初恋/モブさぶ/18949

 H歴元年の夏はとても暑かった。今思い出しても瞼の裏で坂の上のアスファルトが水のように揺らめく。
 当時すでに子供ばかり三人で暮らしていた我が家に経済的な余裕は皆無で、古いエアコンを長兄がマメにメンテナンスしながら使っていた。試運転したときには冷えすぎて寒いなんて言っていたのに学校の夏休み前に完全に壊れてうんともすんとも言わなくなった。エアコンよりは修理の楽な扇風機だけが残った。
 扇風機の前に氷水の桶を置いて三人同じ部屋で寝る日々。昼間はもうどうにもならなくて、全員「生きて帰れよ」と頷き合って夜まで家を留守にした。
 長兄は当時、大人の人たちとチームを組んで何かやっていた。ラップをやっているのは知っていたけどあまり詳しくは教えられなかったから知らない。それまでいつも家にいていくれた兄を奪われるみたいで好印象もなかったし、詳細を尋ねて楽し気な話を聞いて本気で兄のチームを嫌いになることもしたくない。大好きな兄がちゃんと家に帰ってくるならそれ以上望んじゃいけない気がした。
 次兄は元々外に遊びに出たら日が暮れるまで帰ってこないタイプだった。長兄が家を空ける日が多くなった頃からなんとなく早く帰宅することが増えたけど、家にいたらいたで鬱陶しいばかりだ。二人で交代で夕飯を作っていたから夕方のタイムセールを狙ってスーパーで合流し、手分けして荷物を持って帰ることがよくあった。日中何していたかは知らない。
 僕はずっと図書館にいた。お金がかからなくて一日中いても怒られなくて、暇もつぶれる。夏休みだから他にも子供はいたし目立たない。
 毎日図書館に通って適当に本を読んだ。宿題はすぐ終わってしまったし遊ぶような友達もいない。他にすることがなかった。
 夏休みの朝は暑くて目が覚める。みんな気温の上昇に耐えかねて同じような時間帯に目を覚まし、ばらばらに出かける支度をする。僕は水筒にお茶を詰めて朝食の残りで簡単な弁当を用意して出かける。小遣いも多少はあったけど毎日飲み食いできる金額じゃない。
 気象予報士は連日のように真夏日とか今年最高気温なんて言いながら赤やオレンジに染まった地図を指さす。町が熱でも出したみたいだった。
 そんなある日、持ってきた水筒が底をついてしまった。もう一回り大きい水筒が必要だ。そんな時に限って無料の給水機は使用できなくなっている。仕方なく一応携帯している財布の小銭でジュースを買うことにして図書館のある建物のロビーに設置された自販機の前に立った。
 ロビー自体にはエアコンはなく、ベンチが並んでいても人はいない。壁には近隣施設で開催される催しのチラシがいっぱい貼ってあるのに見る人は誰もいなかった。
 今年の祭りは何日だとか、絵画教室の生徒募集だとか。図書館通いにも飽きがきていて、何か自分でも楽しめるイベントはないかと思ってチラシを眺めてみた。でも大抵のイベントは周囲との交流が大前提だったり参加料が必要だ。大勢と関わるのが面倒でお金のない自分にはどれも縁がなかった。
 うっすら抱いた希望のような思いが早くも潰えて気落ちしながら小銭入れから掴みだした百円玉を自販機に入れようとして、手が滑った。ぼんやりしていたせいだ。
 お金のない小学生には貴重な百円を追ってしゃがみ込む間に機械の下に入り込み、床に這いつくばって目で追うとずいぶん奥へ、手も届かないところでぱたりとコインが倒れて床の影と同化した。埃もゴミも溜まっている床で目を放したら最後、どこに百円玉がいるか分からなくなる。
 最悪だ。疲労感に苛まれて自販機に手をついて起き上がり、改めて財布の中を見たけど十円玉と五円玉と一円玉しかない。帰宅すればまだ小遣いはあるけどわざわざ炎天下を戻りたくない。かといってこの暑さ。エアコンの利いた室内にいても飲まなきゃそのうち倒れてしまう。なんだか悲しくなって口を閉めた小銭入れを握りしめて俯き、ギュッと目を閉じた。
「何が飲みたいの?」
 うっすら煙草の匂いが混じった人の気配と、機械にコインが落ちていく軽い音がして驚いて顔を上げ、振り向いた。スーツ姿の腕が革の財布と自販機の間をもう一往復して十円玉を追加する。
 髪をきっちり上げて後ろに撫でつけた見知らぬ男が後ろに立っていた。男は自販機の販売ランプがすべての商品に点灯したのを見て僕を見下ろした。
「ほら、好きなボタンを押して」
 じっと顔を見たけど、やっぱり知らない人だ。知らない人が突然飲み物を買ってあげるって言ってるんだ。じわりと後ずさってほんの少しだけ距離を取る。
「あの……結構です」
「今日、暑いよ?」
 男の向こう側にはガラス張りの入り口ドアがあった。黒いアスファルトで舗装されているはずの外の景色が白っぽく見えるほど太陽が照っている。
「外から来たところなんだけどね、本当に暑かった。車のラジオでも何人熱中症で運ばれたとかそんな話ばっかりで」
 まるで知り合いみたいに男は喋る。過剰な愛想笑いはしないけど表情は穏やかだ。何でもないときの学校の先生みたい。
「休憩がてら何か冷たいものでも食べたいんだけどね、君は甘いものは好き?」
「知らない人にはついてっちゃダメなので」
「嫌いじゃないんだね」
 質問とは別のことを答えたのに気さくに笑って、僕がなかなか自販機のボタンを押さないからペットボトルのスポーツ飲料を押した。取り出し口に落ちてきたボトルを拾って差し出される。汗ばむ手は強情を張れなくてそれを受け取った。冷たい。
 それからもう一度男は自販機にお金を入れて缶コーヒーを買った。
「それじゃあね」
 行き先があるらしい。建物の廊下の奥へと歩いて行った。この市民センターは図書館の他にもいくつかの施設と、市民がレンタルできる学習室や小ホールなんかを備えているからどこに向かうのかは分からない。
 一応奢ってもらった身だ。キツネにつままれたような心地で頭を下げて見送った。

