床にしゃがみ込んで白い指に絆創膏を貼るとみるみるうちに血で染まる。舌打ちして一度はがし、貼り直して手首をつかむと怪我した手を肩の上まであげさせた。その間も妹はずっと俯いて華奢な肩を震わせていたが、下から見上げた時に髪で隠された表情を見てしまった。
「私もお兄ちゃんにご飯作ってあげたかったんだもん」
キッチンの作業台にはまだ切りかけた芋が転がっている。それをやめろなんて言えるわけがない。
車を降りてからコンビニに寄って財布を忘れたことに気がついた。舌打ちして組の人間を呼ぶため携帯を取り出すと、スリープ状態を解除した途端にバッテリー切れの表示と共に電源が切れる。危うく真っ暗な携帯を地面に叩きつけそうになった。組の事務所まで送らせる予定だった銃兎が仕事上の急な呼び出しを受け、シンジュクで降ろされた。後は自力で帰れだとか面倒なことを言われたが、電話一本で迎えを呼べると思って素直に降りたらこれだ。無理にでもヨコハマまで送らせればよかった。
ここから一番近くて確実に居場所の分かる知り合いというとシンジュクディビジョンの病院に勤務している医師か。あまり迷惑はかけたくないが快く手を貸してくれる人だ。歩いて向かうにはかなり距離があってかったるいが仕方ない。今日は暑いほど天気が良かった。ガキの頃は天気がいいと外で遊べるから喜んだもんだが今となっては眩しく差す日差しが憎い。煙草を探してポケットを漁ったが空箱が出てきただけだった。握り潰してぶん投げると風に流され、近くのバイクショップの軒先にいたガキの頭にぶち当たる。弾みもせず落ちたものを拾ってガキが振り返った。どこかで見たことあるツラだ。甘ったれたタレ目が文句ありげにこちらを向いて、顔を見た瞬間に目を丸くした。
イケブクロディビジョンのガキだ。この世で一番気に食わないクソ野郎の金魚のフン。何か言いたげな表情をしたが店の奥から出てきた店員に呼ばれて顔を逸らされた。癇に障ったがすぐに考え直した。貧乏くさいガキでもタクシー代ぐらい持ってるだろう。一丁前にバイク屋の客をしているぐらいだ。修理か購入か、ピカピカの青いレプリカの脇に立つ山田二郎に歩み寄った。
「よお、一郎ンとこのガキ」
さっき一度目が合ったくせにこっちが無視して通過すると思ったのか、声をかけると肩を揺らして驚いた。おそるおそる振り返る、そのグズグズした行動が気に入らない。一郎ならそんな振る舞いしないだろう。兄貴の猿真似ばっかりしていたってコイツは本人が望むほど兄貴に似ていない。
顔を向けた二郎は気まずそうな表情を浮かべていた。
「左馬刻、さん…」
なんでこんなところで会ってしまうのか。俺のヘルメットを持って来てくれた友人が相手の顔を見て小さく悲鳴をあげた。そちらに軽く「大丈夫だから引っ込んでな」の意味で手を振るとバイクを押して店の敷地から出る。友人の家がやっている店に迷惑はかけられない。
わざわざ声までかけてくるぐらいだ。何か用事か、機嫌が悪くて喧嘩を売りに来たのか。見当はつかないが腕にさげているリュックサックにちらりと目をやる。ヒプノシスマイクが入ってる。いざとなったらマイクを出さなければならない。
身構えるこちらとは対称的に左馬刻は気負いない歩みで近くまで来るとポケットに手を突っ込んだまま言った。
「ちょっと金貸してくれや」
「カツアゲかよ」
「うっせぇな。ヨコハマまでのタクシー代ぐらいテメェでも持ってんだろ」
自分はそれしきの金を持ってないくせにどこまでも偉そうだ。
「迎えでも呼べよ」
「携帯が充電切れてんだよ」
「……じゃあ十円やるから公衆電話で」
「他人の番号なんぞ覚えてるわけねぇだろ」
「なんでアンタそんな偉そうなんだよ!」
短い我慢も虚しくつい叫んでしまった。いよいよ喧嘩になるか、と思ったが、それは言われ慣れているのか「さっさと金出せ」と面倒くさそうに言われたきりだ。脱力して渋々ハンドルから手を離し、リュックのジッパーに指を掛けた。
その瞬間、歩道を突っ切って見知らぬフルフェイスのバイクが二人の間スレスレを駆け抜ける。通り過ぎ様に引っ張られてバイクごと倒れかけるのを伸びて来た腕が胸ぐらを掴んで支えた。
「なんだあのクソ」
血の気が引く。ヤベェ。
「……カバン取られた」
「ハァ?」
引ったくりざまにリュックの肩紐が擦れた手首が赤くなっている。
「財布もマイクもあン中だ」
財布はもちろんヒプノシスマイクは貴重品だ。薄い財布よりマイクの方が価値がある。焦りで鈍る頭を叩き起こすように鋭い舌打ちと脛蹴りが見舞う。
「ふざけんな。チンタラしてねぇですぐ追え!」
「お、おう!」
そうだ、バイクがあるんだからすぐ追えば捕まえられる。慌てて愛車に跨り抱えていたヘルメットを装着しているとタンデムシートに重みがかかって車体が揺れる。
「なんでアンタまで乗ってんだよ!?」
「さっさと出ろよウスノロ。ガタガタ言ってる間に逃げられるぞ」
「クッソ!」
