学生の本分は勉強であるが不良はその限りではない。と左馬刻は思う。しかし、ここでも一郎とは教育方針が合わなかった。
冬も近づくとテストも近づく。そばに置くこと以外ノープランでいつも通りに二郎を呼びつけ休日を過ごそうとしたら勝手に勉強道具を広げ始めた。
「兄ちゃんがちゃんと勉強して卒業はしろって言うからさ」
卒業前に進級も危ういからたまには真面目に勉強しているというわけだ。どうせ左馬刻の部屋に来たって揉め事の収拾に駆り出されたりしなきゃやる事がない。大抵は山田家にない音源を漁ったりベッドで服を脱いだり脱がなかったりして時間が過ぎる。
勉強をすること自体は咎めなかったが左馬刻は暇だ。ソファの上からつまらなさそうに長めの後ろ髪を摘んでくる手を二郎は振り返りもせずに叩き落とす。
「勉強終わったら構ってやっから大人しくしてな」
最近の二郎は強い。左馬刻と過ごす時間が増えるにつれ子供っぽい部分が目につくようになったのが主な原因だ。二郎の弟とは種類が違うが左馬刻は手のかかる大きなガキで、つい世話を焼きたくなる。二郎は兄を持つ弟だが、弟を持つ兄貴でもあった。
一方の左馬刻も別件で元々機嫌を損ねていなかったらこのぐらいで怒ったりしない。その辺のさじ加減も二郎は覚えつつある。
予想通りしばらくは大人しくソファに寝そべって“待て”をしていたが、二郎が問題集の一ページを終えて回答を書いたルーズリーフを横に避けるとそれに手を出してきた。自分の目の高さまで摘まみ上げる。
「おい、邪魔すんなよ」
取り返そうとしてもソファにいる左馬刻の手の位置の方が高い。ぺらぺらの紙を見ていたかと思うと、ソファから降りてテーブルの横に腰を下ろした。
「解答あんのか?」
「は?丸付けでもしてくれんの?」
「貸せ」
何の気まぐれか、勝手にペンケースから赤ペンを取って渡された英語の解答集とルーズリーフを見比べ始める。いたずら書きするでもなく真面目に見比べて、字が汚くて判読しづらい部分には容赦なくバツをつける。
珍しい光景に二郎の手はすっかり止まってしまった。あの左馬刻が赤ペン持って丸付けをしている。
「ん、勉強終わったかよ」
「あ、いや、まだ。……つか、左馬刻さん勉強とかすんの?」
「今はやんねーけど組に入るときに簿記と法律の一部は叩き込まれた」
確かに、事務所で書類に目を通していた左馬刻がミスを見つけて部下を怒鳴り散らすところを見た事がある。
感心しているうちに採点が済んだ左馬刻が手持ち無沙汰になってしまったから二郎は問題を解くのを再開した。左馬刻はテーブルに肘をついて罫線上に英単語を書き込む手元をのぞき込む。解答集と見比べて、すべて解き終わっていないのに横から口を挟んだ。
「スペルミスりまくりじゃねーか。ここがなんでmだよ」
「うっぜぇ!それはmじゃなくrnって書いてんだよ!」
「読める字で書けや」
腹を立てながら指摘された箇所をシャーペンの芯ブチ折りながら筆圧強く書く直す。やっと丸がついた。
「……つか、左馬刻さんだって英語できねーじゃん」
自分ばっかりバカみたいに言われるのは我慢がならない。
「あ゛?リリックに書いてんだろうがよ」
左馬刻もバカにバカ呼ばわりされるのは承知できない。唸るような低さで言われると二郎は立ち上がってCDが積まれたラックに向かった。過去の音源の歌詞カードでも取って来るのかと思った左馬刻だが、棚の隙間に手が伸びた瞬間二郎の意図に気づく。そういえば以前、ラック周辺に散らかしていたCDを二郎が勝手に片付けていた。
予想は当たり、コピー用紙に大味な字でリリックを書きなぐって四つ折りにしたメモが左馬刻の目の前に広げられる。もちろんこの家の家主である左馬刻が書いたものだ。いい閃きがあったから書いた。直近で使う予定がなかったからしまっておいたのだ。
