慰安旅行/さまじろ・理銃/21440

※時間軸無視、細かい設定を煮詰めることを止めたやっつけ仕事です。何でも許せる人向けです。
 
 
 慰安旅行。
 そんな福利厚生の話を左馬刻に持ち掛けられた銃兎はそりゃもう胡乱げな顔をした。食事の誘いや仕事の話ならともかく。暴力団の組長から旅行をプレゼントされるだなんて疑うなという方が難しい。
 仕事、つまり、日ごろの疲れを癒す以外の目的や利害があれば納得もいく。だが左馬刻にそこのところを追求しても「知らねぇよ。親父の知り合いの旅館が閑散期で暇だから行ってこいってそんだけだ」しか言わない。山間部にある田舎の温泉旅館でオフシーズンは客も少ないから貸切にしてゆっくり過ごせるという。今やヨコハマディビジョンの代表MCチームとして顔が売れすぎた三人にお誂え向きの話だが、それを素直に好意と受け取るには銃兎は殺伐とした世界で生き過ぎた。
 それでも前回のテリトリーバトルでは優勝を果たして左馬刻の所属する火貂組に大きな利益をもたらしたのも事実だ。バトルの賞金自体は三人で山分けしたが、テリトリーバトルの名の通り、領土の支配権は使いようによっては賞金以上の価値がある。次に優勝したチームの采配にもよるが、他のチームが無効にしない限りは自分たちの活動に有利なように地方政治を行えるってわけだ。やくざのシノギは一発こっきりのギャンブルじゃない。賭場経営、風俗店経営、土建業、金融、リース、コンサルティング。様々な業種で法律の隙間を縫うようにして稼ぎを上げている。組長の機嫌が良いこと自体は不思議なことじゃない。
「まあ、そういうわけだ。熱海じゃなくて悪ぃが、ハネムーン代わりにテメェら二人で行ってこいや」
 暗に自分は行かない、と、左馬刻は言った。
「はぁ?お前が行かないなんていよいよ何か裏があるんじゃねぇか!」
 銃兎がかみつくのも無理からぬことだ。だけど左馬刻は銃兎の勘繰りを一蹴した。
「親父の考えは知らねぇが、少なくとも俺には裏なんざねぇよ。だがよく考えてみろや。デキてるお前ら二人と三人で旅行だ?完全に邪魔モンじゃねぇかよ、やってられっか!」
 ぽかんとする銃兎の隣で黙って聞いていた理鶯が薄くはにかみ笑いした。そう、お互い分かっていたことだ。ただ大人同士の付き合いをわざわざ言葉で確認してこなかっただけで。
 別に銃兎だってバレていないと信じていたわけじゃないが、理鶯と交際していることを左馬刻が指摘してきたのはこれが初めてだった。別に交際関係が理由でバトルの結果が変わるわけでもない。どうでもいいと思ったから左馬刻もこれまで黙っていたのだ。それが突然、こんなタイミングで、ハネムーンなんてワードで突きつけられるとは思わなかった。
 照れという柄でもなくひたすら困惑する銃兎に左馬刻は続けた。
「部屋は特等室ひとつでいいって言っておいてやンよ。親父だって俺たちには今後も勝ち続けて貰わなきゃ困るんだからテメェが心配するようなこたぁ早々ねぇ。たまには素直に人様の好意を受け取っとけ」
 それで話を終えようとした左馬刻を、今度は理鶯が引き留める。
「左馬刻の気遣いには心から感謝している。だが、今回の勝利は三人で勝ち取ったものだ。小官は左馬刻も一緒に行って欲しいのだが、本当にダメだろうか?」
 長身の左馬刻を越える長身で眉尻を下げてお願いされて左馬刻は咄嗟に返答に困る。銃兎が食い下がったなら即答で断れるのに理鶯には弱い。
「小官は温泉旅館は初めてで楽しみにしているが、そこには是非左馬刻もいて欲しい。銃兎と二人で旅行するチャンスは今後もあるだろうが、三人で招待されているならば、今回は三人で行きたい」
 理鶯は横で左馬刻同様の困った表情を浮かべる銃兎にもアイコンタクトで「ダメか?」と問う。左馬刻も銃兎もMAD TRIGGER CREWというチームを一緒に慰安旅行なんかに行く仲良しグループとは思っていないが、仲間思いの理鶯にそう言われて無碍にもできない。だとしても左馬刻はどうしたって自分が新婚旅行のオマケになる未来しか想像できない。テリトリーバトルみたいに一人一部屋割り当てるのもよそよそしいが、三人一部屋で泊まるのはまっぴらごめんだ。かといってカップルの隣の部屋に一人で泊まるのも面白くない。
 やはりいかに理鶯の頼みといえど断ろうかと思ったとき、不意に左馬刻の携帯が鳴った。表示された名前は「山田二郎」、左馬刻の交際相手である。

 お日柄も良く、今日は慰安旅行、改め、ダブルデートで温泉旅館。
 銃兎の運転する車でヨコハマの街を離れて訪れたのは野鳥や猿の鳴き声が響く山。くねった山道を走り続け、対向車もなく、本当にこちらで合っているか車内で言い争いを始めた頃に視界が開けて無駄に広々した駐車場と、山に抱かれるようにして建つ古い温泉宿が現れた。
 黒ずんだ木造の旅館は裏手側に露天風呂があり、本館と渡り廊下で繋がった離れがある。特等室は離れにあった。どのみち貸切だが特等室の方が広々として中庭に出られる作りになっている。
 砂利の駐車場の片隅に車を停めて降りたつと、湿った緑の匂いに包まれて思わず銃兎は深く空気を吸い込んだ。胡散臭い旅行話ではあるが日常を離れて自然の中にいると、確かに体の内側がきれいになっていく気がする。理鶯のベースキャンプも森の中にあるので自然そのものは珍しくはないが、それはもう日常の一部と言える。どちらを見ても山肌と緑しかない。脱税に腐心する経営者がのさばる高いビルもなければチンピラの屯するコンビニもない。悪くなかった。
 そう感じるのは左馬刻や二郎も同じだ。子供には温泉の良さなんてまだ分からないかと思ったが、都会育ちの子供には新鮮らしい。
「すげー、山しかねぇ!」
 至極当たり前の感想を述べてはしゃいでいる。たまたま左馬刻に連絡を入れて予定を聞かれ、暇だと答えたが最後。ろくな説明もなくヨコハマ慰安旅行に巻き込まれた二郎だが、適応力は高い。最初こそ強引さに文句を言っていたが車中では理鶯と宿のパンフレットを広げて夕飯の話で盛り上がっていた。
 そして理鶯だ。いつもテント生活で稀にホテルや銃兎の部屋にあがっても入浴はシャワー中心。温泉はあまり馴染みがないから楽しみだ、などと穏やかな顔で言っていたのに。車が山の奥深くに入り込むにつれて鋭い目で外を見ていた。宿の駐車場もまた、敷地の端はすでに山の斜面だ。砂利を踏んで山に近づいたかと思うと斜面の土をワークブーツで踏んで地面に残る動物の足跡を検分し始めた。鳥の鳴き声。転がる野ウサギの糞。木立の中の木の洞。
 静かに目を輝かせて今にも山に分け入って夕飯まで帰ってこなくなりそうな理鶯を銃兎が止める。
「理鶯、そっちじゃありませんよ」
「銃兎、夕飯に……」
「夕飯は板前さんが作った船盛です」
 慰安旅行まできて自給自足する文化は日本にはない。残念そうにする理鶯の背中を押して宿に入る。受付の手続きは顔パスで離れへ案内された。二部屋用意してもらった特等室にそれぞれ分かれて荷物を置く。夕飯は左馬刻と二郎の部屋で四人で食べる。寝室と居室の広々した二間ある特等室は四人で集まっても十分なスペースがあった。
 畳に荷物を置いて掃き出し窓から縁側を臨めばちょっとした庭園が広がる。その先は生け垣で区切られて山が続いていた。この宿に滞在しているのは自分たち四人きりだ。有名旅館というわけではないが贅沢と言えるだろう。
 縁側に用意されたサンダルで庭に出られるのを見つけて窓を開けると、竹垣の向こう側でも同じようにしていたらしい。隣室の二郎が騒ぐ声が聞こえる。
「非日常の静けさを堪能できるかと思ったらこれですか」
「まあそう言うな。見てくれ銃兎。浴衣があった」
 用意された浴衣とタオルを抱えて理鶯が嬉しそうに見せてくれる。
「それもそうですね。静かすぎても落ち着きませんし」
 窓から顔を出して竹垣に向かって呼びかける。
「荷物が片付いたら早速温泉に行きませんか?」
 そうするといつになく素直に「おー!」と返事がある。平和に過ごせるのはいいことだ。

