それはまだ恋ではなくて1/さまじろ/11289

 俺が女の子だったら簡単だった。きっとすぐこれは恋なんだと思っただろう。
 だけど物心ついた時から異性愛が主流の世界に生きて、友達と同じようにおっぱいの大きい女の子がわんさか出てくる漫画とかを読んで、いつか本気で守りたいと思うような可愛い女の子と付き合ったりなんかするんだろうと思っていた俺は男に興味がなかった。
 カッコいいと思う男はいる。二歳上の兄。でも兄ちゃんへの憧れを恋だなんて思ったことはない。
 だから、喜びや焦燥や言葉にできない不安を煮詰めたような、その気持ちの名前がわからない。
 今も。あの頃の気持ちを正確に表す言葉を知らない。

 

 地味なビルの目立たない入り口から階段を上って事務所の扉を開く。
「ちーっす」
 顔を出すと応接セットのソファで書類に目を通していた左馬刻が顔を上げ、俺の身なりを見て嫌そうに眉を顰めた。
「高坊が我が物顔でヤクザの事務所に出入りしてんじゃねぇよ」
 今更すぎる苦情だ。確かにいつも私服で、今日は制服だけど。
 今日は金曜日。休みの明日届けると連絡を入れたら昼に折り返し電話が来て、仕方なく午後をサボってバイクで駆け付けたんだ。
「アンタが急ぎだっつったから学校から直接来たんだろうが!まだ授業あったのに!」
「あーうっせぇ。授業受けたってどうせ教科書に落書きばっかしてんだろうが」
「ウッ」
 リリックをたくさん走り書きした教科書を見られたかと思ったが教科書は全部学校の机の中だった。言葉を詰まらせると左馬刻が鼻を鳴らす。
 事務机にいた顔馴染みの強面のおっさんに軽く挨拶しながら左馬刻の方に向かった。背中のリュックから四つ折りにした紙を引っ張り出す。
「ほら、ご依頼のホームレスの縄張り図と、こっちはオマケな」
 畳んだ紙の間から一枚の写真を抜き出して表が見えるよう重ねて差し出した。地図と写真が左馬刻の手に渡る。
「調査地域で何人かのホームレスに接触してたスーツのおっさん。おっさんの出没地点も地図にマークしてあるぜ」
 くわえ煙草で左馬刻が広げた地図の上には数色の色鉛筆で数名のホームレスの活動範囲が色分けされている。その上に赤いサインペンで五つ印がつけてある。
 目を眇めて地図と写真を確認した左馬刻は満足気に頷いた。
「気が利くようになったじゃねぇか。上出来だ。おい、これ今すぐ鬼山さんにメールしとけ」
 広げたままの地図と写真をひらりと振ると強面の舎弟が素早く引き取りに来る。俺が来るのもやることも全て承知で、短い返事以外何も言わずに事務机に戻っていった。
「それで、他にご依頼は?」
 以前依頼された調査の結果を納めた時点で今日のヨコハマ訪問の目的を果たしてしまった。金払いのいい依頼主に報酬を貰ったら、またバイクで一時間かけて地元イケブクロに帰る。
 この数分で帰るのも勿体なく思えて言うと、左馬刻はテーブルに広げていた書類を揃えて紙に埋まっていた封筒にしまい込み、
「メシは?」
「まだ」
「なら食いたいもん言ってみろ。好きなもん食わしてやる」
「やった!」
 期待に添える仕事ができたらしい。ボーナスみたいなもんだ。もちろん報酬も当初の約束に上乗せして支給される。
 ご褒美として貰える金やメシはもちろん嬉しいけど、気難しい男に認めてもらえたことが嬉しくて浮かれてしまう。
「んー、何にすっかな。ハンバーガーは昨日食ったんだよな」
「良いもん食わすって言われてそれか。発想が貧乏すぎんだろ」
「うっせ、美味いだろうが!あ、じゃあピザ!今期間限定で伊勢海老トッピングやってんだぜ」
 左馬刻にとってはまだ安いのかもしれないけど、うちでは買えない金額だ。寿司って言うと回らない店に連れていかれてガツガツ食べるのが憚られるからこれぐらいがいい。
 でも左馬刻にはまた貧乏くさいだのガキくさいだの言われるだろう。そう予想していたのにテーブルの上のガラス製の灰皿に視線を投げたっきり、左馬刻は少しの間口を閉ざした。今じゃなくて過去を見ている。俺は勝手にそう解釈してる。
