校門を出た辺りで下校する生徒たちの歩行が一瞬乱れ、騒めきながらぎこちなく歩いて行く。放課後に無駄に居残りすることなく、掃除当番を終えると荷物をまとめて出てきた三郎は学校前の電柱脇に目を凝らした。
いや、見なくたって分かる。どちらかといえば予想が当たらなきゃいいと思ってる。
そんな期待も虚しく、他の生徒からのチラチラした視線を受けながら校門を出たところで呼び止められた。
二番目の兄に。
「よお、早かったじゃねーか」
片手を上げて近寄ってくるのを無視で門柱を左に曲がる。コイツは顔が売れすぎていて他人のフリもあまり意味をなさない。
「おいシカトすんな。おいってば!」
「どちらさまですか?あんまりしつこいとチンピラが中学校の周りウロウロして恐いってPTAに通報しますよ?」
「てっめぇ、そんな性格ひん曲がってっから一緒に帰る相手もいねぇかと思って近く来たついでに寄ってやったのに」
まるで偶然みたいな口ぶりだが実際は違う。迎えに来ようとして時間まで作って来ているのを三郎は知っている。その理由も。
「別に一人で帰っても平気だ。何かあっても自分の身くらい守れる」
「ンな話してねぇだろ。帰り、また夕飯の買い出しすんのか?」
「うん」
「じゃスーパー寄ってくか」
そして一歩後ろを歩いていつもの店に行って、荷物持ちがいる分多めに買い物をして帰った。
最近、違法製造されたヒプノシスマイクを使った正規マイク狩りがあった。狙われたのはテリトリーバトルの参加者の中で一番年若い三郎、それからシンジュクディビジョンのサラリーマン。シブヤディビジョンでは何故か路地でパンツ一丁のところを襲われたと聞いているが、大の大人が外で裸になっているわけがないからこれは何かの間違いかもしれない。
ともかく、見た目が弱そうな人間を選んで襲われている。テリトリーバトルも何回目かになるので中王区外でもずいぶん有名になってしまった。兄達は元々有名だったが。
この件以来、二人の兄が交代で下校時間に学校近くまで顔を見せるようになった。三郎のボディーガードだなんて素直に言わない。それが弟のプライドを傷つけるのを分かっている。けどバレバレだ。自分を守るために手を煩わせるのは非常に不本意だけど、長兄と一緒に帰れるのは嬉しいし、次兄は不良丸出しで悪目立ちするしちっとも嬉しくないけど荷物持ちにはなる。次兄の日は買い物をして帰るのが定番になっていた。
それに、最近の二郎はあまりヨコハマに行かなくなった。しばらく前までは何かと理由をつけて通っていた様子だったのに。三郎の迎えのためかというとそうでもない。ヨコハマに行くための時間を作るってことをしようとしていない。その代わりに今回のマイク狩りについて調べると言ってあちこちウロウロしていた。それこそこういう荒っぽい話はヨコハマにこそ集まりそうなのに、聞こえてくるのはシンジュクやシブヤで集めた情報ばかりだった。
何かあったな。と思っても三郎は聞かない。ヨコハマまで会いに行っていた誰かと仲違いしたならそれでいい。どうせ領土争いする敵なんだ。馴れ合う必要はない。
帰りの道すがら、二郎がコンビニに寄ると言ってスーパーの袋を提げたままアイスを買った。期間限定フレーバーで売り切れが多くて発売からしばらく経っても入手できていなかった。業務用の冷凍ストッカーを覗くと、二つある。もちろん二つ買う。
「そのアイス、カードゲームで買った方が食べるんだからな」
「三郎テメェ、ルールの複雑なヤツ持ち出してくんなよな?」
「仕方ないからバカでも分かるようなシンプルなゲームにしてやるよ!」
「兄貴に向かってバカってゆーな!」
二つ買ったら当然一つは長兄の一郎にとっておくので必然的に残り一つを取り合うことになる。
今夜も二郎は夜中留守にしたりしないらしい。よかった、なんて言わないけど、アイス争奪戦に勝ったら二郎にも一口くらい恵んでやろうと思いながら並んで歩いた。
◇
「最近二郎のヤツこないっすね」
事務所で暇を潰すのにも飽きた頃、大柄なやくざがポツリと言った。その名前を聞いた話相手、細身のやくざは奥の部屋の扉に視線を投げる。静かだ。仮眠中の兄貴分が起きてこないのを確かめてから話に乗った。
「兄貴が寝込んで以来か?」
「風邪貰っちまったんすかねぇ」
「それにしたって長ぇだろうよ」
「見舞いで兄貴とやり合ったとか」
ありそうな話だが、本人達には聞けないから真相は闇のままだ。病欠していた兄貴分が復帰後に、ちらりと二郎のことを話題にしたらえらい目にあった。怒るのに何がダメなのか言わないから今では二郎達イケブクロ兄弟の話題そのものが禁句だ。
兄貴ほど短気じゃない二郎に聞くこともできたが、兄貴がこの調子の時にこちらから二郎に連絡を取るのもどうか。見舞いの後で簡単な報告はあったが、それ以降は二郎からの連絡がない。いつもなら週に一度くらい連絡をよこすのに。
カタギの高校生がやくざの事務所に出入りしているのがそもそもの間違いだが、気難しい兄貴とも上手くやっているように見えたし、度胸と愛嬌でみんなに気に入られていた。卒業後は組に入るもんだと思っていた奴もいる程だ。これは以前「兄ちゃんの仕事手伝うからやくざにゃならねぇよ」との断りを食らっている。
「ん、いや、違うな。見舞いの後にいっぺん見かけたってテツが言ってたわ」
「ヨコハマっすか?」
「ああ。ほれ、金持ち逃げしたバカがいたろ」
「そんな奴もいましたねぇ」
「アレで兄貴がマイク使ってる時にチラッと見かけたって言うのよ。すぐいなくなったらしいが」
「でもアイツ死んだでしょ?二郎が近くにいたなら兄貴のこと見つけて声掛けねぇはずがねぇし、現場見りゃ止めに入るじゃないっすか」
「だからよぉ、見間違いじゃねぇのかと思ってんだけど」
「いやぁ、でも二郎もカタギっすからね、ついにドン引きして手を引いたってことも……」
そう言った三秒後に奥の扉が開いて二人は死を覚悟した。こういう時にちょうどよく二郎がやってくれば代わりに兄貴と喧嘩をおっ始めてくれるのに、なんてことは口が裂けても言えない。今は理不尽な怒りを二人で分かち合うしかないのだった。
◇
日暮れ前の歓楽街にはまだ客の姿はなく、出勤前の簡素な姿の女や、開店前の準備に追われる男の姿が目につく。料理屋の脇を通ればすでに揚げ油の匂い。本番である夜を迎えに、街が目を覚ますところだ。
諸用で訪れたものの、どこも開店前の忙しい時間帯だった。開店後なら様子見がてら飲みに出てもいいが時刻が早すぎる。さっさと帰るつもりで左馬刻は舎弟を一人連れ、最寄りのコインパーキングまで歩いていた。
道の両側にはいくつものビル、さらにその中にいくつものテナントがひしめき合っている。飲み屋、風俗店、コンビニ。一本向こうの通りには酒屋、花屋、案内所。売れてる店、潰れる寸前の店、老舗に昨日オープンしたばかりの店。
ピンからキリまで様々な店が軒を連ねる中、一つのビルの前で垢抜けない女が斜めがけしたバッグの紐を握りしめて看板を見上げていた。化粧っ気もなく佇まいも自信がなさそうで、それでいて妙な決意が見える。妹の姿がダブって見えた。年頃と背丈が近いからだ。顔が似てるわけじゃない。
視線を追った先にある看板はキャバクラのものだった。高給高待遇をアピールして女を集めているが、いい評判は聞かない。スタッフの入れ替わりも激しく客も夜のルールを知らないバカが多い。経営者は商品である女を消耗品だと思っている。そんな店だ。
手の中にギラギラした求人広告を握りしめている女はどう見たって店員じゃなかったし、夜の仕事自体が初めてのように見えた。猥雑な街の景色の違和感となってそこにいる。
しばらく見つめた末に女はビルの入り口に向かって歩き出した。その細い肩を掴む。
「ひゃっ!」
飛び上がって振り向いた女は左馬刻の顔を見て二度驚いた。よくあることではある。
「おい、そこの店に入店する気ならやめときな」
怯え混じりの目がわけがわからないと言っている。肩を離すとポケットに両手を突っ込んで何もしないことをアピールした。
「面接受けんだろ?余計なお世話だろうが、そこは客層も店の対応もクソだから長続きしねぇよ」
何度も瞬きして、やっと女はこっちの言葉を飲み込んだ。手の中のチラシを命綱みたいに握っている。命綱なのかもしれない。社会的に女が優遇されているといっても、家族に男がいれば紐で繋がった重石のように生活が狂う。この街の女にはそういう身の上の奴が多い。
言葉を出そうとして飲み込むのを何度かやった末に女はどもりがちに返事をした。
「あ、あ、あの……な、何でそんなこと教えてくれるんですか?」
面倒な質問だ。名前も知らない女に妹の話をする義理もないし、それ以外の理由なんか、気まぐれでしかない。舌打ちを我慢して踵を返す。
「邪魔したならもういくわ。じゃあな」
実際に躊躇いなく立ち去るつもりで歩き出した。途端にシャツの背中を掴んで引き留められ、足を止めると慌てて手が離れる。
「す、すみません!あの、あ、ありがとうございます……。こういうお店のこと、よく分からなくて……」
「だろうな」
女は自分のブラウスの裾を握って俯いてしまった。爪はボロボロだし、髪も一度も染めたことのなさそうな艶のある黒髪。美人じゃないがそこそこ整っていて大人しそうな造りの顔。どこのどいつとも知らないが、この時代にこの商売をするには最悪だった。
大昔のことは知らないが、H歴になってから女が権力を持ち、男より金を持つようになってからホステスや風俗嬢の人口は当たり前のように減った。自分より稼ぎの少ない男の相手をしたがる女はいない。世の中は男の女への不満が蔓延し、それを乱暴な言葉や行動でぶつけようものならなんのかんのと罪状をつけられて人生が終わる。
だけど商売女は別だ。このご時世に男相手の接待なんかしてる女はよっぽど金に困っている。それを承知で足元見て店は雇うし、客は高い金を払ってでもサンドバッグにしていい女と飲みたい。
それでも当然店のルールってもんはある。女は機械じゃない。酷い扱いをして辞められたら店が立ち行かないし、なんだかんだ言って働く女たちに情のある経営者は多い。
だが、そうじゃない店もある。そんな店に勤めてしまったら気が弱いところにつけ込んで散々な目に遭うだろう。この世界のことをよく知らないところに強い言葉で都合のいいことばかり吹き込んで洗脳して、ズタボロにする。
そういう地獄が広がらないように定期的に徘徊しているが、時々こっちの目を掻い潜ってロクでもないことをしやがる男もいる。そういうクズに引っかからないかどうかは最終的に運しかない。賢い女でも状況次第で簡単に地獄に落ちる。
ここで左馬刻と会ったのがこの女の運ならば、それを上げるか下げるか。今が境目だった。
溜息を一つこぼして背後に控えた男に手で合図を送る。
「ローランに電話しろ。多分もう誰かしらいる」