 風呂も入り放題だ。他に客はいない。気にすべき人目はない。
 脱衣所で理鶯が着古したシャツを脱ぐと二郎が明るい声を上げた。
「理鶯さんタトゥー入れてんの?かっけー!」
 それは肩に近い二の腕にある。年中無休で軍人として生活しているお陰で飾り気の少ない男だが、理鶯は面白みのない男ってわけじゃない。普段は服の下で見えないところに様々な顔を隠して過ごしている。
 理鶯に図柄について尋ねながら覗き込んで「すげー」とか「やべー」とか少ない語彙で感心していた二郎だが、ふと顔を上げて銃兎の顔色を窺った。子供だとばかり思っていたが一応気を遣う頭はあるのか、と思う。だけどこれしきのことで妬くほど狭量じゃない。二郎が気を遣うべきはもっと別の相手だ。
「テメェ俺の見てもそんなに騒がなかったじゃねぇか!」
 背中に派手な和彫りを背負った男ががなる。
「そうだっけ?」
 左馬刻の背中なんか見慣れた様子で面倒くさそうにする。そして躊躇いもなくさっさと全裸になると股間を隠す代わりに自分のヒプノシスマイクをタオルで包んで風呂に乗り込もうとした。
「STOP! STOP! STOP!風呂にそのままマイクを持ち込むつもりか?」
 見れば左馬刻も同様に片手にタオルに巻きもせずヒプノシスマイクを持っている。組長の紹介となれば旅館スタッフを疑うこともできないが、それでもこちらの隙をついてマイクを奪いたい輩はどこにいるかわからない。深くため息をついた銃兎は自分の腰にタオルを巻いて荷物を漁り、ビニール袋を掴んで二人につきつけた。
「壊れたら敵わんからちゃんとジップロック使え!」

 内風呂も檜木で囲われなみなみと湯を湛えていたが、こんないい天気に外に出ないのは勿体ない。露天風呂で腰を落ち着けた。
 湯は熱めで適度に吹く風が心地よい。湯に浸かった部分は肌がほんのり色づくほど熱いが水面から出た肌は濡れてもすぐに乾いていく。理鶯はチーム揃って行きたいと主張したが、いずれは自分で手配して二人きりでこういったところに来るのも良さそうだと銃兎は思う。行くなら露天風呂付きの客室がある宿がいい。風呂からの導線が短くて、滞在中は深夜でも湯をかけ流しにできるといい。
 そんなことを思っている横で理鶯が機敏な動きで岩に手を置いて立ち上がった。
「む、そこの茂みで何か動いた」
 二人で行くなら動物のいない温泉地がいいな、と思う。
「狸か何かですかね」
 山なんだから動物なんかいくらでもいるだろう。でもそれは俺たちの食糧じゃない。
「いや、あれは……猿だ!」
 霊長類は理鶯の頼みでも食べたくない。うんざりしながら少し理鶯から距離をとる。獲物の確保に動くことは想定していなかったから近くに座り過ぎた。
 そのうちに気を揺らす音は近くなり、かなり近くでキーキー喚く音が聞こえてくる。
「おい理鶯、アイツ威嚇してんのか?」
「うおっ、なんか投げてきやがった!」
 猿が投げつけてきた小石を湯から拾って二郎が投げ返す。それぞれ自分のヒプノシスマイクを握っているが、精神干渉が猿に通用するのかは甚だ疑問だった。だって相手は言葉も通じない猿だ。さすがの左馬刻でさえ野生の猿をdisったことはない。そんなネタに困って動物園に行った動画配信者みたいな真似を誰がするというのか。
 戸惑う三人を片手で制して全裸の理鶯が湯船から上がり、濡れた手拭い一枚を握って駆け出した。山に向かって。全裸で。裸足で腐葉土を踏みしめて。そして瞬く間に木々の間に消えた。
 山のどこかで木の葉が擦れ合う音と、猿の断末魔が聴こえてくる。そしてしばらくして何も聞こえなくなった。
「軍人やべぇ……なれる気がしねぇよ」
「誰もなれませんよ」
 二郎の呟きに眼鏡の曇りもそのままにして銃兎が応えた。

