シックな色調の室内は入浴設備とベッドだけでなくソファやインテリアなんかも凝っていた。
ソープランドと聞いて想像したよりも遥かに高級感があって、だけど浴室スペースとベッドルームとの隔たりが低かった。壁はファミレスの席の仕切り程度の高さしかない。ましてやドアなんてものはなかった。さすがに風呂からベッドへの導線重視だ。
それでも風呂と部屋の間が天井まである壁で間仕切られていたら普通のホテルでも通用しそうな個室だった。
待合室から女の子の待機するカーテンの向こうに押し込まれて、待っていた女の子のブラウスのボタンがはち切れそうなおっぱいが腕に当たった時はおっぱいのことで頭がいっぱいになったもんだが。恋人繋ぎで寄り添って連れてこられた個室の初めて見る景色への関心でおっぱいが少し薄まった。部屋までの短い移動時間で多少なりともおっぱいに慣れたのかもしれない。
物珍しく見回しているとまめまめしく靴や上着の片付けをしていた女の子が手を引いた。まずはソファに誘導され、隣にぴったりくっついて座ってまたおっぱいが当たる。
今回予約した子は胸が大きいとは聞いていたが確かに立派な、道ですれ違ってもつい見てしまうような。その気がなくても押し付けられたらドキドキしてしまうおっぱいだ。おまけに女の子って華奢で柔らかいな、と当たり前のことを再確認してしまう。
「緊張してる?あたしもドキドキしてるから一緒だね♡」
明るく可愛くフレンドリーなトーク。こういうのが普通の恋人っぽいのかな。女の子ってすげーな。
可愛い、と思う半面で画面の中で見るデートのような現実味のなさを味わっていた。
だって、俺の恋人……と今日まで一方的に思い込んでいた人とはこんな風に寄り添って歩いたこともないし、甘ったるいトークもない。一緒に帰っても靴は各々脱ぎっぱなし。上着も邪魔になったら自分で片付ける。あの人が脱ぎ散らかしてたら説教して洗濯機にぶち込む。それだけだ。
ドキドキなんかこっちが勝手にするばかりで、あっちはいつも余裕があって、下半身に触るまでちゃんと興奮していてくれるのかもわからない。
そんなことばっかりでも、呼びつけられて一緒に食事して、稀に少しだけ笑ってくれると嬉しくて。周りの人から「お前と親しくなってからあの人はほんの少し丸くなった」なんて言われると調子に乗ってなんでもしてやりたくなった。
まともに告白なんてしたことがないし、あっちが時々不特定の女と寝てくることも知っていたけど。それでも勝手に恋人同士みたいなつもりでいた。
なぜって、あの人が一人じゃ使い切れない無駄に広い部屋に俺しか上げていないのを知ってたからだ。
だけど。十八歳の誕生日を迎えて七日目。ついにその自信を失ってしまった。
可愛い女の子とおっぱいへの好奇心と深い絶望の間に落っこちて上手いリアクションも出来ない。何か言われても生返事のようになってしまって、視線はおっぱいに落としたまんまだ。おっぱいには理屈じゃない吸引力がある。
「……大丈夫?もしかして具合悪かった?」
服を脱がせてくれようとする手に手を置いて弱く止めたところで、ついに彼女が営業用スマイルを心配そうなものに変えた。なんだかショックで頭が回らずにここまで来たけど、さすがに服を脱ぐ前には言わねばならない。
一生懸命接客してくれる彼女に心底申し訳なく思いながら。
「ごめん。ほんとは俺、する気ないんだ」
だから脱がせなくていい。服から手を外して解放するとソファに座った足元に膝をついていた彼女は少し躊躇ってからソファの隣に座り直した。体を押し付けることなく丸めた背中を優しく撫でてくれる。
「無理やり連れてこられちゃったかな?いいよ、そういうことあるよね」
「まあ、そんなとこ……」
「こっちは大丈夫だよ。すぐ帰りたい?そうじゃなかったらしばらくお喋りしていかない?お代は先に貰ってるしね」
こっちがその気じゃないとわかると、接客用の喋りから少し砕けた調子に変わった。こっちの方が気楽に話せていい。
ここを出てから連れと合流予定だけど予定のプレイ時間後の話だ。早めに出て連絡を入れたって構わないだろうが童貞を捨て損ねたことを馬鹿にされる未来しか見えない。それに、あの人のために巨乳美女を断ったなんて教えてやりたくない。
彼女が気さくに話してくれるのにつられて気もほぐれてきた。今日のことを誰かに聞いてほしくもある。備え付けの冷蔵庫から飲み物だけもらうと、他言無用を強く頼んでここに来るまでの話を始めた。
誕生日は一週間前。当日は家で兄弟にお祝いして貰って、翌日は同じ学校の友人、その次の日は定期的に巡回している店の店主と常連客がケーキを用意していてくれた。その他の日にも個人的に誘ってくれた何人もの知人友人が記念すべき十八歳を祝ってくれた。
家族や仲間の次に大事な人との約束はその後だった。うちの兄ちゃんとは相変わらず仲良くする気もないのに、こういう場面では黙って家族や仲間を優先させてくれる。他での付き合いが多いのも承知で落ち着くタイミングを見計らって祝いの席を設けてくれた。
場所はヨコハマディビジョンにあるスナックだ。この辺一帯を仕切っているヤクザが今回のホスト役だから高校卒業前のガキがいてもとやかくは言われない。酒も勧められたが一応断った。
諸用でこの辺をうろちょろしていた際に何度か顔を合わせている顔見知りのホステスが席についてくれて、すっかり顔馴染みのヤクザ達が機嫌よく酒を呷る横でオッサン好みなツマミを食いつつコーラを飲む。
そこまでは良かった。
本日の主役を差し置いて大人達がガバガバ飲み、いい具合に出来上がってくると話の雲行きが怪しくなってきた。
「二郎よぉ、お前まだ女いねぇんだろ?」
一昔前のヤクザのイメージそのままの見た目をした男が何かのきっかけでそんなことを言い出した。ヨコハマに出入りするようになってから舎弟のように可愛がってくれているオッサンで、ここに集まっている中では一番年上だった。ヤクザ組織の中では出世し損ねているようだったがお人好しで愛嬌があって、まだ若くて不器用なところのある兄貴分を支えている。いい人だ。
今日もこの場を手配してくれた張本人だが、
「お前は顔もいいし腕もいいんだから自信持っていきゃいいのよ。こう、グワッとな」
隣に座っていたホステスに抱きつこうとしてネイルの光る手で素早く叩き落とされた。グワッが失敗しても愉快そうで懲りた様子はない。
「今はあんま興味ねぇからいいっすよ」
「なんだ?ビビってやがんのか?ブクロ仕切ってるっつってもまだまだ子供だねぇ。よっしゃ、高校より先にそっちを卒業させてやろうじゃねぇか!」
一人で盛り上がって名案だろうと周りに目配せするが、反応は大体二種に分かれた。面倒な絡み方をする先輩に適当に相槌を打つ人と、ヤバい流れだと思って止めに入る人。
「ヤスさん飲みすぎっすよ。ほら、十八になったっつってもコイツまだ高校生だからそろそろ帰してやんねぇと」
な?と同意を求められて曖昧に頷く。こっちに目配せしつつも気になるのは兄貴分の方のようだ。
まさかこういうところで誰がこっちの事情を察しているか知ることになろうとは。
確かに女性経験はないが、男性経験の方はある。相手はこの場で上座にふんぞり返るヤクザ達の兄貴分だ。事故的なものでもなく、定期的に部屋に泊まっては一つのベッドに潜り込んでいる。もちろん誰にも打ち明けてはいないけど。
ここにいるヤクザ達ともこの人に会いに来るついでに親しくなった。
