乾いた柔らかい皮膚が唇を覆って何が何だかわからないうちに濡れた舌が口の中に入ってくる。
他人の舌に唇の乾いた部分と濡れた部分の境目を擦られる感触にめまいがする。侵入してきた舌に触れるのが怖くて反射的に舌を引っ込めた。それでも舌先でつつかれて、ちょっと怯えが解けたところをひと舐めされる。
自分の口の中にはない煙草の味を感じたらヤバイって気がしてきて必死に体を引きはがした。勢いで背中から倒れこんで相手を見上げる格好になる。
色白な顔の中で瞳と、唇を舐め濡らす舌だけが赤い。ヤバイ。
冗談や罰ゲームじゃないキスは初めてだった。舌を入れられるのは正真正銘の初めてだ。
口が離れても舌にはくすぐったい感触と煙草の味が残っている。
だけど一秒ごとに驚きは薄まっていく。口の中の感触や味も、そのうち分からなくなる。無意識に後味を惜しむように閉じた口の中で舌を小さく動かした。
左馬刻とキスなんて、したいと思ってたわけじゃないのに。
「な、なんで……」
俺だって望んでなかったけど、左馬刻は尚更だ。俺がしつこくうろちょろしているから諦めて事務所通いを許していたに過ぎない。昨日まで好意らしい言動は一切なかった。
見上げる顔には興奮の気配がない。赤い目はじっとこちらを観察していた。好きだからやったわけじゃなく、そうしたらどうするのか知りたかっただけみたいに。
その予想は結構当たってたと思う。
「嫌かよ」
腕を突っ張って突き放そうとしても体重をかけてのしかかってくる。また顔が近づく。来る。上手く逃げられなくて口と目をギュッと閉じた。
閉じた唇をちゅっと軽く吸ってから舌の先が唇の合わせ目をなぞった。開いたらまた中に入ってくる気だ。許しちゃいけない気がして唇を噛んだ。
必死に防衛していると不意に腹を弄られ、慌てて服に侵入した手を止めた。そこで一旦攻撃が止まる。
「…………嫌ならやらねぇよ」
やっぱり。左馬刻がやりたくて仕方ないからやったわけじゃない。
ソファの上に横たえた体の上から左馬刻が起き上がる。そのシャツの裾を、思わず掴んでしまった。
嫌じゃなかったからだ。嫌だったらもっとがむしゃらに抵抗することだってできた。体重をかけられているといっても体格差はあまりないし、マウントポジションをとられてすぐ諦めるようじゃ不良なんかやってられない。
左馬刻と恋人みたいになりたいと思ったことはない。だけど嫌でもない。突き放さずに苦い舌に舌を絡めていたらどうなっていたかと思うと、正直ドキドキする。
だけど、
「……あのさ、こういうこと……兄ちゃんにも、した?」
「あ゛あ゛ぁ?!」
うるせぇ!こっちにとっては一番大事なとこなんだよ!
まさかあの兄ちゃんと左馬刻さんが恋人だったなんて考えたこともなかったけど、もし兄ちゃんの代わりにやりたいって思ってるなら。そうだとしたら立ち直れない。
今すぐ力いっぱいぶん殴って即帰っていっぱい歯磨きして熱いラーメンでも食って、口の中の記憶を全部消さなきゃならない。
どんなに凄まれたって譲れないところだ。
「なんでそこでドグソ野郎が出てくんだ!」
「うっせぇ!顔近づけて怒鳴るんじゃねぇよボケ!」
まあそうなる。兄ちゃんの名前は禁句中の禁句。あんまり遠慮なしに怒鳴られて胸の高鳴りもいつの間にかうやむやになった。キスなんかより喧嘩している方がよっぽど楽だ。
胸倉を掴まれたから同じく掴んで引くと俺が寝転がっているせいで左馬刻が再び倒れこんできた。墓穴だ。顔が近い。
喧嘩してる方が難しいこと考えなくて済むってのに。
「クソ兄貴とやってなけりゃどうすんだ、テメェは」
静かに問われて息を飲んだ。
だって、本当にやりたいなんて思ったことはなかったんだ。ドキドキしたのだって左馬刻だからじゃなくて初めてだったからかもしれないし。
今までずっと兄ちゃんに認めてもらうことが最優先で女の子と付き合ったこともなかった。こういう時にどうしたらいいかなんて知りっこない。
口の中の煙草の味はもうすっかり薄まっていた。
今ここで何か、拒絶以外の言葉を返したらまたされるんだろうか。
さっきの感触を思い出そうとして無意識に舌が動く。
答えあぐねているうちに近かった顔が更に低く降りてきて視界に入りきらなくなった。薄い皮膚が合わさるとそこから細かなざわめきが走って背筋がじんわり痺れていく。
おかしなもんだ。いざ触れてみたら元からこの人が好きだったみたいに興奮して、離れていくと寂しい。
息継ぎが上手くいかなくて苦しくて顔を背けるとすぐに手のひらで顔を掴んで戻される。
左馬刻もきっと俺のことを好きってわけじゃないけど、ちょっとは同じように思ってくれているんだろうか。
このまま身を委ねたら、どうなるんだろうか。
どうにもならなかった。
結局喧嘩して帰ったからだ。
俺も左馬刻も三分前までべろちゅーしていた相手に向かってヒプノシスマイクを握れる。そういう人間だったから。
そして一週間以内にもう一度呼び出されて仕切り直しが行われた。何か用があるんだと思って呼び出しに応じたらエッチ前提の泊まりだったわけだ。
そういうことは先に言っておけと訴えたら「察しが悪い」と詰られた。ヒプノシスマイク越しにだ。こっちの方が正論を言っているはずなのにダメージが大きいのは納得がいかない。
結局俺はソファ、左馬刻はベッドで眠ることにした。俺がそう決めた。
直前まで左馬刻はベッドに引きずり込む気でいたけど、きっぱり言うと食い下がってはこない。そういうところを見るたびに、やっぱり好意で誘ってるわけじゃないんだと再確認する。
相手が誰でも、少なくとも女相手なら同じようにするんだろうな。
一人で寝そべったソファの上で被った毛布の端を握りしめた。
相手とキスをしたいと思ったら、好きってことなんだろうか。
前は兄ちゃんとの過去だけがどうしても気になっていたのに、今はあの人が抱く誰とも知らない女のこともちょっと気になる。どんな風に扱うんだろうか、とか。女たちは完全に割り切っていて何とも思ってないんだろうか、とか。
もし、ちゃんとあの人を大事にしたいって女の人が現れたら、今自分のいる場所が奪われたりするんだろうか、とか。
明かりを消した部屋で電源を切り忘れているオーディオコンポのディスプレイが小さく光っている。
左馬刻は兄ちゃんとは恋人みたいな真似はしなかったって言ってた。詳しく聞く前にブチ切れられて話にならなかったけど、本当に何にもなかったんだろう。
だったら────。
「…………」
毛布から抜け出すとパンツ一枚の太ももの辺りが少し寒い。エアコンはいつの間にかタイマーで切れていた。
開けっ放しの戸口から寝室を覗く。こちらも消灯しているから目視では様子はわからなかった。
ベッド脇までくる。左馬刻は眠っている。時々眉間がぴくりと動いてしわが寄る。寝ている時ぐらい穏やかな夢を見ていたらいいのに。
しばらく男前な横顔を見つめて、そっと布団の端をめくった。起きないならそのままでいい。
だけど左馬刻は眠りが浅い。ベッドのスプリングが軋んだことで気が付いたようで、横になろうとした耳のあたりに手が触れた。びっくりした。
「……なんだ」
わざわざ聞いてくれるなよ。目的なんて、それを自分で口にする決心はまだつかない。
「あのさ……やっぱ一緒に寝ていい?」
もうベッドには入っちまってるけど。
いいとかダメとかの代わりに気だるげな動きで腹を抱かれる。
「テメェ、わかってんのか?」
分かってるよ。兄ちゃんにはやらないことすんだろ?
