強く逞しく生きるコツ/理+二+帝/8777

「さて、腹も膨れたところで聞きましょうか。一一八〇円分のすべらな〜い話をね」
 蕎麦屋のテーブルに肘をついて夢野幻太郎が身を乗り出して薄く笑う。ざる蕎麦と天ぷらはすっかり片付き、湯のみだけがテーブルに残されていた。
「話す前にハードル上げてくんなよな。そうさなあ……理鶯さんとこにメシ食いにいった話はしたっけか?」
「また行ってたんです?敵になる人間と仲良くするのは感心しないって言ったでしょう」
「うるせぇなぁ。てめぇが打ち合わせで留守にしてた時のことだよ。金はねーし乱数もいねーし、たまたま金曜日だったから理鶯さんカレー作ってる頃だなーと思ってさ」
 金曜日はカレー曜日。ヨコハマディビジョンのとある森では海兵の生き残りが律儀にカレーを作る日だ。
 有栖川帝統がハマの自称軍人、毒島メイソン理鶯と知り合ったのは幻太郎と出会う前。金とメシのアテがなくなるとヒッチハイクや盗んだチャリを駆使して理鶯の住む森に向かい、手料理を食わせて貰っていた。という話は幻太郎も聞いている。最近はヨコハマまで行かずとも“おもしろい話”を対価に幻太郎が奢ってくれるし、タイミングと機嫌次第ではチームリーダーの飴村乱数も食物を恵んでくれる。森に行くのは久しぶりだった。
「理鶯さんのカレー美味ぇんだよな。毎回何入ってんのか食うまで分かんねーけど」
「前回は一緒に潮干狩りしてシーフードカレーにしたんでしたっけ」
「そうそう。美味かったけど材料が分かってると、こう、スリルが足んねーよな?」
「生憎と麿は食にスリルを求めない性分でのう」
「つまんねーヤツだな。でも今回の話はカレーの中身についてじゃねーんだよ。カレーにたどり着く前に面倒な拾いモンしちまってな」
「ほう、俄然興味がわいてきました」
 サバイバル飯話はもう聞いたとガッカリ顔だった幻太郎が僅かに身を乗り出すと話す方も気分が乗ってくる。湯呑みの茶を啜って帝統は語り出した。
「あれはそう、森に入ってからずいぶん歩いた頃……」

 ヨコハマの海に面した森は広く深い。起伏のない平地ながら草木が生い茂り、場所によっては昼間でも薄暗い。身を潜めて暮らす潜伏者にはうってつけだった。
 更には理鶯よって仕掛けられた外敵を阻む罠が点在する。外敵っていうのは軍の残党を殲滅したい政府なんかじゃなく、理鶯の所持するレアマイクを狙ってくるチンピラが大半だった。帝統からすれば自分と違って労働意欲や奉仕精神に事欠かない理鶯がそんな苦労までして野外生活する気持ちは分からない。しかし理鶯も帝統のギャンブルに全て捧げる心を理解はしないだろう。人間とは、人生とはそんなもんだ。美味い飯をタダで食わせてくれるのだからわかり合う必要もない。
 帝統は過去に何度か訪れた道なき道を鼻歌混じりに歩いていた。森の入り口から理鶯のアジトまでは体感で四、五キロぐらいはある。この運動がまた食事を美味くするのである。
 それにしても季節が変わったせいか前来た時より植物が伸びているな、なんて呑気に辺りを見回していた時、茂みの向こうで物音がして振り向いた。理鶯が捕食して暮らせるだけの野生動物はもちろんいる。だけど田舎の山じゃあるまいし、そう大きな動物はいない。聞こえた物音は小動物のものじゃなかった。
 まさかマイク狙いの賊かと思いながら自分のヒプノシスマイクを握りしめて茂みの向こうの不自然に枝の揺れる木のあたりを覗きに行った。帝統だってヒプノシスマイクという武器を持ってはいる。大人数相手に乱闘になったら自信がないが、一対一ならなんとかなるだろう。ちなみに、理鶯は不用意に派手な物音を立てないので想定からは外している。
 慎重に名前の分らない草をかき分け向こう側を覗く。そこにいたのは、今まさに木に引っ掛けた縄で首を吊り上げられる男だった。
「わ―――――――ッ!!!!!」
 ビンッと張る縄を見て潜むことなんか忘れて飛び出し、上の方で二股に分かれた木に引っかかっている縄の、人間の首と反対側の端っこに飛びついた。手でほどくのは時間がかかる。男がもがいている間に手持ちのナイフやらライターやらを駆使して縄を切った。縄がブチンッといった次の瞬間に男の体が腐葉土の上に落ちる。今度は男に飛びついて大声で呼びかけた。
「大丈夫か!オイ!」
