殺意を捧げたら友達/さぶど/11880

 新作ボードゲームの箱を小脇に抱え、リビングを覗く。誰もいない。キッチン、兄の仕事用の応接間。誰もいない。さっきまでいたのにな。だとすると部屋か。
 長兄の部屋の扉をノックしたが返事はなく、代わりに次兄の部屋の扉が開いた。仕方ない。いち兄が良かったけど二郎でもいいや。買ったばかりのゲーム、試しにやりたいから付き合えよって。
 言う前に次兄が背負ったリュックサックが目についた。
「……出掛けるの?」
「ああ、友達んち泊まるから兄ちゃんにも言っといてくれ」
「友達って?」
「……うっせぇな。誰でもいいだろ」
 嘘の下手な兄は目を逸らして玄関に向かう。隠さなくたってもう知ってるよ。毎週泊まりで出掛ける行き先も知ってる。
 いつ頃からそういう関係に昇格したのかは分からないけど、兄には特別な相手がいる。
 前から外を遊び歩いて家にいないことも多かったけど、今はもっとだ。いち兄が在宅している日は他の約束なんか断ってでも帰ってきたのに、最近は泊まりの日はいち兄が夕飯当番の時だって帰らない。
 尊敬するいち兄を独り占め出来るようになったのに、何故か気分は良くなかった。
 リビングに戻ってボードゲームの箱をテーブルに置いた。いち兄も出掛けたみたいだし、仕事ならすぐには帰らない。外で遊ぶような友達もいないし一人で留守番だ。三人掛けのソファに横になって目を閉じた。

 昼休みの教室は居心地が悪い。うるさくて、禁止されてるボール遊びしてる奴もいるし、教室の入り口まで僕を見物に来るバカが未だにいる。
 テリトリーバトルが始まったのはもう何ヶ月も前のことだ。イケブクロディビジョンのチームメンバー発表時に一騒ぎあって、第一回開催の後にも騒がれ、そこで騒ぎ尽くして平穏が訪れるかと思えばそんなことはなかった。何しろ毎月開催のイベントでテレビに映る。勝敗にとやかく言われたり、やっかみでイジメ行為に出る奴が非公認親衛隊を自称する連中と衝突してまとめて教師に呼び出されたり。
 飽きもせず色々起こる。前より人に話しかけられるようにはなったが、善意的か悪意的かにかかわらず“あの山田一郎の弟”として扱われていた頃と環境が変わったわけじゃない。
 不躾な視線や騒がしい声に囲まれているけど、基本的に遠巻きにされて時々バカが石を投げて来るか下心のある女の子が話しかけて来るくらい。動物園の檻の中もこんな気持ちかもしれない。
 面倒くさい。
 一人で過ごす暇つぶしに携帯アプリのゲームを始めた。既存のカードゲームをアプリ化したオンライン対戦だ。
 本当はアプリじゃないカードに触れるゲームの方が好きだけど、この頃は対戦相手になってくれる兄たちが忙しくてやる機会がなかったから。構えないことを気にした長兄に提案されていくつかダウンロードしてみたゲームのうちの一つだった。ガチャやランキング戦で勝ってレアカードを集め、デッキを組んでNPCやオンラインでマッチングされた誰かと対戦する。
 そのデッキ編成を見直していた時だ。
「山田くんもそのゲームやってるの?」
 声を掛けられて一瞬反応が遅れた。話しかけられ慣れないから自分に言われたと思わなくて。
「……えっ、ああ、うん」
 顔を上げるとクラスメイトの大人しいグループの男子三人が携帯片手に立っていて、返事をすると緊張した面持ちを僅かに緩めた。多分、悪い連中じゃないんだろう。イジメをやるタイプでもないし年齢以上にバカって雰囲気でもない。悪気はないと思う。
 近づいて来る人間がどんな目的で、厄介な奴そうでないか、値踏みする癖がついていた。
「俺たちもそれやってるんだよね。良かったら一緒にやらない?」
「そうなの?……いいけど」
 誘われてから、もしかしたら兄の狙いはコレだったのかなと思い至った。普段家でやるボードゲームは学校に持ち込めないし、カードゲームを持ち込んだとしても休み時間に一人で広げるなんてしない。携帯アプリだから気安く起動して、それが彼らの目に付いた。
「よかった!誘って迷惑じゃなかった?」
「別に、デッキ見てただけだから」
「そうなの?折角だから対戦しようよ。僕、アプリが配信始まった頃からやっててさ」
 見せられたカードコレクションは確かにレアカードが並んでいた。アプリを始めるタイミングが遅くて入手出来なかった期間限定配信カードもある。ちょっと羨ましい。
 カードのコレクションを見比べて羨ましいとか、対戦しようとか、友達みたいだな。そんな浮ついたことを考えながらフレンドユーザ登録をして、対戦を始めた。
 その数分後に気持ちはあっさり冷めた。
 ボロ勝ちだった。長くプレイしているくせに、これならうちの次兄の方がまだ強いって程の腕前だった。カードゲームは戦略なしに勝てるわけがないのに、何も考えずレアカードを積み上げて力押しで攻めてくる。
 アプリはユーザが多いから強いカードさえ持っていれば多少は勝てるのかもしれない。でも、そんなんじゃオフラインの大会じゃ初戦突破も難しい。
 その辺の中学生ってこんなレベルなの?
