◇午前十時の卵焼き
朝食は玉子焼きと米とみそ汁。質素で派手な外見の男にはちっとも似合わない。
二郎がソファで目を覚ました時、すでに左馬刻は隣にいなかった。広いベランダで煙草をふかしていた。灰皿はテーブルの上にあったのを手に持ってわざわざ外にいる。一人暮らしの自宅なのに。それが寝ている自分に気を遣ったのだということに二郎が気づいたのはだいぶ経ってからだった。まさか左馬刻にそんな配慮が出来ると思わなかった。
ソファから呼びかけて振り向いた顔はまだ眠そうだったけど脳も体もしっかりしているようだった。
起きて見ると空腹を思い出した。昨夜は緊張続きで気が紛れていたけど空っぽの胃が夕飯も食べてないだろうと訴えてくる。何か用意しようと思い立ち、面倒くさがられるのも覚悟で財布を握って食事のリクエストを聞くとあまり迷わず「玉子焼き」と言われた。了解して買い物に出る支度をする途中で思い出して冷蔵庫を確認した。予想通り調味料と酒しかない。冷凍庫まで見ても見舞いに来た際に二郎が置いていったものは一つも残っていなかった。そこで素直に嬉しくなってしまってちゃんと食べたのか聞くと、
「捨てた」
根拠はないが嘘だと思った。
左馬刻が財布に突っ込んできた紙幣で最低限のものだけ買い込んで台所に立つ。片手鍋に湯を沸かしながら卵を巻き、さてみそ汁を仕上げようかというときに携帯が鳴った。二郎の携帯だ。フライパンの火だけ止めて見ると兄からの着信で、そういえばそろそろ連絡を入れないとマズイ頃合いだと思ったらつい取ってしまった。昨夜は外泊することは伝えたが、どこに泊まるとは言っていなかった。朝起きてから結構時間が経っている。
「兄ちゃんおはよう。ごめん、昨夜はちょっとシンジュクの方に行ってて……」
ベランダにいると思った左馬刻がキッチンに歩いてくる。顔色を窺うが、電話相手はバレバレなのに案外怒っていない。卓上に灰皿を置くと黙ってカウンターを回り込んで二郎の隣、コンロの前に立った。作業台に用意してあった味噌をお玉で適量掬うと鍋の火を止めて湯の中に味噌を溶く。予想外に慣れた手つきだったから電話しながら凝視した。だって冷蔵庫に酒しかない男だ。二度訪れて二度とも酒しかなかった。何で鍋なんかが家のあるのか不思議だったほどだ。
「アンタ、メシ作れるんじゃん」
「作れねぇとは言ってねぇ」
「だって。じゃあ普段からもうちっとマシなもん食えよ」
「うるせぇ。テメェの作ったのが食いたいから作らせてんだろうが」
「それって……やっぱこないだの見舞いメシ捨ててねぇだろ!」
口は悪いが声音は厳しくなくて、言葉の内容に至っては二郎がどんな顔をしていいか困る程だった。昨夜のダメージがまだ脳に残っているのかもしれない。
出来立ての立派な朝ごはんをローテーブルで囲むと左馬刻は何も言わずに箸をとる。その横で二郎が手を合わせると、チラリと見ただけ。倣うでもなくそのまま食べ始めた。食べながら改めて自炊歴について尋ねると、
「妹が小せぇ頃は俺が作ってたからな。分担するようになっても危なっかしいからしょっちゅう手伝ってたし」
「へぇ。意外と生活力あんじゃん」
「意外とかつけてんじゃねぇぞ」
納得すると同時に、改めて広い部屋を見て一人用の家じゃないんだと気がつく。スピーカー周りとキッチン奥のゴミ袋以外は生活感が薄い余白だらけの部屋だけど、もしかしたらそれは妹の生活が入り込むために放置されたスペースなのかもしれなかった。
でも、今は一人で寝るために帰るだけの部屋だ。
山田家は兄弟それぞれに自室があるが、その一つ一つは左馬刻の寝室より狭いし居間も広くはない。そこに三人で文字通り身を寄せ合って暮らしている。
