※左馬刻が妹と同居していない情報を得る前に書きました。
土曜の正午過ぎ。病院の大部屋前の廊下の壁に背中を預けてポケットを探った。
「ここは禁煙だぞ」
仕草だけで察した非番のおまわりが煙草の箱を掴んだ途端に注意してくる。これが吸わずにやってられるかと思うが、廊下を横切る恰幅のいい看護師にも睨まれた。俺だけじゃなく、この部屋そのものが睨まれている。なにしろ入院している全員が刺青の入ったバキバキのヤクザ者だからだ。しかも、全員がウチの組の、俺に近い人間ばっかりだ。
ここ二週間ほどの間に部下や頻繁に会う連中が次々に襲撃され、普段の雑用や車の手配にも支障をきたすようになった。他から人手を借りてもいいが、差し迫って人数のいる仕事はない。こんなことで他人に借りを作るのは避けたい。お陰で日常的な巡回にも不便している。
狙われたのは部下だけじゃなかった。面倒を見ているいくつかの店周辺にも最近になって怪しい連中が姿を見せるようになった。そっちはまだ実害はないが、立ち回り次第では時間の問題だろう。
確実に狙いは俺への嫌がらせだった。ヨコハマディビジョン代表としてチームを組む銃兎や理鶯が狙われたことからこれは確実だ。もっとも、その辺の三下連中と違ってこいつ等は無傷だ。そうでなきゃ仲間になんかしなかっただろう。十人余りで囲んできた連中はヒプノシスマイクという飛び道具にやられて、倒れた仲間を引きずって敗走したそうな。
つまり、一人も敵を捕まえられていない。人の恨みを買った心当たりはありすぎて憶えていないから当たりをつけることもできない。
「クソッ。テメェらが襲われた時に連中ぶっ殺しときゃよかったのによ」
「それはすまない」
「謝らなくていいんですよ、理鶯。左馬刻の舎弟が弱すぎるのがいけないんですから」
「ンだと、このウサギ野郎。テメェんとこの下っ端の顔見てから言えや」
「お望み通りなんべんでも言ってやるよ。自分の不手際を人のせいにしてご機嫌ナナメは直るってのかぁ?」
「左馬刻、銃兎。婦長が見ている」
数センチで額がつきそうなほど肉薄して罵り合う後ろ襟をそれぞれ掴んで理鶯に引きはがされた。斜向かいの部屋の前で年配の看護師が厭味ったらしく咳払いする。ここの看護師ときたらそこいらのチンピラよりよっぽど肝が据わっていて、ガラの悪い男たちを前にしてもさっぱり怯まない。
壁に背中を預け直し、話は戻る。腹は立つが銃兎の言うとおりだった。過ぎたことを詰っている暇はない。
「おい、銃兎。警官の手配の方は大丈夫かよ」
「ああ、シンジュク署の奴をストーカー被害の名目で向かわせてる。それでなくたって神宮寺寂雷がついてりゃ早々手も出せないさ。……言っとくが、これはデカい貸しだからな?」
「うるっせぇな。わかってる」
妹が一人いる。俺が守らなきゃ生きていけない、唯一の家族だ。非力で、俺に一番近く、敵にとってはこれ以上ない標的になる。
数名の部下と理鶯が襲われた時に敵の目的を俺と断定し、すぐにシンジュクディビジョンで医師をやっている知人に保護を求めた。以前から世話になっていて妹とも面識がある。良心と腕っぷしにも信頼がおける。妹は今、先生の病院に入院という形で保護されていた。病院に対して金も積むし、銃兎のコネで警察というボディーガードもつけた。敵の正体がわからない以上油断はできないが、そうして匿われている間に解決しなけりゃならない。
被害者が組の連中ばっかりなせいで事件として警察も動かせないし、動かせたところでヤクザのメンツは潰れる。かといって直属の人間はすべて潰されたお陰で手駒が足りない。仕方なく休みの銃兎と理鶯を駆り出したはいいが、
「次に狙われそうな奴はいないのか?」
「店の連中か、まさかうちの上を狙ってはこねぇだろ。どっちにしろそこまで手を広げられたら大問題だ」