 さっき膨らんだ嬉しい気持ちが、風船に針を刺したように勢いよく萎んでいく。
 左馬刻といると、稀にこういうことがある。
 この事務所に出入りするようになったのは数ヵ月前から。気まぐれに仕事をくれるようになったのは一ヶ月半前から。
 どうも、来るなと言っても俺が通って来るから出入りするだけの理由を作ってくれている節がある。ヨコハマと敵対しているイケブクロの俺が理由もなく会いに来るのは体裁が悪い。だから仕事の都合で、と言えるように依頼をくれる。多分。
 もし理由がなくても俺は顔を出しただろうから向こうのメンツの問題かもしれないけど、最初に仕事を頼まれた時は来るの許されたようで嬉しかった。どんな考えで依頼された仕事だろうと認めて欲しくて張り切ってやった。
 そうして前より少しずつ話ができるようになってから気が付いた。
 俺が意識せず言ったこと、やったことが過去の、多分左馬刻が楽しかった時間に重なってしまう時がある。俺が一郎兄ちゃんとダブって見える瞬間が。
 今左馬刻は目の前の俺じゃなくて、昔の兄ちゃんのことを考えている。
 俺と兄ちゃんは下の弟に比べればあまり顔が似ていない。特徴ある目元が似ていないせいで容姿が似ているとはほとんど言われない。
 その代わりに兄ちゃんが好きなこと、得意なことは何でもやった。ラップ、喧嘩、アニメ。悩むときは兄ちゃんならどうするか考える。
 そうやって世界一かっこいい兄ちゃんに近づけるよう生きてきた。だから似ている部分も少なからずある。自覚のある部分、ない部分を問わず。
 兄ちゃんみたいだと思われたならそれは光栄なことだ。そのはずだ。
 居心地の悪い沈黙を挟んでから左馬刻が「注文しとけ」と財布から紙幣を抜いてテーブルに投げた。頷いて、自分の携帯からピザだけ注文する。
「おい、なんか飲むモンも要るだろ」
「あー忘れてたな。コンビニ行ってくるわ。左馬刻さん何飲む?」
「煙草」
「煙草と烏龍茶な」
 酒にはまだ時間が早いだろう。特に何も言わないから了承と受け取った。
 渡された金をポケットに突っ込んで最寄りのコンビニまで走る。ピザ到着より帰りが遅けりゃまた文句を言われる。
 コンビニの冷蔵ケースでいつも通りにコーラを取ろうとして、隣のジンジャーエールを掴んだ。なんとなく、そういう気分だった。

 ヨコハマほどじゃないがシンジュクも治安が悪い。夜は勿論、昼でも表通りから一本入るとおかしな奴がごろごろいる。
 薄暗い路地裏で対峙した四人の男たちの最後の一人が意識を手放した。ちゃちな違法マイクを持った連中だ。本物のマイクと高いスキルを持ったディビジョン代表たちと渡り合っている俺にとって脅威じゃないけど。
 今日はちょっとだけ手こずってしまった。でも危なかったわけじゃない。完全に俺の勝ちだ。
 ビルの陰から拍手が聞こえて首だけで振り返ると馴染みの男、いや女、その中間として生きる阿僧祇が微笑んでいた。女装しているが長身の男だ。所謂オネエってヤツ。飲み屋のママであり、俺にとっては情報屋。
「ちょっど良くじろちゃんが来てくれて助かったわ。この子達、何処かで手に入れた珍しいオモチャにはしゃいじゃったみたいで。でも、貴方……調子悪かったみたいね」
「別にどこも悪くねぇよ」
「そう?でもラップがいつもと違ったみたい。お兄ちゃんの真似はやめたの?」
 コイツはいやに勘がいい。返事に迷っていると肯定と判断して追撃してくる。
「この間のテリトリーバトルは上手くいってたのにね。お兄ちゃんの他に憧れの人でもできたかしら?」
「うるせぇな。アンタにゃ関係ねぇだろ!」
 俺の横を通り過ぎて地面に転がる男達の近くにしゃがみ込み、握ったマイクを取り上げると腹の立つ余裕顔で大人ぶって言う。
「素直でよろしい」
「なんとも言ってねぇだろ!」
「こういう勘には自信あるのよ?」
