※こちらは2019年のバレンタインポストにてcineさんから頂いたネタを元に書きました!素敵なチョコをたくさんありがとうございます!!
二週間に一度か二度、山田二郎はそのマンションを訪ねてくる。
大抵何かしらの用事をきっかけにして、家主と引きこもって過ごす。お互い顔が売れているし、世間的にはライバル関係にあるから外では気を抜けない。
持ち込んだ食材でありふれた料理を作って二人で食べ、音楽を聴いたり銘々に作詞や読書していることもある。やることがなければソファでテレビなんかつけたりして。
生憎とここの家のソファは大きいからだらしなく座っても腕が触れそうで触れない。そんな距離で大画面のテレビを眺めている時にチョコレートのCMが流れた。赤いワンピースの女の子たちがチョコレートを溶かしている。
外は節分の余韻もなくバレンタイン一色だ。
(バレンタインか)
人がそう思うとき、心の中に赤いポストがポンと生まれる。
(どうせ女から腐るほど貰ってんだろうな、この人。でも女だって日頃の感謝のシルシでチョコ渡すっていうし……)
誰かへの気持ちが概念チョコとなり、
(……ガキはこういうイベント好きだろうな。どうせ普段は貧乏くせぇモンばっか食ってんだろうし)
欲しい気持ちがぱっくりと口を開ける。
様々な好意、思惑が渦巻く二月に人々がバレンタインを意識すると生まれる概念ポスト。それが我々、バレンタインポストだ。
さて、ここに二つのポストが誕生した。隣り合って座る二人のポストはそれぞれに向かって概念チョコを練っているが、人間というのは素直ではない。興味なさそうに煙草の穂先を灰皿に落とし、欠伸をした。
CMが終わると先ほどまで見ていたサスペンスドラマの続きが始まるが、頭の中にはチョコレートのことがチラついている。
(チョコなんか渡したら、男に貰っても嬉しくねぇだのなんだのって言われんのかな)
(つーかコイツ、まさか一郎のダボにチョコやってたりしねぇだろうな?)
(この時期、男はチョコ買いにくいんだよなあ。どうせ喜ぶかわかんねぇし、期待されてないだろうし)
(ありうる。コイツら兄弟なら手作りしてても驚かねぇ。……なんだか腹立つな、クソ)
(そもそも俺だって本来貰う側じゃん?)
(渡すとしたら当日か。その時期テスト週間とか言ってたな)
(ま、この人に期待するだけ無駄か)
「おい、テスト何日までだ」
ドラマには目もくれずに自分のスマフォに目を落として左馬刻が尋ねた。ぼんやり考え事をしているときに急に言われたから二郎は驚いて手の中のリモコンを落としかけた。
「え、テスト?んーと、連休明けからだから…十四日までか?」
自分のテストだというのに疑問符がつく。当然日程や出題範囲は覚えていない。追試からが本番だ。
そんな様子の二郎に呆れた視線をやりながら、左馬刻は自分のスケジュールを確認してスマフォを置いた。
「終わったらテストよりタメになる仕事させてやるから事務所まで来いや」
「バイト?」
「伝票整理」
「ゲェッ」
「ンな難しい計算なんかやらせるかよ。レシートの内容見て仕分けるだけだ」
「難しくねぇならいいけどさ」
「なら学校終わったらすぐ来い」
わかった。と頷いて素直にスマフォのスケジュールアプリに登録する。
(バレンタイン当日か……)
祝日でもないその日はただの平日。白紙だったその日に左馬刻との予定を入れる。
バイト、だけど。否応なく意識してしまう。心に芽生えたポストの概念チョコが育っていく。
宿主の学校のテストの出来というのはバレンタインポストの知るところではない。
答案を提出してから採点された戻ってくるまでの猶予期間は、宿主もテストのことを忘れた。来週の自分がどうなろうとも今は大事なことがあった。
二郎はテストが終わると呼び止めようとした友人たちに適当に手を振って学校を飛び出した。
すぐ来いと言ったら本当にすぐ行かないと左馬刻がうるさい。だけどちょっとだけ寄り道をしたい。
(デパート……はキツイよな。その辺の店とか……張り切ってもサムイだけか)