上役や俺に直接関係ない連中や、ケツ持ちしている店にまで迷惑が掛かれば信用がガタ落ちだった。自分の評価を気にするわけじゃないが、立場がなくなればこの先の妹との生活に関わる。かといって、他に狙いやすい人間は残っていない。
「テメェらンとこにもういっぺん来てくれりゃ話が早いんだよ」
「無茶言うな。大体にして左馬刻自身が落とせねぇから周りを潰して回ってんだろうが」
「こちらが強いと分かったら影も見せなくなったからな。卑怯な連中だ」
囮としては全く役に立たなかった。作戦を立てようにも標的が絞れなきゃ網も張れない。
「左馬刻、テメェ丁度いいオンナはいねぇのかよ」
「……気が進まねぇ」
「変なとこでフェミニスト気取りやがって」
敵は標的が一人のところを狙ってくる。助けに入るまでに傷をつけられないような強い女も、傷つけていい女もいない。ウチのシマで働く女たちは安全な高い塀の内側に引きこもって優雅に暮らすクソ共と違う。日々の生活や家族のために体を張って生きている。
言ってはみたものの、銃兎だって良い案とは思っていなかった。食い下がることなく腕組して他の手段を考える。
黙り込んだ俺たちの横で、理鶯が廊下の向こうに顔を向けた。その気配に釣られてそちらを見る。
「左馬刻さん、理鶯さん、ちっす。……ゲッ、嫌なヤツまでいやがる」
キャップの頭をちょいっと下げてこっちに歩いてくるガキ。山田二郎は顔を上げた銃兎を見た途端に苦い顔で悪態を吐いた。
「おやおや、イケブクロじゃ目上へそういう風に挨拶するように教育されるんです?」
「尊敬できねぇ奴を目上と思えって風にゃ教えられてねぇよ!」
「確かに、そのようですね」
ガキの兄貴、山田一郎が俺に舐めた態度をとることを揶揄する視線を投げてくる。ここが病院でなけりゃガキも銃兎もまとめて噛みちぎってやるところだ。
「見舞いか」
ガキの手元を見た理鶯が尋ねると、持っていたスーパーの袋を掲げて見せた。ゼリーやプリンの他に漫画と思われる本も入っていた。
「なんか左馬刻さんとこのみんなが入院したっつーから、様子見に」
「誰がテメェにンなこと教えんだ」
「……教えたら左馬刻さん、その人のこと怒るから言わねー」
「クッソ頭にくるガキだなテメェはよ」
コイツは一ヶ月ほど前から頻繁にヨコハマに出入りして、鉢合わせれば声をかけてくる。面倒になってシカトすれば諦めて俺に同行している舎弟と喋り始め、気がつけば何人かの部下と顔見知りになっていた。その誰かが連絡したに違いない。退院したらブクロのガキと馴れ合ってる連中全員ぶちのめす。
誰と親しくして嫌がるのかと思って大部屋に入っていくのを戸口から見ていると、左右に並んでいるベッド全てに差し入れを配っている。
「ヤスさんやっべーじゃん。何したらそんな傷できんだよ。テツさんも包帯巻きすぎじゃね?あ、スギさん甘いモノダメだったよな。暇つぶしに漫画持ってきたんだけどさー……エロ本じゃねーよ!俺の歳じゃまだ買えねーもん!」
和気藹々とした笑い声に包まれる病室。同じように壁の切れ目から様子を窺っていた銃兎が小馬鹿にしたように片眉を吊り上げる。
「……左馬刻より人望あるんじゃねーか?」
「表出ろコラ」
結局ベッドに転がっている強面の男たちとまんべんなく言葉を交わして戻ってきた。開けっ放しの扉を挟んで壁際に並ぶ銃兎と理鶯、反対側に俺。メンツを見て、恐らく銃兎を避けて俺の横につく。すっかり仲間の一員みたいな顔しやがって。だけど誰も、銃兎ですら、対立関係にあるチームのこのガキを追い返そうとはしなかった。俺たち三人それぞれ、こいつのことを考えているのが互いにわかる。
妙な沈黙を訝しんでガキが八の字眉を寄せた。
「なあ、抗争かなんかあったのか?みんな教えてくんねーんだけど」
そりゃそうだ。外部に漏らすなと言ってある。バカ共も入院したことはバラしても詳細な事情は黙っていたようだ。