 暇な大人の気まぐれか、盆先取りの幽霊でも見たのか。いずれにせよ二度目はないと思っていたらすぐに男と再会することになった。前と同じ図書館前のロビーだった。
 図書館は市民センターの一階にある。玄関を入ってロビーを横切ったところに図書館の入り口。反対側に向かうと上階に続く階段やその他の施設がある。入り口からすぐ横を向けば自販機のあるロビーだから目に付きやすい場所ではあった。
 図書館内では飲食禁止だから持参した弁当はベンチで食べる。他にも弁当持参の子供がいて、同じタイミングで食べていて絡まれると面倒だから早めに昼にしていた。
 自分で適当に用意している弁当は少ない。小一のころから使っている弁当箱を使い続けていて、学校の給食みたいにおかわりもできない。夕方帰る頃にはお腹がペコペコだった。
 その日もすぐに食べ終わってしまう味気無さに息を吐いて空になった弁当箱を包みなおしていた。
「やあ、また会ったね」
 また出た。この間の男だ。前と同じようなスーツ姿で「今日も暑いね」と言いながらもネクタイひとつ緩めていない。
「お昼?」
「はい。……この間はありがとうございました」
 頭を下げると「どういたしまして」と微笑まれる。
「いつも図書館に通ってるの?」
「はい」
「勉強に?」
「いいえ」
「本が好きなの?」
「……いいえ」
 イエスノーでしか答えない僕にも飽きずに色んな質問を投げてくる。だけど家はどこだとか、そういう面倒くさいことは訊かなかった。
「もうお昼だね。君はもうご飯済ませたんだっけ」
「……はい」
「おじさんこれからなんだけど、すぐそこの喫茶店で一緒にデザートでも食べない?」
 すぐそこっていうのはこの市民センターの中にある店のことだ。一階にテナントとして入っていて、通り沿いに喫茶店専用の入り口がある。
「知らない人には……」
「他のお客さんや店員さんもいる、個室のないお店だよ。向き合っているのが苦手ならカウンター席でもいい」
 喫茶店の前は僕もよく通る。店頭に張り出してあるかき氷やアイスフロートやパフェのポスターが美味しそうだった。……何か怖いことがあったらすぐ逃げられる。暑さと、日頃は喫茶店のデザートなんか食べられない懐事情のせいで甘言に負けて承諾してしまった。
 他の人から見たら親子みたいだろう。カウンター席を選んで並んで座り、「好きなものを頼んで」とメニューを渡された。男はパスタセットを頼んだ。
 本当はお腹も物足りないしボリュームのあるパフェがよくてしばらく悩んだ末にかき氷を指さした。そっちの方が安い。
「いいんだよ。大人にとってはそこに並んでるメニューどれでも大差ない値段だから」
 実際数百円の差だ。簡単に知らない子供に飲み物を買い与えるような人にとってはそうなんだろう。僕にとっては大きな差だったけど。
「じゃあ、チョコレートパフェ」
 パフェだって千円もしない。何かを要求されるには安すぎる。そう自分を納得させて出てきたクリーム山盛りのパフェをスプーンで掬う。チョコレートソースのかかったホイップクリームなんか久しぶりに食べた。
 食べながらも男は質問を繰り返す。こちらもパフェ代分だと思ってそれなりに返事をした。
 個人情報は与えすぎないように、と気は張り続けていたけど、やっぱり住所や家庭状況に関する質問はしてこない。誘拐目的だとしても金のある家の子供には見えなかっただろうし、あとは援助交際目的かと思ってそれらしい話題を待っていた。それすらないと奢られる意味が分からなかったから。
 それらしい言葉がこぼれたきっかけは家のエアコンが壊れている話をしたことだ。
「毎日図書館で飽きてるならうちに遊びに来るといい」
「ご自宅ですか」
「そう。他に家族はいないんだ」
 それって叫んでも助けは来ないぞ、ってことじゃないの?
「おじさんのこと何も知らないのでついていくことはできません」
「そうかい」
「怪しい目的だったら困るので」
 まだ何かされたわけじゃないから周囲に聞かれるのも悪いと思って、小さめの声で言う。そうしたら男は笑って、ちょっと寂しげな顔で頬杖をついた。
「目的、ね。僕には君ぐらいの息子がいたんだけど、昨年亡くなってしまったんだ。それから妻とも離婚して一人ぼっちになった。その息子が君に似てるんだ」
「嘘くさい」
 そう言うとまた笑って、カウンターに備え付けの紙ナプキンを一枚とって流れるような字でこの町内のはずれにある地域の住所を書いた。番地まで書いて、名前は書かなかった。
 その下に「水、土日」と書き添えて僕の目の前に滑らす。
「この日は自宅にいるよ。普通の住宅街だ。左右にも人が住んでいる家があるから心配はないよ」
 そうしてそれ以上は言わずに食事の会計をして、午後の飲み物代にと小銭を手に乗せて去っていった。お金をそのまま持っているのが居心地悪くて、すぐに自販機のジュースを買った。

 日中ほどではないとはいえ夜も暑い。テレビで夜間でも熱中症になるんだと言っていた。
 風呂は水風呂同然のぬるま湯で、上がってもしばらくすれば蒸し暑さに参ってくる。エアコンは必要だった。
「悪いな。バイトしてるから、もう一月だけ我慢してくれ」
 長兄にそう言われてしまうと僕も次兄も弱い。どちらにせよ小学生と中学生の僕らにはどうすることもできなかった。
 バイトが理由なのか、例のチーム活動のせいか、長兄はもっと留守がちになった。

