木漏れ日/さまじろ5/6754

 ピコン。メッセージ受信通知。
 街路樹の作るまだら模様の影の中で携帯を見る。今朝まで三日間口も利いてくれなかった弟からのメッセージだった。
“醤油×1、食パン6枚切×1、チョコミントモナカ×2、iPlayプリペイドカード五千円×1”
 愛想も素っ気もないお遣いメモ。よかった、やっと許されたみたいだ。ここ三日間、朝も夕方帰宅した際も風呂を交代するときや買い出しに出る時も、ひたすら平常通りに声をかけてやっとだ。今回は相当怒らせた。普段の喧嘩ならシカトが丸一日続いたところで改めて胸ぐらを掴みあげるところだが、今回ばかりはこっちが悪い。おはよう、ただいまのたびに向けられるジト目を受け入れ、兄ちゃんの慰めセリフも火に油だからそっと辞退した。
「長かったなー」
 ホッとして“了解”と返してからメッセージを読み直し、慌てて追加で返信を送る。ゲーム課金のためのプリペイドカードなんか誰が買うか。詫びる気持ちがあってもそれはそれ、これはこれだ。
 すぐに既読はつかなかった。メッセージアプリを閉じて時刻を確認する。季節柄、日が長くなったが何時頃まで待っていよう。お遣いの内容からして夕飯作りに間に合わないとまた文句を言われるし、もうしばらくは三郎に一人きりで留守番させたくなくて時間を気にした。

 数日前、何年振りかの家出をした。兄ちゃんに構ってほしくて拗ねて出掛けたのとは違って、もう兄弟の待っている家には帰れないような気持ちになる、そんな家出だった。
 思えばガキの頃にやった家出の時も、弟を一人で家の残してしまった。今回もそうだ。遅くに家に帰ったら三郎はソファにいて、全く口を利かないのにずっとお互い目の届くところに身を置いていた。売り言葉に買い言葉で騒がしいいつもの喧嘩と違って、静かな抗議はしんどい。
 何も言わないくせに、言葉の代わりに目で告げてくる。まだ許してないって。

 なるべく早く帰らないとマズイ。ヨコハマディビジョンから家までは距離もあるし、買い物にも寄らなきゃならない。
 すでにここで一時間は待っている。ここまで来て目的が果たせず出直すのも嫌だが仕方ない。もう少し待ったら左馬刻に会うのは諦めよう。携帯をポケットに戻して、バイクのハンドルに提げたコンビニ袋から取り出した炭酸飲料の残りを呷った。
 わざわざ時間を気にしてまでヨコハマを訪れたのは左馬刻に礼を言うためだ。家出の際に世話になった、気がする。世話を焼くつもりでそうしてくれたのかどうかを確かめたい気持ちがあった。確かめたからといってどうするわけでもない。一応は感謝して、それで終わりの予定だ。気になっていることを放置しておくといつまでも気分が晴れないから確かめに来た。それだけ。これっきり。たまたま何度か鉢合わせることがあったが、元から生活エリアも違う相手だから当分会わないだろう。それでいい。
 自分の中に漂って頭から去っていかない形のない考えを無理やり言葉にして、脳内で「それだけ、これっきり」と唱えた。
 ここは以前、左馬刻をバイクで送ってきた雑居ビルの前。路肩に愛車の青いバイクを停めてビルに出入りする人間を見張っている。本人が出てくるかはわからないが、恐らくこのビルに左馬刻の出入りする事務所があるはずだった。前回ここに入っていくのを見た。
 この場所がダメなら他に行きそうな場所が分からない。尋ねる当てがないこともないが、左馬刻のことを一番よく知っていそうな男、イコール、俺が一番連絡を取りたくない性格極悪クソゴミカス野郎だ。アイツに頼らなきゃいけないならもう諦めよう。借りを作ったら最後、代償に何を言われるかわかったもんじゃない。大体にして、左馬刻はこちらを助けるつもりなんてサラサラなかった可能性もある。悪徳メガネに借りまで作って会う必要があるのだろうか。陰険メガネの、身長差はほとんどないのに見下してくるあの目。厭味ったらしい敬語に癇に障る喋り。警察と大人のダメなところを煮詰めたようなあの男。
 短い付き合いにもかかわらず恨みが下手糞のテトリス並みに積みあがったクソ野郎の顔が頭の中で増殖し、左馬刻にうっすら感じていた感謝や思い込みの優しさを塗りつぶしていく。
 やっぱ帰ろ。
 段々とバカバカしくなってきてヘルメットを被り、バイクのエンジンをかけた、その時。
 ビル一階の端にあるガラス張りの扉が開いた。透明のガラスがはまった片開きドアだが、内廊下が暗いせいで明るい外からは内部がよく見えない。出てくる二人の人陰に目を凝らす。男が扉をくぐって首に下げたゴールドのチェーンネックレスが太陽光を反射した。いかにもなヤクザ風情の二人組。どちらも左馬刻ではなかった。だけど同じビルに別々の組のやくざが同居しているってことはないだろう。関係者には違いない。
 様子を窺っていると、片方の男がこちらに気がついて目が合う。
「テメェ、何見てんだ?」
 距離を保ったままで問われて焦る。
「いや、あの、怪しいもんじゃ………左馬刻さんて、今日はここにいないんすか?」
 意を決して尋ねた。
 冷やかしだと思っていたのか、左馬刻の名前を出すと男たちは眉を上げた。二人の内見た目の若そうな方が小首をかしげ、
「左馬刻の兄貴ならアケボノ町の方に……」
「バッカ、テメェは素直に答えてんじゃねーよ」
 答えてくれた男は素早い動きで後頭部を殴り飛ばされた。とはいえあまり深刻そうでもない。
「教えたのが兄貴にバレたら絶対面倒なことになるに決まってんだろ」
「すんません!」
 アケボノ町といえば風俗店ひしめく繁華街だ。確かにやくざが徘徊していても違和感がない。
「ざっす」
「ちょ、オイ!」
 短く礼を言うと、ビルの前で「兄貴にバラすんじゃねーぞ!」と叫ぶヤクザを置き去りにして走り出した。