ガキは絶対に銃兎と視線を合わせず俺と理鶯に説明を求めていたが、最初に口を開いたのは銃兎だった。
「まあ、そんなところです。揃いも揃ってあの有様でね、左馬刻の付き人がいない状態で困ってるんですよ」
「オイ」
嘘はないが言いぐさが気に食わなくて睨む。当然のように黙殺された。
「……付き人って何すんだよ?」
「要するに雑用ですよ。バカにでも出来る仕事です」
「オイ、今こっち見てバカつったな?!」
「気のせいじゃないですか?」
中王区で接触して以来か、その他であった厄介ごとのせいか、銃兎の話は素直に聞けないらしい。本当かという目でこちらを見上げてくる。向こう側では銃兎が話を合わせろと目配せしてくるし、理鶯は、あまり表情に変化がなくて分からない。だが、無駄な口を挟まないことからして、こいつが囮に丁度いいと考えていることは確かだ。バカそうなガキだがヒプノシスマイクを扱えて喧嘩の腕もそこそこ。女よりよっぽど丈夫で多少の荒事に巻き込まれても死にそうにはない。適当に連れまわして囮にするにはもってこいだ。
だが、これは山田一郎の弟だ。直接でなくても借りは作りたくない。そういう葛藤を見透かしてか、生意気ヅラで言う。
「あのさ、ヤスさんたちには世話になってるし、ちょっとぐらいだったら手伝ってもいいぜ?」
キャップの下から覗く上目遣いを一瞥して妹の顔が頭をチラついた。弟妹って生き物はこういうのが上手い。こいつは全く可愛くないが。どのみち選択肢はあまりなかった。腰の高さで銃兎に中指を立てる。
「………………分った。お前これから俺についてこい」
こうして一日舎弟が誕生した。
まずは事務所。車は運転させられないから俺がハンドルを握って移動する。舎弟としては全く使えないが仕方ない。
鞄持ちをやらせて巡回先に向かう。キャバクラ、クラブ、ソープ。定期的に顔を出している店と、トラブルで対応を頼まれている店に出向く。この時期に人手の必要な問題が起きると厄介だったが、じっくり話を聞いてみると組の他の者に任せていい案件だった。電話一本で手配して終了だ。
他の巡回先では商売の調子やウチで斡旋した女の様子を聞いて、ついでに近隣に新しくオープンする風俗店の話を仕入れた。店がチラシを配り始めたら用心棒の必要はないかと電話を入れるわけだ。これも後回しでいい。
今日は他からの呼び出しもなく、比較的穏やかな日だった。早目に予定が済んだ。中間連絡として銃兎に電話を入れると、外から監視しやすい場所で食事するように指示された。連れまわすといっても頻繁に建物に入ってしまうと、ちゃんと敵の目についているかわからない。指図されるのはもちろん腹が立つが、平日には一応学校に行くとかいうガキをずっと連れまわすわけにもいかない。外から顔の見えるファミレスに入って窓際の席に陣取った。
「おい、好きなもん頼め」
「じゃあ、ドリア」
「ガキが変な遠慮すんな」
メニューも開かずに答えるのにイライラして畳まれたままのメニューブックを押しやった。それでもまだ遠慮がちに、ハンバーグセットを選ぶ。こっちは酒でも飲まないとやってられないが運転があるから飲むわけにもいかない。妙に静かなガキ相手に話すこともなく、さっさと煙草に火をつけて外の様子を窺いながら煙を吐く。最初から盛り上がると思っちゃいないが空気が悪い。
「テメェ、言いたいことがあんなら言えや」
灰皿に灰を落として顎をしゃくる。そんな態度に腹は立つらしく、ちょっと顔をしかめてから話し始める。
「なんかさ、……あんまり役に立ててねーよな?」
「あ?」
「いや、手伝うつったのに車回せるわけでもねーし、くっついて突っ立ってるだけだったし」
「……今までそんなこと考えて黙ってたのか」