何でも自分の定規で考えるべきじゃないとは兄の教えだけど、どうにも寂しく思ってしまう。
「なんだよ」
美味そうな顔もしないが箸は淀みなく動かしている左馬刻が視線に気がついて眉をひそめる。
「いや、……そんなに玉子焼き好きなら」
「好きとは言ってねぇ」
「ほんと面倒くせぇな。話の腰折るんじゃねぇよ」
「チッ。……なら、なんだよ」
「うん。また、作りにきてやろうか?」
言った。言ってしまった。浮かれてバカなことを言った。出された餌を粛々と食べる動物みたいで相手が碧棺左馬刻であることを一瞬失念した。いや忘れていないから言ったんだけど、口にした途端に恥ずかしさと共に後悔し、バカにされてさっくり断られる覚悟を決めた。
でも今朝の左馬刻は左馬刻であっていつもの左馬刻ではなかった。
「ああ、頼むわ」
皿の上の最後のひとかけらを口に放り込む直前。バカにした口調でもなく素直に頷いた。
二郎は茶碗の上に箸を置いて身を乗り出し、一人でソファに座って屈み姿勢で食べている左馬刻の額に手を押し付けて叫んだ。
「アンタまた熱でもあんじゃねーの?!」
そしてやっと怒った左馬刻と一戦構えかけ、寂雷からの様子窺いの電話でマイクを収めた。午前十時のことである。
◇午後六時の恋愛の分からない男
「そういや、あんとき俺らがハメてたらどうするつもりだったんだ?」
なんとなく帰り難くてゆっくり片付けをやり、ぶり返した眠気でソファに沈んだ左馬刻と昼寝をして、日が傾く頃に昼飯兼夕飯に近場で外食して戻った後の一コマ。
全くやることがないが左馬刻が帰れと言わないので、昨夜の事件の関係各所に細かい報告を入れつつソファに並んで座って面白くもないテレビを見ていた時。二郎以上にやることがなく暇を持て余した怪我人がこれを言い出した。
「今なんつった?」
マメな一二三と何往復かメッセージを交わしていたところで単純に聞き逃した。面倒くさそうに舌打ちされる。
「昨日俺と女がいるとこに飛び込んできただろうがよ、女と二人でいるつったらハメてるかもしれねーだろうが」
ロクでもない。聞き流せばよかった。
「店の前にめちゃくちゃチンピラ連中が待機してたんだぞ?!ンなこと考えるかよ!」
「そりゃ来てから分ったんだろうが。女と会ってんの知ってて来たんだろ?」
言われてみると、女に呼ばれて二人で会うというのは下心込みなのが普通なのかもしれない。左馬刻の行方を探し始めた時点で彼女の兄のことを知っていたから全く考えもしなかった。
「そんなこと言われたって……アンタさ、あの子に誘われた時その気だったんかよ」
ちょっと拗ねた。自覚がある。逆に問われた左馬刻は渋面の二郎を横目でちらりと見て、
「いや、ねぇな」
「そっか」
H歴の男女の垣根は見上げるほど高い。お陰で純粋に異性しか受け付けない人間の方が少なく、恋愛やセックス相手の性別にはこだわりのない奴が多かった。それでも風俗街は女の接待する店は男が、男が接待する店には女が行くというセオリーが濃く残っている。そんな街と付き合いの深い左馬刻の価値観ではそうした発想に至るのも仕方ない。それでもこんな男でも手あたり次第というわけではなかったということか。
「言われてもないことに期待はしねぇが、向こうからホテルにでも誘われたらわかんねぇ」
「おっまえ、一瞬真面目なとこもあんじゃねぇかって思ったのによぉ!」
ホッとした直後にこれだ。二郎が真横で文句を言うとうるさそうに顔を押しやられた。そっぽを向かされたついでに顔を逸らして唇を尖らせる。ハニートラップといっても彼女がそっち方面に体を張らなくてよかった。
