ご依頼は恋の話1/いちひふ/7969

※5話あたりで突然さまじろ関係を仄めかす描写が挟まります。予めご了承下さい。

 美しい男が──日常的に簡単に口にする“きれい”じゃなく、“美しい”と思う。そんな男がシンプルなデザインのソファにスーツの肘をついて頬杖をついて睦言のような甘さで言う。
 生活感のある部屋の中できっちりキマッたスーツ姿の美形は浮いたが、それでも絵になった。
 芝居の一節みたいだった。可愛らしい女が主人公の。俺には縁がない類の。
「君は恋をしたことがないのかい?」
 物憂げなこの男はきっとたくさんの恋を知っている。ロマンス小説の中の存在だった。

 職業、萬屋社長。
 平たく言えば便利屋。何でも屋。ちょっとした家電の修理に引越しの手伝い、犬の散歩、子守、臨時で荷物の配送、居酒屋の助っ人や短期のボディガード。やれることなら大抵のことは引き受ける。デスクワークはあまり得意じゃないが、まあ自営業だ。多少の事務作業も頼まれりゃやる。
 休みは不定期で依頼のない日が休み。依頼が入ったら営業日に変わる。定期的な仕事は少ないから稼げるときに稼がなきゃならない。
 その貴重な休みの土曜日。まだ学生の弟たちも休みの日だ。たまには兄弟そろって出かけてもいいな、なんて考えながら寝て起きると、すでに上の弟は出かけていた。下の弟も台所で一人分の朝食にラップをかけ、その他の食器を洗うところだった。
「あ、おはようございます。いち兄のご飯まだ温かいのですぐ食べられますよ」
「おう、おはよ。……二郎はもう出たのか」
 台所へ来るまでの間に廊下から見えた玄関にスニーカーがなかった。二郎は家にいる時は常に一足ぐらいは靴を出しっぱなしにしている。
「はい。今さっきですけど。僕もこれを片付けたら出かけるので後お願いできますか?」
「ん、洗濯は?」
「済んでます」
「俺のやることねぇじゃねぇか。またゲームのオフ会か?気を付けてな」
「ありがとうございます。それじゃあ支度して行ってきます」
 シンクにあった食器をすべて洗い終えて水切りかごに並べると末っ子は自室に戻って上着とリュックサックを掴んで出かけて行った。元々二郎に比べ引きこもりがちなところがあったが、最近はGPSを利用したアプリゲームにハマっていて休みのたびに自転車で遠出している。ゲーム仲間もいるらしい。心配もなくはないが、自分の世界を広げているのは良いことだ。
 弟の作ってくれたベーコンエッグとみそ汁で朝食を済まし、皿を洗う。水道を止めると家の中がシンとこだまする気がした。

 やることがない。アニメの録画も一通り見たし読みさしのラノベを一冊読み終えたら次の本に手が伸びなかった。
 何もしていないと尚更家の中の静けさが気になって気が散る。目的はないが、買い物にでも出かけるかと腰を上げた時にちょうど良く電話が鳴った。依頼の電話だ。知らない名前の女で、これから打ち合わせできないかというから二つ返事で向かった。
 依頼人指定の待ち合わせ場所は一駅先の喫茶店だ。マスターが趣味でやっているようなこじんまりした店舗だが三年前頃によく利用していた店だ。懐かしい気持ちで店に入ると最後に来た時から何も変わらない様子のマスターが愛想なく「いらっしゃい」とだけ言う。狭い店内を見回して予め電話口で伝えられていた服装の女を探した。
 頭にオレンジ色のスカーフを巻いた女。依頼人は奥のボックス席で、入り口に背を向けて座っていた。正面に回り込んで名刺を取り出しながら声をかける。
「お待たせしました、萬屋ヤマダ……なんだよ。お前かよ」
 知り合いの女だった。もう丸二年は会っていないが顔に見覚えがある。まだ高校の頃にちょっと付き合いのあったガールズバー勤務の女で、確か二年前に好きな男を追いかけて地方ディビジョンに引っ越したはずだ。