元々うちの兄ちゃんとこの人は犬猿の仲だし政府のお達しで開催されるテリトリーバトル代表戦では領土を奪い合う敵同士だ。そんな俺がこの人のために頻繁に敵地ヨコハマまで通ってくるのを、舎弟根性と見ているか、通い妻と認識しているか。この場ではっきりした。
バレているのが恥ずかしいけど、味方はもちろん後者だ。兄貴分の顔色も気にしつつ話を変えようと口添えしてくれるが考えも古い先輩は大人になった記念といえば酒と風俗らしく、あろうことか兄貴分に直接話を振る。
「バーカ。コイツが一端の男になるチャンスだろうが。な!兄貴もそう思いますよねぇ?」
男になるチャンスはその兄貴に女にされた際に一生分捨てたから「な!」も「ねぇ?」もない。流石にこんなことで嫉妬に駆られて怒り散らしてくれるとは思わなかったが、何かしら場の空気をぶち壊すリアクションがくると思って身構えた。だがそれは空振りだった。
「いいんじゃねぇか。おい、店に電話してリサが空いてっか確認しろ」
「ユートピアっすか!さすが兄貴!太っ腹っすねぇ」
言い出しっぺが率先して携帯に登録してあるソープランドの番号に電話し、無事予約を済ませてしまう。
「すぐ行けば入れますって」
報告はスポンサーに向けて。
「ん」
俺がこの数ヶ月、恋人同然の関係と思っていた相手はくわえ煙草で畳まれた万札を数えて舎弟にポンと渡し、ガキを冷やかす目でこっちを見る。
「好きに楽しんで来いや」
それから、終わったら連絡を寄越せとだけ言って空になったボトルの代わりに新しい酒を注文した。連絡するまでここで飲んでいる気だ。
信じられない気持ちで表情や仕草を細かく観察してもそこには何かの嫌がらせだとか皮肉だとか、そういう気配はない。女っ気のない舎弟の世話をしてやる兄貴分にしか見えない。俺との関係を誤魔化すための芝居でもない。
何考えてんだ。
人前ではどういうつもりか問いただすこともできず、店までの付き添いを買って出た年長ヤクザに背中を押されて女のところまで来てしまった。途中で遠慮しようとしたけど酔っ払って気分のいいオッサンは「緊張してるんだろう、大丈夫だ」の一点張り。
店に入ると初めて見る世界にちょっと興味が湧いてしまって、やっとはっきり断ることが出来たのが服を脱ぐ直前だった。
話が彼女と対面したところまでくると、それまで友達感覚の軽さで相槌を打ちながら聞いていた彼女がシンプルに声を挙げた。
「えー、それひどくなーい?」
他人にそう言ってもらったらやっと腹を立てていいんだと許された気がして怒りが湧いてくる。
「だよな?あっちがおかしいよな?!」
「あったり前じゃーん。二郎くんがお店来たいって言ったならともかくさー、断ろうとしてんのになんでお金までくれるわけー?」
「マジそれ!」
声に出すと少し気が晴れて手に握っていたお茶で口を湿らせる。緊張と喋りで乾いていた。
「でもサマトキ様ならありそうな話かなー」
リサは腕組みした腕に胸を乗せ、斜め上を見上げて記憶を手繰る。わざとそうしているんじゃなくても腕を組むと自然におっぱいが乗って強調される。
「なんてゆーか、ドライ過ぎるっていうの?ウチとかも遊びに来てくれることあるけど雰囲気作りとかいちゃいちゃはどうでも良いみたいな。あ、ごめんね?こういうの聞きたくないよね?」
つまりサマトキ様もリサの客ってことだ。紹介するぐらいだからそうなのかもと思っていたが、尚更サービスを断ってよかった。
彼女の方は自分の客が目の前の男と寝ていようがどうでもいいらしく、女友達のカレシの浮気話ぐらいのノリで乗ってくれる。
「いや、いいよ。あの人俺のこと呼びつけといて女の匂いさせてること平気であるし」
「そーゆーの怒っていんだよ?」
「いいんかな……。ああいう仕事してるし付き合いとかあんのは分かるしさ。男のくせに重いって思われたくなくて何も言えねぇ……」
歳も違うし立場も違う。束縛するようなことを口にしてガキは面倒くさいと切り捨てられるのは怖かった。
兄の敵とこんなことになっているなんて誰にも言えないし、俺は他にはロクな恋愛経験もない。
要求して当然のこととワガママの区別が未だ曖昧だった。
「おー、よちよち。今日は二郎くんがいい匂いさせて帰ろうねー」
そうは言っても体に触れようというわけじゃなく、ちゃんと楽しんできたアピールして妬かせてやろうっていう提案だった。備え付けのボディソープを含ませたタオルで体温の高いところだけ拭って、それらしく香るか二人で嗅いでみて。イタズラの仕掛け作りはそれなりに楽しい。彼女としても、
「遊んでるだけでお金もらえてラッキー」
だから
「もしこれでも妬いてくんなかったら今度こそ自分で『リサお姉さんに会いたーい♡』っておねだりしてまたカレシのお金で遊びにおいでね」
だそうだ。頼んだら本当に金を出してくれそうだけど、ちょっとぐらい妬いてくれることに期待したりして。
だけど自分が金を出して店に送り込んだんだから怒ってくれるわけもない。
時間きっちりで連絡を入れて元の店の前で合流すると舎弟たちはすでに解放して左馬刻一人が待っていた。ゲスな半笑いでクソみたいなことを言う。
「初めてのソープはどうだったよ?」
「楽しかったわ」
腹が立って即答した。別に嘘じゃない。泡姫にローション入りの泡の作り方やそれを活用したプレイの手順なんかを口頭で教わる機会はもう二度とないだろうし。
一言だけのその感想を左馬刻はどう思ったか。機嫌が悪くないことだけは確かだった。
「今日はクソに泊りって言ってきたのかよ」
「うちにクソなんて名前の奴はいねぇし。……兄ちゃんには友達ンち泊まるって言ってある」
どうにも悔しくて目を伏せ、小さな声で答えた。鼻で笑うのが聞こえて睨みあげたら愉快そうな横顔が近くにあって、肩に手が絡んで一番近くのタクシーに乗せられた。肩を抱くなんて、外でそんなことしたこともないのに。
そういう性癖なんだろうか。NTR属性ってヤツ。
帰宅して酒臭い家主を風呂場に押し込み着替えようと小物を外す最中、風呂場から呼ばれて顔を出したら服を着たままの腕を掴んで引っ張り込まれた。
こっちの髪や服が濡れるのも構わずに腕が絡みついて壁に追い詰められる。顔を上向かせてキスされると左馬刻の髪を伝った水が顔に落ちてきてゾクゾクした。
カットソーをめくって乾いた腹に濡れた手が触れる。服や肌に水分を移しながら移動して、下着の腰から尻の谷間に指を忍ばせようとしたところで体を押し剥がした。
「ンだよ。女はこっちはしてくんなかっただろ」
「うっせぇな。……酒くせぇンだよ」
顔を見ないように逸らして腕を振りほどいて浴室から逃げ、濡れた服を着替えて先にベッドに潜り込んだ。定期的に泊まりに来るから置きっぱなしにしている服がある。
布団の中で携帯に届いていた他愛もないメッセージにレスしていると急ぐでもなく、遅すぎることもなく、部屋着に生乾きの頭で戻ってきた左馬刻が布団の反対側をめくって潜り込んできた。枕は濡れるし寝癖がつくってのに自分でドライヤー使うのを面倒くさがって、いつも俺が見かねて乾かしてやってるから。甘ったれやがって。
隣に来たのを分かっていても振り向かずにいると背後から携帯を奪われ、風呂場でのことを仕切り直すべく薄着の腹を抱き込まれる。鼻が首筋を掠めてくすぐったい。
腹の底がそわそわするけど怒りが渦巻く頭はそんな気にならない。
「今日やんねーから」
背中を向けたままきっぱり宣言すると動きがとまって、しばらく黙ってからやけに素直に腕が緩んで首にまとわりついていた頭も離れた。
ちょっとは理解してくれたんだろうか。なんて甘っちょろいことを考えた俺は馬鹿だった。
「女の感触でも大事に反芻してんのか」
