生まれてこの方その声を聞きたくないと思った日はない。
かけられる言葉はいつも正しく導いてくれる。刻むライムはいつでも憧れを抱かせる。
大袈裟だとか、妄信的だと思うだろうか。今の俺についてきてくれる沢山の人間。ブチかましたバトルで沸く観衆。それら全てが俺の信心の正しさを証明しているのに。
仲間から信頼を得て、俺たちの生活を脅かすクズを叩きのめし、オーディエンスを沸かし。背中を追って生きることの正しさを再確認する。
家に帰り、何気ない会話や説教や、一緒に新しい音楽を作ることで天啓も日々更新される。
厳しい言葉も、対峙して叩きこまれるライムも、何だって向き合いたいと思っていた。
そんな気持ちで一生涯を過ごすんだと、今日の今日まで信じていた。
放課後、友人たちと遊びの話をしている時に珍しい人から電話があった。こちらから連絡することはそう珍しくもないが、向こうからかかってくるのは稀だ。来るもの拒まず去る者追わずで、自分はいつでもそこにある海のように構えている人だったから。
「学校だったか。すまない」
「いや、終わったトコ。でも理鶯さんが電話かけてくんの珍しいよな。何かあったのか?」
「ああ、ちょっと聞きたいことがあってな」
「うん?
「左馬刻の自宅を知っているだろうか?」
学校の駐輪場でバイクに手をかけつつ首を傾げた。何でわざわざ俺に訊くのかわからない。もっと確実に知っていそうな人間がいるはずだ。わざわざ在住ディビジョンも違う俺に訊くことに疑問を抱く。
「左馬刻さんち?そんなのクソポリの方が詳しいんじゃねーの?」
「それがな、左馬刻が熱を出して寝込んだと聞いたので滋養のつくものを届けたいと言ったら、住所を書いたメモを失くしたと言われてしまって」
「ストップ。待ってくれ、頭が追い付かねえ」
難しい話はされていないが受け止めるのに時間がかかる。
まず、寝込んでいるというのが初耳だが、別に体調不良を連絡される間柄じゃないからこれはいい。あんな鬼みたいな人でも寝込むんだということに新鮮さを感じるが、そういった感想を述べている場合じゃない。問題はその後だ。
「……滋養のつくモノって?」
「これから捕獲に向かうところだが、蛇やヤモリを予定している」
「うん、そっか」
「なので食材が確保出来次第、見舞いに行きたいのだが……銃兎には今回は諦めてくれと言われた」
先に住所を尋ねられたらしい入間銃兎はロクな人間じゃないと断言できるが、人の心は持ち合わせているらしい。病人にみすみす爬虫類を食わせるほど鬼畜ではなかった。言い訳が雑なお陰でこちらにお鉢が回ってきたわけだが。こっちは実際に住所を知らない。それで諦めてもらうのが得策だ。
「理鶯さん、わりぃけど……」
「もし少年が住所を知らないのであれば組の事務所に聞きに行く予定だ。事務所の電話番号は知らないのでな」
「…………」
ダメだ。事務所に足を運ばれたらわからないじゃ通用しない。しかも、日ごろ左馬刻や銃兎の横暴に耐え忍んでいる舎弟たちは理鶯のことをヨコハマ唯一の良心のように思っている。いつだったかに「料理上手らしくて卒のない人だ」と褒めていた記憶がよみがえる。料理上手の前に野生食材のスペシャリストである情報が全く入っていない。
頭の中で蛇とトカゲが左馬刻の周りをぐるぐる回った。理鶯はヨコハマ連中とつるんでいるのが不思議なほどいい人だ。だが、それでもその真心を応援してやることができない。心苦しさに片手で頭を抱え、溜息の後に嘘をついた。
「……実はさ、俺も沢山食糧買い込んで見舞いに行くとこなんだよ!奇遇だよな?!……でもそんなにいっぱい食えねぇと思うし、今回は俺に任して欲しいんだけど……」
「そうだったのか。それなら小官は遠慮しよう」
「うん……ほんと、ごめんな」
ごめんは嘘をついたことへの詫びだが。
「いや、問題ない。左馬刻のことをよろしく頼む」
「うん、ほんと、ほんとごめん」
よろしくされてしまうと尚更心苦しくなる。多少の方便を気に病む方ではないが、理鶯が真面目に心配して申し出たことがわかるだけに。
