九つと十九 前編/いちひふ/14318

 美味そうな料理の匂いが換気口から路地裏にこぼれ出して通りからの排気ガスや排水溝の臭いと混じり合う。
 腹減ったな。持たせてもらった弁当の袋、ちゃんと直しておくんだった。ジッパー式のランチバッグなのにジッパーが壊れていたせいで、弁当を投げられた時に全部ぶちまけられてしまった。弁当箱だけでも回収して帰らないと。
 俺より五歳も上の連中は小学生がこんなに強いなんて思ってなかったみたいで、滑稽なほど狼狽えて蹴りつけた腹や殴りつけた頬をさすっている。
「なんなんだお前は……親もいないクセに」
 それがなんだってんだ。家に飯も洗濯もなんでもやってくれるママがいる自分が偉いみたいに。兄弟のことも、同じ施設で暮らす他のみんなのことも馬鹿にされてカッとなった。相手は鍛えた筋肉にさぞ自信があるようだが服装は近隣の有名高校のものだった。大方、親の期待を背負って身の丈に合わない高校に入れられたが頭より拳を振るう方が得意で上手くいってないんだろう。その憂さ晴らしに弱そうなガキを選んで虐めようと思ったら、連中の予想に反して俺は強かった。
「お前らは両親揃っててもわざわざ小学生虐めようとして返り討ちのクソダサ野郎じゃねぇか」
「ガキが調子乗ってんなよ!」
 簡単に逆上して二人で殴りかかって来るのを身を沈めて躱し、一人の脛を足で払う。転げた仲間に怯んだもう一人の頭を殴りつけると勢いでビルの壁に頭を打ち付け、そのまま動かなくなった。
「ヒィッ……!」
 地面にほっぺたを擦り付けていた男が仲間が失神したのを見て両手両膝で地面を這って逃げ出した。本当にダサいヤツ。
 視界から消えたヤツを追うつもりはなくて、建物の壁に寄り掛かって寝ている男はほったらかしで弁当箱を拾った。中身も、そのままにして置いたら迷惑だろう。汚い土埃まみれの料理を弁当箱に入れ直すのを躊躇って、ナップザックから汚れた服を詰めていたビニール袋を出してゴミになってしまった食べ物をかき集めた。弁当箱は施設に帰ったらすぐ自分で洗おう。次に弁当を作ってもらう時、箱の外側に傷がついてしまったのを見咎められるだろうか。その理由も考えておかなくちゃならない。
 喧嘩に勝っても気分は上がらず、粛々と片付けていた時に人の忙しない足音が近づいてきた。
「こっちです!仲間が襲われて!」
 情けない上ずった声だ。さっきのヤツ、助っ人でも連れて戻ってきたのか。
 そう思ったとき、突然近くの勝手口が大きく開いて中から伸びてきた手に襟を掴まれた。不意のことで驚いているうちに建物に引っ張り込まれる。まだ片付けが終わってないのに。
 目の前で扉が閉まって白い手が内側から鍵を閉めた。そこは外と違って揚げ油や香ばしいタレ、美味そうな匂いで満ちていた。
 厨房だ。飲食店の。この商業ビルの一階がレストランだった。
 背中から抱き留められた格好で振り向くと、綺麗な顔の男の人だった。一度見たら忘れないくらい美人で、知らない人だ。
「何すんだテメェ」
「シッ」
 目の前で人差し指を立てて、片腕で俺を抱いたまま今閉めた扉に耳を当てて外の音を聞く。その人が体を傾けたから俺もつられて扉に寄り掛かった。不鮮明な音だけど、何人かの話し声が聞こえる。
「さっきのヤツの声だ」
「高校生?」
「そう」
「キミ強いなー。中学生?」
「小四」
「マジで?アイツらマジ人として終わってんじゃん。キミも小学生一人で無茶すんねぇ」
「ああいう連中は背中見せたら何度でも絡んでくンだよ。自分より弱いと思って」
「だからってさぁ」
「強い相手だって諦めずに殴り続けてたらいつか勝てる。勝つまで殴れば俺の勝ちだ」
 美人が琥珀色の目を丸めて、それから笑って小さく口笛を吹いた。
「そうだよなぁ。でもさ、キミがどんだけ強くてもお巡り呼ばれたら逃げるが勝ちだぜ」
 言われて見上げた。その人が長いまつ毛を上下させてウィンクする。まつ毛の先から星が飛びそうだ。
「見えたんだよねー」
 白くてすらりと伸びた指が厨房の作業台の向こう側を指した。キッチンカウンターごしに客席が見える。あまり広い店じゃなかったから、客席を越えてガラスの向こう側に通りを歩く人の姿まで見える。
