山田一郎の実りある一日/山田兄弟/4832

 夕方から取り掛かった仕事は思いの外苦戦した。
 近所で評判の変人じいさんからゴミ屋敷の撤去承諾書にサインを貰ってきて欲しいという依頼だったが、久し振りにいいバトルをしてしまった。
 普通に交渉しても全く首を縦に振らなかったのに、俺がヒプノシスマイクの所有者と分かった途端にラップバトルで勝負して勝てばサインをしてくれると言い出した。相手は随分寂しくなった頭とランニングシャツに股引の、腰の曲がった老人だ。楽勝かと思ったらこの爺さん、とんでもない強者だった。聞けば若いころはイケブクロサイファーで有名人だったそうだ。
 クセになる独特のフロウにキレのあるライム。イケブクロ駅前に一週間立ち続けたってこんなラップには早々出会えないだろう。あんまりいい勝負が出来たので意気投合し、サインを貰った後にじいさんの屋敷からじいさん秘蔵の名盤を二人で掘り起こした。ゴミの中から文字通りレコードをディグる。そんなのは萬屋としてもヘッズとしても、さすがに初めてだった。
 見つけた古いレコードを爺さんの愛用している古いプレイヤーで聴いた。家の中がどうしようもなく臭いから隣の家のガレージを借りて。その中身たるや、さすがイケブクロサイファー伝説の男。素晴らしい宝物だった。それを言ったらゴミの撤去に巻き込まれないようにと、返さなくていいから大事にしてくれと持たされ、固く握手してやっと帰ってきた。とても有意義な時間だった。
 さて、そうして帰宅した頃には日暮れの遅いこの季節でもどっぷり暗くなっている。玄関から台所に直行すると、三郎がシンクで桃を剥いていた。
「あ、いち兄おかえりなさい!」
「ただいま。遅くなって悪いな」
「とんでもない、いつもお仕事お疲れ様です!今ご飯あっためるので向こうで待っててください」
 包丁と桃を置いてコンロに乗った鍋に火を入れ、冷蔵庫を開ける。手伝おうと思ったが、ふと自分の汚れた格好を思い出してやめた。台所から脱衣所に移動して下着以外の服を洗濯かごに放り込み、顔と手を念入りに洗った。
 パンツとTシャツで手伝いに戻っても三郎は断るだろうから、素直にリビングに入ると、ソファの陰から人の手がはみ出している。もう一人の弟、二郎が横になって眠っていた。携帯を握ったまま寝落ちしたらしい。その手から落ちたスマートフォンが床に転がっていた。拾い上げてテーブルに置く。
 二郎は今日はヨコハマディビジョンの友人に会いに行くと言っていたはずだ。人脈作りとして以前からあちこちのディビジョンに出入りしていたのは知っているし、二郎が俺に嘘をつくことはないから友人と会ってきたのも本当だろう。だけど、本当の目的は別にあるんじゃないかと勘繰ってしまう。帰宅してすぐ寝てしまう程疲れて帰るんだから。
 ソファの肘置きから片腕を投げ出した寝辛そうな姿勢を直してやろうと、起こさないようそっと腕をとる。そこで手元の異変に気がついた。
 見覚えのないブランド物の指輪が一本、以前は別の指輪をつけていたあたりにはまっている。持ち物全て把握しているわけじゃないが、小遣いで買えるものじゃないだろう。特に最近はバイクのメンテナンスで懐が寂しいと言っていたはずだ。プレゼントにしたって、同年代で贈り合うには高価だった。誕生日もまだまだ先。まさか変に気前のいい人間との付き合いが出来たとなれば、それはそれで心配になる。その相手に心当たりがあれば尚更だ。
 口を曲げて体の横に手を置いてやる。もう片手も。そこで今度は手のひらに小さな傷を見つけた。細かな傷がいくつも、素手で地面を擦った跡だ。まだ少し砂が皮膚に食い込んで残っている。服の膝は少し汚れがあるだけで破れていないし顔に傷もない。利き手ではない方の片手だけ。地面に片手をついて、体を支えたってことだ。そこまでされても首から上、見えるところにはこれといった痕はない。念のためシャツの腹もめくって見たが真っ白だった。ーーーーヒプノシスマイクか。