また長い足ですねを蹴られた。馬じゃねーんだぞ、と叫びながらバイクチェイスのスタートを切る。男二人分の体重にもめげず唸るエンジン。メンテナンス明けで調子はいい。疎らに走る車の間を縫って車が途切れたところで加速し、ついに敵の尻を捉えた。よし、と思う背後で風の音に紛れて聞き慣れたヒプノシスマイクの起動音がする。
「ちょ、アンタここでマイク使う気かよ?!」
「たりめーだろ。何のためについて来てやったと思ってんだ?足止めてやんよ」
「足止めるどころか死ぬって!」
「知るかよ。俺様の財布をパクるのが悪い」
「俺の財布だよ!!」
話にならない。こういう男だ。
徐々に追い詰まってくると一定の距離を保つ。マイクの射程距離ギリギリのところで。
「おいテメェ、ふざけてっとテメェもヤッちまうぞ?」
「うっせ二人乗ってるから重いんだよ!」
この距離でも声が届きそうだが左馬刻はヒプノシスマイクを握ったまま敵を見据えて距離を測っている。
敵が角を曲がると人通りの少ない広い公園に面した直線道路に出た。緑を押さえつけるように鉄柵が張られている。その先には柵が途切れ生垣が剥き出しになる部分がある。一気に加速して距離を詰める。それを狙いすまして左馬刻が身を乗り出した。
『鉄クズ駆って逃げられるか三下 テメェのアシより速ぇぞ俺の舌 奪ったつもりで奪われるテメェの命 相手が悪いぜ俺様サマトキ 怯えてクラッシュすりゃ楽になれるぜこの時』
指向性を持った音が狙った獲物に言葉の礫をぶち当てる。左馬刻の攻撃的なラップはまさに弾丸となって敵を撃ち抜く。並の人間じゃひとたまりもない。
左馬刻が一呼吸入れる間に前方の車体が揺らいで緩いカーブを曲がり切れずに生垣に突っ込んだ。青々としたツツジがバキバキ音を立てて人の幅だけ窪む。
減速して少し通り過ぎたところへバイクを停めた。先に降りた左馬刻は泥棒なんか目もくれずに一緒に吹っ飛ばされた荷物を拾い上げた。中を漁ってマイクを取り出すとスイッチを入れ動くことを確かめる。そんな姿を捉えながら生垣の中の犯人に駆け寄り、ヘルメットの中の呼吸を確かめる。死んではいないようだ。良かった。
「おらよ。マイクは壊れちゃいねぇ」
投げ渡されたリュックにはまだ財布が入っていた。もちろんマイクも。そのことだけ確かめ、両足に力を込めて顔を上げる。
「アンタさ、アイツが死んでたらどうする気だったんだよ」
その一言で男の目が氷点下まで冷え込んだ。低い刺すような声が返る。
「どうもしねぇっつってんだろ。偽善者の劣化コピーのクセしてつべこべ言ってんじゃねぇぞ?気にいらねぇならここでそのマイク使って白黒つけてやるか?」
「兄ちゃんのこと悪く言うのやめろっつってんだろ!こんなとこでマイクも使わねぇ」
「テメェは兄貴の言うなら何でも正しいとでも思ってんのか?自分の脳みそがねぇ奴はその方が楽だもんなぁ?」
一歩、また一歩。左馬刻が距離を詰めてくる。引ったくり犯だろうと死んでいいわけがないだろう。そんなことがこの男には通じない。
数センチの身長差でも僅かに見上げるほど近くに来たところで左馬刻が足を止めた。詰め寄られるのは初めてじゃなかった。荒々しい光を放つ目が遠慮もなく見つめてくる。きれいな顔の作りに反して血なまぐさい世界に生きる人間らしい暗がりが潜んだ目だ。昔、一番荒れていた頃の兄も暗い目をしていたことがあった。何かを掛け違えたら兄もそうなっていたのだろうか。思わず抱えた荷物を握り締める。
「フンッ。テメェと話すことなんざもうねぇ。さっさと金出しな」
ほんの数秒の睨み合いは脛を蹴られて終わった。別に怖かったわけじゃないが以前助けられた恩もある。黙ってサイフを開いた。
「……シケてんな」
「うるっせんだよ!さっき店で修理代払って来たばっかだからしょうがねーだろ!?」
海沿いを走るとカモメが飛んでいくのが見える。イケブクロじゃカラスとスズメばっかりだ。今日は風も強くなくてツーリング日和。なのにタンデムシートに座っているのは文句の多いヤクザだ。走り出してしばらくは座り心地が良くないとかスピードが遅いとか言っていた。
財布に金はないがタンクにガソリンはあった。ハマのリーダーと馴れ合っているところを人に見られたくないから知り合いに会わないよう遠回りしたせいで無駄に長いツーリングになった。密室になる車じゃなくバイクでまだ良かった。
指示されて到着したのは雑居ビルの前だ。住居には見えないから組の事務所なんだろう。
降りてさっさと建物に向かっていく左馬刻をバイクの上から声で追う。
「おい、これでこの間の借りは返したかンな!」
面倒くさそうに振り向いたヤクザは「ハァ?」と剣呑な声を出して
「荷物取り返してやったのと運転が下手くそでケツが痛ぇので貸し二つだろうが」
「頼んでねぇし下手くそでもねぇし!」
「吠えるんじゃねぇよクソ犬。携帯の電源入ってねぇと上に文句言われっからテメェに構ってる暇はねぇ。さっさと帰って恩の返し方でも勉強してな」
今度こそ振り返らずに薄暗いビルの中へ入っていく。ガラス張りの入り口ドアが閉まると陽のあたる路上からは中がよく見えなかった。左馬刻の白いシャツは暗い中でも目で追えていたのに、すぐに影に紛れて消えた。