それをしたらアンタの特別になれるんだろうか。
答えの代わりに手を重ねて指を撫でる。
憧れって意味じゃ俺にとって左馬刻は兄ちゃんに近い存在だった。だけど昔兄ちゃんと一緒に眠った時は安心するばかりで、こんな風じゃなかった。
この間キスしたからだ。いや、これからいやらしいことをしようとしているからか。
どこか期待してる。
こういうのが好きってことなのかな。
わからないままうなじに硬い歯が当たる。次いで歯型を労わるように温かな舌が肌に触れると、簡単に頭がいっぱいになってしまった。
屋上は不良のたまり場だ。
昼休みになっても柄の悪い男たちが屯しているせいで他の生徒が寄り付かない。お陰で悠々と昼食や喫煙をしている。
「そんでさぁ、家帰ったら弟の部屋からアンアン聞こえるわけ」
「カノジョ?」
「ないない。俺の隠してたAVだなーと思って、驚かすつもりでそっとドア開けたら……」
「嫌な兄貴だな」
「うっせ」
「で?」
「これがなんと!男友達と二人でどっちが早くイクか勝負してやがってこっちがびっくり!」
「嫌な兄貴だな」
「つか、みんないっぺんぐらいやったことあんべ?」
「え?」
「え」
「うわぁ」
「えー?!」
兄ちゃんが作ってくれた弁当の味がしない。味の分からないポテトサラダをとにかく口に運び続けて沈黙を守った。
「ホモじゃん」
「ちげーよ、なんかノリでやるじゃん?」
「やらねーよ」
「待って待って、みんなそんな目で見んなよ!つか俺がカノジョいんの知ってっしょ?」
「カモフラ?」
「大本命です!」
ポテトサラダがなくなったら米だ。タッパーにぎっしり詰めた米。半分以上食ってからふりかけが付いていることに気が付いた。
「マジでみんなわかんない?!嘘だろ?な、二郎は?」
名指しされて首の骨が錆び付いてるような動きで顔を上げた。頬張った米をゆっくり飲み込む。
「………………ねぇよ」
絞り出した。一言だけ。
「マジでー?!」
ごめん、嘘。
心の中で謝った。
俺のは中坊の頃の思い出とかじゃなくて現役だから。ちんぽを扱きあってる相手も友達じゃない。だからといって恋人でもない。
話せるわけがない。
兄ちゃんの宿敵の部屋に泊まるたびに抜き合ってるとか。
ホント、無理。
バーカウンターの上でグラスを傾けて氷を揺らした。ちびちび飲んでいるうちに氷が溶けてコーラが薄まってきた。
カウンターの向こうではこの店のママが客の電話に応対していた。
「────ええ、それじゃまた。お待ちしてます」
電話が終わると手元のロックグラスで口を湿らせて阿僧祇が目の前に戻ってきた。
「ごめんなさいね。それで?お友達がなんですって?」
声帯が男だからか女っぽく喋っても妙な力がある。
カウンターの上で視線を彷徨わせて、電話の前にしていた話を再開した。どんな言い方をしても見透かされそうだけど、慎重に言葉を選ぶ。
「ああ、友達がな、ちょっと……最近男と……付き合ってるような、ないような、なんというか……」
「セフレ?」
「…………………まあ、強いていうなら。だけど、えっと、なんつうか、ちょっとそういうことに慣れてなくて……」
「なぁに?やり方の話?」
「いや、じゃなくて…………」
話し相手が兄ちゃんか銃兎なら一言目でキレられている。その点阿僧祇は優しい。
じっと言葉を待ってくれるので、意を決して尋ねた。
「男同士ってさ、実際はあんまり掘ったりしないもん?」
つけまつげでびっしり装飾した目元がスッと細められた。ゆっくり瞬きして、グラスを口に運ぶ。
こっちも変な緊張で喉はカラカラだ。仕草を追ってコーラを喉に流し込んだ。
「そうねぇ。それはカレシがお尻に入れてくれないから不満ってことかしら?」
飲んだ液体が気管に入って噎せる。使わずに丸めたまま置いておいたおしぼりで拭いた。
「友達がな!友達が!不満、つうか、意外とゲイってそういうもんなんかな?ってさ」
ちょっとネットで調べても実情はよく分からなかった。アナルセックスの情報も沢山出てくるし、SNSなんかでゲイを公言しているアカウントは当たり前にやっていることが多かったから。
過激な物言いの人間が注目を集めやすいネットの世界で性的に控えめな人間の性生活は調べづらい。
だから詳しそうな奴に聞くしかないと思って女装家の阿僧祇の店を訪れた。
阿僧祇は特に茶化す風でもなく軽く「はいはい」と応じて答えてくれる。大人だ。
「じろちゃんのお友達が悩んでるわけね。うーん、そうねぇ。確かにみんながお尻使うわけじゃないからカップルによるわ」
「そっか……」
この道のプロに言われるとちょっと安心するような、気が抜けたような。
「男女でも同性でも変わらないわよ。カップルだからって絶対やらなくちゃいけないなんてことは一つもないの。お互いが同意してればなんだっていいの」
「同意、か」
「そう。それでもホントは挿入までやりたいって思ってるならちゃんと相談した方がいいわね。貴方が初めてなら大事にしてくれてるのかもしれないし」
「うん………………うん?」
「お友達に焦ることないって言ってあげてね」
「うん?」
化粧できれいに女として作り上げられた顔を見てもにっこり微笑むばかりだ。
残りのコーラを飲んで礼を言って、狐につままれた思いで外に出る。時間を見ると待ち合わせ時刻が近かった。
阿僧祇の店があるシンジュクを訪れたのはこちらがメインだ。以前、阿僧祇に紹介された広告代理店の男と打ち合わせで、後で仕事を終えた兄ちゃんも合流することになっている。
結構なギャラが発生する仕事の話だ。
内容は今回限りの広告モデル。CMなんかの動画はなし。一度だけ撮影して終わり。
化粧品メーカーのメンズブランドの販促で、イケブクロ代表という立場に配慮してライバル関係で有名なヨコハマでの掲示はなしにするという。
先方はテリトリーバトル参加者という肩書きを求めているみたいだけど、俺はラッパーだ。見た目で売れたいわけじゃない。
だけど、実際問題として、他のバイトで必要としているだけの金が稼げているわけじゃない。小遣いとしては上等だけど、弟が大学に行けるほどの貯金は出来ていない。
左馬刻がちょくちょく依頼やバイトをくれるけど、高校生が学校の合間にやれる仕事はたかが知れている。
そこへ今回のモデル料を提示されて喉が鳴った。
大手化粧品メーカーのロゴを背負ったモデルなんかやって、その辺の連中にナメられるのは本意じゃない。
でも今回限りの話で、報酬は申し分ないときたら心も揺れる。
そこで兄ちゃんに相談して今回の保護者同伴打ち合わせとなった。なんでも自分でバシッと決められる男になりたいけど、ヒプノシスマイクを持って人前に立つようになってから日も浅いし、兄ちゃんはチームのリーダーであり今は俺の親代わりだから。
引き受けるにしても一度は話を通す必要があった。
待ち合わせしている店の場所をスマフォで確認している間にメッセージ通知が入る。兄ちゃんの仕事が早めに終わったみたいだ。
マイクを握らずにカメラの前に立つことに対する不安を胸の奥に押しやって目的の店まで急ぐ。
俺だって三郎の兄貴だ。兄ちゃんにばかり頑張らせない。稼ぐぞ!
両手で自分の?を張って気合いを入れ直した。
ベッドが揺れる。安物のベッドじゃないから軋む音はないけど、なんだかいやらしい。
一方的な手淫や、ただ向き合ってお互いに扱く時はもっと静かだ。キスで口が塞がれると声もない。
それだけでもエロいんだけど、正面から抱き合う格好でぶつかった二人分のちんぽが擦れると新鮮に恥ずかしくて、体の上で腰を振られると本当にエッチしてるみたいだ。
抱かれてる女の子の見る景色ってこんな風なんだ。きっと。
自分だけベッドに背中をくっつけて動きづらくて、上から覆い被さった男が体を揺するたびに自分も揺すられる。足の間に入られると腿で挟むか無理やり脹脛や踵を使って蹴るしか施しようがない。逃げを打つのだって楽じゃない。怖いな。俺は男なのにそう思う。
ほんのちょっとだけビビってしまって二本握った手が緩むと左馬刻の手が重なってしっかり握らされる。
こういうことするってことはさ、ちゃんとやる気あるのかな。手だけじゃなくて。
恥ずかしさを我慢して顔を上げたら左馬刻は笑っていた。俺がいっぱいいっぱいになってるのが面白いらしい。
これっぽっちのことでも俺がビビっちゃうからその先をやんないの?