 まさか理鶯の獲物用の罠にかかったのか。確かに初心者にはおすすめできない森だ。リアルサバゲーフィールドすぎて遊び気分のサバゲープレイヤーにもおすすめできない。小動物の巣穴近くには古典的なネズミ捕り器が設置してあるし、外敵用に捕縛網や吊り上げ式くくり罠なんてのもある。失神しているこの男、到底森歩きするような格好ではなく部屋着と紙一重のよれたTシャツにスウェットパンツで足元はサンダル姿。逆にこんな森の奥深くまでよく無事に来られたもんだが、こんなうっかり者のために理鶯が人殺しになるのは看過できない。すでに人間の一人二人殺めている可能性もなくはないが、不要な罪を背負わせるわけにはいかなかった。
「オイってば!」
 心肺蘇生のために胸骨圧迫し始めた直後、引き攣るような音を立てて息を吹き返した。咳き込んでのたうち回っているが間に合ったようだ。
 ホッとして土の上に尻をつき、今更ながらに周辺の様子を確認して首を傾げた。男の足元に大きめの石と枝が散らばっている。そして首に絡まった縄。動物ようにしても人間の足くくり用にしても輪が大きい。
 荒い呼吸を繰り返しながら首を押さえる男を改めて観察し、自分の思い違いに気が付いた時だ。
「お前、もしかして……」
 言いかけた言葉に被さって先刻かき分けてきた茂みが揺れる。今度こそ賊かと思って反射的に首を向けた。
「………お前ら…、ん?アンタ、もしかしてシブヤの……」
 緑の向こうから現れたのは長身の頭にキャップを被った少年だった。二人の姿を見て何か言おうとしたが、途中で帝統の顔に目を留め目を丸くする。帝統もまたその顔には見覚えがあった。
「あー!ブクロの野郎じゃねーか!」
 騒ぎを聞きつけ様子見にやってきたのはイケブクロディビジョンの二番手、山田一郎の弟だった。

「あれはマジで驚いた。ナニ現場だよってさ。シブヤのヤツも理鶯さんの世話になってんのは聞いてたけど、まさか首吊り野郎と盛り上がってると思わねーじゃん」
 今日の山田家の夕飯は餃子だ。三人揃っているときに大量に作って冷凍保存しておく。食べ盛りの男ばかり三人もいるので一食分も多かった。ちまちました作業も兄弟そろってやると楽しいもので、ダイニングテーブルを囲んで喋りながら進めるのが定番だ。
 今後食べたいメニューの話から始まり、家で食べなかった日には何を食べたという報告。それがどう転んだか、二郎がヨコハマディビジョンでカレーを食べてきた日の珍事話になった。
 イケブクロディビジョンの代表を務める山田家の三兄弟、特に長男の山田一郎とヨコハマ代表のリーダーは穏やかな仲じゃない。弟たちもそれぞれヨコハマの連中に私怨もあるわけだが、色々あり、二郎はここのところ頻繁にヨコハマに出向いている。主にヨコハマディビジョンにいる友人と顔をつなぐ目的だが、その友人にいつの間にかヨコハマ代表チームの三番手、毒島メイソン理鶯が加わっていた。兄弟、特にマッチアップする末っ子の三郎としては気に入らない。それでも個人的な因縁の深いリーダーの碧棺左馬刻ではないためか、一郎が穏やかに話を聞くので黙って聞いていた。
 話に聞く理鶯は料理が上手くて親切で落ち着きがある、これと言って貶せるところのない人物だった。二郎が手料理をご馳走してもらっている恩もある。そうした円満な交友関係に文句を言う一郎ではない。「理鶯さんのところでカレーを食べた」という話が飛び出ても面白い話だというような顔で頷いた。そうしたらカレーの話がどこをどうしたのか、シブヤ代表の博打打ちと自殺志願者に出くわした、なんて物騒な話に転がったのだ。
「その首吊りしてた奴は無事だったのか?」
「うん、シブヤの野郎が助けたお陰で、自分で歩けるぐらいには元気だったよ」
「歩かせたのかよ。そういう時って救急車呼ぶんじゃないのか?」
「うっせーな。結構森の深いとこで車が乗り入れられる場所まで何キロもあったんだよ。戻るより理鶯さんとこに連れてった方が早いからってさ」
 手のひらに広げた餃子の皮を差し出すと一郎がポンとティースプーンに掬った肉ダネを乗せてくれる。餃子づくりはいつもこうだ。弟たちが皮を持って、長男が具を配る。ちょうど上手く包める量を置いてくれる。