「ウチのゴミ箱外にあるから外に出ようとしたら揉めてんじゃん?チンピラ同士だったら放っとこうと思ったんだけどちっちゃい子の方が勝っちゃってるし、終わったかなーと思ったら警察連れて来ンの見えちゃったからさー。補導されると困るっしょ?」
 腕が緩んで、それぞれ勝手口の扉から離れた。体ごと振り返って向き合う。さっきの高校生よりもう少し背の高い、大人だった。柔らかなくせのついた金髪をバンダナで押さえつけているお陰で整った顔の中でもひときわ輝くような瞳がよく見えた。健康的な淡い色の唇をにっと左右に引き伸ばして笑う。美人なのに、大人なのに、人懐っこい笑顔に目を奪われた。
「あ……ありがとうございました」
 助けられたんだ。遅ればせながら理解して頭を下げると「どいたまー」なんてふざけて頭を撫でられる。それから手の中のビニール袋と弁当箱を指さして尋ねられた。
「ダイジョブ?ゴミ捨てる?」
「いや、あの……」
 改めて厨房や店内を見回すと、まだ客はほとんどいなくてスタッフはもう一人。年配の男性が時折こちらの様子をうかがっていた。
「迷惑じゃないっすか」
 野球クラブの助っ人で走り回った帰りだったし飲食店の厨房にいること自体問題な気がした。だけどそんな心配を他所に、美人は年配のスタッフを振り返って何の気負いもなく質問する。
「てんちょー、いっすよねー?」
 そうすると呼ばれた店長が近くまで来て、無言で大きなごみ箱の蓋を開けた。投げ込めってことだ。ビニール袋の口を縛って捨てさせてもらう。
「その弁当箱は?」
「持って帰って洗うんで大丈夫っす」
「そりゃいいんだけど、キミのご飯だったんじゃねぇの?」
「まあ」
 食べ損ねたから施設に戻って食べるつもりだった。もう施設の昼食時間も過ぎているから夕飯まで食いっぱぐれだ。そのことを意識したら腹が鳴った。もう聞こえてしまっただろうけど、どうも気恥ずかしくて胃の辺りを手のひらで押さえる。美人に格好悪いところを見られたのが気恥ずかしくて。
「腹減ってんじゃん」
 聞かなかったことにはしてくれないようだ。顔を逸らす。放っておいてくれって意思表示のつもりだったんだけど、また美人は店長を呼んだ。
「てんちょー、こいつに飯食わしてやりたいんすけど構わないっすよねー?」
 つい顔を見つめると振り向いた美人と目が合って、微笑んで小首を傾げる。店長は今度は言葉で返事をした。
「お前が払うなら社割使っていいぞ」
「ざっす!」
 ちょうど客が一組帰ってランチタイム営業が終了し、無人になったところだった。ディナーまでの間、営業中の札をひっくり返す。美人に背中を押されて客用の手洗い器で手を洗い、外から見えないよう奥まった席に案内された。客席の方にはもう一人、美人や店長と同じバンダナとTシャツにエプロンを付けた男性店員がいたけど美人が「大丈夫」と手を振ると放っておいてくれた。
 ランチが終わるとそれぞれ賄いを貰うんだそうだ。美人はから揚げ定食を二人前持ってきて俺の前に座った。給食で食べたものと違う、食べたことのない味付けのから揚げだった。遠慮しようとしても「気にすんな」で聞いてくれないから何度も礼を言って素直に手を合わせる。
「美味い?」
 一口齧ってから夢中で食べていると血色よく薄く色づく頬を緩めて訊かれて素直に頷いた。口には食べ物がいっぱい入っていたから。
「たっぷり食べろよー。一個おまけしてやるから」
 美人は自分の皿から一番大きなから揚げを一つ分けてくれる。遠慮なく受け取った。彼も自分のペースで食べながら満足そうに教えてくれる。
「これ俺が作ったんだぜ。揚げ具合カンペキじゃね?」
「めちゃくちゃ美味いっす」
「へっへーん」
 口を閉じていると大人なのに喋ると年の近い子供みたいだった。
 両親が亡くなってから弟たちと一緒に入所した児童保護施設にはたくさんの子供がいて、家というよりも年齢幅の広い住み込みの学校みたいだった。入所してから月日が経つごとに親と過ごした時間の記憶もおぼろげになっていったから、そのうちそうした違和感もなくなるのかもしれない。俺よりも親と暮らした時間が少ない弟たちの方が先に慣れていったし。
 でもこうしてきれいな店内でお冷のグラスが置かれて、綺麗に盛り付けられた商品としての料理を前にすると。記念日に両親に連れられて外食した思い出が蘇って何とも言えない気持ちになる。さっき殴り飛ばしたクズ野郎は今も、きっと成人したって記念日やお祝い事があれば親に連れられて美味い飯を食べに出かけるんだろう。