最初にベッドに誘われた時は完全に最後までやるもんだと思ってた。男女間のエッチしか頭にないから挿入するのが当たり前で、手で扱かれたのは前戯なんだとばっかり思っていたら、一発抜いてハイ終わり。そんでおやすみ。
こんな風に言うと俺がヤリたくて仕方ないみたいだけどそういうわけじゃない。そういうわけじゃないんだけど、女とのエッチに慣れた男がこれで満足しているとは思えなかった。
二度目も、三度目も手淫で終わった。やっぱりヤリたくてやってるんじゃないんだろうな。
体に触らせてくれた時には結構好かれてるのかと、ちょっとくらい期待したのに。理由の分からない触れ合いのたびに「やっぱり好きじゃないんだ」という念が強くなる。
贅沢なもんだ。ついこの間まで、兄ちゃんとは別の存在として見て欲しかった。それだけだったのに。
いざ兄ちゃんにしないようなことをしてもらったら、今度はちゃんと好かれてる実感が欲しい。
我儘だ。相手の気持ちを欲しがるくせに、自分が左馬刻のことをどう思っているのかさえまだ自信を持てないでいた。
ガキの遊びレベルの触れ合いのうちはまだ引き返せる気がして。
翌朝は早起きして着替えた。だらしなく寝間着のまま朝飯の支度をして、食べて、テレビを見ていても左馬刻は兄ちゃんみたいに怒らない。だからいつもはだらだらするんだけど、今日は早く帰らなくちゃいけない。
ベッドに左馬刻を残して身支度を整えてから卵を焼いて、冷蔵庫からサラダと漬物の残りを出した。米も炊飯器に保温しておいたのがある。
ちょうど支度が終わる頃に起きてきた左馬刻が着替えの済んでいる俺を見て変な顔をした。
「言ってなかったっけ?今日バイトがあんだよ。昼からだけど、家帰って風呂浴びてから行くから」
先週ぐらいに言ったつもりだったけど、なんとなく嫌がられる気がして言うのを先延ばしにしていたから言い忘れていたかもしれない。
あまりいい顔はされないと思っていた。
「バイト?」
ほら見ろ、概要を話す前から眉の形が歪んでる。
「バイト、つっても今日だけなんだけどさ。ちょっとだけ広告のモデルやってみないかって話があって」
「そりゃまた随分調子こいたバイトだな」
「うっせーな。別にやりたくてやるんじゃねぇし!……結構金がいいんだよ。うちは生活はできてっけど、三郎が進学する時なんかいっぱい金かかるじゃん?俺は別に頭悪ぃからいいけど、三郎ぐらいはしっかり勉強させて好きな仕事させてやりたいからって、兄ちゃんちょっとずつ貯めてんの知ってるからさ。何か足しになればいいと思って」
ちょくちょくバイトをくれる左馬刻にこんな話をするのも悪い気がしたけど仕方ない。今回だけだし、左馬刻からの仕事に差し障りはない、はずだ。
広告の内容も兄ちゃんと一緒に確認した。やらないよりは変に目立ってしまうだろうが、女性誌からの取材ぐらいなら他のチームだって受けている。その延長と思えなくもない。
もっと何か言うと思った左馬刻はしばらく黙り込んでからあっさりと放り出した。
「せいぜい頑張れや」
大して興味がないのか深く聞くこともなく箸と茶碗をとって食べ始める。
咎められなかった安堵と、なんだよ、それだけかよって気持ちが頭の上でグルグル回ってテンションが上がらないまま左馬刻のマンションを出た。
何と言われようと一度引き受けた仕事だ。やれるだけやる。少しでも依頼人の期待に応えられるよう努力するだけだ。
撮影に出かける前に自宅の風呂で丁寧にシャワーを浴びて、いつもは適当にする髪もちゃんと乾かした。
兄ちゃんは仕事でいなくて、何か言いたげに押し黙った三郎に見送られた。三郎への説明は兄ちゃんがしてくれた。三郎は兄ちゃんが納得していることに文句は言えない。「こんな低能にホントに務まるんでしょうか?」とかなんとか言っていたけど引き受けると決めた後だった。
俺も、兄ちゃんも、三郎のためだなんて本人には言わなかった。でも三郎は賢いから、こっちの考えも分かっていて黙ってるんだろう。だから俺はこの仕事を余裕でやってのけて帰らなきゃいけない。無理してる風に見えちゃいけないんだ。
普段あんまり真剣に見ない鏡の中の自分とにらめっこして気合を入れると事前に指定されていたシブヤディビジョンにある撮影スタジオに向かった。
打ち合わせは兄ちゃんにも同席してもらったけど撮影当日は一人でやってきた。
ビルの中に撮影スタジオがあって、ソファやローテーブル、観葉植物のあるリビングみたいなセットが組まれている。壁にはブラインドの掛かった窓もあって、窓の外もまだこのスタジオの中だ。窓から光が室内に差し込むようになっている。
普通の部屋を切り取って持ってきた、小さな子供用のお人形ハウスみたいだった。部屋の一面だけ壁がなくて、壁の代わりにカメラや照明機材が並んでいた。
「同じセットを使って女性向けと男性向けの広告を作るんだ。先にニカちゃんの撮影やるから、二郎くんの番がくるまで見学しててくれる?」
事前に受けた説明と同じ話を聞いて、まずは別室のメイクルームに通された。ヘアメイク担当は女性で少し緊張したけどチームの話になった際に「アタシ三郎くんのファンなの」と素直に言われて気がほぐれた。あんまり自分のことを褒められたりすると気を遣われてるみたいだから。
弟の話と、時々日ごろのスキンケアや使っているワックスなんかの話をしているうちに支度は終わった。衣装として用意されたシャツと薄手のパーカーで撮影現場に戻ると先ほどのセットで女子モデルの撮影が始まっていた。
高校二年生で読者モデル出身のモデルだ。俺でも名前ぐらいは知ってる。榊ニカは同い年の女にしては大人びた顔立ちで手足が長くて、男に媚びないさっぱりしたイメージで。数年前のティーン向けファッション誌を飾っていたモデルに比べると自立した印象の少女だった。男ウケを煽る時代から男の目を気にしない中王区の女へ。そういう時代の変化を象徴するモデルの一人だ。
身に着けている衣装は俺と似たデザインで対になっている。だけど絡みの撮影はなく、ニカを使った広告は中王区内のみ、俺の広告は主にヨコハマ以外のディビジョンで掲示される。
シャッターが切られるたびに彼女は腕を上げ、顔を傾け、時には視線を外してポーズを変える。何も言われなくても自分の魅力的な角度が分かるみたいに迷いなく動く。
しばらくしてカメラマンから指示があって、大きく姿勢を変えてもうしばらく撮影してオーケーが出た。
撮影したばかりの写真をモニタ上でチェックするのに俺も混ぜてもらった。たくさん並ぶ写真のどれが広告を飾っても見栄えがしそうな出来だった。
俺たち兄弟もテリトリーバトルエントリーの際に宣材として顔写真を撮らされたけど、何枚も撮ったうちの何枚かは半目だったり口が開いていたり、逆に緊張が滲みすぎておかしな顔になっていて没になった。
それと比べるのがそもそも失礼なんだろうけど、これから同じようにやれって言われたら無理だ。今頃今回の仕事を理解してプレッシャーを感じ始める。
モデルのニカ本人も隣にやってきてサムネイルで並んだたくさんの写真の何枚かを確認した上で改めてオーケーの判断が下された。つまり、チェックしてダメならまたカメラの前に戻されるってことだ。
ラップバトルは基本一発勝負。第二ラウンド、第三ラウンドと分けてジャッジするスタイルもあるけど、ヒプノシスマイクを握ってからは特に第一ラウンドで叩きのめせば次はない。テリトリーバトルもステージに立ったらやり直しは利かない。他人にダメ出しされて合格点を貰うまでやり直すなんてことがない。
緊張しているのを察して声をかけてくれたカメラマンにそのことを言うと「一発勝負の方がプレッシャーじゃないの?」と笑われた。
「難しく考えなくていいよ。喋りながらやろう」