「ま、やろうと思えば漫画喫茶だって便所でだってできるけどな」
追い打ちで嫌なことを言いやがる。壁のように左馬刻側の膝を立てて抱え、その陰でぽつりと。
「……もし、ホントにそんなことやってたら……うーん……まあ、邪魔してゴメンつってへこんで帰った、かもな」
ちょっと想像したら同行した寂雷に慈悲深い目で励まされ危うく仏門に入りかけた。寂雷が仏教徒かどうかも知らないが。
「なんでだよ」
寂雷とは正反対に真心と縁遠いこの男。掘り下げなくていいことを掘り下げてくる。
「そりゃ、こっちが必死こいて駆け付けたのに一人だけいい目見やがってー!……みたいなヤツだよ!」
焦って取り繕う言葉の勢いとは裏腹に目が泳ぐ。恥ずかしさに耐えきれなくて膝を放し、ソファの肘掛けに頬杖をつく仕草で完全に顔を背けた。嫌な汗をかいている首の後ろに視線を感じて居たたまれない。
二郎にとって地獄の裁きを待つような時間に、左馬刻は指に挟んでいた煙草を咥え、ひとくち喫って吐いて灰皿に押し付けた。
ずっと自分の何がこの敬虔な一郎教徒の気を惹いていたのか疑問に思っていた。何度か些細な手助けをした記憶はあるが、恩の重さで言うなら昨夜助けられた件でおつりがくる。かつての一郎ほど素直に可愛がってやっているわけでもない。自分で言うのもなんだが、性格で人に好かれるタイプじゃないし、ならば金かというと、コイツは財布に押し込まなきゃ飯代も要求しないような慎ましい貧乏馴れしたガキだ。同じラッパー同士憧れられている説は残るが、何度やりあったってコイツのラップからこちらへのリスペクトは感じられないし根深い一郎教が覆るとは思えなかった。
そこにきてこの動揺っぷり。相手の女と顔見知りだった話は聞いたが、口ぶりからして然程の興味があるわけでもなさそうだ。となると……。
なるほど、どこら辺が琴線に触れたのかは知らないが、要するにそういうことかと納得した。
正直なところ、左馬刻に恋愛のなんたるかはわからない。女は妹のように庇護するもの、もしくは適当に抱くものだし、見た目次第じゃ男も抱ける。ただ、甘酸っぱい駆け引きだとかセックス以外の付き合いはよくわからない。女遍歴もひどいものだ。両親を亡くして妹を抱え、がむしゃらに生きてなんとか身なりを取り繕えるぐらいになってからは言い寄って来る端から女を抱き捨ててきた。性欲はあまり相手を選ばなかったし昨日抱いた女のために今日跨ってきた女を断ろうと思ったことがない。金も女も家の面積もたくさんの方がいいような気がした。何も持てなかった子供時代の反動かもしれない。
そんな難アリの性格を知っても懸命に心を通わせようという女も、もしかしたらいたのかもしれない。だけどそれを左馬刻が理解する前に何かしらの理由で愛想をつかして去っていく。中には仲間に乗り換える女だっていた。そういう手合いに本気で靡くヤツは身内にいなかったから気にもしなかったが。
お陰でこの青春真っただ中の、多分自分に恋愛感情を抱いているらしいガキを見ても他人事だ。コイツは俺で抜くんだろうか。過去に巨乳の女に誑かされていたところを見たことがあるから女に興味がないわけじゃないだろうに、今好みの女が目の前に現れて服を脱ぎ始めても俺のために断ったりするのか。物珍しくて聞いてみたいことは色々あったが、それよりも。
肩を掴んで強引に振り向かせる。顔が仄かに赤くなっている。噛み締めていたのか唇も赤かった。
「なっ…………!」
顎を掴んで唇を塞ぐ。色気もへったくれもなく言葉を発しようとした形のままだったからおまけに舌を入れてやった。引っ込んだ舌をまさぐって煙草の味を置いてくる。
