キッチンに貼ってあるカレンダーには赤と緑のペンで休みが書き込まれている。同居人と生活時間がすれ違いがちだから休みの日と、同居人の出張日、朝から釣りに行く日なんかをメモして共有する。
去年まではお互い休みの印ばかりで、たまに俺の遊びのスケジュールが書き込まれる程度だった。同居人の生活は仕事一色で、貴重な休みは俺が買い物にでも誘わなけりゃ一日寝て過ごしていた。
カレンダーの今日の日付には二色のペンで丸がついている。二人とも休みだ。でも数字の脇には赤色で帰宅時間も書かれていた。
テリトリーバトルが始まってしばらくしてから、それまで地味に暮らしていた同居人の生活が変わった。周囲の人間が好意的に声をかけてくるようになった。現金なもんだ。ステージに立った途端見る目が変わって、顔を繋ぎたい連中が休みやアフターファイブの予定を尋ねてくるようになった。
最初は断り切れずに休日を潰す羽目になって、面白くもないBBQやゴルフや飲み会に駆り出されていたけど、それから更に時間が経ったらその波も落ち着いて、あまり無理せず付き合える人間だけが残った。同居人に自覚があるかは分からないけど、世間じゃそれを友達と呼ぶ。
家と職場を往復していた頃に比べてずいぶん充実しているみたいだ。
プライベートの用事から同居人が帰ってきたら笑顔で出迎えて楽しかったか尋ねる。同居人は長年の習慣により顔面の筋肉が凝り固まっていて素直に笑ったりしないけど、景気の悪い表情のままで「疲れたけど悪くなかった」とか煮え切らないことを言う。
テリトリーバトルに出場する代表同士でも付き合いができたから、そうした環境の変化への戸惑いを口にすることもできる。
今日だってきっと嫌々出かけたわけじゃない。
良かったな、独歩。
暇になってしまった休日に予定を作るため、俺は携帯のメッセージアプリを開いた。
◇
「一二三さーん、客布団俺の部屋に用意しましたけどいっすか?」
賑やかなリビングに戻ると背中を丸めてゲームに熱中する頭が三つ。内二つが素早く顔を上げる。
「えーっ、いち兄の部屋に泊まらせるんですか?!」
「リビングで十分だよ兄ちゃん!」
一言ずつ叫んですぐ画面に視線を戻す。対戦ゲームは一瞬の油断が命取りだ。
「こら、お前達。お客さんに失礼だぞ。それにここじゃ寝づらいだろ」
床に座り込んでいる三人に近づいて見下ろす。弟たちが組んで二対一の勝負をしていた。当然人数の足りない一二三の方が不利だったけど、画面から顔を上げずに言う。
「おれっちならどこでもいーって。なんならこの間みたいに一緒のベッドでも……」
「えっ」
「ハァ?!」
弟たちの手が完全に止まって二人揃って俺を見上げ、一二三と見比べる間に手元でそれぞれダメージ音が響いた。
「隙あり!よっしゃー勝ったー!」
「あっくそっ!」
二人の画面にリスポーンまでの待機時間が表示され、一秒ずつカウントされる。ゲームの残り時間はそれより少ない。つまりタイムアップを前にして一二三の勝利が決まった。
「それより一緒のベッドってどういうことだよ?!」
さっさゲームを投げ出した三郎が身を乗り出して一二三に迫る。追求してくれるな、答えてくれるなという願いは虚しく、呑気にいともあっさりと先日の失態が暴かれる。他の誰に話してもいいから弟たちには聞かせたくなかった。弟の尊敬心が目減りするのを見たくはない。
「えー、こないだいっちんが店の手伝い来てくれた夜に遅かったからうちに泊めて、おれっちのベッド広いからそのまんま寝かしといたらさぁ」
「一二三さんちょっと」
「泊まったの忘れてたみたいで起きてびっくりしてベッドから落ちて……んんっ」
手で口を塞いで物理的にストップをかけた。もう遅かったけど。
弟たちはゲームに負けたより深いショックで言葉を失っている。
「一二三さん……もう勘弁してくださいよ」
「んーんんんんんんんんんんんん」
手の下で何を言ってるかは分からないが素直に了解したわけではなさそうだ。
