味いと言ってくれた」
「シブヤのヤツもここまで来んのかよ。理鶯さんて案外顔広いんだな」
「左馬刻も食べるか?」
 赤黒いジャムの瓶を向けられた左馬刻が重そうに腰をあげる。
「いや、俺はもう帰るわ。ちょっと行くとこもあるしな」
「じゃあ俺も」
「テメェはまだ飯食ってろや。俺は車呼ぶから帰りは一人でなんとかしろ」
「そうかよ」
 なんだかんだで慰められていたのだろうかと、恩返しになるかは分からないが帰りもバイクに乗せるつもりでいた。ここで解散でも何も困らないが、左馬刻とは別に仲良くしているわけでもなんでもないが、突き放されたようで少し残念なような気もする。多分色んなことがあったせいで疲れていて起こった気のせいだ。
「じゃあな、理鶯」
 挨拶を向けられたのも理鶯だけだった。さっさと来た道を引き返して木立の間に消えてしまう。
「なんなんだアイツ」
「少年の顔色が良くなったから安心したんだろう」
 言われて片手で自分の頰を触る。温かい食事のお陰で確かに温まってはいるが。
「まっさか。それじゃアイツが俺の心配してたみたいじゃねーか」
「心配してここに連れて来たのでは?小官はそう思っていたが」
 そんなの、それこそ頭の中お花畑な発想だ。自分がカエルを食わないために代わりに連れて来てアンタのご機嫌をとっただけだろう。とは喉元まで出かかって飲み込んだ。仲間とはいえ他人の機嫌をとる左馬刻も意外なものだった。
「あんないつも怒ってるようなヤツでも人の心配とかするのかよ」
 短い吐息で理鶯が笑う。
「確かによく怒ってはいるな。だが、何にでも理由はある。傍目には許すべき事柄でも、例えば腹が減っていたら、いつも許せることが許せない時もある」
 もっとも、小官の前では言うほど怒っていないが、と付け加える。
 兄ちゃんの前に現れるとき常に腹をすかしてるわけじゃないんだろうが、何にでも理由があるってことは理解して頷いた。怒るのには嫌な体力を使う。
「人は自分で思う以上に胃袋に振り回されるからな。少年も何かあったのだろうが、少しは落ち着いたか?」
 口に入れた甘ったるいジャムとスライスしたパンを飲み込んだ。先に食べたシチューに比べて子供の頃に食べたような懐かしい味がする。
「お陰さんで……ここ来る前に左馬刻さんに腹減ってないっつったんだけどさ、思えば夕飯前に家飛び出して来たから、ホントは減ってたのかも」
 ホッと吐き出す息が温かい。落ち着くと急に家のことが気になって仕方なくなる。三郎は夕飯に何を作っていただろうか。兄ちゃんはそれを食べることができたのか。また三郎一人で留守番をしてるんだろうか。
 そこにきてやっと携帯の電源を入れ直す覚悟ができて、ポケットの中の携帯を取り出した。電源を入れてしばらく待つと溜まっていた通知が押し寄せてくる。兄ちゃんからたくさんの着信とメッセージが入っていた。情報収集に声をかけた仲間からも、弟からもあった。
 携帯を両手で握り締めて拝むように額に押し付ける。それから顔を上げて穏やかな軍人に告げた。
「理鶯さん、世話になりました。帰ります」

 舎弟の運転する車をイケブクロで停めさせた。相変わらずしみったれた街にしみったれた店構えだ。その玄関先の玄関灯の下で座り込む人影がある。
 一郎は車が止まると弾かれたように顔を上げたが、降りたのが俺一人とわかると毒虫でも見るような形相に変わった。路肩に寄せた車に寄りかかって煙草に火をつける。
「何しにきた」
「オイオイ、ご挨拶じゃねーかよ。弟に愛想尽かされた一郎クン。この世の終わりみたいなイイ顔してるかと思って見舞いに来てやったのによ」
 舌打ちして一郎が顔を背ける。大抵は正面から喧嘩を買う一郎にしては珍しかった。
「帰れ。今日はテメェとやり合う気分じゃねぇ」
 陰になった顔はさぞ惨めったらしく歪んでいることだろう。目の前まで歩み寄って前髪を掴み上げる。怒りに混じって隠しきれない動揺が漂う目と視線が絡んだ。一郎のこういう表情を久しぶりに見る。
「触んじゃねぇよ!」
 髪を掴んだ腕を叩き落とされると同時に一歩引いて煙草をふかす。それだけで満足した。
「ツレねぇなぁ。テメェのショボくれた弟に飯食わしてやったってのによ」