「猿ですか?おかしいですね。いつもなら姿を見せても襲ってくることはないんですが」
 気絶した猿を逃がして戻ってきた理鶯が湯を浴び直すのを待って風呂から撤収した。猿騒動の間に風も強くなり、雲が出てきたので長湯はやめた。そのうち雨が降り出し、土砂降りになった。
 用意された浴衣は大きなサイズのものだったが、それでも理鶯が着るとバスローブほどの丈になる。もっと大きなものがないか、部屋に戻る途中でフロントに立ち寄ったついでに猿の話をすると親ほどの年齢の仲居がしわの多い顔を曇らせて小首を傾げた。
「うちでは野生動物には絶対に餌をやりませんから、あっちもそれをわかっていて寄ってこないんですよ。群れからはぐれたのかしら」
「ふむ。しかし問題ない。小官が山へ返したのでな」
「それはすみません。……入浴中にですか?」
 襲ってきた猿を素手でやり込めるだなんて、日々スーパーで豚や牛や鶏肉を買って食べている人間には理解しづらいことだ。
 頷いた理鶯に仲居の頭上のハテナマークが増えた時、玄関が俄かに騒がしくなった。番頭が駆け込んできて三和土で叫ぶ。
「大変です!ここまでの道で土砂崩れがあって、土砂を退けるまでは街の方に降りられなくなりました!」
 それから廊下の角に立っていた俺たちに気が付いて焦った顔をした。
「すみません、お客様。道が……」
「聞こえてましたよ。復旧までどれくらいか分かりますか?」
「雨が上がれば明日の昼までには片付くかと思いますが」
「それなら構わねぇよ。どうせ俺らは泊りだ」
「車でいつでも戻れるからといって急な仕事で呼び戻されても参りますからね。もし長引きそうであれば改めて教えてください」
「かしこまりました」
 左馬刻と銃兎が答えれば番頭が恐縮した様子で頭を下げて消防へ連絡を入れるべく電話に走った。
 それから部屋に戻って窓の外を眺めていたら仲居が戸を叩いてやってきた。
「申し訳ございません。今夜は貸切の予定だったんですが、近隣の山にフィールドワークに来ていた学生さんが先程の土砂崩れで帰ることが出来なくなってしまいまして、車中泊も大変ですから本館の方にお泊めしてよろしいでしょうか?」
 厄介な客にトラブルの連絡。さぞ生きた心地がしないだろう。左馬刻に目で了承を取ると銃兎が代表して頷いてやる。
「仕方ないですよ。こちらは離れですし」
 猿には襲われるし土砂降りで露天風呂には出られなくなるし、貸切もパーだが仕方ない。もとより他人の金で来ている。一晩泊まって帰って組長の顔を立てる仕事みたいなものだ。
 ホッとした様子の仲居に夕飯の時間だけ確認して見送ると、四人は暇になった。テレビはあるがヨコハマに比べたらチャンネル数も少なくローカル番組も面白くない。携帯の電波も皆無ではないが入り辛くて捗らない。しばらくはトランプなんかやっていたが、中学生の修学旅行みたいな過ごし方で何時間も凌げない。「温泉はいいんだけどよぉ、本気で風呂しかねぇと暇なもんだな」
 大富豪の手札を投げ捨てた左馬刻が新しい煙草に火をつけて深く煙を吐いた。
「それなら本館の方でいいものを見つけたから案内しよう」
 そうして理鶯に連れられてやってきたのがプレイルームで、そこで待ち受けていたのが卓球台だった。風呂までの廊下から枝分かれしたところに卓球台とベンチ、灰皿と自販機しかない空間があった。率先してラケットを拾い上げる理鶯と二郎を尻目に左馬刻と銃兎は煙草を取り出しながらベンチに陣取る。こういうのは体力の有り余っている連中に任せておくべきだ。
 浴衣なんて動きづらい格好で袖を捲り上げてカコンカコンと軽い音を立てながらラリーが始まる。二人とも運動神経の塊なのでいい調子で続いた。一方、見ている方は結局暇で仕方ない。温泉まできて国際大会と見紛う本気過ぎるラリー。見応えはあるが、二人の観客に卓球観戦の趣味はない。
「つまんねぇ」
「なら、左馬刻もやってきたらどうだ」
 やる気のない揶揄い。
「ふざけんな。アイツらガチすぎんだよ」
 やる気のない返事。
 他に見るものもないのでスリッパを脱いで機敏に動き回るツレを眺めているが、一往復ごとに動きのキレを増し、踏み込みは深くなり、ピンポン球の回転がキツくなる。鋭く振ったラケットの面で下回転をかけたかと思えば針穴を通すようなコントロールで台の隅に返され、バックステップで下がりながら腰の回転でドライブをかける。右、左、ネット際。高さと腕の長さで左右も深さも自在に切り込んでくる理鶯に振り回されながらも巧みなラケットさばきで球を拾い、回転を使いこなす二郎。球威をコントロールして目を慣らしたところでモーション抑え目の強打。しかし小手先のフェイクは理鶯に読まれている。
 忙しなく手と足を動かす二人はこの為に来たと言うほどイキイキしているが、見ている方は卓球に詳しいわけでもない。低いベンチに座った横からの目線では尚更。駆け引きもよくわからない。
「つか、浴衣着てやる動きじゃねぇだろ」
 出てくる感想なんかそんなものだ。
「パンツ見えてんじゃねぇか」
 二郎は平気で足を開いて横跳びするから裾も開き放題。普段はパンツで脛まで隠れた足が太ももまでチラチラ見える。
 だけど銃兎は同調しかねる。
「速すぎてどうでもいい」
 球もラケットもパンチラも注視しなければ残像同然だった。
「大体、雄ガキのパンツ見て喜ぶのなんざテメェぐらいだから安心しろや」
「あ゛ぁ?やんのかコラ」
「こんなとこまで来て血の気の多い野郎だなテメェは」
 まだ長さのある煙草を灰皿に放り出してきっちり着込んだ銃兎の浴衣の胸倉を掴む。
「上等だ、クソポリ公が」
「なんつったテメェ?」
 メンチの切り合いで銃兎が身を乗り出そうとした瞬間。
 ヒュンッ、パンッ。二人の目と眼鏡の間を横切ってピンポン球が壁に突き刺さった。壁に凹みを作って半分に潰れた球がポロリと落ちてベンチの上に転がる。
「すまない、大丈夫か?」
 手加減なしのスマッシュを打ち込んだ理鶯が潰れた球を拾いに駆け寄る。
「あークソッ!受けきれなかった!……アンタら喧嘩してたのかよ」
 ラケットに球を当てることはできたが球威を殺しきれずに横に弾いてしまった二郎が掴み合う二人に呆れた視線を送る。ラリー中は外野のことなんか一ミリも見えていなかった。
 二人はお互いの襟を掴んだ姿勢のままじっとりと汗をかいた。たかがピンポン球だがまつ毛を掠めて吹っ飛んできたら流石に恐怖を感じる。
 その殺人スマッシュを放った軍人は大型犬みたいな穏やかさで自分の使っていたラケットを差し出した。
「争い事ならお前達もコレで決着をつけるといい」
 ラケットに注目して、それからいけ好かない野郎と視線を交わす。先にラケットを握ったのは銃兎だ。
「いいでしょう。警察の運動神経みせてやるよ」
 二郎からひったくるようにしてラケットをとった左馬刻も卓球台の前に立つ。
「運動神経ねぇ?三十路過ぎると体力ガタ落ちするらしいじゃねぇか」
「まだ過ぎてねぇよクソヤクザ!」
 ヒプノシスマイクを持てば敵なしの男達がマイクをラケットに持ち替えての真剣勝負の火蓋が切って落とされた。