 空腹が解消されて余裕ができると余計なことを考えてしまって箸が止まる。それを見計らったかのように美人が話を振ってきた。
「さっきさー、飯食わしていっすかーって店長に訊いた時、なんか見られてた?」
「ああ、わりぃ……好きな漫画のセリフみたいだったから」
「漫画?俺っちなんつったっけ」
「食わしてやりたいすけど構いませんね」
 言ってもわからないかな。施設には寄付された古本がいっぱいあって、その中には漫画も多かった。だけど同じ施設でも、小学校でも、ちょっと話が難しかったりする年上向けの漫画になると話が通じなかった。熱心に読んでいるのは俺ぐらいだ。美人もなんとなく漫画なんて読まない気がして期待していなかったけれど。彼がぱっと閃いたような顔で人差し指をピンと立てる。
「ジョジョ?」
「知ってンの?」
「友達が全巻持ってて読んだことある!」
「すげー。うちの施設、六部の途中までしかなくて……」
 途中で言葉を止めた。失言というわけじゃない。でも、改めて言うつもりもなかったことだった。何食わぬ顔で話続ければ聞き流してもらえたかもしれないのに自分で止めてしまった。なんて思われただろう。上目遣いで向かいの席の様子を伺うと、俺とは対照的にごくごく自然に付け添えのサラダを口に運んでいた。咀嚼して飲み込み、声を潜めることも過剰に優しく喋るでもなく会話が続いた。
「俺のだったら貸せるんだけどなー。つか、さっき裏口んとこで言い争いしてたのちょっと聞いてたからさ、気にすんなって。とか言われても気にするってヤツ?」
 この人は多分根が明るい。だから俺のためにわざと明るく振舞ってくれているんじゃないかと疑わせもしない。
「うん、いや、えっと……」
 親を亡くしてから哀れまれたり馬鹿にされたり、弟がいたからお前がしっかりやれと諭されたり。いろんな人がいた。大抵の人は家庭事情を知ると最初に気まずそうにして、なんとなく壁ができる。施設の関係者はそうした子供に慣れているけど、そうじゃない大人はどう接していいか咄嗟に迷う。俺たちだってそうだ。どう扱ってほしいかなんて、常に一貫しているわけじゃない。優しくしてほしい時もあれば少しの同情も鬱陶しく感じることもある。
 だけど初対面のその人の気安い態度を心地よく感じた。多分、相手がキラキラしていたからだ。こんなきれいな人を見たことがなかったから。
 すぐにまた会いたいと思った。吸引力のある人だった。

 薄暗いビルの谷間で何時間でも待つつもりで立っていると、予想外なほどすぐに勝手口の扉が開いた。
「よっ。来てくれたんなら表から入ってくりゃ良いのに」
 この間と同じアルバイトのユニフォームで戸口の隙間から美人が顔を出した。前と同じランチタイムの終わり。店の前を通った際に客がほとんど残っていないことまでチェックしてきたけれど向こうも同じく俺の姿を見つけていたらしい。
「飯食いに来たわけじゃないんで。……メシ代払えるほど小遣いなくって、この間食わしてもらった分にも足りないかもしれないんすけど」
 何の店だって金がなければ客じゃない。店の客層もファストフードよりは年齢が高めだった。邪魔にならないよう、勝手口の小脇で小銭を握ってきた手を開く。
 施設では学年ごとに決まった金額、月々の小遣いが支給される。でも微々たるものだ。自分が貰った金を小さな弟のために使ったりもしたからタイミングも悪かった。小遣いを貰ったばかりならもう少しあったのに。
 ちょっと屈んで俺の手の中を覗き込んだ美人も受け取ろうとしなかった。そりゃそうだ。ガキがなけなしの小遣いですってかき集めた小銭を持ってきたってそのへんのコーヒーショップで一杯飲んだら終わってしまうような額だ。ガキから取り上げてまで欲しいとは思わないだろう。
 ささくれの多い俺の手を白い両手が包んで、小銭を乗せたまま握り直させた。
「この間言ったろー?奢りだからいいって。どうせ賄いだからめっちゃ割引して貰ってるし」