「うっす……」
「不安そうだね。まあ慣れるよ。そこのソファ座ってみて。楽な格好で……と言われても困るよね。まだ緊張してるだろうから膝抱えた方が楽かな」
言われてソファの端で膝を抱えて丸く座ると、確かに少し落ち着く。家のソファより大きくて、サイズは左馬刻の部屋のものくらいあった。左馬刻は一人暮らしのクセに三人でぎゅうぎゅうに座っているうちより大きなソファを置いている。
「やっぱり真ん中より端の方が落ち着く?」
「うーん、そっすね」
「お家でもそんな感じ?」
「うちじゃ兄弟で座るから一人でも詰めて座っとくクセはついてるかも」
「三人で並んで座るの?」
「こんないいソファじゃないから狭いっすよ」
「狭くても三人一緒なんだ」
「兄ちゃんが座ってると隣の奪い合いなんで」
片膝を下ろして広く空いた隣に目を向けるとちょっと笑い声がおきてシャッターが切られた。
「横並びに座ったら顔見えないんじゃない?テレビとか見るの?」
「録画見たりとか、バラバラに漫画読んでたり」
「肘当たるでしょ」
「当たるけど真ん中座ってんのが兄ちゃんなんでオッケーっす」
「オッケーじゃなくない?」
「そこは三郎が遠慮したら一人分余裕できるじゃないっすか」
「三郎くんも二郎くんに同じこと思ってるよ」
「思ってるどころか遠慮なく言ってくるから喧嘩っすよ、毎日喧嘩ばっか!」
「手も出る?」
「こうっすよ、こう」
正面に向けて胸ぐらを掴むジェスチャー。
「でも二郎くん手加減してあげるんでしょ」
「そりゃあ…………一応兄貴なんで」
ほんの少し視線を外した隙にシャッター音。
到底広告には使えなさそうなポーズのまま喋りながら何度もシャッターが切られる。その音やストロボの光に慣れた頃にやっとポーズの指定があった。
「それじゃ上着脱いでみて、ここ結構暑いでしょ」
「あ、はい」
あんまり普通に話していたから油断していて、撮影の趣旨を思い出して慌てて動こうとすると笑い混じりに言われる。
「また緊張が戻ってきちゃった?なんか今のセリフAVの撮影みたいじゃない?」
「え、あ、……言われなきゃ思わなかったのに」
肩から脱ぎかけたパーカーがちょっと恥ずかしくなる。でも間髪入れずに投げかけられた言葉で完全に動きが止まった。
「へぇ、二郎くんAV見るんだ?」
「…………!」
スタジオのあちこちから押し殺した笑いが聞こえて肩だけ脱いだ半端な格好で口を押さえた。カメラマンは隠さず笑っていて、シャッターは切られなかった。良かった。
「いいよ、まだ高校生だもんね。ここだけの話にしとこう」
「ひっでー!罠じゃないっすかこんなん!」
フードを被ってソファの背もたれに顔を伏せ文句を言うとますます笑われた。カメラと大人に囲まれていて、穴を掘って隠れられる場所がない。
「別にみんなこっそり見てるんだから開き直っちゃえばいいのに。結構素直だよねぇ」
背もたれからちょっと顔を上げてカメラに顔を向け直す一瞬にシャッターが下りる。どんな顔で写っているんだろう。間違いなくカッコ悪い表情してる。
グズグズしていると「ハイ、脱いで」と再度言われて改めてフード脱いで肩からパーカーを落とす。肘を背中側に引いて、袖を抜いて。何気なくやるその動作の中で何度もシャッターが切られた。見られてるって思うとやっぱり緊張する。
別に男だし夏になればいくらでも薄着になるのにカメラに見つめられてシャツ一枚になるとなんとも心許なくなる。背はあるけど身体は薄い方だ。もっと鍛えたいけど、胸の厚さや腕の太さはなかなか思うようにならない。
撮影があるのはわかってたんだからもっと鍛えときゃ良かった。自分の体を見下ろすと目敏く指摘される。
「何か気になる?」
「もっと筋肉つけてぇなと思って」
兄ちゃんはもっと腹回りも腕も太い。最近身を以て知ったことだけど、左馬刻も俺よりは厚みのある体をしてる。触ると腹も凹凸があって。
ぼんやりした頭の隙間に昨夜太ももで挟み込んだ体のことが自動再生で蘇って、反射的に片手で?をこすった。顔を隠したくて。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないっす」
なんでもなくはない。明らかに挙動不審だ。赤くなったりしてないか気になるけどその場を飛び出すわけにもいかなくて、顔に落ちた髪を退ける仕草に変えて誤魔化した。
予定が合う限り誘いを断りたくなくて昨夜もヨコハマに行ったけど、こんなことなら遠慮しておいたらよかった。でも、昨夜に限っていつもよりエロいことされるなんて思わなかったし。いつも通りなら多分この場で思い出したりなんかしなかった。
焦る内心まで写そうとするみたいにシャッターが切られる。
平常心だ、平常心。ゆっくり呼吸して視線を向け忘れていたカメラを振り向く。何度もシャッターの音がする。
自分で制御しきれない一瞬をカメラは切り抜いて何時間も、何日間も、何年間だって保存してしまう。広告の張り出し期間を過ぎてもそれを携帯に写した人間がいたら、その手の中でまた残り続ける。困る。
きっともっとちゃんとした別のカットが使われるんだろうけど、万が一にもこの瞬間が採用されないようにと祈る傍で改めて強く思った。
モデルなんて二度と引き受けない。
撮影が終わるとどっと疲れた。部屋の中で立ったり座ったり腕を上げてみたりしただけなのに。精神的に疲れると体まで疲れる。
衣装を脱いで家から着てきた自前の服に戻ると家の匂いがして漸く気が休まった。
さっさと帰ろう。帰って飯食って兄ちゃんと録画のアニメでも見て、今日は早く寝てしまおう。
ひと通り挨拶を済ませて少ない荷物を掴んでビルを出る。出ようとした、ところで足を止めた。
キャップを目深に被った少女が出口前の壁から離れて目の前に立ち塞がった。正面で向き合うとキャップのつばを上げて顔が見える。ニカだ。
さっきの撮影ではすっぴん風のメイクだったけど今は分厚いまつ毛と赤々した唇。武装って感じのメイクを施した顔を帽子と大きめの黒縁メガネで隠していた。
強そうな印象とは裏腹に気さくに笑うとガードが緩んだように見えて可愛い。
「お疲れ様でーす。二郎くん、帰り?」
オーバーサイズのパーカーの袖口から指だけ見せて手を振る。女の子だ。周りに女子が皆無というわけでもないのにあまり縁がないからしみじみ思う。
「お疲れっす。うん。えーと……ニカちゃんは誰か待ってんの?」
「そ、待ってたの」
マネージャーだろうか。それらしい人が現場にいた気がしたけど、タイミングが合わなくて挨拶しなかった。まあ、今回限りの仕事だしいいだろう。
「そっか。じゃあお先」
バイクのヘルメットを抱え直してすれ違う。彼女の前を通り過ぎて一歩過ぎたところで服の襟を掴んで引っ張られた。
「ぐぇっ」
「待って。送って」
振り向いて少し低い位置にある顔を見下ろすと眉尻を下げて困ったような怒ったような大きな目をしていた。
「はぁ?誰か待ってんだろ?」
「察し悪いなぁ。二郎くんのことだよ」
「チッ。なら普通にそう言えよ」
つい友達にするように言い返したらびくりと肩を揺らして黙り込んでしまった。向こうが芸能人だとしても初対面だし、そんな風に馴れ馴れしくされる理由が分からなくて面倒だったから言葉を選び忘れた。
というか、そんなにキツく当たったつもりもないのに素直に傷ついた顔をされるとこっちだって困る。焦る。隙なくきれいに整えられた眉根がぐぐっと寄せられて泣くのかと思った。
「……いや、えっと、あのさ、俺はアンタのこと全然知らねぇしアンタも俺の都合知らねぇだろ?」
フォローしようにもなんて言ったらいいか迷って、とにかく年の離れたガキ相手のつもりで柔らかい喋りを心掛けた。女を怖がらせるのは趣味じゃない。
