イケブクロ事変/さまじろ/17389

※オメガバシリーズ「触れてしまったらそこで終わり」の後の話です。
※名前の付いた主張強めのモブがいます。
※一郎、二郎が不良高校で頭を張っていた設定です。イメージがわかない場合はハイアンドローザワーストを見よう!

 それは十九の梅雨明けのことだった。
 前触れなく連絡を受け、左馬刻が手配した迎えの車に乗った。いつもの運転手が見たこともない軽自動車でやってきて、見知らぬマンションに送り届けられた。
 初めて訪れる場所だったことは然程驚くことじゃない。職業柄か、不動産はいつくも持っている男だ。それら全て把握したいとも思わないし興味もない。
 変だな、と思ったのは部屋にやけに食糧と生活用品が充実していたこと。左馬刻や他の誰かが使っていた部屋というわけではなく、新品未開封の品物が揃っている。
 まさかな、という予想は当たり、後から来た左馬刻にしばらくそこに住むように命令された。ふざけやがって。怒ろうとしたのになんだかんだでうやむやになった。何の予定もない時期の呼び出しかと思っていたのにヒートが来たから。番の体の周期はαの方がよく把握してるってのはよく言われるヤツだ。
 お陰で丸一日ほど喧嘩どころではなくて、疲れ果てて寝て起きた昼にテレビをつけた。
『電撃番契約!入籍秒読みか』
 浮かれ切った見出しの下に俺と左馬刻のフルネームが並んでいる。
「は?」
 ワイドショーの司会者が半笑いで「驚きましたね」などと言って大きなモニターにカメラを誘導する。そこに映し出された写真は紛れもなく俺と左馬刻だ。サングラスや帽子で隠しているが、確かにこんな服装で外出した心当たりがある。
 血の気が引く思いで焦って何するわけでもなく左右に視線を走らせて落ち着きなく通知を伝える携帯が目に入った。見たくない。咄嗟に思うが見ないわけにもいかない。シャツの胸元を握りしめて震える手で携帯を取り、友人知人はひとまずスルーで兄弟の名前を探した。兄弟たちはすでに左馬刻との仲を承知しているし、今日の外泊だって一応知っているが。
 新着メッセージが多すぎてなかなか見つからないメッセージボックスを必死にスクロールして底の方にやっと兄の名前を見つけた。時刻は、今朝だ。
『しばらくそっちに泊まって家には帰るな』
 兄ちゃんが帰ってくるな、だなんて。茫然自失。
「あ、クソ。ンな写真まで撮りやがって」
 ショックを受けて周りが見えなくなっているところに肩に顎を乗せて耳元で毒づかれ、過剰反応気味に肩を揺らした。部屋の中には二人きりなのに誰かに見られたらマズいという焦りで振り払おうとしてしまう。だけど左馬刻はそんな反応が気に食わない様子でがっちり肩を掴み、首にかかる髪の毛を指でどかしてうなじの歯形を舌先でなぞる。古い方じゃなく新しい、昨夜噛んだ浅い方。古い方、番になった証は常に首に残っている。ケロイド状の痕が今は紫色で、何十年もかけて加齢とともに茶色へと変色していく。うっすら残る新鮮な赤い歯形を確認するみたいにしてから指で古い方を撫でた。番の証である最初の噛み痕ってのは、セックスのたびにプレイの一環で噛むのとはちょっと違う。特別なものだ。
 そうされると焦りが紛れて何が何だか分からなくなっていた頭も少しは冷える。俺が多少は落ち着いたのを見て、左馬刻が顎でテレビを示した。
 さっきのデート写真の横に別の写真が追加で表示されている。やや映りの悪い、俺一人の写真だ。こっちも服装や様子で大体いつのことかわかる。出先で土砂降りにやられて雨宿り中、濡れて張り付く髪を避けた時の一瞬を切り抜いている。狙いは首の傷跡だ。ご丁寧に拡大して、番成立している証拠として解説されている。
「…………ッ!」
 番を持つΩなら誰だってある。お前の両親だって大昔にセックスしたからお前がいる、ってのと同じ話で、生き物の繁殖と繁殖行動は切っても切り離せない。番夫婦だってそうだ。β夫婦より確実に繁殖するための仕組みとして番を持つ習性があって、番化する手段としてうなじを噛む。興奮してフェロモン分泌の活発な時に。大抵は、セックス中に、だ。
 いやいやいやいや、いや、俺はそうじゃなかったけど。一般的にはそういう風に見られるもんだ。いやいや、βより少数とはいえ世の中にはたくさんのαとΩの番がいて、みんな番というからにはセックスもするし首も噛んでいるんだから恥ずかしがることじゃない。ないからこそ婚約指輪感覚でテレビで流されたりするんだろうけど。けど、下世話なヤツなら絶対にスケベな想像を働かせるだろう。Ωの人権保護団体がどんなに抗議したってまだまだΩへの偏見、いやらしい視線は根絶しない。左馬刻と出会うまでは俺だってΩの自覚が薄くて、ヒートも軽いしβ同様に生きるつもりだったからわかる。わざわざ番なんか持つΩは性欲が強かったりするんだろう、なんて偏見。
 バカタレ。相性のいいαに出会ったらそれまでの価値観なんかひっくり返って本能に振り回されるんだ。不可抗力だ。何日も便所を我慢できるヤツだけが石を投げろ。相性最悪の花粉を肺いっぱいに吸ってくしゃみも鼻水も垂らさず耐えきれるヤツだけがΩを蔑め。
 笑顔のコメンテーターたちがみんな下世話なことを考えているように見える。訳知り顔で適当なこと語りやがって。
 もう、もう、最悪だ!