 黙って頷いてポケットに収めた。貧乏なガキから金を受け取ると大人の方が人としての格が下がる。美人はそんなケチくさい人じゃないと思っていたから想定内だった。ただ、何も返すことができなかった俺の、ガキなりのプライドはひっそり傷を深めた。あまりダサいところは見せたくないのに金もないし美人の役に立てそうなアイディアは何一つない。恩が返せない。
 ちらりと店内を確認してから美人が外に出てきた。片付けもほとんど終わっていて自分の賄いを作るか、食わずに帰るか。そんな時間だからサボりじゃないんだって舌を出す。
 バンダナを取るときれいに脱色した金髪が揺れた。ちょっと喉を反らして息を吐く。どうやら食べずに帰ることに決めたみたいだ。
「今日はちゃんと飯食ってきたかー?」
「うん。また腹空かして来たら気遣わせるだろ」
「小学生のクセに一丁前に気なんか回して、大人じゃん」
 大人っていうのにてんでガキ扱いで荒く髪を掻きまわして頭を撫でられた。
 今日、金を返す目的でやって来たのは本当だけど、また来るなんて約束をしていたわけじゃない。受け取ってもらえないことも予想していた。それどころか余計な時間を取らせて邪魔にしかならないかも。そこまで考えても「この間のお礼」って大義名分が通用するうちに、もう一回会いたくて。もし実際邪魔でもこの人は嫌な顔しないだろうと思った。
「マジで金は気にしなくていいからちゃんと貯めとけよな。俺っちここの他にもバイト掛け持ちしてっから見た目よりリッチだし」
 頭から肩に移動した手がポンと叩いて、それから一瞬、俺の顔から通りの方に視線が逸れたかと思った瞬間に肩に置かれた手にギュッと力が入った。何かあったかと思って俺も明るい光の差す通りの方を振り返ったけど何もない。高い声で笑いながら女子大生っぽいグループが歩いていくだけだった。美人を見上げると疲れたような色味の薄い表情で細く息を吐いている。
「大丈夫かよ」
 触れていいだろうか。控えめに背中に手を添えて上から下に擦る。肩を掴みっぱなしの手にまた力が入ったから素直に身を寄せた。重みはなかったけど頼られた気がして。それもほんの数秒のことだ。
「ん、サンキュ!今日のランチめっちゃ混んだからぼんやりしちった」
「ぼんやりって、帰り気をつけろよな」
「うち遠くないからへーきだって。でもありがとな」
 俺がこの人と同じぐらい大人だったなら、具合が悪そうだから送るとか言えたのに。背は低い方じゃないけど百八十センチ近い美人と比べるとどっちが送られているか分からない。
 それ以上引き留めないよう自分から離れた。改めてこの間のことに丁寧に礼を言って。金は受け取ってもらえなかったけど、これで会いに来る理由がなくなってしまうことを残念に思いながら。未練がましく見えたら余計にダサいから「じゃ」と片手を挙げた。
 その手首をがっちりつかまれる。
「ちょい待ち、すぐ戻るから五秒待ってて!」
「いいけど」
 驚いて立ち止まると本当に急いで、十秒ほどの間に戻ってきた。それからまた手を取って、手のひらに小さな紙きれを乗せてくれた。
「それうちの店のクーポン券な。今月で期限切れちゃうんだけど。それとさっきのお金あったらジュース飲んでアイス一皿くらい食えっから」
 もし買い食いダメじゃなかったら、と控えめに言葉を足す。もちろん二つ返事でまた来るって約束した。また来ていいんだ。そう思ったら舞い上がってしまって美人が見せた不調のことも失念した。早く帰って早く寝たら早く次のチャンスが訪れるような気がして急いで帰った。

 今日はちゃんと客だ。ちょっと緊張しながら表のガラス戸を押して入ると厨房の方にいた美人が見つけて手を振ってくれた。ホールで動き回っていた店員も俺と美人のアイコンタクトに気が付いて厨房との通用口に近い奥の方の席に案内してくれた。
 貰ったクーポンを差し出してコーラ一杯とアイスの盛り合わせをオーダーする。もう客も少ない時間だったから案内してくれたのと同じ男性スタッフが持ってきてくれて、厨房の様子を気にしながらアイスを食べていると間もなくいつもの美人が厨房の奥から出てきた。まだ仕事中だろうし顔が見られれば御の字と思っていたのに、何か、紙袋を持っている。
「キミ、漫画読むの早い方?」
 隣にしゃがんだ美人が紙袋を開くと以前話した漫画シリーズの未読巻が束になって入っていた。
「へへ、新しいシリーズだけ買っちった。読むっしょ?」
「……俺が借りていいのかよ」