元からアホ面で後をついてくること以外、何も期待なんかしちゃいない。変に意見されたり拒否されるのが面倒で事情は黙っていたが。
「アンタの仕事のことよく知らねーけど、もうちょっと何か役に立てるかと思ってたんだよな」
「役に立ちたかったのかよ」
「そりゃ、自分で舎弟代理引き受けたんだし、な?」
律儀なことだ。ウチの部下に世話になっているなんて言うが、個人的に親しいわけでもないだろう。真面目に返すべき恩なんかあるわけがない。こいつの兄貴も、こっちが忘れたような些細な恩を憶えていて律儀に返してくることがあったが。偽善者教育の賜物か。
「ハァ……。耳かっぽじって聞け。その辺の店に俺一人で出向くのと連れがいるのとじゃあ印象が変わってくんだよ」
「う、うん」
「一人で動いて軽くみられるよりお前でも控えてた方がマシだ」
「そんなもん?」
「そんなもんだ」
実際のところ、ある程度継続して付き合いのある店ばかりだったし今更無理に見栄を張る必要はない。言葉に嘘もないが本当でもない。だが、相手は素人ガキの間で幅を利かせているだけの、所詮子供だった。言い切ってやれば納得した様子で調子を取り戻す。
「心配して損した。あー、腹減ったな。ドリンクバー行ってくるけど左馬刻さんなんか要る?」
「コーヒー」
「氷なしな」
教えた覚えもないのにアイスコーヒーだけをグラスに入れて戻ってきた。こいつとまともに食事するのもこれが初めてだ。なんで知っているのか気持ち悪く目の前に置かれたグラスを睨んでいると、流石に不安になったらしく「違った?」と顔色を窺ってくる。
「いや。……何で知ってやがんだ」
「さっき、病院出る前にテツさんに聞いた」
「…………」
確かに話がまとまってから銃兎たちと打ち合わせている間、一人で病室に戻って何かしていた。
「アンタ気難しいしさ、いい仕事のためには準備が大事っていつも兄ちゃんが」
自然と“兄ちゃん”というワードが出た瞬間に禁句に気がついて口を閉じる。よくあるうっかりだ。一々取り合うのも面倒くさい。
大体にして、そういう奴だ、一郎は。弟ほど誰にでもヘラヘラしないが、マメで物事の下準備に手を抜かない。パシリに使われていたわけでもないのに、「乱数は飲み物にストローを欲しがるから貰ってきた」とか「寂雷さんが注文した料理に食べられない食材が入ってるのを見つけたから抜いてくれるよう店員に伝えてきた」とか。仲間の好みや細かな癖はよく覚えていてすぐ気がつく。仲間内では一番若かったから、馴染もうと努力しているものと思っていたが、弟を見ていると元からそういう気質だったのかもしれない。
薄まらないよう氷を抜いたコーヒーに口を付けた。薄いと俺がすぐ文句を言うから、一郎は必ずこれを守った。乱数なんか前もって頼んでおいても「女の子と話してたら間違えちゃった」なんて言って戻ってくる。次に俺が乱数のグラスを預かる時は間違えて甘くない飲み物を汲んできて、喧嘩になると真っ先に一郎が仲裁に入る。こっちが年上だって言うのに弟の喧嘩でも止めるような態度で。そういう時の生意気さも似ている。
「あ、飯食って帰るって家に連絡入れさせてくれ」
同じタイミングで注文していた隣のテーブルに料理が運ばれてくる頃。今日会ってからずっとポケットに入れていた携帯を取り出した。
一言断ってから、ちょっと操作してすぐ置く。その理由がわかる。人といる時には最低限しか携帯を覗かない。食事中は特に。相手に失礼だから。昔、一郎が寂雷先生の話を無視して女とのメールに忙しくしていた乱数に説教していたから知っている。そんな思い出が沢山あった。あの時は「一郎がいじめる」と言ってわざとらしく泣きついてきた乱数を切り捨てて一郎の肩を持ったもんだが、今となっては一郎の自分の正義に対する絶対的な自信の方が鬱陶しい。
でも、二人でいるときに他の人間を優先する奴よりはいい。この弟は兄のそういうところを丁寧に受け継いでいた。