向き合ったままで何を始めるのかわからず、上目遣いに様子を窺う女の目の前で懇意にしているクラブのママに話を付けた。長年稼いで金には困ってないクセにいつまでもこの街で商売を続けている肝の据わったババアだ。ただ、人道的で面倒見はいい。
電話を切ると女と視線を合わせた。短い時間だが目の前に居続けたら少しは慣れたらしい。逃げずに首を傾げる。
「今入ろうとしてた店より金は稼げねぇがマシな店を紹介してやる。金の方が大事っつうなら何も言わねぇが、こんなとこでも人間らしくいたけりゃついてきな」
言うだけ言って返事は待たずに店に向かって歩き出した。強制するつもりはない。先方の店も左馬刻も困っちゃいない。来なけりゃ開店前からガラ空きの店で軽く一杯ひっかけて帰るだけだ。
五歩も進んでからたどたどしいヒールの足音がついてきた。店では結局面接の様子を肴に飲んで帰った。
次に左馬刻がクラブ ローランを訪れたのは一週間後だった。ベテランホステスが雑な営業メールを寄越したから顔を出しに。
いつも連れまわしている舎弟と二人でボックス席に収まってボトルを空けていると、例の女、ジュリがパッとしないスーツ姿で出勤するのを見つけた。
「似合ってねぇなぁ」
「アレ、ママの見立てよ。店の服好きに選んでいいって言ったら、わかんないからママに選んで欲しいって言ってね」
「なんだそりゃ」
「ママはあれが似合うって言ってんの。まぁ可愛がってるってこと」
女と目が合うと俺が何も言わないうちに隣に座っていたホステスが手を振って呼びつけた。席につく様子を見ていると多少の作法は身についているらしい。
「おい、そいつの分も指名料つけときな」
「さすが太っ腹。ありがとうございます。ジュリちゃんもお礼言いな?」
勝手に呼んで本人より先に大袈裟に反応した先輩に唆されてジュリも座ったまま頭を下げた。
「あ、ありがとうございます」
それ以上言葉が続かない。なので横のよく喋る女が引き継いで場が静まり返るのを防いだ。こういうのはまだ時間がかかりだそうだ。
そのうちベテランホステスの上客がふらりと来店したんで席から追い払った。こっちだって正当に金を払うが、この店のみかじめ料は結局ウチに入る。どうせなら他の客から金をとってきた方がいい。
ベテランがいなくなるとジュリが残され、困った顔をした。やることを探して中身の少なくなったグラスを発見するといそいそ水割りを作り始めるが、これがまた薄い。あまり薄いんで口直しに別の酒をグラスでオーダーした。それを舎弟が「商売上手だ」と揶揄すると何だかわからない顔でまたお礼を言う。ババアの新人教育がなっていないが、不出来な子ほど可愛いってことなのかもしれない。
席に着いた時にジュリの分に用意された酒はなかなか減らなかった。代わりに左馬刻たちがガバガバ空けていたから売り上げは悪くないだろうが。
「酒飲めねぇのか」
こういう商売をしていたって下戸は珍しくない。酒を飲ませる仕事だから本人が飲めなくたっていいが、当然勧められれば断り辛い。
「あんまり…」
「なら適当にカクテルでも頼んでノンアルで作らせろ。客には酒のフリしとけ」
言うと舎弟が面白そうに頷いて、
「そうそう。ママしょっちゅうウーロンハイだっつってウーロン茶飲んでんすよね」
妖怪みたいなババアのクセして酒好きでもなんでもない。流石に飲めないってわけじゃないが、上手いこと抜くところは抜いて伝票にだけ酒として記録している。親より年上のババアはそういうところがやたらと上手かった。
そこからクセの強いベテランたちの話に転がり上機嫌の舎弟の喋りに上手く相槌を打った。そういうのも必要なスキルだ。
調子よく飲んでいた舎弟が便所に立った後、何か覚悟めいた顔で座り位置を少し詰めてきたジュリのガリガリの手が左馬刻腕に絡んだ。
「あの、……また来てくれますか?」
一丁前に営業のつもりか。営業にしたって不器用すぎるが。あまり邪険にならないよう手を解いた。
「そういうのは俺には要らねぇよ。客だがこういうトコ来んのは半分仕事だからな」
長くなった煙草の灰を灰皿に落とす。暗めの照明の下では少しでも俯かれると表情が窺えなかった。
「どうせまた来るが、指名はしねぇからな」
「そう、ですか……」
まだ入店したばっかりだしノルマがあるわけでもない。そう気落ちすることもないはずだ。
「心配すんな。行儀のいい知り合いに声掛けといてやるから肩身狭い思いすることはねぇ」
「……左馬刻さんは呼んでくれないんですよね」
「俺が贔屓にするといいことねぇからな」
担当として営業をかけてくるホステスも贔屓しているつもりはない。どの客にも担当がつくからそうなっているだけで、他の店でも同様。
以前、左馬刻に恨みのある連中が近しい人間を襲撃したことがある。人の恨みなんか山ほど買っていて襲われたって相手を特定もできない。だから他人に深入りはしない。弱い人間なら尚更だ。
長い便所から舎弟が帰ってきたことで話は打ち切られた。接客業としてなってないが、ジュリはすぐ俯くから断られてどんな表情をしたのかは知らなかった。
指名しなくたって店に顔を出せば手の空いているホステスがあてがわれる。新人で指名客も少ないジュリとはよく顔を合わせ、そこそこ上手くやっているのを確かめていた。会うたびに俯くことは減り、ちょっとした嘘がつけるようになって、少しずつ強くなっていった。
◇
二郎の携帯のアドレス帳の底に“#クソ”という名前で保存されている番号がある。元は“じゅうと”という名前に設定されていたが、自分で電話することはもうないだろうと思ってアイウエオ順で一番最後になるよう設定を変えた。実際しばらく使う機会もかかって来ることもなかったせいで設定を変えたことすら忘れ、電話しようと思い立ってから見つけるのに時間を食って理不尽にも相手に腹を立てたものだが、とにかく電話をかけた。
要件は最近相次いで確認されている違法マイクの出処についてだ。#クソこと入間銃兎は素行の悪さに反して組織犯罪対策部の刑事で、多少の管轄違いはあったとしても違法マイク事件の情報を握っている。銃兎自身もヒプノシスマイクの持ち主だし、過去に違法マイクを所持した暴漢ともやり合っていた。二郎は現場に立ち会ったから知っている。
二郎も違法マイクの存在は以前から噂に聞いていて、実際遭遇してもチンピラが喧嘩に持ち出した程度の認識だった。でも、自分ではなく身内に被害が出るとなれば話が変わってくる。弟が狙われたことで本腰を上げて調査に乗り出した。
この件は当然ながら兄の一郎と共同で、フットワークが軽く顔の広い二郎は今のところ情報収集に徹していた。それでも現代に生き残る唯一の兵器、ヒプノシスマイクの密造なんて重罪中の重罪。警察だって血眼で追っているだろうに製造元が摘発されたという話は聞こえてこない。開発技術者になりうる人物や製造に必要な施設、おかしな動きをしている団体や関連性のある噂まで。多方面から調べても有力なネタが出てこない。
だからこれは最終手段だった。出来れば避けたい。貸しはあるはずだから新しい借りにはならない予定だが、あの喋り声を聞くだけで過去にコケにされた記憶が掘り起こされる。
直接連絡する気にならないから、今までは情報交換したい時、他の人間に仲介を頼んでいた。面倒くさそうにしても頼み込んでいるとなんだかんだでやってくれる。その人、左馬刻とは今、銃兎以上に会うことができない。どんな顔で会えばいいかわからなくなって、連絡も、訪問もやめて随分経つ。
最後に会ったのは定期開催されるテリトリーバトルで当たった時だ。試合前に顔を合わせると面倒なことになるのが分かり切っているので弟と示し合わせ、ヨコハマチームで現在唯一気軽に話の出来る理鶯に入場時間を確かめてまで遭遇を避けた。ステージで対面したらお互いに余計なことは言わない。これは二郎がヨコハマに通うようになった頃から変わらない暗黙の了解だった。下手に交流を仄めかせば二郎の兄弟達はいい顔をしないし、男たちの身を削る戦いをその辺のアイドルコンサートと勘違いして囃し立てる中王区のイカレた女たちに余計な詮索をさせるネタになる。
バトルの日に一瞬だけ目が合った気がした左馬刻は特別変わったところもなかった。宿敵である一郎のことだけを執念深く挑発して、ヒプノシスマイクを使ったラップで傷つけあって。そういう、二郎のことなんか眼中にないような対決だった。いつものことだ。
会えないと思うのは二郎の都合であって左馬刻には関係ないことだが、基本的に向こうから連絡を寄越すことはほとんどない。だから二郎が避けたらそれまでだった。
柄になく落ち込む気持ちをぶん投げる勢いでやけくそ気味に二郎自身の宿敵である男の携帯を鳴らす。しばらく呼び出し音を繰り返した後で繋がる。
「珍しいですね、左馬刻を通さないの。声も聞きたくなかったんじゃないんですか?」
会うたびにライムを刻むかどうかも関係なく罵っているからそんなこと言ったような言ってないような気がする。言ったんだろう。思いつく限りの文句は大体言った。
「うっせぇ。直接番号知ってんだからいいだろうが」
「まあいいでしょう。こっちも丁度左馬刻経由で伝えようとしていたところでね」
ギブアンドテイクだ。向こうもこっちの情報を欲しがっている。警察には口を割りたがらない、後ろめたいことや警官に虐げられた経験のあるヤツ。そういう人間の証言や、日常の違和感に近い情報は街に潜伏する沢山の子供を仕切っている二郎に分がある。ディビジョンを跨いで知り合いも多い。イケブクロの顔役という格に群がってくる人間もいるが、本人が自覚しているよりも人柄を見て協力している人間が多いのが強みだ。本人はまだまだケツの青いガキだが、そういう側面を銃兎は評価している。場合によっては使える、と。
今回は二郎の持っている情報に目を瞠るものはなかった。あればあったで警察を出し抜くためにあえて黙っておくことだってあるが、今日に限ってはそれもない。それでも銃兎は「そうですか」と軽く相槌を打った。詰られない。警察もまた捜査が進んでいないのだ。
「こちらからは違法マイクの所有者の証言がとれましたよ」
「出処のこと聞き出せたのか!?」
「それがね、みんな揃いも揃って“憶えてない”んですよ」
「なんだ、勿体つけやがって。結局はぐらかされてんじゃねーか」
「はぐらかされたなら相手は大したもんですよ。それだけのポーカーフェイス、早々できるもんじゃないでしょう?」
どんな尋問をしたのやら、バカにしたように声が吊り上がる。虚勢も張れないぐらいえげつない責め方をして、それでも何も引き出せなかったってことだ。
「憶えてないって、急にマイクがあったとか言うんじゃねぇだろうな?」
「そんな魔法みたいなもんじゃないですけど、入手前後の記憶が曖昧でわからないって言うんですから似たようなもんですね」
「テメェらのやり方が手ぬるかったんじゃねぇのかよ」
「おや?今度試してみます?」