彼女はちょっと俯いてから顔を上げる。もう泣きそうな気配はなかったけど、何か探るような眼差しでまじまじと見つめてくる。
「何?」
「もしかして、二郎くんて真面目?」
「は?」
そういうテメェは失礼女だな、というセリフは我慢した。
萌え袖にしていたパーカーの袖を7分丈に捲り上げて首を傾げる。こっちも頭の上は疑問符だらけだ。なんなんだこの女。
「なーんか予想してたのと違っちゃった。困るなぁ」
「なんの予想して何を困ってるってンだよ」
「もっと遊んでる子かと思ってたの」
「あー……」
ちょっとだけ理解した。見た目とか立場でチャラついて見られることはよくある。テリトリーバトルが始まってからはよくネットにカノジョ情報とか根も葉もない噂が書き込まれるし、直接聞かれて女に縁がないことを話すと大抵驚かれる。「なんで?!」って言われてもこっちが聞きたいくらいだ。
「だから逆ナンしたってのか?」
沈黙。図星か。モデルなんて黙っててもモテまくりだろうに、ディビジョン代表って肩書きが良いんだろうか。
「まあ……そういうことになる?けど二郎くん私に興味ないみたいだし、合コンしよ!」
「なんでだよ?今の話の流れおかしいだろ」
「いいじゃない、大人しい子とか可愛い子いるからさ、イケブクロディビジョンの喧嘩強いお友達連れてきてよ!一郎さんでもいいし」
「冗談じゃねぇ!誰が大事な兄ちゃん紹介するかよ!」
優しく喋ろうって決めたのに兄ちゃんの名前が出た途端頭から抜けて怒鳴ってしまった。またニカが細い肩を竦めるのが見えてやっちまったことに気がついたけど、今度は沈黙はなかった。
すぐ何か言い返そうと息を吸ったニカのポケットで携帯が鳴った。小さく「ゴメン」と言って躊躇いなく応対するのをなんとなく待っているとほんの一言交わす間に顔色が変わった。
「……わかった、そのまま隠れてて。すぐ行くから。場所移動したらメッセージ入れて。いいね?」
壁に向けた目が深刻そうで、通話を切るタイミングで声を掛ける。
「どうした。隠れる、って……穏やかじゃねぇな」
さっきまでの様子と違う。ニカはこちらを見て、迷うようにまつ毛を伏せた。
「友達が、ちょっと良くない連中に目をつけられてて……」
「それでお前がこれから行くのか?」
「うん」
「喧嘩すんのか」
「そんなの出来るわけないから逃げるよ」
「上手くやれンのか?」
ここでまた黙る。
濃く盛られたまつ毛が震えて、意志が強そうに赤く塗られた唇にグッと力が入る。
女の化粧は武装だ。その下の本当の顔色を覆い隠して、血色の悪さや頼りなさを誤魔化してしまう。でもなんでもかんでも隠せるわけじゃない。
勝算もないのに友達がヤバいことになってるからとにかく一人でも向かうってのはボコられる覚悟のあるヤンキーのやることだ。モデル女のやることじゃない。
まったく厄介なことになった。気の進まないモデル仕事に来て、変な女にナンパされたかと思ったら今度は誰ともわからないヤツからのSOS。
でもここで見捨てたら男が廃る。兄ちゃんに顔向けできない。
抱えていたヘルメットを被ってバイクのキーをポケットから掴み出した。
「仕方ねぇから送ってやるよ」
「でも……」
躊躇いを口にしてもコレがモデルより俺向きの仕事だってことはニカも分かってる。本当は助けてほしいのが見え見えだ。
「急ぐんだろ?バイクの後ろ乗れ」
出口に向かって歩き出すと、すぐにブーツの音がついてきた。
場所はイケブクロとヨコハマの境目にある古いビルだった。ディビジョンの境界は小競り合いが多くて仕切っている人間も定まらない。いつまで経っても荒れているエリアの一つだ。
バイクに乗る前に仲間に連絡を入れた。イケブクロならすぐ動ける人間が必ずいるし、俺が駆けつけるより早くにたどり着ける。
先に仲間が二人到着して現場の状況チェック。周辺に車もいないし下階は空きテナントで窓にカーテンもない。上階だけなら大した人数はいないだろう。
ニカが自分も同行するとうるさかったけど携帯でビル内の友達に山田二郎が向かうことを伝えてもらって、後は外で仲間と待機させた。
小回りの効く仲間と二人で乗り込んで十分弱。威勢ばっかりのチンピラ連中を片付けて古い更衣室のロッカーの中に隠れていた女の子を連れてビルを出た。
ボコボコにした連中の引き渡し先に迷っていると、
「じろー、コレ見てコレ」
服やベルトを抜いて一人ずつ縛り上げながら連中の持ち物検査していた仲間が細長いケースを掲げた。中身は注射器だった。
「うわ、面倒くせぇ」
「こっちはデリヘルの名刺っぽいけど客か経営してんのかわかんねーね」
「店の場所は?」
「ハマ」
だったら左馬刻でいい。そこからヨコハマ署に話を回してやるかどうかは左馬刻に任せる。
簡単にメッセージを入れると折り返し着信があったから、少し仲間から離れたところで出た。
『お前バイトじゃなかったのか』
「バイトはもう終わったんだよ。で、ちょっと色々あって、薬物所持して女追っかけてる連中捕まえたから引き取りにこねぇかと思ってさ。要らねぇなら警察に回すけど、どうせ薬物っつったらアイツが来んだろ?」
『まあな。誰かすぐ向かわせるから逃げないようにだけして転がしとけ』
「アンタは来ねぇの?」
言葉での返答の前に背後で女の声がした。聞くまでもなかったな。
『俺様は休みだって知ってんだろうがよ』
「はいはい」
『お前はどうすんだ』
「どうするって、んー……仲間と手分けして保護した子達送ってから帰って兄ちゃんにバイトの報告」
兄ちゃんの名前を出した途端返事が舌打ちになる。それ以上は質問も指示もなかった。
短い通話を終えてから、暇だって言ったら部屋に呼び戻されたんだろうかと思い至った。そしてすぐ自分で打ち消す。左馬刻はもう出先だ。飲み屋なのか女個人と会っているのかはわからなかったけど。
帰宅してから携帯を見たらニカからメッセージが入っていた。帰りに当然のように連絡先を交換させられた。
返信すると電話が来て、兄弟の目を気にして部屋に引っ込む。
『ドタバタで話が途中だったでしょ?』
何かと思ったら合コンの話だ。断ったつもりでいたしすっかり忘れていた。
「だから兄ちゃんはそういう軽薄な場所に連れてく気ねぇよ」
『一郎さんじゃなくて、今日来てたお友達とかさぁ』
「見境ねぇのかよお前」
『うっさいな。私の彼氏探しじゃないっての』
「じゃあなんなんだよ」
『…………今日さ、助けてもらったでしょ』
声のトーンが落ちた。言いづらそうに。最低限の相槌を打つと、ポツポツと話し始めた。
『ああいうことよくあるの。今日の子、私の幼馴染なんだけど、私達の家の近くはあんまり治安良くなくてさ。私はこんな感じだけど、他の子達は大人しいし』
確かに送り届けたエリアは長く荒れ続けていた地域のすぐそばだった。自宅マンション自体はセキュリティも入っていたし悪くなさそうだったけど、出歩くにはいい環境じゃないなと思ったのを覚えている。
『だから、頼りになる彼氏作っていざって時に頼めたらいいな、って思って……』
「なんだそりゃ。うちの仲間はボディガードじゃねぇんだぞ」
『わかってるよ。私らだって守ってくれたら誰でもいいとか思ってるわけじゃない。彼氏頼みの女とか他の子から顰蹙買うしさ。だけど、弱そうって思われたらすぐ変なヤツに狙われるし。そういうのアンタたち男にはわかんないでしょ?』
男だって喧嘩ぐらい売られる。でも殴り返すだけの腕力も、俺にはマイクもある。壁の中の女が上に立ったことで、中王区への不満が壁の外の弱い女達に向かいがちなのも、なんとなくは分かっていた。
『でも、だから、……ちゃんと仲良くなれそうか会ってみて欲しかったの。本当は普通に仲良くなってからこういう話するつもりだったんだけど……』