 手にした皮の端に器用にひだを寄せて閉じたものを三郎がアルミ製のバットに置く二人で包んでいるが一人一枚のバットを使って混ざらないように並べていた。後でどちらが上手いだなんだと言い合うためだ。
 二郎の話なんかつまらないという顔で新しい皮を手に取り、ステンレスのボウルにスプーンを突っ込んでいる長兄に差し出した。すぐに適量の具がポンと乗せられる。こうして些細なことでも目に見えて役割が与えられるから、三郎は餃子の日が好きだ。
「それで、その人は自殺は諦めたのか?」
 これはいち兄の分、と勝手に思いながら三郎が餃子を包んでいる傍ら、一郎が愛想良く話を促す。
「うーん、それがさ……」

 それぞれ単独で理鶯に会いに向かっていた二郎と帝統は予定外に三人組で目的地に到着した。全く見知らぬ男を含めたトリオで顔を出してもハマの海兵は動じず、「そこで拾った」との適当過ぎる説明を受けて「そうか」と納得した。連れ込まれた男は見るからに弱そうで、森に放り込まれたら縄で首を括らなくても三日と生きられそうになかったからかもしれない。
 とりあえず体を休めてから帰れと言って男を座らせ、勧められる前に勝手に腰を落ち着けた帝統には望み通りカレーが差し出された。自分が助けた男のことなんか空腹時のカレーの前にはどうでもいい。大喜びでスプーンを突っ込んで何かわからない塊を掬い躊躇いなく口に入れる。
 一方の二郎はメシをたかりに来たわけではない。もちろん、食事時に顔を出すとなれば半自動的に食事が提供されるので盛られたメシは食べるが。メインは普段の礼にと持ってきた果物の方だ。貰い物ではあるが丸々したメロンとグレープフルーツを手渡し、食卓の足しにしてもらう。特に、腰を下ろしてからも呆然としている自殺男にはカレーは重すぎた。心穏やかでない時は何か甘いものでも口に入れておくといい。
 食べるかどうかは任せるとして、一口サイズに切られたメロンを男の目の前に置いたところで漸く事情聴取が始まった。問いただすというよりも、落ち着くまで黙って身柄を保護しているというのが難しかった。理鶯一人なら男に何も聞かず放っておくこともできたかもしれないが、腹の膨れた帝統は何の考えもなくカレーのつまみ程度に話を始めた。
「お前さ、さっきのアレって……やっぱ自殺?」
「そこからかよ」
 間髪入れずに二郎がツッコミを入れる。確かにここまで誰も尋ねはしなかったが、未だ首にひっかかった縄を引きずっている男に今更訊くことじゃない。
 土気色の顔をした男が身を縮こまらせながら頷く。当然だ。
「そっか。なんか、邪魔してゴメンナ?」
「謝るとこじゃねーよ」
「いやー、だってさ、それがコイツの人生ってもんじゃん?そこに俺が出くわして助かったのもコイツの運だけどよ」
「だからって、死にそうなヤツ助けて悪いことはねーだろ」
 な!と男に同意を求めるとあまりそうは思っていない様子で、だけど勢いに負けて首を縦に振った。心から同意していないのは丸わかりだ。二郎は不満そうな顔で横から男の目の前にあるメロンにつまようじを突き刺して一切れ口に放り込んだ。
「大体テメェはなんで自殺なんてしてんだよ。どっから来た?仕事は?」
 イライラが滲んだ質問にいちいちビクつきながら、両手の指を組んだ手元に視線を落とし、男は小さな声でぽつりぽつりと話し始める。
「……シンジュクディビジョンから、きました……」
「あー、わかるわかる。シンジュクっぽいよなアンタ」
「そういや麻天狼に今にも死にそうなリーマンがいたな」
 すかさず挟まる温かみのないコメント。話辛い。
「仕事は……数日前にクビになって、今無職で……」
「へー、奇遇だな!俺も定職ないぜ」
「それ言うと理鶯さんも無職だけどな」
「小官は軍人だが」
「えー、だったら俺もギャンブラーっすよぉ。でも幻太郎が所得税払ってないヤツは無職だって言うんだよな」
「そのゲンタローってヤツが正しいわ」
「だってさ、考えてみな?どうせ中王区様のために使われるクソ高ぇ税金とられんのと夢を賭けた博打で金を失うの、どっちがいい?」
「嫌な二択出してくんな」
 無職になったばかりの初心者男はベテラン無職の滑らかトークに口を噤んだ。定職を失った時は不安で仕方なかったのに、無職馴れした男の楽しそうなことと言ったらない。
「つーか、何でクビになったんだ?とんでもないミスでもやらかしたのかよ」