 頭を抱えたり髪をかきむしったりソファに転がったり。じったんばったん忙しい俺の横で左馬刻が電話をかける。
「俺だ。ああ、こっちはまだ嗅ぎつけられちゃいねぇ。……だろうな。全員チェックしとけ。カメラに局の名前書いてあんだろ。…………一週間だ。多少なら銃兎の方に借り作っても構わねぇ。ブクロの方は……あっちはあっちで何とかすんだろ。放っとけ」
 ソファの上で顔を覆った指の間から不遜な番を顧みる。今ウチの話をしていたような。
「おい、気が済んだら飯にすんぞ」
「……今の何の電話だよ」
「事務所や俺のマンションに集ってやがるハイエナどもの身辺調査依頼に決まってんだろ」
「身辺調査……」
 ヤクザのやる身辺調査。悪徳警官を頼るような話もしていた。
「強請りのネタ探し?」
「人聞き悪ぃな。善良な市民の平穏な生活のためにお引き取り願うだけだ」
 善良な市民は他人や報道各社の弱みなんか探らない。だが兄ちゃんからのメッセージの意味がやっと分かった。勘当されたわけじゃなくて、家の方にもマスコミが集まってるんだ。申し訳なさで今すぐ飛んで帰りたい気持ちだけど帰ると余計に迷惑がかかるからグッと堪えて謝罪のメッセージを送った。
「……でも今まで上手くやれてたのに、今更バレちまうなんて下手踏んじまったな」
 がっくり肩を落として言えば鼻で笑われた。
「何が上手くやれてた、だ。今まで無事だったのは俺様が手回して週刊誌記事差し止めてたからに決まってんだろうが」
「は?!」
「テメェの脇の甘さで上手くやるなんざ百億年早ぇわ」
 言われて思い浮かぶ、手ぬるい変装姿で左馬刻と外出した思い出。よくいく左馬刻所有のマンションの出入り口が見張れる位置に停まっていた車。人が隠れられそうな生垣。返す言葉もない。
「…………ちょっと待てよ?じゃあなんで今まで止めてたのに今回は記事が出ちまってんだよ」
 記事を差し止めるにも金がかかるだろう。その資金が尽きたのか?
 そういう俺の予想とは全く違う言葉が返ってきた。
「お前が学校卒業したからな。いつまでもコソコソやってんのは性に合わねぇ」
 左馬刻がソファの端で足を組んでリモコンでテレビのチャンネルを変える。ワイドショーやニュース番組はどこも俺たちの話題だ。つまらなさそうに再放送のバラエティ番組を選んだ。
 丸くなっていたソファの上で起き上がって携帯の新着メッセージリストを確認した。高校の友人も多い。内容は心配するものばかりだ。
『学校もねぇんだしほとぼり冷めるまでゆっくりしてな。俺らは取材来ても何にも答えねぇから』
 卒業までは毎日のように会っていた友人たちだ。膝を抱えて一つに返信を打とうとする。今まで黙っててごめん、と、ありがとうを迷って手が止まる。普段はあまり悩まないから返信は早い方なのに。今までβと偽っていた友人たちに、俺一人だけΩだったと認めるのが情けなくて、心細くて。
 左馬刻の手が肩を暖かく包んで引き寄せるから素直に肩を借りた。
「マスコミが片付くまではうろつけねぇんだからゆっくりやりゃいいだろ」
「うん」
 いつまでも隠れて会い続けるのも大変だとは思ってた。立場上苦労するのは最初から承知だし、兄弟には知られてる。だけど親しい友人たちにも言えなかった。悪いことしてるわけじゃないのに。そんな寂しさは確かにあった。
「…………この騒ぎが収まったらさ、変装とかなしで一緒に飯食いに行ったりしていいんかな」
「その辺の番見てみろや」
 番ってのは普通は夫婦同然の関係だ。実際、入籍している場合も多い。同性でも結婚して、子供をもうけて、飯でも買い物でも旅行でも、普通の家族がやるように生活している。
「そっか。あのさ、連れて行きたい店あるんだ。定食屋なんだけど」
「なんだそりゃ。テメェはホントに金がかかんねぇな」
「うるせぇな。同じ施設で育った幼馴染が何人も働いてんだよ。仲間思いで気のいい奴らでさ」
 血の繋がった兄弟はもちろん誰より特別だけど、施設を離れてから会わなくなったみんなも一緒に育った家族だ。
 相槌代わりに髪を撫でられた。兄ちゃんは俺たちのことは黙認してくれている。番は解消できないし、俺の選択を尊重する気持ちと、やっぱり左馬刻を許すことはできない葛藤の結果がそこだった。
 しばらく会っていないみんなはなんて言うだろう。一人でも祝福してくれたらいいなと思う。

 熱愛報道は三日で消滅した。出回った記事は虚偽の内容が含まれるもの、下世話な内容のものは削除された。こちらは左馬刻の差し金じゃないが、とにかくきれいに消え失せている。
 同時に家や事務所を取り囲んでいた連中も撤退し、野次馬が時々湧いてくる程度にまで落ち着いた。ここまで五日程度だ。そうしてやっとイケブクロに帰宅を果たした。
 それからしばらくは兄同伴で迷惑をかけた人へ謝罪と挨拶に行ってお祝いを押し付けられて帰る用事が続いた。籍は入れないし相手が相手だから祝われて良いものか悩んだけど、兄ちゃんがいいって言うから素直に受け取った。一番大事な兄弟は未だに複雑そうにしているから誰にも期待はやめておこうと思っていたけど、誰かに許されるとホッとする。
 だけど当然良いことばっかりじゃなかった。

 数日かかった挨拶回りの最終日。帰りに兄ちゃんの希望でアニメショップに寄った。俺もしばらくそれどころじゃなかったから新刊チェックしたかったところだ。店でも多少は好奇の視線が飛んできたけど外よりはマシだった。アニメショップにいる客は俺なんかのゴシップより推しの限定グッズの方が大事だから。