癇に障ったようだ。声が愉快そうに笑いを孕む。それだけでマトモなやり方で済まなかったのがわかる。もちろんまっぴらごめんだ。
「マイク使用に耐えるだけの精神力もないのに使ったバカは病院送りになってますし、喋れるようになったらまた改めて聞いてみますよ」
通話はほんの数分で終わった。
違法マイクの威力は限定的で大量生産出来ないと推測されている。汎用性のあるマイクの開発が困難で、代わりに特定の使用者に合わせて設計された製品が出回っている。ディビジョン代表の持つような正規ヒプノシスマイクの出力と比べれば威力もいまひとつだが、使いどころ次第では厄介ではある。
ヒプノシスマイクっていうのは要するに飛び道具だ。武器が廃止されても日常生活で武器になるものが駆逐されたわけじゃないから、殴り合いや刃物による殺傷事件は依然として発生している。ただ銃はない。狩猟用のものも厳しく取り締まられている。猟銃やボウガンみたいな矢を用いた道具は厳重に管理された一部の業者だけが野生動物の駆除や食用動物の捕獲のために認可されているばかりだ。
やくざでさえ拳銃を持たない社会において、握った棒っ切れでも届かない距離から投石より的確に狙い打てる武器としてヒプノシスマイクは有効だった。人目のないところでやれば証拠も残り辛い。銃と違って銃創のような、見りゃわかるっていう痕跡がない。
鬱憤の溜まった現代にヒプノシスマイクを欲しがる奴らは後を絶たない。需要があれば供給は自ずと発生する。とはいえ、開発製造にはかなりの技術と設備が必要と言われていて、だからこそ一連の違法マイク事件は共通した供給元によると見られていた。
違法マイク所持で逮捕された連中が揃いも揃ってマイク入手に関わる記憶を失っているというのなら、やっぱり同じ人間、もしくは団体がマイクをばら撒いていることになる。
この話を二郎が家に持ち帰ると、一郎は壁に掛けたホワイトボードの自分のスペースにぎっしり書き込まれた予定の確認をしてから仕事デスクの引き出しを開き、二郎に一枚の名刺を差し出した。
「捕まった連中の記憶が改竄されているって話だったらシンジュクの寂雷さんが詳しいだろう。悪いが二郎、言ってきてくれるか。先に連絡は入れておく」
病院名の下には“神宮寺寂雷”の名前が印字されている。かつて一郎や左馬刻と同じチームにいた伝説のMCの一人だ。温厚そうな人柄に反して一歩も退かない独特のラップでテリトリーバトルのステージに立つ。代表の中でも一番年上で、二郎にとっては心理的にも距離がある。同じ年上でも喧嘩相手になるヨコハマ連中の方が気は楽だった。
「失礼のないようにな」
「うん……」
両手で持った名刺を見つめて頷くと、兄は笑って帽子癖のついたぺったりした頭をかき混ぜる。
「そんな心配するなって。寂雷さんはいい人だからきっと力になってくれるよ」
励ましに上目遣いでへらりと笑って早速家を出た。出たところで帽子のつばを引き下げて深く息を吐く。以前なら素直に大喜びして張り切れたのに、兄の持っている余裕や過去のつながりを思うと自分の小ささを思い知るようで胸がじんわり重くなった。
数か月前、テリトリーバトルが始まった頃まではたった一人の兄に導かれる方向に全力で走っていけば何も不安なんかなかったのに。兄ちゃんの笑う顔を見ても他のことを考えている。
手に掴んだバイクのキーを一度ポケットに入れると両手で頬を張った。ぱんっという乾いた音と痛みで顔を上げる。今は自分の仕事を果たすときだ。
Buster Bros!!!のステッカーを貼ったヘルメットを被り、愛車に跨ってシンジュクディビジョンを目指した。
シンジュクの町はイケブクロともヨコハマともまた違う空気がある。駅近くにはかっちりスーツを着込んだ会社員がせかせか歩いていて、病院の待合室には顔にガーゼを貼りつけて腕を吊ったピアスだらけのガキがいない。ストレスを押し固めたような大人ならいる。病院にドレスコードなんてないはずだけど、スカジャンにキャップが場違いに感じてちょっと居心地が悪い。
病院に着いてから携帯を見ると一郎からメッセージが届いていて、受付で告げれば寂雷に取り次いでもらえるという言葉に従って母親程の年齢の受付女性に寂雷の名前を告げた。案内された待合室の茶色のベンチに腰かけていると少し待って先の患者と入れ違いに診察室に招かれた。患者じゃないけどいいんだろうか。個人的には初めて対面した神宮寺寂雷にそれを訊くと「私のところへはどういうわけか自分の治療目的じゃないお客さんがよく来るんだよ」と答えになっていないことを言って苦笑した。
患者用のスツールに腰かけて本題に入る。大まかな話はすでに一郎から伝わっていて、補足として銃兎から聞いた話の細かなニュアンスを伝えた。明確に記憶改竄とは言わなかったが、揃いも揃って違法マイクを入手した部分だけ忘れたなんて偶然は存在しない。
静かに話を聞いていた寂雷もそこを疑うことはなかった。
「ふむ。興味深い話だね。もう知っていると思うけど、ウチの独歩くんもマイク狩り被害に遭っているんだ。こちらとしても他人事じゃない」
快く協力を承諾した後、寂雷はデスクの端に並べている書籍の中から一冊を手に取った。難しそうなタイトルは二郎の目にはチカチカして見えたが“催眠”という単語だけは脳が拾った。
「二郎くんはヒプノシスマイクがどういった装置か知っているかい?」
「どうって……ラップで精神にダメージ与える装置……っすか?」
「ざっくり言うとそうだね」
手にした本を膝の上でめくる。難しい熟語混じりの文字ばっかりだ。正面から一緒にのぞき込んでいた二郎は一秒で音を上げた。
パラパラめくっていたページの途中。音を耳で受け、耳から脳に矢印が伸びている図が描かれたページで手が止まった。
「ヒプノシスマイクは集音した声を特殊な超音波に変換、増幅して高い指向性を持って元の音声と一緒に発することのできる装置なんだ。この超音波を受けると催眠状態に陥り、後は君の知る通りの症状が出る。ヒプノシスマイク以外での催眠術は見たことあるかい?」
「嘘くさい奴ならテレビで見たことある、あります」
「それは薄暗い場所で、静かに語りかけたりしてなかったかい?」
「ああ、そんなかんじ。椅子に座らせて、力抜いてくださーい。アナタは今五歳です。何が見えますかー?ってヤツ」
「うん。一般的に催眠術は明るい場所より暗い場所、リラックスした状態がかかりやすと言われているんだ。でもヒプノシスマイクはそうした条件を必要としない。それだけ強力で強引な催眠と言える。催眠術には今君が言ったような、古い記憶を呼び起こしたり忘却を促したりするものもある。当然、意図的に忘れさせた記憶を蘇らせることもできる」
「それじゃあ……」
「理屈上はね。これは状況によるんだ。私のラップは興奮状態を鎮めたり精神状態をコントロールすることで自己治癒能力を高めたり、……あとは他のヒプノシスマイクによる精神干渉を受け辛くするようにはできるけど、今のところは記憶に関わる干渉はしていない。試そうにもデリケートな行為だからね。それは警察も承知済みだから、今回みたいな案件でも直接依頼されることがないんだ。こちらから申し出てもなかなか許可は下りないだろうね」
それならば銃兎に口利きを頼めば、と考えたが銃兎だって寂雷とはテリトリーバトルで面識がある。左馬刻経由でも依頼は出来るのに利用していない。組織故のしがらみか方針の違いかはわからないが、素直に承諾する事はなさそうだ。
「じゃあ、俺が警察より先に新たな違法マイクの持ち主を見つけて押さえたら?」
「成功の確約はできないけど試してみよう」
穏やかに微笑んで差し出された手をがっちり握る。警察を出し抜くってのはテンションも上がる。
寂雷からの申し出で携帯の連絡先を交換していた時。廊下から女の悲鳴が聞こえてきた。反射的に立ち上がって診察室のドアを開け、寂雷と二郎が戸口から顔を出した。すると廊下の向こう、受付の近くで金髪の男が看護婦を壁ドンしている。看護婦の方もまんざらじゃない顔でバインダーを胸に抱きしめて男の甘ったるい視線を受け止めていた。
「やあ、一二三くん。今日はスーツなんだね」
二郎より高い位置から穏やかな声で金髪の男の名前が呼ばれ、男は滑らかに首を巡らせてこちらを向いた。
「ああ、先生。お忙しいところお騒がせしてすいません。素敵な白衣の天使ちゃんがいたもので、つい」
白衣の天使ちゃんこと看護婦は背中を押し付けた壁伝いにずるずる崩れ落ちて床に座り込んでしまった。この男、伊弉冉一二三は女性相手にはヒプノシスマイク不要らしい。自身だってモテないわけじゃないが、ブラコンを始めとする諸事情により三日以上続くカノジョが出来たためしのない二郎はうんざり顔だ。
一二三は屈みこんで丁寧に白衣の天使ちゃんに別れを告げると軽い足取りで診察室までやってきて、中に戻った二人に続いて入室した。二郎とスツールを並べて余計なシワひとつないスーツの足を組む。輝かしいホストオーラをまき散らし、自信に満ちた笑顔を二郎に向ける。
「君はイケブクロの山田二郎くんだね?今日はどこか調子が悪いのかい?」
「テメェこそどうせ患者じゃねぇんだろ?」
寂雷の言っていた治療目的じゃないお客さんが誰のことかすぐに分かった。キラキラしているのに深みのある、軽薄そうでいて大人びた目が二郎の胡散臭そうな顔をじっと見つめた。これからの話を聞かせていい相手か見定めている。
「……まあいいか。僕は親友の独歩くんを襲った暴漢について独自に調べていてね。気になる場所が見つかったけど一人で行くのも不安がある。この間襲われたばかりの独歩くんを連れて行くわけにはいかない。それで先生に相談にきたんだ」
「おい、その暴漢って……」
「マイク狩りのアジトが分かったってことかな、一二三くん」
思わず二郎の腰が浮く。それを指先までささくれなく整えられた手のひらが優雅に制し、顔は寂雷に向けて話を続けた。
「アジトかどうかはわからないんです。ただ、頻繁に足を運んでいた場所の中で唯一必要性のわからない場所があったんですよ」
「その場所、とは?」
一度横目で二郎を見て、視線を寂雷に返す。まだ二郎に対する信頼はない。寂雷が頷くと一二三は目顔で微笑んで答えた。
「リサイクルショップです。中古の家電なんかを扱ってる小さな店だったそうです」
「だった?」
「ああ、今はもう居抜きで別の事業主が使ってるんだよ。小さな会社のオフィスになっていたはずさ」
携帯で地図を広げ、場所を確認する。シンジュクディビジョンの繁華街から離れた古い商店街の外れで路地を入ったところにある。こんなところで営業しても儲からないだろう。
「リサイクルショップの移転先は少し調べてみたけどわからずじまい。だから現地だけでも調べようと思ったんだけど、僕はこの通り目立ってしまうし何が出てくるかわからない相手に単身乗り込むような無謀じゃないのさ」