「あー、いい汗かいた!」
 結局全員汗だくだ。女子の部屋に行く算段を立てる中高生の修学旅行よりよっぽど健全に時間を潰してしまった。気がつけば外の雨も上がっている。
「夕食前にひとっ風呂浴びますか。骨休めに来たのにクタクタですよ」
 満場一致で新しい着替えとタオルを貰って二度目の温泉に浸かり、夕飯のことなんか話しながら新しい浴衣に袖を通せばいい時間になった。
「雨降った割にあっちーな」
 離れに向かって歩きながら二郎が浴衣の襟を掴んで懐に風を送る。調子に乗って長湯したせいだ。
「暑いのはわかりますがだらしないですよ。山の夜は冷えますし」
 同じようにゆっくり湯に浸かっていたのに涼しい顔できっちり浴衣を着こなす銃兎が窘める。
「アンタ親かよ」
 親より厄介な男が一緒に歩いているから言っているというのに。面倒になってそれ以上の忠告はやめた。
 来た時は静まり返っていた旅館内も人の気配が増えてきた。お互い無関心でいられたら良いが、こちらは四人とも名が売れている。おまけに二郎がいる。敵対するチームに一人だけ混じっているとなれば余計注目されるだろう。急遽宿泊することになった客と会わなければいいが。
 そんな銃兎の心配は早々に現実になった。廊下で二十歳前後の集団とすれ違う。男ばかり六人ほどで賑やかにお喋りしていた彼らは廊下の角を曲がったところで先客の顔を見てぴたりと口を噤んだ。腫物扱い上等。そのまま黙ってすれ違って、声の聞こえないところまで離れてから好き勝手お喋りを再開するといい。不用意な発言が左馬刻の耳に入って怒りを買うと厄介だ。
 銃兎自身も貸切旅行に水を差されていい気はしなかったが、連れが面倒くさいのでそちらの方が気がかりだった。喧嘩になれば止めなければならない。
 幸い、彼らは何も言わずに壁に張り付くようにして道を開け、四人とすれ違った。そこまではいい。だけど怖いもの知らずというか、若者特有の無遠慮さでじろじろこちらを見ていた。一番注目を浴びていたのは当然二郎だ。二郎本人だって気づいていて振り返らないよう、黙ってやり過ごした。ヨコハマの三人と同行しているだけでなく仲良くしていたと見られれば噂話は余計に加熱する。
 そこから離れの部屋まで、気づまりな沈黙のまま歩く羽目になった。
「はー、変な緊張した。貸切って有難いもんだったんだなー」
 部屋に着くなりちゃぶ台に伸びた二郎がぼやく。貸切と言われても贅沢だとしか思っていなかったが、風呂でも廊下でも人目を気にしなくていいというのは途轍もなく楽だ。旅館スタッフさえいなけりゃ全裸で歩いたっていい。二郎が左馬刻と懇意にしている事実は旅館の廊下で全裸になるぐらいヤバイ話だった。さっきの男たちがSNSにでも書き込んで、それが兄弟の耳に入った時が恐ろしい。兄に友達と泊まりに行くとは言ってきたが、それが左馬刻達だとは口が裂けても言えなかった。ヨコハマに頻繁に出入りしていることは知られているから予想はされているだろうが。
「今更かよ。どおりで呑気についてきたわけだ」
「アンタらが強引に連れて来たんだろ!」
「たまには中王区のホテル以外の場所に旅行させてやろうって親切だろうが……チッ。おい、お前ちょっと煙草買って来い」
 煙草の空箱がちゃぶ台を滑って二郎の肘に当たる。
「はぁ?自分で行って来いよ」
「さっきのガキどもに会ったら面倒だろうが。釣りはとっとけ」
 紙幣と自販機用の認証カードを追加で放って寄越され、仕方なく腰を上げた。議論するだけ無駄だ。どうせ暇だし、ロビーにある自販機は大浴場より近い。
 仕方なくもう一度スリッパをひっかけた二郎は素直に部屋を出た。
 本館に出て正面玄関を横切り、ソファーが並んだロビーに向かう。ロビーと本館客室棟の間に自販機が設置されている。受付に人がいたから未成年の身分で煙草を買うのは気が引けたが、あっちも二郎が誰の連れか承知だから文句は言わない。空き箱を持ってこなくても暗記している銘柄の煙草を買い込んでつり銭と一緒に握る。浴衣ってのはポケットがなくて不便だ。小銭を入れるのに自分の財布も持ってくれば良かった。
 つり銭の小銭を何枚かつまんで、煙草の隣の飲料メーカーの自販機に投入した。夕食の際に飲み物も届くだろうが、これは夜中に飲む分。ペットボトルのコーラを受取口から取り出して離れに戻ろうとした。そこに声を掛けられる。
「あ、やっぱ二郎くんじゃん」
 やけに馴れ馴れしく言われて反射的に睨む。相手は同じ浴衣を着た男たちだ。睨まれても二郎の方が年下だとわかっているからか堪えた様子はなく、気さくな笑顔で近くまで来て足を留めた。
「急にゴメンネ。さっきMTCとすれ違ったとき一緒にいたから、見間違いかと思ってさ」
「旅館の人にMTCが泊ってるとは聞いてたんだけど、まさか二郎くんもいるなんて思わなかった」
 取り囲んで矢継ぎ早に話をされて困惑が先に立つが、アンチってわけじゃなさそうだ。
「俺たちBustarBros!!!のファンなんだよ」
「この間のバトルも応援してたよ。惜しかったよなぁ」
「今日は一郎さんと三郎くんは?」
「そうそう。なんでハマと二郎くんが一緒にいんの?」
 チームのファンだって言うなら悪い気もしなくて相槌を打っていたが、痛い腹を探られて視線が泳ぐ。嘘は得意じゃない。
「あー……それは、えっと、ハマとは別件の……仕事でこの旅館に来てたんだけど、ほら、あの、土砂降りで帰れなくなっちまって……」
「えー!じゃあ二郎くん、俺たちとご飯する?」
「ハマの人たちみたいな豪華な飯じゃないけど一応ご飯出してくれるって言われてるからさ」
「俺らの方が歳も近いし、あっち居辛いっしょ?」
 ヨコハマと対立関係にあるイケブクロの二郎に対し配慮のある親切な申し出だった。その上、自分も急遽宿泊することになった、という設定は二郎自身が口にしてしまったことだ。今更予約客だから豪華な飯が待っているからなんて言えない。左馬刻は機嫌を損ねるだろうけど、でも。
「じゃあ、ちょっとだけ……」
「やった。雨降ってきた時はヤベェと思ったけど俺ら逆にラッキーだったな!」
「俺らの部屋余裕あるから夜一人で心細かった泊まってってもいいよ?」
「いや、それはさすがに遠慮するよ……そんなガキじゃねぇし」
 そもそも部屋に一人じゃない。
「そうだぞ、お前それはさすがに図々しいって」
「じゃあ待ってるから。俺らあそこの部屋ね」
「いつでも遊びに来てよ」
 楽しそうな大学生たちを見送って部屋に帰る二郎の気分は、彼らとは対称的に重くて仕方ない。
 気まずさで曇った顔で部屋に戻ると、ちょうど夕飯待ちで隣の部屋の銃兎と理鶯も移動してきたところだった。そこで先刻の話をしたら左馬刻と銃兎に嫌そうな顔をされて自分の失敗を悟る。だけどあの場で上手く断る器用さは二郎にはなかった。
「部外者と関わるとロクなことにならないのは分かっていたでしょうに」
「うっせぇな、仕方ねぇだろ」
「少年と一緒に食事ができないのは残念だ」
「なるべくさっさと抜け出して戻ってくるよ……」
 嫌味しか言わない銃兎は鬱陶しいばかりだが、一緒に旅行するのを純粋に楽しんでくれていた理鶯には申し訳ない。左馬刻は言葉もなく目で責める。その視線から逃れるように自販機で買った商品と釣り銭を置いて目も合わせず「ごめん」と呟いて本館に戻った。