 二人でアニメショップのロゴが入った袋を提げて店を出て、機嫌よく帰ろうかという時。二軒先の角を何人かの通行人が遠巻きに覗き込んでいる。嫌な予感がして走ったら、案の定だ。この辺じゃ見かけない男二人組が小柄な男子高生を取り囲んでいる。カツアゲみたいな図だったけど、何かちょっと様子が違った。
「おい、テメェら。そこで何してる」
 買い物袋を俺に預けて兄ちゃんが先に進み出た。振り向いた男たちは相手が山田一郎と分かってあからさまに怯んだが、その後ろにいる俺を見つけて気色悪く目を細めた。
「なぁんにも」
 少年の服から抜いた両手を挙げ、無実をアピールするポーズで俺たちの脇を横切って大通りに出ていく。俺にねっとりした無遠慮な視線を浴びせて。
 連中が完全に見えなくなると、少年は自分の腕を抱いてその場にしゃがみ込んでしまった。真面目そうな顔なのに学ランのボタンは開かれ、シャツの裾がウエストからはみ出ている。兄ちゃんは険しい顔でその場に立ち尽くし、近づこうとしなかった。俺がすぐそばまで寄って膝を折る。
「もう大丈夫だ。怪我ないか?」
 声をかけて顔を上げさせる。目が合って、俺だと分かった瞬間に緊張の糸が切れた様子で縋り付いてきた。そいつはΩだった。相手がαだったかはわからない。α同士はフェロモンがわからないからαの兄ちゃんには判別がつかないし、俺はもう番以外のフェロモンが利かない体だ。少年に事情を聞く気にもならなかった。自分なら聞かれたくない。
 俺たちから距離を保った場所から一歩も動かずに兄ちゃんが尋ねる。
「一つだけ聞かせてくれ。最近、ああいう手合いが増えてるな?」
 背筋がざわめく。少年を俺から目を逸らして小さく頷いた。
 俺は何も聞いていなかった。このイケブクロは高校を卒業した今も一応は俺が仕切ってる。どんな情報でも耳に入るし看過できないトラブルが起これば収拾にあたる。実際少し前まではそうだった。なのに、こうした事件が頻発していることを知らなかった。
 即座に仲間に連絡を取った。
 不安そうなΩを家まで送ってから母校の近くにある飯屋で待ち合わせ、気まずそうな仲間とテーブルを囲んだ。同期の鐙と後輩の南雲。兄ちゃんは別行動だ。これは俺がなんとかするべき問題だから同伴はしない。
「で、俺に隠れて何が起きててお前らどうしてんだよ」
 仲間が悪いわけじゃないと分かっちゃいるけど厳しい言い方になった。まだ高校で俺の後を継いでトップとなった南雲が口を引き結ぶ。その横で、今は身内の経営する飲み屋で働く鐙が肩の力の抜けた様子で答えた。付き合いが長いお陰で俺の怒りの矛先をよく分かってる。
「お前の報道があって少ししてから他地区からの冷やかしが増えてる。それで小競り合いも増えたが、そりゃまあいい。テリトリーバトルの結果次第でよくあることだしな。マズいのは女や弱そうなヤツを狙ったトラブルの方」
「俺のせいだ」
「いや、二郎さんが悪いわけじゃないっすよ!」
「悪いことはしてねぇけど、舐められてる原因は二郎だろうよ」
 木根が頭を抱える。
「いいって。はっきり言ってくれた方が楽だ。で?」
 沢山の不良を率いてるくせに情けない顔をして、木根が顔を上げた。
「ウチの連中が巡回してます。他にもOBの人が深夜とかも見回ったりしてかなりの数の被害を防いでるんすけど」
「敵が飽きるまで続けるのは骨だわな」
 すでに自分が飽きた様子でテーブルに頬杖をつく。それから視線を落として言葉を足した。
「……俺らも余計な気まわしてお前への報告が遅れたのは悪かったよ」
「すんません……」
 項垂れる仲間に首を振った。気を遣わせたのだって俺のせいだ。高校の頃はΩってことは隠していたから、口に出さなくてもみんな何かしら動揺したと思う。Ωでもαでも何も変わらない人間なのに、みんな大なり小なり古い価値観を引きずって特殊な目で見てしまう。俺だってそうだ。自分のことさえ、Ωに生まれついたことを疎んだこともある。それをみんなは表に出さずにいてくれる。それだけでも十分助かってる。
「そんな顔すんなって。俺だって引きこもったり用事でみんなの様子を気にかける余裕なくてごめんな」
 心細そうな後輩の癖っ毛を掻き回してやる。
「とにかく、わざとじゃねぇけど事の発端は俺だ。なら俺がけじめつけなきゃなんねぇ。見回り、俺も加わるからシフト組んでくれ」
「いいのか?」
「いいに決まってんだろ」
「そうじゃなくてさ、ヤンチャして旦那に叱られねぇのかって」
 ニヤリ。さっきまで意気消沈していた木根も調子に乗ってニヤケた面を並べる。
「う、う、うるせぇ!アイツは関係ねぇだろ!」
 そっとしておいてくれるのかと思ったのに狙ってやがったな。
 手を叩いて俺の反応を笑う。ちくしょう。コイツらなりの祝福だ。
 店が繁盛していないのをいいことにしばらく騒いで解散した。間際に頼み忘れたことを思い出す。
「そうだ、もう一つやって欲しいことがあんだけどさ」
「なんだよ」
「今回の厄介連中は本当に個人か?」
 それぞれバラバラの意思で絡んでくるなら地道にやるしかない。だけどこちらの隙を狙っている団体にはいくつか心当たりがる。
「ああ。そーね。了解。調べとくわ」
 気負いなく小さく頷くと鐙は背中を丸めて帰っていく。それを見送って俺は俺の家に帰る。そのままの勢いで街を一周してきても良かったけど、“旦那”より気を揉んでる奴がうちにいるんだ。報道で迷惑をかけた人への詫び優先で家で待っていた弟がほったらかしだ。