 カレーを食べ終えた帝統が先割れスプーンの尖った先端でメロンを突き刺して一切れ持っていく。右から一切れ、左からももう一切れ。男の目の前に置かれたメロンはどんどん減っていった。
「……ミスというか、…上司のミスをなすりつけられて……」
「殴ったのか?」
 横から尋ねてくる血の気の多そうな少年を、男はチラリと見て首を振った。
「そっちは自信がなかったので、飲み会の席でラップでやり込めてしまって……」
「あー…」
「あー…」
 最近週刊誌やワイドショーでも目にする、会社で上司や同僚をディスって解雇や自主退職する会社員。社会問題として局地的に話題になったディス社員という奴だ。ディビジョンバトル開幕以来、シンジュクのリーマンラッパーの影響でその人口が増えたとも言われている。社会的事情もあって男性が圧倒的に多く、退職を決意してから辞めるその日まで、強烈なリリックをお見舞いするためにノートにびっしりリリックを書き溜めて推敲している者もいるらしい。
 殴って辞めれば暴行として警察沙汰だが、精神干渉なしのラップなら社内での立場がなくなるというだけだ。高いラップスキルを見せつけたらディスられた相手はカンカンでも、他の社員から拍手が起きる場合もあるそうな。ネットでは「どうせ転職するならいっちょやったれ」と軽率に煽る者も少なくない。
「アンタ意外とやるんだな」
 見直した、と言ってもう一切れつまもうとしていたメロンから先割れスプーンを撤退させた。最後の一切れだったが。
 帝統だけでなく、二郎も少しばかり見る目を変えた。ここにいるのはラップで戦う男ばかりだ。みんな、そういうのは嫌いじゃない。
「でもさ、仕事ぐらい次があるじゃん。そんな落ち込むことか?」
 軽く言ってのけたのはまだ学生である二郎だ。学生だが、兄の経営する萬屋を手伝っている。小遣いは家計、つまりは兄の稼いだ金から支給されるので、兄の誕生日前には家業とは別のバイトを見つけて働きもする。求人誌だって見ているし、多少の妥協をすれば転職出来ないこともないだろうと思われた。
 残された一切れのメロンを見つめていた男が顔を上げて、また視線を落とす。
「実は……仕事をクビになったことを話したら、口論になって彼女に振られて……」
「今までカノジョいただけいいじゃねーかよ」
「え、二郎って彼女いたことないのかよ。ブクロじゃ有名なんだろ?」
「うっせ」
「帝統、個人のセクシャリティに口を挟むべきではないと、小官は思う」
「あ。悪ぃ」
「おい、察しみたいな顔すんじゃねーよ!俺だって可愛いカノジョ欲しいって!」
 小競り合いが始まってあっという間に男は置いてきぼりを食らった。
「……………あのぅ、続き話していいですか?」
 男はナチュラルに無視されて初めて自分の身の上話を聞いてほしかったのだと自覚した。相談相手としてこの三人が適任者かどうかはともかくとして。
「続けてくれ」
 家主から許可が下りた。屋根も壁もない、敷地の境目も不明なここを家と呼べるかは疑問が残るが。
「その、……彼女の部屋に同棲してたお陰で、振られた際に追い出されてしまって…貯金もなくて……」
 男より女の方が金を持っているため、薄給の男が女に頼って生きているのはよくある話だった。静かに話を聞いていた理鶯が深く頷く。
「つまり、住むところがないというわけだな?」
「そうなんです……。仕事も、金もないのに新しい家なんか借りられなくて……」
「そういうことなら小官が力になろう」
 力強い言葉だった。低くよく響く声と自信に裏付けされた声音により説得力ある一言だ。男は地獄に差し込んだ一筋の光を見た。男の左右に座る二人は話の先行きが見えたところで帰り支度を始めた。

「で、どうしたんです?その彼は」
 グラスのワインを揺らして先を唆す。聞かなくてもおおよそのオチは見えていたので興味ではなく単なる相槌だ。
 たまたま別件で会ったついでに食事に誘い、近況を尋ねたらなんともくだらない話がこぼれ出た。登場するどいつもこいつもマヌケ揃い。それらをまとめて面倒見ている理鶯の懐の広さに感心するやら呆れるやら。そうした人の好さは純粋に美徳だと思うし、理鶯の人柄故に銃兎も、左馬刻も信頼を置いている。まだまだ知らない部分が多いなりに尊敬だってしている。