 何が「ごめん」だ。何もわかってないクセに。招かれざる客どもと廊下ですれ違ったときから気に食わなかった。人の連れをジロジロ見やがって。
 四人分の料理を持ってきた仲居は事情を聞いて二郎の分の料理にラップをかけた。戻ってきた時に食べられるように。大学生グループに提供した料理は最低限の内容だというから、向こうでいくらか食べても二郎には足りないだろう。
 仲居は少ない人数で離れと本館の客に対応しているというので、追加の酒を持って来させた際に向こうの部屋の様子を尋ねた。二郎の嘘がバレた様子はないというが、左馬刻が本当に確認したいのはそういうことじゃないだろう。銃兎は仲居が退室するのを見届けてから不機嫌そうに手酌で日本酒を空けていく左馬刻から徳利を奪う。
「そんなに目くじら立てるなよ。折角の酒が不味くなる」
「心配ないさ。すぐ戻ると言っていたからな」
 さすがの左馬刻も二人がかりでフォローされて意地も張り飽きた。チーム三人で飲む酒は嫌いじゃない。二郎だって初対面の連中に嘘をついて飲み食いしたって疲れるばかりだろう。酒が尽きる前には戻ってくるに決まっている。
 腹の立つことばかり考えるのはやめにして珍しく饒舌に、この山の猿だの兎だのの話をする理鶯の声に耳を傾けた。

 すぐに戻ってこなかった。宴もたけなわを過ぎ、食器の片づけに来た仲居と入れ違いで左馬刻が「ヤニが切れた」と言って財布も持たずに出て行った。嫉妬深いことだ、と銃兎は肩を竦める。
 本館でも下膳の頃合い。仲居が皿を下げに来たのをきっかけに長居し過ぎたことに気づいて二郎も慌てて部屋を出た。
「マジで部屋帰ンの?まだ話そうよ」
「そういうわけにもいかねンだよ。飯誘ってくれてありがとな!じゃ!」
 戸口で食い下がる男たちの目の前で物理的に扉を閉めることで会話を終了し、離れに走ろうとしたところで温かい胸にぶつかった。遅くなって怒っているとは思ったが、まさか左馬刻直々に迎えに来るとは思わなかった。
 顔を見た瞬間に言い繕わなければと思いつつも焦りで言葉が追い付かず、ぱくぱく開閉した口に酒と煙草の味の舌が入り込んで口をふさがれた。舌が絡んで嫌になるほど的確に二郎の弱いところをなぞる。肩を押し返そうとした手首も捕まって壁に追い込まれた。出てきたばかりの部屋の扉はすぐそこだ。夕飯が終わったばかりで、旅館の従業員だっていつ通りかかるかもわからない。拒絶したくはないが人に見られても困ると思って葛藤する間に口も手も開放された。大学生グループの部屋で貰ったチョコレートで甘くなっていた口が、今はすっかり大人の味に上書きされている。
 濡れた唇を舐めて息を整えてからやっと苦情を口にする。
「……急に何すんだよ、人に見られたらどうすんだ」
「ンなもん放っとけ。テメェこそふざけんなよ」
 前髪の影に潜んでぎらつく赤い瞳に怒りが見えて反射的に言い返そうとした言葉を飲み込んだ。その一瞬の怯みに鼻を鳴らし、左馬刻はさっさと背を向けて離れへと向かう。下手に騒いで人が来ると困る状況下では黙ってついていくしかなかった。