 部屋の棚の下の方にしまってある道具箱には去年の図工の授業で使った小刀がしまってある。子供でも持ちやすいグリップ形状に作られたナイフだ。これで鉛筆を削るカリキュラムがあって、それ以来あまり使っていなくてしまい込んでいた。
 その小刀をハーフパンツのポケットに隠してその家を訪れた。思ったより大きな、家族五人ぐらい住んでちょうど良さそうな庭付きの家。生け垣があって、レトロなデザインの門に呼び鈴がついている。
 家は二階建てで、見上げた二階の窓にはカーテンが引かれていた。
 門から見える玄関アプローチや庭の端っこは防草用の玉砂利できれいにしてある。玄関脇には一つだけ、大きめのバラの鉢植えがあった。ちゃんと定期的に人の手の入った普通の家だ。
 しばらく家の前で様子を観察してから呼び鈴を押した。その間も道を人が通過していったけど子供が一人でいるのを不審がって足を止める人はいない。
 インターホンではなくて、簡素な呼び鈴だった。押しても外に音は聞こえないから本当に鳴らせたのかちょっと不安に感じながら待っていると、柔らかい風合いのシャツ姿の男が玄関から出てきた。以前会ったのと同じ微笑みで、僕が来るのが分かっていたみたいだ。
「いらっしゃい。入って……心配だったら縁側に座ろうか」
 自分が出てきた玄関に通そうとしてから考え直して庭の方を示される。確かにその方が安心だから家を回り込んで五畳ほどの庭に出た。
 庭の脇にもちらほらバラが植えられている。細かい種類はわからないけど時期が来れば立派な花をつけそうに葉を茂らせていた。
 僕を庭に向かわせて男は玄関から家の中に戻り、内側から庭に面した掃き出し窓を全開にした。室内の冷やされた空気があふれ出してくる。
「何か飲むかい?」
「いただきます」
 外に逃げ出してきたエアコンの風を浴びたら外にいるのが嫌になってくる。警戒して家にまともに上がらずにいる限り暑い空気にさらされるのだ。
 家の奥に引っ込んだ男は未開封のペットボトルを持って戻ってきた。自分はグラスにお茶を入れて。変な薬なんか入ってないから安心してくれってアピールだ。暑さにじりじりしながらペットボトルのお茶を飲んで、庭やここへ来るまでの道の話なんかしていたら今度はアイスを出してきた。これも当然未開封なのが明らかなパッケージで。
 徹底して加害の意思がないことを教えてくる。小学生と四十近い男の組み合わせが世間的にどうみられるかをよくわかっていた。
「あの、やっぱり暑いんで部屋に入れてもらってもいいですか?」
 結局先に言いだしたのは僕だった。外にいると汗が止まらない。玄関から家に入り直して、トイレを借りてから広いリビングの籐のソファに収まった。トイレを借りるついでに家の中を少しばかりチェックしたけど本当に他に人はいなかった。キッチンも片付いていたし洗面所にも一人分の歯ブラシしかない。それでも一人で住む家ではなかったから家族を失った話はあながち嘘でもないのかもしれない。全てを信じるわけじゃないけど。
 リビングにはレコードが何枚も飾ってあった。うちにも兄の趣味のレコードがあるけど種類が違う。ここにあるのはみんなクラシックだ。
 物珍しくて見ていると一枚取り出してプレイヤーにセットし、そっと針を落とした。家で流れているのとは違う、ゆったりとして穏やかな、人の声が乗らない音楽だった。どこかで聞いたことがある。確か、小学校の卒業式のBGMとして小さく流れていた曲だ。
「若い子にはこういうのは退屈かな」
 かといって流行りの歌はないんだけど、と言うから僕は首を振った。
「嫌いじゃないです」
 そうするとプラスにもマイナスにも振り幅が少なかった男が嬉しそうにした。
「これ、なんて曲ですか?」
 回るドーナツ盤には英語でタイトルが記されていた。筆記体がよく読めなくて尋ねると、ジャケットを差し出して教えられる。
「G線上のアリア」

 僕らは本当に親子ほども年が離れていて、教え合おうとしなかったから名前も知らなかった。質問されたら答えるけど話は広げてやらない。だからそのうち話題もなくなってきて、ちょっと妙な間が出来たタイミングで尋ねた。ずっと聞こうと思っていた。
「あの、はっきり聞きますけど、援助目的なんですか?」
 あんまりにストレートに訊いたのがおかしかったらしくてこれまでで一番面白そうに笑って、僕とは別に座ったラタンチェアに肘をついて目を細める。
「それを疑いながらもここまで来てくれたってことは、君はお金が欲しいの?」
 質問を質問で返されて、しかも痛いところを突かれて眉を顰める。世の中お金が欲しくない人なんかいない。でも今ここで服を脱ぐつもりで来たわけじゃないし、いくらくれたら何をしてやる、なんてつもりでもない。もう図書館にも飽きたし男がこれまでどういうつもりでいたのか、ちょっと興味があっただけだ。
「そんなこと聞くってことはやっぱり何か下心があるってことでいいですか?」
 素直に答えるのも癪でさらに質問を返した。指一本触れてこない男に。
 子供が強気で言うのが面白いのかまた笑われて、やっとまともな返事があった。
「お金が必要なら援助しよう。でもあと一ヶ月で引っ越してしまうからその間にね」
「援助って……代わりに僕に何がしたいんですか?」
 簡単に言われた値札のない言葉に内心怯む。期限付きであることが救いのような気がした。
「そうだなあ、今日みたいに遊びに来てほしい」
「それだけ?」
「じゃあ“パパ”って呼んでもらおうか」
 若い女の子なんかを買春する男も“パパ”って呼ばせるって聞いたことがある。つまり、やっぱりそういうことなのか。
 勝手に色々考えて渋い顔をしたらまた男が面白そうにしたから悔しくて口を引き結んだ。ちょっと考えてから、言う。
「呼ぶだけ?」
「そう。自宅みたいに過ごしてくれたらいい。こうして音楽を聴いたり、天気が良ければドライブに行ったりして」
「おじさんはそれで何が楽しんですか?」
「息子がいるみたいで楽しいよ」
 息子。去年亡くなったって話の。
 死人の身代わりなんて気持ちのいいもんじゃない。でも恋人の代わりなんかよりはずっとマシだった。
「それで僕の値段はおいくら何ですか?」
 また、いくら欲しいのかと問われるかと思った。ずっと腹の探り合いだったから。
 でも少し考えて、向こうから明確な金額が提示された。
「そうだな、……一ヶ月で二十万でどうだい?」
 高い。小学生が貰う給料じゃない。でも驚きを口にする前に細かな条件が続いたから開きかけた口を閉じた。
「週三日で、毎週日曜に五万ずつ。日当は君の想像する援助交際と同等か少ないくらいかな?もっと欲しいなら交渉もありだ」
 日給にしたら一万六千円程度か。援助交際の相場は知らないけど、多分そんなものなんだろう。
 あまりにも高額だったら断っていたと思う。でも、細かく言われると、結構現実的な数字に思えた。
 こっそりポケットの中の小刀を握り、確かにそこにあることを確認してそっと手を離す。
「先に言っときますけど、そっちの気が変わってもヤバいことはやりませんよ?暗くなる前には必ず帰るし、遅くまで帰らなかったら親が警察に行くから」
 本当は親なんてのはいなかったけど、兄のどちからが探してくれるとは思う。
「もちろん。こちらから君に触れることはないし、提案したことでやりたくないことがあれば断ってくれていい。会いたくなくなってここに来なくなるのも自由だ。先に渡したお金も返す必要はないよ」
 言葉を証明するみたいに男は座ったまま動かない。向けられる視線にいやらしさもない。
 ゆったりしたクラシックの中の背景みたいに穏やかな顔でそこに座っている。
「……わかった。契約成立だよ、パパ」
 こちらから相手の目の前まで歩み寄り告げる。
「ありがとう」
 返ってきたのは変わらない微笑みだけ。契約書も、握手もない。
 だけど次の日曜になるとちゃんと封筒入りの五万円が渡された。ご丁寧にピン札で。