クソッ。
バースデー飲み会の翌日、ソープランドの話を止めてくれた左馬刻の舎弟から心配するメッセージが届いた。こっちの事情にどこまで踏み込むべきか悩みぬいた痕跡が文章の端々に脱字として残っている。
だが、彼が予想した“兄貴が怒る”こともなかったし“女のせいでおかしなこと”になることもなかった。何事もなかったかのようにエッチに誘われて、断ったら大人しく引き下がってさっさと寝た。エッチ拒否の際にもっと拗ねてくれたら溜飲も下がったかもしれないが、そういうのもなかった。
結局あの男は俺が女を抱いてこようがエッチを拒もうがどうだっていいんだ。
そりゃそうだ。金もあるし立場もあるから女には不自由していない。俺が知らないところに本命がいるのかもしれないし、元より炊事のついでに泊まらせてお泊りルーチンでヤッている節がある。機嫌が悪けりゃ手当たり次第に怒り始めるクセに、以前からこっちの都合でエッチを断ることがあっても怒ったことがないし。肉体関係を重要視してないのは前々から分かってた。
数日後、いつもと変わらない調子で呼び出しがかかる。夕飯時の呼び出しは泊り前提。一応兄弟には帰らないことを告げてヨコハマのマンションに来たけどまだ前回の件を忘れたわけじゃなかった。
同じベッドに横になると自然な流れで体に手が伸びてくるがガン無視する。
反応しなかったからといって空気を読んで撤退する男じゃない。わざとか手癖なのか、数ヶ月前に通り過ぎた初めての夜と同じ手順で触れてくる。
これから押し入る場所の下見みたいに下腹を撫でて、首に甘く歯を立て、その歯型の間の皮膚を舐める。唾液で濡らした肌を吸いながら手が徐々に下に移動し。
ちょっとその気になりかけている部分に指がかかるまえに手首を強く掴んで止めた。
「やめろ。やる気ねーから」
これはちょっと機嫌を損ねた。
「女の味覚えたらあっちの方がよくなったか?」
冷やかしじゃない。馬鹿にする気配はあるが声が笑ってない。
「そういうんじゃない」
「じゃあなんだっつんだよ」
手首を掴んでいる俺の手を引きずって足の間に移動した手のひらで内腿を撫で上げられる。このままさせたらこの先どんな風に触って、どんな恥ずかしい目にあわされて、どれほど気持ちいいことが待っているか予感してギュッと目を瞑った。抵抗しなけりゃ流されてしまう。
さっさと履物を脱がそうとする手を無理やり退けてベッドから降りた。振り返ると薄暗い中でも白っぽく浮かび上がって見える左馬刻の頭が肘丈程起き上がるのが見えた。
起き上がってこっちを見ているが追ってくる気はないらしい。
何か言われる前に言い放つ。
「ソファで寝る!」
予備の毛布を掴んで寝室を飛び出した。二月の終わりだ。
三度目はもう三月だった。
別れの季節ともなれば同年代の仲間と連絡を取り合うことが増えていて、左馬刻が風呂に向かう前から上がってきた後までずっとメッセージを打ち続けていたら文句をつけられ、喧嘩になった。
飯時や何かしている時、左馬刻と話している時には遠慮してるっていうのに、暇な時でも兄弟以外の誰かとメッセージをやりとりしていると機嫌を損ねる。最近は特にそうだった。
風呂も済ませて寝支度をするところでヒプノシスマイクも手から遠く、返信途中の携帯を奪って放り投げられたのを直接的な引き金にして取っ組み合い、もつれあってソファに押し倒されたら何かのスイッチが入ったらしくエッチに持ち込もうとしてきたから頭にきて寝間着のスウェットに上着だけ着てバイクでイケブクロまで帰った。
まだ夜は冬の寒さだ。冷え切った体で深夜に帰り着いたら兄弟達は寝静まっていて、寂しさに負けて意地を張り続けていることをほんのちょっと後悔した。
こっちもちゃんと話をしないままだし悪かったかもしれない。あっちの方が五倍は悪いけど。後に引きずるような喧嘩は性に合わないし、何より険悪なままの時間が長くて寂しさに負けた。
向こうから呼び出しがかかる前に別の用事でヨコハマに来たついでにこっちから連絡を入れて部屋に寄った。
が、この日は最初からピリピリしていた。こういうことは時々ある。
仕事で嫌なことでもあったんだろうか。それなら労わりたいし、気晴らしがしたいなら付き合ってやるのもいい。俺にできることなら。
だけどそれはこっちの意思を丸きり無視して好きにしていいってことじゃない。
隣に座って間もなく抱き寄せられて、意図が分かって抵抗すると力づくで組み敷いてきた。引き剥がそうと肩を掴むとボタンを開け過ぎのシャツがずれて肩口に刺青の端が見える。
極道者なら色々あるだろうと思って多少のことは受け入れてきたが、リサにも言われたように許容できないことは怒っていいはずだ。
下から睨みつけると冷たい目に見下ろされた。これから抱こうって相手に向ける目じゃない。
「また拒否か?お高くとまりやがって」
この人はこっちが何に怒っているかなんか興味ないんだろう。そう思ったら悲しくなってきた。
「……そういうこと言われてその気になるとでも思ってんのかよ」
「別にテメェがその気だろうとどうだろうと構やしねぇんだよ」
ああ、もう勘弁ならない。体を押し返そうとしていた手で左馬刻の髪を鷲掴み腹筋に力を入れた。
「ふっ、ざけんなっ!!」
勢いつけて額を打ち付けソファから蹴り落とし、床に転げて上下入れ替わって下になった左馬刻の襟を掴みあげた。瞬きする間に下克上を果たす。
「なにすんだテメェッ」
「アンタな、俺にちょっとでも好意があンならこういうこと腕力にモノ言わせてしようとすんじゃねーよ」
床に頭を打った左馬刻は怖い顔をしているが、説教を始めると俺の尻の下から抜け出そうとしていた動きを止めた。
「暴れりゃ周りが言うこと聞くと思ってんじゃねぇぞ。俺はそんなんで思い通りにゃなってやらねぇ」
マイクを握ればまだまだ埋まらない実力差があるが、拳でやり合えばもう少しはいい勝負ができる。何しろこっちの方が普段から運動量は多いから体力では負けない。
やり返してくるならいくらでも殴り合ってやるつもりでマウントポジションでリアクションを待った。
だけど胸ぐらを掴むことすらなく、床の上で力を抜いた左馬刻は視線を外して絞り出すように一言だけ。
「……勝手にしろ」
やけに静かに呟いた。
頭突きした額や打ち付けた背中や後頭部が痛いわけじゃなくて、もっと他の苦しさを耐えるような顔だった。
今までだってすぐ手の出る左馬刻に何度も文句を言ってきたのに何でここにきてそんなに傷つくのかはわからない。でも、そんな顔を見せられると許して甘やかしてやりたくなる。心底怒ってたのに。
無抵抗の相手に追撃も出来なくて黙って体の上から退いた。
時計を見ると、今から帰れば自宅の夕飯に間に合う時刻だ。左馬刻は床から起き上がってもそれ以上何も言わず、床に座ってポケットの煙草を探している。
黙って荷物を取り、カウンターにあった灰皿を左馬刻の目の前に置いてやって玄関に向かった。
途中、リビングを出るときに一度振り向いた。左馬刻がこっちを見ている気がしたけど、見た時にはもう指に煙草を挟んで灰皿の方を睨んでいたから俺の願望でしかなかったのかもしれない。
◇
煙草の穂先から灰が落ちた。母の頭の上に。髪の上を滑って落ちた床には毟られた毛が散らばっている。
男は煙こそが酸素みたいに煙草を口に運んで灰に満たすと喋らなくなった母の目の前にしゃがんで伏せられた顔を覗き込むように頭を下げる。
「おいおい、今度はだんまりか。なんべん言ったら俺の言うこと分かるようになンだ?このバカ女ッ」