「はは……さすが山田くん、最近始めたっていうのに強いね」
 もっと善戦するつもり、いや勝つつもりだったんだろうか。手加減なしにボコボコにしたら相手の顔色が悪い。なんで声をかければいいかもわからなかった。
「あの、ごめんね、もうすぐ休み時間終わるし移動教室だから、戻るね」
 そこから理科室への移動はいつも通り一人だった。見るとさっきの連中は一緒に移動している。
 やっぱり僕は友達になったわけじゃなかった。
 歯ごたえのないゲームはつまらなかったし、手加減してやるのもきっとつまらないだろう。
 それからそのアプリで遊ぶのをやめた。

「三郎、今日も家にいるのか?」
 清掃なんかの汚れる仕事用作業着に着替えた長兄がリビングで見飽きたDVDを見ている僕を見つけて心配そうに眉を下げた。
 まあ言いたいことはわかる。休み時間にクラスメイトとゲームで対戦した一件以来、前にも増して外に出なくなったからだ。行動範囲の狭い中学生は迂闊に外に出ると顔見知りに会いやすい。
 ひきこもりがエスカレートしていることを気にする兄の気持ちを察するのは容易だったが、先回りして口にするのは避けた。
「はい、何かやっておくことあったらやりますよ」
「いや……外、天気いいみたいだし気が向いたら散歩でもしてこいよ。家ン中ばっかじゃ体鈍るぞ」
「はぁい」
 いち兄の言うことはもっともだ。適度に動いて日光を浴びることで体や骨が強くなるっていうのは科学的な根拠がある話だし、うちの兄二人とも活発で外出を厭わない。二人と違う僕のことを兄が心配するのも当然だった。
 兄を仕事に送り出し、またテレビ前に戻る。もう次のセリフも諳んじられるくらい見た子供向けのDVDだ。
 はいって答えちゃったしな。兄に言われたことを気にして、リモコンでDVDプレイヤーの電源を切った。
 充電器に挿していた携帯を外しながら、遠くに行こうと思う。学区の外に出れば学校の連中に会う確率は下がる。
 家族の予定を書くホワイトボードの右端の列に「散歩、夕飯まで帰宅」と書いた。今し方出かけた長兄の欄には「シブヤで仕事、夜帰宅」、次兄の欄には「ハマ、夕めし食ってかえる」とある。夕方でも僕が一番に帰宅することになりそうだ。
 ボディバッグにヒプノシスマイクを入れて自転車の鍵をとったところで思いついて携帯のアプリを新しくダウンロードした。位置情報ゲームだ。アプリ内のマップを開くと実際の地図上にある公園や駅やモニュメントなど、各地に一色、もしくは二色グラデーションのバーが立っている。
 ダウンロードした直後のチュートリアル画面でピンクか緑のどちらかを選ぶ。僕はピンクにした。それからユーザ名を登録して、外に出る。
 手始めに一番近いバー、スポットと呼ばれる場所に向かった。児童公園だ。見知った顔がないか確認して、公園の入り口付近までくるとアプリのマップ上で自分の位置アイコンと重なったグラデーションのバーをタップする。緑の割合が少ない、ほぼピンクのグラデーションだ。
 現実の自分の位置情報をGPSで送信すると、重なるスポットの操作メニューが開けるようになる。そのスポットに自陣カラーのインクを注ぐか、バリアを張るか、侵略ログを見るか。
 始めたばかりでバリアに必要なエネルギーが溜まっていないのでピンク色のインクを注いだ。バーの上にピンクのバケツが登場し、インクが落ちるとグラデーションだったバーはピンク一色になった。
 バーの上にピンク陣営のエンブレムがついて、ここはピンク陣営の領土となる。
 その最後の一滴を注いだためのボーナスポイントやご褒美アイテムが画面に表示され、早速プレイヤーレベルが上がった。
 一通り終えてからまたピンクになったバーをタップして“侵略ログを見る”メニューを開いてみる。これはこのスポットにアクセスした直近十名のユーザー名が見られる。一行ごとにピンクと緑に色分けされ、誰がどれだけインクを注いだか貢献度が4桁の数字で書いてあった。これはプレイヤーレベルやタイミングによって変動する。