飯が運ばれてくる。注文の時に遠慮したくせに、心配事がなくなったからと料理を置いたばかりの店員に追加注文した。呆れ混じりに見ていると悪びれず、
「遠慮すんなっつったじゃん」
「生意気で腹立つわ」
面白そうに笑った。既視感がある。一郎も、こんな顔で笑っていた、気がする。頭の奥がちりちりするようで目を逸らした。
「ん?」
食べている途中でテーブルの端に置かれた携帯が振動する。なんとなくそちらに視線をやるとフォークを置いた手が伸びてきて携帯を掴んだ。平べったい端末を掴む指にはいくつか指輪がはまっている。その一つに目を留めた。見覚えのあるデザインだった。
「…………」
「出ねぇのか」
着信を知らせるディスプレイを見たまま下がり気味の眉尻を更に下げ、口の動きも止まってしまっている。どうでもいい相手なら通話拒否か携帯を置くかするだろう。そうしないってことはどうでもよくない相手ってことだ。
「いいから出ろ」
「ん、ごめん。ちょっと行ってくるわ」
食べかけのハンバーグを残して携帯片手に店を出ていく。目の前の皿をスプーンでひと混ぜして、テーブル隅に丸めて置かれた伝票をとるとレジに向かった。
「……うん、ごめん。大丈夫。……帰る時また連絡するよ。ありがと、兄ちゃん」
ガラス張りの押戸を開けると、外壁に寄り掛かって電話していたガキがこちらに視線を寄越す。相手はやっぱり一郎だ。分っていた。だってあの頃の一郎も兄弟からの電話は誰と一緒の時も必ず出ていた。まだ付き合いの浅いこいつのやることなすこと、意図や意味やこだわる部分。そういうものが手に取るようにわかる。
通話を終えると携帯を片手に持ったまま改めて「食事中にごめん」と言う。その横を店を背にして通り過ぎた。
「帰る」
「え、ちょ、え?」
逡巡する間があって、それから足音が追いかけてくる。駅にほど近い店だ。車は少し離れたところに置いてあった。
「急にどうしたんだよ。メシは?」
「金は払ってあるからすぐ戻りゃまだテーブルにあんだろ。好きにしろ」
「左馬刻さん一人で帰んの?何で急に機嫌悪くなってんだよ」
「元から良かねーんだよクソボケが」
理由を説明せずに怒っている人間なんか相手をするだけ無駄だ。正面に立ったところでサンドバッグにしかなれない。そういうことを何もわかっちゃいないガキ相手に、兄貴の代わりに殴らせろと言わず立ち去る選択をしたのは俺にしては褒められていい行いだった。察しのいい大人ならここで引き下がるところだ。だけど相手はバカな子供だった。
「さっき電話してたの怒ってんのなら謝ってんだろ?」
走って正面に回り込まれ、足を止めた。宙に浮いた手が目に入った。
「……おい、手ぇ出せ」
「手?」
両手を胸の高さまで上げて、何かもらう時みたいな恰好で差し出される。その右手を掴むと薬指にはまった一本の指輪を引き抜いた。タングステンの、ラインが一本だけ掘り込んであるデザインだ。ラインの色が記憶と違う。あれは赤紫だったが、これはメタリックブルーだ。外したそれを改めて見るとそっくりな別物だった。
「こいつもクソ兄貴のパクリだろ」
「……兄ちゃんの持ってんの、真似して買った奴だけど、何でわかるんだよ」
「俺がそれを一郎にくれてやったからだ」
色違いの二つの瞳が見開かれた。その目の前で奪った指輪を投げる。道を横切った車のヘッドライトの光に反射して弧を描くてっぺんで光ったきり、暗い道路を転がって側溝に落ちた。
「ああっ!何してんだよ!」
落ちたあたりに目を凝らしても隙間に入り込んだものは見つからない。所詮こいつが自分で買ったものだからか、早々に諦めて顔を上げた。ほんの少しだけ軽くなった指を反対側の手指でさする仕草が目についた。
「……兄ちゃん、今は着けてねぇけど、まだ持ってんだぜ」