 男の勘てのはあんまり当たらない気がするが、オカマの勘と言われると当たりそうな気がする。実際痛い腹を探られていた。
「じろちゃんて素直だから、気持ちの向きが表に滲むのよねえ」
 本当かよ。顔か?無意識に手で顎のあたりを触ると阿僧祇は声を立てて笑う。クソッ。
「それにしてもじろちゃんが兄離れなんてね」
「離れてねぇし!」
「もしかしてその人のこと、好きなの?」
「だからぁ……は?」
 今度こそイエスなんて顔はしてなかったはずだ。話の飛躍についていけなくて怪訝な表情になった、はずだ。
 だけど頭にはたった一人の顔が浮かんでいる。いかにも人生経験豊富な阿僧祇に見つめられていると、脳裏に映るその人の顔まで見透かされる気がして。
「変なこと言うなよ、男だぞ?!」
「そう、男の人なのね」
 慌てて口を塞いだが後の祭りだ。
「いいじゃないの。こんな世の中なんだし」
「だから違うっつーの!」
「アタシこういう話大好きよ」
 生まれが男でも女言葉で人の色恋話に食いつくあたりは女だ。相手にしたって喜ばせるばかりだから渋々口を噤んだ。
 ヒプノシスマイクを回収した阿僧祇の後に続いて店に入る。開店前だが、準備のために灯りはついている。
 カウンターの奥にマイクを置いた阿僧祇は畳んだ紙をカウンターに乗せた。
「はい、約束のもの」
 事前に電話で依頼しておいた情報だった。中身を確認してポケットに押し込む。大抵は家業の手伝いか左馬刻からの依頼に必要な情報だった。当然、阿僧祇にはその情報をどうするかまでは説明しない。
 謝礼は事前に話がついていた。今し方の“ゴミ掃除”はそのオマケでも良かったが、
「さっきのお礼にじろちゃんに良い話あげましょうか」
 カウンターの外に出てきた阿僧祇が一枚の名刺を置く。大手広告代理店の社名がプリントされている。
「良いバイト探してるって言ってたでしょう?家計の足しに、って」
「ああ、これがその?」
「まだ話が決まってるわけじゃないけどね、化粧品メーカーでメンズブランドの企画があってモニターとして若い男の子が欲しいんですって」
「化粧品……」
「顔を繋ぐつもりで会ってみたら?すぐ仕事を頼まれるってわけでもないでしょうし。何かと役に立つんじゃないかしら。向こうも正規のヒプノシスマイクを使う子と話してみたいって言ってたし、おかしな人でないことは保証するわ」
「ふーん。ならちょっと連絡取ってみるわ」
 正直興味はある。仕事内容じゃなくて、これまで縁のなかった方面の人脈に。
 全く住む世界の違う人間だろうから上手くやれるかはわからないが、上手くやれたとしたら兄ちゃんの役に立つかもしれない。それでなくてもまとまった金になるなら話くらい聞く価値がある。
 うちの末っ子はまだ中学生だけど頭が良くて、本人が望めば多分どんな大学だって行ける。ただ、一人で萬屋を営んでいる兄ちゃんの稼ぎだけじゃ学費とか、一人暮らしすることになったら生活費とか、進学にかかる費用を工面するのが厳しかった。俺は勉強も好きじゃないし高校を卒業したらすぐ働くつもりだからいいけど、弟ぐらいは好きなことをさせてやりたい。
 阿僧祇にもそんな話をしたことがある。それを覚えていてくれたらしい。
「一応、ありがとな」
 礼を言うとばっちりメイクした顔を緩めてふふ、と笑う。
「さぁて、お店開ける準備しなきゃね。ついでに何か飲んでいく?」
「じゃあコーラ」
「あら、そこはまだお兄ちゃんの真似なの?」
「うっせぇな!兄ちゃんが好きなもんは俺も好きなんだよ!」
「はいはい」
 俺以外はあまり飲む人がいないと言いながら常備されている缶入りのコーラを氷を入れたグラスに注いでくれる。
 兄ちゃんがいつも飲んでいるから飲み始めたものだけど、コーラは美味い。

 依頼された情報を揃えて事務所に顔を出すと、左馬刻は不在だった。
 昨夜報告の準備が出来たことを舎弟経由で連絡したら翌日、つまり今日の午後に来るよう言われたのに。文句を言おうにも左馬刻直通の携帯の番号は教えてくれない。いつも舎弟経由か事務所の電話から連絡が来る。昨夜は事務所からだった。