電話を切ってから嘘を嘘のままにして帰宅することも考えた。今行けば遊びに出た友人たちに合流だってできる。でも、
「寝込んでんのか……」
常に態度がでかいお陰で想像がつかない。どうせ舎弟の誰かが見舞いを済ませているだろうし、俺が行ったところで邪魔扱いされるのが目に見えているが。
気になって、すぐ連絡がつかなければ素直に帰るつもりで顔なじみのやくざにメッセージを送った。容体を尋ねるくらい許されるだろう。
送ったメッセージに既読がついて間もなく、向こうから電話がかかってきた。やや弱った声で。
「兄貴のことなんだけどな、ただの風邪だから寝てりゃ治るの一点張りでよぉ、俺らも来たら殺すって言われてんだわ」
ますます寝込んでいる図が想像できなくなった。元気な病人じゃないか。
「でも、多分ロクなもん食ってるわけがねぇのよ。心配してんだけど俺らじゃ兄貴に太刀打ちできっこねぇ」
「太刀打ちしなくていいだろ、見舞いだろ」
「事務所に電話で連絡寄越したぐらいだから喉は元気なんだ。もしその気があんなら、二郎行ってみてくれるか?お前なら兄貴と渡り合えるし」
「見舞いを何だと思ってんだ」
合鍵はないから住所だけ、と言ってヨコハマのマンションの一室を教えられた。
「俺らが行っても開けてくれねぇかもしれんが、俺たちお前にゃ期待してんのよ」
そんな無責任な期待を背負ってヨコハマに向かうことになった。たまには大人しく寝込んでいる顔を見るのも悪くないし、一応心配でもある。舎弟たちの予想通りに喧嘩になる可能性もあるが、そんなに元気だったらそれでいい。
制服のままバイクに跨り、ヨコハマへと直行した。
携帯の地図アプリで確認したマンションは十一階建て。部屋は八階。外から見ても広々したベランダ付き、エントランスは扉の金属フレームまで曇りなくピカピカ。理鶯に告げた言葉を実現すべくあれこれ買い込んでずっしり重いレジ袋を提げて見上げ、悔し紛れに呟く
「いいとこ住んでんじゃねーか……」
左馬刻本人の荒々しさとは不釣り合いな程に上等な自宅だ。顔は広いが自宅を知っている仲間にこんないいマンションに住んでいる人間はいない。
本当に住んでいるのか疑い半分、気後れ気味にエントランスのインターフォン集合機に部屋番号を打ち込んだ。当たり前にオートロックだ。エントランス扉の開錠パネルも上品で機能的なデザインの台座にはめ込まれている。
携帯にメッセージで送られてきた住所末尾の部屋番号と打ち込んだ番号を二度確認し、コールする。してから寝込んでいて出られない可能性や、単純に無視される可能性を考えた。その時は仕方ないから見舞いの品を事務所に預けてこよう。自宅に持ち帰って兄弟に追及されると面倒だ。そんなことを考えていると、集合機端末から物音がして通話状態になった。
「あ、あの、俺、二郎だけど」
向こうが何も言わないので名乗ってみる。それにもすぐに応えはなく、部屋を間違えただろうかと心配し始めた頃。
「……なんでここを知ってる」
機械ごしにも不機嫌さの伝わる声がした。確かに喉はやられていないようだ。後ろで古いジャズラップが流れていた。
「ヤスさんに聞いた」
「死ね」
帰れ、を二音で略して即通話が打ち切られた。慌ててコールし直す。さっきより待って、やっともう一度繋がった。
「聞けよ。俺は理鶯さんが見舞いに来るっつーから代わりに来たんだよ」
「意味が分からん」
「アンタが寝込んでるって聞いた理鶯さんが見舞いに蛇とかヤモリとか持ってくるっつーから、俺に任してくれっつって」
「…………」
理鶯の名前が効いている。
「さすがにそんなもん食わされたら気の毒じゃん。でも理鶯さんもヤスさんたちも心配してっし、代表してちょこっとだけ様子見に、な?」
「…………」
「飲み物とかツルッといける食いモン持ってきたから置くだけ置かせてくれよ。すぐ帰るから。アイスあんだよアイス。早く入れてくんないと溶ける」
折角ここまで来たんだからと食い下がると、舌打ちを返事代わりにして通話が切れ、エントランスの自動ドアが開いた。