「こないだ話してから俺っちもまた読みたくなってさー、読んだら一緒に漫画の話してよ。もう俺の周りに漫画読むヤツあんまいなくってさ。大人になるとみんな少年漫画は卒業とか言い出すんだよねー」
 表情豊かにぼやいて紙袋を差し出す。俺が返さないことなんか考えてないようだった。学校の友達やこの店のバイト仲間ってわけでもないのに。
 それに手を出すのを躊躇って、アイスのスプーンを握りしめて紙袋を見下ろした。
「普通のヤツは俺みたいなヤツ、どうせ育ちが悪いとか言って信じないんだよ」
 そう教えたのは信用される居心地悪さと善意に似た気持ちからだった。俺は特に売られた喧嘩は買ってしまう性質だ。学校や近隣では悪ガキ扱い。学校の担任は理解してくれるけど、他のクラスの子供に馬鹿にされて喧嘩した時なんか向こうの担任は最初から俺が悪いと決めつけていた。
 以前喧嘩を売ってきた高校生だってそう。俺が施設暮らしと知っていたみたいで、近くの商店の軒先で商品を見ていたら万引きするつもりじゃないかって難癖つけてきた。それで俺が睨んだら大喜びだ。自分の方が強いと信じて疑わず、躾って名目で人目を避けた場所で詰め寄ってこられて、返り討ちにしたけど。
「アンタが俺みたいなガキを疑わないでくれる良い人だってのはわかるよ。でも何でこんなに優しくしてくれるのかは、分からない」
 可哀想なガキだから。そんな答えしか浮かばない。好意に甘えているんだから文句は言えないけど、ボランティアみたいな気持ちで優しくされても嬉しくはなかった。
 隣にしゃがんだ美人の琥珀色の目を見つめる。緩慢に瞬きして、人懐っこい笑顔が真顔になった。
「何でって、友達じゃん?」
 折り曲げていた膝を伸ばして立ち上がり紙袋をテーブルの端に置く。厨房に目を向けてまだ呼び戻されないのを確かめテーブル脇に立った。仕事中だから向かいに座るのは遠慮しているようだった。
「友達?歳も離れてるのに」
「別に良くね?リスペクトしてるところがあればさ」
 すぐには言葉の意味が消化できなかった。友達ってクラスが一緒の子供やよく遊ぶ同年代のことをそう呼ぶんだと思っていたから。
「リスペクト、って?」
 慣れない横文字を復唱して尋ねる。
「尊敬、みたいな」
 大人が子供を尊敬なんて言うのも聞いたことがない。まだ納得しない様子を見て照れくさそうに教えてくれた。
「あのさ、俺っちすげー苦手なもんがあってずっと逃げてたんだけど、年上二人相手に一歩も退かずに立ち向かうの見たら俺もやったろー!みたいな気になったんだよね」
「アンタにも苦手なんてあんの?」
「そりゃあるよ。今克服しようと頑張ってるとこだけどねー!」
 片目でぱちりと瞬きする。この人ならどんな難しいことでもやり遂げてしまいそうな気がした。
「それにキミはちゃんと読んで返して俺っちと漫画の話してくれるっしょ?」
 笑ってテーブルの上の紙袋を俺の方に押し出すと、死角になる席にいたもう一組の客がレジに向かうのに気づいて厨房に戻っていった。ランチのラストオーダーの時間だった。営業時間が終わると片付け作業や次の営業への準備があるんだそうだ。
 俺も残りのアイスとコーラを飲み干して会計を済ませて店を出る。俺が最後の客だったから居残ると店員の仕事が終わらない。
 渡された紙袋は大事に抱えて帰った。これがまた彼に会うための切符だから。

 借りた漫画の単行本は施設の本棚の物に比べたら新品同然にきれいだった。折り目の一つもつけないよう丁寧に読んだ。
 早く読んで返しに行きたくて熱中していると、二つ年下の弟が二段ベッドの上段の柵に手を引っ掛けて顔を出した。
「兄ちゃん、お財布持って今日どこ行ってたの?」
 寝転んだ枕元に積んだ真新しい漫画を見て不思議そうな顔をする。小遣いを持って出かけたことは知っていたから何か買ってきたに違いないと踏んだのに、俺はこの漫画の束しか持ち帰らなかった。まだ九九も間違える弟でも俺の小遣いで何冊も漫画を買うことができないってことは分かっている。
「友達に会いに行ってたんだよ。これは借りてきた本」
 読みさしの本を閉じて表紙を見せてやる。漫画でもまだ弟には難しいから読みたいとは言わなかった。
「友達って小学校の?」
「違う。もっと大人の人」