再度頭を掴もうとする手が伸びる。そこに体ごと割り込んで母の頭を抱え込んだ。男に背を向け首だけで振り向いて、精一杯目に力を込めて叫ぶ。
「なんでこんなことばっかすんだよ!?お母さんのこと好きなら痛いことやめろよ!」
抱え込んだ頭が震える。後から思えば嗚咽を我慢していたんだろう。庇われて泣きじゃくれば余計に酷いことをされる。
割り込んだことで男の怒りの矛先は俺に変わった。覚悟の上だったけど、何をされるかまでは分からなかった。
「ガキが親に向かってなんだぁ?その態度は。母親の教育がなってねぇから俺が迷惑すんだよなぁ?」
「アンタなんか親じゃねぇ!」
「あ゛?誰のお陰で産まれて服着て家住んで飯食えてると思ってんだ?」
これ見よがしなため息が聞こえて伸びきったシャツの襟を引っ張られた。夏なのに着替えがないから長袖のシャツを着ていた。
母から離れないように背を丸めるとシャツと肌の間に隙間が出来て、そこに火のついた煙草が差し込まれた。
「――――ッ!」
痛みよりも焦りで喉が渇いて汗だくで目が覚める。
夢の中より広く物の少ない部屋だ。人の気配もない。代わりにスピーカーから音楽が垂れ流されていた。自分でそうしたのに頭に響いて気に入らず停止ボタンを押す。
水を求めて冷蔵庫を開けると、昨日の日付が書かれたタッパーがあった。帰ってきてすぐに見つけ、朝にでも食べようと思っていた。中身は肉じゃがだった。
まだ時刻は深夜。胃は別に夜食を求めてなんかいなかったが、どうしても今、それが欲しくて一口だけつまんで食べた。
家に帰ると時々メシがある。
冷蔵庫にタッパーがあって、煮物とか野菜炒めとか卵焼きとか、食べたことのある惣菜が入っている。ふたには日付の書いたビニールテープが貼ってあったからいつ来たのかはそれで把握していた。
最初にそれを見つけた時に合鍵を渡してあることを思い出した。あまり使われることがなくて忘れていたものだ。来るときはいつも連絡を寄越して俺のいる日を選ぶ。イケブクロの家からヨコハマのうちまでは遠いから、折角来て一目も会わずに用事だけ済ませて帰るなんてことは今までしなかった。
これが何度か続いた。お互い意地を張って携帯に連絡はしなかったが、帰宅したら真っ先に冷蔵庫を開けるようになった。
惣菜しか置いていかないからレトルトの米を備蓄するようになった。炊飯は妹と暮らせなくなってからは自分一人のためにする気が起きなくてしていない。
「実家が近いのに無計画に家飛び出した息子を心配する母親みたいだな」
「誰が無計画な息子だゴルァ」
食事の誘いを断った際に総菜の話を漏らしたら銃兎にそんなことを言われた。
食生活の心配は惣菜デリバリーの理由の一つかもしれないが、一番は多分別にある。兄貴みたいに俺から離れるわけじゃないっていう、そういう主張だ。勝手にそう解釈している。
一人で食べると過去に食べたくて作らせたのと同じメニューでも今ひとつ美味くない。でも見つけた翌日までには食べて空にした容器を置いておく。それが返事だ。
そうやって会わなけりゃイラつきをぶつけることも、クソみたいなシカトこかれることもない。作り置きの料理で縁が残っていることだけを確かめている。
到底やくざと不良のガキのやることじゃなくて我が事ながらに笑ってしまう。
自他共に認める意味不明で不器用な行いについて、嘲笑うものと思っていた銃兎は馬鹿にすることなく煙と一緒に深く深く息を吐いた。
「そんなことやってんならお前が大人になって連絡してやりゃいいだろ。辛気臭ぇ面しやがって。もうじきテリトリーバトルなんだから否応なく顔合わせんだぞ?」
おまけにこっちの事情に口を挟んでくる。別に助言が欲しくて話したわけじゃない。素直に腹は立つが今は喧嘩する気にならなかった。
「うっぜぇな。バトルはちゃんとやるから放っとけや」
「……本当に大丈夫かよ」
コイツが余計なお世話とわかりつつモノを言うときはヒプノシスマイクを持ち出す喧嘩に発展するところまで織り込み済み。そうならなかったことで銃兎はますます不安を深めた。
喧嘩にならなきゃならないで心配される。理不尽だ。
月一開催のテリトリーバトルは参加者の都合なんかお構いなしに女たちの都合で開催される。
もう何度目か。毎回顔を合わせていると敵同士でも顔見知りだ。個人的に他のディビジョン代表と交流している者も少なくない。
それでもステージ上では罵り合う立場上、バトル前は鉢合わせになっても挑発以外では言葉を交わさずすれ違うのが暗黙の了解のようになっていた。相手チームには親しい奴がいたとしても、同時にソリの合わない奴も一人くらいはいるもんだ。バトルの士気にも関わる。
バトルは毎回前日に現地入りして毎回同じホテルに一人一部屋あてがわれる。配慮のないことに敵対する四つのチーム十二人全員が同じホテルに詰め込まれていた。
土地勘もないせいで行動範囲がホテル周辺に限られるため、迂闊に外に出た連中は他のチームのメンバーと遭遇して揉めたりもしている。ガキの修学旅行みたいだ。
そんな連中に付き合ってはいられないので中王区ではホテルの部屋に引きこもるのが習慣になっていた。
他のチームにも会いたくないが、ミーハーな女どもがうろうろする街になんか出る気にならない。ホテル内だってスタッフは全員女で、職務上ジロジロ見てきたりしないが物珍しさでこちらを観察している気がする。
部屋の外に出るのはせいぜいヤニが切れて我慢ならないときぐらいだ。
我慢ならなくて部屋を出た。
ホテルの中はそれなりに高級感がある。床は足音も立たないような絨毯張り。壁は染み一つなく、照明はアンティーク調で揃えられている。
闘犬の犬小屋としては破格だ。そもそも中王区の宿自体、壁の外のソレよりも新しく金をかけて造られたものばかりだ。
旅行ならば上等な宿で気分も上がるところだろうが、外を歩けばアイドル扱い。ステージ上では文字通り身を削って血反吐にまみれる様を披露して女共を喜ばせる。そのために呼びつけられ、与えられた宿だ。刑執行前の牢屋が綺麗だったからって喜びも感謝もない。
豪奢であればあるほど胸糞が悪くなる。
銃兎が前もって食事は外に出ると伝えてこなければパシリに使ったのに、中王区での行動パターンが固定化されてきた頃からこうして先回りして言ってくるようになった。
無駄に広い館内を進み、エレベータ前に出る。
そこで見慣れた迷彩柄の立ち姿を見つけた。本人は至って真面目だが、シャンデリアに照らされたアイボリーの壁を背景にすると迷彩どころか浮き放題でおかしなことになっている。
理鶯は銃兎と一緒に食事に出たとばかり思っていた。もう食事を終えて帰ったところなのかもしない。
話し込む気はなかったがすれ違うからにはひと声ぐらいかけようとして、壁のような体の向こう側にいたガキに気がついた。エレベータのランプ表示を見ると箱はこの階で留まっているようだったが二人はボタンから離れた壁際にいた。エレベータ待ちしているわけじゃない。
立ち止まるとガキの方がこっちに気がついて口を閉じる。遅れて理鶯もこちらを振り向いた。
「左馬刻。出歩くとは珍しいな」
こっちの顔を見ても理鶯に動揺や何かを誤魔化す素振りは見えない。それに比べて隣のガキは居心地が悪そうだが、立場を考えればそっちの反応の方が自然ってもんだ。
明日には手加減なしにぶつかり合う相手と和やかにお喋りなんてやる気を疑われる。せめて人目につかない個室にでも移動してやればいいと思うが、表情の読みづらい理鶯がこちらと二郎を交互に気にしたところを見るに、俺への配慮で二人きりを避けたようだ。