エレベーターで八階まで上がって部屋の前の呼び鈴を鳴らす。これには全く反応がなかった。試しにドアノブを掴むと抵抗なく開いたので、入って鍵をかける。
「おじゃましまーす」
綺麗というか、あまり生活感ない玄関に靴が一足だけ脱ぎ散らかしてあった。蹴って足でその靴を揃え、自分は三和土の空いたスペースに揃えながらスーカーを脱ぐ。
奥からさっきの音楽が聞こえた。
無駄に広い部屋だ。突き当たりのリビングダイニングに出るまでの壁沿いに扉が三つあった。トイレと風呂と、反対側にもう一部屋。収納かもしれない。
わざわざこんな広い部屋に住むくらいだからさぞリッチな生活をしているのかと思いきや、リビングダイニングの扉を開けると、ベランダに面した掃き出し窓は重い遮光カーテンに覆われ、広々したフローリングには部屋面積に対して小さなローテーブル。その上に詰め込めるだけ煙草を詰めた灰皿とキーケース。シャツとベルトの絡まったままのGパンとヒプノシスマイクが投げ出されたソファ。その向かいの壁に大型テレビモニタが据え付けられ、これまた大きな箱型スピーカー。リモコンは近くにあったがテレビは真っ暗で、スピーカー脇にあるラックでオーディオコンポのディスプレイだけが光っていた。
「左馬刻さん?」
呼びかけても部屋のどこからも返事がない。部屋に入ってすぐ脇にあったやっぱり生活感がない引越したてのようなキッチンカウンターの内側に荷物を降ろして開けっ放しの戸口に近づき、寝室を覗く。こっちはカーテンが開いていて明るいが、ベッドの上には枕があるっきり。そこに人が寝ていた形跡もない。
おかしいと思って暗い部屋を振り返って、スピーカーの目の前の床にやけに大きな毛布の塊が落ちていることに気がついた。慎重に歩み寄ってコンポのチカチカした光を頼りに覗き込む。
左馬刻だった。
まさか鍵を開けに出てくれてから行き倒れたのかと思ったが、寝室のベッドは使われていなかった。対称的にスピーカーの前には空になったガラスボトルが転がっている。ソファで寝ていて今さっき床に移動したわけじゃない。ずいぶん前からここにいたんだ。
「おい、布団で寝ろよ」
傍らにしゃがみ込んで言うと、顔まで埋めている毛布から返事がある。
「……荷物置いたらとっとと帰れ」
「ったく、わかったよ」
こんなところで寝ていても口は相変わらずだ。でも相手は病人。今日は見舞いに来たんであって喧嘩しに来たわけじゃない。
仕方なくキッチンに置いた荷物を拾って片付けるため、冷蔵庫を開けたが、中はほぼ空っぽ。辛うじて調味料と飲料用の瓶があるだけだった。この瓶、床に転がっていたものと同じ。気になってラベルを見るとばっちりアルコール度数が書いてある。
慌ててスピーカー前に戻って投げてある瓶を拾い、同じ酒瓶であることを確かめた。
「ふざけんじゃねぇ!なんで寝込んで酒飲んでんだよ!?」
「うっせ……」
「つかマジでなんで床だよ!すぐそこにベッドあんだろうがよ!?おら、立て!」
頭から無理やり毛布を引っぺがして珍しいTシャツ姿の腕を力一杯引っ張り起こした。触れた肌が熱い。しっかり発熱している。
「おい、医者は?薬は飲んだのか?」
「……うるせ、酒浴びてりゃ治る」
「アホか!」
肩に腕を回させて立たせようとすると脱力系の抵抗を諦めたのか、素直に俺を支えにして二本の足で立ち上がった。顔が近づいたが思ったよりは酒臭くない。飲んでから時間が経っているのかもしれない。
ベッドに移動させて寝室の窓にカーテンを引いた。反対にリビングダイニングはカーテンを開ける。明るくなった部屋のキッチンから持参した水のボトル持ち出し、キャップを開けてその場で口に突きつけて一口飲ませた。
熱を冷まそうにも何にもないからタオルを水で絞って額に乗せる。そこまで勝手にやっていると段々文句が出なくなった。予想よりも参っている。
冷蔵庫と自分が持って来た差し入れを見比べ、ローテーブルの上に放置されていた鍵を掴む。
「鍵借りるぞ。すぐ戻るから」
返事はなかったけどダメとも言わないのを了解と受け取って、財布だけ持って一度マンションを出た。最寄りの薬局とスーパーを回って解熱鎮痛剤と、氷、氷枕、追加で食糧品を買い込んだ。