 ヒプノシスマイクによるラップで攻撃を受け、立っていられなくなることはままあることだ。とはいえ、うちの弟は弱くない。二郎相手にそんなダメージを与えられる相手。ヒプノシスマイクを持っていてヨコハマにいる、好戦的な人間。悪い大人の顔が二つほど浮かぶ。どちらにしろ厄介だ。
 それでも二郎が自分で立ち向かうと決めてやり合ってきたこと。男の喧嘩には兄弟といえど口を挟むもんじゃない。それがたとえヒプノシスマイクを使ったバトルだとしても、弟を信じるのが兄ってもんだ。
 台所の様子を窺いながら救急箱を持ってきた。二郎は自分の怪我には無頓着で、これくらいの浅い傷なら手を洗うぐらいしかしない。俺が怪我したなら大騒ぎで手当てしてくれるのに。
 脱脂綿に消毒液を含ませ、傷ついた手のひらを消毒する。赤くなっているところや皮膚に残る砂つぶのあたりに当てて、砂が取れないものかと軽く擦る。消毒液が沁みたのか手がぴくりと動いて唸りながら二郎が目を覚ました。
「うー………ん、にいちゃん?何してんの?」
「消毒」
 まだ眠そうな目が手当て中の手に向き、瞬き一回の後に手元から素早く退いた。見られちゃまずかった、そんな顔を見て逃げた手を掴み、指で開かせて消毒を続ける。
「あの、兄ちゃん、これはその、大したことじゃないから」
「別に何にも訊いてねーぞ」
「うっ、……はい」
「飯は食ったのか?」
「うん、三郎と」
「そっか」
 どうしても取りきれなかった砂を諦め、救急箱にピンセットと残りの脱脂綿や消毒液を片付けた。体を起こして座った二郎はすでに消毒液の乾いている手のひらを、静かな顔で見つめている。
「……兄ちゃん、あのさ」
「いち兄お待たせしました!」
 なにか言いかけた声に被ってコロッケ乗せハヤシライスの匂いと一緒に三郎がやってきた。ガラスの小鉢にサラダもある。
「ありがとな、三郎」
「おい、俺には俺の分のサラダないからって一人で食ってたのにあんじゃねーか?!」
「うるさいな。二人分しか野菜がなかったんだから“二郎の分はない”であってるだろ」
「飯の上で喧嘩するな。サラダが食べたいなら二郎食っていいぞ」
「いや、そういうわけじゃないから兄ちゃんが食べて!」
「そうですよいち兄!二郎なんか肉を食べさせておいたら満足なんですから!」
「てンめぇ、三郎、言わせておけば……!」
「飯の上で喧嘩する気かぁ?一秒前のことも忘れるなんてさすが二郎」
「表出ろ!」
「ヤメロ!!」
 左右に握り拳を飛ばす。もう二郎が何を言うとしたのか尋ねる空気じゃなかった。
 いがみ合っていた割に、後から三郎が持ってきたカットした桃には爪楊枝が二つ添えてあった。
「いち兄の分の桃は冷やしてあるので後でまた剥きますね!」
 桃と一緒に三郎は数枚のレコードを持ってきた。帰宅した際に台所に置き忘れたものだ。リビングに置いているプレイヤーで再生させる。俺の生まれるずっと前、偏屈じいさんが若い頃に生まれた曲は今聴いても色鮮やかで、力強く、軽快な音を響かせる。
「こんなの初めて聴きました。これ、どこで手に入れたんですか?」
 レコードの入手元の説明をすると必然的に今日の依頼の話になる。じいさんのラップや、いずれ今回の依頼主からゴミ屋敷撤去の依頼が来るかもしれない話。いつも仕事を手伝ってくれる弟たちもゴミ屋敷には怯んだ様子だったが、
「いち兄がやるなら僕もお手伝いします」
 三郎が言えば二郎も負けじと胸を叩く。
「俺もやるよ!高いところも任せて!」
「二郎、ゴミなんて大抵床に積んでるに決まってるだろ」
「天袋に詰めてるかもわかんねーだろうが!」
 一度落ち着いたかと思えばまたすぐに喧嘩が始まる。それぞれのマイクを掴んだところで睨み合う二つの額を押して引き剥がした。
「やーめろって。そんなにやり合いたいなら俺が先に相手になるぞ!」
「すいませんっ、つい……」