「なるほど。目的は調査なんだね。それなら餅は餅屋だ」
萬屋は探偵というわけじゃないから餅屋よりかは米屋に近いが、二郎にとっては渡りに船だった。
「一二三くん、こっちの二郎くんは一二三くんのストーカー事件を調査してくれた子だよ」
「おや、その節はとてもお世話になったね。お陰で僕の子猫ちゃんを救うことができた。また手を貸してくれるかい?代わりに……そうだな、君がもっと大人になったらお酒をおごってあげよう」
夢のような音が鳴りそうなウィンク。女はこういうのがいいんだろうか。十七歳の男子高生には響かなかったが。
「要らねぇよ。依頼なら引き受ける。その代わりにアンタが調べた情報ってのを教えてもらうぜ」
「もちろんだとも。独歩くんの仇打ちが出来るならお安い御用さ」
気取った口調で請け負うシンジュクナンバーワンホストが絵になる角度で首を傾げて口元だけで笑う。長い睫毛で縁取られた双眸はまったく笑っちゃいなかった。
寂雷と会った翌週、二郎は再びシンジュクディビジョンを訪れた。
こうした用事がなけりゃ一生踏み込まないようなさびれた商店街だ。二郎の人生より長く存在する古臭い店が連なっている通りの端でバイクを降り、マップアプリで確認した路地に踏み込む。片側は外壁に細かなヒビの入ったビルの側面。もう片側は通り沿いの商店と、その奥にもう一軒、店らしい平屋建ての建物がある。そこから先は塀が続いて突き当りがフェンスで行き止まり。その平屋建ての店が目的地だ。
一二三によると登記情報に記載されている不動産の所有者は古くからの地主でこれと言っておかしなところはない。現在入居している会社も、元々は社長がマンションの一室でやっていた業務を増員拡大するにあたってつい最近引っ越したという事情だった。不動産情報を調べるにあたって間取り図は入手済み。過去には商店の店舗と事務所と倉庫を兼ねた施設だったために広い土間が二つと六畳ほどの部屋が一つある簡素な構造だ。人通りは少ない。というよりも、ない。
しばらく周辺を散策して店の裏側の勝手口まで確認したが、モノを売るには不便そうな何の変哲もない建物だった。人目を忍んでコソコソやるにはうってつけだろう。おまけに家賃は近隣相場より安いらしい。正面はガラス戸とサビだらけのシャッターで防御力はいまいちだ。防音性もない。
この日は会社は定休日だった。それでなくても販売店でもないオフィスに立ち入るのは難しい。代わりに、リサイクルショップの客のフリをして近隣に住んでいる大家に話を聞いた。もしや大家も記憶を消されているんじゃないかという期待じみた予想は当たらず、退去時にも適切な手順を踏んで退去した。閉店するため移転先はない、という話を聞くことができた。入居中はトラブルもなかったそうだ。
折角の手がかりも再び途切れてしまった。
あんまりにも収穫がないので、他にもリサイクルショップに出入りしていた人間が見つからないものか、近隣で聞き込みを続けようと決めて商店街に戻る。どこの店も看板は色あせて、正面のガラスに貼りつけたポスターは何年も前の啓蒙ポスター。おもちゃ屋のガチャポンは旧型。洋品店では六十代でも着ないようなダサい服に安売りのハンコ押し値札をつけてずらりと並んでいた。歩いているのも年寄りばっかりで活気とは程遠い。こういった場所はイケブクロにだってあるが、イケブクロはシワだらけの手で皿を回したり、もううまく回らない舌で昔のイケブクロサイファーの話なんか聞かせてくる年寄りが目立つ。大人しく街と共に老いていく住民の姿は寂しく見えた。
H歴になっても昔の生活そのままで、爺さんはラップなんかしない。婆さんはテレビの中でしか中王区を知らない。この国に住む誰かのために世の中が移り変わってもこの街は過去に取り残されたまま静かに暮らしを続けている。
たばこ屋の窓口には猫を抱えた婆さんが座っている。うとうとしていて危なっかしい。寿司屋の目の前に出された竹のベンチには店主らしい服装の爺さんと、友人らしいポロシャツの爺さんが新聞を広げて話し込んでいた。町はずれの目立たない店のことなんか誰も記憶してないんじゃないだろうか。
声をかける相手を決めあぐねていると、花屋の前でやっと若い人影を見つけた。こざっぱりした服装で黒髪を一つにまとめた女だった。百合の花束を受け取って店を出るところで、追ってきた店員に手渡された釣銭を手に握って歩き出す。片腕で花束を抱えたままでポシェットから出した財布に小銭をしまおうとして、落とした。拾おうと屈んだら今度は花を落としそうになって慌てている。二郎は駆け寄って足元に転がった百円玉を摘まみ上げた。
「あっ。ありがとうございます」
花束を抱え直した彼女がお礼を言いながらもう一度屈もうとするのを押しとどめ、残りの小銭も拾い集めて広げた財布の小銭入れに入れてやった。慎重に財布をしまってから女は改めて二郎を見上げ、
「ごめんなさい。助かりました……あ」
綺麗に整えられた眉があがる。
「何?」
「あの、間違ってたらごめんなさい。あなた、バスターブロスの二郎くん?」
「ああ、そうだよ」
一二三が目立ってしまってやり辛いようなことを言っていたが、確かにそうだ。テリトリーバトルが始まって以来、広報が盛んな中王区ほどではないにしてもイケブクロディビジョン以外の土地でも顔を知られるようになった。それで話が早くなることもあれば不毛に敵対視されることもある。女は前者だ。
「プライベートの時にいきなりごめんなさい。テリトリーバトルのニュースで知ってたからつい……」
「いや、いいけど……お姉さん顔色悪くない?」
「大丈夫……」
力なく言った端から細い体がぐらりと揺れて咄嗟に手を出した。軽い体と花束が腕の中に落ちてくる。
「ごめんなさい、ちょっと貧血気味なだけだから」
腕につかまって立ち直した彼女を支えて、しばらく腕を掴んだままでいた。細くて白い。化粧で顔は表情の変化しかわからないが、頬も真っ白なんだろう。
「いいって。俺も急いでねーから座れるとこまで連れてくよ」
なるべく近くのベンチを探して商店街の中ほどに設置された、これまた古いベンチまで移動する。近くの自販機で缶ジュースを二つ買って、一つを差し出し二郎も隣に腰かけた。
「ごめんな。あんま気の利いたもん売ってなくてさ」
「とんでもない。お返し出来たらいいんだけど、今なにも持ってないの」
「美人とお茶してるのでチャラにしとく。その花束、これからどっか行くとこ?大丈夫かよ」
ベンチには二人の間に花束が横たわっている。彼女がそれを少し持ち上げて花の顔を見せると百合の甘い香りが漂ってきた。
「……これは、お兄ちゃんに……」
「へぇ。兄ちゃん店でも出したのか?」
「うん、そんなところ」
「兄弟仲いいんだな」
服装や持ち物からしても遠出してきた様子はない。シンジュクに住んでるんだろう。中王区外で生活する女の大半は壁の内側で暮らせない理由がある。引っ越す金がないとか、中王区での就職支援を受けられなかったとか、家族がいるから動けないだとか。
「二郎くんちも仲良いでしょ?兄弟三人で暮らしてるって聞いたけど」
「ああ。うちは親いねーからな」
「そっか。……うちもお兄ちゃんとずっと二人で、お兄ちゃんには迷惑かけてばっかりだったな……」
儚げな顔が細い膝の上を向く。
「うちもだよ。兄ちゃんが三人分頑張ってくれてっから俺も早く役に立てるようになりたくてさ」
「そうだよね。わかるよ」
「一緒だな」
笑いかけると顔を上げた彼女も白い顔で笑う。
テリトリーバトルはディビジョン同士の領土争いが主な目的だけど、MCをタレントみたいに扱って娯楽として消費する側面もある。芸能人同様にプロフィールの一部が公開されている。バトルのラップの中でもお互いの事情はこぼれ出る。二郎たち山田兄弟が子供ばかり三人で過ごしていることは有名だった。お陰で同じような境遇の若い兄弟がディビジョンに関係なく応援していてくれることがある。彼女もそういう一人だ。
少し休んで落ち着くと、彼女がもう大丈夫というので立ち上がった。
「ほんとに送らなくて大丈夫か?俺バイクだけど」
「近場に行くだけだから平気。色々お世話になっちゃって、ありがとう」
もう足元もしっかりしているのでその場で見送り、二郎は聞き込みに戻った。通りで目に付いた何人か、なるべく頭のしっかりしていそうな住人に尋ねたものの、案の定リサイクルショップの客のことなんか何一つ知らなかった。
◇
四つのディビジョンの真ん中にそびえ立つ壁の内側、中王区を会場としたテリトリーバトルは月に一度開催される。各ディビジョンの代表者三名は二チームずつステージに立たされ、何もわかっちゃいないバカな女が見つめる中で魂を削り合ってMCバトルを繰り広げる。社会から駆逐された武器の代わりに与えられたヒプノシスマイクを使った争いだ。銃弾の代わりにリリックを叩き込んでも確かに血が噴き出したりはしない。それでも耳から入り込んだ空気の微細な振動は脳を揺らして命にだって届く。相手の精神を抉るためにひねり出した言葉が胸の内側から蝕む。目に見えない暴力なら平和だってのがここの女たちの共通認識だ。狂ってる。
そんな地獄のようなイベントももう何度目かになる。最初こそ中王区への入場前に顔を合わせていがみ合うこともあったが、何度も繰り返しているうちにそれぞれ学習して余計な揉め事を避けるようになった。ステージで対峙して、全ての勝敗が決まるとくだらないセレモニーをやり過ごして荷物を取って帰る。揉めて公僕に絡まれる面倒くささを避ける他に、個々の事情も大なり小なり絡んでいた。日常はディビジョンの境目も曖昧な地続きの土地の上にある。テリトリーバトルのたびにいたずらに変わる境界線。そこには壁なんかなくてあっさりと他人の縄張りに踏み込めるんだから、そりゃ色んな事が起きる。
最近は違法製造されたヒプノシスマイクを巡ってどこもかしこも騒がしかった。流行りのマイク狩り被害のなかったヨコハマも警察官である銃兎は捜査協力という形で首を突っ込んでいる。ヨコハマ署の所轄でマイク狩りはなかったが、その他にも違法マイク絡みの事件は発生していて、そのマイクの出処を追っていた。
それ自体は左馬刻だって知っている。マメな報告はさせていないが、他のディビジョンで起きた事件についても大まかな事情は耳に入れていた。だからイケブクロの末っ子が襲われたのも知っているし、過保護な兄貴たちが犯人探しに奔走するのも聞かなくてもわかる。
でも、今回の件で銃兎が萬屋の次男坊と協力しているのは知らなかった。煩雑なテリトリーバトル終幕の段取りから解放されて控室に向かっている途中でイケブクロの連中とすれ違うまでは。
「丁度いいところに。少し時間をもらえます?帰る前に話がしたいと思ってたんですよ」