 女の方も喫茶店と変わらず時間経過を感じさせない気安さで「いきなり『なんだ』はないでしょ」と笑う。身なりはかなり落ち着いたが、記憶と変わらない溌溂とした様子だった。
「そりゃ失礼いたしました。で、どんなご依頼で?」
「久しぶりに会ったってのにせっかちね。とりあえず座りなさいよ。コーヒー?コーラ?」
 女はパフェなんか食べている。肩の力が抜けて仕方ないからコーラを注文した。
 一応出しかけの名刺を渡してスツールに深く腰掛け、炭酸を一口啜る。
「今日はどうしたんだよいきなり。電話口で先に言えよ」
「声で分かりなさいよ」
「偽名なんか言われたらわからねぇよ」
 女の苗字は巻だったはずだが、電話では西浦と名乗っていた。
「ああ、それね。偽名じゃなくて旦那の苗字。例の男と結婚したの。今離婚裁判中でね、まだギリギリ西浦なのよ」
 軽い調子で顔の前で手を振る。その爪にはかつては派手なつけ爪が輝いていた。今は短く切りそろえられた自前の爪にシンプルにマニキュアが塗られているばかりだ。
「それじゃあその件で依頼を?」
 離婚を有利にするための興信所代わりの依頼は時々ある。
「違う違う。自分のことは自分でやれるわ。このご時世じゃ元から男の方が不利だしね」
「そりゃそうだろうが……離婚成立したら今度こそ中王区に行くのか?」
 H歴元年、女性だけの街が完成し、一般の移住支援が始まった当時。ガールズバーで働いていた巻は中王区への移住を強く希望していた。一時期は客の男からストーカー被害にも遭っていたし、当然すぐにでも中王区に引っ越すのかと思っていたら、ある日突然好きな男を追って遠くに行くと言いだした。行動力のある女で、本当に仕事や家を捨ててどこかに行ってしまった。
 結局惚れた男とも別れるんだから最早壁の外に未練もないだろう。中王区そのものは男の立場からすれば到底認められるものじゃないが、男のせいで苦労している女が安心して暮らせる場所を求める気持ちは否定しない。
 だけど女はこれもあっさり首を横に振った。
「中王区には行かない。子供がいるの、小学生の双子の男の子」
「へぇ、どおりで落ち着いた……小学生?」
「もちろん旦那の連れ子よ。父子家庭でひどい暮らししてたからしばらく面倒見てたけど、別れたらまた元の生活に逆戻りでしょ?その為の親権と養育費で争ってるわけ」
 驚いて黙る俺を笑って彼女は「あのあたしが!ビックリでしょ?」と自分を指さした。
「お陰で毎日大変なのよ。子供らは父親より懐いてくれてるけど、学校の宿題はやらないし、家の外でも中でも喧嘩ばっかしてるし、週一で担任の先生から仕事中でも電話きてさあ、やれ怪我しただのさせただの。男って小さいころから面倒くさいのね」
 身に覚えのある話ばっかりだ。自分もそうだったし弟も、大人しい三郎はともかく、二郎は勉強が苦手で友達との喧嘩も多かった。同時に小学校にいた時は兄弟揃って身を寄せていた施設に連絡する前に自分を呼んでくれと先生に頼み込んで代わりに謝りに行っていた。弟のしでかしたことは兄である自分が背負うべきだと思って。いくらか大きくなると二郎もクラブ活動に夢中になって余計な喧嘩は減ったが、今度は自分が問題児になった。いや、元から二郎のことを言えないクソガキだったけど、小学生の小競り合いとは比べ物にならないぐらい面倒なことをやり始めた。
 施設や学校で見かける他の男子には末弟のようにおとなしいタイプもたくさんいたし男みんながヤンチャってわけじゃなかったけど、所謂不良仲間には複雑な家庭の子供が多かった。当時も、今もまだ世の中は戦後の社会だ。
 H歴が始まる数年前から現政権が力をつけ、女子を対象にした手厚い支援を行ったために現在は全体としてはずいぶんマシになったが、男は相変わらずか相対的に生き辛くなっている。うちは男ばかりの兄弟だから尚更、生活は楽じゃない。
 彼女の双子は男だけど、これからの人生に母親という成人した保護者がいる。自分たちだけのことを考えて守ってくれる。それはとても恵まれた環境に見えた。彼女は世渡りの上手いタイプじゃないが見た目よりもずっと真面目で懐の広い女だった。