ほんの一時だけ放心していた二郎は苦い唾液の味で我に返って両手で肩を押し引き剥がした。体の支えにしていた腕まで使ったせいで勢いあまって肘置きの上に倒れ込む。左馬刻を見上げる格好になった。
「な、なんで……」
「嫌かよ」
そんなことはない、と左馬刻は勝手に解釈する。パニックを起こしちゃいるが嫌悪感からの拒絶とは違う。突っ張った両腕に体重をかけてのしかかり、覆いかぶさってもう一度唇を合わせ、今度は真一文字に引き結ばれた唇を啄む。二郎は居たたまれなさに負けて口と一緒に目も閉じた。舌先で口の合わせ目をなぞりながらシャツの裾から手を忍び込ませる。腹の薄い皮膚を指で撫でれば虫でも侵入したみたいな反射速度で服の上から手を押さえつけられた。
頑なな拒絶行動に一旦身を引くと細く開いた目に涙が滲んでいた。
マジか。不慣れにも程がある。一郎から地盤を引き継いだ上に独自のコミュニティを広げている二郎の立場や愛想の良さを考えてもどうしてこんなに不慣れなのか理解に苦しんだ。
自分の下に通ってくる理由が恋愛感情なら適当に抱いてやれば話が早いと思ったのにそうでもないらしいとわかると早々に面倒になった。見た目は嫌いじゃないし抱ける。でも左馬刻の目的は体なんかじゃなく、突然離れていったりしないよう繋ぎとめることにあった。
左馬刻自身は恋愛が分からないが、身の回りには燃え上がった恋により駆け落ちだの不倫だの。主にマイナス方向ではあるが、強い感情でどうにかなる人間は沢山いた。他の様々なことを投げ打てるほど自分のことを好きにさせればずっと離れずにいるのかと思って。
そのためにどうすりゃいいのか。これまでの我が身を振り返っても二郎に優しくした記憶がほとんどないので無理して優しくしてやるのは無意味だと思う。自分に甘くそう判断を下し、じゃあ、と短絡的に体に触れてみたが。
「嫌ならやらねぇよ」
全く嫌がられているとは思わないが喜ばないならやる必要もない。煮え切らない反応に機嫌を損ねながら言うと肯定や否定の代わりにシャツの裾を握り込まれた。女が甘えてくるときより掴む力は強い。
八の字眉の下から怯えに似た上目遣いで、情けない声で問いかけられる。
「……あのさ、こういうこと……兄ちゃんにも、した?」
二郎にとっては重大な確認事項だった。が、左馬刻には思いもよらない質問で、意味を咀嚼するにつれて機嫌は急降下した。
「あ゛あ゛ぁ?!なんでそこでドグソ野郎が出てくんだ!」
「うっせぇ!顔近づけて怒鳴るんじゃねぇよボケ!」
喧嘩ってのは燃え上がるのは一瞬だ。恋の花火と短気の喧嘩。不穏に甘い空気は一瞬で剣呑になり、それからまた花火から酸素を奪ったみたいに静まり返る。
胸ぐらを掴みあってソファの上に転がるとほんの少しバランスを崩せばすぐ触れるところまで近づく。二郎が近いな、と考えるのと同時に左馬刻もピタリと口を噤んで、呼吸が混ざる距離で静かに問い返した。
「クソ兄貴とやってなけりゃどうすんだ、テメェは」
左馬刻自身の陰が二郎の上に落ちて染まった頬の色はわからなかったが、半開きの口の中で舌がちろりと動いたのは見えた。
今度は打算じゃなく触れたいと思ったから、返事は聞かずにあと僅かの距離を奪う。応え方も知らない舌に舌を絡めて襟元を握る手を首の後ろに誘導する。躊躇いがちでももう跳ねのけようとしなかった。左馬刻だってちゃんと触りたいと思って手を伸ばす。
というような経緯を経て雰囲気に流されそうになった二郎は兄からのメッセージ受信で現実に引き戻された。家でも夕飯の支度をしている頃だ。兄への後ろめたさもあって律儀に即レスしようとする手から左馬刻が携帯を奪う。