走って戻って自分で鍵を開けて入ると、またスピーカーの前に転がっている。カーテンは開けたままだったからすぐに見つかった。文句を言いながら寝室のベッドまでのくだりをもう一度。
そんなに音楽に浸っていたいのかと思って尋ねると、帰るときに再生してあればいいと言われて一旦切った。声を張ってくれないから他の音があると部屋を跨いでの会話に少し困る。
戻って一番目に、脱衣所の収納から見つけて来たタオルで氷枕を包んで頭の下に敷き、薬はアルコールと混ぜない方がいいから一旦脇に置く。
代わりにレトルトの米を使っておかゆを作る。元々はもう少しましな病状を想定して持ってきたものだ。最初からおかゆのレトルトパウチを買えばよかった。
広々したキッチンには何にもない。充実したした収納を一つ一つ開いていくと時々おたまやザルがある。
「鍋ねーのかよ?なんで微妙なサイズのざるだけあんだ」
寝室に聞こえるよう言うと小さく返事がある。
「上、見ろ」
「上?どこだよ……あ、あった!」
やっと大小二つの片手鍋を見つけた。身長的には問題ないが、片手鍋みたいな使用頻度の高い道具を置く場所としては相応しくない。
鍋があるってことは最初から少しも自炊する気がなかったというわけでもないだろうに。
米を煮ていると柔らかないい匂いが膨らむようにして広がる。米の具合を見ながら途中で火を止め、
「左馬刻さんちっておかゆに何入れる?」
返事がなかった。寝ただろうかと思ってベッドのそばまで様子を見にいくとうっすら目を開いている。
「なあ、おかゆ。うちは梅干しなんだけど、味噌漬けと玉子と生姜もあるぜ」
ぼんやり横を見ていた目が眼球だけ動かしてこちらを見た。何度か声なく口をはくはく動かしてから小さく答えがある。
「………たまご」
「ん、オッケ」
粉末の鶏ガラだしで薄味に整えた米に溶き卵を加えてかき混ぜる。白い粥にほのかに黄色が混ざった。
火を止めて、もう一度ベッドまで様子を確かめにいく。
「今食えそう?無理なら後で食えるように置いとくけど」
言葉での応答はない代わりに、体を起こしてペットボトルの水を飲んだ。食べる気はあると判断してキッチンから少なめによそったたまご粥とスプーンを持ってくる。
「キツけりゃ残していいからな」
熱が高いうちは食欲もわかないだろう。酒ばかり食らって何も食べないのは良くないが、最悪アルコール以外の水分がとれているならいい。
粥を渡して飲み水がまだ残ってるのを確認しキッチンに戻る。持ち込んだ食料を改めて見ると、ゼリー、アイス、プリン、電子レンジ調理の白米に漬物に生卵。生姜はチューブ入りおろし生姜だから調味料スペースに突っ込むとして、残りの生卵が問題だった。放って置いたら食べ切らずにダメになる。
この部屋を訪れる前は山田家の風邪の日セオリーに従って白米と漬物を用意したが、後で買い出しに出た際に思い直してハーフパックの玉子と生姜を買った。ここに来るきっかけとなった理鶯の言う滋養を考えた結果だ。うちで誰かが寝込むと近所のばあさんが定期的に押し付けてくる梅干しを添えたおかゆ定番だったが、おかゆのバリエーションが他にもあることは知っている。結果、玉子を用意して正解だった。
左馬刻もこの部屋で一人で暮らし始めるより前、もしかしたら子供の頃は、家族の誰かがかゆを煮て玉子を溶いてくれたんだろう。もし俺が一人で寝込むことがあったらやっぱり兄ちゃんが用意してるのと同じ、梅干しが乗ったおかゆがいい。そういうものが左馬刻にもあることに安堵のような、妙な嬉しさがあった。
そんな個人的な満足感はともかく、残り五つもある玉子をなんとか消費しなくちゃならない。半端な玉子をリュックに入れて自宅に持ち帰るのもイマイチ気が乗らない。
冷蔵庫の中身としばらく相談して、まずスープを作った。かき玉と生姜のスープ。味はおかゆにも使った鶏ガラだしだから代わり映えしないが、こちとら家で三日に一度の食事当番をやっているだけの高校生だ。贅沢を言おうもんなら元気になってからラップでケリをつけてやる。