バイクに跨ってヨコハマに向かいながら通り道のありとあらゆる店。チョコレート菓子のありそうな店に目を配る。だけどどこに入るか決められないまま目的の事務所が近づいて、結局コンビニに寄った。コンビニもしっかりバレンタインコーナーが設けられている。
人目を気にしながら包装済みのチョコレートを物色し、質素な包装のチョコバーを掴んだ。ナッツがたっぷり入った食べ応えのあるチョコレートだが、他の高級メーカーのチョコレートに比べたら随分と見劣りする。値段からしても義理チョコ需要に合わせて企画された商品だった。
(いいんだ、どうせ期待されてないだろうし、張り切っても滑るのがオチだ)
物理チョコは心の中で練りに練った概念チョコに見合わない質素なものとなった。
事業主泣かせの確定申告についてもバレンタインポストの知るところではない。
経費計算で溜め込んだ領収書の分類や入力作業は税理士と暇なバイトがやるのである。
伝票整理のバイトはキャバクラとスナック三軒分あったが、仕分けだけは夕方までには終わった。後の仕事は別の人間がやることだ。
仕事中は出掛けていて事務所にいなかった左馬刻も事務仕事の終わりを見計らったかのように戻り、夕飯に行くと言って二郎を連れて帰った。
外食しようかと思ったがバレンタイン当日はバレンタインポストを抱えた人々が街に溢れ、カップル好みの飲食店にも溢れる。なんだかその中に割り込んで行くのが躊躇われた二郎の申し出により材料を買い込んで左馬刻のマンションで食べることになった。
目玉焼きハンバーグと生野菜のサラダ、スープはインスタント。子供っぽいメニューだが、二人ともそんな夕食が好きだ。
食べ終えて、腹を休めて、左馬刻が晩酌を始めて。時刻は夜八時を過ぎた。帰りもバイクだ。イケブクロディビジョンの自宅まで一時間もかかる。
テレビ番組の終りと同時に小さなため息をこぼして二郎はソファを立った。学生服の上に着てきたジャケットに袖を通すと、まだコンビニで買ったチョコレートが入ったままのリュックサックを拾い上げる。
「じゃ、そろそろ帰るわ」
こんな日に約束を取り付けたのだから、もしかしたら何か期待されてるんじゃないだろうかとも考えた。でも、ついに用意したチョコレートを手渡すきっかけは掴めなかった。
それはもう、最初から今日がバレンタインなんて知りませんでしたという顔で過ごしてしまった。学校で女子の動きを気にしないフリする男子学生のように。バレンタイン伝統の作法である。
玄関に続くドアを開けて出て行く二郎に、左馬刻はロックグラスを傾けながら「おう」の一言で見送った。いつも通りに、名残惜しんで玄関まで見送りに出るようなことはしない。
いつもよりゆっくり腰を下ろしてスニーカーを履いても左馬刻が追ってきて呼び止めることはない。玄関に置いていたバイク用のメットを掴んで部屋を出ると思い知る。
(結構期待してたんだな。俺ら別にそういう関係ってわけでもねーのに)
記念日やイベント日に張り切って相手をもてなし最高の夜を過ごす様な。そんなバレンタインに最適な関係。そんな甘ったるいものではなかった。実情は。
バレンタインポストも概念チョコを持て余してしまう。渡せなかったチョコレートは相手に届くことなく手元に残ってしまうものだ。それは物理チョコも、気持ちを練り固めた概念チョコも同じこと。
(帰ったらバリボリ噛み砕いてさっさと証拠隠滅しちまおう)
頭を振って抱えたメットを被ろうとした。その時だ。
逆さにしたメットから何か落ちた。暗い道路の色に溶けてよく見えなくて、屈みこんで拾い上げてやっとそれがチョコレートカラーの箱だと分かった。細いリボンでまとめられた上品な包みだ。もちろん二郎の持ってきたものじゃない。
(メットから出てきた?マジで?)
だって、マンションに到着した時には何もなかった。玄関に置いたその時に空っぽだったのは間違いない。だとしたらこれを置いた人物は一人しかいない。
(俺に、くれた?)