 今このスポットはピンクが勝っているから、突然直近のアクセス十件はほぼピンク陣営のユーザだ。他のユーザ名をタップするとフレンド申請を送ることもできるが、それはしない。
 最新アクセスが自分の名前で、完全にピンクのスポットとなったことを示すアイコンが付いていることを確認し、満足して自転車を漕ぎ出した。遠くまで散歩するならそれなりの目的が必要だ。
 今までこういうゲームには手を出さなかったけどネットのレビューは読んでいたからやり方は知っている。ゲーム内には二種類のチームしか存在しないが、テリトリーバトルが始まって以降、実際の領土が奪われた分をゲーム内で取り返そうという擬似戦争状態で盛り上がっていた。
どうせならゲームでも勝って領土を獲得してやれ。
 自転車でも結構遠くまで行けるし時間はある。ユーザ層は大人中心だけど、子供のフットワークの軽さを見せつけるつもりでイケブクロディビジョンを飛び出した。

 マップの上に緑のバーが点々と表示されている。先ほどシンジュク駅でアクセスしてきたバーを見ると、すでに緑の誰かがアクセスしたらしく注いだインクの割合が減っていた。シンジュクは緑陣営が多い。
 よそのディビジョンでは知り合いもいないから周りも気にせずマメにスポットにアクセスしながら移動しているが、なかなかピンク一色でスポットを占拠することは出来なかった。
 シンジュクに入ってからというもの、主要なスポットのログを見ると“DOP515”の名前が最新十件のどこかしらに残っている。名前の背景色は緑だ。
「どんな暇人だよ」
 近所の散歩がてらマメにプレイしているユーザかと思って少し先までいってまたスポットをチェックすると、やっぱり同じ名前がある。その全てのバーにピンクのインクを注ぎながら足を延ばし、これ以上は日暮れまでに帰れないというところで諦めた。
 大きな公園の噴水が今日最後のスポットだ。見ると“DOP515”の名前はない。やっと敵の先を行けて満足し、バーのグラデーションにピンクを足した。今のところここのスポットはこれで五分ってところだ。占拠は叶わなかったがシンジュクディビジョンは緑が強いようだから仕方ない。スマフォをスリープさせて自転車を押しながら反対側の公園出口に向かおうとした。
 大きな噴水を回り込むと反対側に座り込んだ背広姿の背中が見えた。どこにでもいるサラリーマンだった。学生が休みで浮かれる土曜にも仕事とはご苦労なことだ。
 特に興味もなく横切ろうとしたらサラリーマンの「あ」という声が聞こえて足を止めた。僕だってテリトリーバトルに出場しているからそれなりに顔は知られている。呼び止めてくるのは大抵女性なのでサラリーマンに興味を示されるのは稀だったが、立ち止まってしまったついでに振り向いて相手を見た。
「あ」
 今度は僕が間抜けな声を出す番だった。相手が見知ったサラリーマンだったから。
 疲れ切った顔をしたシンジュクディビジョン代表MCは自分が先に声を出したくせして僕と目が合うと少し慌てて、立ち上がってテンプレート通りの慇懃さで頭を下げた。
「お、お疲れ様です」
 周囲を歩く無関係の通行人がこちらを見ている。三十路近いスーツ姿の男が自転車を押した私服の中学生にぺこぺこしてるんだからそりゃ気になるだろう。
「……どうも」
 周りを気にしながらこっちも会釈する。観音坂独歩ほど深々頭を下げることはしない。僕らはどっちが上でも下でもない。年齢は僕の方が一回り以上下だけど同じテリトリーバトルの代表MCだ。舐められたら負け。とりあえず頭を下げとけって考えのMCはこのサラリーマンぐらいだ。
 観音坂独歩は声をかけた以上何かしなければ失礼と思っているのか、ビジネスバッグと携帯を片手に持って近くに寄ってきた。
「あの、イケブクロから自転車で来られたんですか?」
「はあ」
「お兄さんたちは……」
「一人です」
 元々覇気のない顔に浮かべた下手な作り笑いから色が失せていく。こっちが仲良く雑談する気がないことが正確に伝わったようで何より。