ステージ上でのぎらついた顔はすっかり外面に隠して銃兎が二郎を呼び止める。今回もディスり合った後だ。素直に嫌そうにする二郎だが用件は承知しているので渋々足を止めた。その小脇で睨む弟を「仕事の話だ」と言って宥め、兄に先に行っていてくれるよう頼んで通路の端に寄って話し始める。相手が嫌いだろうとも仕事上の利害は一致するからまともに対応する。その点で見た目よりも二郎は大人だった。
銃兎は先に行っていてくれなんて言わなかったが、二人の様子を一瞥して鼻息で苛立ちを表明して左馬刻は先を行く。機嫌はすこぶる悪かった。銃兎は部下じゃないので仕事のことまで逐一報告する義務はない。左馬刻はそれを要求する立場にもない。だが、しばらく前までは二郎が直接銃兎とやりとりすることを嫌がって左馬刻を通して連絡を取っていたはずだった。今回の事件以外にもトラブルは日々発生する。イケブクロの血の気の多い連中をまとめている二郎は警察にツテがあるのは便利であり、銃兎にも広い情報網を持ちフットワーク軽い二郎は“使える”。両者の仲介をすることで近辺で起きている事件の詳細を把握すれば左馬刻のメリットにもなった。
それが、二郎がヨコハマに来なくなってから左馬刻の頭越しにやり取りするようになった。気にならないわけがない。説明も挨拶もナシにそうなったから腹を立てている。左馬刻は自分に対してそういうことにした。
さっさと控室に戻って自分の分の荷物だけ持つと出口に向かうために部屋を出た。後をついてきた理鶯が銃兎の分まで荷物を回収しているが、それも待たなかった。
控室の扉を出ると、向かい側の壁に凭れて会いたくない男が立っている。山田一郎。イケブクロのリーダーであり、左馬刻の宿敵であり、二郎の兄だ。控室が隣り合っているわけでもない。明らかに待ち伏せだった。左馬刻が一郎に絡んでいくことはあっても一郎が自分から出向いてくることは珍しい。
「よお、ツラ貸せや」
「秒刻みにレンタル料請求してやんよ」
絡んできたくせに一郎は面白くなさそうに鼻を鳴らし、左馬刻の顔を観察する。面倒くさそうな顔だ。すでにステージ上で溜め込んだフラストレーションは一度発散している。新たに溜め込んだものもあるが。すぐにマイクを持ち直すほどの勢いはない。
「くだらねぇ冗談はいい。最近うちのがそっちに行ってるかどうか聞きたいだけだ」
誰のことかはっきり言わない、微妙な気の遣い方が癪に障る。
「知らねぇなあ。俺はテメェらままごと兄弟とは関係ねぇからよ」
「ふざけんな。例の事件でバタバタしちゃいるが、それにしたってアイツがここ最近ハマの話しねぇから何かあったかと思ってよ」
「ハッ。それが心配することかよ。随分と焼きが回ったじゃねぇか」
さっぱり真面目に取り合わない態度に一郎も眉間のしわを深くする。ヨコハマは一郎たちにとっては敵の縄張りだ。行かないならそれに越したことはない。でも、弟は自分の意思で通っていた。恐らく、左馬刻のために。誰に会うとは言わないが行き先は教えるし、左馬刻に無関係な出来事は報告もする。楽しくやっているようだったから余計な心配はしないことにしていたのだ。
それが急にヨコハマを避け始めた。事件の調査を理由に他のディビジョンばかり出入りしている。ヨコハマはマイク狩り被害がなかったからそれもおかしなことではないけど、弟の様子が以前と違うのは肌で感じる。多分、ヨコハマで何かあった。
「勘違いすんな。こっちはテメェを許してるわけでもテメェと馴れ合わせたいわけでもねぇ」
「ならいいじゃねぇか。いい機会だから家の前に紐で繋いどけや」
「テメェこそその役にたたねぇ口縛り上げて喋れなくしてやろうか」
ダメだ。やっぱり左馬刻とはまともに話が出来ない。
昔は一郎も左馬刻を尊敬していた。でもそれは長く続かずに決別し、憧れも尊敬も捨ててしまった。二郎も同じように左馬刻と縁を切るような何かがあったんじゃないのかと、一郎はそのことを心配している。大事にしていた相手を敵に回すのはしんどい。身を以て知っている。
弟に何かが起きているのに、それを察することができない不甲斐なさもある。二郎自身に尋ねようにもヨコハマに行かなくなったのと同時期から込み入った話を避けられていた。一郎の弟たちは海よりも深く兄を慕っているので避けられた記憶なんかほとんどない。
弟たちのことを十年以上も見守ってきた一郎でもまだまだ戸惑うことはあった。
あの日以来、左馬刻とは自分達の因縁の話しかしていない。まさか今更過去と無関係の話をすることになるとは思わなかった。それは一郎だけでなく左馬刻も同様で、滅多にないことに調子が狂う。
でも一分も話せば左馬刻の人間性を思い出した。正面から向き合っていた顔から目を逸らして首を振る。
「もういい。テメェに聞いたのが馬鹿だったわ」
なげやりに解放されるとそれはそれでイラつくものだ。左馬刻がもう一言絡もうとしたところで控室のドアが開いて理鶯が顔を出した。一郎の姿を見て理鶯にしては驚いた顔をしたが、余計なことは何も言わずに左馬刻の横に立って少しだけ耳に顔を寄せる。
「左馬刻、ここで揉め事は……」
「うるっせぇな。もう帰る」
言葉通り出口に向かって歩き出し、三歩進んでから足を止めた。
「……そんなに心配ならもう一生こっちに絡んで来ねぇように言っとけや」
振り返らずに言葉だけを投げかける。一郎はその背中に真っ直ぐに返した。
「言うわけねぇだろう」
あんまりにも当たり前で、嘲るでも茶化すでもなく、真面目に。
「二郎は俺とは違う、アイツなりの考えで生きてんだ。たとえアンタと何があってもアイツが自分で責任持ってやってることに口なんか出さねぇよ。うちの弟見くびんじゃねぇ」
「クソ偽善者がッ」
吐き捨てて左馬刻は歩みを再開する。嫌な男だ。自覚していないんだろうが、小さな逃げ場をあっさりと潰してくれる。二郎が二度と左馬刻を訪ねてこなくなったとしたら、それは一ミリの余地もなく、二郎の意思ってことだ。一郎との時のようにぶつかるわけでもない。静かに去っていく。
寡黙な理鶯を引き連れて通路の丁字路に差し掛かると、出口とは反対側に銃兎たちの姿が見えた。
「ああ、理鶯が荷物持って来てくれたんですね。すぐ行きます」
愛想良く銃兎が声を掛けてくる。まだ話し込んでいたらしい。一人じゃなかった。
一瞬見えた景色を銃兎ごと視界から追い出して左馬刻は出口に向かった。ほんの一瞬、色違いで一揃いの目がこちらを見た気がしたのを振り切って。
◇
すっかり秋めいた頃。二郎は久しぶりにヨコハマを訪れた。今日は弟の三郎と一緒だ。
前日に銃兎から三郎を襲った犯人を逮捕したと連絡があって、顔を確認するためにやってきた。マイク狩りがあってからしばらく、捜査を警戒してか犯人候補の男が姿をくらましてしまって捜査難航していたところだ。二郎と銃兎もそれぞれ背に腹は代えられず、お互いの持つ情報は等価交換という条件で共有していた。二郎としては警察より早く犯人にたどり着きたかったが、仕方ない。シンジュクやシブヤにもマイク狩りの被害者がいるので、同一犯かどうか、それぞれ確かめに来るという。
一人目の被害者である三郎は今回逮捕された男の顔を覚えていた。一二三が独歩を襲った犯人と睨んで調べていた男、つまりはリサイクルショップに出入りしていた男でもある。リサイクルショップの件はすでに銃兎との取引で知らせてあった。
「まだ初歩的な取り調べしかしてませんけど、リサイクルショップなんて知らないとは言ってます。嘘かもしれませんけどね」
嘘かどうかも後々わかる、とでも言いたげなサディスティックな顔だった。正義のお巡りさんがしていい表情じゃない。
顔の確認と、改めて三郎の調書を作成して用事は終わる。その間二郎はずっと周囲を気にしていた。ヨコハマ署は左馬刻の別荘だからだ。よく騒ぎを起こしては捕まって、署員の誰も歓迎していないのに檻に入っている。
受付から署内を移動する間も落ち着きなく周りをチェックしていたら銃兎に「左馬刻なら今日はいませんよ」と教えられてぎくりとした。銃兎の方が左馬刻と親しいんだから二郎がここのところ左馬刻を避けているのは承知だろうし、気にしているのがバレるのは仕方ない。だが三郎の前で言われるのは困る。二郎がヨコハマに通っていたことは三郎も知っているが、誰と会っていたかは未だに教えていない。三郎の後ろを歩きながら先導する銃兎にそんな事情を伝えるハンドサインを送ると、やれやれといった小さな仕草の後で「今日はお兄さんはいないんですから遭遇したって大丈夫でしょうし」と付け加えてくれた。
帰り支度の段になっても左馬刻が連行されてくることはなく、その頃には警戒する気持ちの半分ぐらいは物足りなさのような寂しさに変わっていた。
分かっていたことだけど、二郎から連絡しないと左馬刻とのやりとりは簡単に途絶える。二郎がヨコハマに来ないと会うのは月一ですれ違うだけになる。寂しいとか物足りないとか思うのは二郎だけなのだから仕方がない。
元からヨコハマは敵だし通ってくるのも時間とガソリン代を食う。違法マイクに関する調査に没頭していればそのうち自分もまた左馬刻への興味を失って、テリトリーバトル以前のような気持ちに戻れるんじゃないかと思うのに、ちょっと他のことに気持ちが逸れた頃にテリトリーバトルの召集がかかる。顔を見て、今日は調子が悪そうだなんて思うと、この男は今もスピーカーの前に丸まって一人で眠っているのかと考えてしまった。
幸か不幸か、本当に警察署で左馬刻と会うことはなかった。今日は三郎がタンデムを嫌がるのでバイクはやめて電車移動だ。鉄道は四つのディビジョンを繋いで中王区を取り囲む環状線路が敷かれている。
ヨコハマ駅も久し振りだ。少し来ない間に駅前のビルに張り付いた看板がいくつか入れ替わっている。テナントが替わったのはわかるが、前にはそこに何があったか。思い出せずに真新しい看板を見上げながら歩いていた。そこで女の声に呼び止められる。
「二郎くん?」
三郎と二人そろって振り返ると、シンジュクで会った花束の彼女だった。今日は前よりかっちりした化粧をして高いヒールを穿いている。ちょっと疲れたような儚げな様子は相変わらずだった。
「おう、久しぶり。あれから大丈夫だったか?」
街中で二郎が三郎の知らない人間に話しかけられるのは男女問わずよくあることだ。三郎は黙って隣に控えている。相手が女なら特に、億に一つぐらいの可能性で二郎のカノジョかもしれないので黙ってさりげなく相手を値踏みする。こっそり見ていると彼女の視線がスライドして目が合って、三郎は慌てて人当たりのいい少年の顔を作った。
「今日は三郎くんと一緒なのね」
「いつもうちの愚兄がお世話になっています」
はにかみながら頭を下げると二郎より少し年上の彼女は小さく笑った。
「三郎くんてすごくしっかりしてるんだ」
「生意気なだけだよ」
外面をキープした三郎が二郎の足を踏む。踏んだ足が素早く逃げて踏み返そうとしてくる。それを見越し、三郎は足を後ろに軽く引き、空振りして何もない地面を踏んだ二郎の踵を蹴りつけた。
