ヤバイヤバイ多分ヤバイって頭ン中で思ってる。地響きみたいな音をバックに暗い地下ホールを忙しない光が照らす。さっきハイテーブルの向こう側に立っていたおっぱいのデカい女はいつの間にか体が触れるほど近くにいて、警鐘とは別の意味でも心臓がバクバク言い始める。薄暗くてよく見えないがとにかくおっぱいがデカくて顔がかわいい。唇がつやつやしてる。好みってわけじゃないが横乳を押し付けられてノーはない。中坊の弟にまで馬鹿にされた男の純潔も今日が最後か。相思相愛のカノジョ相手が良かったな、なんて純朴ドリームをぼやく内なる俺も谷間を見て黙った。おっぱいがデカい。でもヤバイ。だっておかしいだろ絶対、
「ねえ、二人きりになれるとこ行こうよ」
知ってる。俺は会って数十分でそんな誘いをかけられるようなイイ男じゃない。
その男と出会ったのはイケブクロの端にあるゲーセンだった。定期巡回のつもりで立ち寄ったら場に似合わない小ぎれいな服装の男がいて、訝しんで声を掛けた。ここはウチの縄張り。揉め事の火種は火がつく前に見つけて片付けろってのが兄ちゃんの言いつけだ。現に男は浮いていてその店を根城にしている血の気の多い連中が目を光らせていた。馴染みの店員に聞いても知らないと言う。相手は自分より十歳近く上に見えた。それでも俺はビビったりしない。何より他の連中がカツアゲ紛いの絡み方をして暴力沙汰になるのを牽制する必要があった。
交渉はスマートに。兄ちゃんならちゃんと相手の事情を聞いて上手くとりなす。
「何か探してんすか?」
男は一瞬だけこちらを値踏みする目で見たような気がしたが、すぐに眉尻を下げて答えた。
「人を…弟を探してたんだ。家出して、この辺で見かけたって人がいたから来てみたんだけど…」
「弟探し?」
「そう、君くらいの年頃で…知り合いに情報をもらってやってきたんだけどここにはいないみたいだ」
「ふぅん……それ、俺に任してくださいよ!」
親指で自分の胸を突く。なんてったってウチは萬屋家業。人探しは得意分野だ。それに自分で見つけてきた依頼をやり遂げたら尊敬する兄に認められるかもしれない。意気揚々、仕事にとりかかった。
弟探しは二日であっけなく解決した。男に提供させた写真を元に目撃情報を集めたら二日後に漫画喫茶にいると教えられ、依頼主の男を連れて待ち伏せたらビンゴ。弟は大人しく兄に連れられて帰って行った。
それから数日後、お礼がしたいと誘われた。普段いけないようなちょっといい店。話しやすい年上。あまり周りにいなかったタイプの男に気に入られて悪い気はせず、すぐに親しくなった。そして遊びに誘われホイホイ来たのがこの店。見るからに未成年お断りのクラブバーだ。身分証を確認する係員は男の知り合いらしく連れの俺も黙って通された。雑踏のような客たちの隙間をアップテンポの音楽が埋める。酒とたばこと香水が混じった独特のにおいが漂うホールを抜けて端の方に設えられたテーブルに落ち着くとドリンクに酒を勧められた。ウチの兄ちゃんだったら飲みたがっても許さない。この男にとって自分は弟じゃなく友人だからだろうか。不良のレッテルを進んで引き受けて生きている身の上でも少しずつ違和感を覚えていた。男は俺から見たら頭のいい大人の着る服を着て、髪を整えて、真っ当な大人みたいに優しくしゃべる。そんなまともそうな人間が未成年相手とわかっていてこんな店に連れてくるんだろうか。
BGMが頭の奥に響く。浮かれてた。多分これはヤバい状況だ。喧嘩になったら負けるつもりはないが苦労するだろう。騒ぎを起こせば兄に迷惑が及ぶかもしれない。なるべく穏便に、さっさと抜け出すべきだ。脱出したらもう関わらなきゃいい。さっさと帰るんだ。そう、適当に理由をつけて…
と思っていたら女が来た。おっぱいがデカい。史上最強最高最上級の兄みたいにスマートに流して興味なさげに帰りたくても俺は女の子のおっぱいを揉んだこともない男子高生である。男にはラップがあるが女にはおっぱいがある。童貞だからこの誘惑に期待してしまうのだろうか。やっぱり仲間に乱パに誘われた時カッコつけて断らなきゃ良かったのか?そんなことはない、それとこれは別の話だ。それにしたっていいにおいがする。返答に困っている間にむき出しの細い腕がするりと腰に回って腰骨から下を撫でられる。腕に当たるおっぱいの弾力がすごい。