「いいことを教えてやろうか。高校生になっても毎日兄弟喧嘩して勉強さぼって毎日怒鳴る羽目になるぜ」
「やめてよ。ママ友にも同じこと言われたわ!」
 おや、一丁前にママ友なんてのもいるのか。露出の多い派手な服で深夜まで遊び歩いていた頃が嘘みたいだ。
 昔と変わらない遠慮なさでゲラゲラ笑って一息つき、アイスがだいぶ溶けたパフェをつつく。まだほんの二年程なのに色んなことが変わった。
「一郎は兄弟で暮らしてるんだっけ。弟君たちのお父さんしてるの?下の子もそろそろ中卒でしょ」
「三郎はこの春で中三、二郎が高三だよ」
「なら十分大人じゃないの。手が離れる頃じゃない?」
 二人とも確かに大きくなった。家のことは炊事でもなんでも任せられるし二郎は時々バイトもしている。泊りがけの依頼があっても心配なく留守にできるし、テリトリーバトルでもよくやってくれてる。だけど施設を出て独立するために弟たちから離れていた時期の反動か、つい最近まで俺にべったりだった。休みが合えば一つのソファに一緒に座りたがって、まだまだガキなんだとばっかり思っていた。やっと二十歳の俺がそう思うのもおかしいかもしれないが。
 朝からそれぞれ出かけて行った弟たちのことやがらんとした家のことを思い出す。
「……そうかもな」
「何よ、浮かない顔して。いいじゃないの。アンタ昔から弟のために頑張ってたんだから、そろそろ自分のために時間使いなさいよ」
 そんなの急に言われたって困る。一人でテレビを見ていても弟たちの好きそうな番組をみつけては録画して、買い物に行けば安い肉を三人分買い込み。年間予定を確認してはプリント配布日に当たりをつけて弟の部屋のごみ箱から保護者面談のプリントを拾い上げる。二郎に至っては妙に気を遣って絶対にプリントを持ち帰らないから、連絡先の分かる同級生に根回ししている。高校にもなると保護者の出番は少ないけど、二人とも俺の負担を減らそうとしているきらいがあった。
 そんな気遣いや普段の言動から弟二人とも当分兄離れはないと思っていた。でももう数年でそれぞれ大人になる。それを思えば相手は誰であれ、家の外の世界を広げていることは喜ばしいことだ。保護者としては。
「いや、三郎はまだ中学だしいいさ。この生活に慣れたら昔みたいに遊ぶ気にもなんねぇし。アンタもそうだろ?」
「まぁね、うちはまだまだこれからだから。でもねぇ、そういうことじゃなくて、一郎はまだ若いんだから弟以外の楽しみも見つけなよってことよ。カノジョとかいないわけ?」
「アンタ知ってんだろ、弟が喧嘩で怪我したからってデートほったらかしで帰って振られた話」
「昔のことでしょ。もっと心広い子探しなさいよ」
「今は仕事と家のことで手一杯なんだよ。無理に欲しいとも思わねぇし。この話はここでおしまいだ。そろそろ依頼の内容を教えてくれ」
 パンッと両手を打って話題を打ち切った。これは打ち合わせだ。同窓会じゃない。
 まだ不満そうながら空にしたパフェグラスをテーブルの端に除けて依頼の話が始まった。
「あたしの友達にね、ホストにハマっちゃって借金までしてる子がいるの」
「闇金か」
「街金に手を出してるのは知ってるけど、そこまでかどうかはわかんないな……」
 ないとも言い切れないらしい。今は大丈夫でものめり込んだら危ない方向にしか転がれないだろう。闇金まで落ちたらどんな取り立てに遭うことか。
「あたしも説得したけど、もう生き甲斐みたいになっちゃっててダメなの」
「それじゃあ俺が説得してもダメじゃねぇか。ヒプノシスマイクでどうこうってのは、この手の話は専門外だぜ」
「説得して欲しいのは友達の方じゃなくてホストの方。入れ込んでるホストに友達を説得して欲しくてね」
 そういうことか。その男の名前を思い浮かべながら尋ねる。