「二郎と会ったのか?今どこにいる?!」
「さあな、今頃腹でも壊して森ン中でくたばってくるかもな」
「ふざけんじゃねぇ!」
 一郎が近所迷惑に叫んだ一拍置いて、その手の中に握られていた携帯が震える。一瞬でこちらに向けていた怒気が引っ込んで携帯を確認する。忙しいヤツだ。
 家の前に吸いさしのタバコを落とすと踏み潰し、黙って車に戻る。
「待てや左馬刻!」
 そうすると弟からの連絡に夢中だった一郎が引き留めてくる。
「帰れっつったり待てっつったり面倒くせぇなテメェは。一々俺様に命令し腐ってんじゃねぇよ」
「お前、二郎に何かしてねぇだろうな?」
「ンなことは自分の弟に聞けや。まあ、もう弟に口利いてもらえねぇっつーなら同情してやらねぇこともねぇ」
「……うちの弟舐めンじゃねぇ」
 連絡が来た途端に気勢を取り戻す。そうなるともう面白くない。鼻を鳴らして乱暴に車の扉を閉める。車窓から見た一郎はすでにこちらを見ていない。弟に電話をかけたんだろう。耳元に携帯を当てていた。
 イケブクロディビジョンの空気は不味い。後部シートから運転席を蹴って車を出させた。

 病院の帰りにバイクで足を伸ばして海岸沿いに出る。プリンを持って見舞いに行ったのに、他から貰ったかご盛りのフルーツが食べ切れないからと言っていくつか持たされてしまった。
 間もなく日が暮れてくる時間帯だがまだ暑い。飲み物を調達しに通りかかりのドラッグストアに立ち寄った。
 飲料コーナーを探して見回すと、壁沿いの食品コーナーに目立つ白い頭が見える。ドリンクもその近くだ。歩み寄って難しい顔で手にしたスナック菓子を見つめる横から声をかける。
「チーズ味ならそれよりこっちのが味濃くて美味いぜ」
 左馬刻が見ていたものの下段から一袋とって差し出した。菓子類の食べ比べはよく仲間や兄弟でやる。新製品も誰かが買ってくるから一通り味見をしている。
 折角親切におすすめしたというのに、左馬刻はいつも通りの渋面で低く唸った。
「あ゛ぁ?なんでまたハマにいんだよ。ブクロで甘ちゃん兄弟共々引きこもってろや」
「メロンとグレープフルーツもらったから理鶯さんとこ持ってく途中だよ。左馬刻さんも来るか?」
「行くわけねぇだろボケカス」
「へーへー。分かってるって。あ、今持ってるそれ見た目より辛いよ。アンタがつまみに食うならいいけどさ」
「上から目線で喋ってんじゃねぇぞコラ」
 文句を言いながらも手にした袋は棚に戻した。かといって勧めた商品を取るわけでもない。別の袋を取ってレジに向かって歩き出した。近くの棚からスポーツドリンクを一本取ってついていく。
「妹さんのおつかい?」
「テメェがうちの妹の話すんじゃねぇ」
「ならアンタもすぐうちの兄弟の悪口やめろよな」
 今日はキレてない日だ。知り合った頃は毎日怒り散らしているような男だと思っていたけど、相手が一郎兄ちゃんでなければこんなものなのか、それとも今日は腹が減っていない日なのか。ヨコハマディビジョンを訪れた際に見かけて声をかけてもそう酷いことにはならない。一度機嫌を損ねて舎弟をぶちのめしている時に割り込んでしまってマイクを持ち出す小競り合いに発展したものの、自力で帰宅できる程度で終わった。左馬刻が本気を出せば俺ひとりぐらい病院でも墓の中でも好きなところに送れるだろうに、少なくとも今のところは動けなくなるまでやり込められたことがない。手加減されて嬉しいとも限らないが、それだからまたヨコハマに顔を出せる。
「そういや、理鶯さんが左馬刻さんにもまた飯食わせたいって言ってたぜ」
「ンなもん適当に理由つけて断っとけ」
「自分で言えよ。ゲテモノ食いたくないくせに理鶯さんにはっきり断わんねーんだもんなアンタ」
「テメェ、調子こいてっとシメるぞ」
「俺が潰れたら代わりに理鶯さんとこ行って用意しててくれる手料理食うんだぞ」
「……クソッ、さっさと行けや」
 蹴り飛ばされたケツをさすりながら愛車に跨る。車道に出てミラーを見るとこちらを振り返る左馬刻の姿が見えた。見ていることに気づけばわざわざ中指を立てて見送ってくれる。
 市街地を抜けると視界がひらけて海が見える。日光を反射する海面の上を、魚を狙ってカモメが飛ぶ。ヨコハマは生まれ育った街と違う匂いがした。