半信半疑で箱を上から下から見て、足下に他の物が落ちてないか確かめた。先ほどメットから落ちてきたのは別のもので、これが先に落ちていた知らない誰かの落し物って可能性を疑って確認した。でも他には何もない。メットから出てきたのはコレだ。
左馬刻からのチョコ。
(なんだよ、こっそり入れとくなんてサンタかよ。素直に渡してくれりゃいいのに)
バイクの前でメットを被るのも忘れてチョコの箱を眺め、その表面を撫でた。
バレンタインポストの中にチョコがコトリと落ちる。
(へへ、礼言わねーと。つーか、こっちだって一応用意してたわけだし……)
物理チョコを渡すならここが最後のチャンスだ。リュックサックを背中から下ろしてコンビニで買ったチョコを取り出そうとした。
「……あれ?」
ない。どうもチョコを入れていたポケットのジッパーが緩んでいて落としてきたようだ。焦って来た道を戻り、マンションのエントランスやエレベーターまで乗った。それでも見つからなくて部屋の前まで来てしまう。
(ここにないってことはやっぱ部屋の中か……クッソダセェな。でもどうせチョコの礼はするつもりだったしすぐ戻れば気づかれる前に回収できるかも)
気恥ずかしいけどこのまま帰って後日になるのは尚更気まずい。この部屋に来るのは二郎だけだ。左馬刻がアレを見つけたらすぐ二郎が持ち込んだ物だと気づいてしまう。
もし見つかっていたら正直に言うしかない。男は度胸と勢いだ。意を決して二郎は合鍵でドアを開けた。
そろそろ気が付いただろうか。バイクに乗るんだからメットの中に入れたアレに気が付かないはずがない。
そうは思っても仕込んだチョコレートの行方が気になって、玄関扉が閉まる音がしてからしばらくして左馬刻は玄関に向かった。
棚の上に置かれていたヘルメットはそこにはない。代わりに左馬刻自身が購入したチョコレートが残っていた、なんてこともない。無事持って行ったようだ。
リビングに戻ろうとして、床に落ちているモノに気が付いた。
ネイビーのストライプの包装紙で包んでシールが貼られた、高校生のガキが買いそうな安っぽいチョコだ。
(これはアイツが……学校でもらったヤツか)
今日は学校から事務所に直行したはずだから鞄にでも突っ込んでいたのが落ちたんだろう。
大人にとってのバレンタインはお歳暮替わりだったり水商売の営業ツールだったりと商業的な意味合いが強いが、学生は無邪気にはしゃいで義理だ本命だと騒ぐ。二郎ほど目立つヤツならチョコのひとつやふたつ貰うだろう。
左馬刻にとっては安物のこのチョコレートも高校生の経済事情を考えるに本命かもしれない。
机にでも入っていたか、手渡しされたか。女だろうか。まさか男ってことはないだろう。
持ち帰ったってことは本命を受け取ったと、そういうことか。来月にはホワイトデーがある。返事をするんだろうか。
見つめていたチョコレートの細長い包みが左馬刻の骨ばった手の中でぐしゃりと潰れた。
それに被ってカチャリと音がして左馬刻は顔を上げた。鍵を開けられるのは鍵を渡してある二郎ただ一人だ。
驚いた顔で二郎が見下ろしているのは左馬刻の顔じゃなかった。しゃがみ込んだ左馬刻の片手。手の中でへし折れたチョコレートのパッケージ。
左馬刻に見つかるにしたってドアを開けて一秒で対面するとは思わず、二郎の手からチョコの箱が転げ落ち、土間のタイルを転がって後ずさったスニーカーの下に滑り込んだ。
グシャッ。嫌な音がして二郎が自分の足元を見るとメットから出てきた箱の角が踏みつぶされている。
「あ」
慌てて屈みこんで疲労と廊下のフローリングでしゃがみ込んだ左馬刻と目が合う。それぞれの手には正しく贈り先に届いた物理チョコがあった。だけどポストの中には概念チョコはない。チョコレートが届いたって気持ちが届くとは限らないのだ。そのくせ物理チョコを自分の気持ちそのものだと感じたりする。握りつぶされ、踏みつぶされたチョコレートに気持ちを重ねて傷ついたりするのだ。
「…………何しに戻ってきたんだテメェ」
機嫌の悪い時に発せられる恫喝に似た声に二郎が眉を顰める。