周囲の色恋沙汰になんか興味なさそうなようでいて妙に気が回る。だが別に構いやしない。そんなつまらないことで理鶯を疑う気はさらさらない。
それよりもバトル前だってのに浮かない顔で突っ立っているガキの方だ。思いがけず会ってしまって困惑って表情を浮かべながらも今にもこちらに話しかけそうに口を開いたり閉じたりしている。顔を合わせたからには無視はしたくないってとこだろうが今は敵同士。余計なことは考えずに黙っときゃいい。
こっちから視線を外した。
「下の自販機まで行くだけだ」
一直線にエレベータ前に向かいボタンを押した。扉はすぐ開く。誰も乗っていない箱に大股で乗り込み、一階行きのボタンを押す際に再び二人を顧みた。
迷うような二色の瞳と目が合う。毎月ステージ上で対峙する時の凶暴さをすっかり失って尻尾を巻いた犬みたいだ。
お前はそんな面で明日のバトルに臨む気か。
壁の内側では腑抜けている奴から潰される。俺自身が直接マッチアップするわけじゃないが、うちの連中は油断したガキ相手だって容赦しない。
音楽イベントのように見えてもテリトリーバトルはヒプノシスマイクを使った殴り合いだ。しくじれば負けて無様を晒すだけじゃない。ダメージを受け止めきれなけりゃ最悪死ぬ。今のところどのチームも無事に済んでいるのは一応のルールがあるからに過ぎない。これまではたまたま死ぬ前にバースが終わっていた。それだけのことだ。
だがいつまでそれが続くのかもわからない。毎月ギリギリのダメージを負い続ければ当然回復しきれず蓄積されていく。その限界が来て事故が起きるのは明日かもしれない。俺たちはそこのところを弁えてなきゃいけない。
その上で、壁の外で何があったとしてもマイクを構えたら仲間諸共ぶっ潰す。それがこのバトルのステージに立つってことだ。
この半年程。二郎は俺と喧嘩しようがセックスしようが変わらずに勝ち気な面でステージに立って渡り合ってきた。だからこっちがどんな扱いをしようと大丈夫なんだと、頭のどこかで思っていた。
直接会うことを避けられていてさえも。俺のすることに掻き乱されたりしないことを期待していた。
とんだ見込み違いだ。
イラついて睨めばドアが閉まり切る間際に睨み返してきた。負けず嫌いは遺伝子レベルで染み付いてる。そうでなくちゃ困る。
何も言葉を交わさないままエレベータの自販機で煙草を買って戻る頃には二人ともいなくなっていた。
バトルは二回戦に進み、辛くも勝ち越した。対するイケブクロは初戦で敗北を喫した。
中王のゲートを抜けて刑務所より分厚い壁を出るとそこはイケブクロディビジョンだ。通行許可証を提示して全員がここから出入りする。
バトルの結果はまずまず。妙な心配をしていた銃兎に杞憂だと突きつけてやった。――――アイツも、それなりにはやっていた。
ヨコハマに戻ったらまたメシの確認が日課の日々かと思いながらゲート内を歩く。スタジアムの通用口のような短いトンネルだ。女の掃き溜めと男の吹き溜まりは空気が違う。お綺麗な閉鎖地区より落書きだらけの街の方がいくらか空気が美味い。
それでも空は繋がっていて、中王の天気と外の天気は大差がなかった。ゲートを潜る前に理鶯が「雨が降る」と言ったから、ゲートの外の駐車場に車を置いている銃兎が先頭に立って歩いていた。頑丈な門扉が開かれ、シャバに出る。
数歩先に外に出た銃兎は駐車場と反対側に目をやって少し驚いた顔をした。だけどすぐ振り向いて、
「車回してきますね」
駐車場に向かった。理鶯も待っていればいいのについて行った。肩を並べて歩く二人を見送る。あれを追うは野暮ってもんだ。無駄に歩く必要もない。
ゲート内禁煙で出せなかった煙草を抜きながら外に出た。
「左馬刻さん」
声に反射的に振り向く。見慣れた泊まり荷物のリュックサックを背負った二郎が一人で出入り口の脇に突っ立っていた。
待ち伏せに驚いた次に、兄弟の姿を探した。どのチームもそうだが行き帰りは三人一緒だ。小うるさい兄弟が近くにいれば話しかけてこないだろうから居ないだろうとは思ったが、
「兄ちゃんたちなら先に帰ってもらったからいねーよ」
ちょっと拗ねた口調で教えられた。
「……テメェ一人で何してんだ」
「アンタのこと待ってたに決まってんだろ」
他のチームは大概が自家用車だがイケブクロ連中は徒歩でここまで来ている。兄弟を先に帰したとしても門前には警備員がいるから二人きりというわけでもない。
「そりゃご苦労なこった。だが俺にはテメェと話すことはねぇ。さっさと帰ってクソ兄貴の靴でも舐めてな」
「茶化すな。……今日は喧嘩したいわけじゃねぇんだよ」
冷静、というより威勢が足りない。天気が崩れて来ているせいか顔色も悪く見えた。自分の足でステージを降りたところは見ていたが、今回はバトルでも随分ダメージを負っていたから実際コンディションは良くないんだろう。
「なら尚更だ。ガキのおしゃべりに付き合う気はねぇ」
噛み付いてこない二郎は弱く見えた。八の字眉は下がりっぱなしで力がなく、頬はいつもより白い。それを見るともう終わりにした方がいいような気がした。
何度でも懲りずに通って来て喧嘩してもピンピンしてるから忘れていたが、コイツはまだ未成年のガキで一郎より弱い。頭が悪くて兄貴みたいな判断もできない。それなのに世話を焼きたがって、まるで母親みたいだ。
「ガキとか関係ねぇだろ。いつもすぐ喧嘩になっちまうけどさ、ちゃんと話せば分かることもあるじゃん」
二郎の声を聞きながら、もうとっくの昔に死んだ母親のことを思い出していた。殴られてばっかりなのにいつまでも「落ち着いてる時に話せばわかる人なの」と言って優しい時の親父の姿ばかり信じる。対話で暴力をやめる約束をしたって翌日にはあっさり反故にして暴れるのに。何度ボコられても別れられなかった。
俺は親父みたいにはならないと思って絶対に女には手を上げなかった。今も女は殴らない。だけど、二郎があの頃の母親と同じ立場になっていることには気づかなかった。反抗されて、怒り任せに力づくで思い通りにしようとしていたことを突きつけられるまで。
「おい、何とか言えよ」
黙っていると二郎が焦れる。
何とかってなんだ。話して解決すべきことなんかない。もう終わりだ。
そう告げようと思って目を上げたところに銃兎の車が横付けされた。舌に乗せかけた言葉を飲み込み、黙って乗り込む。
一人で後部シートの扉を閉めるとルームミラー越しにお節介な運転手が視線を寄越した。
「いいのか?バトルも終わったし乗せてやっても構わねぇが」
「放っとけ。地元なんだからガキでも迷子にゃならねぇだろ」
銃兎はそれ以上言わず車を出した。それから間もなく、ポツポツとあたり始めた雨は短時間で土砂降りになった。
テリトリーバトルから帰った翌々日。気まぐれに事務所にやってきた若頭は俺の顔を見るなり太い眉を片側だけ跳ね上げた。
「なぁに辛気臭ぇ面してやがる。バトルは勝ったってのによぉ。聞けば事務所に泊まり込みだっつぅじゃねぇか」
自宅に帰る気にならなくて飲み歩くか事務所のソファに寝泊まりしていた。それを口の軽いバカが漏らしたらしい。
舌打ちも舎弟を絞め上げるのも、この人が帰ってからでないと出来ないし下手に否定するのも良くない。
「うっす」
短く肯定するとギラギラした指輪のはまった手で頭髪を掻き回された。組に入る前から世話になっているせいでいつまで経ってもガキ扱いだ。
「なに機嫌損ねてんのかは知らねぇが、テメェはウチのディビジョンの顔なんだからよぉ、勝ってシケた面晒してんじゃねぇよ」
「……ッス、さーせん」