「ダメ?二郎くんともっとゆっくりお話ししたいんだけど…」
「う………いや、えっと…………」
「………もしかして、あたしあんまり好みじゃなかった?」
「えっ、違う違う、そんなんじゃないんだけどっ」
「そう?……でも急に言われても困るよね?そんな変な意味じゃなくって、ここうるさいからゆっくりできるとこ行きたいなって思うんだけど、嫌?」
爪のラメが愛用のジャンパーの袖のあたりで光を反射している。追い立てるようなリズムでスピーカーが空気を揺らす。頭の中で暗い空間に明滅するピンクや青の光が渦を巻く。もうどうしようもなく情けない気分だ。
「……ごめん。俺、帰んないと……もう行くから」
なるべく優しく告げて袖をつかむ指を外そうとすると手首をつかむ前にあっさり解放された。伏せられた女の重そうな睫毛が上がった時、もうそこに可愛い女の表情はなかった。興醒めってデカデカ書いてある。だよな、ハニートラップて奴。納得するのとほぼ同時に背後にガタイのいい男が現れた。ここに連れてきたのとは別の男だった。
やっぱりそういうこと。騒ぎは起こしたくないな。分かっている出口は一ヵ所だけ。マイクはある。この男一人ぐらい余裕だけど他にも仲間がいるのか、そもそも店ぐるみとなるとさすがにキツイ。店内はまだトラブルの空気に気づかず思い思いに時間を過ごしている。どうする?兄ちゃんならどうする。ここはヨコハマの外れ。よその縄張りでやらかすのはまずい。それ以前に本当に一人で切り抜けられるのか………?
不穏な空気を察したのか元々グルなのか、近くにいた別の客の目がこちらを向く。山のような男の陰からなるべく周囲の状況を把握しようと努めたが冷静とは言い難かった。腰に隠していたマイクを握りしめ、細く深く不味い空気を吸い込む。
やるしかない、やれ。
唯一無二の武器であるヒプノシスマイクをベルトから抜こうとした瞬間、騒がしい空間を切り開いて研がれた刃みたいな声が目の前の男を刺した。
「探したぜぇ、蛆虫野郎が。ウチのシマ荒らしてんのはテメェだな?」
大男の背後に眼光鋭いガラの悪い男が立っていた。片腕を捻り上げているらしい。大男は表情を歪めたまま動かない。現れた男が真っ直ぐに俺を見る。思わず肩に力が入った。今さっきまで蒸し暑いくらいだったのに一瞬で肝が冷える。相手の名前を俺は知っている。
「碧棺、左馬刻か……」
名前を呼ばれて左馬刻が嫌そうに鼻を鳴らした。同時に腕を締め付けたらしく大男の顔面が険しさを増す。
目の前の壁だった大男はもう無力化している。だけど、左馬刻の横をすり抜けて行くことの方がよっぽど困難に思えた。言葉は大男に向けながら視線はずっと俺を刺し貫いてる。怒ってる。兄以外の人間に圧倒されてるなんて認めたくない。それでも動けない。背後でマイクを抜こうとしていた指から力が抜けてそのことに愕然とした。今の実力でぶち当たったら勝てる気がしない。誰にも負けないと心に誓ったって兄には勝てると思わないのと一緒で、この人は強い。
「最近頭の悪そうなガキ使って商売してる奴がいるとは聞いてたが、確かに脳みその足りてなさそうなカモじゃねーか」
「なんだと?!」
「痛い目みてぇなら後で構ってやるから大人しくしてな」
ふざけた口調でも目は笑ってない。
睨み合う間にフロアがにわかに騒がしくなった。入口の方から最短距離で人影がやってくる。すらりとした長身に沿ったスーツ姿がモデルのような男だった。アンダーリムの眼鏡と身に着けた手袋が神経質そうだが真面目とは形容しがたい。左馬刻に気安く話しかけ、その場で大男の腕に手錠をかけた。警察手帳を出すこともしない。自分が狩猟者の立場であることに対する絶対的な自信に満ちた目で獲物を見つめるその目はどん底に嫌悪しているような、そのくせ喜んでいるような気色悪い光がある。この男も知っている。入間銃兎――左馬刻の仲間であり現職警官だ。