余計なことを言う口を塞いでも一二三の話は少しの誇張もなかった。訂正できる点がない。
そのうちしてゲームのリザルト画面が終わり、いち早く二郎のフリーズも解ける。
「分かったよ兄ちゃん」
「何がだよ」
「コイツには俺の部屋を貸すから俺が兄ちゃんの部屋で」
「ズルいぞ二郎!!」
すかさず三郎が割って入る。
「二郎の部屋は汚いので僕の部屋を伊奘冉さんにお貸しします!」
「三郎ォ!!」
客がいてもおかまいなしで兄弟喧嘩が始まった。コイツらはいつもこうだ。深くため息をついて止めようと一二三から手を離すと、
「そんじゃあコレで決めようぜ!」
弟たちの頭に拳骨が落ちる前に一二三がゲーム機を掲げた。
「一番になったヤツの部屋でおれっちが寝るってことで、ほい」
一二三が手にしていたゲーム機をこっちに押し付けてくる。どうも勝負のメンバーに俺も入っているらしい。ゲーム機自体は元々俺のものだったけど。うちは兄弟三人とも自分の小遣いで同じゲーム機を買ったから三台ある。
「俺が勝ったらどうするんすか?」
「言ったっしょ?一番になったヤツの部屋で寝るってさ」
つまり俺は一緒の部屋で一二三に寝てもらうために戦うってことだ。
「オイオイ、なんで兄ちゃんがテメェと寝る権利を勝ち取らなきゃなんねんだよ」
「おい、語弊のある言い方はやめろ」
「あっれー?弟くんたちはお兄ちゃんにも勝てねー感じ?」
「ふんっ、安い挑発だけど受けてやるよ…僕の部屋で寝る覚悟を決めておけよな!」
「ふざけんな三郎!兄ちゃん、悪いけど勝たせてもらうよ!」
あっという間にやる気を出してゲームの装備チェックを始めた。仕方なくソファに腰を下ろすと一二三が横に座って俺の画面を覗き込む。
「いっちんはどーすんの?」
「何がっすか」
「たまには弟と寝たいかなー?ってさ」
「たとえゲームでもやるとなりゃ勝つに決まってんだろ」
ゲームの操作設定の調整を済ませて決定ボタンを押す。狙い通りに兄弟三人の真剣勝負がセッティングできて一二三は満足そうだ。
ギャラリーがいれば尚更ダサい試合はできない。ゲーム機にヘッドフォンを繋いでスタートのカウントダウンを待つ。
バトルスタートしたらゲーム機の音だけが部屋に響いた。無言だ。本気の勝負になると二郎も三郎も集中して余計なことを言わなくなる。
ヘッドフォンの耳元ではバトルBGMに混じって微かな接近音がする。その方向を見極め、遮蔽物を利用して狙い撃つと三郎が「クソッ」と声を漏らした。
大抵こうして兄弟で勝負する時は四セットくらいやる。一回目を俺の勝利で終えた二セット目の途中で携帯が鳴った。俺の携帯なら仕事の可能性があるから無視できなかったが、今回は二郎の携帯だった。
しつこく鳴り響く着信音を無視し続けた二郎はリスポーンされたタイミングでほんの一瞬ディスプレイを見て、着信相手を確認した途端に携帯をとった。ダメージを受けてリスポーンされると一度行動不能になったプレイヤーは数秒でスタート地点から再び戦場に解き放たれる。だけど二郎はゲーム機を一二三に押し付けて携帯片手に立ち上がった。
「ごめん、交代してくれ!」
「おけまるー」
「兄ちゃんごめん!」
それに返事をする前に自室にこもってしまったから何も言えない。俺たちはまだゲームを続けていたし、電話の相手には心当たりがあった。
間も無くしてゲームのタイムアップとほぼ同時に二郎が部屋から飛び出して、リビングは素通りで玄関に走っていく。
「ちょっと出掛けてくる。明日の昼までには帰るから!」
廊下の方から声だけ張り上げる。
リザルト画面が表示されたゲーム機を置いて一人で玄関に向かった。三郎は黙りこくって顔も上げない。
玄関扉を開けた二郎が気まずそうに振り返る。扉の隙間から外の雨の匂いが入り込んできた。
「今日はもう遅ぇだろ。雨も降ってる。明日じゃダメなのか?」
二郎の小脇にはバイクのメットがあった。