水面下での小競り合いのつもりが、上半身の揺れで彼女が気がついて声を立てて笑った。二人は苦笑いだ。
「そりゃ仲良さそうでいいね。一番上のお兄さんとも仲いいんでしょう?」
「もちろん。お姉さんだって兄ちゃんと仲良いんだろ?」
「うん……、そうだね」
少しだけ視線が落ちる。
「お姉さん、今日は仕事?買い物?あんま調子よくなさそうだけど」
シンジュクで会った時もふらついていたからつい訊いてしまう。そうすると彼女はぎゅっと顔の筋肉に力を入れて、無理やり元気そうな顔を作った。
「うん、ありがと。仕事だけど、……それも今日で辞めて楽になるから、大丈夫」
「そっか。そんじゃ最後の出勤がんばってな」
「うん、ありがと。それじゃあね」
片手を振って、彼女はすぐに背を向けて人混みに消えていく。調子は良くなさそうだったのに、その背中には何故か力強さがあった。
さて、帰るか。と駅の入り口に向かって歩き出したところで今度は野太い声に呼び止められた。その途端に二郎が大声を上げて三郎の背中を押す。
「あー!!ヤッベ、俺用事あったの思い出したわ。三郎先に帰って兄ちゃんに頼まれてたアニメの録画やってくれよ。すぐ帰んないと間に合わないだろ?!」
不審極まりない。
「急になんだよ。別にそんなに焦る時間でもないだろ」
「早目の行動が大事だろうがよ。兄ちゃんがいつも余裕をもってやれって言ってんじゃねぇか」
「それ二郎がよく言われてるやつじゃないか」
「いいから!俺はちょっと遅れて帰るから頼んだぞ!」
ぐいぐい押して駅構内に入ると、三郎も諦めて改札に向かった。一郎から頼まれていたのは本当だったから二郎の茶番に付き合って遅れるわけにもいかない。
なんとか三郎の目から逃れ、一息ついてやっと二郎は振り返る。服装も首から上も立ち方も何もかも絵に描いたようなヤクザ男が呆れ顔で待っていた。
「二郎、テメェ何やってんだ」
「いや……弟にはヤスさん達と付き合いあること言ってなくてさ」
「そりゃ難儀だなぁ」
馴染みのヤクザは同情混じりに呟いた。
人通りを避けて駅前広場の端に寄る。今日はヤス一人だった。大抵は左馬刻と一緒にいるから今日もそうなのかと思って見回していると、「兄貴ならいねぇよ」と尋ねる前に教えられた。
「久しぶりじゃねぇか。元気してたか?」
「うん、ちょっと最近忙しくてさ」
「あー、入間さんとこの事件手伝ってんだって?」
「手伝ってるつもりはねーけど。こっちはこっちで追っかけてっから」
「テメェも大変だな。マイク狩りの野郎、ブクロにも出たって話だもんな。ハマは誰も襲撃されなかったから俺ら今回は首突っ込んでねぇのよ」
違法マイクを使ったマイク狩りは喧嘩馴れしてなさそうなディビジョン代表MCを狙っていた。三人全員ラップも肉弾戦も強いのが分かりきっているヨコハマは誰も襲われなかったが、結果的に銃兎の所属するヨコハマ署が犯人逮捕に至った。犯人が潜伏していたのがマイク狩りをしなかったヨコハマだったからだ。マイク狩りはなかったが、過去に他の違法マイク絡みの事件を経験していたヨコハマ署は違法マイク製造元の摘発のために今回の事件にも首を突っ込んでいた。マイク狩りの発生した三ディビジョンの刑事はさぞ悔しかったことだろう。
「でももうケリついたんだろ?暇ができたらまた遊びに来いよ。……あー、今の言葉は兄貴にゃ内緒でな」
「わかってるよ」
「テメェがいると兄貴の俺たちへの当たりもマシでよぉ、助かってんだぜ。ンだから来なくなってから機嫌悪い日が多くって……ああ、でも最近ちょっとマシに……そうだ、そうだわ。お前ジュリと知り合いか?」
左馬刻の話かと思えば耳慣れない名前が飛び出てくる。どこから出てきた話題かもわからない。
「ジュリ?」
「ほれ、さっき喋ってた女がいたろ」
古傷と毛の目立つ太い指がさっき三郎と出勤前の彼女と三人で喋っていた辺りを指した。行きずりで名前も聞かなかったあの子はジュリというらしい。
「ああ。名前までは知らねーよ。ここら辺で仕事してるっつってたけど組関係のとこ?」
「おう、左馬刻さんが店紹介してやったホステスよ」
「へぇ。でももう辞めるんだろ?残念だったな」
なんとなく面白くない気がして素っ気ない言い方になった。ケツ持ちをしている店に女を斡旋するなんて特別なことじゃない。ただ、彼女のお陰で左馬刻の気が紛れているのかと思ったら自然と声のトーンが落ちた。それってあの子を特別に気に入ってるってことじゃないのか?
二郎の態度の変化には気づかなかったらしいヤスは単語を拾って大袈裟に眉根を寄せる。
「辞める?聞いてねぇな」
「今日で辞めるって言ってたけど」
「そうか。まあ、そんなこともあるわな。あの子は病気の親父さんと二人で頑張ってっからなあ」
親父。前に会った時には兄と二人だと言っていた。今度は二郎が怪訝そうにする番だ。
「待ってくれよヤスさん。俺は兄と兄妹二人でやってきたって聞いたんだけど…」
「兄?おかしいな。ホステスの身の上話なんざ盛ってなんぼだけど、世話焼いてやってる兄貴にわざわざそんな嘘つくもんかねぇ」
二人で首を傾げる。あちこちで嘘をつくようなタイプには見えないし、第一、唯一の肉親が兄だろうと病気の父だろうと彼女の評価はそう変わらないのに嘘をつく理由がない。兄の方が嘘だとしても自分の名前さえ教えていない相手に咄嗟に嘘を言うだろうか。
なんだか引っかかる。彼女と出会ったのが違法マイクとの関連が疑われるリサイクルショップの近くだったのも一因だった。それでも兄妹で生きてきたという言葉は嘘に聞こえなかった。
「気になるかい?」
黙り込んだ二郎はまだ迷いを残しながら首を縦に振った。
「……悪いんだけどさ、勤め先に教えてるあの子の住所と本名調べてもらえっかな。左馬刻さんには内緒で。……ほら、心配するようなことは何もないかもしんねーし」
左馬刻のお気に入りの女の子を疑っていることに妙な罪悪感があってせかせか言い足した。彼女を疑ったことが知られて怒りを買ったとしたら、いつも通り立ち向かう自信がない。ずるいことは承知で頼んだ。
「お前が今調べてる事件絡みか」
「そんなとこ」
「よし、任しときな。店に確認して後で連絡するわ」
快く引き受けたヤスは三時間後に頼んだ通りの情報を送ってきた。名前は佐藤ジュリ。働き始めて一ヶ月半と少し。住所はシンジュクディビジョン。予想通り、リサイクルショップまで徒歩十分圏だった。駅前で会った後に店に出向いて退職を申し出たそうだ。理由は父の容体が変わって遠方に転院するため。父親のことは嘘かもしれないが近々引越しする予定はありそうだ。急ぐ必要がある。
知り合いのことをコソコソ嗅ぎまわるのは趣味じゃないが、家族関係について確認するだけでいい。
電車で一度イケブクロに戻ってバイクに乗り換え、その日の日暮れ頃に彼女のアパートの扉を叩いた。人の気配はない。留守と承知で呼びかける。
「佐藤さーん、すいませーん。佐藤さん留守っすかー」
わざとうるさく叩き、呼びかけていると留守の部屋の隣の扉が開いた。顔を出したのは金のなさそうな顔をした中年の髭面の男だ。
「おや、誰がうるさくしてるかと思えば有名人じゃないか」
迷惑そうに戸口から首だけ出して、二郎の顔を見て眉を上げた。
「すんません、お隣の兄ちゃんに用事があったんすけど、何時なら帰ってますかね?」
目的は兄が存在するのかどうか。そんな奴はいないと言われるかどうか。それが知りたい。
「あ?嬢ちゃんじゃなくて兄ちゃんの方かい?あの子は多分、もうとっくに死んじまってるよ」
知らなかったかい、と軽く言う。
「死んだ?」
死んだってのはつまり、ジュリと同居していたそれなりの年齢の男が存在したってことだ。
「ああ、もう二ヶ月ぐらい前だったかね。ここは壁が薄いんだが、兄ちゃんの声がさっぱりしなくなった頃から線香の匂いがするようになってなあ。ああ、これは死んだなってよぉ」
二郎が彼女と出会ったのは一ヶ月ほど前だ。すでに兄はこの世にいなかったことになる。じゃあ兄のために買ったという百合の花束は――――墓前に供えるものだ。
ジュリは兄と暮らしていて、兄を喪ってからヨコハマで働き始めた。店には兄のことを偽っている。そして家は違法マイクの出処と目されている店の近く。
兄は二ヶ月ほど前に亡くなっている。二ヵ月前といえば、二郎がヨコハマを避け始めた頃だ。
「待ってよ、オッサン。二ヶ月ぐらいって具体的にいつ頃かわかるか?」
「わかるわけねぇべ。直接聞いたわけでもないし……あー、でもその頃に嬢ちゃんが慌てて出てったとこ見たわ。ほれ、何十年ぶりの流星群が話題だったのに次の日土砂降りでおじゃんになった時よ」
言われてすぐにいつ頃かわかった。テリトリーバトル以外で最後に左馬刻の姿を見たのがその日だった。
理鶯に招かれて食事をしてから組の事務所や左馬刻の自宅付近を避けて海沿いを遠回りして帰る途中、飲み物が欲しくて海岸沿いの自販機のある公園に寄った。その日はまだ星が見えて、黒い車が駐車場の奥の方にいるのもドライブ客だと思って気にせずバイクを乗り入れた。そうしたら聞き覚えのある声がして、ついその正体を見にほんの少しだけ近づいてしまった。木々に囲まれた暗がりに響く怒鳴り声。木立の間から差し込んだ光が白い髪を照らした。間違いなく左馬刻だった。その姿を見た瞬間、焦ってしまって何をしているのか確認する前に駐車場を飛び出した。
また喧嘩やロクでもないことをしてたんじゃないかと心配しても翌日から二日ほどバケツをひっくり返したような雨。天体ショーが中止というニュースも確かに見た。
頭の中で断片的な情報が一つになろうとしている。ジュリは今日で仕事は辞めると言っていた。左馬刻との接点である仕事を辞めて、楽になるって。
そこから隣人になんと言って別れたかは覚えていない。バイクに戻って左馬刻の携帯にコールした。気まずいだとか何を話すだとか、そういうことはすっかり頭の中から消え失せて、とにかく連絡がつくことだけを望んだ。なのに呼び出し音が鳴る事すらなく、機械的なアナウンスが流れてくる。焦りで舌打ちして次は左馬刻の舎弟のヤスにかけた。こっちはすぐに繋がった。
「ヤスさん今左馬刻さんと一緒?!」
「なんだ慌てて。兄貴は野暮用で出かけてるよ。なんでも女と会うって」
「まさか一人でかよ。どこ行った?」
「シンジュクとしか聞いてねぇな」
ジュリの生活圏だ。今しがた留守を確かめたから家には誰も来ていない。
「ヤスさん、ヤバイよ!左馬刻さんに連絡つけて、約束してる女ってのがジュリなら止めてくれ!」
「お、おう。どうしたってんだ」
「時間ねーんだよ、左馬刻さんに連絡ついたら説明するから!」
電話を切ってバイクのエンジンをかけた。ホームグラウンドのイケブクロならまだしも、シンジュクで短時間で人探しはちょっとキツイ。友人だってイケブクロほどいない。