 都心の街には監視カメラが多い。政府が設置したものもあれば民間の会社が設置しているものもある。
 正攻法は俺の担当、正攻法じゃ取れない情報はパソコンに強い弟に協力を仰いで監視カメラの映像をチェックした。ここしばらくのいざこざ現場の映像だ。騒ぎを起こした人間の顔を調べていくと同じ人間が複数件の事件に関わっていることが見えてくる。服装で誤魔化されちゃいるが、現場に駆け付けた仲間に拡大した写真を見せて確認もした。
 聞けば見回り班が駆け付けると応戦も釈明もなく逃げていくらしい。そのことを聞いてから見回りチームに一人、撮影係を置くことにした。何度も騒ぎを起こしている数名の鮮明な写真を確保するのが目的だったが、カメラを向けられること自体が威嚇として効果を発揮した。
 いつもの店で携帯に届く見回りの結果報告を確認する。先週は些細なものまで数えると八十件近かった騒ぎが、今週前半で六十件ほどに、最新の報告では半分程度になっていた。撮影班の方は上手く顔を隠されて完璧に人相の分かる写真はほとんど撮れていないが上々だ。
「この調子ならあと一週間もしたら元通りになるんじゃないっすか?」
 手元で仲間に返信を打ちながら木根が言う。隣でイケブクロのマップとチラシの裏に事件件数をメモして推移を見ていた鐙もゆらゆら頷いた。
「テレビの方もあっという間にビッグカップルの話題やめたからなぁ。お茶の間も飽きた頃かね」
「そうそう、人の噂も四十九日っつうし」
「葬式じゃなく熱愛報道だぞ」
「?」
 メモ書きの数字が日ごとに小さくなっているのを見るとホッとする。高校の後輩や、今では社会人の仲間たちは忙しい合間を縫って見回りを続けてもらっている。一日も早く解決してくれるに越したことはない。
 だけど、
「なーんか安心する気になんねぇんだよな」
 ペン先でメモをつついていた鐙が思考を読んだみたいにぼやいて正面に座る俺を見た。
「結局何か掴めたのか?」
「厄介連中の一部が逃走するときに練馬ナンバーの車に拾われてるってことぐらいかね」
「ナンバー分かってんなら照合かけりゃいいじゃねぇか」
 本来的には個人情報保護の関係でナンバーだけでは所有者を調べられないが、そこのところは何とでもなる。
「それが、いろんな事情で長期放置されてる車両のナンバープレート盗んで付け替えてるみたいでさ。所有者に問い合わせかけたことでナンバープレート盗難に遭ったことに気づいた、なんてのまであったぜ」
「マジかよ」
「車本体がなくなりゃ持ち主以外もすぐ気づくだろうけど、持ち主が入院中にナンバープレートだけ外されて偽物のプレートにすり替えられたらなかなか発覚しねぇわなあ」
「そんじゃ何にも分からずじまいかよ」
「盗難場所で連中の活動範囲の絞り込みはできるけどな」
「つっても練馬ナンバーつったらこの辺じゃねぇか」
 他地区のナンバーなら該当地区を仕切ってる奴に写真を持ち込んで情報を引っ張る手もあったが、わざわざ逃走車両のナンバーを現地調達しているとなると分かるのは敵の器用さぐらいだ。
 後輩と二人で腕組して唸る。二歳下の木根は喧嘩の腕は高校じゃトップクラスだし仲間に慕われるだけの人望もあるが、悲しいかな、俺と似て頭脳の方はあんまりだ。唸っても脳みそは働かない。
 代わりに頭を使ってくれる知略担当が俺たち二人に呆れたため息を漏らし、左右に首を倒して物理的に脳を振ってから俺にペン先を向けた。
「二郎」
「なんだよ」
「ちーっと聞きづれぇんだけどさ、次のデート、いつ?」
 なんだよ。突然冷やかしか。顔を顰めて、それでも一応答える。
「こっちが解決するまでブクロを留守にする気はねぇよ」
「ちっげーよ。週刊誌にすっぱ抜かれてハネムーンして帰ってからもう三週間ぐらいか?ずっと見回りや情報収集で走り回り続けてっけどさ、番持ちになってもアレはあるんだろ?」
 アレ。誤魔化された単語を察して木根が両手で顔を隠して指の間から俺を見た。
「な、なんだよ急に!関係ねぇだろ!」
「そういうの今いーから。大体月一ペースとしてあと一週間もすりゃ旦那に会いに行かなきゃならなくなるわけだろ?ブクロへの責任とかは置いといても」
「そりゃ……」
 体のサイクルは安定している。確かに来週の今頃にはヒートが来てもおかしくなかった。
「今こんだけブクロを走り回ってるお前がピタッと姿を見せなくなったら、俺でなくてもアレだなって分かっちまうんだよなあ」
「最悪じゃねぇか」
「お前の気持ちの問題はこの際置いとくとしてな。その留守期間に敵が大挙してやってきて暴れまわったらどうする?」
「あ」
 ヒート中に大きな問題が発生しても駆け付けることができない。怪我や病気ならともかく、番とセックスするために留守にしているなんて、Ωの生態がどうとかって事情を承知していても外聞が悪い。大規模なエリアの看板を背負ったΩなんて他に例がなく、現状侮られまくっているところへきて「Ωだから仕方ない」が通用するとは思えなかった。実際問題として仕方なくたって百パーセント舐められる。ブクロの一大事より男のチンポに夢中となれば顔役の名折れだ。
 改めてプリントアウトして並べた敵の写真を手にとる。ずっとよその人間だと思っていたが、言われてみると。
「二郎さん、コイツ見覚えありますよ!」
 木根が一枚の写真を掲げて鼻のあたりを指先で弾いた。
「どこのヤツだ?」
「ほら、去年ぐらいに北高とカラーギャング一派と三つ巴でやり合ったときに見た気がするンすけど……」
「アレか、人数多かったからな」