 朝から図書館に行く時と同じ荷物で家を出て、自転車でパパの家に向かう。周りは住宅街で人通りもそれなりにあるけど近所付き合いは少ないようだった。男一人暮らしの家に見知らぬ小学生が出入りしても近隣住民は知らん顔だ。
 ポケットにはいつも小刀と防犯ブザーを入れていた。何かあっても自力で逃げ出せるように。
 こちらも用心はしていたけどあちらも慎重だった。
 初日からずっと与えられる飲食物は未開封の飲み物か外食。特に用がなければ近くにも立たず、窓や玄関の鍵はかけない。最初なんか窓を開け放っていたほどだけど、エアコンで冷えた空気が逃げてもったいないから閉めさせた。
 そうまでしてくれるからポケットの中のものは出番がない。
 家ではいつもクラシックが流れていた。気に入った曲があるとジャケットを見せて曲のタイトルを教えてくれる。
「気に入ったならあげるよ」
 パパは簡単にそう言うけど、急に持ち帰って兄達に怪しまれるのも困るから辞退した。

 二日目に、いつくも投げかけられた質問への返答で学校の宿題も予習もすでに終わっていることを教えたら、パパは平べったい木箱を持ってきてテーブルに広げた。中身は外国のボードゲームだった。
 色とりどりのマス目のあるゲーム盤とひと束のカードとチェスの駒のような人形。説明書は英語とドイツ語で書かれていたから「やりながら教えよう」と言って口頭で教わった。
 プレイヤーがそれぞれの国に分かれてゲーム盤を囲み、 兵隊やモンスターを配置してカードに描かれた資源を奪い、陣地を広げる。基本的な動きはそう難しくないが本格的にやり始めると頭を使う。ルール上の勝利条件はあるが、手持ちの資源や陣地面積、最終的に手元に残った駒の数まで計算して勝敗が決まるのであらゆる角度から盤上を見ておく必要があった。
 説明を受け、自分の有利に運ぶよう駒を進め、要所の資源を取る。
「飲み込みが早いね。君は賢い」
 なのにパパはこちらの手薄なエリアに侵入して領土を広げ、いつの間にかこちらの兵隊が孤立させられる。初心者にしては上手いと褒めながらも一切手は抜かない。チュートリアルを終了してから一戦、敗北を喫してから聞いたところによると、過去にやりこんだゲームらしい。ずるい。
 こういう頭を使う勝負にかけては自信があったのに一勝もできず、ムキになって何度も挑戦する間に夕方になった。
 次に会う日まで敗因を頭の中で分析して、戦略を練って、また挑んで。やっと勝てるようになったら別のゲームが差し出された。
 カードゲームやボードゲーム。すべてアナログのゲームだ。テレビゲームの類は一つもない。全て若い頃に趣味で集めたものだと言っていた。中には購入したきり手をつけなかったものもあって、二人で説明書を読むところから始めたものもあった。
 会う日は朝から日暮れまでたっぷり時間があったから、日替わりで色んなゲームをした。