“きょうとまり”
二郎と携帯を取り合いながらそう送った直後に一郎からの着信。そして争いのどさくさで通話状態になってしまった電話を通じて左馬刻といることがバレた。
携帯のスピーカーから音割れし放題の一郎の怒声。
「他人の携帯で勝手に電報送ってんじゃねぇぞクソカス!」
携帯のマイクに配慮のない左馬刻の罵声。
「うっぜぇ!掃き溜めゲボ野郎が!弟のやることに口出ししねぇんじゃなかったのかぁ?!」
電話越しの大乱闘。横から手を出した二郎が無理やり通話を切った後で、今度は兄への罵倒を引き金にした二郎と左馬刻による第二次大戦。左馬刻が昨日受けたダメージを気にしていたのも忘れてヒプノシスマイクを持ち出したのが午後六時のことである。
◇そして五日後、放課後のこと。
一瞬だが二郎がついに清い体を卒業するのかと思ったあの日から五日経った。卒業と言っても童貞じゃなくて恐らくケツの方だ。まさか押し倒してきた相手がケツを洗って乗ってくれることはないだろう。全く覚悟なんかできてなかったが空気的にはそっち側だった。
結局喧嘩になって短いバトルが勃発し、そこそこのダメージを食らったあたりでなかなかバイクを取りに来ないことを気にした寂雷からその日二度目の着信があったのをきっかけに、シンジュク経由で帰宅することとなった。
左馬刻の家を出た時とシンジュクを出るときに一郎に連絡を入れたものの、帰宅してみると玄関先で三郎が仁王立ちしていて居間のソファには一郎がゲンドウポーズで鎮座していた。ただし、説教らしい説教はなく昨夜の騒ぎまでのことを洗いざらい報告することで咎めを逃れた。もちろん左馬刻の部屋での詳細は一切伏せ通した。先に寂雷からも一郎に連絡があって大まかなことは聞いていたんだそうだ。一郎への報告が後回しになってしまったがとても頑張っていたので怒らないであげて欲しい、と。信頼の厚い先生に言われてしまえば一郎も叱るに叱れない。
しかし兄弟の心配はごもっともだ。気にくわない男が勝手に弟の携帯から泊まりの連絡を寄越したら二郎だって問答無用で迎えに行くだろう。兄弟たちは実際乗り込んで来なかっただけマシだ。
しばらくは友人宅に泊まるのも控えておこう、と思った矢先に左馬刻からの呼び出しがあった。事件の後ということもあって事務的な連絡は絶えなかったが、明確にヨコハマに来いと言われたのはあの日以降初めてのこと。
放課後の学校でそのメッセージに気がついた二郎は時刻を確認し、すぐ行って戻れば夕飯に間に合うと判断して学校からバイクで直行した。
ヨコハマのマンションの一室。三度目ともなれば慣れたもので、エントランスと部屋の鍵を開けさせて上がり、声を掛けながら玄関に靴を揃えてリビングダイニングに入った。
左馬刻はそこにいた。二郎としては先日の喧嘩前のことを思い出して気恥ずかしさがあったが左馬刻は同じ気持ちではないようで、学ランを着崩して中身の入っていないリュックサックを背負っただけの二郎の上から下までを視線でひと撫でし
「学校帰りか」
「ああ、丁度放課後になったとこだったから直接来た」
「…………」
何が気に障ったのか不満げな表情を浮かべたかと思うとこれ見よがしに深く息を吐き、自分の財布を引っ張り出して紙幣をつまみ、突っ立ったままの二郎に差し出してくる。お車代ってヤツか?今までそんなもの貰ったことないのに。などと的外れなことを考えていると
「これでひとっ走りコンビニにでも行ってパンツ買ってこい」
「は?」
「着替え持って来てねぇんだろ」
当たり前だ。何のために呼ばれたか分からないが必要とも思わなかったから何の準備もしていない。理解の遅い二郎に金を押し付けて左馬刻は言葉を足した。
