もう寝るつもりで読んでいた本に栞を挟んでいると、こんな夜更けに誰だろうか。ノックの音で顔を上げた。ここは二人部屋。ルームメイトの客かもわからないが、生憎と部屋の真ん中で生息地を分けた隣人はあらゆる布地をベッドや床に撒き散らしてデザイン画の作成に夢中。ノックなんか気づいてもいない様子だ。
仕方なくベッドを立った。ルームメイトの蛇ノ目に期待して声を掛ける方が手間だ。多分一声じゃすまない。
それにしてもあと三十分で日付が変わろうかという時刻。迷惑な客だ。どんな馬鹿が来たものか、
「はい………」
「ハッピーバースデー!!ディア・蛍!!」
「オイ、大声を出すんじゃない!」
「ははは、恥ずかしがることはないよマイ・エンジェル!友の誕生日は盛大に祝うものだ。……おや、ローザンヌ。姿が見えないと思ったら俺たちの後を追ってきていたんだね!」
チームメイトだった。おまけに扉を開けた隙間に鼻先を突っ込んで犬も入ってきた。
日付は六月二十六日。もうすぐ二十七日になる。如何にも僕の誕生日であり、忘れていたわけでもない。しかしここはゴールドハイム。ファンが押しかけてくる心配のない安息の地だったはず。いや、二人はファンではないのだけれど。
「そう……誕生日を祝いに来てくれてありがとう。まだ三十分ほど先だけどね。それじゃあ夜も遅いからまた明日……」
「なんと!お誕生日だったんですか?」
背後からも歓喜の声がした。
「そうとは知らず、何も準備していませんでした。同室なのにお恥ずかしい」
「言っていなかったからね。気にしてくれなくて結構だよ」
「そんなわけにはいきませんよ。少々お待ちを。皆さんも部屋にお入りください……ああっ!その足跡!偶発的で斬新なデザイン!」
「何?!我が愛しのローザンヌはアートの才能もあったのか!」
「ブラッディヘル!なんで僕まで引っ張り込むんだ!」
「さあ、蛍。美味しいお菓子とお茶も持って来たから前祝いをしよう!」
「なんだこの部屋は、油絵?臭くて折角の紅茶が不味くなる!」
帰って欲しい。蛇ノ目を連れて他の場所で宴を開いてほしい。もちろん僕抜きで。
だけど頼んで聞くような幼馴染ではないし、何だかんだ言って無理矢理連れてこられたノエルも晶がお茶を入れたカップを掴んだ。時間が遅いからお茶だけだと微妙な美意識を見せつけてくるけれど。そういうことなら早く帰って睡眠時間を取るべきだ。
「ケイ、わかっているだろうな?」
僕の部屋で、蛇ノ目のスペースは足の踏み場もないので犬や蛇ノ目まで含めた全員が僕のスペースで、勝手に寛ぐ中。ノエルが顎をツンと聳やかして横目で告げた。
「僕は手ぶらに見えるだろうが、プレゼントは当日渡す主義だ。見損なってくれるなよ」
「ああ、マイ・エンジェル。それを先に言ってしまうのかい?俺だってこのお茶とお菓子だけでは祝福の気持ちを表しきれない。別にプレゼントを用意しているさ!」
祝ってくれるのは素直にありがたいけれど、犬は蛇ノ目スペースとこちらを忙しなく行き来して向こうの汚れをこちらに持ち込まないか気が気ではないし深夜にあるまじきうるささだ。ケチケチした造りではないゴールデンハイムだから隣室への音漏れを気にすることはないが、主賓の僕が一番迷惑している。
でもまあ、一年に一度のことと思って大目に見よう。
そして無事に、部屋に大きな被害もなく日を跨いだ。掃除は必要だが明日の朝まで我慢できる程度だ。
晶はまだまだ元気で蛇ノ目はノエルに似合いの布があるとかなんとか絡んでいる。晶が珍しく横で大人しくしているローザンヌに嬉々として話しかけている隙にひっそり部屋を出た。人口密度が高いとどうしても疲れてしまう。
二〇六号室の扉に背を預けてホッと息を吐き、冷たい水でも飲みに行こうかと顔を上げ、部屋の横で同じように壁に背を凭せ掛けていたらしい創真を見つけた。
「Ciao」
夜だからか控えめに、いつも通り穏やかに微笑んで壁を離れる。そこは創真の部屋じゃない。彼が晶たちと同じ目的だという予想はすぐについた。
「こんな時間にどうしたの?」
「うん。本当は朝にしようかと思ってたんだけど、晶の声が聞こえてね、まだ起きているならと思って」
「なら声を掛けてくれたら良かったのに」
正直なところ、人数が増えて良いことはないが創真なら晶ほどにはうるさくない。
だけど長い睫毛を庇のように下げて視線を外し、少し迷うような間を置いた。
「……楽しそうなところをお邪魔したら悪いからね」
気まずいというより純粋な遠慮か。僕と晶は、昔は創真とチームを組んでいた。そこから創真が抜けて、創真は新しい仲間とチーム組んだ。僕らはそれが気に入らなかったけれど、今はノエルを迎え新しい人生に踏み出している。晶なんかご覧の通りの心酔ぶりでノエルは迷惑そうだけど、それはそれで上手くやっている。
創真自身はノエル個人に遠慮はない様子だし、チーム水入らずへの配慮だろう。蛇ノ目もいるから今更だ。
「邪魔ねぇ。是非とも邪魔して早々にパーティー終了に追い込んで欲しかったところだよ」
「ふふ、俺に晶は止められないよ」
だろうね。止める気があるのかも怪しいものだ。
創真は連中と違って長居するつもりはないらしく、携えていた紙袋を差し出した。中身はツヤツヤのカットフルーツが沈められた宝石箱のようなゼリーと濃い色のドリンク。
「こっちのボトルは濃縮液だからスッキリしたい時にソーダで割るのがおすすめだよ。きっと気にいる味だから」
彼が言うならそうなんだろう。どういうわけか、創真は未だに僕の好みを外したことがない。ダンス以外では。
「それから、これはシキに渡して」
別の袋に入れて渡されたのは瓶入りの透明の液体だった。素っ気のないパッケージだ。
「これは?」
「油絵用の無臭の画溶液。臭いで困ってるって前に言ってただろ?」
口の前で人差し指を立てて「オマケだよ」と片目を閉じる。相変わらずマメな男だ。
「それじゃあ、おやすみ。これからの新しい一年が蛍にとって素晴らしいものであることを祈ってるよ」
ひらりと身を翻して甘い匂いを残して去っていく。ほんの三分ほどの時間だった。晶たちの十分の一にも満たない。
見送った廊下の端。階段への角で創真は誰かを見つけ、その相手に手を振りながら死角に消えていった。こんな時間に出歩いている相手が誰だかは知らないが、誰にでも愛想のいい男だ。
昔からそう。誰にでも特別に優しく、誰も特別じゃない。特別じゃなくたって深夜に訪ねてきてこんな物を置いていくんだ。
背後の扉から仲間の声が響いた。覗き込んだ紙袋を指に提げて、いつまでも賑やかな部屋に戻った。