 またある時、家の前に車が停まっていた。
 僕が顔を出すとパパが車の鍵を持って出てきてドライブに誘われた。
「天気もいいし山の緑がきれいな時期だからね。でも、不安ならいつも通りうちで過ごそう」
 最初に言われた通り、決定権は必ず与えられる。断りづらい空気を作られることもない。
「助手席には乗らないよ」
 そうして後部シートでドライブに出掛けた。
 片道三時間近くかけて山に向かうと最後の一時間くらいはずっと木々に囲まれた坂道だった。なるべく現在位置を把握するために、意識して外を見ていたけど山の中では位置なんか分かるわけがない。どこまで行っても木ばっかり。道路標識と工事のための小さな表示以外何もない。しばらく頭の中に地図を描いていたけど途中で飽きて諦めた。
 薄く開けた窓からの風はぬるい。離れたところで鳴き盛るたくさんの蝉の声がうるさくて、木の葉に透けた光がきれいで、街中の自宅とは別の世界みたいだった。
「一応観光地なんだけどね、夏と言ったらみんな海に行っちゃうだろう?そんなに混んでないはずだよ」
 言葉通り、翡翠ヶ窪という看板がかけられた砂利敷きの駐車場に車が停まって周りを見ると年配客のグループがのんびり歩いている姿ばかり見える。子供連れは他にいない。そもそも、観光地とは言うけど古臭い看板とベンチがあって、駐車場の周りに幟が立っているだけだ。売店もないしパンフレットを配っている場所もない。
「おじいさんおばあさんの散歩コースなの?」
「近くに温泉もあるからそのせいじゃないかな」
 子供は山歩きより海遊びだ。温泉も大人ほどには興味がない。
 少し離れた場所で営業している日帰り温泉は建物も新しくて飲食店や売店も併設しているんだそうだ。僕らは着替えも何も持ってこなかったから温泉には行かないけど。
 ちょっと歩くよ、と促されて散策コースに入った。パパの後ろをついて歩く。
 足元は人が踏み固めて作られた通路で時々太い木の根が張り出していた。お年寄りでも歩けるゆるやかなコースだ。土の匂いと林の中の独特の湿った空気。
 しばらく歩くと、木立の間に開けた空間が見えてくる。足元の黒っぽい土の地面が途切れて鮮やかな緑の広場が、いや、水中の苔が緑に輝く翡翠色の池だった。
 池の上だけ光が差して、林の中から見ると池の周りに生えた背の高い木々が逆光で黒いフレームのようになっていた。水は透明度が高く、目を凝らすと水底に沈んだ太い木の枝にびっしり苔が付いているのが見える。
 上空から見ればきっと僕らのいるあたりも同じように緑なんだと思う。でも木の葉の傘に覆われた地上から池を臨むと、水面の明るさとのコントラストで自分の居場所が仄暗く感じた。あちらとこちらで世界が違う。
 誰も立つことのできない輝くステージみたいだ。
 足を止めるとパパも立ち止まり、僕が動くのをじっと待っていた。
 散策コースは池を一周するコースで、きれいに見えるスポットには簡素な柵も設置されている。そこでまた留まって見ていたけど他の客がいるのが落ち着かなくて長居はしなかった。
 一周して車に戻ってから尋ねた。
「写真とか撮らなくて良かったの?」
 元から荷物は最低限だ。携帯は持っているだろうに取り出すこともしなかった。
 車のエンジンをかけてパワーウィンドウを下げ、あっという間に蒸し風呂状態になった車内の熱気を流しながらパパがこちらにいつもの微笑みをくれる。
「うん、いいんだ。ここの景色がきれいだから、君に見せたかったんだよ」
「そう。……すごくきれいだったよ」
 頷くとパパは静かに嬉しそうにする。他に目的はないのかと尋ねることはもうやめていた。いつ尋ねてもパパの目的は僕に与えることそのものだったから。
 またどこかに行こうと言って帰り掛けに食事をして帰った。
 帰りつく頃には日が暮れかけていて空が見事なグラデーションだった。それを教えるとパパは「君と見られてよかった」と言う。
 その後も遠くの海やアート展に連れて行ってもらった。パパと一緒でなきゃきっと見ることはなかった景色をたくさん見た。

「お前さ、図書館にいねぇだろ」
 いつも通りパパの家に向かおうとした時、まだ家を出発していなかった次兄に呼び止められた。
 パパと会っていることを気づいてしまうとしたら、きっと次兄の方だとは思っていた。はぐらかす心の準備はできてる。
「いるよ。二郎も図書館に来たの?たまたま僕がトイレにでも立ってる間に来たんじゃない?」
「……そう思ってしばらくいたけど戻って来なかった」
「いつの話してるのさ。僕だって本屋とか友達の家とか別の場所に行ってることもあるよ。たまたまだろ」
 なんでもない風に、面倒臭そうに言ってさっさと家を出た。二郎への態度はいつもこんなもんだ。不自然さはない。と思う。
 それでも後をつけられたりしてるんじゃないかと気になって、その日はちゃんと図書館に行った。昼近くに周囲の様子を注意深く確認して、パパの家に移動した。
 珍しく遅くに訪れてもパパは理由を聞かず、昼食の後にアイスを食べてボードゲームをする。
 そんな時間を邪魔されたくなかった。

 金は置き場に困って、結局パパの家に貯めていた。最終日にまとめて持ち帰るということにして。
 家に置いておいて万が一にも兄達に見つかったら困る。
 あと一週間という頃、食事に出た二つ隣の街で学校行事か何かで移動中の中学生の団体を見かけた。旅行風の荷物を肩に掛けている。旅行じゃなく大会に向かうとか、合宿帰りかもしれない。
 それを眺めながら、小学校の林間学校をサボった話をした。最近の話じゃない。一ヶ月以上前の話だ。パパには理由を告げなかったけどお金がなかったからだ。兄達もそういう行事は参加しなかったし、案内プリントはさっさと丸めて捨てた。
 そうしたらパパは珍しく悩むそぶりを見せた。きちんと手入れした顎に手を当てて。
「何?言いにくいこと?」
 促すと眉尻を下げて素直に答えてくれる。
「最後に旅行に行かないかと思って。一泊でね、田舎の方に」
 でも泊まりは困るだろうからいいよ、やめておこう。
 僕が不安を感じそうなことはしない。なるべく提案もしないのがパパのポリシーだ。即座にパパ自身が却下した。
 こちらも泊まりとなれば兄達に新しい言い訳を考えなきゃいけない。このまま家に通うのもあと二日ほど。すでに最後の週の水曜日だった。何事もなく日曜を迎えて貯めた二十万を回収して終わりだ。
 だけど、なんとなく、その話を引き延ばした。
「旅行ってどこへ?前に連れてってくれた山の方?」
 パパは愛想のない僕が食いついたのが予想外だったようで面食らった顔をした。それからまた少し考えて、
「前回とは別の、東の方に向かうと広いひまわり畑があるんだよ。開花時期が遅くてまだ咲いてる頃なんだ。空気が澄んでいるから夜になると星も見える。きっと夕焼けも」
 短い期間にきれいな景色はいくつも見せられたけど、いつも暗くなる前に帰っていたから夜空を隣で見上げたことはなかった。
 きっもそれもまたきれいだろうな。
 今日の昼のデザートにオーダーしたあんみつもつやつやしたフルーツが乗っていて素敵だった。
「それ、ちょっと見たいな」
 ぽつりと呟くと「君がいいのなら」と決断を委ねられる。
「美味しいものはあるの?」
「もちろん」
「なら、連れてってよ。……家への言い訳考えなきゃ」
 そんな風に強請ったのは後にも先にもそれっきりだった。