 詳しい追及を避けるために言った。弟の知らない人だ。弟は俺がどこで何をしていたか知りたがる。お陰で学校の友達はみんな弟とも顔見知りだし、弟も運動神経が良かったから上級生の遊びにも食らいついてきた。施設の先生も、弟は兄のすることを真似たがるものだと言っていたし、両親のことがあったから尚更家族のやることを把握していたい気持ちもあったんじゃないかと思う。俺も弟たちのことは心配だし、弟に心配されるのも嫌というわけじゃなかった。
 でも美人の店に一緒に連れて行ってやろうとは思えなかった。複数人で押しかけたら困らせるだろうし、彼は他の友達とは違った。歳が離れているだけじゃなくて。
「大人の人…………」
「大丈夫だよ。怖い人じゃないしたまに通りかかる店の店員さん。それよりお前、今日の宿題終わってんのか?」
 漫画を置いて弟が掴んだ柵に手を掛ける。降りる素振りと見せると弟は足場にしていた下段の柵から床に降りた。ベッドに並んで設置された学習机に放置されたランドセルを横目に弟が「まだ」と呟いた。
「見てやるからやっちまえ」
 自分の机から椅子を引っ張ってきて弟の机に寄せる。弟は素直にランドセルを開いて算数ドリルを広げた。勉強はしたくないけど俺が隣でみていたらサボれない。俺にも弟とは別でやりたいことはあるから毎日そうしてやるわけじゃないけど、美人のことをはぐらかしたことが後ろめたくてそうした。

 読み終えた漫画に新しく貰った小遣いで買ったガムを添えていつものランチタイムの終わりに店を訪れた時、美人は目に見えてやつれていた。
 白くても生来の明るさで健康的に見えていた肌から血の気が引いて目元にも疲れが色濃く浮き出ている。ビルとビルの隙間で薄暗い勝手口だったからそう見えたわけじゃない。顔を合わせたら微笑んでくれたけど声の張りもなかった。
「いやー……ちょっとよく眠れてなくてさ」
「眠れないって、克服するって言ってたヤツ?」
「うん…………、まあ、そんなとこ。でも大丈夫。こう見えても俺っち根性はあっからね」
 心配する俺の頭を撫でる手を掴む。指先が冷たい。それから、通りを歩いていく人の笑い声でまたびくりと肩が震えた。その時は何を恐れているのか分からなかった。俺が振り向いてもこちらを見ている人はいなかったし、そこには大人しそうな女子高生しかいなかった。
 掴んだ手を両手で包んで握る。小さい頃に母親が励ましてくれる時、よくそうしてくれた。
「アンタなら大丈夫だよ、きっと」
 借りた漫画は主人公たちにたくさんの試練が降りかかるけど、いつも諦めず工夫と度胸で勝利を勝ち取っていた。物語の中では大抵、勇気を持って努力して自分の正義を貫いたヤツが成功を収める。現実の世界もそうであったらいいと思う。
「サンキュ。気合入った」
 借りた漫画を返して、ゆっくり話すのはまた今度にしてすぐ美人を店に返した。またおいでと言われて、また来ると約束して帰った。
 でも「また」はなかった。

 いつも美人が出勤している曜日、時間に店に様子を見に行くと厨房の奥にも姿が見えない。店の前を何度か行き来しても見当たらず、休みだろうかと思った時に店長が奥から出てきてくれた。背が高くて職人気質な雰囲気の男性で、仕事さえちゃんとやっていれば手隙に客の目を避けて美人が俺に声をかけても放っておいてくれた。だけど何度も来たら流石に迷惑か。身構えた俺の目の前まできた店長は腰をかがめて目線を合わせてくれた。
「今日は一二三は病欠だよ。聞いてねぇか?」
 気遣わし気に言われて頷く。
「前に来た時に調子は悪そうでしたけど……連絡先とか知らないから」
「ああ、お前小学生だもんな。携帯とか持ってねぇか」
 聞けばまばらに入っていたディナータイムのシフトもすべて休みに変更されているらしい。
「入院するような病気ってわけじゃないからって連絡は入ってるから。まあ心配すんなよ。もし一二三に渡すもんとかあったら預かるからな」
 店長にもずいぶん親切にしてもらった。それからも何度か店まで様子を見に来るたびに美人が休みになったことを教えてくれた。そして何度目か、個装の焼き菓子を持って出てきて「アイツは辞めた」と言った。
 休みが続いていたから様子伺いの電話を入れた際に退職を希望され、その後に一度だけ、最後の給与の受け取りに来て菓子折りを置いていった。スタッフの人数に見合わない数の菓子が入っていたから一つ取っておいてくれたんだそうだ。