「おい左馬刻。他にも女がいたはずだろ」
「さぁな」
「まさか見逃したのか?」
「うるっせぇな。てめぇが来ンのが遅いせいだろ」
言われて振り返ると後ろにいたはずの巨乳がいなくなっていた。未だ騒がしいフロアでも聞こえるほどの鮮やかさで銃兎が舌打ちする。
「他の連中は」
「入口張ってる。それより、コイツは山田一郎の……」
「“新鮮な”カモだ。てめぇはこのカス野郎連れてけ」
まだもの言いたげな銃兎に大男を押し付けるとその尻を長い足で踏みつけて歩かせる。そのやり取りの間だけ離れた視線が戻ってくると再び真正面から目の真ん中に飛び込んできて頭の後ろまでひと突きにするような強さで、そのまま間近まで詰め寄られた。物理的な近さに後ずさるとハイテーブルにぶつかった。咄嗟にマイクに手を伸ばしたら目の前の端正なやくざ顔が面倒くさそうに歪む。体がぶつかりそうに近くまできて足を止めた左馬刻の手が腰に巻いたシャツの下に滑り込む。ジーンズの尻に指が触れ、手探りでポケットに潜り込んで息が止まった。近すぎて呼吸したら精緻な造りの顎に呼気がかかりそうでよくわからない緊張感がある。一瞬尻を触った手が引き返して左右のポケットを探り、それからスカジャンのポケットに入って何かをつまみ出した。見覚えのない包みのキャンディーだった。
「なに……」
「クスリ決まってんだろ。女についてったら直接一服盛られて舌も満足に回らなくなってたかもな」
「なんで……」
「あ?ンっとに頭悪ぃのかよ。薬漬けにして薬売らせるために決まってんだろ。薬なしじゃいられねぇカラダにしてやったら顔ばっか広いガキが思いのままだぜ?」
汚そうに摘まんだキャンディーを鼻先につきつけられて仰け反った拍子にテーブルがガタンと音を立てた。匂いもないシンプルなキャンディーが途轍もなく不気味に見える。目の前でぱっと手の中に隠して体が離れる。思わず大きく胸を喘がせた。フラッグチェックの床に視線を落として苦しい胸元の服を握り締めた。ちっとも想像しなかったわけじゃないが自分の腕には自信があったしホームグラウンドのイケブクロで山田一郎の弟に薬物なんか売りつける度胸のあるヤツはいない。実際、いざとなれば自力でも逃げ出せたのかもしれない。それでも今、怖いって思っている。キャップのつば先をぐっと引き下げた。左馬刻の靴の先だけが見える。
踵を軸につま先が横を向いた。
「てめぇのクソ兄貴は何してやがる。クソガキのお守りも満足にできねぇクセに」
「兄ちゃんは悪くねぇよ!」
勢いで顔を上げて面白くなさそうな顔にぶち当たった。怯む膝を叱咤して睨み返す。
「兄ちゃんは関係ねぇ。俺が、俺が黙ってバカやっただけだから……兄ちゃんのこと悪く言うのはやめてくれ……ください」
喋る途中で相手が仮にも恩人ということを思い出して勢いを失った。ついでに一応目上であることも思い出して敬語を足す。誰であろうと兄をバカにしたら許さないのに今だけは拳を固めることしかできない。全部自分が悪い。俺がバカだと兄ちゃんが悪く言われる。兄ちゃんが貶されるなら自分がぶちのめされた方が百億倍マシだけど、左馬刻はそれ以上言うことも殴ることもしなかった。
警察の車に乗せられた時点で逮捕されたような気持ちになる。補導されたら保護者に連絡がいって、多分うちの場合は兄が身元引受に来るだろう。最悪だ。せめて弟の方に来てほしい。いや来てほしくない。何を言われるかわかったもんじゃないし三郎が来たら兄ちゃんに黙っていてくれるわけがない。ただ小競り合いに巻き込まれて補導されたならいいが、今回の事情を説明するのは嫌だ。失敗の罰にしたって死ぬほど重い罰だ。
他の警官に後始末を任せてきたらしい銃兎が戻ってくると左馬刻が車を回すよう指示してパトカーではないセダンの後部シートに押し込まれた。左馬刻は助手席でふんぞり返って貰い煙草を吹かしている。なんだかんだ文句を言いながらも銃兎は問題のキャンディを預かり首都高を走る。そのまま最寄りの警察署行きかと覚悟を決めていると車は神奈川を抜けて都内に入った。車内で口の悪い刑事に今回の経緯や出会った男の詳細、女の容姿を細かく尋ねられたが、左馬刻と話す内容からしても警察署には向かっていない。