「利用しようとしてんの隠して近づくつもりだったってことじゃねーか」
『そんなの、アンタ達男だって可愛い彼女欲しいとか言うじゃん!女の子だってただ息吸ってりゃ可愛くなるわけじゃないんだよ?アンタ達が喧嘩の腕磨いてる時にこっちは別の努力してんの。それに下心あるのはお互い様でしょ!』
「うっ」
それを言われると言い返せない。さっきも俺とニカが連絡先を交換している横から仲間が混ぜて欲しそうに見ていた。ややこしいからまた今度ってことにしたけど。
『あぁ、責めたいわけじゃなくてね……人柄とかさ、お互い気に入った上で友達関係から始められないかな。こっちだって守る代わりに無理な要求してくるヤツはお断りだもん。ちゃんと信頼できる人と知り合いたいの。もちろん、アンタ達がこっちを気に入らなきゃいいよ。他当たるし。私の態度悪いのは謝るから、ちょっと考えてみてよ』
早口で言って通話を切られた。
「考えてみて……って言われても」
やり方はともかくニカは悪い奴じゃない。友達を守りたいってのも、今日の一件でよくわかった。それから雑誌で見るイメージと違って不器用な奴だってことも。
だけどこっちだって大事な仲間を面倒に巻き込むのは気が進まない。先に親しくなって後から困っているところを助けるのと、予め助けて欲しいからすり寄ってくる人間を引き受けるのとじゃ話が違う。
それでもまた何か起きたら、もしかしたら手を貸さなかったことを悔やむかもしれない。
「ああああ、クソッ!」
すでにスリープ画面に戻った携帯をベッドに放り出して頭を抱えて唸った。悩むのは得意じゃない。
「二郎、なに騒いでんだ」
扉の向こうから兄ちゃんの声がして飛び起きる。条件反射で謝った。
「ごめんよ兄ちゃん!」
そうすると扉を開いて兄ちゃんが顔を出した。
「入っていいか?」
ちらりと真っ暗な携帯を見てから頷く。ベッドにはもう一人ぐらい座るスペースがあったけど、兄ちゃんは学習机の椅子に腰を下ろした。
「今日の撮影で何かあったのか?」
「何にもないよ、撮影では……」
「じゃあ他であったんだな」
優しく、話を聞いてやるから言ってみろって目で言われて誤魔化すのを諦めた。元々兄ちゃんに隠し事はできない。
撮影が終わって、ニカに待ち伏せされていたところからのことを掻い摘んで話した。彼女の友達がヤバそうな男たちに襲われて、それを助けに向かって、殴った後の犯人連中を左馬刻に引き渡した件ははぐらかして、今し方のニカからの電話の件まで。
兄ちゃんならこんな時どうするんだろう。か弱い女を見捨てるなって言うのか、仲間を大事にしろって言うのか。そこのところがわからないから俺は迷う。
話が終わるまで兄ちゃんは口を挟まなかった。最初にニカに誘われた辺りで色恋沙汰かと目を丸くしていたけど、すぐにそういった話じゃないと分かって静かに相槌を打っていた。
全て聞いてから机に頬杖をついて「そういう話か」とこぼす。あまり驚きはないらしい。
「前に比べりゃずいぶんマシになったが、まだ荒れてる地区はあるからな」
兄ちゃんがヒプノシスマイクを手に入れた頃はもっとあちこちが混乱状態だった。男の俺が知らないところでは危ない目に遭っている女がいっぱいいたのかもしれない。
つまらない昔話のように説明される。
「今はそういう話も減ってきたみたいだけど、少し前はよくあった話だよ。その辺の縄張りを仕切ってるチームのリーダー格に取り入って身の安全を確保してる女も珍しくなかった」
「そうなの?」
「ああ。有力なチームの誰々の女だって噂になれば、力の弱い連中は報復を恐れて手を出さなくなるだろ。当然、人質目的で余計に危ない目に遭う可能性だってあったけどな。孤児院あがりで一人暮らししてるような後ろ盾のない女なんかは特に、愛人でもいいから部屋に定期的に力のある男が出入りしているとマシな部分もあるんだと」
自分にはあまり縁のない話だった。知らないヤツとの喧嘩は日常茶飯事だけど家に押し入られることはない。俺と弟はずっと兄ちゃんの庇護下にいたから。
言っている理屈はわかるけどどもピンと来なくて鈍く頷くと、兄ちゃんはちょっと視線を彷徨わせた。頬杖の上で窓の方を向きながら。
「アイツ、……左馬刻がそういうことをよくやってたよ」
左馬刻。その名前につい反応してしまう。カーテンを引き忘れた夜の窓には驚いた自分の顔と兄ちゃんの苦い顔が映っていた。
「左馬刻は俺らと組む前から有力なチームのリーダーだった。だから力か名声か、アイツの何かしらにつられる女は少なくない。その上、来るもの拒まずっつうか、だらしがねぇっつうのかな。アイツは妹以外の女を一人に決めて大事にするってことをしねぇから」
忌々しげに零れる言葉に心の奥底で深く同意する。表では何の反応も返すまいと貝になった。何を言っても墓穴を掘りそうだ。
俺が知る限りでも左馬刻の周りには女の影がたくさんある。だけど、特別大事にしている女はいないように見えた。本命って呼べる本命はいないけど、何かあれば面倒くさそうにしながらもちゃんと会いに行く。
「傍目にはロクな男じゃないが、相手にしている一人一人を見てみると水商売しか行き場のない女が多いんだ。ヤクザ者だから当然といえばそれまでだが、ろくな目に遭ってこなかった女を口利きして自分の目の届く範囲で働かせたりしてる。そうすりゃ何かあればすぐ自分の耳に入るからな。目をかけてる人数が多いから“左馬刻の女”なんて箔がつかねぇ分下手に怨みを買うこともねぇし、そこそこ安心して暮らせる。店の女なら左馬刻以外のやくざ連中にも守る理由ができる。そうすりゃアイツ一人の手に負えない人数でも手が回る。そういうことをやってた」
昔はな。と締めくくった。兄ちゃんはチーム解散後の左馬刻のことはわからないと言うけど、今もきっと同じことをやっている。思い当たる節はあった。何人か左馬刻と付き合いのあるホステスと喋ったことがあるけど、それぞれ何かの事情を抱えていて、みんなあの人を慕っている。
「…………話が逸れたな。あんなクソ野郎のことはどうでもいいんだ。問題はお前のとこの仲間のことだよな」
「あ、うん」
左馬刻の話が気になって本題を忘れていたなんてことはおくびにも出さない。
悩める俺に向けられる兄ちゃんの眼差しは優しい。
「二郎は女の子たちのことを助けてやりたいって思ってんのか?」
「そりゃもちろん」
「だけど仲間にその役割を振ることを迷ってるんだな?」
「うん……」
「いいじゃねぇか。正直に仲間に言ってみりゃいい。女の子たちの思惑も全部承知でも手伝ってくれる奴だけ紹介したらいいんじゃねぇか」
それも少しぐらいは考えた案だ。だけど本当にそれでいいのかわからなくて迷っていた。
「無責任になれって言ってんじゃねぇよ。大丈夫、お前が認めた仲間だろ」
頭の上に大きな手のひらが乗る。サイズは俺の方がほんの少し小さいくらいなのに、兄ちゃんの手はもっとずっと大きい気がする。
「うん、そうだよね。この話を聞いたってみんなが俺と同じように考えるわけじゃないだろうし……」
「そうだぞ。上手くいかなかったらその時はまた俺も相談に乗るから……」
「いち兄、お風呂空きましたー!」
廊下から三郎が呼ぶ声がする。
「おう、今行く!それじゃあ二郎、頑張れよ」
「ありがと、兄ちゃん」
見送って再び部屋に一人になる。目を閉じると左馬刻の姿や、それを取り巻く女のか細い背中が思い浮かんだ。
布団の上で沈黙する携帯に手を伸ばす。
話をしてみよう。仲間と、いや、それより先に────。
「いいかお前ら、これは合コンじゃなく商談会だ」
「えー合コンっしょ」
イケブクロディビジョンの一角にあるカラオケボックス。テーブルを挟んで男女向き合って座った光景は合コンであるが。