 昼間の風俗街は人通りも少なく静かで、ピンクの看板を貼りつけたビル群も光の演出がないと勢いがない。
 それでも夜になればギラギラしたネオンサインがひしめき合う一画だ。面積はそう広くないが、いくつもテナントを抱えたビルばかり。壁面や入口に看板がたくさん掲げられていて、一軒一軒確認したら日が暮れてしまいそうだった。
 あまり縁のない町に気後れしながらバイクを押して歩く。どこかの店におしぼりのコンテナケースを運び込む業者、周囲の店には全く興味がなく通行していくだけの人、早くも着飾ってビルに入っていく貫禄のある女。配達業者の車が走り去る音と少しの足音、遠くの電車の音。昼の日常と夜の幻想が混じり合う。
 あのヤクザは普段こういう場所を巡回しているのかと妙に感心しながら歩いていると男の悲鳴が聞こえた。声の方を振り向く。他にもいる通行人が振り向いたが、関わり合いになりたくないんだろう。様子を窺いに行く人は誰もいなかった。俺一人が声の場所に向かって急ぐ。
 十メートルほど先の狭い路地の入口、ビルの角に寄り掛かって路地の奥を眺めるオッサンを見つけ足を止めた。バイクを置いてオッサンの横から路地を覗き込む。
 いた。案の定、ビル間の日陰でも目立つ白いシャツと頭が。すでに腰の抜けている若い男の胸ぐらを掴んでマイクを構えている。
「ひぃっ、ずん゛ま゛ぜっ…兄貴、ごっ…ゆ゛っ…じで……」
「あ゛?聞こえねぇな。許せつったか?」
「……う゛、はっ……だず…げ………」
 命乞いの間に垂れた鼻血で男が噎せた。手を離したらそのまま地べたに落ちて気を失ってもおかしくない。口の端から血混じりの泡が溢れ、目の焦点も合っていなかった。
 左馬刻は掴んだ襟を揺すって男が意識を手放そうとするのを阻み、追い打ちのために息を吸い込む。
 ダメだ。これ以上やったら最悪死ぬ。
 ヒプノシスマイクから流れる死刑宣告のようなビートを聞きながら大股で路地に駆け込んだ。一小節の頭に駆けつけて男の襟を掴む左馬刻の手を引き剥がし、二人の間に出来た隙間に文字通り首を突っ込んだ。
 至近距離で左馬刻の放った言葉が鼓膜を撃つ。一発で三半規管がやられて拳で強かにぶん殴られたみたいに脳が揺れた。死にかけの男を支えるどころか自分の体もままならずに膝をつく。
「……テメェ、何してんだ?何でここにいやがる」
 流れるビートはそのままに、ライムを刻むのを中断した左馬刻が冷ややかに見下ろしてくる。ついこの間感じた仄かな親しみは微塵もない、凶暴で無慈悲な碧棺左馬刻のイメージそのものの尖った視線。腰が退けそうになるのを、自分の腿を叩いて叱咤しなんとか立ち上がる。体がぐらつくのはどうしようもない。
「ってぇな……。たまたま通りすがったんだよ」
 左馬刻はそれを鼻で笑い飛ばし、心底馬鹿にした声で返す。
「ハッ。……まさかそいつがテメェのダチとか言い出すんじゃねーだろうな?」
「ンなわけねーけど…これ以上やったらヤベェだろ。もうやめろ」
「寝惚けてんのか?こないだのことで学習したかと思ったらとんだ見込違いだったな」
 垂れ流しのビート。音に乗らない低い声。
「そいつと一緒に死ぬか?」
 再び口の高さまでマイクを持ち上げる。それに応じて俺もベルトに差して携帯しているマイクを掴んだ。
「上等だ。やってやんよ……!」
「こいてんじゃねーぞクソガキ!」
 やるかやられるかだ。もう他に選択肢はない。