 まだ俺も卒業する前だ。現場に居合わせたとしても顔なんかいちいち覚えられない。
「北高とは今は協定があるんで話してみる価値はありますけど」
「あんまりオススメできねぇなぁ。北高全体がグルになってやってたら意味がねぇし、去年にいた奴ならもう卒業や退学でいない可能性もある」
 ついでに言えば、俺が失脚して喜ぶ奴は一人とは限らない。今回の騒ぎを企てた奴の他に、混乱に乗じて名を売りたい奴だって出てくるだろう。外からの侵略じゃない。これはイケブクロの内側で起きているトップ争いだ。
 それもこれもΩの面倒な体のせいだ。街を巻き込みやがって。髪をかきむしって、苛立ちを散らす。静かにスリープ状態になった携帯を拝むように額に当てた。
「わかった。俺は来週の終わりから自宅に引きこもる」
 二人の視線が集まる。
「そんで、うちから影武者をハマに送って、俺は薬でヒートを遅らせる」
 敵が俺の留守を狙っているなら自宅に見張りをつけることもあるだろう。左馬刻に会いに行く際はいつも迎えの車に乗る。家から車までは帽子やパーカーで顔を隠していくから替え玉を行かせてもバレない。
「薬って、副作用あんだろ?」
「あるけど動けねぇほどじゃねぇよ。ヒートが始まっても抑制さえできりゃなんとかなる。今は左馬刻さんにしかフェロモン通じねぇし」
 ヒュゥ、と口笛を吹く肩をテーブルに身を乗り出し軽く殴った。
 口では大丈夫と言ったが、抑制剤を使っているとぼんやりしてしまって喧嘩をするに万全とは言い難い。気合を入れていかないとならない。
 だけど問題はそっちより左馬刻だ。どうせ時期になれば向こうから呼び出しがあるし、偽装工作に替え玉を送るから車だけ回してくれるよう頼めば俺がヒート期間に喧嘩しに行くのがバレる。先にこっちから話を通しておかなきゃならない。気が重いけど大事な局面だ。
「そん代わりに片が付いたら速攻休ましてもらうから、あと頼んだぞ」
 これは木根に向けて。最初に見回りを始めてくれたのは後輩たちだ。
 背筋を伸ばしていい返事。
「うっす!任しといてください!」
「よし。そういうことでよろしくな」
 話が決まったところで席を立って携帯の着信履歴から左馬刻に電話をかけた。怒鳴られるつもりで携帯はちょっと耳から離しがちにして。

 自宅で萬屋の事務仕事をしているとメッセージ通知が入った。俺の代わりにヨコハマ行きの車に乗っている弟からだ。ギリギリまで文句を言いながら背中を丸めて出て行った。この一年ほどでぐっと背が伸びて俺との身長差も少なくなっている。猫背で行けば誤魔化せるだろうってことで。
 受け取った簡潔な連絡をそのまま仲間に回す。
『やっぱ尾行されてる』
 ここからは厳戒態勢だ。騒ぎが起こりそうなエリアに人を配置してある。同時多発テロでもなんでもきやがれ。
 仲間から続々と迎撃準備の知らせが届く中、三郎からヨコハマ到着の連絡があった。影武者役を引き受ける条件に、滞在先はネットワーク環境のあるマンションを指定されている。パソコン持参で行ったから暇つぶしでもするのかと思っていたら、しばらくしてSNSの投稿のURLが送られてきた。中身は匿名アカウントから発信された、俺が左馬刻に会いに行ったって冷やかし記事だ。俺の服を着てサングラスとマスクで顔を隠して車に乗る三郎の写真がくっついている。
 しばらくすると非公開アカウントから限られたメンバーに向けて発信されたメッセージのキャプチャ画像まで送られてきた。どうやってそんなものを見つけてくるのかは分からない。だけど敵の仲間内でどこに何人向かわせるって情報が垣間見える。
「やるじゃねぇか三郎」
 現場に配置されている仲間に先回りして連絡を入れる。
『襲撃情報を掴んだから対応頼む。北エリア巡回チームでみどり公園周辺重点的にチェック』
『巡回志願者増えたんでチーム分けて派遣します』
『現地到着。待機します』
 それから一時間のうちに一般人を狙った事件発生の報告が上がってきた。
『北エリアC班エンカ。下校途中の女子連れ去り未遂。被害者保護〇、犯人確保×、追跡〇、車写真送ります』
『女子無傷。駅まで一人護衛つけました』
 敵がナンバー偽装した車を乗り回すのは織り込み済みだ。ギークチームが安価な発信機を調達して、見回りチームに配布してある。被害者保護は最優先。車に発信機を放り込むのにも成功した。卑怯な連中を直接殴れなかったのが悔しいとの追加コメント付きだったが十分よくやった。
 それからゲームセンター。
『西口B班エンカ。ニューラッキーで警棒隠し持った男三人。一人確保、二人逃走、けが人なし』
『ガラス一枚割られました。店長が警察呼んでます』
『面割れ気にして?帽子とマスクでやけに顔隠してます。怪しいやつマークして正解でした』
 読みが当たったらしい。暴れだした直後に取り押さえに成功。人的被害がないなら上々だ。
 イケブクロ各地で予定通りに事件が起きる。だが準備が整っているおかげで大事には至らない。
 事務仕事を片付けてテーブルに地図を広げ、報告の上がった地点にコインを置いていく。被害の上がった現場は警察の到着と入れ違いで仲間を引き上げ、他の現場に移動させる。人員配置は三郎からの情報がよく効いた。優先順位ばっちりだ。
 車とエンカウントしたチームから発信機設置完了の報告を受けて高校のコンピュータ室を縄張りにするギークチームに追跡依頼を出した。車の帰っていく先があるはずだ。他の車と合流する地点、退却した車が停止した地点がわかったら場所の解析。場所が判明したら周辺情報に詳しい奴に屯しているグループの詳細を問い合わせる。