「その、相手のホストってのは?」
「麻天狼の伊弉冉一二三」

 マンションの部屋の玄関扉を開けて出迎えた男はキラキラした髪をきっちり整え、スーツ姿で上品な笑顔を浮かべていた。
 エントランスでコールした時には語尾に星が飛ぶような軽いノリだったからギャップに驚いた。二面性があるのは初回テリトリーバトルから知っているとしても、エレベータで上がってくる束の間に何があったのかとさえ思う。
「待ってたよ、一郎くん。さぁ、上がってくれたまえ」
 エントランスではいっちんとか呼ばれていたはずだがこの通りだ。改めて変わった奴だと思いながら部屋に上がる。リビングダイニングまでの間に個室の扉がいくつかあった。ファミリー向けの間取りだからトータルの床面積は広そうだが、リビングダイニングそのものは予想したよりは広くない。歌舞伎町で一番稼いでいる男としては質素といえる。
 シンプルなラグの上にシンプルなガラスのローテーブル。サイズも大きくはない。ソファはゆったりしたサイズの二人がけ。
 カウンターの向こうに見えるキッチンは綺麗に整頓されていた。落ち着いていて行き届いた部屋だ。
 一二三に促され、ソファが一つしかないのでラグの上に腰を下ろすと、ホスト男は冷蔵庫から取り出したドリンクボトルからグラスにお茶を注いで持ってきた。ごく普通の麦茶だった。上等なスーツとそれに負けない美貌の隙のない男がスーパーで三十パック入り数百円の水出し麦茶を作って飲んでいる。さすがに客と同じようにラグには座らずソファに腰掛けて足を組んだが、部屋のインテリアと釣り合いはとれていなかった。多分、中王区に入る前に出会ったラフな一二三ならこの部屋も麦茶もしっくりくるんだろう。
 狐につままれたような心地で尋ねる。
「今日、これから仕事なんすか?」
 スーツ姿の一二三は親しみやすい表情の下に相応の貫禄がある。こちらの仕事の都合で応対してもらっていることも考えて敬語を使った。歳もこちらの方が十も下だ。
「いや、休みだよ。でもキミはホストの伊奘冉一二三に会いにきたんだろう?」
 確かにそうだが、記憶ごと人格が切り替わるわけじゃないならどんな格好でも同じように話ができるんじゃないのか。不思議な気持ちで、それでも拘るべき部分ではないと思って頷くに留めた。
 依頼主との打ち合わせした翌日の昼だ。早めに動いて欲しいというオーダーを受け、すぐにシンジュクの神宮寺寂雷経由で連絡を取り付けた。
 直接メッセージのやりとりを始めた一二三に翌日が休みだと言われてやってきたのだ。
 こちらの仕事に協力してもらう以上きちんと頭を下げるのが筋だと思って会ってから詳細を話す約束だった。
 ソファの肘置きで頬杖をつく一二三と目を合わせて説明する。ただソファに座っているという、それだけの姿が美しい人だった。
「一二三さんの客にいる広神アスミという女性に、もう店に来ないよう言ってもらえませんか」
「藪から棒な話だね」
 言葉とは裏腹に全く驚いた様子はない。微笑みのまま目を細めた表情からは感情が読み取れない。賑やかな方の一二三を想定していたからやり辛さを覚える。
「彼女の友人が俺の依頼人で、ホスト通いのために街金に手を出してる彼女をなんとかしたいんすよ。依頼人が説得してもダメだった。でもアンタなら彼女の気持ちを動かせるだろうって」
 聞くところによれば、一二三は過去に自分を刺した客さえも救おうとしたらしい。客を金づると思っているわけでないのなら頷いてくれると思っていた。だけど、
「その頼みは聞けないよ」
 一ミリも顔色を変えずにノーを突きつけられる。
「それは、店のルールとかって話っすか」
「いいや、僕の考えからさ。彼女の経済状況のことは薄々察していたから無理な借金や危ない真似をしないようにとは言っておくよ」
 察していたなら何でもっと早くに手を打ってやらなかった。親友の説得にも応じなかった女が、そんな言葉で素直にやめるとでも思っているのか。
