29歳と19歳/いちひふ/3329

 シンジュク歌舞伎町の夜。一二三のもとから帰っていく客は大抵、幸福に名残惜しさが差し込んだ顔で儚げに笑って一時の別れを告げる。今宵も常連客と一緒に店の前まで出た一二三は何千万回と見た表情に対し、同じように憂いを滲ませた笑顔で応えて見送った。ピークタイムの人混みを帰っていく彼女の姿が見えなくなったらまた別の女性とのひとときが待っている。歌舞伎町では男も女も、そんな時間制の恋を繰り返し演じるのだ。
 店内ではすでに一二三を指名する客が待っている。すぐに戻ろうとした。そんな時に品のない酔っぱらいの罵声が聞こえてきて、ついつい目を向けてしまう。よくあるいざこざだろうが、絡まれているのが女性なら助けに入らねばならない。スーツを身にまとった一二三にとってそれは本能的な当たり前の行動だけれど、そうして困っているところを助けたのがきっかけで一二三の客となった女性もいるのだからこれも一種の営業活動だ。
 声のする方向に少し歩いて騒ぎの中心を覗く。いたのは女性じゃなかった。この時間の街には不釣り合いなやんちゃな格好をした青年がパッとしないスーツ姿の男と睨み合っている。
「オイ、こないだのバトルみたぜぇ。ガキが調子こきやがってボロ負けだったじゃねぇかぁ」
 言われても黙り込んで剣呑な視線だけで応えている青年には見覚えがある。彼なら殴り合いでも負けることはなさそうだが、こんな男を相手にしても得はないと分かっているんだろう。
 完全に出来上がったいる性質の悪い酔っぱらいは相手の眼光の鋭さも理解せず、自分より年若い相手が言い返さないのを自分の優勢と勘違いして言葉を重ねた。
「図星突かれてなんも言えねぇか?自分がブクロ最強だとか言われて余裕ぶってよぉ、負けてもまだガキだから仕方ないでちゅねーって恩情かけてもらってんだろぉ?え?セコく小せぇ弟仲間にして、ママがいなくてカワイソーって中王区の女に媚び売って……」
 半端に言葉が途切れる。一郎が胸ぐらを掴みあげた際に揺さぶられたからだ。男は言っちゃならないことを言った。
「オイ、勝敗の事実も俺の話も勝手に吹いてりゃいいが、ウチの弟のことバカにしやがったら承知しねぇぞ」
 突然怒りだした一郎に一瞬怯んだ酔っぱらいだったが、すぐに一郎のパーカーの襟ぐりを掴み返す。
「何しやがんだテメェ!」
 いつの間にか二人の周りは川の中にできた中洲のようにぽっかり空いて、暇な通行人は足を止めてまで成り行きを観戦していた。他所のディビジョンの有名人の喧嘩とくればちょっとした見世物だ。一郎の目の色が変わってからは本当に一触即発の空気が流れていた。
 その人混みをかき分けて二人のすぐそばまで歩み寄ると、一二三は端正な顔に見合った丁寧な仕草で一郎の肩に手を置いた。
「待たせてゴメンね、一郎くん」
 二人の視線が一斉に一二三に向く。二人だけじゃない。見物客の目も突然割って入った歌舞伎町の大物に集まった。
 一郎が振り向いたので、肩に置いた手を一郎の服を掴む酔っぱらいの手の上に移動してやんわり退かせる。
「取り込み中に申し訳ないが、彼に用事があるんだ。解放してくれるかな?」
 お願いの形をとっているが、ノーを言わせない目で酔っぱらいの目を見つめて口元だけで微笑んだ。どんな有名人だろうと所詮はよそ者のガキと思って喧嘩を売っていた男も歌舞伎町の住人である。そして、ここは歌舞伎町ナンバーワンホストである伊弉冉一二三の庭だった。実力も、金も、人望も、容姿も、何一つ敵わない相手の登場で酔いも醒める。促されるままに一郎から手を放した男は小声で何か捨て台詞だか言い訳だか呟きながら、そそくさと背中を向けて去って行った。
 揉め事が収まると、今度は観衆に笑顔を向ける。
「皆さん、お騒がせしてすみません。こちらは気にせず良い夜をお過ごしください」
 そうすると立ち止まっていた人々はバラバラに歩き出し、辺りは何事もなかったような夜の風景に戻った。収拾がついたな、と思って一二三が一郎を振り返る。その途端に勢いよく、深く頭を下げられた。