 俺はヨコハマにいると敵が信じ込んでデカい花火を打ち上げにくるまでは全体の把握と、三郎と作戦メンバーとの連絡中継が主な仕事だった。みんなが足を使って働いているときに自宅待機で何もできないのはもどかしいもんだが自分で決めたことだ。
 報告の確認と事件発生地点のチェックを続けている途中、三郎からメッセージが届いた。
『これってマズいんじゃない?』
 届いたのはSNSのキャプチャ画像だった。人を配置していないエリアで母校と似た制服の高校生が取り囲まれているのを近隣の住人が撮影してネットに流した画像のようだった。
 すぐに場所を調べて近くにいるチームに動けるか連絡を入れた。
『まじっすか!こっちも今喧嘩になってて抜けらんねーっすよ』
「わかった。そっちに専念してくれ」
 仕方ない。ちょっと早めに内服薬を飲んで薄く色のついたサングラスにパーカーのフードを被る。マスクまですると強盗みたいだ。
 高校の方に顔を出している鐙に連絡を入れると、一人で動くなと釘を刺されて数分で家の前にバイクでお迎えが来た。俺たちはリベロだ。

 地面に転がったジャガイモ野郎のパーカーのジッパーを下ろす。中に着ていたポロシャツは私立高校のものだ。うちの母校みたいな不良の巣窟じゃないはずだが、一部の連中が半グレと繋がって調子づいているという噂はあった。
「コイツら便乗犯だな。次行こ」
 絡まれていたのはβの男だった。暴漢グループは全員アスファルトとお友達にしてやったから家まで送る必要はない。
 バイクのタンデムシートに戻って携帯を確認すると、こちらが頼む前に政府が設置している監視カメラを覗き見しているらしい悪い弟からタレコミが届いている。ご丁寧に手薄な場所をピックアップしてくれる。
「三郎くんが一番戦況把握してるんじゃねぇの?オペレーター任せりゃ良かったな」
「影武者頼んだだけですげー文句言われたのにかよ」
「そりゃ兄貴の旦那の縄張りに送り込まれるのがムカついたんだろ」
 笑われながら次の現場に急行した。ヒプノシスマイクを使うと俺だってバレるから、今回は全部物理戦闘だ。まだ正体を隠さなきゃいけないお陰でフードの紐をぎゅっと絞めて怪しさ満点。掴みかかってこようとした奴をコテンパンにしたら過剰反応ぶりを鐙に笑われて殴る相手を間違えそうになった。
 三ヶ所目が片付いた頃にギークチームから鐙に着信があった。
『拠点判明しました。廃業したクリーニング工場で、そこの社長の息子がDDってチーム組んで最近人集めしてたみたいです。車みんないっぺんそこに集まって、今また出発してまとまって移動してますね』
「まとまって移動って修学旅行かよ。行先は?」
『進路的には……ウチかな?』
 呑気なアンサーだ。
「萬屋叩くと一番おっかない人いるからなぁ」
「卒業しても後輩連中との付き合いは多いから、まあ当然といえば当然だよな」
 母校は名前さえ書ければ入学できる底辺高校で、喧嘩しか能のないような連中が短ランを着に集まってくるような学校だ。不良九割、一割変人。高校なんて不良の要塞なわけだが、今は大部分の戦力が街に分散している。事件が片付いても油断していい保証はないから配置を変えて警戒を続けていた。実際、最初に仕掛けてきた一派とは別の勢力も混乱に乗じて行動を起こしている。すぐに高校まで戻らせるわけにはいかなかった。
「OBには連絡入れといたけど修学旅行ご一行到着には間に合わねぇかもな」
「裏門のバリケードってまだあんのか?」
「あったね」
「正門だけなら余裕じゃね?」
「そうだな。行ったらまず釘でも撒こうかね。大きな釘に育ちますようにって」
 自分のバイクのタイヤに穴なんか空けられたら三度は殺すってぐらい怒るくせに。学校の敷地にバイクを乗り入れて校内でDIYをやった残りの釘をばらまいた。バイク移動している仲間に正門には乗り入れないよう連絡は入れてやる。片付けは撒いた奴の仕事だから俺は手伝わない。
 玄関先で鐙が一本電話すると一分ほどで小柄な後輩が追加の釘の箱を持って出てきた。解析班の奴だ。不良派閥とは価値観が違うために俺相手でも特に委縮したりしない。
「どうも。お疲れ様です」
「おう、発信機ありがとな」
「いいえ、楽しかったです」
 無表情に首を振って、後輩はじっと俺を見つめる。見つめられる理由はいくつも心当たりがあって分からない。
「なんだ?」
「いえ、在学中と変わらないなと思って」
「番持ちになっても、じゃなくてか?」
「…………」
 物怖じしない鉄面皮が少し困ったように表情を曇らせた。冗談に聞こえるよう言ったつもりだったけど気を遣わせたか。
「ん、お前調子悪いんじゃねぇか?」
「え……そう見えますか?」
 なんだかぼんやりして見えたが普段の様子を知っているわけじゃない。俺も抑制剤のせいか、ヒート症状のせいか。なんとなく脳が冴えないから気のせいかもしれない。いずれにせよ校内に戻っているよう言おうとした、その時。数台のワゴン車が正門前で止まった。生徒玄関の庇の下で黙ってみていれば錆びの浮いた柵を開けて車を乗り入れてくる。先頭の車が遠慮なしに釘を踏みつけると釘農家は大喜びで手を叩いて笑った。それで気が付いた運転手がすぐに車を停め、後続車の乗員は敷地の外に車を置いてぞろぞろと徒歩で乗り込んでくる。
「オイ、テメェ何やしやがった!」
「すんませーん、ここ無断車両侵入禁止なんでー」
 部外者のくせにいけしゃあしゃあと言う鐙に運転手がつっかかる。その脇を横切って後部シートに乗っていた男が大股で乗り込んできた。