 さっき怒られたばかりだ。三郎はすぐにマイクをしまった。一方の二郎は、スイッチを切ったものの、マイクを片付けようとしない。
「おい、二郎!早くマイクしまえよ!」
 三郎こ言葉は無視して、さっき消毒した手のひらを見つめ、拳を結んだ。
「兄ちゃん、ホントに俺と勝負してくれる?ヒプノシスマイクを使って」
 思いがけず真剣な目でラップバトルを申し込まれた。兄弟の間で切磋琢磨することは当然あるが、力の差があることやむやみにヒプノシスマイク を使うことを良しとしないために俺が弟たちとマイクを使ってラップをする機会はあまりない。練習とか指導じゃなく勝負を頼まれるのは初めてかもしれない。
 面食らったのは俺だけじゃなかった。三郎も変なものを見る目で二郎を見ている。
「勝負って言うなら本気でやるぞ?」
「もちろん、最初からそのつもりだよ」
「二郎!いち兄相手に調子に乗るなよ!」
 怒鳴る三郎を片手で押し留めた。反抗期のないうちの弟がそんな風に向かって来るなんて、新鮮で、ちょっと嬉しくて、ちょっと寂しい気もする。
「そんじゃいっちょやるか!」
 米粒一つ残さず平らげた皿に手を合わせ、立ち上がると自分のヒプノシスマイクをとった。気合の一発、深呼吸して自分の両頬を張った二郎が顔を上げる。
「先攻、いくよ!」
 マイクを構えたら、この先はもうお互い一人のMCだ。

『今日は手加減一切禁止 俺と兄ちゃんの真剣勝負だ 打てば響く舌の回転 叩いて鍛える鋼の精神』
『最近どこでなにしてやがる かと思えば武者修行かオイ? 腕前いっちょみせてみろやここで 倒れず完走できるもんなら』
『足腰頭コンディション上々 テンション上昇いけるこのバトル クラッチ握るギアチェンジ6速 受けて耐えきるぜ兄ちゃんの最速』

 真っ直ぐ向かってくる瞳、芯が通っていて艶のあるフロウ。心地よい刺激が脳にビリビリくる。1バース目を危なげなく乗り切り続く2バース目。ビートに乗って宙を滑る手が空気を掴んで人差し指が迫る。
 緩む口元で弟の望み通りギアを上げる。今まで手加減していたのかというと、少し違う。バトルの質を決めるのは一人じゃない。相手MCの力量を燃料にして吊り上げられる。ここからの俺が格段に強く感じたなら、それは間違いなく二郎の実力がそうさせたってことだ。ヤバい薬でもキメたみたいに脈動がこだまする脳内を言葉が跳ねまわる。無意識に唇を舐め、直感が選び出した言葉を舌に乗せた。

 MCバトルはほんの数分で決まる。マイクのスイッチを切り、室内から音楽が消えると同時に二郎はしゃがみ込んだ。膝の上で組んだ腕に顔を伏せて唸る。
「あ゛――――、やばかった……兄ちゃん、マジぱない……」
「本気でやるって言ったのは二郎だからな?でも最後まで耐えたじゃないか。強くなったな」
 屈みこんで頭を撫でてやると、まだ肩で呼吸しながら顔を上げた。マイクを握った拳をぐっと引いてガッツポーズ。眉根をぎゅっと寄せて半泣きで笑う。
「よっしゃぁ」
 毎日顔を合わせていても知らないうちに成長している。身長だってもっと離れていたのに、今ではその差、五センチだ。心配することは理屈でやめられるもんじゃないが、もっと信じてやらなきゃいけない。
 一息ついてソファの端で静かに観戦していた三郎を振り返った。
「次、三郎もやるか?」
 尋ねてから、二郎より幼さの残る顔に困惑のような色を見つけた。いつもなら「二郎ばっかり」とか「僕も」なんて言い出しそうなところだが、乾いた喉に水分を求めて夕飯の際に飲み残した俺の麦茶を飲む二郎から目を逸らし、
「……いえ、今は遠慮します。桃、剥いてきますね」
 夕飯の皿をまとめて足早に部屋を出ていった。
 追加の桃がやってくるまでには、少し時間がかかった。
 我が身を顧みれば、まだ仕事帰りで風呂にも入れていないし汗っぽくて髪はゴミくさい。そんな格好で糖度の高い桃をつまみながら見る、疲れ果てた弟と、そんな次兄を複雑な面持ちで見つめる末弟。
 気分のいい初夏の夜だった。