左馬刻の喧嘩やラップの腕は充分知っているが、同時にジュリみたいな女相手にそれを振るえないことも知っている。ヤバくなれば女でも殴れるのか?女の細腕なんか簡単に拘束できるだろうが、二ヶ月も左馬刻の近くに潜伏していた女が無策に襲ってくるだろうか。恐らく違法マイクも持っている。
安否も心配だったが、駆け付けたとしても自分だってジュリに攻撃できる自信がなかった。いざとなればやらなきゃいけないが、できればやりたくない。彼女にも無傷で復讐をやめて欲しい。
深く空気を吸い込んで肺に満たし、細く、時間をかけて吐き出した。
向かうべきは神宮寺寂雷の病院だ。
バイクを走らせて正面口施錠済みの病院の駐車場に滑り込む。夜間非常口だけが緑の明かりの下で訪問者を迎えていた。
非常口近くで寂雷の携帯を鳴らし、手短に事情を伝えるとすぐさま向かうとの回答がある。
「すぐに向かうよ。その間に君は一二三くんに電話を。君がイケブクロを網羅しているとすればシンジュクに精通しているのは彼だ」
スーツ姿の一二三の顔を思い出す。シンジュクの夜の街において、トップクラスに顔が広い男。沢山の女を虜にして数多の男たちのてっぺんに君臨する。
以前登録した伊弉冉一二三に電話した時、恐らく仕事中だった。それでも五コール目で繋がる。
「やあ。こんな時間に僕をご指名ってことは、緊急事態かな?」
一二三は事情を訊かなかった。
「ああ、先生からアンタを頼るように言われたんだ」
「何がお望みだい?」
「シンジュクに来ているはずの碧棺左馬刻の居場所を調べてくれ」
「お安い御用だ」
即答で引き受けると、通話中の二郎を一旦待たせて指を鳴らし、傍にいるらしい別の男を呼ぶ。
「五分で探し出すからいい子で先生と待ってておくれ」
通話を終えてから五分弱。白衣のままの寂雷が外に出てきて長い髪をまとめる間に折り返しがあった。
「キャッチが地下に入っていくのを見たそうだ。場所はノビラクっていう個人経営の漫画喫茶だけど、つい最近閉店したはずの店だよ。地図は先生の携帯に送るね」
寂雷の携帯のメッセージアプリに地図が届く。バイクで飛ばして七分ってところだ。いまだヤスからの連絡も、左馬刻からの折り返しもない。
携帯をしまい込むと寂雷をバイクの後ろに乗せて走り出した。夜こそ輝く新宿の歓楽街に向かって。
◇
昼頃に連絡があった。相手はホステスの女だ。しばらく前に拾って店を紹介した。
器用じゃないが真面目に働いていて、店のスタッフにも気に入られている。家の事情が変わって急に店を辞めることになったのでお礼がしたいと、夜にシンジュクで会う約束をした。送別会なら店で開けばいいと思ったが、お礼だから自分が奢るというので部下は連れて行かなかった。男より稼ぎがあるとしてもジュリが指名したのは左馬刻一人。言われていない人間を連れて行けばこちらが払うと言っても気を遣わせる。
それに、ゆっくり見送ることもできなかった妹のやり直しのような気持ちがどこかにあった。後から思えばそんな独りよがりな感傷が判断力を鈍らせていた。
シンジュクに着いてすぐ、再度ジュリから電話が入った。
時間つぶしに漫画喫茶に入ったはいいが店員が店から出してくれない。怖くて個室に立てこもっている。助けて欲しい。
実際電話口に手で囲いを作って喋るようなこもった声で、少し離れたところで笑う男の声とドアをやや乱暴に叩く音がした。いくら女性優位の社会だとしても最終的に見つからなければ罪にならないと思って一人でうろつく女に手を出す連中はいる。今日で最後だって日に運がない。すぐさま言われた店に向かった。
行ってみると店は地下にあって、出口は当然狭い階段しかない。悪い連中が好きそうな穴倉だ。漫画喫茶だからといってよくこんなところを選んだとは思ったが、中に何人いようと負ける気はしなかった。店員がやらかしているなら無関係の客はいないだろう。手あたり次第ぶちのめしていいなら楽な仕事だ。
入り口は施錠されていなかった。代わりに外扉一枚入ったところのガラス扉から覗くと入り口付近に見張り役が一人、ドアの閉まった個室の前に二人男が見えた。踏み込んだ店内は必要以上に暖房を効かせていて空気もやたら乾燥していた。
女を追い詰めるためか、意図が分からない。だとしても全員潰す予定に変更はなしだ。細かいことを考えるのは得意じゃないし、ここまで来て作戦を練り直すという案はない。店に押し入ってジュリを呼ぶと返事があった。店員姿の男たちが準備よく金属バールで殴りかかって来るのを躱して一人、二人、三人と簡単にケリはついた。念のため狭い店内を一周したが他に隠れている人間もいない。安全が確保されてから扉が閉まった個室のドアをノックした。
「終わったぞ」
簡素な鍵を外す金属音に続いておずおずと扉が開く。そこにはちゃんと緊張気味の面持ちのジュリがいた。内側に他の誰かが潜んでいることもなかった。扉の内側にバリケードとして押し付けてあったソファを乗り越えて出てくるのに手を貸すと、よっぽど恐ろしかったのか、こんな室温なのに手の先が冷たかった。
「ご、ごめんなさい……助かりました」
「大した事はねぇよ」
男の一人がやたらと逃げ回るんで少し時間は食ったがこの程度、修羅場でもなんでもない。さっさと店を出ようとした時、軽く咳が出た。たった三人仕留めただけでそれというのも情けなくて気に入らないが、この室内環境が悪い。後ろを歩いていたジュリが抱きしめていたバッグからペットボトルを差し出す。
「大丈夫ですか?あの、これ、ちょっと口付けちゃったんですけど……」
別に平気だったが、そういう些細な厚意を断りたくなかった。妹も出かけるときに準備の悪い左馬刻に代わって身支度して、鼻が垂れたらティッシュ、腹が減ったとこぼせば自分が大事に溜め込んでいた綺麗な色の飴玉を差し出してくる。別にそんなもので腹を宥めなくたって飯にありつけるのに、ちょっとでも役に立つのが嬉しい。妹はそういう子供だった。
「貰うわ」
開封済みのボトルを受け取ってお茶に口をつけ、すぐに吐き出した。それでも舌に残った液体を少し飲み込んでしまってぐらりと体が揺れ、受付カウンターに片手をついた。
「テメェ、何飲ませようとした?!」
酸味のあるおかしな味。明らかに何か混入されている。即効性のある睡眠薬か何かだ。
ジュリは数歩離れたところで足を止めた。ふらついた体では手が届かない。
「良かった。ちょっとでも飲ませることができて」
表情の消え失せた顔で穏やかに言いながらバッグから手のひらサイズの何かを取り出す。そのもの自体に見覚えはないが、予想はつく。違法製造されたヒプノシスマイクだ。正規のヒプノシスマイクをまともに扱うにはラップスキルが必要だが、違法マイクはそうじゃない。個人の声、発声のクセに合わせて造られている。正規マイクほどの威力はないはずだが、そのために一服盛ったのはすぐに想像がついた。
マイクのスイッチが入ってもビートはならない。代わりにわずかに空気が揺れるような気配がする。
『ねぇ、左馬刻さん。憶えてる?二ヵ月前にアンタが殺した男のこと』
口元にマイクを翳して女がしゃべると、強烈な眠気で朦朧としてくる脳が揺さぶられた。多分シラフならこんなに効かないだろう。うだるような室温と薬が効果を底上げしている。
『金を盗んで逃げようとして、捕まって殺された。その金はわたし一人でも中王区に住めるようにっていう、引っ越し資金だった』
女の言葉はライムを刻まない。テリトリーバトルのステージではもっとキツイのを散々浴びている。それでも脳が意味を受け取って、女が言おうとしていることがわかって、必要以上に精神を苛む。
『わたしの大事なお兄ちゃんだった。アンタがお兄ちゃんを殺したの。二人っきりで生きてきた、ずっとわたしを守ってくれていた優しいお兄ちゃんだったのに』
粗悪な装置と平坦な言葉が脳髄に響いて薬の影響とあいまって意識が飛びそうだ。カウンターデスクにすがりついてカウンターの内側にあったペン立てからカッターを掴んだ。それを見た女が身構えて一歩引きさがる。左馬刻は掴んだカッターの刃で迷わず自分の太ももを切り裂いた。服ごと一直線に走った皮膚に刃先を突き立てる。痛みが走ると多少は正気を取り戻せた。
傷口から流れ出す血に女が怯む。それを鼻で笑った。
「……兄貴の弔合戦のつもりなら、もっと腹から声だせや……そんなもんじゃ、命に届かねぇよ……」
マイク越しの声が震えてブレる。左馬刻の腰にはヒプノシスマイクがあった。舌の回りは心許ないが動かないわけじゃない。でも、左馬刻はそれに手を伸ばさなかった。
妹は賢かった。左馬刻は勉強より喧嘩ばかりしていて任侠の世界に踏み込んでから金勘定と商売に関わる法律を叩き込まれるまで何にも分からなかったが、妹の頭が良いことだけはわかっていた。
合法な仕事、非合法な仕事を重ねて金に余裕できると勉強道具を買い与えた。せっかく女に産まれたんだから勉強はするべきだ。かつてこの国では女子の就学が困難だった歴史があり、それを盾にして女子限定の手厚い就学支援制度や奨学金が存在した。
賢くなれば堅気の世界でちゃんとした生活ができる。身寄りのない女でも就職支援を受けて試験に合格すると中王区の小綺麗な会社に勤めることが出来た。だけど、下手に扶養関係にある家族が残っている女はそうもいかない。支援条件が満たされないと中王区で生活を始める際の補助金が下りなかったり、区外に住む肉親の身辺調査をされて落とされることもある。左馬刻もいつかそうして妹の足手まといになるのではないかと悩んだ時期がある。支援制度を頼らずにいい大学に通って、いい暮らしをするには金が要る。ならば汚いことをしたって金を稼ぐしかない。頭のないガキがのし上がれる環境は堅気の世界にはなかった。それでも構わない。金さえあれば壁の中でなくても兄妹二人でそれなりの生活が出来るようになる。
そう思っていたある日、妹は左馬刻の日常から消えた。
昔、ヒプノシスマイクの仕組みについて寂雷に尋ねたことがある。きっかけは確か、海外でも通用するためには英語を勉強しろと言われたことだ。
ヒプノシスマイクは声を超音波に変えて脳波に作用するが、基本的な考え方は一般的な催眠術とそう変わらない。催眠術師は被験者の知らない言語で催眠をかけない。相手に理解されない言葉はヒプノシスマイクを通してもダメージが浅い。的確なリズムでただ声を出せばいいってもんじゃない。ショックな知らせを聞いて自律神経が乱れたりするのと一緒で、相手に刺さる言葉を選べば大きなダメージを与えられる。
ラップにもなっていない女の喚き声で頭が痛い。先生に聞いた話を思い出して他人ごとのように納得した。罵倒の一つ一つに妹の顔が浮かぶ。自分に何の力もなく金に困って一線を越えていたら、妹は同じようにしていたんだろうか。