「うるせぇ!いいかよく聞け。こっちのマナカちゃんは全国模試上位の天才だ」
男たちにどよめきが起こる。紹介された少女は恥ずかしそうに顔をうつ向けた。
「しかもカテキョ経験がある」
「マジか……」
いい手応えだ。男チームの端からおずおずと手が挙がる。
「あの、うちの妹がさ、高校受験なんだけど……もしかして勉強見てもらえたり、する?」
「私にわかる範囲なら……」
「よっしゃっしゃーっす!」
勢いよく立った雇い主がマナカに片手を差し出した。控えめな握手を大きく振る。マナカは引き気味だけどまあいい。
「よし、次!こっちのミズホちゃんはギターとピアノが弾ける」
「どんぐらい?」
食いついたのはバンドをやっている男だ。本人はドラムを担当している。
「こないだ音楽性の違いによりお前んとこのバンドを抜けた田吾作より上手い」
「マジかよ」
「いやアイツ普通に下手くそだったっしょ」
「それから作曲もやるらしい」
「……あの、ちょっとだけです」
「えーいいじゃん、聴きたーい」
やや強引なリクエストにより、ミズホ持参のタブレットが差し出された。演奏動画をネットにアップしているらしい。マスクで顔を隠して部屋の中でギターを抱えたサムネイルを選んで再生する。
ガチガチのメタルだった。
「まじで?」
大人しそうな見た目に似合わないハードな演奏に男どもが言葉を失うと白い手が伸びてきて恥ずかしそうにタブレットを引っ込めた。クラシックが似合いそうな繊細な手だ。
「すげぇな……。コレの後に聞かすの気がひけるけど、うちのバンドはこういうのやってんのね。イケそうだったら今度練習来てみる?」
早速二人で端に移動して携帯にヘッドホンを繋いで音楽性のすり合わせが始まった。放っておいて次に進む。
それまで寡黙に成り行きを見守っていた男に声を掛ける。
「おい、お前んちのパン屋、バイト見つかったのか?」
「いや、時給も低いし 、店先にポスター貼ってるだけじゃなかなか人が来なくてな。俺が手伝うって言ってんだけど……」
「やめとけ、客が逃げる」
パン屋の倅は親父に似て顔が怖かった。
「そこで紹介したいのがこっちのマホちゃんだ。バイトも部活もないし時給安くても引き受けてくれるってよ」
指名されたマホがパン屋の顔を見て怯んでいる。事前に会った時はハキハキした明るい子だったんだけど。対するパン屋は見た目よりは気が長いし女と子供と動物には優しい。優しいというか扱いが分からないから壊さないよう、驚かさないよう慎重に動く。今回はその慎重さが裏目に出て沈黙が圧になっている。
気まずい見つめ合いがしばらく続いたところで意を決してマホが身を乗り出した。
「あのっ、多分接客ならできると思います。お店の場所もうちから近いので……今度ちゃんと面接行かせてください」
ふざけた集まりの中で生真面目にぶつかってこられたパン屋が戸惑いがちに俺の方を見た。情けねぇなあ。女の子がお前の顔の怖さにもめげずに申し出てくれてるってのに。
背中を叩いてやるとでかい背中を丸めて頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします。……お袋に言っとくんで、いつでも来てください」
そんな調子であちらこちらで話がまとまっていく。
テーブルの横の仲人席で見ていたニカが腕組みして友人たちの様子を眺めながら呟いた。
「なるほど、商談会ね」
そういうこと。口下手な仲間もお互いに条件を確認する都合で初対面の女の子とちゃんと会話ができている。うちの仲間は世話になっている相手への義理を忘れない連中だ。
「仕事があった方がそっちも気が楽だろうし、俺らもお前のいう“下心”以外の目で見やすいしな。女じゃなくて人として尊重するっつーの?定期的に会う理由も出来るし、家族やバンドぐるみだったら一対一の付き合いより安心だろ」
「へぇ。色々考えてくれたんだ」
「俺が全部考えたアイディアってわけじゃねーよ」
純粋な感謝の色をしたニカの目から気持ちが逃れたがって手元のグラスに視線を落とし、「知り合いのやり方の真似」と言い足した。
あの人みたいに一人で何人も見守ってやれないから、結局仲間の手を借りる。
「知り合いって、一郎さんじゃなく?」
「兄ちゃんはそういうチャラついたことやんねーよ。……つか、そんなの誰でもいいだろ」
「まあ、いいけどね」
ニカは案外簡単に引き下がった。
仲間たちは商談が済んだ組からカラオケに移行している。
実際に会ってみなければ分からないと思っていたけど、どうやら上手く収まったみたいだ。
テリトリーバトルを挟んだ翌月の終わり頃。しばらくは雑誌やテレビでしか姿を見ていなかったニカから呼び出しがあった。
「この間撮影した広告、今日貼り出されるんだって。見に行こうよ」
自分の写真を大写しにしたポスターなんか楽しみじゃなかったけど、熱心に誘ってくれるんで仕事に行くニカを送りついでに一緒に駅まで行った。
駅の構内の壁に何枚も貼り出される広告の一角だ。足元から天井下まである大きな枠が使われる。
俺のイケブクロディビジョン代表って立場を考慮してヨコハマディビジョンの駅には掲示されない予定だった。そのことはよかった。兄弟や仲間に見られるのも恥ずかしいけど左馬刻にはもっと見られたくない。左馬刻は普段車移動ばっかりで人がごった返す駅の中までは入ってこない。
ニカの家の近くまで迎えに行って、駅の改札まで歩いた。駅に入るとちょうど広告の貼り替え作業中で、係員が忙しく動き回っている。メーカーのSNSアカウントでも俺が起用された広告が設置されることを告知されているせいで貼り出し待ちと思われる女の子が何人か周辺に待機していた。
俺たちは正体がバレると面倒だから、普段と違うキャップや大き目のマスク姿で少し離れた場所に陣取って設置完了を待った。
「お前、どの写真使われたか知ってんの?」
「知らないけど予想はつくよ」
「なんで」
「二郎くんよりこの仕事長いからかな?」
そう何年もやってるわけじゃないくせに。
「そういや最近どうだ。うちの連中は楽しそうにやってっけど」
「こっちも順調だよ。マホちゃんち、母子家庭なんだけどさ。お母さん結構若くて、お母さんの方にも変な男が寄ってきて困ってたの。でも家まで送ってもらった時に玄関先で揉めてた男のこと摘まみだしてくれて、そしたら随分楽になったって。最近じゃ家族ぐるみで仲良くしてるみたい」
「まじかよ。すげぇじゃん」
パン屋の職人気質な親父そっくりの友人は余計なことを喋らない。なんとなく充実感が漂ってるから上手くいってるんだろうとは思っていたけど、そこまでとは思わなかった。
「ありがとね。私なんか騙すようなマネしようとしてたのに、計画してたのよりずっといいところに落ち着いたよ」
「なんだよ改まって。うちの連中も助かってるしいいって」
「遠慮しなくていいってば。ねえ、今度お礼するよ。ごはんとか行かない?」
「そうだなぁ、焼き肉食いてぇなあ」
「そこはもうちょっと遠慮しなよ。別に焼き肉でもいいけどさぁ……あ、そろそろ終わりっぽいよ」
言われて広告貼り替えが行われていた壁を振り返る。
一枚の写真を贅沢にプリントしたシンプルな広告だった。こんな風にきれいに撮った写真を大きくプリントして貼り出されることがないから、一瞬自分とは別の人間のようにも見えた。
「予想当たり」
満足げに言うニカの隣で俺は眉を顰めて口をへの字にした。この瞬間だけは使ってくれるなって念じておいたのに。
「きれいに撮れてるよね、これ。人目を惹くし」
「チクショウ、モデルなんかもう二度とやらねぇ」
写真を撮られ慣れた女が隣でケラケラ笑った。