 友達の家に泊まる、という言い訳は僕としては無理があったけど長兄には通用した。次兄には疑われたけど長兄がいいと言えば次兄も頷くしかない。うちはそういう家だ。
 以前二郎に疑われた際に“友達”という単語を使ったのも良かった。嘘をつく時は真実を混ぜた方が上手くいく。三十以上も歳が離れていて“パパ”と呼ぶ男の人は一般的に友達ではないと思うけど。
 土曜の朝に泊まり荷物を背負って出かける時も長兄は先に出掛けていて、次兄に「週明け始業式だから遅くなんじゃねぇぞ」と釘を刺されて出発した。前は長兄と同じくらいの時間に出掛けていた次兄は、最近は僕より後に出掛けていた。朝から暑い暑いとうるさいんだから早く起きて出掛けたらいいのに。

 旅行でもスタートはいつも通りだ。パパの家に集合して車で移動する。
 今日は助手席に座った。そういう気分だった。
 ポケットには相変わらず刃物と防犯ブザーがある。でも、そこにあるだけだ。使う機会はない。
 車は高速に乗ってマメにサービスエリアに寄り、のんびりと目的地に向かった。車が止まるたびにその土地のおやつを買ってくれるからお腹が空くこともなかった。もしかしたら、それらの寄り道は僕が帰りたいと言い出すチャンスのつもりだったのかもしれない。パパはそういう人だ。
 昼食もサービスエリアで摂った。レストランでは隣のテーブルも僕より少し下くらいの小学生とパパくらいの年頃の両親の親子だった。僕らも周りからは親子に見えるんだろうか。
 パパと一ヶ月過ごしてみても、それが親子らしい過ごし方だったのかは分からなかった。うちには親はいないから。
 食事を終えて席を立つ間際、隣のテーブルの子供が機嫌を損ねて何かやらかした。父親の怒る声で振り向いたから何をしたかはわからなかった。
 店を出て暑い中を車に向かう途中で尋ねた。
「ねえ、パパもたまには怒ったりした方が親子っぽいんじゃない?」
 僕がさっきの親子のことを見ていたのはパパも分かっている。
「怒られたいのかい?」
「そういうわけじゃないけど」
「本当の親子でも叱るべきところのない子は叱らないさ。君はいつでもいい子だから」
 いい子だろうか。家では次兄と喧嘩して長兄に怒られるけど、パパと過ごしている時は喧嘩の火種もない。僕が生意気でも自分のことを警戒して当然と思っているようで「君はしっかりしている」と褒められる。
 しっかりしてる子供は知らない大人と旅行なんかしない。