「よし、そんなら一丁さっぱりして気分変えてこいや」
「あ?」
適当にやり過ごそうとしていたら事務所の外に連れ出され、車で連れてこられたのはユートピア。ウチで世話してるソープランドだった。
「…………申し訳ないンすけど今そういう気分じゃ……」
「おいおい、枯れるにゃまだ早過ぎンだろうが。インポか?なぁに、オネエちゃんに優しくされてりゃアッチもコッチもすぐ元気にならぁ」
「いや、あの」
「実はな、リサが営業メール寄越したから俺が予約してたのよ。そしたらタイミング悪く絹恵のことが豊子にバレちまってよぉ。これからすぐ行かなきゃなんねぇのよ。だから遠慮せず代わりに行ってこいや」
俺を放り出してすぐ、車は死地に向かって走り去った。仕方なく店に入って事情を告げ、女と合流するカーテンを潜る。
すると待機していたリサが控えめにまつ毛を盛った大きな目を丸くした。
「えー!なんでサマトキさん来てるの?!」
「鬼山さんの代理だ。あの人は姐さんに愛人バレてこれから修羅場だ」
「なーるほどね。……じゃなくて、待って、とりあえずお部屋行こ!」
いつもの完璧なマニュアル対応じゃなく、ぐいぐい腕を引いて個室に連れて行かれる。いつも押し当ててくる横乳も当ててこない。
部屋の扉を閉めて完全に二人きりになるとさっきの会話のやり直しだ。
「なんでサマトキさんが来てるわけ?!」
「だから鬼山さんの代わりだっつってんだろ」
「そういうことじゃなくて、しばらく来なかったからてっきり二郎くんとラブラブしてるのかと思ったのにー」
全く忘れていたわけじゃないが、女の口からその名前が出たことに少なからず驚いた。靴を脱いで上がれとも言われず閉めたドアの前で詰められる。客扱いしろと苦情をつけることも忘れた。
「……アイツがなんだと?」
「え、え、サマトキさん怒ってる?」
「怒ってねぇから。アイツがなんだってんだ」
殴ったりしないのはよく理解しているが顔が怖いとは言われる。眉間にシワが寄らないよう努力して、見下ろさないよう床に座り込んだ。一発ヤリに来たのにベッドどころか風呂も遠い。
ギリギリでスカートに隠れない膝を間近で見る間も無くリサも並んで座る。
「えーと、二月にサマトキさんの奢りで二郎くんが来たでしょ?でもすっごいヘコんでてさ、エッチしないっていうから事情聞いちゃったわけ。あ、誰にも言わない約束でね?サマトキさんは当事者だからセーフにして」
本人のあずかり知らぬところで勝手にセーフになった。
「なんでそこまでヘコむんだよ。アイツはお前みたいな女好みだろうが」
「はぁ?そりゃヘコむでしょ。サマトキさんと二郎くん付き合ってんでしょ?」
そうだとも違うとも言えなかった。はっきりとそういう話をしたことがないし、こっちが他で女を抱いて来たって何も言われない。今まで付き合えと言われて付き合った女は大抵浮気にうるさくて一週間ももたなかった。
だけどアイツは舎弟に八つ当たりしている時なんかは平気で割り込んで怒ってくるくせに女関係は放ったらかしだ。体の関係はあっても向こうからヤリたがることは稀で、今じゃメシだけ運んでくる。認めるのも癪だがやっていることだけ見ると親のようでもあった。
黙ると調子よく喋っていたリサは勢いを失い、上目遣いで慎重に尋ねてくる。
「あれれ?付き合ってるって勘違いだった……?」
「……アイツが言ってたのか」
「えー、違うけどぉ、頻繁にお部屋デートしたりしてるんでしょ?二郎くんコンパとかも断ってるらしいし。ホント一途!」
後半は初耳だった。確かにそういう話はしないが、それが本当だとしても硬派を気取る兄貴の真似じゃないのか。昔は一郎だって引っ張っていけば合コンぐらい参加したもんだが。
「ってか、サマトキさんだってそんな何ヶ月もおんなじ子と遊んでることなくない?」
「うるせぇな。……そんで、俺がここに送り込んだのが不満だったって?」
「そう」
「でもヤったんだろ」
「えー……」
デカい胸の下で腕を組んで数秒悩んで、他に誰もいないのに声を潜める。
「二郎くんがそう言ってたなら嘘だよ。石鹸の匂いだけつけてサマトキさんのこと妬かせちゃおーってあたしが言ったからさぁ、もしかしてそれで喧嘩した?ならゴメンね?」
両手の指の腹を合わせて軽い調子で謝られる。確かにロクな感想を聞いた記憶はない。
普通の奴ならこういう時、一途さに感動したりするんだろうか。元から自分の手配した女だ。別に抱いていたとしても失望も何もない。女に興味があるのも当然だし俺だって他で女を抱いてくる。遠慮する義理はない。
一人で操立てなんかして、それを恩着せがましく言ってくるわけでもなく。
「二郎くん、サマトキさんのことめちゃめちゃ好きじゃんね」
リサは俺たちが素直に言葉にしないようなことをあっさり口にしてきれいに笑った。
「…………それで、どうする?お風呂はいる?」
ここまでほぼ職務放棄だったがやっと自分の仕事を思い出したらしい。今更ながらに体を寄せてくる。
それが仕事ですからといった体で腕に絡んだ手を外して立ち上がった。
「帰る」
「ですよねー!」
部屋を出る前にリサに向き直り、財布から適当に札を出して握らせた。
「情報料」
「……と手切れ金?」
「どうだかな」
「遠慮しなくていいよぉ。二回もラクなお仕事させてもらっちゃったし」
高給取りの女は客が一人逃げたって余裕だ。カーテンまで付き添ってにこやかに手を振って見送られた。
事務所に戻って自分で鍵をとり、車の運転席で携帯に電話を掛けた。目上と認めている人間と妹以外に詫びなきゃらならないと思うのなんか何年振りかもわからない。
人に蔑まれるようなことばっかりして生きるようになっても行動の一つ一つに後悔なんかしなかった。妹以外のことは大抵どうでも良かったからだ。
慣れないことをしようとしている。何て言えばいいのかもわからなくて、電話が繋がった後のことをまだ迷っていた。
二郎は運転中以外なら大体すぐに連絡がつく。今日も天気が悪いからバイク移動はしていないだろうと踏んだのに、なかなか電話は繋がらなかった。
こっちが覚悟を決めているのに応答しない電話に苛つき始めた頃、やっと呼び出し音が途絶えて呼吸の気配がする。ついつい文句を言いそうになって、今日はそうじゃないと思いとどまった時。
「うちの弟に何の用だ、左馬刻」
一郎の声が耳元で聞こえて怒りが足元から頭のてっぺんまで一気に駆け上った。
「あ゛ぁ?!なんでテメェがその電話に出やがンだよドグソ野郎がッ」
「そりゃこっちのセリフだ。何の用だと訊いてんだ」
こっちが喧嘩腰でも冷静ぶった冷めた声音なのが尚更に頭にくる。
「うるっせぇ、その電話そのまま持ち主に返しやがれ」
電話越しの喧嘩じゃ拳も届かないしマイクも使えない。向こうだって、二郎がヨコハマまで出向いては俺と会っていたことぐらいは把握しているはずだった。何を今頃になって携帯まで奪って邪魔するのか。
妙だな、という疑問はすぐに解決した。
「二郎は今寝込んでっから出られねぇよ」
「なんだと」
「迷惑だからもうかけてくんな」
「あ?待てよ。寝込んでるってどういうことだ」
確かにテリトリーバトルの帰りに会った時も顔色は良くなかった。それでも知り合ってから何ヶ月も五月蠅いぐらいに元気だったから、寝込むなんてよっぽどのことに感じる。ヒプノシスマイクでやり合った後にダウンしたなら脳に受けたダメージが原因てことだってある。
もしアイツが今回のバトルに集中できていなくて必要以上にダメージを受けた結果がこれだというなら、黙って引き下がることはできない。