「なんだよ、自分で呼びつけといて」
 左馬刻がいないと事務所の空気も多少緩い。留守番していたやくざが大らかに笑って応接ソファで待つよう勧めてくれる。
「ちっと揉め事があってな。兄貴のコレ絡みだから仕方ねぇわ」
「女、ね」
 やくざが太い小指を一本だけ立てる。多分セフレか何かだ。あまり首を突っ込むもんじゃないから依頼に無関係な話は聞かないことにしているけど、風俗店で働く女と何人か懇意にしているのは知っている。舎弟が言うには仕事の範疇のようだけど、そこら辺の仕事とプライベートの差はよくわからない。
「すぐ戻ってくんのかな」
「そりゃあ、わかんねぇな」
 ちょっと下衆な笑い混じりだ。なんとなく言わんとしていることは察した。待ってるのがバカバカしくなる。
 だけどそれだけだ。数日前に情報を受け取りに行った際に会った馴染のオカマが妙な事を言うからちょっとだけ意識はしたけど、自分の内側を覗いても胸が痛んだりはしなかった。
 ほらみろ、好きなんかじゃない。恋バナ好きの当てずっぽうを気にしたのがバカだった。
 一応左馬刻に俺が来たことを伝えてもらったけど返事はなかった。仕事の出来を自分の目で確認したがる左馬刻のためにしばらく待ってみたけど一時間ほどで留守番していたやくざに別の呼び出しがかかって事務所を空けることになるというから俺も荷物を担ぎ直す。
 折角来たのにな。適当な封筒を貰って渡すつもりだった書類を入れ、左馬刻の机に置く。何か不備があればまた連絡をくれるだろう。なければ次に会ったときにでも報酬を渡される。でも、できれば対面でチェックして欲しかった。そうしたら褒めてくれなくても「よし」の一言を貰える。
 少し寂しく思いながらやくざのオッサンについて事務所を出ようとしたとき、オッサンが「お疲れさんです」と足を止めた。
「なんだ、帰んのか」
 連絡も寄越さず遅れて戻ってきたくせに謝罪なんかない。留守番を舎弟と交代して事務所に入る。
「ヤスさんが出かけるっつーから、俺だけ残ってるわけにもいかねぇし。あ、報告書は机に置いといたから」
 戸口ですれ違った左馬刻に教えるとまっすぐ机に向かって封筒を拾い上げた。すぐに中身を検めるようだったからその場でちょっと待つ。
「ん」
 ざっと目を通して頷いた。問題なかったみたいだ。
 持っていた紙袋を置いて報酬を取りに金庫を開けるのを待っていると、
「お前、まだ時間あるか?」
「時間?今日は夕飯当番じゃねぇし大丈夫だけど」
「ならもう一仕事やってけ」
 金の入った封筒と一緒に今しがた左馬刻が持ち帰った紙袋が応接テーブルに並べられる。顎で座るよう示されてソファに戻った。
 紙袋の中身は四つの古いラジオと半田ごて。それから小さな工具セットと黄ばんだ説明書みたいな紙きれ。
「仕事って」
「そのラジオの修理に決まってんだろ」
「ハァ?そんなの店に持ってけよ」
「明日までに直してもって来いってうるせぇ客がいんだよ。デリヘルの女が厄介な客と揉めたっつーから行ってみたらコイツを壊しただのなんだのってくだらねぇ」
「んで引き取ってきたのかよ」
「太客だったからな、適当な店に持ち込めばすぐだろうと思って持ってきたらどうだ。その辺の店に持ち込んでも明日は無理だっつーじゃねぇか」
 そんなものを一介の高校生に任せようってのか。
「俺も無理だっつの」
「うっせぇ。予備部品が取れるように同じシリーズのラジオ三つも見繕ってきたし道具も借りてきてやったんだからやれや」
「ヤスさんたちは?」
「うちの連中がそんな細かい仕事できるとでも思ってんのか」
 指の太いオッサンや指の足りないオッサンを思い出して黙った。左馬刻自身がちまちました作業をやるのはもっと想像がつかない。
「手先は器用だろうが。なんなら晩飯食わしてやるからやってけ」
 なんだかちょっと褒められた。そこまで言われると試しにやってみるかって気になる。