「元気そうだったよ。これからは掛け持ちしていた仕事一本で食ってくんだと」
 言われたのはそれだけだ。俺への伝言がないか期待してしまったけれど、店長は申し訳なさそうな顔をするばかりで何も言わなかったし俺も自分から尋ねることは出来なかった。多分、何か言われていたらちゃんと伝えてくれただろうから。
 東京は人の多い街で、偶然再会するような奇跡は起きないまま何年も時が経つ。歳を重ねて顔が広くなってからも身の回りに彼が現れることはなかった。

 その名を聞いたのは俺が十九の年だった。一年前に親しくしていた人からの依頼で、知人のストーカーの所在を調査の話だった。依頼の詳細に書かれたフルネーム。調査そのものは弟に任せた後で引っかかりを覚えて自分でも調べてみた。一般人は本名で検索をかけても個人情報があまり拾えないことも多いがその男は顔も勤務先も、あらゆる情報がヒットした。
 伊奘冉一二三、シンジュクの有名なホストクラブで長らくナンバーワンを張るプレイヤーだった。その容姿は十年近い歳月をまるで意に介さない。一目でわかった。
 ああ、彼はあの頃に挑んだ仕事で成功して、今も戦い続けてるんだと。

 それから間もなく、テリトリーバトルの本戦が行われた。彼についての依頼を寄越したのが過去に俺とチームを組んでいた神宮寺寂雷だったことから再会の予感はあった。
 会ってもこっちは背も伸びたし分からないかもしれない。昔何度か会っただけの子供なんて、いまやたくさんの女が大金を積んで夜毎会いに通ってくるような男の記憶には残っていないかも。
 それでも期待してしまう。背の高い旧知の人の後ろを歩く、懐かしい姿。久しぶりって言葉を待ってしまった。
「うっわ、ちょーやべぇ、キミが元ダーティドーグの山田一郎くんかぁ!いきなしビッグな奴と知り合っちまったなー!」
 まるで初対面の態度だった。あの頃見上げた笑顔は、今は俺の目線の方が高くなっていた。忘れられても仕方ないことだ。
 差し出された手を握る。もう指先は冷たくはなかった。

 シンジュクディビジョン代表チームとしてステージに上がった一二三は見た目こそ昔と変わらなかったが、その性格はまるで別人だった。ホストクラブでの営業用に演じているキャラクターかと思えばそうでもない。バトル開催の前後に滞在するホテル内でもきっちりとスーツを着込んですれ違う女性、ホテルのスタッフでも他の客でも、一人一人にマメに声をかけて気障な甘いセリフをかけていく。中王区のゲート前で再会した時には俺のことを忘れていたって思い出の中の美人そのものだったのに。
 ホテルのエレベーターで俺と二人、女のいない状況に置かれても子供みたいな喋りで話しかけてくることはなかった。おかしい。
「そうだね、彼は普通ではない」
 寂雷はあっさりと頷いた。患者のことなら守秘義務を守って些細なことでも口にしないような人だが、一二三は患者というわけではなかった。それに一二三の態度の変化は誰の目にも明らかで取り繕い様がない。
「見ての通り、スーツの着用をスイッチに別の人格に切り替わる。人格といっても記憶は途切れないようなので不便はありませんよ」
「どうしてそんな風になったんすか」
「それは、彼自身の口から聞くべきでしょう」
 寂雷はそういう人だった。それに、一二三は秘密主義というわけじゃない。チャンスはすぐに訪れた。
 テリトリーバトルが終わってホテルに帰る途中、運営スタッフに呼び止められて手続きを言いつけられた。手間取りそうだったから先に弟たちを帰して用事を済ませ、一人で通用口から会場を出たところで一二三と鉢合わせた。
 暑そうにスーツの上着を脱いで肘にかけ、緩めた襟元に風を送っている。額に汗が浮いて街灯や駐車場の向こうを走っていく車のライトの光を反射してキラキラしていた。
「あ、お疲れでーす。先生まだかかりそう?」
 上着一枚脱いだらもうこっちの一二三だ。
「見てないっすけど、俺と同じ用事で捕まってんなら結構時間かかるんじゃねぇかな」
「そっかー。やっぱ先帰っちまおうかなー。独歩が待つっつーから待ってたんだけど、なんか仕事関係の電話きてどっか行っちまったし」
「休みとってテリトリーバトルに来てんのに仕事の電話なんかくるんすか」