 部屋に戻ると二郎の分の料理だけ残されていて、二間続きになった寝室の方に一人で引っ込んだ左馬刻の代わりに銃兎と理鶯が二郎の二度目の食事に付き合った。二郎自身は反発してばかりだが、銃兎も理鶯同様に面倒見がいい。向こうでどんな話を聞かれただとか、左馬刻がイラついていた話なんかして残り僅かな酒を啜って、二郎が食べ終わると手早くちゃぶ台の端に食器や酒器を片付けて自分たちの部屋に帰っていく。機嫌の悪い左馬刻と二人きりも落ち着かないから帰らないで欲しいけど、二人だって折角の恋人との旅行だ。その辺は二郎だって弁えている。
 居室に一人きりになると明かりを消して、頭を冷やしたくて窓を網戸にして夜風を浴びてから寝室との間の襖を引いた。
「左馬刻さん、寝た?」
 返事はなかったが二組並べて敷かれた布団の片方で身じろぐのが見えた。布団は他人の距離で二組並べられている。
「左馬刻さん、ごめんて。あの人らもチーム組んでるっつーから話し込んじゃってさ」
 空っぽの方の布団を押して寄せ、布団に膝をついて浴衣の背中に言い訳する。上手く立ち回れなかったことを申し訳ないとは思ってる。
 その謝罪への返事は酷く馬鹿にしたものだった。
「ハッ!そんで飯のついでに夜の相手まで誘われたってか?」
「ねーよ!」
 即座に否定するとやっと起き上がって顔が見える。夕飯に行ってきただけなのにどうしてそこまで言われなきゃならないんだ。
 左馬刻は寝転んで乱れた髪を掻きむしって頭を振った。それから睨む二郎の顔より下、浴衣の隙だらけの胸元に手を伸ばして襟を握った。私服は重ね着が多くてガードが堅いくせにちょっと掴んだだけで胸元が覗けるようになる。男の上半身なんか隠すようなものでもないだろうが、それは大抵の人間が男の胸に邪な気持ちを抱かない前提の話だ。胸元を乱されても二郎は喧嘩だと認識しているから恥ずかしがらない。だけど、これがもっと甘たるい雰囲気の中でやった行動だったら、セックスで嬲る以外特に使い道もない乳首を過去にどんな風にいじめられたか思い出して隠したがっただろう。
 そういうところで今一つ頭が回らないところがガキだ。
「テメェが気づいてないだけでめちゃくちゃ色目使われてただろうが」
「いつの話だよ、アンタ見てねぇだろ!」
「見てないところでは心当たりあんのか?俺らとすれ違ったときから連中はテメェのだらしねぇ浴衣姿見て喜んでやがっただろ。部屋出てくるときだってしつこく言い寄ってきやがって」
「何言ってんだ、そんなのアンタらと俺が一緒にいたら事情知らないヤツに見られて当然だろ?別に喜んでたわけじゃ……」
 言われて向こうの部屋でかけられた言葉や男たちの態度を思い出し、言い返す勢いが削がれた。やけに馴れ馴れしかったが距離感の近い奴は珍しくないし、第一男同士でそんな警戒する方がおかしいんじゃないか。その考えは膝の下でぴったり隙間なく寄せた布団を見下ろし自信を失う。目の前には一銭の得にもならないのに男である自分にキスをしてくる男がいる。
 H歴が始まって、中王区という女性だけの居住区が作られ、都心のエリア別の人口男女比が傾いた昨今。同性カップルの可視化が進んで若者を中心にバイセクシュアルを隠さない男も増えた。それでも山田一郎の弟、イケブクロでは名の知れた不良である二郎を口説こうなんて、普通の生活ですれ違うだけの男は思わない。何か特別なきっかけでもなければ。
「……お前、もう何かされたんじゃねぇだろうな」
「ッ!だからねぇってば!」
「普通の大人は未成年のガキを自分の部屋に泊らせようとはしねぇんだよ」
「別にそういうんじゃねぇって!ヤクザが面倒くせぇこと言ってんなよ?」
 左馬刻の舌打ちをゴングに喧嘩がヒートアップする。
「ガキがナマ言いやがって。ちっと有名になったからってちやほやされて調子こいてっと次のバトルが峠だぜ。先に墓予約してからこいや」
「ンだと、コラッ」
「兄弟諸共土に埋めてやんよ」
「もうあったまきた!マイク持てや!アンタがその気なら乗ってやる!」
「俺様に勝てると思ってんのか?学習しねぇガキだな。やってやんよ!」
 怒鳴られて怒鳴り返し、枕元に寄せた荷物からマイクを握って布団の上に立ち上がった瞬間。
 地響きを呼び起こしそうな足音がずんずん迫ってきて勢いよく襖が開かれた。
「テメェら大人しくハメやがれ!!!!!!」
 浴衣の懐が緩んだだらしない恰好で目が据わりきった銃兎だった。
 旅行の話を持ち掛けた時は随分渋ったくせに楽しんでやがるじゃねぇかと左馬刻は思うが、歳若い二郎はただただドン引きした。
「…………す、すんませんした」
 スパーンッ。返事を聞き終える前に襖は閉められた。ついでに居室の窓を閉める音がして、やっと乱入者は去っていった。
「…………………」
 再び静まり返った。二郎は大きな音をたてないように慎重にマイクを置いて布団の上に座り直す。その程度の音で再度怒鳴り込まれることはないだろうが。
「はぁ、シラケた。寝ンぞ」
 左馬刻はさっさと布団に入って二郎に背中を向ける。
「うん。……………え、マジで寝んの?」
 返事はない。
「寝た?嘘だろ?」
 そんなバカな。のび太くんじゃねぇんだから。まさかと思いながら肩に手を置いて顔を覗き込むと馬鹿にするような目とばっちり目が合う。
「あ、やっぱ寝てねぇじゃん」
「フンッ。ヤリてぇならはっきり言えや」
 その程度の意地の悪い物言いは慣れっこだ。
「アンタこそこのまま寝る気ないんじゃねぇかよ。あんま騒ぐとまたうるせぇのが来ンぞ」
 二人同時に閉められた襖を顧みる。襖は沈黙している。
「フッ」
「ばっかみてぇ」
 ひとしきり笑って、落ち着くと二郎は左馬刻の布団を剥ぎ取った。体を跨ぐと足を開いたことで捲れた浴衣の裾から手が潜り込んできてしなやかな筋肉のついた太ももを撫でる。それから黙って身を屈め、笑った形の唇に触れた。
 笑い声も、苦しい声も、艶めく声も。今夜は全部押し殺して。二度と隣人に怒鳴り込まれないよう密やかに。

 明け方。空が白んでくるのを薄い瞼越しに感じて眠りが浅くなった左馬刻は腕の中から転がり出た体を抱き直す。浴衣の帯はもうどこかへいったし恋人は下着しかつけていないから直接素肌が密着して心地よい体温がしみ込んでくる。
 普段と違ったシチュエーションで見た目よりはしゃいでいたのか、二郎はよく寝入っていて起きる気配もない。朝食の時間はまだまだ先だろう。理鶯たちだってこんな日に早起きすることもないだろうし、心地よく朝寝を楽しむことに決めて温かな首筋をちゅっちゅっと吸って目を閉じた。

 深夜まで動き回った朝だ。昼まで寝たって体の疲労感は抜けないが腹は減る。でも起きたくない。携帯をとって時間を確認したいが、体にがっちり巻き付いた腕が許してくれない。でも腹が減ったから朝食までの時間を確認したい。
 布団の中でぐずぐずしてそのまま何もせず寝直す方に傾きかけた時、遠くで悲鳴のような声が聞こえて否応なく覚醒した。背中に張り付いていた左馬刻も目を覚まして布団を飛び出していく。昨夜の余韻もクソもあったもんじゃない。落ちていた帯で手早く直してマイク片手に声の出どころに向かっていく左馬刻。それを追いかけようとした二郎だったが、足を開かされっぱなしで散々攻め立てられた腰は重く、左馬刻と違って浴衣は脱げて足元で布団に絡まってぐしゃぐしゃになっていた。昨夜あれこれ言われたのも思い出して、自分の荷物から着替えを出してきっちり着込んで後を追った。
 現場は露天風呂だ。ロビーの辺りまで出ると従業員や、同じく着替えを済ませた銃兎の姿があって一緒に人だかりの出来た大浴場に向かった。先に到着していた左馬刻を見つける。隣にはジーパンにTシャツのみでベルトもしていない理鶯の姿もある。
 ざわめく従業員や大学生たちに割り込んで進み出た銃兎が現場を見て、風呂の傍らにしゃがみ込んだ理鶯に目で問いかける。理鶯は首を横に振った。露天風呂を囲む岩を枕にして力なく倒れた男は、死んでいた。
「私は警察です。皆さん、速やかに廊下まで出てロビーでお待ち下さい。現場保存のため余計なものは触らないように。第一発見者の方はこちらに。それから警察へ通報がまだでしたら電話もお願いします」
 ポケットから赤い皮手袋を取り出して身につけながらてきぱきと指示を出した。指示に従って遺体から離れ、脱衣所に戻ってくる理鶯に耳打ちする。
「妙な動きをする者がいないか見張っていてください」
 理鶯は素直に頷いて、ロビーに向かって歩く羊の群れを高い目線で見張りながら追う。
 面倒なことになった。第一発見者の仲居に聞いた話はこうだ。
 風呂の清掃のために湯を抜きに来たら男が頭から出血して湯に浮かんでいた。悲鳴を聞いて駆け付けた男性スタッフと協力して湯から引き揚げたがすでに息はなく、焦る二人に代わって理鶯が死亡を確認した。
 男は大学生グループの最年長、乙島了行。同じグループの男達も全員が駆けつけ、一様に驚いていたという。
 一見すると入浴しようとした際に足を滑らせて起きた事故にも見える。だけど通報のために事務所に走って行った番頭が息を切らして戻ってきたことで事態は事件性を増した。
「電話が通じないんです!固定電話だけじゃなく携帯も、いつも弱くても全くかからないことはないんですが」
 言われて銃兎と二郎はポケットに突っ込んでいたそれぞれの携帯電話を確認したが、上部に表示される電波状況は「圏外」になっている。ここに来た時には一応は拾えていた電波が拾えなくなっている。
「もしかすると雨の影響で基地局にトラブルが起きているのかもしれません」
 過去にそういうことがあったというが、固定電話は電波の都合じゃない。
「休み中だってのに、ふざけるなよ」
 ついつい愚痴がこぼれるのも無理はないことだった。