「ごめん、兄ちゃん。今行かないと。……別に、呼びつけられたわけじゃねーんだけど……気をつけて行くから。いってきます」
目の前で扉が閉まる。強く止められもしないくせに、外から微かにバイクのエンジン音がするまでそこに居て、音が遠ざかってから施錠した。
結局トータルで勝った俺の部屋に一二三はやってきた。三郎は二郎の寝床が空いてるって主張したが勝負は勝負だ。と一二三が言って部屋にやってきた。リビングにソファもあるが夜中にもし二郎が帰ったりすると物音や明かりで起こしてしまうからなし。それでなくてもリビングは通り側に面していて日によってはうるさい。
渋る三郎を見送って一二三に背中を押されて部屋に引っ込むと、賑やかにしていたテンションを少し収めて尋ねられた。
「聞いていいか分かんねーけど、さっきのじろちんの電話さ、名前見えちったんだけど……」
わざわざ気遣わしげに言われるのには理由がある。俺にも心当たりがある。
ブクロの番犬と呼ばれる山田二郎が懇意にするには似つかわしくない相手からの電話だったからだ。
ベッドの端に腰掛けて髪を掻きむしって、深く息を吐く。その足元に敷かれた客用布団に胡座をかいた一二三が見上げると、俯く俺とちょうど目が合った。
「……見ての通り、個人的に付き合いがあるみたいっすよ」
自分の耳にすら拗ねたように聞こえたけど他に言いようがなかった。弟の交友関係を自分の都合で縛りたくないが、詳しく聞けば口を挟みたくなってしまうし、二郎も進んで説明したがらないから詳しいことは知らない。確信めいたことは何も。
あまり突っ込んでくれるなと思うのに、こっちの一二三は人懐っこさが過ぎて少し無遠慮なところがある。
「ふーん。大好きな兄ちゃんを放り出して深夜に会いに走るような付き合いねぇ」
はっきり言葉にされると向き合いたくない事実と向き合わねばならなくなる。不愉快が素直に顔に出た。それにめげることなく一二三は、むしろ労わるような優しげな目をして膝立ちで腰を浮かした。
「アオハルだなぁ」
手が伸びてくるから、優しく頭を撫でられるのかと思った。束の間、体の奥のどこかがふわりとする。
でも実際には頭を荒く掻き乱されて曖昧な感覚は幻みたいに吹き飛んだ。
「ちょ、毛が抜けるッ!」
「まだ若いし脱色もしてないしヘーキヘーキ」
金髪の三十路に言われると変なリアルさがあるが一二三の頭はふわふわの犬みたいだ。
遠慮のない手を捕まえて止め見上げると保護者みたいな眼差しとぶつかった。
「いっちんさ、本気で止めたら行かせないこともできたんじゃねーの?」
「……二郎はもう十八だ。俺の過去を見てきてそれでも行くってアイツが自分で決めたんだ」
「そっか」
一二三は微笑んだけど、褒める言葉も、愚かだと諭すような台詞もなかった。
◇
家からすぐそこの商店街に向かう途中だった。
見知らぬキャップの若い男が背後から歩調を合わせてついてくる。一区画歩いて、他に人がいなくなったのを確認して距離を詰めてきた。
「どうも、山田一郎さんですよね」
こっちが気づいているのも承知の上。無視しても勝手に話を続ける。
「ちょっとお話を伺いたいんですが……弟さんのことで」
弟と言われて横目で男の風体を確認する。地味なジャケット姿で胸ポケットが膨らんでいる。ボイスレコーダーだ。
こういう手合いは話をしなくても、コメントしなかったという情報を持って帰って面白おかしく記事を作る。辟易しながら目的地の手前で足を止めた。目で要件を促すといけ好かない愛想笑いで懐から写真を撮りだす。
どこかのマンションに入る二郎が写されていた。それだけじゃ誰の住居かわからないが凡その察しはつく。
「お兄さんならご存知かと思うんですけどね、最近二郎くんがヨコハマディビジョンによく出入りしてるとか」
「アイツはシブヤにもシンジュクにも出入りしてるでしょ」
「相手はバスターブロスの宿敵ですよ?」