「部外者のテメェにゃ関係ねぇだろ」
「その携帯に俺の番号が登録してある時点で十分だろうが」
「話になんねぇな。あんま五月蠅くするとよくねぇから切るぞ」
「オイ、一郎」
向こうの耳元から電話が遠のいた気配がする。焦って大きな声を出すと無音の時間が少しあって再び一郎が出た。
「…………こんな時に訊くのも嫌だが、アンタ二郎のことどうするつもりなんだ」
「どうもしねぇよ」
「しばらく定期的に泊りがけで出かけてると思ったら、最近はめっきりそれがなくなった代わりに何か悩んでる。そのくせ俺が訊いても話したがらねぇ。俺にも話してくれないなんてアンタ絡みの話に決まってる」
「大した自信だな」
「ふざけんな」
一郎のことは今この瞬間だって気に入らないが、兄としては随分心が広い。そこまでわかっていても今すぐに俺の番号を着信拒否設定にして携帯のアドレス登録を消去しないんだから。その狭い一面だけを同じ長男として認め、なるべく落ち着いて真面目に言葉を返す。
「……本気でアイツをこれからどうにかしようってつもりはねぇ。もう二度と連絡を取り合わないようになるかもわからねぇ。だがその前に、会って詫び入れたいことがあんだよ」
こっちから連絡を断つことは簡単だ。テリトリーバトルがある限りは顔を合わさないことは不可能に近いが無視することはできる。兄貴みたいな結末は選ばないっていう意地でかヨコハマ通いを続けているのもこっちが受け入れなくなれば辞めるだろう。
俺は親父みたいにはならない。自分の衝動がどうにもならないなら向こうを遠ざけりゃいい。
そういう覚悟はできている。でも、半端に不安になるようなことを聞かされて黙って退くほど大人にはなれない。
「具合がどうなってんのかだけでも教えろ。……頼む」
今生で一郎に何かを頼み込むことなんて二度とない。一郎が黙り込んだ、その間、細かった雨が本降りに変わり、フロントガラスに薄い川を作って光を歪ませるのを見ていた。
重いため息がスピーカー越しに届く。
「俺はアンタのことは認めねぇ。だから、三十分後に俺と三郎は買い出しに出てしばらく戻らねぇが絶対にうち訪ねてくんじゃねぇぞ?わかったな」
最後の一音を言うと同時に切れた。一郎なりの葛藤が垣間見える。
切れた携帯を助手席に放るとすぐにエンジンをかけた。ワイパーが視界を歪めていた雨水を拭う。
雨雲でいつもより早くに暗くなるヨコハマの街からイケブクロに向かって走り出した。
イケブクロに入ると雨足は一層強くなった。山田兄弟の自宅前に車を置いておくと色々面倒なこともあるだろうと、最寄りのコインパーキングに入れて玄関先まで歩いたらずぶ濡れになった。
家の玄関はさすがに鍵がかかっている。何が出てくるやら出てこないやら気が進まなかったが一度だけ呼び鈴を押して、少し待っても誰も出てこないから鍵を探して使った。置き場は知ってる。郵便受けの蓋の裏に強力磁石で貼りつけてある。
玄関からまともに入って土間で頭から滴って来る雫を拭い落としていると静かだった家の奥から物音がして顔を上げた。
廊下の奥の方の部屋の扉が開いて、額に青い冷却シートを貼りつけた二郎が顔を出した。
「兄ちゃん……?」
兄貴専用の甘ったれた喋りで、でも疑問形で呟きながら扉から玄関を覗き、目が合った途端に体をビクつかせて一瞬固まった後にバタバタと玄関まで走って来る。
「な、なんで左馬刻さんがいんの?!」
「おう、思ったより元気そうじゃねぇか」
「すげー濡れてるし!」
「今土砂降りだからな」
Tシャツにハーフパンツの薄着で、確かに寝て起きたような緩んだ格好だ。見たところ熱があったらしいが、こっちから触る前に向こうから雨水が滴る頬を手の甲で拭ってきた。ちょっとやそっと手のひらで拭ったってどうにもならないとわかると「待ってろ」と言い置いて別の部屋に入ってすぐ戻ってきた。
「そんな格好じゃアンタも風邪ひいちまうって。着替え貸すか?」
持って戻ったバスタオルを頭から被せて玄関の段差でひっくりかえった身長差の、少し高い視点から頭を拭く。頭だけでなく顔にも遠慮なく押し付けてご丁寧に耳の裏側まで拭きあげていく。頭周りが済むまで好きにさせて、タオルが肩に降りてきてから二郎の頬に手を伸ばした。今はそんなに熱くない。
「風邪か」
「ああ、うん。この間の帰りも雨だったろ?こんな風に濡れて帰ってさ。……てか、ホントなんでいんの。どうやって鍵開けたんだよ」
「昔、深夜に一郎を送ってきた時に隠してる鍵使ってんの見た。未だに同じ場所に置いてるとは思わなかったけどな。不用心だから隠し場所変えろ」
微妙な顔をしたが、素直に頷いた。
それから言われて部屋に上がる。自分のことはどうでもいいが病人をいつまでも玄関に立たせておくわけにもいかない。散らかった部屋に通されて、今さっきまで寝ていたらしいベッドに寝かせてから隣に座り込む。濡れた服の水分をタオルに吸わせながら。
「うちじゃ片付けろってうるさいクセに自分の部屋は散らかり放題じゃねぇか」
「うっせぇな。自分の部屋はヤル気でねぇんだよ」
狭い部屋の中は物が多い。アメリカンレトロ雑貨を収集した痕跡があるがジョークグッズや犬のぬいぐるみも転がっているし、スケボーやバスケットボールもある。統一感のない雑貨はプレゼントされたものも多いんだろう。包装紙を剥いだ上にふたを開けた箱入りでマイクをモチーフにしたネックレスが置いてあった。
二郎は友人が多い。俺が一郎と知り合った頃にはもう両親はいなかったが、健康的に、あまり道を踏み外さずに生きている。兄弟だけで生きてきたにしてもウチとは大違いだ。
ベッドで横になってこっちを見る額に手を出して、汗で端がめくれてきた冷却シートをはぎ取った。額を触って、前髪を指で梳る。目の上を手のひらが通るとくすぐったそうに目を閉じる。
何も言わなかったし拒絶もされなかった。久し振りに穏やかな空気が流れていた。
心地いいまま関係をきれいに終わらせるならここだと思う。
「二郎、お前もううちにも事務所にも来んな」
気持ちよさそうに閉じられていた瞼が開いて真っ直ぐこっちに視線を寄越す。
「携帯もアドレス消せ。それを言いに来た」
言い終えるまでは黙っていた。手を退くとベッドの上から片手で胸ぐらを掴まれ、肘を立てて起き上がった二郎が厳しい顔で間近に覗き込んでくる。
「それが見舞いに来て言うことかよ」
シャツの襟を握る手に手を置くだけ置き、病人相手にやり返すつもりがないことを示す。
「朗報だろうが。クソ兄貴は喜ぶだろうよ」
「はぐらかすんじゃねぇよ、兄ちゃんは関係ねぇ!」
「テメェだって怒ってたから最近顔合わせようとしなかったんだろ。良かったじゃねぇか」
これは詫びになっていない。気がついたが、素直にしゃべるってのがどうにも上手くない。
さっきまで眠そうな気配さえあったのに、怒ったり、寂しげにしたり、苦しそうだったり、表情が目まぐるしく変わる。そんなにしんどい思いまでして引き留められる価値が俺にあるんだろうか。二郎にはあまり優しくしてやらなかった。価値観が違うせいで不義理もあったし傷つけもした。見限られるには十分すぎる。
こっちから手を退くのは卑怯かもしれないが一郎のときみたくいがみ合うこともなく離れられるのならまだマシの気がした。
「アンタさ、いつも勝手で腹立つわ」
両手で胸ぐらを掴んだ自身の腕の間に伏せるように頭が沈んでいく。その下から恨み節をこぼして、片手がシャツの襟の中に滑り込んだ。肌を撫でて肩の後ろに入り込み、刺青の入っている一部分に指の腹で円を描く。もう痛いとかくすぐったいとか特別な感覚はなくなったが、そこには古い火傷跡があった。