 気がつくとビルとビルの間から高い青空が見えた。頭の中が酷い船酔いみたいになっている。
「あ、起きた?」
 視界に見知らぬオッサンと、そのしゃがんだ膝頭が割り込んできた。数秒かけて、さっき路地の入口にいたオッサンとわかった。呑気に煙草の煙をくゆらせている。そばにはいるが、地べたに倒れている俺を助け起こそうとするわけでもない。興味本位と書かれた顔で軽い調子で質問を投げてくる。
「兄ちゃんバカだねえ。左馬刻さんのこと知らねーの?」
「……知ってる」
「知っててなんで飛び込んじゃったの。命あっての物種だよ?」
「うっせ。……さっきのヤツは?」
「ボコられてたヤツ?兄ちゃんが割り込んですぐにぶっ倒れて伸びちまって、一応知り合いの車に乗せて医者に向かってるとこだよ。まあ生きてるっしょ」
 口調が軽すぎていまいち信頼性に欠けるが信じておくことにした。もう何もやれることはないし。
 心配事を手放して起き上がる気力が戻るまで天を見上げていると、その顔を覗き込んでいたおっさんがペチッと膝を打った。
「……あ、見覚えあると思ったら、ブクロのバスターブロスの奴じゃねーか。どおりで生きてるわけだよ」
 さっきのバトルがどうのこうの。完全に負け試合だったが強敵相手によく頑張ったと褒められた。俺はマイクのスイッチを入れてからの記憶が飛んでいてわからないが、オッサンが言うには少しはやり返せていた、らしい。
「よく頑張ってたけどね、実力的に勝ち目なかったでしょ。無茶したもんだよキミ」
「だって……ほっといたらアイツ殺してたかもしんねーじゃん」
「そりゃねぇ」
 仕方なさそうに腕を抱えて唸るオッサンを見ていて思い出した。左馬刻だって怒る時はそれなりの理由がある。
「……あの男、やられてた奴は何したんだ?」
「そんなことも知らねーで助けたのかい。アイツはねえ、自業自得。左馬刻さんの面倒見てる店のホステス脅して勝手に売春させてたんだよ」
「女……脅し………、びっみょー……」
 砂っぽい両手で顔を覆う。確かに許されざるクズだが、ここですぐさま死ぬべき罪なのかは分からなかった。当事者からしたら死んで当然なのかもしれない。だけど当事者でもないし、左馬刻の立場になって考えるのも難しい。アリかナシか、微妙だ。
 地面に転がったまま悩んでいるのを見てオッサンが声をたてて笑う。
「ははっ。そんな事で悩むわけ?面白い子だなあキミ。起きられる?ちょっと店で休んでいきな。左馬刻さんも戻ってこねーだろうから。……それとも救急車いる?」
「……ちょっと休めば動ける、と思う」
「はいはい。ああ、それからマイクもね、左馬刻さんがキミが起きたら渡せって。寝てる間にパクったらぶっ殺すって」
「あ、ども」
 どうやらオッサンは俺が目を覚ますのを見届けるよう言われて待っていたらしい。人目にもつきにくい路地だ。一人で寝ていたらいくらなんでも危ない。マイクだって盗まれていたかもしれない。オッサンだって、愛想はいいが左馬刻に命令されなかったらマイクを盗んで売り払うこともできただろう。貴重なヒプノシスマイクは金になる。
 話している間に多少マシになった体をなんとか起こし、肩を借りてすぐ隣のビルに入っているクラブのソファで寝かせてもらった。
 それから何時間経ったのか。人の気配で目を覚ました時、出勤してきたホステス達に取り囲まれていて焦った。外はもうすっかり暗い。心配してくれるお姉さんたちに見送られ、法定速度ぴったりの超安全運転でイケブクロディビジョンまで帰る。無事帰った。後から思えば自力で帰りつける程度のダメージだった。