「捨て忘れてんならテメェが代わりに捨ててやれ」
「…………できねぇよ」
昔、俺が持っていたのとよく似た別ものをこいつが持っている。昔一郎に教えたダンスを一郎から教わったこいつが何も知らずにこなしている。食べ物の癖を覚えてる。俺と一郎が語らなくなったあの頃が、弟の中にいくつも残っていた。無理やり奪い取って捨てさせられるのは指輪ぐらいだ。
このガキといるともう過去になったあれこれが胸元まで一瞬にして戻って来る。生温い思い出を手繰り寄せていくと、最後にはあの日にたどり着く。
『左馬刻、もうアンタにはついていけねぇ』
道端の建物から落ちてくる光から逃れ、一歩踏み出してから動く様子のない相手を振り返った。
「もうこれっきりだ。こっちはテメェみてぇなガキに用はねえ。ウチの連中と上手くやってるみたいだが、俺はガキの遊びに付き合う気なんかさらさらねーからな。二度と顔見せんな」
「なんで……」
歩き始めると今度こそついてこなかった。
車に乗り込んで、妹のいない家に向かう気もわかず、海に向けてステアリングを回した。どこに行くあてもない。
しばらく走った頃、ポケットで携帯が鳴って銃兎に連絡を入れ忘れていたことを思い出す。そもそも、あのガキを囮にするために連れまわしていたんだから失敗だ。新しい策を考えないといけなくなる。煩わしさに舌打ちして、片手で着信画面の通話ボタンをスライドさせた。名前は見なかったが、案の定銃兎だった。
「左馬刻、今どこだ?一人か?」
声が心なしか逸っている。
「駅近くでアイツと解散して車ン中だ。悪ぃが今回は失敗……」
「オイ、何抜かしてやがる。敵がお出ましだ」
「なんだと?」
「駅裏の公園だ。俺たちも、今車を出て追いかけてる」
電話口で声が弾む。走っているようだった。
「左馬刻は公園の西側に向かってくれ。人数が多くて前みたいに逃げられたら俺と理鶯じゃ対応しきれねぇ」
頼んだぞ、と言って勝手に通話を打ち切られた。敵が出たってことは、つまり、あのガキがまんまと狙われたってことだ。半日同行していたとしても仲良くしていたつもりはない。敵の目は節穴か。
ステアリングを大きく切ってUターンさせる。対向車が急ブレーキを踏んでタイヤが悲鳴を上げ、叩きつけるようにクラクションが鳴った。アクセルを一気に踏み込み最速で市街地に引き返した。
◇
万事休す。すっかり囲まれた。よくいる、安いチンピラに絡まれたかと思ったら思いのほか人数が多かった。
チンピラに絡まれること自体は珍しくない。ヒプノシスマイクを狙われたこともある。それでも一人で出歩くくらいには自信があった。
それにしたって多勢に無勢だ。ヒプノシスマイクの間合いは広いが、いっぺんに全員を倒せるほど万能でもない。
「クソッ。テメェらも男ならラップでかかってこいよ、なぁ?!」
死角から足の速いのが手の届くところまで迫って来る。拳を躱し、襟を掴んで膝を入れる。その動きで手元がブレてフロウが乱れるとまた一人、何か長い棒切れを持って駆け込んで来る。武器根絶を謳った社会でも長くて硬い棒はどこにでもあった。
体勢が悪く、いなし方に迷って咄嗟にマイクの柄で受けてしまった。こう見えてヒプノシスマイクは頑丈にできている。棒を取り落としたところを狙って蹴り飛ばしたのはいいが、完全にラップが止まると好機とみて一気に畳みにきやがる。
ヒプノシスマイクなしでもその辺の不良相手に負ける気はない。でも今回の相手はそういうのと違った。
集団のどこかからラップが聞こえて脳を揺さぶられたような衝撃を受ける。物理的な攻撃じゃない。これは、ヒプノシスマイクだ。聞いたことのない声とフロウ。テリトリーバトルで顔を合わせた誰でもない。違法マイクだ。
ヒプノシスマイク相手に単独で肉弾戦は厳しい。唇を舐め濡らすと体勢を立て直すためにマイクを構え直した。