「今日は木根の野郎はいねぇのか?」
 知っているくせに。黙っている俺の代わりに退避しそびれた後輩が小さく頷く。横目で俺を見ながら、正面に立った男から逃げるタイミングを計っていた。
 ヒリついた空気、には相手がこちらを舐めすぎだ。ちょいっと顎を上げて俺と後輩を品定めするように見たかと思うと眉をピクリと動かして、腰を屈めてまで鼻をひくつかせる。
「なんだ?Ωのにおいがすんぜ」
 反射的に鳥肌が立つ。そんなはずないのに、左馬刻以外にフェロモンを嗅ぎ取られるのが我慢ならなくて。
 だけど違った。俺じゃなかった。
 男が隣りの後輩に向かって手を伸ばした。腹の立つαの仕草だ。断りもなく、自分のものみたいに無造作にそうするんだ。外野から見るとその身勝手さがよくわかる。
 体ごと後輩の前に割り込んで男の手を逆向きにへし折るつもりで捕まえた。下衆のくせに勘がいい男だった。すぐに手を引っ込めて俺から距離を取る。
「おいおい、冗談が通じねぇな」
 嘘つけ。
「でも山田二郎が高校で頭張ってΩ匿ってたってのはマジだったみたいだな」
 そりゃどこで流行ってる噂だよ。Ωは他にもいるかもしれないが、みんなそれを表には出さない。性別で他人に媚びることも、庇護を求めることもしない。βやαと同じように自分のできることを精いっぱいやって対等に渡り合える仲間を作って居ついたのがここだったってだけだ。俺がΩなのと他にΩの生徒がいることは関係ないし、俺のついでで周りが侮られる謂れもない。
 サングラス越しでは睨まれていることもわからないのか。こっちが静かに聞いていると再びじりじり距離を詰めてきた。
「Ωが集まって保護区でも作るってのかい?まるで中王区じゃねぇか。なぁ?」
 笑いながら大きく一歩踏み込み顔面狙って拳が飛んでくる。片手で後輩を押して後ろに下がらせ、ギリギリのところで拳を避けた。弾みでフードがふわりと脱げて髪がほこりっぽい空気に舞う。
 横目で男を見やればサングラスの脇から見えたこの瞳を見て表情を硬くする。コイツが主犯の一人だ。山田二郎がここにいるはずがないと思ってる。
 ずっとフードを被りっぱなしで汗ばんだ前髪を?き上げ、邪魔なサングラスとマスクを外した。クズが目の前に居たら裸眼で見ても景色は良くないし空気も美味くはなかったが。
「中王区、ねぇ。お前知らねぇだろ、壁の中はこんな落書きだらけじゃねぇんだぜ?知らねぇか。ラップで勝てねぇ雑魚は入れねぇからな」
 さっきまでのふざけた笑いは消えた。ディスられて拳を握りしめるが、短気に殴りかかってはこない。その場でじっとこちらを観察してくる。
 すぐにはその意図が分からなかった。こういうことを言うと左馬刻に自覚が足りないって怒られるんだ。
 コイツ、俺をΩとして見てる。男のくせにα男と寝てるすけべな雌だって。どんな妄想してやがるんだか知りたくもないが、何を思ったって俺も、後ろに控えた後輩だって、テメェに与えるものは何一つない。
 苛立ちが血を巡らせてぼんやりしかけた脳みそを叩き起こす。
 一歩前に出た。腰に巻いたシャツの隙間に手を入れてベルトにひっかけてあるヒプノシスマイクを撫でる。
「おら、選ばせてやんよ。コッチと、コッチ。どっちがいい?」
 マイクから指を離してシャツを跳ね上げジーンズの太ももを叩くと俺の指先の触れるところに視線釘付けになっていた男がごくりと喉を鳴らした。
 その脳内ピンク色の使えない頭を蹴り飛ばした。
 片足を軸に腰の捻りで素早く足を振り上げる。遠心力の乗ったスニーカーが油断した男の耳にクリティカルヒットして大木のような体が勢いをつけて転がる。だがウエイトが足りなかったみたいだ。あっちの方が圧倒的に体重があって首も太い。
 一発で仕留めそびれた。物理的に脳を揺さぶられた男は耳を押さえながらも立ち上がり、肩で呼吸する。
 腰を落として構え、片手を突き出してこちらに招く手先のジェスチャーで挑発した。
「…………ッ、クソΩ野郎が舐めやがって!」
 男は獣の遠吠えのような声で叫ぶとダッシュで突進してくる。恵まれた体格を存分に活かしたファイティングススタイルだ。当たると分が悪い。つかみ合いを避けて回り込み、横っ面を狙って裏拳を叩きつける。隙ができた瞬間に足を払った。とどめに頭を蹴りつけようとするのを避けられ、反対に手で捕まりそうになって後ろに飛びのいた。
 その瞬間に脳が濁るような感覚が襲う。抑制剤の副作用だ。番になってからはヒートに悩まされることがなくて久しぶりに飲んだらやけに副作用がきつく感じる。ふらついてもう一歩下がった。
 ゆるくまとわりつくモヤのような淀みを頭を振って振り払い、顔を上げた瞬間に間近に迫った敵の拳が目に入る。
「……!」
 寸前で体を捻って退けたがバランスを崩し、その隙に服を掴まれた。ジャブには重い一発を食らって土に片膝をつく。
 肩で息を繰り返す。あっちもボロボロのくせにやり返せたのがよほど嬉しいらしい。
 殴り合いのリズムの谷間。束の間のインターバル。前髪を掻き上げて鉄臭い唾を吐いた。
「やっぱ天下の山田も弟はΩだな。軽く当てただけでコレだぜ?」
「そういうの勝ってからにした方がいいんじゃねぇの?」
 殴られた頬を擦る。
「お陰で目ぇ覚めたわ。あんがと、なッ!」
 素早く低く潜り込んで下から顎めがけて打ち込む。敵も腕を振り回すが俺の方が速い。