声の勢いを表現するかの如く力のある文字が並ぶメモ書きにも英単語がある。全てカタカナ表記だが。
「おら、自分の書いたモン見ろや!」
「勝手に人のモン漁ってんじゃねぇ!」
「俺がそこらへん片づけてる時は黙って酒飲みながら見てただろうが!」
白い紙に沢山書き殴られたフレーズを容赦なく二郎は指差し、無慈悲に読み上げる。
「ほらここ!バッドモーニングって全部カタカナで書いてんじゃねーか!」
「……英語でも書けるっつの」
「じゃあ書けよ」
テーブルの上で紙の向きをぴったり左馬刻に合わせる。左馬刻の手には困ったことに赤ペンという筆記具があった。
しばらく紙面を睨みつけ、問題のカタカナの上に小さく『Bad』、それからまた少し悩んで『moning』と書いた。最後のgを書いたところで二郎が勝ち誇った顔をするのを敏感に察し、ビッと横線で消すと『morning』と書き直す。ギリギリのところで正解したので二郎はまた別の単語を指した。
「次これな」
「オイ、“バランス”はカタカナでいいだろ」
「じゃあこれ。“ウォーキン”がカタカナはダセェだろ」
今日は別に機嫌の悪くなかった左馬刻も段々イライラしてきた。赤ペンをテーブルに叩きつけて紙を掴むと丸めて同じく投げ捨てる。
「うっぜぇうぜぇうぜぇ!テメェのリリックノートも見せろやゴルァ!」
叫ぶなり二郎のリュックサックをひったくり、中から使い込まれたリングノートを引っ張り出す。表紙には何も書いていないがそれがリリックを書き溜めているノートであることは知っている。
「ちょ、勝手に見んな!」
「どの口でほざいてやがる。どうせテメェも……」
開いた瞬間にまともにアルファベットが目に飛び込んできて勢いが削がれた。カタカナじゃない。スペルの正確性は左馬刻にはわからないが、二郎がドヤ顔するのでそれだけで敗北感がある。
「うぜぇからその顔ヤメロ!スペルが合ってなきゃ0点だろうがよ!?」
再度ひとのリュックサックを勝手に漁って英和辞典を掴みだした。出した途端に思っていたのと違って二度見する。
二郎の辞書にはカラフルな付箋が山ほどつけられている。勤勉な学生の辞書みたいだ。でも勤勉な学生は進級が危ぶまれたりしない。
胡乱な眼でテーブルに乗せた辞書を見つめ、適当なページを開く。付箋がついたページだ。中身もたくさんマーカーが引かれ、少ない余白にメモもある。
「…………」
まさか本気で勉強しているのかと思いながらじっくり見ると、使い勝手の良さそうな熟語や左馬刻の感性で見てカッコ良さそうな単語ばかりチェックしてある。そこで改めて貼りつけられた付箋を見ると母音がカタカナで書いてあった。これはアレだ、完全に“英語でカッコよく韻を踏むためにカスタマイズした辞書”だ。
「テメェも真面目に勉強してねぇじゃねぇかよ!!」
「ちゃんと辞書引いてるだけアンタより真面目だろうが、学生舐めンな!!」
貶し合いはついにつかみ合いに発展して不毛な争いはフリースタイルラップバトルになった。いつもの終着点である。
今日は誰が縛りを設けたわけでもないのに日本語オンリー。英単語を口にして、後からスペルが分かるのかと言われたら面倒だからだ。
いつも以上に幼稚な争いをした一時間後。二人ともぐったり疲れてソファに座り込んで休憩し、落ち着いてから勉強再開した。
今度は左馬刻も文句言わずに粛々と丸つけをして、動機不順な書き込みの多い辞書を開いて「これは構文だ」とか「単語は合ってるが末尾が変化する」とか説明を挟む。左馬刻自身が単語や文法を熟知しているわけじゃないから説明は大雑把だが、辞書や解答集の解説を読み込めば理解は出来る。人生で一番勉強に専念できるはずの時期に生活が苦しくて勉強どころではなかっただけで地頭が極端に悪いわけではない。