「何って……忘れ物取りに戻ったんだよ……」
そう言って左馬刻の握りしめたチョコレートバーを奪い返そうとした。その手は空を切る。左馬刻が上へと逃がしたからだ。そのまま後方、リビングの扉の目の前に放り投げて落ちた。打ち捨てられたチョコレートを見る二郎の顔に広がった絶望を左馬刻が見ていた。
(何でそんなことすんだよ、そんなに迷惑だったのかよ。アンタがくれたチョコを見つけて俺はこんなに喜んだのに、俺ばっかり浮かれて……)
目頭の奥の方がきゅんとなるのを力を入れて堪えた。睨まれたと思った左馬刻が睨み返す。
「オイ、なに勝手に人のモン投げてんだ」
「そんなに大事なモンなら見つかんねぇようにしまっとけや」
「なんだとッ」
勢い任せにチョコレート色の箱を振りかぶった。二郎が掴んでいたチョコレートが床に叩きつけられ、床を滑って左馬刻宛のチョコレートの近くで止まった。
横目でそれを追った左馬刻が腰に差していたヒプノシスマイクを抜く。
そっちがその気ならこっちもその気だ。二郎も同じようにマイクを抜いて起動スイッチを入れた。
お互いのマイクによるビートが重なると左馬刻が先制した。
『赤点野郎が浮かれてチョコか?先公に見つかりゃ指導室直行さ。青春ご苦労、兄貴ご足労、雑魚の相手はいつも徒労』
『ハァ?関係ねぇだろテストの点数、関数も文法も何に使える?兄ちゃんバカにすんじゃねぇ、学校にゃ持ち込んでねぇ、気の迷いで買っちまっただけだすぐそこファミマで』
『どおりで安物くせぇと思ったわ、色ボケカス共のお遊びにゃぴったりだ。気の迷いだ?テメェはいつでも血迷って……』
やり返そうとした2バース目で声が途切れた。その間もビートが流れ続けて二人の間に妙な空気が流れる。
『テメェこそ血迷ってんだろ、詫び入れて頭下げろ、要らねぇならテメェにゃやらねぇよ!鍵だって返してやら……』
「おい、今なんつった」
不発に終わった左馬刻のバースを不審そうにしながらも続けようとした二郎をマイクを下ろした左馬刻が遮る。お陰で二人とも軽傷で終わった。
マイクを構えていない相手を一方的には殴れない。二郎も渋々マイクを下ろした。
「あ?」
「今なんつった、つってんだよ。……お前が、買った?」
改まって訊かれてバツが悪そうにする。
「それがなんだってんだよ……さすがに手作りとかじゃねぇよ」
そうして言われると左馬刻にも二郎のしかめっ面が照れに見えてくる。後ろを振り向くと二つの潰れたチョコレートが落ちている。一つは左馬刻が潰した二郎からの贈り物だった。市販の、学校を出てからこちらへくる途中にコンビニで買ったもの。
数歩歩いてひしゃげた細長い包みを拾い上げた。ついでにチョコレート色の箱も。
二つのボロボロの箱を手にして戻ると目を逸らそうとする二郎にネイビーの箱を差し出した。素早く取り返そうとする手からまた上へ逃がし、
「テメェが買ったコレは誰のモンだ?」
「………………」
二郎が一番訊かれたくないことを訊く。無言で手を伸ばして奪い返そうとすると更に高くへ掲げた。身長は左馬刻の方がいくらか高い。追いかけようとするとどうしても体が近くなる。左馬刻のシャツの襟を片手で掴んで手を伸ばした二郎の背中に腕を回して捕まえた。背中を押さえつけた手でチョコレート色の箱の角を襟足の長い後頭部に押し当てる。
「これはテメェのもんだ。で、こっちは?」
抱きしめられて動きが鈍くなった二郎の頭の上で細長い箱を振る。ちょっと顎を引くとぶつかりそうに顔が近くて二郎は左馬刻の肩に顔を逃がした。首元に伏せると鼻の先で体温を感じる。煙草と酒のにおいがする。
「…………く」
「声が小せぇ」
「ムカつくんだよ!わかってんだろ?!アンタのに決まってんだろ!!」
「るっせぇ!!耳元で怒鳴ンじゃねぇ!!」
────コトリ。
叫びに叫びがこだまする玄関先で、真っ赤なポストに投げ込まれたいびつなチョコレートが軽やかな音を立てた。
兄には泊まりの連絡を入れた。もう一時間もかけて一人で帰るような気分じゃなくて。