残りは卵焼きにした。冷凍しておける。出来上がると細々した道具を洗って片付け、ソファに投げてあった服を洗濯機にぶち込み、床に落ちていた瓶を拾って片付ける。キッチンの奥に酒瓶だけのゴミ袋とその他のゴミが分別の概念なく詰め込まれた袋が転がっていた。
片付けを終えたら粗熱の取れた卵焼きを小分けにラップで包み冷凍庫に入れた。
もう調理すべきものはない。となれば、リュックサックからルーズリーフとシャーペンを出して冷蔵庫に何を入れたか箇条書きにしていく。すぐに終わって物足りなさを感じ、大まかな賞味期限も書き添えた。つい色々持ち込んでしまったが、食べられずに棄てられると食べ物を粗末にするなと言われて育った良心に苛まれるから、なるべく消費されるように。
これをローテーブルのど真ん中に部屋の鍵と一緒に置く。そろそろいいかと思って寝室に様子を見にいく。左馬刻はもう布団に横になっていた。ベッドサイドを見ると椀によそった分のかゆはほとんど完食。ホッとして食器を回収する代わりに一回分の薬を置く。
使った食器を洗って、他に放置したものがないか確認した。もう仕事がない。
ベッドの脇に戻って本当に寝入っているのかどうか確認する。
こうして寝ていると、眉間からもいくらか力が抜けてとても静かな顔をしている。怒ると顔が整っている分尚更迫力があるが、この男は恵まれた容姿に拵えた神様がこんな予定じゃなかったとむせび泣く程口が悪くて態度が大きい。「黙ってりゃいい男」なんて言い回しがあるけど、実際にこうして大人しくなると容姿の繊細さが際立って見えた。
色の薄い唇がかさついて、僅かに呼吸が速い。体温計を持ってくればよかった。この部屋にも探せばあるのかもしれないが、あんまりあちこち開けて探すのも気がひける。
代わりに手のひらで前髪をかき分けて額を触った。水で洗い物をした後だから多少は冷えている。その温度差で余計に熱く感じるのかもしれないが、熱い。これを一人で残して帰りたくないな、と思う。自分は家に兄弟がいるのが当たり前だからそう思ってしまうのかもしれない。世の中の一人暮らしの大人はみんなこんな風に一人でやり過ごすんだろうけど。
しばらくそうしていると指の腹や手のひらが額の温度に馴染む。汗で張り付いた肌をそっと離して、まだひんやりしている指の背を頰に当てた。心なしか表情が和らぐ。
弟が熱を出した時みたいだ。起きている時は文句ばかり言うのに、寝てからこうして手を当てるとホッとした顔をして素直に擦り寄ってくる。兄ちゃんと間違えているのかもしれない。兄ちゃんが働き始めてからはなるべく迷惑をかけないよう、調子が悪くても大丈夫だ、平気だと言って送り出すから俺がなんでもした。だからこういうのは慣れてる。弟がどんなに生意気を言っても心細そうにしているのも知っている。
まだ中学生の弟と兄ちゃんより年上のやくざは同じじゃないかもしれない。でも、同じかもしれない。同じであると思うのは俺のエゴかもしれない。弱っているところを押し切って、なし崩しでも世話を焼くことを許されたのが嬉しい。やることがなくなっても足が玄関に向かわない自分の、妙に浮ついた気持ちを薄々自覚していた。
携帯の通知音が鳴る。他愛もない、返信も必要としないような仲間からのメッセージだった。既読ついでにスタンプ一つ送って携帯をポケットに押し込む。
それを機に寝室を出て軽いリュックサックに筆記用具をしまい込んだ。バイクの鍵を指に引っ掛ける。それから思い出してオーディオコンポのスイッチを入れに行った。コンポと同じラックにはレコードがぎっしり並び、別の段にはCDが積み上げられていた。その上から手に取ってみる。知っている曲、知らない曲、昔兄ちゃんに借りて聴いていた懐かしい曲。自分も好きで聴き込んだアルバム。
俺の中にある音楽はほとんどが兄ちゃんのコレクションを漁って聴いたものだ。だからしようとして真似しなくても作る音楽が近い。ここにあるタイトルの六割は兄ちゃんも持っている音源だった。