ここで二郎の行動を把握していると認めれば「兄公認」、知らなかったと言えば「秘密の逢瀬」ってところか。些細な一言を拡大解釈して大げさに煽る魂胆だ。そんなことは百も承知だったが、要件がコレなら大した問題にはならない。
「アンタ、あっちのコメントとれねぇから俺ンとこに来たんだろ」
ニヤケ面が嫌そうに歪む。同じテリトリーバトルの代表でも向こうは気軽に声を掛けられるような人種じゃない。それに引き換え、何の後ろ盾もない未成年なら扱いやすいと踏んだんだろうが、こっちもそんなに馬鹿じゃない。
「悪いが無駄足だぜ。どんな記事を書こうがアイツは握りつぶすだけのパイプ持ってっからな。そういうのをアンタの上司は教えてくれねぇのか?」
テリトリーバトルの代表MCは今や超有名人。イベントとして行われるバトル結果は中王区外の地区の政治にも関わる都合で老若男女問わず注目度が高い。そのくせ政府は俺たち男の各種権利を保護する気がなく、それぞれ芸能事務所の所属でもないから煩雑なことが多い。くだらないゴシップ記事もその一つだが、ヤクザであるヨコハマの碧棺左馬刻や警察官の入間銃兎はそうした記事を潰すだけのコネクションを持っている。シブヤの飴村乱数も何らかのコネがあるのか上手くやっているし、シンジュクの神宮寺寂雷はネタにされるような隙がない。
その他の代表はつまらないことで何度か記事を書かれているが、今のところはみんな大騒ぎには至っていない。ここらで派手な記事をぶち上げたい若い記者が脇の甘い二郎を追ってネタを見つけたってところだろうが。
「嘘だと思うならその写真持って上に確かめてみな。まだ話し足りないっつーのならそれからだ」
それだけ告げて立ち去る。足音はついてこなかった。
◇
無言で切られた電話の終話画面を見つめて深くため息をついた。
いたずら電話だ。仕事の依頼は電話かメールか人の紹介で受けているから、テリトリーバトルが始まった後も仕事用の電話番号は隠したりしなかった。当然有名になればなるほどいたずら電話も増えて非通知は着信拒否にした。公衆電話も拒否設定すべきかどうか今悩んでいるところだ。
最近公衆電話からの無言電話が続いていた。メールでの依頼も二、三通やりとりしてキャンセルになることが続いていて本業がいまいち捗らない。
これまでに優勝した際のテリトリーバトルの賞金は残っているとしても、あまりそればかりアテにしたくなかった。
ミュージシャンとして成功したならそれで食って行く気にもなっただろうが、いつ終わるともしれないバトルの賞金というのはあぶく銭だ。何があってもなくても安定して稼げるに越したことはない。
「ならまたうちの店でバイトする?いっちん来るならオタ姫に言っとくし」
昼食の炒飯を食べながら気軽にホスト業に勧誘される。過去に一度手伝ったから、俺が行くと言えば出勤が決まるのはあっという間だが、
「俺はやっぱ向いてねぇし、続ける気もねぇのにうろちょろすんのは真面目に頑張ってる人に失礼っすよ」
「真面目だねぇ」
一二三が良くてもスタッフの中にはよく思わない人間もいるだろう。全く売れる見込みがなければまだいいが、ラッパーとして名が売れているせいで接客スキルの低さに反してウケは良かった。
「じゃあさ、おれっちから依頼したいことがあんだけど」
「店のヘルプ以外で?」
「そ!買い物の付き添い兼、運転手兼、荷物待ち」
箸でつまんだカリカリの餃子を口に押し込んで首を傾げる。
「消耗品とか色々買いたかったんだけど最近あんま私用の外出できなくってさ、ちっとデカイショッピングモールまで連れてって欲しいんだよな」
「そんなの依頼じゃなく普通に一緒に行くよ。俺も家の買い物するし」
「いや、きっと迷惑かけっからさ。ボディガードっつーか……」