「すんません!ご迷惑をおかけして……助かりました」
 「いいよ、大丈夫だよ」と軽く返しても一郎はなかなか顔を上げない。だから一二三は彼の後頭部に手を乗せ宥めるように撫でる。それでやっと控えめに一郎が顔を上げた。まだきまりの悪い表情だ。
「そんなに気にすることないさ。ここじゃよくあることだよ」
 嘘はない。たまたま一郎の顔が売れていたから目立ってしまっただけだ。無名な人間同士なら見物客だっていなかったろう。だけど一郎は首を振った。
「……弟のこと言われたらカッとなっちまって、ひと様のシマだってことも頭から抜けちまって……」
 自分の縄張りでやり合うのと他所でやらかすのじゃ話が違う。その上、一郎はイケブクロディビジョン代表のリーダーだ。今しがた見世物になってしまったように人の目も集まる。軽率な行動には気をつけねばならない。昔のチームで名が売れ始めた頃から、つまらない喧嘩を買ってしまうと周囲の大人にそう諭されてきた。いまでは随分と辛抱強くなったつもりだが、我慢ならないこともある。今この場で一二三が苦言を呈すのならば我が身を省みて詫びる以外になかった。
 だけど一二三はちょっと困った顔をして、一郎の覚悟とは真逆のことを言った。
「君が怒るのも当然だったんだからいいんだよ」
 仕事のために整えられた明るい色の髪にネオンサインが映ってピンクや黄色に染まる。だけどその白い面差しは落ち着いていて、一郎の記憶にあるオフモードの賑やかな一二三とも違った二十九歳の大人に見えた。目を細めて年相応の静かな笑みで、まだ十九の一郎を許す。
「僕は君の弟くんたちのことを深く知らないから冷静でいただけさ。別の大切な人が悪く言われたら僕だって怒る。誰だってそうだろう?」
 そうだ、と一郎は頷くことができない。大人は大抵、子供の無鉄砲さを窘めるばっかりだ。「若いから我慢ができない」「怒りは飲み込んで上手くやれ、それが大人だ」と。決して優等生ではなかった一郎はそういう言葉を沢山かけられてきたし、喧嘩ばかりしていてもダメだと理解して怒りをコントロールできるようになった。もっと子供の頃は今よりもたくさんのことに拘りがあって、それら一つも諦めちゃいけない、諦めないのが中身のある人間で諦めのいい人間は薄っぺらいとさえ思っていたのに。
 大人の分別ってヤツを身に着けると喧嘩に明け暮れていた頃より確かに生きやすくなった。バカにされても相手にせず、大切なものは自分の中で大事にしていればそれでいい。そう思うようになったのに未だに弟のことになると我慢を貫けない。大人はそれだって「まだお前が未熟な証拠だ」と言うんだろう。一郎の内側に蓄積された無責任で偉そうな大人たちの声は何か起きるごとにそう非難してくる。そんな呪いのような声を聞き続けているうち、歳を重ねたらまた考えが変わって、大事な弟たちのことをバカにされても黙って我慢してしまうようになるんだろうか。それはなんだか嫌だ。
 自分の内側に渦巻く葛藤の答えを求めるようにして問い返す。
「…………そう、なんでしょうか」
「そうさ。まあ、先生くらい落ち着いた人になるとわからないけどね?」
 茶化しながらも一二三はもう一度、自分より背の高い男の子の頭を撫でた。テリトリーバトルの場では堂々としていて、未成年と思えない程落ち着いている彼が今はどこか頼りなくてそうしたくなる。バカにするつもりはないからほんの少しだけ。
「大丈夫だよ」
 やっと表情が和らいで、改めて一郎は礼を言う。そのタイミングでなかなか戻らない一二三を呼び戻しに店のスタッフが追いかけてきた。もう戻らなきゃならない。
「それじゃあまたね、おやすみ!」
 一二三の夜はまだまだこれからだが、未成年の一郎は仕事で寄っただけだ。片手を挙げる一二三に一郎は会釈で返した。スーツで武装した一二三は沢山の女性に愛される完璧な男の顔で店の中に消えていった。見送る一郎はといえば、どこか名残惜しさの差し込んだ顔でそれを見つめ、光を映す髪の端も見えなくなると弟たちの待つ家に向かって歌舞伎町を後にした。