 今日は朝から道路に積もった土砂の片づけでお役所が動く。作業前に連絡を交わす予定だったから、電話が通じないとなれば道が開通し次第、旅館まで誰か来てくれるだろう。それまで数時間ある。
 銃兎は左馬刻と二郎に言いつけて他のメンバー、容疑者達の監視を理鶯と交代させ、現場の監視を理鶯に任せた。万が一にもまた露天風呂に野生動物が乗り込んでくるようなことがあれば、一人でも対処できる人間を置いた方がいい。
 部屋に戻って着替えたいという要望が出たので一旦全員の衣服や所持品をチェックして、血痕のような不審点がないことを確認後に着替えて再集合となった。朝食の支度が途中だった従業員を優先して事情聴取を行い、昨夜とは打って変わって暗い表情の大学生たちの取り調べを行う。
 彼らは近隣の大学で昆虫に関する研究をしている学生だった。昆虫の採取や観察を目的として旅館の駐車場に車を停めて山に入ったが土砂降りに遭い、びしょ濡れで日帰りもできないことから旅館に頼み込んで客室と風呂と洗濯機を使わせてもらっていた。個別に今朝までの経緯を確認し、二郎が昨夜の夕飯中に聞いた話とも照らし合わせて齟齬がないことを確認した。
 一通り聞いた限りでは全員にアリバイがあった。
 被害者が最後に目撃されたのは昨夜の飲み会中。集まっていた部屋から自室に先に戻ると言って出て行ったその時。二郎も見ている。
 他のメンバーはみんな二郎が同席した夕食の席にいて、時々ばらばらにトイレに立つくらいしかしなかった。
 確認が終わると容疑者達の監視を左馬刻に引き継いで現場に戻る。助手は二郎だ。旅館の業務用備品から手袋を借りて装着させ、自分の言う通りに動くようキツク言い含めて連れてきた。主に携帯で現場の写真撮影を行う。何時間も放置せねばならない以上、遺体もそのままにはしておけない。
 湯から引き揚げて洗い場に置いた被害者にバスタオルをかける際、二郎が被害者の手元を見つめて銃兎を呼び止めた。
「なあ、ここ。なんか持ってたっぽいぜ?」
 なるべく触るなと言われているので指さしで示して、よく見える角度で写真を撮る。指に何か、色鮮やかな粉のようなものが付いている。
「……これは、蝶の羽の欠片に見えますね」
 羽が砕けた破片。そんな風に見えた。だとすれば蝶そのものがいるはずだ。生きていたとしても羽根はボロボロで飛べやしないだろう。二人で周辺を確認すると、風呂を囲む岩に同じ色の蝶の死骸が見つかった。羽の破損具合からして被害者が掴んでいたものと同じだろう。下手に触ると崩れ去りそうだが、こちらも壁のない露天風呂で放置すれば湯が波立った拍子にどこかへいきそうだ。慎重に岩から剥がして保管する。
 蝶の他には被害者の足の爪の間に土が。風呂の目の前の斜面を登ったと思われる。その証拠に斜面の土に滑ったような足跡があった。
「この人、虫の研究してるんだろ?この蝶を捕まえようとして登って落っこちたんじゃねぇの?」
「だったら話が早いんですけどね」
 安直な二郎の推理に右の眉を跳ね上げて銃兎が顎に手をやった。
 深夜に一人で入浴にきて、たまたま蝶を見つけて、そのまま滑って死亡するなんて事故が早々あるだろうか。昼間も山歩きしていた、今回のフィールドワークグループでは最年長の研究者だ。多少酒が入っていたにしろ迂闊すぎる。
 風呂での簡易的な現場検証を終え、ロビーに戻って二郎の撮影した写真を大学生たちに見せた。そこで銃兎の中の疑惑は濃さを増す。
「その蝶はニホンウトキテシジミといってとても貴重なものです。今回俺たちが来たのも、その蝶が生息しているって情報があったからで」
「乙島さんも今回こそ見つけるんだって張り切ってました。……乙島さん、研究があまり捗ってなくて、ご家族から研究をあきらめて就職するよう迫られてたんです」
「だから躍起になって、そんな無茶をしたのかも」
 なるほど。必死だったなら筋が通る。だが、研究材料ならば尚更、急なこととはいえ研究者が蝶を素手で捕まえるだろうか。
 もしこれが事故じゃないとすると、土砂崩れが起きてこの宿に泊まったことも偶然ではないのかもしれない。
 一度二郎を連れて左馬刻と合流する。ヒプノシスマイクを持った目つきの悪いヤクザの前では誰も余計な行動はとれない。実際勘も働く男だが、人間相手の監視役にはもってこいだった。その左馬刻に事情を説明して許可を取る。左馬刻にどうこうさせようってわけじゃない。二郎を大学生たちに近づける許可だ。昨夜の一件があったせいで嫌な顔はされたが事情が事情。昨夜の食事で学生たちと随分気安くなった二郎は話を聞いて回るのに使い勝手が良い。
 そうして理由をつけ、それぞれを宿泊中の客室に帰してから遺体しかない大浴場で寡黙に務めを果たしている理鶯に声をかけた。理鶯にも調べてもらいたいことがある。これは、理鶯が一番の適任者だ。
 夜に雨は降らなかったおかげで土砂の除去作業は予定通り進むだろうと番頭が言った。空はまだ分厚い雲に覆われていた。