CDの山を舌に向かって見ていくと、一番下にThe Dirty Dawgの文字を見つけた。解散前に作られたものだ。当然うちにもある。だけど、俺も三郎も聴いたことがない。
大好きな兄ちゃんのことなのに、正直The Dirty Dawgのことはよく知らなかった。昔のチームに熱中していた頃の兄ちゃんは少し遠くて、まだ幼かった俺たちはライブを見に行くこともできなかった。だけど家にいるときは優しくて頼れる兄ちゃんで、楽しそうに音楽の話をしてくれた。兄ちゃんのいない時間には兄ちゃんの好きな音楽を手当たり次第に聴いた。
これは外のことに夢中になっていた兄ちゃんが家の中に戻って来るのと入れ違いにしまい込まれた、俺の知らない一枚。
兄ちゃんと左馬刻が険悪になる前の、きっと一番楽しかった頃の。
目新しいジャケット、円盤。ディクストレイを開けてディスクをセットし、再生ボタンを押す。読み込む間があって、スネアの音が跳ねる。ほんの数秒でわかる。兄ちゃんの好きな奴だ。直感通り、トラックに兄ちゃんの声が乗る。今より若くて今と少し違うクセのあるフロウで走る。楽しそうだ。兄弟でやっている今もいつだって最高の音楽やろうって気持ちで楽しくやっているけど、もっと荒くて勢い任せで自由で、ちょっと今の俺に似ている。この頃の兄ちゃんのラップはそんなに聴いてこなかったから真似したわけじゃないのに。
知らなかった過去の兄ちゃんと似ているというのは、兄ちゃんを手本に生きてきたことの答え合わせみたいで安心する。でも、不思議とはしゃぐ気持ちにはならなかった。今日だけじゃない。最近、少し変だ。
兄ちゃんの声と入れ違いに左馬刻の声が割り込む。無鉄砲なフロウを受けてのキレッキレのライム。不敵で畳み掛ける、喝采のようなフロウ。その終わりを兄ちゃんが掬い上げて声が重なる。こんなの絶対に楽しい。ステージ上でも、レコーディングブースのガラス越しでも交わされただろう、今が一番楽しいって表情が思い浮かぶ。左馬刻のそんな顔見たことないのに。心の底から楽しくなけりゃこんなのは作れない。
それで分かってしまった。二人が決別した時、あの人はこんな時間と仲間を失ったんだ。
わけのわからない無力感。誰に兄ちゃんみたいだと言われたって兄ちゃんの代わりになれないことを痛感する。なりたいと思ったわけじゃない。望んだわけじゃないけど、スピーカーから溢れ出る鮮やかさに圧し潰される。
家で音楽を聴きながら兄ちゃんを待っていた時間と、恐らく俺の中に兄ちゃんに似た部分を見つけて黙り込む時の左馬刻の顔が頭の中で交錯した。代わる代わる飛び出し絡みあう声。音を通して見える二人の顔。
聴きたくない。
曲が終わる前に停止ボタンを押した。急に部屋が静まりかえって耳鳴りがする。ディスクを取り出してケースに収め、元あった山の一番下に戻した。
どうしてだか気持ちが落ち着かなくて、別の音楽を再生することも忘れて部屋を出た。
◇
目が覚めた時、部屋は静かだった。静かな自宅は好きじゃない。
ガキの頃から円満じゃないなりに家族で暮らしていた家がある日突然静かになって、妹も生活から消えて、自分の立てる物音以外何もない家が苦手になった。妹と暮らせなくなってからは眠る前に音楽を流す習慣がついた。無音の家で起きるのは久しぶりだった。
扉を開け放っている隣室も暗く人の気配はない。起き上がると眠る前よりはマシになっていて、ベッドサイドの水を取ろうとして手に触れた薬を、ラベルも見ずに飲んだ。誰がそれを置いたかは分かってる。
汗っぽいベッドを降りて便所に寄り、戻る時に電源入れっぱなしのオーディオコンポの再生ボタンを押した。押したが音は始まらない。ディスプレイに浮かぶ“NO DISC”の文字を見ながらぼんやり眠りの浅い時のことを思い出す。夢か現か、昔の解散したチームで作った曲が聴こえていた。一郎と散々喧嘩してやっと出来たアルバムの一曲目。熱のせいで鬱陶しい夢を見たんだと思っていた。
「…………勝手なことしやがって」
それからの二ヶ月間。冷蔵庫が再び空になっても二郎はヨコハマに姿を見せなかった。