「時間、かかると思うけど……」
「なんならここで徹夜してっても構わねぇぞ」
 そうして問題のラジオを開け、他の正常なラジオと比べたり説明書を読んだり、スマフォで検索しながら調べ始めた。
 調べ始めて最初に分かったことは失敗したらヤベェなってこと。下手にいじったらメーカーで修理対応してくれなくなる。大体にして過程で修理するような代物じゃない。スタートからしばらくは基盤と各種資料を見ながらの勉強タイムだった。学校の勉強よりずっとマシだけど頭を使う。
 押し付けた割に作業を始めたら左馬刻は口をはさんでこなかった。あっちもあっちでデスクで仕事をしている。
 休憩宣言したら「十五分以上寝てたら叩き起こす」というので心置きなく休むことにして目を閉じた。
 そうか、女絡みなんて言うから変に勘繰ったけど電気屋を回ってきたから遅かったのか。
 理由が分かってみると胸のつかえがとれた。解消されてから引っ掛かりを感じていたことに気が付いた。────誰でも自分を蔑ろにして女といい思いしてました、なんて言われたらいい気はしないだろう。その程度のことだ。
 叩き起こされる前に自分で頭を振って眠気を払い、小さな機械に向かう。
 やっぱり部品の交換が必要と判断して予備のラジオを解体した。予備の方が問題のラジオより新しいもののようだった。開けてみると大体同じ作りだがやっぱり少しずつ違って、慎重に見比べながら欲しい部品を外していく。
 正直なところ、こういうのは本当は兄ちゃんの得意分野だ。うちで一番手先が器用なのは兄ちゃんだった。真似してやり方を覚えても器用さってのは一朝一夕では身につかない。
 手間取りながら半田ごてを使って接着部のハンダを溶かし、パーツを外す。未使用のパーツがあれば作業も減るんだけど、欲しいパーツを書き出して店に問い合わせた方が時間がかかる。間違いなく取り寄せる自信もないからひとまずあるもので何とかしてみるべきだ。
 時間のかかる作業だった。左馬刻は急かすわけじゃないが、そのうち自分の仕事がなくなると応接セットの向かいに座って新聞を読み始めた。
 しばらく手こずった末に手元への集中が途切れる。そうすると無言でいるのが落ち着かなくなる。ちらちらと向かいに座った左馬刻の様子を見てしまって、目が合った。
「なんだ」
「いや、えっと」
 今更ながらに居心地悪さを感じて視線を落とす。これまで頼まれた情報収集と比べると、これは俺である意味がなかったから。むしろ、本当はもっと他に頼みたい相手がいたんじゃないか。
「…………なあ、兄ちゃんと仲直りしねぇの?」
 ずっと考えていたことを口にした。今なら聞いてくれるんじゃないかって期待と、覚悟を決めて。
「あ゛?」
 予想通りに一瞬にして放電しそうなほどピリついた空気に変わり、低く唸るような返事で答えが出る。やっぱり無理か。
「あ、いや、俺に頼むより兄ちゃんの方がこういう仕事は得意だから」
 それに、しばらく過ごしてみた左馬刻は初対面の印象ほど話のわからない人間じゃなかったから。話せばわかるんじゃないかと思ったんだ。
 でももう言わない。この話を二度したら俺とこの人の関係まで壊れるんじゃないかってほど鋭く暗い目を向けられて即座に誓った。何も知らない身で踏み込むべきじゃない。
 左馬刻がテーブルに並べた工具の中からマイナスドライバーを拾い上げ、淀みない滑らかな動きで俺に向けた。目の前数センチ。反射的に息を止めて仰け反った。その気なら細い先端を眼球に届かせて傷くらいつけられただろう。
「俺は今テメェに依頼してんだよ。やれねぇと思うことは頼まねぇからぐだぐだ言わずにやれや」
 ドライバーが元の場所に戻されるのを目で追って俺も止まっていた手を動かし始めた。期待されてるならやり遂げたい。
 それから二時間ほどもかけて再び裏蓋をはめ込み工具をツールボックスに片付けた。