一小節目を口にしようとした時、複数人で迫ってきた敵に腕を引いて引き倒される。至近距離でのやり合いでマイクは非力だ。手当たり次第に殴りつけ、蹴りつけても、人数が増えてくるとどうしようもない。逃げ場がない。
背後から羽交い締めにされ、振り回した足も分厚い手で掴まれた。マイクだけは手放さないよう固く握りながらも振り上げられた角材を見上げて覚悟を決める。
「ぐあっ!」
目の前の男が汚い呻きと共によろけて後方へと倒れる。途端に集団にどよめきが広がった。騒めきをこじ開けるようにして音が聞こえてくる。聞き覚えのある、鼻につく声だ。
『会いたかったぞ尻尾巻いたチンピラ もう焦ったって遅いぞ今更 ふん縛って蹴飛ばして満員の豚箱』
『奇襲は成功? 束の間の健闘 棒切れ遊びする 野犬の群れハンティング』
密集していたチンピラたちが次々に倒れていく。俺を羽交い絞めしていた男も、足を掴んでいた男も。拘束していた奴が膝を折るのと一緒に足を持ち上げられていた俺もバランスを崩した。その腕を軽々掴んで引っ張り上げられる。
「大丈夫か、少年」
「理鶯さん……」
地面に足がつくとすぐに腕を掴む手は離れ、失神した人間の山を踏みつけて前進する銃兎に続いた。肩で息をしてその細身の背中を見上げれば攻撃の合間に振り返り、笑顔。
「なかなかいい囮ぶりでしたよ?」
「またテメェかよ!!」
この時ばかりは敵より誰よりコイツが憎い。病院で会った時に様子がおかしいとは思ったんだ。
どういうことかは後で聞くとして、両手で自分の頬を張るとマイクを握り直した。二人がどれほど強いかは知っているが任せきりじゃ男が廃る。遅れて前線に向かおうとした、その時だ。
敗走し始めた人の群れの向こう側に眩しい光が滑り込んだ。向こう側の入り口に突き刺すように停められた車のヘッドライトが夜の公園を照らし出す。車のドアの開閉音を合図に荒く叫び合っていたチンピラ連中が静まり返った。車の前に一人の男が立っている。光を背にして、その端正な顔に濃い影を落として。
「よう、チンカス野郎共。仕事が速ぇじゃねーか。ちょうどむしゃくしゃしてたとこで助かるわ。なぁ?」
たった一人だ。逃げるなら三人も控えているこちらよりよっぽど手薄なはずだ。だけど、突破しに飛び出す奴はなかなか出てこなかった。
人の山の上で銃兎がマイクを下ろす。
「遅れてきて何言ってやがる」
引き返して事態の収拾作業に取り掛かる銃兎とすれ違い、こちら側に逃げようとする残党のために戦闘態勢を維持した理鶯と並んで虐殺の様子を呆然と見つめた。圧倒的な音波の暴力が辺りを焼き尽くす。その白い影から目を離せなかった。
◇
なんだかんだで警察署から解放されたのは翌昼だった。どうせ釈放するんなら最初から捕まえるなと思うが、予想より規模の大きな喧嘩になったせいで銃兎も手を回しきれなかった。檻を出るときに銃兎の顔を見たが、忙しさで物騒な顔をしていた。アイツの本番は喧嘩じゃなくその後始末だから仕方ない。
手元に戻ってきた携帯には組の上層から報告を求める留守電が入っていた。面倒だがそれが俺の仕事でもある。
電話で手短に事情を説明して、ついでに言いつけられた所用を済ませるために事務所に向かった。こういう時に部下が使えないのは不便だ。
キーケース片手に薄暗いビルの内階段を上り、施錠された事務所入り口前で座り込む子供を見つけた。
「あ、おはよっす」
控えめに手を挙げて立ち上がる。それを避けて扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。
「今日早ぇーのな。仕事?」
「帰れ」
何食わぬ顔で勝手に会話を始めるガキに鍵を回す手を止めた。顎をしゃくって階段を示す。
「やだ」
あんまりにもガキ全開の返答が聞こえて頭に血が上る。
「やじゃねーんだよ。もう二度と来んなつったろうが!」