二人で文句を言いながらそれぞれが貰ったチョコレートを開けてみた。明らかにチョコバーは砕けていたが、左馬刻が贈ったものも繊細なデコレーションが砕けて見る影もない。おまけに、
「ちょっと溶けてんじゃん。握りすぎだ」
「お前こそ、どんだけ大事に抱えてきたんだ?」
外装を剥いでフタを開けてみたら端の方がちょっと溶けて容器に張り付いていた。口どけが良すぎるのも問題だ。このまま摘まんだら指も汚れるしきれいに食べられない。
渋い顔でそれを検分した後、二郎はチョコの箱を閉じた。左馬刻に渡した分も回収し、問答無用で冷凍庫に突っ込む。
「あーあ、アンタが変な勘違いしてブチ切れなきゃきれいなまんま食えたのに」
「うっせ、お前が最初から素直に渡してりゃ良かったんだろうが」
「アンタがそれ言うのかよ?」
「俺はちゃんとわかるようにくれてやっただろうが」
「あ?」
「もっぺん躾け直すか?」
胸倉を掴みあったが、今日はすでに一度やり合った。それでお互いにチョコを用意していたことはわかったのだ。額を押し付けて睨み合ったのもほんの数秒で二郎の方が手を離した。
「いいわ。今日はもうこういうのナシ」
「勝手に決めてんじゃねぇぞ」
「面倒くせぇな。それより、アレさ、折角だから溶かして固め直したらいんじゃね?」
その提案こそ面倒くさい。こう見えて左馬刻は妹と暮らしていた頃にチョコの湯煎を経験している。女友達と交換するためのチョコレートだったが、初挑戦で湯煎していたボウルに湯が入ってしまって大騒ぎだったから手伝った。あの時のことを思い出したら自然と苦い表情になる。
「却下だ」
「じゃあ……いっそもっと割りつくしてアイスにでも混ぜっか」
今度はさっきよりいい案だ。想像したら美味そうで、もう二郎はアイスの気分になってしまっている。
左馬刻はそれでもまだ面倒くさいが、勝手にやるなら止めはしない。男三人暮らしの家で働く兄と幼い弟の代わりに張り切って炊事を取り仕切ってきた次男坊はちょっとした調理を厭わない。むしろホットケーキだのゼリーだのといった簡単なおやつ作りは好きな方だ。この部屋では左馬刻が酒のつまみばかり欲しがるから作る機会は少ないが。
「勝手にしろ」
愛想のない許可を出し、早速近場の店で業務用のアイスを買ってくるという二郎に金を握らせた。それで台無しになったチョコの落とし前が付けられるなら安いもんだ。
出かけた二郎を見送り、テーブルに放置する間に氷が溶けて薄まったウィスキーを呷っていると、二郎は左馬刻の予想より大きな袋を提げて帰ってきた。
「チョコの分量的にアイスこんぐらいないとダメじゃん」
だからといって冷凍庫がパンパンになるほど買い込むのもどうだ。早速冷凍していた二箱のチョコレートを取り出した。それと擂り粉木を左馬刻に渡して自分はアイスを解すべくスプーンを突き立てる。
適当にぶち壊す作業なら左馬刻だって得意分野だ。面倒くさそうにしながらも床にしゃがみ込んでビニール袋に入れたチョコレートを細かく砕く。キッチンは二郎が店を広げていて、テーブルはガラス製だから避けた。
自分が捧げたチョコや貰ったチョコを砕くのは侘しい作業だったが二郎が楽しそうだから口をはさむのはやめた。
しばらく黙々と作業して、粗方やり終えたところでアイスを準備している二郎を振り返った。
「もうこんぐらいで十分だろ。おら、混ぜろや」
「お、おう……」
大きな容器を抱えてアイスを掘り起こしている二郎の返事が歯切れ悪い。
よく見ると、その手元はさっぱり捗っていなかった。上の方だけ浅く掘り起こした痕跡がある。
「なんだ、下手くそかよ」
「うっせ……かってぇんだよ。んん……グッ」
無理やり突き刺しててこの原理でスプーンを動かすと予定より大きな塊となってスプーンそのものは細い首のところでねじ曲がった。スプーンがアイスに負けた。
「ひ弱か?」
「ふっざけやがって。だったらアンタやってみろや!」
そうして二郎から左馬刻の手に押し付けられたアイスの容器は冷たく、抱えた瞬間から手の熱を奪っていく。代わりに二郎が握りしめていたスプーンの柄だけ生温かった。
「ンなもん楽勝に決まってん……ふっ、ぐっ……クソッ」