 周りから聞く一二三のイメージや私服の時の人懐っこい印象からもっと人情味のある人間だと思っていたのに。
 無意識に眉間に力が入る。
「待てよ。客とはいえアンタに惚れ込んでる女だろ。そんなヌルいこと言ってる間に身を滅ぼしても自業自得だとでも言うつもりか?」
「そんなことは言ってないさ。僕だって彼女を救いたいに決まってる」
「でも客を手放す気はねぇってか。アンタほどのホストなら借金しなきゃ通えない懐事情の女一人切っても大した痛手にゃなんねぇだろうが」
 売上のためか、一人でも多く指名客をキープしておきたいのか。救いたいなんて言葉が上辺だけのように響いた。
 一二三があからさまに息を吐くと尚更癇に障る。ただ、徹底してコントロールされた微笑みは消えた。
「一郎くんは彼女がどんなに精神的に参っているか知っているのかい?僕は今の彼女の拠り所なんだ。急に突き放すわけにはいかない」
「高い金払わなきゃ会えないんだから仕方ねぇだろ」
「そうだね。だからあまり店で散財させないようにするよ。残念ながら彼女だけ特別にプライベートで会ってあげることはできないから」
 あくまで来店はさせるつもりだ。最低限のセット料金だけでも結構な出費になる。来店頻度によっては借金が膨らむのは目に見えていた。
 広神は高給取りというわけでもない、若いOLだ。同い年の男に比べればマシだろうが、月に何度もホスト通いをしていて借金が返せるような収入はない。困窮した女性に対する様々な支援が用意された現代でも、自業自得と言える散財で借金苦に陥った女を助けるような制度はなかった。
 彼女が一二三に依存した状態なのは誰の目にも明らかだ。アルコール依存症から酒を取り上げるのと同じように一二三と引き離すことが彼女のためだ。来店を続ける限り、依存状態は改善しないだろう。
 そこまでわかっているだろうに。
 憤りを押し殺して髪を掻きむしっていると、一二三が吐息で笑う気配がして顔を上げた。なんだか馬鹿にされた気がして。
「なんすか」
「いや、……一郎くん。君は恋をしたことがないのかい?」
 やっぱりだ。馬鹿にしているとしか思えない。答える代わりに鼻を鳴らすと「からかってるわけじゃない」とだけフォローが入る。信じられない。
「彼女は僕に恋をしてる。彼女だけじゃなく、僕のプリンセスたちはみんなそうだ」
「だから会わないわけにはいかないって?」
「会えない時間に辛いことがあっても、次に僕と会う時のために頑張れる。そう思って日々をやり過ごしてる。お店に来れば限られた時間でも確実にその気持ちが満たされる。僕はその辺の男みたいに自分の気分で彼女を悲しませたりしないからね」
 ホストクラブは夢の国だ。金さえ払えばこんな人形みたいに美しい男に恋人みたいに扱ってもらえる。金がなくなればその門は閉じ、夢の代償として不幸になる女もいる。愛だ恋だというきれいごとだけで片付く世界じゃない。
「僕に会うために日々を暮らしているのに、一方的に突き放すことはできないよ」
 ただの言い訳だ。広神がどんなに一二三を愛したって首が回らなくなったら養ってくれるわけじゃない。金は生活そのものだ。それが裕福なこの男にはわかってない。
「…………はぁ。もういいっす」
「ご期待に添えなくてすまないね」
 ほとんど嵩の減っていないグラスを置いて立ち上がった。一二三も律義に玄関まで見送りについてくる。
 スニーカーを履くと不承不承頭を下げる。
「お邪魔しました。……また交渉しに来ますんで」
 一度受けた依頼はちょっとやそっと上手くいかなくたって放り投げるわけにはいかない。
「そうかい。いつでも待ってるよ、一郎くん」
 社交辞令をそうと思わせないような甘い顔で口にする。この調子じゃ彼女のことはどうにもならないだろう。
 扉が閉まるまでずっと向けられていた優しげな微笑みは人を遠ざけることを知らないみたいだった。