撮影中、余計なことを思い出して顔を隠そうとしたその時のワンカットだった。この時何を思っていたか、この前の晩に何があったか事細かに思い出せる。
こんなのきれいなんかじゃない。恋人ですらない男の体を思い出して勝手に焦ってる、最高にダサい写真だ。
今すぐ記憶からも撮影データからも消し去りたい。もし奇跡的にそれが叶ったとしても複数個所の駅で掲示されているから剥がして回るという仕事が残る。予定された広告期間中に出来ることと言えば俺の熱烈なアンチが顔の上に落書きでもしてくれるのを祈ることぐらいだ。
携帯でポスターを撮影しようとしたニカの肩を押して改札に向かう。文句を言われても無視だ。渋々携帯をポケットにしまうとニカが話を戻した。
「それで、焼き肉行く?来週の土日だったら空いてるよ」
「来週なあ、みんなにも聞いてみねぇと……」
「なんでよ。二人で行くんだよ?」
ニカの足が止まった。俺も立ち止まった。周りの学生や会社員や何をやっているのかわからない通行人たちはせいかせか歩いて俺たちを追い抜いていく。
「二人じゃ嫌なわけ?」
キャップの下で赤い唇が可愛くとがる。
「あー…………来週?」
「来週!」
嫌ではないな、と思ってスマフォのカレンダーを開いた。ちょっと面倒くさいけど可愛い女の子と、二人でメシ。全く嫌じゃない。
だけど、カレンダー上にマークで表示された次のテリトリーバトルの日付を見て手が止まった。二週間後。バトルの一週間前は連絡を取り合わない習慣になっている左馬刻と会うとしたら、今月はその土日がラストだった。
別に約束してるわけじゃないし、呼ばれたとしても断れる。断っても左馬刻は多分怒らない。俺がいなけりゃいないで他の人間と過ごすだけだ。相手には困ってないだろうし。空けとかなきゃいけない理由なんかない。
ないんだけどなあ。
「……悪ぃ、やめとく」
告げるとニカは先に歩みを再開した。一歩踏み出して、振り向いて、なんてことない様子で「オッケー!じゃあね」と手を振ってそのまま自動改札の向こうの雑踏に消えていった。
一人で引き返す途中。完全に設置完了したポスターの中の自分が物欲しそうなみっともない顔でこちらを見ていた。
テリトリーバトルまであと十日ほどに迫った金曜の夜にこっちから連絡を入れてヨコハマに向かった。
些細な用事を見つけたついでにこっちから約束を取り付けた。
いつもの道をバイクで向かう途中で雨が降り出して、マンションまで本降りになってくれるなよと思っていたら土砂降りになった。最近何かを願うたびに神様に裏切られている。
ヘルメットにガードされていた頭以外ぐっしょり濡れてきれいなエントランスやエレベーターを濡らしながら部屋にたどり着いた。家の中を汚したら掃除するのは家主じゃなくて俺だ。玄関からリビングの左馬刻に声をかけてそのまま風呂場に直行する。
濡れた靴下は洗濯機に投げ込んだ。左馬刻の風呂が済んでいるなら自分の入浴中に洗濯機を回してしまいたい。泊まりの時は洗濯も俺の仕事だからだ。左馬刻は酒を飲むぐらいしかしない。
玄関から続く廊下とリビングの境にあるドアを開けると左馬刻は電話中だった。邪魔にならないよう静かに荷物を置いて、着替えと左馬刻の脱ぎ散らかした衣類を抱えて脱衣所に戻る。洗い物を洗濯機に入れようとして、左馬刻の白いシャツに赤い汚れを見つけた。
返り血だろうか。まさか左馬刻が怪我したわけじゃないだろう。先に落としておかないとシミが残りそうだと思ってシャツを拾い直した。
「……なんだこれ。口紅?」
よく見ると血にしては赤々としている。出血から時間が経った血ってのはもっと黒ずんでいるもんだ。それより鮮やかで、胸元を掠めるみたいにして付着している。
「女ンとこ行った帰りかよ」
今更驚くことでも、悲しむことでもない。よくあることだし女と俺じゃ役割が違う。数ヵ月前ならこんな風に気にすることもなかっただろう。
浮気でも調べる鬱陶しい女みたいにシャツなんか握りしめて、悔しいのに腹が立つより先に何故だか切なくなる。
完全に人生の選択をミスった。女にだらしないヤクザ男のために女の子とのデートまで断って、雨の中バイク転がしてパンツまで濡れて気持ち悪いし、それなのに電話中とはいえチラッと見てそれっきりだ。通話が済んだってそのままソファで煙草でも吹かして俺が風呂から出て行っても労わりなんか一つも口にしないだろう。
それでもまた女の子に誘われるチャンスがあったとしても、きっと断ってしまう。
左馬刻自身に「お前みたいなガキを本気で相手にするつもりはない」って突きつけられるまでずっと妙な期待を抱いて部屋に通ってしまう。
もっとちゃんと恋人みたいに扱ってほしくて。
今夜のベッドは一足飛びで、就寝儀式程度に行われるガキみたいな触れ合いすら飽きて手早く済まそうとしているみたいに感じた。
だって女と寝てきたならすでに十分満足してるだろうし、それでなくても何にもわかってないガキをあやしつけるためにやってるんじゃないかって疑ってる。
それでも相手を好きだと思ったらどこに触られたって嬉しくて苦しい。自分だけ興奮していることに耐え兼ねて下着にかかった手を掴んだ。薄暗闇の中で赤い目が不機嫌そうに細められる。
心臓はばくばくいってるし風呂上がりに穿いたパンツの中はガチガチだしプライドはズタボロで死にそうだ。
もう気持ちが伴わないエッチはしないって宣言して青臭くも潔く出て行くべきだとか、受け身なんか男らしくねぇことはやめにしてガツンとぶつかれとか。頭の中で正しそうな意見が飛び交う中、駅貼りポスターと同じ顔をした俺が首を振る。
これまで何も言い出せなかったからセフレ以下だったんだ。暴言や生活態度への文句ならいくらでも言えるのに。
これまで難しい局面では心の中に兄ちゃんの背中を描いて手本としてきた。だけど男とベッドの中で攻防を繰り広げる兄ちゃんの姿は想像するのを脳が拒否した。それはつまり、この場で一番カッコいい立ち振る舞いがわからないってことだ。
使い物にならない脳みそをフル回転させている間に気の短い男は煮え切らない俺に見切りをつけた。掴んだ手を振りほどこうと揺すられ、離すまいと握りなおす。
ちゃんと言わないと腕の中で眠ることさえできなくなりそうで。
「最後まで、やんないの……?」
「あ?」
瞬間的にわかる。完全にミスった。左馬刻が変な顔をしている。部屋が静かすぎて自分の心臓の音がうるさい。
この反応はつまり、やっぱり今までやろうとしなかったんだから俺相手にそこまでしてやるつもりはなかったってことか。
察しが悪くて悪かったな。駆け引きなんてできないガキなんだから仕方ねぇだろ。これまでガキのちんぽ握って寝てた野郎がふざけんなよ。
様々な罵りを予想して言い返すためのセリフを山ほど用意する。次こそミスらねぇ。黙り込むな。ほら、さっさとなんか言えよクソッ。
「お前は、ヤリてぇのかよ」
やっと返った言葉がそれだ。そういうのは予想してない!
なんだその問いは。抱いてくれって頼めばちゃんと、女にするみたいにやれるってのか。俺が可愛げも何もない男でも。
小馬鹿にしたり突き放したりされるのを想定した脳内反論セリフ集は一瞬のうちにゴミになった。柄になく気遣わしげな左馬刻を見つめて言うべき言葉を持たないまま口だけぱくぱくさせ、顎を引いた。
「言っとくが、俺はケツは貸さねぇぞ」
期待してねぇよ。一ミリぐらいしか期待してない。
余計な確認の後で頬を乾いた手のひらが包んだ。心なしか赤い目が甘く緩む。
思えば最初にこのベッドで寝た日にはずっと背中を向けていて、密着する安心感と引き換えにこの顔が見えなかった。
正面から抱き合うとぴったりと体を重ねることができない。
人間の体のつくりって不便だな、なんて思いながら薄く唇を開いて煙草の匂いの舌を招き入れた。