硬かった。左馬刻が苦戦すると二郎はスッと溜飲が下がる。なんとかひと塊抉り起こしたところに左馬刻の砕いたチョコを加えた。
「手ぇ疲れたら交代してやるわ」
二郎が親切で申し出たってそう言われて疲れただなんて言える男じゃない。
「ナメんなよクソがッ」
左馬刻が必死にアイスと格闘する横で二郎はタオルを探してきてアイスの容器に巻く。途中休憩させて、冷えた手を両手で包んで温めた。
半分ほど混ぜ込んだ頃についに「やってられるか」とぶん投げられた作業を交代し、なんとかかんとかアイスを完成させた。
苦労して作った一口目は格別に美味い。米用の茶碗にどっさり盛って、デザートスプーンで口に運ぶとバニラと質のいいチョコレートが最高のバランスで混ざり合って舌の上でとろりと溶ける。
「うんめー。アンタも酒ばっか飲んでないで食ってみろよ」
後半、二郎が一人で努力している間に晩酌を再開していた左馬刻にアイスを差し出すと一瞥して、ロックグラスを手放すことなく小さく口を開いて舌を見せた。
「仕方ねぇなあ」
まんざらでもない口ぶりで二郎がひとさじ掬って口に入れてやったがそっちじゃない。これだから勘の悪いガキは。
だけど酒で熱っぽくなった口の中にアイスの冷たさが心地よい。バニラが先に溶けると残るチョコの粒を舌の上で転がして、溶けたらまた口を開く。そうすると二郎は自分の口から抜いたスプーンでまたアイスを掬って左馬刻の口に運ぶ。
まだ二月だ。暖房は入れていても夏のようにはいかなくて、山盛りのアイスを食べていると体が冷えてくる。最初から一度で食べきる見込みはなかったが、おかわりするにも口の中が冷えすぎた。残りのアイスは冷凍庫にしまって器をシンクに置き、ソファの上で膝を抱えて左馬刻に体を寄せる。
「口ン中すげー冷てぇ」
「食い過ぎだドアホ」
冷え切った口の中で舌をもごもご動かしていると左馬刻の手が顎を掴んで引き寄せた。細められた赤い瞳の前で紫色に変色した唇の間から舌を出す。
ぱくり食いついた酒の味のする口も二郎よりは温かいという程度で、アンタだってたくさん食ったんじゃないかと笑った。
翌朝、「また食べるから残しといてくれよ」と頼んで早い時間に二郎は帰った。まだ平日だ。学校がある
「知るか。食いたきゃ残ってるうちに来いや」
挑発どおり、翌日の土曜も都合をつけて二郎はヨコハマのマンションにやってきた。左馬刻だって出来上がったアイスを気に入っていたからどれだけ減っているかと思えば金曜の朝に少し食べて冷凍庫に戻した時と変化がない。
(一人の時食ってねぇのかな?)
夕飯後のデザートに二郎が自分の分として器に盛って食べ始めると口を開けて要求されて、差し出せば差し出した分だけ左馬刻も食べる。
それでも二晩では食べきれなかったから、またあまり日を置かずにヨコハマに通う。
普段ならこの部屋に来るのは週に一度かそれ以下。それが三日に一度になった。学校の仲間には最近付き合いが悪いと言われ、勘繰られたりもしたがバイトだと誤魔化して過ごした。
ほんの二週間程度のことだった。容器からアイスがなくなったから。
最後の方には一度に器に盛る量を減らしてみたりもしたけど、どうしたっていつかはなくなってしまう。
部屋に通うためにもう一度作ろうとは言い出せなかった。
通い詰めて消費したクッキー&クリームがなくなる最後の夜。冷凍庫から随分軽くなったプラスチック容器を取り出してふたを開けた。
「もうほとんどねーじゃん」
かき集めて多めのひとくちってところだ。もっと残っていると思っていた。前回来た時にも確認したはずだけど、残り僅かという事実はその場で忘れた。
器にとるほどもなかったからアイスの欠片をせこく集めたスプーンひとさじだけ持ってソファの隣に座る。それを見た左馬刻は「いいからテメェが食え」と言う。だから二郎は自分の口に入れて、薄い唇に咥えられた煙草を奪って冷たくて甘い舌を差し込んだ。
それが長く続いたバレンタインの最後の夜だ。
外の風は少しずつ暖かくなり、寄り添う理由を奪っていく。
冬の終わり、春が近づいていた。