 宿のある街に着いたのは夕暮れ近くになった。思ったより時間を食ったから帰りはもっと寄り道を減らそうと話して、一度予約していたペンションに荷物を置いてから夕暮れのひまわり畑に向かった。
 世間は夏休みの終わりだ。観光するにも時間が遅いせいかほとんど貸切状態でオレンジ色の空をバックに影を落とすひまわりを眺めた。
 花は満開からややくたびれてきたくらいだった。大きな頭が重そうに俯いた花も多い。落ち切る直前の赤い陽の光を背負って影になった花は明るい黄色い色を失ってギョロリとした目玉をこちらに向けている。それはあの世の淵のようにも見えた。
 青から赤へ、赤から濃紺へと空が色を変えていく。単管パイプで組み上げられた簡素な見晴台でひまわり畑と夕暮れを見つめていた。
 いつもなら必死に自転車を漕いで家に帰っている時間だ。今日も長兄は遅くまで帰宅しないんだろうか。次兄も、僕が帰らないなら友達の家に泊まると言っていたから一晩中留守になるかもしれない。
 学校の用事でもないのに夜も兄達のいる家に帰らないなんて悪いことをしてるみたいだ。実際ヤバいことをしてる。今のところはパパが約束を守っているというだけだ。
 だけど空がこの世の終わりみたいに赤くなって、燃え尽きるように黒に取って代わっても危機感はなかった。一ヶ月弱を過ごしても何もしてこなかったパパへの信頼が半分と、もう半分は非日常で感覚が麻痺していたんだと思う。
 僕が何しているか疑う兄と、自分のことに忙しくて僕を疑わない兄と、エアコンのない暑い家。誰も帰らない真っ暗で静かな家。そういうものが頭の中で渦を巻いては真っ赤な空と影を落とした目玉の大群に吸い込まれていく。
 なんだか色んなものがどうでもいい。
 完全に陽が落ちると大きな目玉のようなひまわりはシルエットしかわからなくなった。
「そろそろ戻ろう」
 呼び掛けられて顔を向けた。こちらを向いているのだと思っていたパパは僕の向こうの夜空に目を向けていて、視線を追って見上げると一番星が輝いていた。
 ついさっきまで夕方だったのに、もうすっかり夜だ。
 パパが先に立って見晴台の階段を降りる。
「足元に気をつけて」
 マメに声を掛けてくれるけど手を引くわけじゃない。「そこにいて」と言われて階段を降りたところで立ち止まるとパパが一人ですぐそばの駐車場に戻り、車のヘッドライトを点灯して車までの道を照らしてくれた。白い光の帯を踏んでひまわり畑を離れる。
 ペンションに戻るとすぐにディナータイムで野菜がたっぷりの小洒落た料理がテーブルいっぱいに並べられた。家じゃ絶対に食べる機会がないような外国の料理だ。
 どれも美味しかった。質より量みたいな子供が食べるには不釣り合いな料理だ。もっと食べたいと思ってもすぐなくなってしまう。
 そんな気持ちが顔に出ていたのか、パパがペンションの従業員におかわりを頼んでくれた。食べ盛りだものね、と皿を持ってきてくれた年配の女性はペンションのオーナーの奥さんだった。
 食いしん坊みたいで恥ずかしい。だけど奪い合いなしに美味しいものをお代わりできるのは嬉しい。家でも学校でも食事の残りは早いもん勝ちでおかわりするから日々戦争だ。ゆっくり食べてもお腹いっぱいになれるディナーは兄と生姜焼きの肉を取り合った昨夜の延長線上にあるとは思えなかった。
 食後に腹休めてから順に風呂を済ませる。部屋はツインだった。一人一部屋とるとさすがに親子らしくない。パパは「君が望むなら車で寝るから安心して」と言うけど同じ部屋にいてもらった。
 オーナーの趣味が散りばめられたペンションには部屋ごとにレコードが飾ってある。インテリアに混じってレコードプレーヤーも置かれていて、実際に音楽を聴くことができた。
 レコードの趣味はパパとも兄とも違うようで、見たことないジャケットが並んでいる。試しにいくつか針を落として見ていると少しの間留守にしていたパパがまた別のレコードを持って戻ってきた。
「フロントで借りてきたんだ」
 差し出されたジャケットには“Air on the G String”と書かれていた。
「G線上のアリア」
 指先で見覚えのあるアルファベットの並びを撫でる。何度もこうしてターンテーブルに乗せたレコード。
「うん。明日で最後だから一緒に聴きたくて」
 ジャケットから抜いて針を滑らせると静かに厳かな音色が流れ出した。
 誰でも一度ぐらいは聴いたことのある定番のクラシック音楽。卒業シーズンのイメージが強い曲だ。僕も卒業式の音楽だと思っていた。
 だけど、今は揺れるカーテンやソーダアイス。エアコンから降ってくる人工的な涼風。触れたところすべてを焼くような白い日差し。一軒家のリビングで過ごした夏の景色が思い浮かぶ。
 あと数時間で最後の土曜日が終わる。明日は明るいうちに家に帰る予定だ。それで終わり。兄に嘘をついて隠し事する生活も終わり。夏休みも終わる。貰ったお金でエアコンを買い換えたら、兄が留守がちにする日々も終わるかもしれない。
 回る黒いレコード盤を見つめている間にパパは窓辺まで歩いて窓を開いた。外から流れ込んだぬるい風でレースのカーテンが小さく膨らむ。カーテンの向こう側でパパは空を見上げて「星がきれいだよ」と言った。
 ペンションの周辺は森と畑が広がっていて、建物はまばらだ。街頭も少ない。夜でも仄明るいイケブクロの空から薄紙を取り去ったような澄んだ空だった。鋭い濃紺に大小の星が散っている。宇宙にはたくさんの星があるということは知識として知っていたのに、地球から見る空にこんなにたくさんの星があることは知らなかった。
 並んで窓から星を見ても肩は触れない。明日でお別れは覆らない。
 首が疲れても瞬きも惜しんで無数の星を見つめた。

 翌朝は朝食後に昨日のひまわり畑を訪れた。
 午前八時でもすでに火が照り付けてうっすら汗が滲む。
 明るいところで見ると首が傾いている花も幾分元気に見えた。遠くの林の手前までずっと黄色が続いている。手前のひまわりの前に立つと僕の背丈ほどもある。花は大きいものだと顔よりも大きい。
 朝から働き者の蜂が足に黄色い花粉をつけて大きな花から花へ飛び回っている。これだけあれば蜜だって集め放題だ。
 花畑の中には細い通路が設けられている。花の中で写真が撮れるって趣向だ。二人で背の高い花の間を歩いて花畑の中に入り込んでみた。やっぱり写真は撮らなかった。
 花の下には親指と人差し指で囲めるほどの太さのひまわりの茎がずらりと並んでいる。クラスでは背が高いほうなのにひまわりの森の中にいると背が小さくなった気がする。広い畑の中は歩いても歩いてもまっすぐな茎と黄色い花。ずっと同じ景色が続いて出口なんかないんじゃないかと錯覚する。でもそのうち畦道が見えてきて畑の反対側に出た。振り返ると来た時には居なかった他の観光客が駐車場で車から降りるところだった。
 他の客と入れ違いに車に戻ったら後は帰るだけだ。動き出した車の窓から見えなくなるまで黄色いひまわり畑を見つめた。
「気に入ったかい?」
「うん、すごくきれいだった」
「それはよかった。君に見せたかったんだ」
 どこかへ行くとき、パパはいつもそう言う。その次にはこう言うんだ。
「一緒に見られてよかった」
 緑豊かな田舎を後にして、行きと同じ高速道路に乗って、時間をかけて夢から現実に浮上する。パパの家の前で車から降りるとねっとりとした都会の空気に包まれて眉を顰めた。

 上がり慣れた家で一休みするとこれまでの分と合わせて一枚の封筒に入れたお金を渡された。なんだかちょっと厚い気がしていくら入っているのか尋ねたら「ちょっと色を付けただけだよ」とはぐらかされた。
 泊り荷物の底に大事にお金をしまい込む。
 別れはあっさりしたものだ。最初からそう言う約束にしていたから、パパもこの時間を引き延ばすことはしないし僕も延長を申し出たりしなかった。
 明日にはこの家を引っ越すんだそうだ。どこに行くのかは訊かなかった。未だにお互いの名前も知らなかったし、明日になれば手元のお金以外なんの証拠も残さず関係は無に戻る。
 まだ日が高いうちに庭に置かせてもらっていた自転車に跨った。
「それじゃあ引っ越し頑張ってください。お元気で」
「君も元気でね」
 それで終わり。さよなら。