 何か言う言葉を探して視線をさまよわせ、気を取り直して顔を上げ
「それじゃあお気をつけて…」
 軽く頭を下げながら噴水の方に戻っていく。仕事の合間に休憩だろうか。手に持っていた携帯を再び操作し始めた。なんとなくそれを見ていた。なんとなくだ。
 スーツの体に隠れて携帯の画面が見えなくなる直前、スマフォのディスプレイに見慣れたゲームロゴが浮かんだように見えた。
 頭の中で緑の背景に浮かぶとあるユーザ名が浮かんで、その場で自分の携帯を引っ張り出してゲームを起動する。現在位置を読み込んだマップに最寄りのスポットとして表示された二色のバーはさっきまで半分ピンク色だったのに緑が半分を超えていた。もうこちらを見ずに噴水の縁に座ってスマフォに視線を落とした観音坂独歩と見比べて、侵略ログを開く。
 最新アクセスユーザは――――“DOP515”だ。
 出口に向かおうとしていた自転車を噴水に向け直し、一直線に観音坂独歩の目の前まで歩く。途中で気が付いた観音坂は座ったまま尻で後ずさったが構わず目の前まで来て見下ろした。
「な、なんでしょう……」
「貴方が“DOP515”さんですね」
「えっ…………あ、はい……そうですが……」
 急にゲーム内での名前を言われ、手にしたままのスマフォに目を通して困惑気味に頷いた。
 改めて男の姿を上から下まで眺め回す。外回りの営業職なんだろう。あちこち歩きまわるついでにゲーム内でも領土をキープしていたってことだ。
 身長差はこちらの方がいくらか低いけど向こうが座っていれば僕の方が見下ろす格好になる。年下相手でも強く出られない気質らしい観音坂は居心地悪そうにこっちの顔色を窺っている。その目の前に自分のスマフォを突き出した。ピンク陣営所属を示すプロフィール画面だ。ユーザ名とこれまでの移動距離や貢献度が表示されている。
「え、あ……す、すいません!」
 敵だってことがわかってすぐ、自分のゲーム画面から直前に僕が噴水のスポットにアクセスしていたことを確認し、秒速で謝罪された。誰も謝ってほしいなんて言ってないのに。僕の足でも踏んでしまったみたいに勢いよく頭を下げる。
「なんで謝るんですか?」
「え」
「敵陣営の僕がアクセスしたスポットに上書きしたから?そういうゲームだろ?」
「そう、なんですが……」
 謝られるとこっちが怒ってるみたいだ。実際すぐ謝る態度にイライラしてはいる。この人、営業職に向いてないんじゃないだろうか。社会に出て働いた経験のない僕でもそう思う。
「今日あちこち回るたびに貴方の名前があったからどんな暇人かと思ってただけです。別に怒ってないんで」
 勝手に意識していたハードユーザがこんな情けないオッサンなんてつまらない。広範囲に出没していた理由もわかったしこれ以上訊くこともなくて踵を返し、速足で公園を出た。
 ゲームで勝てないこととつまらなことはイコールじゃない。どうやったら勝てるか頭を巡らす余地がある。だが、ライバルと思っていた相手にやる気やプライドがないこととつまらないことはイコールだ。このゲームが一気につまらなくなった。こんなことなら正体なんか確かめなければよかった。
 腹を立てながら公園の裏側を歩く。その途中で正面から来た柄の悪い二十歳ぐらいの男に道を塞がれた。
 五メートルほどのところでお互い立ち止まり、ダンゴムシを潰すのが趣味の小学生みたいな目で見下される。それで相手が僕のことをイケブクロ代表のMC.LBと知っていることも、悪意があることも理解した。兄からも言われいている。貴重なヒプノシスマイクを持っていると悪い奴に絡まれるから気をつけろって。
「どけよ」
「おいおい、礼儀のねぇガキだな。有名人だからって天狗か?」
「ハッ。程度の低い奴ほどよく喋るってホントだね」
「……兄貴の陰でぬくぬく育ってるガキは身の程ってもんを知らねぇようだな」