何か違和感を覚えてほとんど終わりかけの食事の手を止める。一二三の背後のソファでバイブ音と共に携帯のディスプレイが点灯した。マナーモードになっているが、メッセージ受信した通知だ。携帯を捉えた視野の端で一二三がゆっくりと振り向き、一度こちらに「ごめん」と笑いかけて手に取った。一二三との昼食ではよくあることだった。
メッセージの相手は客の女だ。ホスト通いのために借金を重ねて、今は返済するまでは携帯でのやりとりで我慢する約束で来店回数を減らしている。
通知画面だけで既読マークをつけないようメッセージの冒頭文を確認し携帯を置きなおし、一二三は何事もなかったかのようにスプーンで炒飯を掬った。多めに頬張って嫌な緊張で濁った内面をリセットしようとしている。女性恐怖症もメッセージを読む程度なら平気らしいが、それにしたって彼女からのメッセージは重い。誰だって気が滅入る。
「ボディガードって、まさかあの女ストーカーみたいな真似してんのか」
咀嚼しながら眉尻を下げて首を傾げた。分からないってポーズじゃなく、イエスともノーとも言い難いように受け取った。
「店で会えないからって……」
「ちょっと仄めかされただけでまだなんもされてねーよ」
「それって時間の問題じゃねーか」
一二三の軽い口調は本当に気にも留めていないように聞こえる。でも本当に何とも思っていないならボディガードなんて単語は出てこないんじゃないか。
スーツを着ていない時の一二三は明るくて気さくで十歳の年の差を感じさせず、人懐っこい犬みたいに開けっ広げな人間、だと思っていた。
「心配すんなって、な!」
ホストの顔とは違う笑い方なのに、深いトラウマに蓋をして女を魅了する時の微笑みと似た壁がある。柔らかな表面に手を突っ込んでも本当の中身に触れることができない。きれいな仮面だ。
「ホントにダイジョブだからさ、ンな顔すんなよー。ボディガードってのも、前みたいに不意打ちで女と鉢合わせてビビっちゃうかもってだけだって!」
ささくれ一つない人差し指で眉間をつつかれても刻まれたシワは解けない。辛いのは俺じゃなくて一二三の方だ。自分の不甲斐なさにどうしようもなく腹が立つ。
「……すんません」
「えー……、ガチへこみじゃん。暗い顔してっと独歩みたいになっちまうぜ?」
「最初にここで話した時、俺は全然考えが足りてなくて結局アンタに全部投げっぱなしにしようとしただけだった」
「そんなことないっしょ。いっちん、先生ンとこにもちょくちょく来て何かやってるって聞いたし」
平坦な世間話の口調でマメにフォローしてくれる一二三の言葉尻に被るようにして迷っていた話を切り出す。
「依頼主から広神の家の事情聞きました」
平らげた皿に箸を置いて食事を続ける一二三に体ごと向き直る。あまり見つめると茶化されるから視線は皿に向けた。
「あんま言いふらしたくないつって詳しくは聞けなかったけど、彼女は男が苦手だったって」
「うん。過去形じゃなくて今も俺以外苦手つって、店でもヘルプなし。シャンパン入れてくれたこともあったけどコールもなし」
元から一二三ほどのホストにとっては細い客だったんだろう。酒で売り上げを稼ぐのに席につくのが一二三だけ。退席中のヘルプもなしでは、高価なボトルでも入れない限り大した売り上げにはならない。話に聞く限りでは資金力以前に一人で豪遊する性格でもない。
彼女の家は昔から父と折り合いが悪く、だからといって独り暮らしも許されない。進学も就職も父親がダメだと言えば諦めて生きてきた。高校からの友人である依頼人も彼女のことを気にかけてきたが、一年ほど前に急に明るくなって服や化粧にも金をかけるようになった。一二三っていう生き甲斐を見つけたからだ。
「そこまで男嫌いなのになんだってホストクラブに?」
「最初会ったのは店じゃなくてさ、街中で彼女が困ってるところをちょこっと助けたのがきっかけ。たまたまスーツ着てたおかげと、ほら、俺っち有名人っしょ?全く知らない男ってわけじゃなかったし、助けついでにちょっと喋ってたら気に入られて店に来てくれるようになってさ。いつもはお客さんにはあんま言わないんだけど、俺もスーツ着てないと女の子苦手なんだよねっていう話したら親近感持ってくれたりして」