詰め寄り、至近距離で恫喝してもコイツは退かない。根性ばっかりはあった。
両足で踏ん張って精一杯って顔で睨み返してくる。
「だって本気で会いにこなくなったらアンタ、俺がアンタのこと嫌いになったと思うだろうが」
一瞬何の話だかわからなくて鼻白んだ。
「あ゛?ガキの喧嘩かよ」
「ガキとか大人とか関係ねーだろ。こういうのはあんま時間置かずに行かなきゃダメなんだよ」
まるでガキ同士のつまらない喧嘩の話だ。昨夜だけでもどんな目に遭ったか、バカすぎて忘れたのか。
「……昨日の事情は理鶯に聞いたはずだ」
「それがどうしたよ。あー…、銃兎の野郎は次会った時シメるけど。ちゃんと説明してくれたらどのみち協力してたしいいんだよ」
とんだお人好しだ。これも一郎の教育の成果か。
「フンッ。クソ兄貴の腰巾着クセしてよく言う」
「兄ちゃんは関係ねーだろ。もうアンタは兄ちゃんの知り合いってだけじゃねーもん」
それをなくしたら何だって言うのか。友達や仲間じゃない。舎弟というわけでもない。関係に名前もつかない程に薄っぺらい縁だ。
ガキは、山田二郎は一度視線を落として続けた。
「アンタと兄ちゃんが仲悪ぃのは知ってる。俺は兄ちゃんの味方だし、そりゃアンタがやることに文句付けることもあるよ」
言われなくてもわかってる。何を勘違いしてやがるかは知らないが、一時的に俺に興味を持っていたって遅かれ早かれ一郎と同じく去っていくんだろう。やることも言うことも、こいつは一郎にそっくりだ。それを分かっていて二の轍を踏むわけがない。
もう一度「帰れ」と言おうとしたが、ガキが勢いをつけて顔を上げる勢いに呑まれて言葉が引っ込んだ。
「でも俺は兄ちゃんじゃねーから。また会いたくなるし、そしたら来る」
啖呵を切ってドヤ顔で鼻から息を吐く。いかにも頭の悪いガキだった。一郎は、もっと賢かったと思う。
一呼吸ほどの時間だけ見つめ合って顔を逸らした。差したっきりだった鍵を回して事務所の扉を開ける。
「シラけた。帰れ」
「ちょ、今俺いいこと言ったじゃん!」
「うっせぇ、自分で言ってんじゃねぇ」
扉を閉めずにおくと、一応は中の様子を窺いながら入ってきた。
「今日は手伝うことねーの?」
「ねーよ」
奥には俺の机がある。その引き出しを開けて、随分開けていない小物ケースを取り出した。二郎はすぐ帰るのも嫌だがやることもない様子で、窓辺で降りたブラインドの羽根の角度を変えて外の様子を覗いている。
ケースの中には昔貰ったり買ったりして手に入れたアクセサリーや海外の硬貨なんかが雑多に収められている。その中から適当に取り出しやすかった指輪を一つ摘まみ上げ、
「おい、手出せ」
窓辺から素直にやってきて昨夜と同じく両手を差し出された、その左手のひらに落とした。二郎は器用に手の中で転がしてそれを見つめる。
「え、これ何」
「昨日捨てた奴の代わりだ。要らねぇなら捨てろ」
「いや無理だろ。昔雑誌で見たから知ってる。五桁する奴じゃん。ンな高いモン捨てられるか!」
値段なんか憶えちゃいないが高校生にとって高価なのは間違いない。引き出しにケースをしまったのを見届けてから、おそるおそる指に通す。右手を反らして薬指にはまった指輪を眺め、一人で感嘆の声を漏らしている。こっちにしたらそこまで感激されるほど値の張るものじゃないが。
「……やっべー」
「それ持ってもう帰れ」
「なあ、これってまた来ていいってこと?」
「調子乗んな。手切れ金だ」
「やだね。また来るわ」
間髪入れずに言われてあんまりのガキくささが可笑しくなった。
「そうかよ」
「おうっ」
許可したわけじゃない。なのに勝手にそう受け取って、たれ気味の目を細めて頷く。
雲が流れてブラインドの隙間から太陽の光が差し込む。その端っこで、左手の指で指輪を撫でる、二郎のその手を見ていた。