 男の空気がピリついた。見た目は厳つくても所詮は雑魚だ。さっきのサラリーマン以下。ヒプノシスマイクを出そうとバッグに手を突っ込んだ。その時、背後から騒がしい声が聞こえて肩を引かれ、一歩後ろによろめいたところに背広の背中が割り込んできた。
「あああああ、すいません!すいません!すいません!ここはわたくしの顔に免じてお許しいただけないでしょうか?!」
 許されるわけがない。
「許すわきゃねぇだろ!」
 ほらね。
「そこをどうか!こちらはまだ未成年ですので騒ぎになりますと……」
 頭を下げすぎてそのうち地面に這いつくばりそうな観音坂を退け、今度こそマイクのスイッチを入れて男の前に歩み出る。
「バカにしないでくれますか。こんなヤツ僕一人で十分ですから」
「ええ、いや、でも……」
 何と言われたって僕はビートに言葉を乗せることをやめなかった。男も大股で距離を詰めて僕の襟に手を伸ばし、掴み上げる。
『ガキなら楽勝 焼き入れ泣かそう とか妄想してお疲れ 浅はかさはあっぱれ 飛んで火にいるゴミ虫は無視 うるさきゃ踏み潰し て残せよ悔い』
 テンポの速いビートで畳みかけると殴りかかろうとした右手が宙で止まる。服をつかんだ手からも力が抜けた。手を叩き落とすと男は一、二歩ふらふら後退して膝から地面に崩れ落ちた。全身から力が抜けて無様に地面にへばりつく。
「やっぱ雑魚じゃん」
 立ち上がってこないのを見てマイクを切った。思ったよりあっけなく、慎重に近づいてみると地面に横顔をつけた口から泡が、鼻からは鼻血があふれ出してアスファルトの上で混ざり合っている。男の地面に散らばった前髪から顎髭までべっとり汚すほど広がって眉をしかめる。
「は?」
 こんなの見たことない。血の気が引いた。だって、バトルでやりあったどのMCもこんな風に倒れなかったし、意識を失ったりもしなかった。まさかこいつ、このまま死ぬんじゃないか。そんな、これっぽっちで死ぬわけない。大げさなんだ。
「おい、こんなとこで寝たら邪魔だろ。動けよ」
 焦って腕を蹴りつけてみるが反応がない。
「なんだよ、起きろよ!」
 しゃがみ込んで体を揺すって呼びかけ、それでもダメで後ろにいる観音坂を振り返った。バシッと音を立てて観音坂の掲げたビジネスバッグが叩き落される。
 背後からもう一人、多分地面で伸びている男の仲間が襲い掛かってきたところだった。振り上げられた拳を鞄で凌いだ観音坂は僕の腕を引いて走り出す。
「走って!」
 転びかけながらも走り出した。観音坂はすれ違いざまに僕の立てておいた自転車を倒してほんの少しの時間を稼ぎ、自分のヒプノシスマイクを構える。二つ折り携帯の形に変容したそれを耳に当てると後ろを振り向いて走るリズムに合わせてライムを刻む。
『不意打ちの襲撃 ツイてない終日 弱者が損するこの世界の真実 力振るえばひっくり返る ヒエラルキー駆け上るこのマイク』
 運動で僅かにフロウが乱れても追手の足を止めるには十分だった。相手の足がもつれたところで歌うのをやめ、観音坂が止まるのと一緒に僕も足を止めた。
 二人目の男もさっきの男みたいに動かなくなるんじゃないかと思って喉が変な音を立てた。
 身の安全が確保できると観音坂は深く息を吐き、道の上に座り込んで頭を抱える男の横を大回りで避けながら荷物を落とした場所まで戻った。自分のビジネスバッグを拾ってから横倒しになっている僕の自転車を起こし、どこも歪んでいないのを確かめてこっちまで押してきてくれる。
「すいません、自転車、ちょっと傷がついちゃったかも」
 サドルやハンドルの端を見ながらまた謝る。通り過ぎてきた後ろには人が二人も倒れ、蹲っているのに。おさがりのママチャリは元から傷だらけだ。自転車はいくらでも取り返しがつく。でも人間は壊してしまったらどうしようもない。襲ってきた側とはいえ人間が倒れているのに自転車の方を気にする大人も気味が悪い。
「……三郎くん?大丈夫ですか?」
 急に得体が知れなくなった大人から視線を外し、その向こうで無抵抗になった暴漢たちを見た。