 顎が上がったらすかさず横。続けて腹を蹴飛ばすが袖に手が残って距離は取れなかった。引っ張られて腹を殴られ息が止まる。勢いで後ろに跳んで足に力を込め転倒を避けた。
「はぁ、ははっ……そうそう、コレだよ。喧嘩するからには一発ぐらい貰わなきゃつまんねぇよな」
 薬とヒートで鈍りかけた感覚が冴えてくる。高校の前に車を乗り捨てた連中が釘を蹴散らしながら入ってくるところが見えた。それぞれの立ち位置、こっちに向かってくる人数。瞬間に把握して横方向にダッシュする。
 男も追って人混みに向かってくる。虫のように湧いてくる侵入者たちが場所を空けるところに乗り込んで男が追いついたところで急ブレーキ。地面を踏みしめて跳ぶと勢いのついた男が仲間の群れにまんまと突っ込んだ。避けそびれた仲間が猪野郎と放置された車に挟まれて呻く。
 仲間と車に激突した男がなんとか振り向いたところに飛び蹴りを喰らわせると仲間と二人仲良く車の足元に崩れ落ちた。良い手応えだった。
 邪魔にならないよう見ていた連中の間に広がる動揺が見て取れる。
「オイオイ、テメェら。コイツより強い奴いねぇのか?あ?」
 左右を大きく見回してもすぐに名乗り出てくる奴はいなかった。代わりに呑気な声が返事をする。
「はーい」
 さっき睨み合っていた先頭車の運転手を踏みつけにした鐙だ。
「お前はこっち側だろ!」
「なんでもいいけど釘落ちてるから足元気をつけな」
「お前が撒いたんじゃねぇかよ!」
 ふざけている間に雑魚の群れを掻き分けて目立つ金髪の男が俺たちの前に歩み出る。後ろの方の車に乗っていたみたいだ。ぶちのめされた仲間を見下ろして眉をしかめる。
「なんだい、山田のカマ野郎いるじゃねぇか」
「あらやだ、カマ野郎ですって」
 しなを作って鐙が乗るから仕方なく乗ってやる。
「やーね、Ω差別なんて年寄りみたいなこと言っちゃって。でもご指名なら仕方ないわよねぇ」
「オーケー。こっちのお客さんは任せてちょーだい」
 死角を狙って忍び寄っていたもやし野郎が鉄パイプを大振りして鐙の髪を掠めた。しゃがんで避けた膝の屈伸を使って下からぶん殴ると簡単に釘だらけの地面にすっ転んだ。それを皮切りに遠巻きにしていた連中が鐙を狙って囲みにくる。
 心配はいらない。ちょっとばかし賢いから参謀役なんて見られているがコイツはバキバキの武闘派だ。おまけに遠くに後輩たちの声が聞こえた。学校の敷地の外で早速やり始めているらしい。
 こっちはこっちで気兼ねなくやろうじゃねぇか。楽しいタイマンの時間だ。

 人一倍走り回っていたくせに一番元気な現役番長が撤収を叫んで今回の喧嘩が終了した。
 敵陣はトップが伸びちまって号令をかけられないから半端に残った連中が肩を落として仲間を車に回収していった。
 しょぼくれた顔で運転席に乗り込もうとする残党の肩を鐙が叩くと可哀想なほどビクついていた。
「今回の陽動考えた奴にウチと二郎が勝ったことも拡散しとくように伝言よろしく」
 勢いで「はい」と叫んで慌てて発進していった。
「これで他のチームもしばらくは舐めたマネしねぇだろ」
 今回の奴らはΩのヒートって弱点を狙った挙句に返り討ちにされた。一番ダサい結果に終わったわけだ。他のチームも二の舞は御免だろう。
 高校の正門付近では後輩たちが後片付けに追われている。OBが顔を出すと先輩権限で面倒を言って嫌がられるもんだ。
「さてと、日も暮れるし下校しますかね。二郎もすぐ帰るだろ。送るか?」
「いいや。俺よりパソコン部のアイツ、具合悪そうだから送ってやってくれ」
 騒ぎが収まってから振り返ると、後輩は玄関の中に退避済みだった。鐙はβだ。
「了解ー」
 バイクのキーを指先で引っ掛けてのらりくらり、後輩のところへ歩いて開く。俺はそれと反対方向へ。
「あ、二郎さん!お疲れさんっす!」
「お疲れっした!」
 片付けの手を止めて頭を下げる後輩たちに適当に手を振る。
 意外と変わらないもんだ。みんな俺がΩだからって気まずそうにもしないし、過剰に心配もしない。喧嘩だってヒートを起こしていても俺がやれると言ったら信じてくれる。
 ありがてぇな。
 気が抜けて一気に重くなった足を無理やり動かして校門を潜り、すっかり静かになった通りに出た。
 なんとなく家と逆方向に振り向くと見覚えのある車が停まっている。そのスモークが貼られた後部シートのドアが開いて、甘い匂いが風に乗って鼻腔をくすぐった。
 まだ抑制剤は効いてるはずなのに、この人の前だとちょっとやそっとの薬じゃ意味がない。数歩進んで膝に力が入らなくなっていい匂いの胸に抱き留められた。
「……なんでブクロにいんだよ」
「テメェんちのクソ生意気な弟送った帰りだっつの」
 ああ。三郎も無事に帰ったみたいだ。
 車の後部シートで体を預けるともう自分じゃ指一本も動かすのが億劫になる。さっきまで全身ぶん回してたのが嘘みたいだ。
「もうテメェの用は済んだのか」
「うん。我儘聞いてくれてサンキュ」
 返事はなくて、指が埃っぽい襟足を弄ぶ。指先が掠めたところから皮膚の下を伝ってこそばゆい波が全身に広がっていく。車内は俺にしかわからないフェロモンでいっぱいで体は爪を立てるだけで簡単に弾けそうなほど欲でパンパンになっている。
 それでも今日はいつもとちょっと違う。ヨコハマに向かう車の中ではそれ以上何もしてこなくて労わられているって気がした。
 フロントガラスの向こうでは学生たちが笑いながら歩いていく。通り沿いの店はそろそろ看板にあかりを灯して夜の営業に備え、居酒屋の店員がビール樽を運んでいた。何事もない、いつもの俺たちの街だ。