二郎は学校支給の過去問プリントを解き終え隣にスライドさせる。それから結果待ちの時間つぶしにバツの多いルーズリーフをまとめて目を通していると、採点している左馬刻から「お」と声があがった。手元を見るとバツが一つもない。二郎も「おお?」と声が出て最後の一問に丸がつくのを見届ける。
「やれば出来ンじゃねーか」
やっと出来上がったバツのない答案。珍しいことに左馬刻も素直に褒め、帽子癖でぺったんこの頭に手のひらを乗せて髪をわしわしかき混ぜた。くすぐったくてはにかむ二郎も上機嫌で、
「やったー兄ちゃん!」
うっかり間違えて口走った途端に手加減なしに頭を叩かれた。これは当然の制裁だ。二郎もわかっているから痛くても文句は口にしない。完全に兄専用の甘ったれた口調だったので、それもまた良くなかった。また苦情三割、兄批判七割の暴言が始まる。と思ったら、左馬刻は興が削がれたような態度でその辺を片付け始めた。怒鳴られ慣れてしまうとそういう態度の方が効く。
火に油だろうとは思いつつも、怒られ待ちの時に沈黙されることの方が二郎は嫌だった。余計な弁解だと思いつつも口を開かずにいられない。
「……あのさ、うち昔から俺も三郎も兄ちゃんに宿題見てもらってて……流石に高校あがったらやらなくなったから、なんか懐かしかったっつーか」
宿題を見てもらえていた時期。兄の帰りが遅くなって二郎が宿題を忘れていくことが多くなった時期。それから高校になると宿題をやる習慣自体がなくなった。弟の三郎は出来がいいせいで二郎ほど勉強面で世話を焼いてもらうこと自体少なかった。兄が働き始めて以降は尚更迷惑をかけまいとして弟たち二人で完結させてしまうことも多い。その代わり、今は一緒にテリトリーバトルを戦うラッパーとして認められようとしているのだけれど。
そんな二郎を左馬刻は横目で眺め、顔を逸らした。やや俯き加減にどこかをぼんやり見ている時は過去を覗き込んでいる時だ。と二郎は推察している。自分の知らない時代の記憶に潜り込んでいる。
左馬刻は手の中で赤ペンを器用に回す。回してまた掴んで、片膝を抱えてテーブルに置いた。
「うちも……よく妹の勉強みてたわ。妹の方が賢いからこんな風に答え見ながら丸つけるしかできなかったけどな」
言われてから採点が手慣れていた理由がわかって二郎は頭を抱えた。比喩でなく実際に前触れなく頭を抱えて深く息を吐くと、急になんだと左馬刻が顔を上げる。
「ごめん。俺、昔の兄ちゃんのこともさっきみたいに褒めてたかな、とか、そんなことばっか考えてた」
酷く素直な告白だった。ガキなりのプライドや意地もあるくせに、突然潔く剥き出しの気持ちを差し出してくる。大人はそういうのを受け止め慣れていない。
「……まだそんなこと気にしてんのかよ」
かつて仲間として可愛がっていた一郎と今の二郎を同じに扱ってなんかいないことはとっくの昔に理解させている。理解していても二郎は兄ほど魅力のある人間はこの世にいないと思っているので勝手に気にしてしまうこともあるが、口に出せばこうして面倒くさがられるだろうから黙っていた。でも、今は会うこともままならない妹のことを考えていたかと思うと自分の器の小ささに堪らなくなる。
「ごめん……」
呆れられただろうな。面倒くさいガキとは思われたくないのに上手くやれない。冷ややかな眼を覚悟して腕の下から恐る恐る顔を上げると。
「……ったく、しょうがねぇヤツだな」
思いの外柔らかい表情で手が伸びてきて、上げた顔をまた沈めさせるぐらいの力で頭をかき乱される。
ああ、多分これはTDDの一郎向けでもなければ妹向けでもない。自分だけの仕草だ。本当のところは左馬刻にしかわからないので二郎はそう思うことにした。
お互いに兄弟との記憶に思い馳せていた勉強時間はもう終わり、それからは今の二人の時間が始まる。