以前見た、一二三の携帯に届いていた彼女からのメッセージを思い出す。『一二三は私と一緒だから』『同じだから分かってるよ』なんて文言があったような気がする。その時はただただ好意を押し付けているものだと思っていたけど、今思えば異性への苦手意識の話だったんだろう。
「それでアンタと会うと家や職場への不安や不満も我慢できるって?」
「そゆこと。まぁ、そういうのは彼女だけじゃねぇけどさ。他のお客さんに比べてもしんどそうではあったかな」
やっと空になった皿にスプーンが置かれる。俺が黙り込んだせいでその硬質な音がやけに耳についた。
「……この話聞いてあの子の来店許す気になったりなんかした?」
「それはねぇよ」
即答だ。尋ねた一二三も分かってる。
「現状が苦しくても借金続けてたら新しい地獄を見るだけだ。それを俺は知ってる」
「んだな」
頷いて皿を集めた一二三が立ち上がる背後でまた携帯がメッセージ受信を報せた。それに手を伸ばそうとする手を掴む。
驚いたような目をしたのは束の間で、手の中で白い手がするりと回って、一瞬だけ握手みたいに握り返して、俺の手の中からすり抜けていった。携帯は拾わなかった。
皿をキッチンに運んで戻り際、壁に掛けられたカレンダーの前で一二三は足を止めた。この部屋のキッチンに立つとよく見える位置に設置されたそれには二色のペンで予定が書きこまれている。今月は赤ペンの書き込みの方が若干多かった。
湿り気の残る指がカレンダーの上を滑って緑色で丸のついた日付を確かめる。
「いっちん次の日曜は?」
「買い物っすか」
「息抜きだって。最近は独歩も忙しくてあんま一緒に行ってくれねーしさ。ダメ?」
夜ごとシンジュクに集まる女たちを魅了する端正な顔に花を咲かせて頼まれたら断れない。空っぽの手を胡坐をかいた膝の上で緩く握りこんで、数秒の迷った末に答えた。
「依頼じゃなくてプライベートなら」
◇
レジ袋サイズ外の大きな狼がカートからはみ出している。その横には組み立て式のラックの箱。洗剤なんかの日用品も隙間に入っている。大した荷物だ。
荷物持ちを頼まれた時には漫画で見かける女の買い物みたいに服屋の紙袋を担いで歩き回る想像をした。だが実際に回ったのは家具屋、ドラッグストア、スポーツショップ。荷物が多いから一旦駐車場に戻って車に積み、今度はカートを手放して本屋。
「うちに運び込んだら組み立てもよろ」
「……こりゃ確かに依頼料貰っていい仕事だな」
呟くと笑って請求していいと言われたけど一度要らないと言ったものだ。撤回するのは男らしくない。昼食だけ奢ってもらった。
平日のショッピングモールの客入りはそこそこだ。あえて人の少なそうな、やや古いモールを選んだ甲斐あって女性客もそう多くない。それでも一度もすれ違わないことは難しかったから、女の姿が見えたら進路を変えたり棚の影に一二三を隠してやり過ごした。予め女がいると分かっていて庇える人間がいたら少しはマシらしい。
「外出するたびにスーツばっか着てらんねーし」
女に怯えてしゃがみ込んだ五秒後には飛び跳ねる勢いで立ち上がって自分自身のことを笑い飛ばした。素からホスト、女に怯える顔と、見ている方がギャップに追いつけないほどの変わり身の早さだ。
常に店内の女を警戒する必要はあったがそれなりにまともに買い物は出来た。同じ空間のどこかに女がいても視界に入らず声も聞こえなければある程度は無視できるようだ。それでも女ものの香水とか、なんとなく女がいそうな気配だとか。遠くに女がいるのを発見したりするとパニックになりかけて服の裾を引かれた。そんなに無理して出かけなくても買い物なんか通販すればいいし、なんなら俺がお遣いしてもいい。でもそれを言うと「大丈夫」と言われる。