「前の時、最後に会った時に俺、アンタのこと多分傷つけただろ。最初はよくある喧嘩ぐらいに思ってたんだけど、なんか様子が違うなって思ったんだ」
「違わねぇよ」
「うっせぇ。……そんで中王区で会った時、理鶯さんにそれとなく話したらこの痕のこと言われて」
ホテルのエレベータ前でのことだろう。
刺青の図柄に紛れて目立たないが、触ればわかる程度の痕になっている。親父に煙草を押し付けられた痕だ。それをまた指がなぞった。あまりに古い傷だから今は何ともないはずなのにゾクリとくる。
「俺もさ、触った感じで前からあるのは知ってたんだけど、ずっと組に入ってからやらかしてついた痕かと思ってて……理鶯さんに言われて初めて刺青入れるより前のモンだって気がついたんだ。……ゴメン。勝手に昔のことちょっと聞いちまった」
「別にいい。理鶯が話す気になったなら文句はねぇ。どうせその気になって調べりゃどこからでも分る話だしな」
この時代にあって悲惨な家庭の子供はいくらでもいた。うちの両親が殺し殺され自殺に走った事件は無理心中として小さく新聞に載った。遺児の名前は載っていないが勘がいい奴ならうちの話だとわかるし、妹のことで頼った大人はみんな知っている。些細な思い出話として今の仲間にも話してある。
うちの親父は家庭内暴力が酷く、母親を庇った際に代わりに痛めつけられた。父親が出掛けてすぐに母親が手当てをしてくれたが痕は残り、母親も間もなく限界を迎えて父親に刃を向けた。
「ごめん……前に暴力で思い通りにしようとしてるとか言って。そんなにショック受けることだとは思わなくて」
「謝ることじゃねぇだろ。事実だ。……そういうわけだ。ウチの親父はクズで俺は親父を許してねぇし、親父みたいになりたくもなねぇ。だから俺の前から消えてくれ」
「は?」
さっきからもう会わないと言ってるのにすぐ忘れる。記憶力のないガキだ。
「ふざけんなよ」
「テメェだってここんとこ怒ってたんだから丁度よかっただろうが」
「そりゃ……」
服の中から手が抜け、片手で襟を引いて引き寄せた首元に二郎は顔を伏せた。袖口から剥き出しの両腕が首を抱く。半身が落ちそうにベッドからはみ出している。
「ソープの時、他の女とヤってこいみたいなこと言うからじゃん……」
拭き損ねた雫がこめかみを伝って二郎のはねた髪のひと房を濡らした。セックスの前ってわけでもなく抱き締められることはもしかすると初めてだ。世の女がやりたがるようなことをやらずに一定の距離から一つ飛ばしでセックスに雪崩れ込むから、ただ単純に抱きしめ合うことはなかった。
「女の子キライってわけじゃねーけど、それよりもアンタに他のヤツとヤってこいとか言われる方が嫌だし、自分で思ってるより執着されてねぇのかと思って……拗ねてたからアンタ怒るしさ」
「……俺もこんなに腹が立つもんだとは思わなかったわ。飯作りに来て顔さえ見れりゃ抱けなくても困らねぇつもりだった」
「へへへっ」
首元に鼻を擦り付けて小さく笑う。訪問の驚きでしゃっきりしたように見えていたが、まだ発熱して寝て起きたばかりだ。いつもより甘ったれの箍が外れてる。
「だから、俺がまたこの間みたいなことしでかす前に解放してやんよ」
「…………あ゛ぁ?!」
肩口で発声されると耳障りで、甘えていた頭が退くのと入れ違いに耳を押さえる。
「るっせぇな、耳元で叫ぶんじゃねぇよ」
「これが黙ってられるか!アンタほんと面倒くせぇな!誰を解放するってんだ、こっちはいつでも自由にやってるっつの!」
まだ体がふらついているにわざわざベッドから降りて目の前にしゃがみ、目線を合わせてくる。機嫌よく飯なんか作ってる時は優しそうに見えるタレ目が前傾で下から凄むとガキにしてはそれなりの顔だった。
「アンタ今更何日和ってんだ?」
「あ゛?」
「左馬刻さんちの家のことも詳しくは知らねぇけどよ、ごちゃごちゃ言ってんのは一方的な暴力のことだろ?それ気にしてんなら俺が解決してやるわ」
今日は一つも指輪をつけていない両手が頭を左右から包み込んだ。かと思った次の瞬間には容赦なく石頭が額を割りに来て物理的に脳みそが揺れる。まったく病み上がりとは思えない振り切りっぷりで、ベッドの端を掴んで転げるのを堪えた。
「……ッ、何しやがるクソガキ!」
「オラ、やり返して来いや。俺が先に手出してんだから一方的な暴力にはなんねーだろ」
両手を上に向けて揃えた指を内側に曲げ煽る。かかってこいってハンドサインだ。
「頭悪ぃ理屈こねてんじゃねぇぞ」
「下手にバカが考え過ぎるとテメェみたいになっちまうから俺はこれでいいわバーカ」
くだらない挑発だ。買う価値もない安い喧嘩だ。でも動きが体に染み付いていて、つい伸びきったシャツの襟ぐりを掴んでしまう。ペラッペラの部屋着の胸ぐらを引くと少しも抵抗せず、引いた力のまま顔が近づいてきて唇が重なった。さっき手で顔に触った時より熱い気がする。
両肩に肘を乗せて顔を離した二郎はガキのくせに大人ぶった笑い方で口角を上げた。
「いいじゃん。お互い殴ったらそりゃもう喧嘩だろ?俺は怒鳴られたら怒鳴り返すし殴られたら倍殴るぜ。……相手に手上げちまうのが怖いならさ、俺でいいじゃん。安心して喧嘩できるぐらいアンタより強くなるよ。こっちも、こっちもな」
片手で拳を作ってみせ、次に赤い舌を伸ばして見せる。
それから人の顔を覗き込んで、面白そうに表情を緩めた。こっちは面白くもなんともない。自分がどんな滑稽な顔をしているか分からなかった。
「だからアンタはもっと、ちゃんと、独り占めしたくなるぐらい俺のこと好きになってくれよ」
そんな言葉の後にゆっくり肩に頭が落ちてきた。少し躊躇って背中に腕を回し抱きしめ。たところで湿ったシャツ越しに急上昇する体温を感じ、慌てて担ぎ上げて布団に寝かせることとなった。
病人が急にはしゃぐからだ。
探すと机に薬と体温計、冷却シートの替えがあって、ひとまず額にシートを貼り直した。勝手の分からない家であれこれやってまたベッド脇に座り込むと気疲れでうとうとして、布団の端に突っ伏しているところを一郎に蹴り起こされた。病人の横じゃなければマイクを持ち出していたかもしれない。
仕方なく一時休戦にして熱がぶり返してからの情報を引き継いで山田家を出る。こっちを見るいけ好かない目が長兄そっくりの末っ子が次男にぴったり張り付いてガードする間に長男が玄関まで見送りについて来た。小脇に食塩を袋ごと抱えて。
「二度とうちの敷居跨がせねぇからな」
「言われなくても来ねぇよ」
多分な、とは口に出さず。玄関を出ても完全に立ち去るまで見張るつもりらしい一郎を振り返る。
「それと、電話で言ったことはナシだ」
「あ?電話?どの話だ」
「それじゃあまた来月のバトルでな、おにーちゃん」
用が済むとさっさと外に出て車に向かう。一瞬でも足を止めれば怒声と一緒に力一杯撒き散らされる塩を被ることになる。
雨は上がっていた。
車についてから携帯を見るとメッセージが一件届いている。
“風邪治ったら連絡する”
返信を打とうとする間にもまた追加で届いた。
“帰ったらすぐ風呂入って着替えろよ”
マメなのは結構だが、多分俺へのメッセージの他にも他人からきた連絡に返事を打っている。返信の必要そうな連絡があると放置できないタイプだ。
それを思い出して勝手に機嫌を損ねて「携帯置いて寝ろ」とだけ返した。
復路は往路みたいに急ぐことなく運転してヨコハマに帰り着いた。車を出て見あげると、風で雨雲が流れて海側の空に月が見えていた。