 自転車を飛ばして家に帰った。今日も昼間の家は無人だ。荷物を置くとすぐに一人で電気屋までエアコンの下見に行った。二十万もあれば十分買える。設置工事もピークを過ぎているから比較的早く頼めると言われた。
 電気屋から帰宅してもまだ誰も帰らないので、改めて封筒のお金を数えたら五十万も入っていた。さすがに多すぎて狼狽えたけどパパの家まで戻って返すわけにもいかない。受け取ってももらえないだろう。なんとなくそんな気がした。
 夜になって次兄、長兄の順に帰ってきてから二人にお金を見せ、年上の友人と株で稼いだ分け前だと説明をした。無理のある言い訳だとは思うけど、つっこまれても細かな説明ができるように準備はしてある。友人を出せと言われたら困るけど、株についてはちょっと勉強した。
 さすがに突然の大金を前にしてはいそうですか、とはならない。ヤバイ金じゃないのか、危ないことはしてないか、元手はどうしたのか。頭ごなしではないにしろ、怖い顔であれこれ訊かれて肝を冷やしながらも自信を持って説明を重ねる。兄達は株取引なんかに興味がないからそれらしく説明するとそのうち口を閉ざした。長兄は特に、弟を疑いたくはないって考えがある。未だ暑い日が続いていてエアコンの調達も急務だ。
「分かった。エアコンを買うために三郎から金を借りることにする。ちゃんと紙に書いておく。俺のバイト代が入ったら分割で返すから貯金しとけ」
 そういう結論に至って夏休み最後の家族会議は終了した。なのに長兄が部屋に引っ込んでから二郎に絡まれた。
「お前、やっぱヤベェことやってたんじゃねぇか」
「は?さっき説明しただろ」
「ガキが株なんかやれっかよ」
 矛盾がないようあれこれ用意したって低能には無駄だったようだ。根拠も示さずに否定されてカチンとくる。実際に取引するだけの知識はある。一緒にやる友人はいないけど。
「お前が僕のことを疑うなら勝手にしろよ。本気で毎日フラフラしてただけの奴に文句言われる筋合いはないんだよ」
 家の中で一人だけ稼いでいない二郎は悔しそうに言葉を詰まらせた。二郎だってまだ中学生だ。稼いでなくても仕方ないけど弟が家に貢献しているのに自分はしていないって状況が結構堪えている。
 更に何か言われる前に「疲れたから寝る」と言ってベッドに潜り込む。明日はもう学校だ。
 本気で眠ろうとしてすぐには寝付けず、昨日のことなんかを思い出した。パパは怒らない、疑わない、何かを強制したりしない。この一ヶ月は夜に帰って寝るばかりの兄よりもパパと顔を合わせている時間の方が長かったかもしれない。会うときはいつも僕だけを見ていてくれた。
 まぶたを閉じると満天の星空、一面のひまわり、夕焼けの色や、山奥の池の緑。人のいない海。いろんな景色が見える。
 きれいな思い出だけをきれいなまま残して幻のような夏は終わった。

 その年の秋はこれといった思い出がない。元々インドア派だけど本当にどこにも行かなかった。
 一度だけ、まだ暑さの残る時期にパパの家を見に行った。兄に頼まれたお遣いの目的地が近かったから。引っ越すとは聞いていたしパパに会うつもりはなかった。何週間かしたらあの家も幻だったんじゃないかというような気がして、少しだけ確かめたくなった。
 通い慣れた道を自転車で走り、見慣れた一戸建てを見つけて少しホッとした。元から外には何も置いていない家だったから何も変わらないようにも見えた。でもすべての窓とカーテンが閉め切られている。人の気配がない。玄関脇のバラの鉢植えもなくなっていた。ただ、庭に植えられた薔薇が誰も見ていないのに花開こうとしていた。

 冬になる頃にはパパのことを思い出すこともなくなった。
 新しいエアコンもあるのが当然になっていたし、兄は約束通りエアコン代を返済してくれるけど手渡しじゃなく銀行口座に入れてもらっている。普段は自分の通帳を確認しないからお金のことも頭の隅に追いやられていた。
 夏の終わりから二郎は帰宅時間が早くなった。休みの日も結構家にいる。時々知り合いの仕事を手伝って少ない日当を貰っては貯めているようだけど、遅くまで帰らないことはほとんどない。寒くなったから遊び歩くのも辛いのかもしれない。
 十二月半ば。僕の誕生日には久しぶりに兄弟三人で外食した。豪勢な食事をするお金はないからファミレスだけど、みんなでデザートまで注文して兄がパフェに乗っていたいちごをくれた。ケーキはまた別で買って帰る。すごく贅沢をした気分で長兄にたくさんお礼を言って、次兄にも一言くらいありがとうを言って店を出る。街はすっかりクリスマスムードだ。どこの店でもベタなクリスマスソングが流れている。
 浮かれついでに僕らは少しだけ遠回りして駅前のイルミネーションを見に行った。白や青の電飾が大きなツリーの形を作り、その頂点には光の粒でつくられた大きな星が輝いている。毎年この時期は電飾が設置されているけどH歴元年の今年は特に規模を拡大したとかでテレビでも取り上げられていた。
 光のツリーのすぐそばまで近づいて見上げると迫力があって、きれいだ。
『よかった。君に見せたかったんだ』
 突然頭の中に呼び起された優しい声にいないと分かっていながら後ろを振り向いた。
『一緒に見られてよかった』
 そこには誰もいない。そばにいるのは二人の兄だけだ。イルミネーションを携帯のカメラに収めていた次兄がこちらを向いて、変な顔をした。
「おい、三郎どうしたんだよ。食いすぎて腹でも痛くなったのか?」
「ん、どうした。具合悪いのか」
 腹なんか痛くない。具合も悪くないし大好きな兄と出かけていい誕生日だったのに、どうしようもなく喉の奥の方が苦しくて蹲ってしまった。夏の終わりから三か月半が経っていた。

 誕生日の翌日。自分へのプレゼントとして貯金を崩してレコードを買った。欲しかったものと全く同じものは見つからなかったからジャケットに日本語でタイトルが書かれている定番クラシック集だ。
 家で留守番するときはそれをターンテーブルに乗せて針を落とす。ゆったりとした音に目を閉じるとそこに夏の日々が映るのだ。