「本当にコイツはやってねぇんだな?」
「ああ、調べたがさっきの飴玉仕込まれたことも気づいてなかった」
「携帯の履歴もつい最近知り合ったばっかりだったしな……」
信号の待ち時間に運転席から助手席を一瞥する。美味くもなさそうに煙草を咥えた男は煙を吐くばかりだ。苦労が滲み出るような溜息の後、銃兎が面倒くさそうに吐き捨てる。
「じゃあもういいですよ。また何か連中から接触があったり思い出したことがあればすぐ俺に知らせるのが条件でね」
「あ、あざっす……」
「左馬刻、コイツの携帯に俺のアドレス入れといてくれ」
「めんどくせぇ」
「タバコ代だ!」
渋々携帯を弄った後でポイッと投げて返される。念のため中身を確認してみたが、兄とのメールや兄の写真や兄のメモリ設定に悪戯はされていなくてホッとした。
「………で、どこに行くんすか……?」
景色は徐々に見慣れた街並みに近づいてくる。不安げに尋ねたのに小さく笑った運転手はそれから少し行ったところで路肩に車を寄せた。イケブクロだった。
「今日の運賃はまけといてやりますよ。今度は気をつけて」
「すんません、世話になりました」
運転席に向かって丁寧に頭を下げてから助手席にも。結局一言も礼をしていない。非礼を咎められることもなかったが助けられたら礼を伝えるのが筋ってものだ。兄ちゃんならきっとそう言う。素直に感謝しきれない気持ちを抱えて左馬刻に向き合おうとした。ところが左馬刻は窓の外を強く見つめていた。その視線を追うと、一郎兄ちゃんが数メートル先でこちらを見ていた。違う、こちらじゃない。俺じゃない、左馬刻を見ている。どうにも堪らず左馬刻へ礼を言うことも忘れて車を飛び出した。
「二郎、何でアイツらの車に乗ってたんだ」
俺に訊いたようでいて目は車に残っている左馬刻へ向かっている。
「えっと、これはその……」
しどろもどろでハザードランプを灯したままの車を振り返ったらちょうど左馬刻と目が合った。難しい顔をしているが店で会った時のような厳しさは抜けている。そんな見つめ合いもすぐに逸らされた。咥えた煙草を指でつまんで煙を吐くと、
「迷子を届けてやっただけだ。犬は庭に繋いどけバカ」
それだけ告げて足元を蹴る。銃兎が文句を言ってもシカトだ。もう誰のことも、兄のことも俺の方も見なかった。愛想のないリーダーに代わって形ばかり丁寧に「それじゃあこれで」と話を打ち切った銃兎に兄が先に頭を下げた。慌てて俺も下げる。車はすぐに走り出して見えなくなった。
「……ごめんなさい、兄ちゃん」
長いこと車の走り去った角を見ていた兄に言うと、兄は少し黙ってからキャップを奪って長めの髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。分けた前髪が乱れて顔にかかる。
「兄ちゃん?」
「知らない場所に行くときは気を付けろよ?困ったらどこだって迎え行くからな」
「……うん、ごめん」
今まで兄ちゃんに隠し事なんてなかったから、打ち明ける勇気がないことが恥ずかしくて悔しくて、生まれて初めて大好きな兄ちゃんの顔が見られなかった。何より、碧棺左馬刻に感謝していることが後ろめたかった。
「え~~~~、迷子ぉ?二郎って今年五歳でしたっけ?しかもお巡りさんに送ってもらうなんてありえない。幼稚園からやり直した方がいいと思うんですけどイチ兄もそう思いますよね?ね?迷子は番犬じゃなくて犬のおまわりさんを困らせる子猫ちゃんだろぉ二郎?迷子の二郎ちゃんは萬屋の手伝いじゃなくてその辺の猫カフェでバイトしてた方がいいんじゃないの?子猫ちゃん!」
「三郎、兄貴は敬えって言ってるだろうが」
弟が水を得た魚のように滑らかにまくし立てる弟に奥歯を噛み締める。歯が砕けそうだ。マウスピースが欲しい。今回ばかりは言い返せない俺に代わって兄ちゃんが窘めてくれたが、それから二ヶ月にわたって蒸し返され続けたのである。