「泊まってくのに着替えねぇつもりか」
「はぁ?!聞いてねーよ!つーか泊まらねーよ?!」
兄弟が心配してくれるからしばらく大人しくしていようと誓ったばかりだ。それをさも常識みたいに
「この時間帯にこんなとこまで呼ばれて来て日帰りするつもりだったのか?」
ついでに鼻で笑ったのも含めて今日のバトル案件だ。頭の中でカーンッと喧嘩開始のゴングが響いた。今なら滑らかにディスれる。
「アンタはマジでなんでそう身勝手なんだよ!!」
「あ゛?」
思わず叫んでめでたく思い浮かんだリリックを披露することになったが、相手も当然やり返してくる。ヒプノシスマイクを使ったラップは上手いこと相手の痛いところをついた方がよく効く。今の二郎の痛いところとはつまり、目の前の男に対する尊敬と庇護欲が入り混じった青臭い恋心だ。それを躊躇いなく攻めてくるんだからこの男には心がない。自分のことなんだからちょっとは遠慮してもいいんじゃないか。
しっかりダメージを受けて膝を折り、ダメージ具合から回復にかかる時間を計算した結果。心を痛めながら兄弟への嘘を考えるはめになった。
寝て休んでバイクに乗れるのが三時間後くらい。家までの片道の時間。それから、喧嘩だけして帰るのも嫌だ。全ての所要時間を計算すると深夜を回る。イケブクロディビジョン内で遊んで帰るならともかく、ヨコハマから帰るのが深夜となれば兄は起きて待っていてくれてしまう。潔く外泊を連絡した方がお互いのためだ。
学校帰りの未成年を泊り前提で呼びつけたろくでなしの要求はメシを作れってことだった。バイクの長距離運転はすぐには無理だが、料理ぐらいはできる。クズだゴミ野郎だと思いながらも承諾した。元から食事はこっちでするつもりで家にも連絡を入れていたし、それより何より、二郎はこのどうしようもない男に惚れていたから。
初めて唇を合わせてから五日目。食事をして、風呂を借り、寝支度が整うと当然の顔でベッドに連れて行こうとする左馬刻一人だけを布団に押し込み、二郎はソファに転がって大人しく寝やがれという意味の強い語調で「おやすみ」を告げた。
誘う割にはどうしても肉体関係に及びたいわけでもないらしい。左馬刻は二郎の強引な行動に文句を垂れていたが、家の中に人がいさえすれば安心して音楽なしでも眠る。無理に寝室に引きずり込もうとはしなかった。
灯りを消すと広い部屋が一度静まり返った。それから、五日目が六日目に変わる頃。
眠りの浅い左馬刻はベッドの軋みで目を覚ました。目を細めて人影に手を伸ばすと、それはびくりと体を揺らす。
「……なんだ」
「あのさ……やっぱ一緒に寝ていい?」
コイツ、セックスに誘えば大騒ぎして拒否するクセに。寝間着がないからTシャツだけ貸し、下はコンビニで買わせた下着一枚っきりの姿。それで腕の中に潜り込んで何もされないとでも思うのか。クソ兄貴は弟に何を教育してきたのか。
嫌がるなら無理に抱こうとは思わないので左馬刻は別にどっちだって良かったが、本気でコイツの体を欲しがる人間相手に同じことをしたらどうなることか。未だに他人事な視点で考えながら
「テメェ、わかってんのか?」
遠回しに覚悟のほどを尋ねると、背を向け茹だった海老みたいに丸まって身を硬くして押し黙る。ラッパーなら言葉で返せ。待てど暮らせど口では何も言わなかったが、腹部に這わせた手の上に手が重なり、指の背を親指の腹ですり、と撫でられる。
俄然やる気が出て来た。意外とこいつは男を振り回すタイプだ。
頼りなく目の前に晒された首筋に歯を立てた深夜零時。そこからはもう六日目の話だ。