 だとしても、だ。餌だけ与えたら帰っていくガキどもはともかく、家もない初対面の人間まで助けようという考えは、銃兎にはまったく理解できない。貸しを作ってやろうという魂胆もない。作ったところで仕事を失って自暴自棄の男なんか犬の餌にもならないが。
 誰を助けようが理鶯の勝手だが、それで不要な面倒を背負い込むなら話は別だ。付き合いは浅くとも時折食事に誘って生活ぶりを心配する程度の仲だ。理鶯だって銃兎が疲れた顔をしていれば心配してくれる。大丈夫か?精のつくモノを食べさせやろう、と。今日も親切な申し出を受け、蛇かネズミかコウモリか昆虫かはわからない、精のつく料理を丁重にお断りするために適当な店で食事をすることにした。心優しい仲間が不利益を被るのは本意ではない。
 向かいの椅子に腰かけた理鶯は同じ色のワインを一口飲み下し、やや眉尻を下げて答える。
「それが、森で眠る際に注意すべき毒虫について教えたところで、やっぱり働いて人生やり直すと言って帰ってしまった」
「まあ、そんなとこでしょうね」
 予想通りの答えに満足して頷く。常人が理鶯の真似なんてできるわけがない。森の中で寝る場所を確保し、食べられる野草を覚えて摘み、動物や昆虫を狩って調理して食べることを思えば転職なんか楽な選択だ。このご時世、仕事内容に拘らなければ住所不定でも日雇いや短期間のバイトがいくらでも見つかった。もちろん、正しく堅実に生きている人間はあまりやりたがらない仕事が多いが。
 銃兎が当然の結末に納得するが、対する理鶯は少し残念そうにしている。理鶯だって教えた通りに男がサバイバル生活を始めると信じていたわけでもないだろうが、基本の基の字の一画目でリタイアされるのはショックだったんだろう。努めて優しく笑いかけてやる。
「ずぶの素人が森で寝泊まりしたら、それこそ毒蛇にでも噛まれて仏まっしぐらですよ。人間向き不向きってもんがありますからね」
 別に慰めてやるような案件でもないが、銃兎も左馬刻も理鶯には甘いところがある。言葉を重ねて励ませば素直に受け取って感謝の言葉を述べ、変化の幅が狭い顔に優し気な笑みが浮かぶ。左馬刻と違って理鶯との間に流れる時間は非常に穏やかだ。
 自殺志願者騒動の話が終わり、テーブルに並べられた皿とグラスが空になったところで店を出た。合流した時間が遅かったお陰で深夜だ。終電に間に合うかどうかという時間だった。随分な距離があるのに森まで歩くという理鶯を引き留め、一緒にタクシーに乗せるため大通りに出る。等間隔で並ぶ街灯と道路に面した深夜営業する飲食店、コンビニ等の灯りが行き交う人を影濃く照らす。銃兎は職業病か、タクシーを待ちながら付近の人々の様子を見ていた。その目に見覚えのあるくたびれた背広姿がふらふら横断歩道に向かっていくのを見つける。
「おや、あれは……」
 シンジュクディビジョン代表の、と言いかけた。その時、隣に立っていた理鶯がいち早く駆け出し、歩行者赤信号の車道に踏み出しかかった腕を掴んだ。すぐ目の前の道をトラックが速度オーバー気味に駆け抜けていく。ああ、面倒くさい。思いながらも遅れて駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
 理鶯に引きずられた格好で目を丸くした観音坂独歩が錆びた機械のような動きで見上げてくる。
「どうした、何か辛いことでもあったか?」
 尋ねると独歩は未だ赤く点灯している対岸の歩行者用信号を顧み、改めて取り囲む二人を見て飛び起きた。背筋がビシッと伸びたかと思うとピッタリ四十五度に腰を曲げて最敬礼でビートを刻む。
「すいませんすいませんすいませんすいません。接待帰りでぼんやりしていまして信号を見ておらずお二方には大変ご迷惑をっ」
 銃兎が理鶯を見上げれば理鶯は銃兎を見下ろす。目が合って、ほころんだ溜息が漏れた。
「またサバイバル生活の指南をし損ねましたね」
「そのようだ」
 H歴。女性政治によって数多の男たちが苦しい生活をする町の片隅で、疲れ切った酔っぱらいは急なヘドバン運動により道端で嘔吐。親切な海兵と嫌そうな警察官に介抱されながらも帰りがけに立ち寄ったコンビニで歯ブラシを買って帰って行った。自宅より近い友人宅に泊まると言って。
 何がなくても明日が来れば、男たちはそれなりに生きていく。そこが町であれ、森であれ。