 予定より三時間も遅く帰宅したら玄関を開けた目の前に弟が仁王立ちしていてお遣いを頼まれていたことを思い出した。何にも買ってない。
「遅い!のろま!こんな時間まで今度はどこほっつき歩いてたんだよ!買い物もしてないし……ていうか、汚っ!先に風呂行って来いよな!」
「うるっせぇな。色々大変だったんだよ」
「色々ってなんだよバカ!」
「そりゃ……色々だっつの」
 はぐらかして風呂に直行する。髪の毛にも砂ぼこりが絡まって本当に汚い。念入りに洗って出ると脱衣所に着替えが揃えてあった。そこでやっと今日の行動を少しだけ後悔した。
 あの時、止めに入るべきじゃなかったんだろうか。だけど兄ちゃんならやっぱり止めただろう。無事帰れなくなるかもしれなくても。
 でも、結果論だけど自分の足で帰宅できた。
 ソファで汚れたマイクを磨いてスイッチを入れたり切ったりする。もちろん正常。気を失っている間に偽物にすり替えられたりもしていない。……左馬刻のお陰で。
 乱暴に扱われたかと思うと寸出のところで助けてくる。前はもっと恐ろしいイメージだったのに、今はぶちのめされた後でも怖いとは思わなかった。昔は兄ちゃんも認めていた人だ。実は優しいのか?いや、元はと言えば左馬刻が暴れていたのが悪い。でも二度も助けられた。
「…………アイツ、なんなんだよマジで!」
「二郎うるさい!テレビ見てるんだから黙れよ!」
 ソファの端から飛ばされた苦情を甘んじて受け入れ口を噤む。
「…………ッ」
「声出さなくても鬱陶しい!」
 理不尽きわまりない弟と喧嘩して、風呂から上がってきた兄ちゃんに両成敗されて、平和な我が家を噛みしめた。

 その二日後。再びヤクザの事務所ビル前に止めたバイクに腰掛け、出待ち入り待ちをしていた。ダメなら今度はアケボノ町まで行ってクラブのボーイをしているオッサンに聞いてみるつもりだったが、今日は幸いにも本人が出てきて真っ先にこちらを見つけてくれた。
 ビルの出口前と路肩で会話にはやや遠く、向こうに歩み寄る気がないとみてバイクのシートから腰を上げ、少しだけ距離を詰める。
 相手は俺がなんでここにいるか分からないって表情だ。
「うっす。ちょっと、こないだの礼に」
「あ゛?」
「や、この通り無事だったし……前も理鶯さんとこ連れてってくれたし、一応礼を言っとくのが道理ってもんだろ?」
 左馬刻は理解出来ない様子でポカンと口を開けている。前回のような牙を剥いた獣みたいな目じゃない。
「それもクソ兄貴の道徳教育の成果か?」
「あ?兄ちゃんは関係ねーよ。つーか一々クソつけてくんな」
「この間あんだけやられてすぐ顔見せるなんざ、マヌケかドエムだろうが。そういうプレイが希望なら他の奴に踏んでもらえ」
「クソみたいな茶化し方すんじゃねぇよ。こっちは真面目に言ってんだ」
 こっちが文句を言っても手もマイクも罵詈雑言も出てこなかった。手当たり次第にキレ散らかすわけじゃないらしい。
 視線を外して苛立ちを紛らわすように片手で髪を掻きむしってからため息を吐く。
「……マイクはどうした」
「マイク?ああ、お陰様で無事だよ。ほら」
「……フンッ」
 自分で尋ねたくせにヒプノシスマイクを見せると不満げに鼻を鳴らして目を逸らす。乱暴と配慮、不機嫌と優しさがぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
「アンタさ……そういうところだぞ」
「なんだとクソガキ」
 言葉で凄んでも殴る理由にはなり得ないらしい。それだけの収穫を得て退散した。
 結局、当初の予定を果たしてみても左馬刻がどういうつもりで助けてくれたのかはわからず、俺の中の左馬刻は今もちぐはぐで正体が掴めない。存在感ばかりが育っていく。
 ……もう一度会えば何か分かるだろうか。
 そんな気の迷いを重ねて、俺はまたヨコハマに足を運ぶ。