「……あの人たち、どうなっちゃうの?」
 自分でやらかしたのにバカみたいだ。手が冷たい。酸素が足りない気がする。
「あっちの人、死ぬの?」
「大丈夫。大丈夫です」
 それまでずっと自信がなさそうにしていた男が急にはっきりと物を言った。そのことに驚いて顔を上げると、目の前にはやっぱり景気の悪そうな顔がある。
「息はしてますしこれぐらいなら多分……一応救急車呼びますから。それより三郎くんの方が……」
 そこで限界がきて僕もまたしゃがみ込んでしまった。腰に力が入らなくて、倒れないようにするのが精いっぱいだ。自転車を傍に立たせた観音坂が慌てて横にかがみこんでハンカチを差し出される。その手をハンカチごと掴むと冷たくて額の上に押し当てた。そうするとバッグを抱えてしゃがんだ観音坂がもう片方の手で背中を擦ってくれる。
「吐き気は?」
 手に額を擦り付けて首を振った。
「……お兄さんたちに連絡しますか?」
 これも首を振った。さっきより強く。兄たちにこんなところ見せられない。見せたら次のテリトリーバトルに連れて行ってもらえないかもしれない。これじゃ戦う覚悟ができてなかったみたいじゃないか。覚悟はあった。大人相手にダメージを受けても逃げようなんて思わなかった。だけど、自分より弱い相手をぶん殴ったのはこれが初めてだった。
 拳での喧嘩も次兄との兄弟喧嘩しか経験がない。ひっぱたいたって兄は辛そうにしない。ラップだって、ヒプノシスマイクを持ってからも同等か格上ばかりが相手だ。自分より体も大きく態度も大きな男がこんなにも耐性がないとは思わなかった。自覚がなかったとはいえ、僕は弱いヤツを手加減なしに殴り飛ばしてしまった。
 僕の背中が震えだすとハンカチが濡れていく。しばらく黙っていた観音坂はちょっと砕けた声音で話を変えた。
「君は、お兄さんたちと違って喧嘩とか争いごとに慣れてないんだな」
「…………そうだよ、わるいかよ」
 悔しくて、やっと声を絞り出すとまた謝り侍に戻る。
「ごめんなさい、そういうつもりじゃなくてですね……俺も先生にヒプノシスマイクを貰うまでは嫌な相手にやり返したりしたこともなくて。最初はたまたま先生と一緒の時にマイクを狙ったチンピラに絡まれて、やっぱり加減がわからなくて先生にフォローしてもらって……今は多少慣れたんだけど。俺たちの他の皆さんは慣れてる人ばっかりみたいだから不安な気持ち、多分わかる、と思います。すいません、偉そうに」
 ゆっくり話をする人だ。話を聞く間、努めて大きく深く息を吸って吐いてしていたら少し落ち着いてきた。
 ハンカチから顔を上げて、額と同じ温度になった手を放す。
「…………謝らなくていいです。……お世話になりました」
 涙をこぼした端からハンカチに吸わせていたから濡れていない目元を手の甲でひと擦りして立ち上がる。
「あ、一人で大丈夫ですか?イケブクロディビジョンまで、帰るんですよね?」
「大丈夫です。お仕事の途中お邪魔しました」
 これ以上迷惑をかけたくなくてきっぱりと告げ、頭を下げた。それから一つだけ頼む。
「……あの、今日のこと、うちの兄たちには黙っててもらえませんか?」
「ああ、もちろん。誰にも言いませんよ」
 顔色が悪いせいでずっと不安そうに見えていた表情が緩んで、作り笑いじゃなく微笑んだようだった。子供っぽいお願い事をしてしまったのがおかしかったんだろうか。
 もう一度頭を下げると男たちの様子を確認して自転車に跨った。走り出して一つ目の角を曲がる前に振り返る。救急車を呼んでいるのか、携帯を耳に当て男たちの方を見る後姿はやっぱりどこにでもいるパッとしないサラリーマンだった。

 仕事の合間に携帯のアプリゲームを開く。今日は土曜だ。緑とピンクのグラデーションになったバーをタップして操作メニューを開く。そこから普段はあまりチェックしていない侵略ログを開いた。