 新しい電池をはめ直してスイッチを入れると音が出る。適当につまみを回したらノイズ混じりのクラシックが流れ始めた。
「一応動いてっけど、これでいいんかな?」
 ラジオってものにさほど馴染みがなくて不安になって尋ねるが左馬刻も正常な状態を知らない。何回か選局を変えたり音量を上げ下げして確認する。
「…………いいんじゃねぇか?最初はうんともすんとも言わなかったんだから上出来だろ」
 スイッチを切ると事務所の隅に置いてあった段ボール箱からプチプチを持ってきて分厚く巻いて紙袋にしまい込んだ。残りのラジオは別の箱にまとめて仕入れ元に返すんだそうだ。工具や半田ごても。
 片付けの途中でほんの一時だけ左馬刻の手が頭を掠めていった。
「やればできんじゃねぇか」
 あんな怒ってたのに俺が自信なさそうなことを言ったから気にしていてくれたんだろうか。
 急に照れくさいような、巨大な達成感みたいな、心底嬉しい気持ちが膨れ上がって自然と頬が緩んだ。
 左馬刻に褒められるのと兄ちゃんに褒められるのとでは勝手が違った。もちろん、兄ちゃんの方がしっかり褒めてくれるし土台の人間としての出来が違う。だけど、そんな兄ちゃんに褒められるよりも左馬刻に褒められる方が、なんだか落ち着かなくなった。
 自覚しているより嬉しかったみたいでへらへらしていたら頭を叩かれた。撫でられたかすかな感触はあっという間に打撃で塗り替えられる。
「ニヤニヤしてんな。メシ行くぞ。何が食いてぇか言ってみろ」
「してねぇよ!メシか。何にすっかなー……」
 前にも奢ってもらったことあったな。あの時は何食ったっけ。
────あ、じゃあピザ。
 目の前の応接テーブルに広げられたトッピングの豪華なピザが瞬きの間に瞼の裏に蘇ると芋づる式にその時の様子を思い出した。
 兄ちゃん。兄ちゃんも昔は今みたいに左馬刻さんに褒められて喜んだりしてたのかな。
 左馬刻さんは俺にしたのと同じように、兄ちゃんの頭を撫でたりした?
 浮かれて力が入りっぱなしだった頬からスッと力が抜けて表情が消える。
「なんだ?食わずに帰ンのか?」
「え、いや…………うん。三郎が今日はロールキャベツ作るって言ってたの思い出したから」
 折角美味いモン食わしてくれるって言ってるのに、気が付いたら断っていた。確かに家では俺の分の食事も残しておいてくれているだろうが、夜食にしたり明日食べたって問題なかった。
「ならさっさと帰れや」
「うん……これ、サンキュ」
 金の封筒をバッグの底に詰め込んでソファを立ち上がる。顔を見ないように、見られないように足早に事務所を出た。
 別れる瞬間もほんの少しだけ振り向いて「またな」とだけ告げてビルの内階段を駆け下りた。
 それからバイクでまっすぐ帰宅するとすでに夕飯を済ませた兄ちゃんと三郎がリビングのソファにいた。ただいま、おかえりを交わしても何も言われなかったから変な顔にはなってなかったと思う。兄ちゃんに帰りを迎えてもらえるとちゃんと嬉しくて、弟は生意気に「遅い」と言った。
 台所には一人分のロールキャベツを皿にとってラップをかけてあった。まだほの温かかったけど電子レンジに入れてから食卓に座る。
 兄ちゃんたちはリビングのテレビで地上波初放送の映画を見ていたから台所には俺一人だ。
 やっぱ左馬刻さんとこで食ってくればよかったかな。あの人は俺がいなきゃいないで飲み屋にでも行くんだろうけど。
 いつもは遅く帰って一人での夕飯になってもなんとも思わなかったのに、なんだか寂しかった。

 それからしばらくして左馬刻が寝込んでいると連絡があった。もちろん本人からじゃない。心配した理鶯からだ。
 理鶯に見舞いに行かせれば病人の心を折るような滋養強壮料理を食べさせられるし、舎弟たちが行っても怒って手が付けられないからといって俺にお鉢が回ってきた。俺が行っても怒るだろうけど、俺ならヒプノシスマイクが出てきたとき応戦できるからって理由だ。