「営業にプライベートはないんだってさ。こっえーよなぁ」
 全く気負いなく話を振って、携帯で時刻か連絡の有無か、その両方を確認して背中を預けていた壁を離れた。
「一郎くんこれから飯?弟くん達と約束してないなら一緒に食い行かねぇ?」
「いいっすけど」
「そんじゃ決まり!店入ったら一応独歩にも連絡入れとこ」
 すれ違い様に背中を叩いて促される。もう自然と頭に手の乗る身長差じゃない。
 一二三が歩くのに合わせて進むと広いライブ会場の外周をまわって正面側じゃなく、裏手の暗い道を選んで敷地を出た。テリトリーバトルは二度目だが、ホテルまではタクシーだって使えたからわざわざ足元の暗い道を選ぶことはなかった。
 どうやら生垣に囲まれた緑道に踏み込んだらしく、しんと静まり返って街の光も遠い。弱めの街灯がポツポツ並んでいた。
「この道どこに繋がってんすか?」
「あっれー、怖い?」
「ビビってるわけじゃねぇよ」
「ダイジョーブだって、前に来た時個室のある店探してさぁ、ここまっすぐ行って突き当たりで曲がるといい感じの店に……」
 得意げに話していた一二三がピタリと足を止める。遠く、こっちに向かって歩いてくる人影が見えた。まだ距離があるから顔は分からないが足はあるし話し声が聞こえる。女二人組だ。
「どうしたんだよ。アレは幽霊なんかじゃない。生きてる女だぜ」
 中王区でのほほんと暮らしている女だ。こっちが怖がる必要はない。なのに一二三は一歩も動けなくなった。それどころか呼吸が荒く、小さな悲鳴のような響きで「女……女がくる……」と呟く。明らかに様子がおかしい。宥めようと背中を撫でるつもりで手を当てると俺の存在を思い出した様子でこっちを見て、シャツを握って震えだした。
「女……やだ、た、助けて」
 全く意味がわからない。だって中王区に入ってからずっと周りは女だらけ。一二三が自分から女を口説くところも見た。今更何を怖がる。
「冗談だろ、急にどうしたんだよ」
 服布地を引く手に手を重ねてきつく浮いた筋や予想したより冷たい肌に気がついた。また少し、女達の気配が近づく。
「本気なのかよ……」
 ちらりと過去の、ビルの隙間から見た通りを歩いて行く女性グループの姿が頭を過ぎった。女か。昔から女が怖かったのか。
 確信を得て、ほんの少しの後ろめたさからくる躊躇いの後に抱き寄せた。耳元で囁く。
「隠れよう」
 近くの生垣に引っ張り込んで身を低くさせる。低木に体を半分埋めるように押しつけて、女達が通り過ぎるのを待った。流石にテリトリーバトルで滞在中に騒ぎを起こすのは極力避けたい。
 女の足音が近づくと一二三は小さな悲鳴をあげて自分で口を押さえた。背中に手を伸ばし上から下に撫でてやる。
「えー、絶対さっきこの辺に誰かいたよぉ」
「引き返してどっかいっちゃったんじゃない?」
「そうかなぁ、だったらいいけど。お化けだったらどーしよぉ」
 怖いなんて言っても男のいない街だからか、夜道でもあまり警戒する様子なく通り過ぎ、やがて見えなくなった。一二三の方がよっぽど怯えきっている。
 すっかり女の気配がなくなって、先に生垣から出た俺が合図してやっと一二三はいつもの調子に戻った。
「めんごめんごー!俺っち女のコが苦手でスーツ着てないとこうなっちまうんだよねー!」
 怪訝そうな俺の目の前で小脇に抱えていたスーツに袖を通す。
「キミには大変迷惑をかけてしまったね、一郎くん。お詫びにこの先のお店で奢らせて欲しい」
 人懐っこい笑顔がキリリとしたホストの顔に変わる。確かに別人のようだ。ステージに立つ時と同じ。
 知ってはいたが目の前でこうも変化すると狐につままれたような心地さえした。それに女へのあの怯えっぷり。とてもじゃないがホストなんかやってられないだろう。
 昔、苦手を克服するために頑張ると言っていた。あの頃からすでにホストの顔を持っていたなら克服する必要もなかったはずだ。つまり、過去に出会った頃にはきっとこうじゃなかった。
「一郎くん?」
「いや、なんでもない」
 昔のことも覚えていない。俺もホストの伊奘冉一二三は知らない。まるで本当についこの間知り合ったばかりの人みたいだ。
 店に向かって歩き出す。相変わらずきれいに伸びた知らない人の背中を追って。