「独歩と出かける時もずっとこんなもんだし引きこもるのは俺のキャラじゃねーもん。買い物だって実物見て買った方が楽しいし、店の試聴機でレコード聴くのも楽しくね?」
特に目的なく立ち寄ったレコードショップの試聴用ヘッドフォンを耳に当てる。昨今ネット配信の試聴動画や音源のダウンロード販売が多いせいか店に客は少ない。
試聴機は何枚かプレイヤーにセットされたCDから番号を選んで再生するタイプの機械で一二三に再生する曲を選んでくれと催促されて一二三の好きそうなパーティーチューンを選んだ。交代で試聴機を使って最初に試聴した一枚と客が好きなんだというアニメの劇場版サントラを買った。
レジを済ませて最寄りの出口から併設の立体駐車場に出る。外は来た時より風が強くなって駐車場の柱の隙間から隙間へ吹き抜けていく。
「うわ、さみー」
「車もっと近くに停めりゃ良かったっすね」
重いガラス戸を抜けた途端に正面から風を受け、腕を抱えた一二三が振り向いてちょっと顎を上げる。
「なんすか?」
「いや、いっちんピアスホールあるのに一度もピアスつけてるとこ見たことねーなと思って」
無遠慮に耳たぶを摘ままれてちょっとくすぐったい。
「まあ、……そのうち塞がンじゃねぇかな」
「もったいなくね?」
「別に、髪で隠れちまうし」
耳に穴を開けた当時は耳がよく見えるほど髪が短かった。当時つけていたピアスを外してもう随分経つし、たまに気にして手入れすることもあったが、もう塞がったっていいと思っていた。元々自分でピアスが好きでやったわけでもない。
「えー、ならさ、似合うヤツおれっちが新しく選んでプレゼントするって。普段隠れてるけどカッケーの着けてるって良くね?」
まだ穴が閉じていないのを確かめるべく耳たぶを触り続けるのを好きにさせ、その代わりに俺も左手で一二三の耳元におちた柔らかそうな金髪をどけて薔薇のピアスを通した右耳のふちを触る。遠慮があってそっと触ったのがくすぐったかったらしく、肩を竦めて手を挟むように頭を傾ける。
ピアスそのものは変わらず興味がないけど一二三が選ぶものを見てみたい気がして頷きかけた時だ。駐車場の端の方で風に紛れてドアの閉まる音がした。風に紛れて車が入ってきたことに気づかなかったようだ。
音の出所は一二三の向こう側で、金髪頭の小脇から確認して車を降りた女の姿を捉えた。
同じく音に気づいて遅れて振り返ろうとする一二三の頭を左手で自分の肩口に引き寄せ、振り向かせないまま背中にも腕を回して出入り口の柱の陰に移動させた。
「急になに……」
冗談とでも思っている様子で離れようとした一二三に説明するより早く、
「やっだ、今日風強くなぁい?髪ヤバ」
「トイレ入ってすぐのとこあったっけ?」
女たちの喋り声が聞こえてきた。隠れた柱の陰からは姿は見えないが息をのむ気配と共に一二三が両手で俺のジャケットの胸元を握って顔を伏せる。
震える背中を抱きしめ直して後頭部に手を添えた。そんなことしなくてももう顔を上げたりしなかっただろうけど。出入り口のガラス戸の開閉音がして女の気配が完全になくなり、目視でも他に人がいないのを確認するまでの十数秒をやり過ごす。
「……もう大丈夫みたいっすよ」
告げて腕を緩めると震えていた体から力が抜け、
「もう、いない……?」
「大丈夫っす」
確認してからゆっくり離れて、それから顔を上げた。指に絡んでいた髪がすり抜けていく。
「…………いやーめんごめんご!また女が出てこないうちに車乗ろうぜ!」
勝手に手を一つ打ってスタートの合図をすると駆け足で車に向かって行く。
「おい、駐車場で走るなって!」
ポケットに突っ込んでいた車のキーを握って追いかける途中、少し離れた位置の車の陰で何か動いた気がした。足を止めて目を凝らそうとすると先に車に着いてしまった一二三に急かされて確認もおざなりで駐車場を出た。
菓子折りを持った観音坂独歩が一二三を引きずってうちに駆け込んできたのはそれから二週間後だった。