 <<なんやかんやあった>>

 ロビーのソファーで足を組み替えた銃兎が片手を挙げて合図する。背後に控えていた二郎が、申し訳なさそうな顔で一歩進み出た。その手には携帯が、録音アプリが表示されている。
「貴方は二年前、被害者の乙島さんに見殺しにされた女性の弟さんですね」
 絶望した顔で二郎を見る。まさか会話が録音されていたとは思わなかったんだろう。二郎のポケットに録音状態の携帯を差し込んだのは二郎ではなかったが、結果的に証拠を押さえるいい働きをした。
「そしてお爺さんは昆虫標本マニア。それで貴方もこちらの道に進んだと、二郎くんにそう言っていましたよね。その中には ニホンウトキテシジミもあったんじゃないですか?それを持ち出し、露天風呂の近くで見つけたと乙島さんに吹き込んだ。自分ひとりの手柄にするため乙島さんがこっそり露天風呂に向かったのを確認し、先ほど私が説明したトリックを使って殺害。そして乙島さんを釣り出す餌に使った蝶を握らせ偽装工作を行った……。ニホンウトキテシジミが手に入るのは、この中では貴方だけだ」
「でたらめだ!あてすっぽうで好き勝手言わないでください!」
 喚く男を視線で刺す。銃兎の眼鏡の奥から睨む目は、細くて鋭い虫ピンのように、のたうち回る相手の動きを封じて企みをつまびらかにしていく。
「家宅捜索をすればわかることです。私の勘では、あの蝶だけを標本箱から抜いて残りはそのまま。お爺さんとお姉さんの思い入れのある標本でしょうからね、証拠隠滅のために全て捨てるなんてできなかったのでは?」
 その問いに男は答えなかった。ぐっと歯を食いしばって、キツク目を閉じる。
「いいですよ。もし思い切ってすべてを破棄していたとしても、それだけ貴重な標本ならばお爺さんやお姉さんのお知り合いの誰かがコレクション内容を把握している可能性が高い。貴重な品のコレクターはお互いのコレクション内容を把握しているそうですね。亡くなった時にコレクションの価値が分からない遺族を説得して譲ってもらえるように、虎視眈々と狙っているとか」
 その点の勝算はあった。メンバーが所有していた図鑑、 ニホンウトキテシジミが載っているその本の著者として彼と同じ苗字の人物が名を連ねていた。そう珍しい名前ではなかったけれど、偶然にしては出来過ぎている。
 もう反論してこないのを見て話を続けた。
「今回、貴方にとって……失敬。犯人にとって誤算だったのは、狙ったこの日が我々の宿泊日で貸切だったこと。天候が崩れるのは計算の内だったんでしょうが、閑散期に貸切客がいることまでは予測不可能だったでしょう」
 銃兎たちも急なスケジュールでこちらに来た。犯人にとっては不運としか言いようがない。
「犯行計画にはこの旅館のロケーションが最適で、闇に紛れて遂行するには泊まりにする必要があった。そこで貴方は自作の爆弾で土砂崩れを起こした」
 突きつけた事実に男は弾かれたように顔を上げる。ソファのひじ掛けに頬杖をついてにっこり笑うと、銃兎は赤い皮手袋の指先で露天風呂の方角を指さす。
「実は、我々が入浴中に猿が襲ってきたんですよ。猿の縄張りは本来はこの近くではないのに。何か理由があったんでしょうね。例えば巣の近くに爆弾が仕掛けられたとか」
 二郎と入れ違いで理鶯が携帯で撮影した写真を持って前に出て、テーブルの上にそれを置いた。抉れた山肌の写真だ。木は倒れ、赤土が見えている。
「これは小官が見つけた土砂崩れが起きた現場の写真だ。通常の土砂崩れでは地面はこんな風には抉れない。何か意図的な爆発が起きたと推測される。激しい雨が続けばこの現場も雨水で更に崩れ、爆発の痕跡も紛れたかもしれないが」
「貴方の一番の計算外は理鶯の存在だったかもしれませんね。ここからこの短時間で山中を走って現場を確認してこれる人間は、警察にもいませんから」
「テメェは二郎を上手く使ってアリバイを作ったつもりだったんだろうが、残念だったな」
 ロビーにため息が漏れた。広い窓ガラスの外側に細い雨が吹き付け、細かな川を描いて流れていく。
「……黙れ」
 聞き取れるかどうか、小さな呟きだった。その声を聞きとろうとした瞬間に男が隠し持っていたナイフを開いて一直線に仲居との距離を詰め、彼女の首にナイフの刃先を突きつける。事件はこれで終わりだと思われた現場に緊張が走る。
「動くな!みんな動くんじゃねぇ!」
「ヒィッ!や、やめてください……」
 咄嗟にヒプノシスマイク保有者たちは自分のマイクに手を掛けたが、ラップよりナイフが滑る方が圧倒的に早い。
「こっち来るんじゃねぇよ!ヘリだ、ヘリを用意させろ!乙島が全部悪いんだ……俺は悪いことなんかしてない!」
「逃げられるとでも思ってるんですか?」
「黙れって言ってるだろ!」
 仕方なく銃兎も両手を挙げ、左右に控えた仲間に視線を送る。犯人に一番近いのは左馬刻か。一秒でも人質を拘束する手が緩みさえすれば。
 糸口を探す間の数十秒。均衡を破ったのはパトカーのサイレンの音だった。土砂崩れの現場を見に行った理鶯が除去作業員に連絡を頼んだお陰で道路が開通して一番に警察が駆けつけたのだ。
 外に犯人の気が逸れた一瞬。二郎がポケットに忍ばせていたピンポン玉を足元に落として抜群のコントロールで犯人の目元に向けて蹴り飛ばした。元来の運動神経で卓球も達者にやってのけたが球技において、二郎の本職はこっちだ。狙いは外さず犯人が怯んだ隙。二郎が球を落とすその時から動き出していた左馬刻がナイフを持つ手を捻り上げた。肩関節が嫌な音を立てる。一瞬でも人質を手放したら、左馬刻は素人がどうにかできる相手ではない。
「やれやれ、無駄な悪あがきでしたね」
 丁寧にナイフを拾い上げた銃兎が雨の向こうを臨めば赤いランプが駐車場の入り口に滑り込んでくることろだった。

 予定では日の高いうちに帰る予定が、もうすっかり陽が落ちてしまった。街灯もない山中の曲がりくねった道をヘッドライトで照らしながら車は走る。
 結局早朝から始まった事件は到着した警察に全てを引き渡し、事情説明まで済ませてやっと終わった。厳密には終わっていないが、左馬刻らを送って一旦帰宅し、仮眠の後に出勤すればいいことに、させた。昨夜だって寝付いたのは遅かったし寝不足だった。結局一日中仕事してしまったし、疲れたからと言って遺体の浮いていた風呂に入り直すことはできない。
「はぁ、とんだ慰安旅行でしたよ」
 ヨコハマに戻ったら左馬刻と二郎は左馬刻のマンション前で降ろして、理鶯は銃兎のマンションに一緒に帰る。仮眠を取ったらすぐ仕事に戻らねばならないから寛げないが、銃兎が眠っている間に冷蔵庫のあり物で食事を作っておいてくれると言うから厚意に甘えることにした。
 本当なら一泊して家に戻って、しっかり休養してから出勤のはずだったのに。ボヤくと後部シートで眠った二郎に肩を貸していた左馬刻が笑う。
「お疲れの巡査部長様にはまた俺様が温泉奢ってやんよ」
「もう温泉はうんざりだ!」
 間髪入れずに叫んだが、理鶯が行きたいと言えば自分で手配してでも行ってしまうのだ。次は最寄りの警察署までの道が分断されないような立地の宿を選んで。そのためなら貸切は諦める。
 山道を抜け、街に出て最初に停まった赤信号。助手席の理鶯を顧みると不安を察して優しく微笑まれる。
「温泉まで行かずとも露天風呂に入りたいなら小官が焚こう」
 違う、そうじゃない。
 優しさを受けとめきれずにステアリングの上に項垂れる銃兎の横顔を眺めて、後部シートで左馬刻は声をあげて笑った。