痛め続けられてもどうしても手がマイクに伸びない。ジュリは頑なに手の届く間合いに入ろうとせず、離れた所から飛び道具で声を投げつけてくる。ワンバースでも蹴ってやれば簡単に状況はひっくり返せるのに。何もしないうちに徐々に足の痛みも遠のいてきた。キンキン響く女の声に雑音が混じる。いよいよ頭がどうにかしてきたのかと思った。
でもそれは幻聴なんかじゃなく、入口の外から聞こえてきた。受付にいる左馬刻より店の奥側にいて入り口が死角になっているジュリも途中で気がつき喚くのをやめた。女の声が止まるとドアに何かぶつかる音がはっきり耳に届いた。見ると内側のガラス扉ごしに外扉が開いて見知らぬチンピラの体が転げ落ちてくる。その分厚い体を踏んで内扉の向こうに見えたのは、二郎だった。
ガラス扉はいつの間にか施錠されていて、二郎はしばらくドアノブと格闘していたが、ほんの十秒ほどで諦めて足を振り上げた。派手な音を立ててガラスがぶち破られると一番遠いところにいた女が悲鳴を上げた。
割れたガラス扉を潜って侵入した二郎の怒りが滲む目と、常に宿っている力をそっくり喪ったような左馬刻の目がかち合った。
月に一度は会っているはずなのに、もう長いこと会っていなかった気がする。もうこっちに関わるのは止めたかと思っていた。どうしてこういう時にやってくるのが他の誰でもなくてコイツなんだ。誰にも助けを求めたりしなかったのに、いつも呼んでもいないのにコイツはやってくる。
左馬刻が眉根をぐっと寄せて何か言おうとした声に被って、二郎の姿を見たジュリが叫んだ。
「なんで?!なんで君がくるのよ?!」
砕け散ったガラス敷きの床を大股で二郎は歩き、カウンターデスクの高さまで肩を落とした左馬刻の目の前に立った。左馬刻の視界から女が消え、青いジャケットの背中だけが見える。
乱入者に混乱したのも束の間、ジュリはすぐにマイクを構え直した。
『この男は罰を受けなきゃいけないの!わたしのお兄ちゃんを殺したのよ?君ならわかるでしょ?!退いて!!』
声が響くと二郎の肩に力が入る。全ての言葉は二郎に突き刺さって頭蓋の内側を跳ねまわった。それでも背筋を伸ばして対峙する。
「アンタの事情は調べたよ。この人が悪いのも、ちゃんとわかってる」
わかってる。左馬刻自身も人の恨みを買うたび、踏みつけてきた誰かの手が明日にでも自分の首にかかるのを想像する。これまでのツケを払わされるだけだ。自分の最期はきっと寿命なんかじゃなく自業自得と言われ笑われて死ぬんだろう。誰かに惜しまれながら死ねるなんて期待はしていない。罪を償うために殺されてやろうと思うわけじゃないが、自分の背負った数えきれない程の罪は理解している。許しや助けを期待したりなんかしない。
だけど、コイツは来た。
『そんな、知ってるなら止めないで!退いてってば!』
「それはダメだ」
二郎は即座に言い切った。女の金切り声とは対称的に静かで、それでも強い声で。
「この人が殺られたら今度は俺がアンタを恨むよ」
『それでもいいの!後のことなんかわたしはどうでもいい!!』
「よくねーだろ。左馬刻さんがこんなにされても反撃してないのに俺がやり返すわけにいかねぇんだよ」
粛々とした二郎の言葉を引き継いで、ガラス戸の穴から手を回して内鍵を開け、丁寧に扉を開けて入室した長身の人が進み出る。
「だから代わりに私が君を引き受けよう」
長い髪を揺らしてすれ違う寂雷を見上げると一目だけ左馬刻を見て仏のように微笑んだ。
「……先生」
「よく頑張ったね、左馬刻くん」
寂雷は二郎より前に出ると治療を主目的とする自身のヒプノシスマイクを起動した。攻撃されると思ったらしい女の悲鳴が上がる。でも、姿は二人の背中に阻まれて見えなかった。代わりに仕事を寂雷に引き継いだ二郎が振り返って足に突き刺さったカッターナイフを発見して眉を顰め、今にも崩れ落ちそうな体に手を伸ばす。その腕に抱き留められたところで左馬刻の記憶は途切れた。
目を覚ますと白い天井があった。消毒液で太腿の傷が痛んで左馬刻は小さく唸った。
「おや、気がついたかい?」
重たい首を持ち上げて足の方を見ると、ベッドの隣に座って脱脂綿を挟んだピンセットを持った寂雷が穏やかに笑う。寂雷の病院の、見覚えのある診察室だ。診察用の簡易ベッドに寝かされている。
「よく眠っていたし思ったよりも小さい傷だったから麻酔を使わなかったんだけど痛かったかな」
「…………いや、大丈夫だ」
「そう。どのみちもう終わりだよ」
消毒を終えた縫合跡の上に軟膏を塗布したガーゼが貼りつけられる。寂雷がベッドを離れると痛む頭を無視して起き上がった。そう広くない室内を見回しても他に誰も見当たらない。
「……先生、」
「二郎くんかい?それとも彼女の方かな」
問われて黙り込んだのを両方と受け取った寂雷は道具を片付けながら答える。
「彼女は病室のベッドで眠っているよ。彼女が使っていた方のヒプノシスマイクの副作用かな。私のラップで錯乱状態を鎮めようとしたらそのまま意識を失ってしまってね。恐らく普通に眠っているだけだから心配はいらないんだけど、いつ目覚めるかわからないから二郎くんに付き添ってもらってるんだ」
回答のついでに店の外に群がっていたチンピラ連中が彼女を唆したらしい話を語られた。目的は彼女にハニートラップを仕掛けさせて左馬刻を生け捕りにすることで、外の男たちは彼女がしくじった時のために控えていた。そのほとんどを二郎が蹴散らして飛び込んだので、寂雷は意識のある人間から彼女とグルであるとの言質をとってから追ってきた。チンピラ連中と違法マイクの製造元が直接繋がっているかは定かではないが、製造元も彼女の復讐に加担したことに間違いはない。
病院へは救急車を呼んで寂雷が同乗し、二郎はバイクがあったから一人残って乱闘騒ぎとして通報した。後始末までは手に負えなかったから。電話してすぐに愛車を走らせ、警察が来る前に病院まで戻ってきた。警察と関わり始めるとすぐには帰れない。
「明日にでも私が警察署に行って説明してくるよ。彼女のことは伏せて、ね」
話と手元が片付くと「今二郎くんを呼ぶね」と言って白衣のポケットから出した携帯を簡単に操作して耳に当てた。一本目の電話は二郎に。その次はタクシーを呼んだ。
まだ薬が抜けきらずにぼんやりしていると忙しない足音が近づいてきて、勢いよく診察室の扉が開いて難しい顔をした二郎がやってきた。寂雷はそれと交代で病室に向かう支度をする。二郎は左馬刻の方は見ずに寂雷に礼を言ってバイクを置いていく旨を頼んだ後、やっぱり顔を逸らしたまま座っている左馬刻に手を差し伸べる。
「帰るぞ」
言っても左馬刻が動こうとしないのでしびれを切らして結局脇に腕を突っ込み、半ば無理やり支えて診察室を出た。
病院の廊下は暗く、非常口の緑がリノリウムの床に映っている。足を引きずる程辛くはなかったが眠気と怠さがひどくて素直に二郎の肩を借りて歩いた。
待機していたタクシーの後部シートに並んで乗ると二郎が左馬刻の自宅を告げる。悪名高い有名人を乗せてしまった運転手は一切無駄口を叩かずにヨコハマまで車を走らせた。
自宅マンション前に着く頃には左馬刻は寝入っていて二郎に叩き起こされた。ずっとキンキンした声がうるさかったから人の気配のある静けさの中ではどうしても眠くなる。車を降りてからもまた肩を借りて、エントランスまできたところでやっと二郎が口を利いた。
「おい、鍵は?」
エントランスはオートロックだ。解錠用の操作端末に鍵を差し込まないと自動ドアが開かない。
「…………ケツ」
答える声が半分眠っている。立ってはいるが自分で探してくれないので体重をかけられた左肩を軸に正面から体を支え直し、二郎が左馬刻のポケットを漁った。
ああ、こういうこと前もあったな。立場は逆だったけど。
大人しくされるがままになっている左馬刻の体重を受けながら二郎はそんなことを考えた。もうだいぶ前のことだ。
鍵はすぐにみつかった。二郎が鍵を握ったままエレベータを使って八階まで上がり、部屋の玄関扉を開ける。一度来たことのある部屋だった。すっかり緊張の糸が切れて動きの悪い左馬刻を引きずってソファまで連れていく。ベッドに寝かせる前に腰のベルトに差したヒプノシスマイクや携帯を取り上げてテーブルに並べ、脱ぎ散らかしてあった部屋着のシャツとスウェットを見つけて大声で呼びかけなんとか着替えさせる。
「ほら、布団行くぞ」
苦心して寝やすい準備が整うと手を引いてソファから立たせようとした。言葉で追い立ててもいまいち反応が悪い。熱を出して寝込んでいた時でももう少ししっかり受け答えしていたのに。
「ふ、と、ん!行くぞ!」
強く引き上げようとすると逆に二郎の腕を掴んで左馬刻が引き寄せる。急に自発的に動いたことにびっくりして左馬刻の上に倒れ込みそうになった体を、ソファの背もたれに腕を突っ張ることで耐えた。
「な、なに」
「……帰んのか」
いつもの硬さがどこかへいってしまった、薄いガラスでできているみたいな赤い目と左右不揃いの色の目が間近で視線を交わす。
やっぱりこの人はガキみたいだ。普段は偉そうで横暴でガキをバカにするくせに、マイクを構えればあんなに止め処なく言葉を生み出すくせに、伝えたいことを上手に言葉にできなくて頼りない目で訴えてくる。多分、無意識に。
「……帰んねーよ。俺はソファ使うから、大人しく布団行きな。欲しいならまた音楽かけとくし」
「なら、ここで寝る」
話の半分も聞かずに腕を掴んだまま左馬刻は目を閉じた。二郎は眉尻を下げる。足元には脱ぎ散らかした服が投げっぱなしだし、左馬刻の面倒ばかりみていて二郎は帰り着いたままの格好だ。左馬刻は弱っていても結局勝手ばかり言う。
少し様子を見ている間に左馬刻が本気で寝始めたので、そっと腕から手を引き剥がした。左馬刻と同じく腰に差しているマイクや鍵や財布をポケットから出してテーブルに置き、左馬刻に寄り添って座って肩に頭を引き寄せる。そうしても起きる気配はない。
ジャケットのポケットに入れている携帯を出して兄に外泊する旨のメッセージを送った。左馬刻の舎弟にも無事に帰ったとだけ送って残りの連絡は無視した。世話になった一二三にも礼を言わなくちゃならないが、それは明日にしてリモコンで灯りを消す。
音楽のない八階の部屋は静かだ。ここはアナログ時計もない。肩口にある寝息だけがリズムを刻んでいる。
二郎はちょっとずるいような気持ちを抱えながら投げ出された手のひらを拾って、指をからめてみた。乾いた手のひらのごわついた感触を確かめて、そっと解く。意外とその行為を虚しく思うことはなかった。
目を閉じるとやっと自分の疲れを自覚する。二郎だってあちこち走り回った肉体的な疲労と気疲れでくたくただ。本当は横になった方がいいのに。明日起きてもたっぷり疲れが残っているだろう。
だけど、起きたら近くの店に買い物に行って何か作ろう。どうせ冷蔵庫には酒しかない。メシを作ってやって、一緒に飯を食べて、それから――――。