 そんな元気な病人に見舞いが必要なのか、半信半疑で舎弟に教えられたマンションに行ってみたら、高熱で喧嘩どころじゃなかった。
 床で寝ているからってベッドまで移動させて、酒しか飲んでないことを怒って、ロクに許可もとらずに飯を作って食わせても文句が出ないほど重症だった。あの碧棺左馬刻が。体温計がなくて体温は計らなかったけど態度から判断するに瀕死だ。
 こんな状態で薬も飲まずに寝てれば治るなんて、どんな長期戦のつもりだよ。寝に帰るだけのような酒瓶しかない部屋で思いつく限りの世話を焼いた。
 買ってきた食べ物を冷蔵庫に入れて、後で食べられるように総菜を作り置きして、薬を用意して。何を用意したかリストアップしたメモも作った。
 帰らなきゃと思う頃には左馬刻は眠っていた。黙っていれば儚げにも見える、きれいな人だ。口を開けば誰もが避けて通るような暴君だけど。
 静かに寝ているのを見ると、左馬刻でもこんなに熱があったら心細いんだろうかと思って目が覚めるまでそばにいてやりたい気になる。左馬刻が望んだわけでもない。勝手にそう思っただけなのに。
 この部屋は地上八階。外の車の音も届かないし他の部屋からの生活音もない。
 その無音の空間を埋めるようにして左馬刻は大音量で音楽を流していた。やることがなくなって自分の立てる物音すらなくなると、ちょっとだけその気持ちがわかる。勝手の分からない他人の家で確認を取りながら動き回るのに音楽が邪魔だったから一旦オーディオを止めていたけど、帰る前にまた再生しておくよう言われていた。
 リビングにあるオーディオコンポの周りにはレコードやCDがたくさんあった。暴力的なラップをやる左馬刻の聴いてきた音楽ってものに興味があってラインナップを見ていた時、見つけてしまった。
 The Dirty Dawg────二年前のほんの一時だけ存在した伝説のチームのアルバムだった。現在の四ディビジョンを代表するチームのリーダー四人が組んでいたチームだ。左馬刻と兄ちゃんはそこに参加していた。二人が決別する前に作られたアルバムだ。
 俺は、弟も、兄ちゃんの過去のことをよく知らなかった。あの頃の兄ちゃんは今よりずっと遠くに感じていたし、解散後は話を持ち出すのもタブーだった。
 そのCDはラックの一番下にあった。
 こういうの、案外捨ててないんだな。
 好奇心に負けてCDを入れ替え再生する。そこには上手くいっていた頃の二人の姿が閉じ込められている。聴きたいような、聴きたくないような気がした。
 再生ボタンを押して始まる一曲目。兄ちゃん好みのトラック。
「─────ッ」
 一曲目が終わる前に停止ボタンを押した。兄ちゃんと左馬刻の、これが最高の音楽だと思ってるみたいな歌声を聴いていたらどうしようもない、感じたこともない感情に苛まれて逃げるようにして部屋を飛び出した。
 兄ちゃんは神様だ。人生においても、音楽においても俺を導いてくれる。いつかは兄ちゃんと肩を並べたいと思うけど、兄ちゃんよりすごい何者かになる自分は想像ができなかった。
 現状で兄ちゃんに圧勝できるものなんか何もない。当然だ。兄ちゃんは神様だから。
 なのに、しゃがみ込んだマンションのエレベーターの中で気が付いてしまった。きっと俺は一生、左馬刻の中で兄ちゃんより特別な存在になれない。
 俺のやることを見て昔の山田一郎を語る人は他にもいた。兄ちゃんの真似をして生きてるんだから当然だ。今までそれを嫌だと思ったことはない。
 だから、左馬刻にだけこんな風に感じるのが不思議だった。
 ひどい精神干渉を受けてるみたいだ。
 もし俺が女の子だったら。左馬刻が女だったら。これを恋だと思ったのかもしれない。
 だけど違った。左馬刻と抱き合いたいと願ったことはない。女関係の話に嫉妬もない。
 これはきっと恋じゃない。阿僧祇が唆したような、そんな甘ったるい気持ちじゃない。
 だけど他の仲間に抱く感情のどれとも違う。
 この気持ちには名前がなかった。

→それはまだ恋ではなくて2(R-18)