 数件前に緑の行があって見知ったユーザ名がある。それだけ確かめてホッと息を吐いた。当たり前だけど、平日に名前を見かけることはなかった。以前会ってから一週間後の今日はシンジュクまで来たようだ。さすがにシンジュクディビジョンも広いから夜になっても彼と会うことはなかったけど、時々目立つスポットで足跡を確認すると元気に陣地取りしているのがわかる。
 翌週も彼の名前を見つけた。シンジュクは緑陣営のユーザが多くピンク陣営がスポットを獲ることは難しいのに熱心なことだった。直前に彼がアクセスしたスポットを見つけると、その頑張りを塗りつぶすのが申し訳ない気がしてアクセスを躊躇ったけど、多分これを言ったら「そういうゲームだろ」と怒られるから遠慮なく緑のインクを注いでおく。

 次の週はテリトリーバトルだ。折しもシンジュク麻天狼の対戦相手はイケブクロディビジョンBusterBros!!!だった。少しのやり辛さを感じつつも会場入りする。
 相手チームの最年少、山田三郎はまだ中学生だ。兄たちに負けず劣らずの勝気な若者らしい人を食ったフロウで歳若いからといって油断する要素はまるでない。だけど三週間ほど前、ちょっとした出来事をきっかけに弱気な顔を見てしまった。伝説のチーム出身のヒプノシスマイク慣れした人々や喧嘩慣れしたヤンキーややくざや警察や、とにかく修羅場慣れした人々に囲まれてみんな平気なんだと思っていたけどヒプノシスマイクでのラップバトルは正気の沙汰じゃない。命や残りの人生がかかった危険な勝負だ。
 手にした武器の持つ力を思い知って怖がる子に、俺は自分も同じだというようなことを言ったけど、実は違う。俺には回復効果のあるラップを得意とするチームリーダーがついていてくれる。それは他人を殴り慣れていない人間にとっては途轍もないアドバンテージだ。
「大丈夫。私がついているから思い切りやってきなさい」
 そう言われると人を傷つけることを恐れて自分に嵌めた箍を外すことができる。先生の言葉は気休めなんかじゃない。
 三人で今日の健闘を誓ってステージに向かう。その途中、移動途中のイケブクロチームと鉢合わせた。過去にはチームメイトだった先生と山田一郎が先頭に立って言葉を交わす最後尾で緊張気味の彼を見つけた。ステージに上がる前に緊張するのなんか当たり前かもしれない。だけど、今日のバトルは彼にとって特別かもしれない。あの日からマイクを握っていなければ。
 仲間たちの様子をうかがいながら、さりげなく彼の隣に立った。すでに会場には大勢の女性たちが観客として着席している。MCたちの登場を待ちわびて。大音量のBGMと共にスクリーンにオープニングムービーが流れている頃だ。バックステージの通路でもすぐ近くにいなければ他人の会話の内容なんか聞こえない。
 数センチ差の彼に合わせて軽く背中を丸め、彼にだけ聞こえるように言った。
「あの、安心してください。ウチは君たちにやられたりしませんから」
 彼が驚いたように顔を上げる。やっぱりどこか不安の陰が見える気がした。
「ああ、すいませんっ!あの、これは君たちが弱いってことじゃなくて……ウチは先生もいますし」
「当たり前だろ!」
 自分の言い方が悪かったことに気が付いて言葉を足すと大きな目で下から睨まれた。もう一度謝ろうとした口元にピッと人差し指が突き付けられる。
「なんで謝るんですか?これはそういうバトルですよ」
 彼は笑った。小生意気な顔で。
「今日は僕たちが勝ちますから明日は心置きなくお休みしてくださいね」
「……はい」
 自信に満ちた隅っこに、ほんの少しだけあの日の尾を引いた少年の姿につい頷いてしまうといつの間にか引き返して傍にいた連れに背中を叩かれる。
「はい、じゃないだろ独歩くん!勝つのは僕らだよ?行こう!」
「うるせぇ!オッサンチームにゃ負けねーからな!三郎も行くぞオラ!」
 焼けつくようなスポットライトの下でそれぞれの命を賭けた戦いが始まる。ステージで向き合うと、正面に立った彼の殺意にも似たギラついた瞳とぶち当たる。
 そして俺は安心して自分の中にある安全装置を外す。