外泊して帰った自宅のベッドに転がってイヤホンを音楽プレイヤーに接続する。
その曲を最後まで聴けるようになったのは、定期的にあの部屋に通うようになってからだ。
部屋で二人きりで過ごして、同じベッドで寝る。そうしてあの人の中に俺の椅子があるのを確かめて安心して、この曲を聴ける。
ノリが良くてカッコよくて、俺の大事な人たちが歌ってる。それでも聴くたびに胸の奥がざわざわする。
兄ちゃんの部屋からこっそり借りてデータをコピーした、そのアルバムのアーティストの名前は。
──────TheDartyDawg
会場が沸く。大興奮の女達の視線の真ん中でバトルは始まった。カードはイケブクロ対ヨコハマ。何度繰り返しても観衆が喜ぶ宿命のバトルだ。
昔は俺たちの力が足りなかったけど、これまでの戦績は五分五分。今は兄ちゃんを援護するオマケなんかじゃない。
三郎とのコンビでガードの堅いヨコハマの三番手を狙い撃ち、大きなダメージを与えることに成功した。地響きのような低音で攻めるヨコハマで一際耳障りな高音でまくしたてる二番手が兄ちゃんに絡む。それでもこっちの勢いは止まらない。
今日は頭が冴えてる。舌も滑らかに動く。体が温まったいいタイミングで俺のヴァースが始まる。今日こそイケる。
全力で敵のリーダー、碧棺左馬刻を殴りつけた。
手応えはあった。でも左馬刻は根の生えた木のように微動だにしない。ちらりとこちらを見て特徴のあるガイコツマイクを構えた。
重い一撃。指さしたのは、兄ちゃんだ。俺には一瞥しかくれないで。
容赦のないラップを食らった兄ちゃんを見ると、眉間にしわを寄せ耐えながらも口許は笑っていた。睨み合う左馬刻も。
いがみ合いながらもマイクを握ってやり合うのを楽しんでる。
まだ俺は楽しい喧嘩相手にもなれない。
「そんなこと言いながらいそいそ会いに行くんだろ!」
弟に悔しさを吐露したら心底軽蔑した目で吐き捨てられた。返す言葉もない。
明日は俺の誕生日だ。例年は誕生日の一週間後くらいに左馬刻の都合のつく日を選んで祝ってもらっていた。大抵は馴染のスナックで。だけど今年はたまたま誕生日前日に予定が空いたとかで、二人で食事をしてそのまま外泊する約束をした。
それなのに、
「はぁ?もう着いちまってんだけど!」
キャンセルの連絡を受けた時にはもうヨコハマだった。
『仕方ねぇだろ。なんなら俺のツケで飯食ってけや』
「一人でかよ」
『店に誰かいんだろ』
そういう問題じゃない。あんまり食い下がって面倒くさいヤツになるのも嫌で口ごもると電話の向こうで呼びかける人の声が聞こえて、さっさと通話が打ち切られた。
タダ飯が食えればいいわけじゃない。
待ち合わせの相手、左馬刻とは部屋に通って一緒に飯を食って抱き合って寝るような仲だ。少なくとも俺は他の誰ともそんな風に過ごさない。特別な相手だ。
それだから、記念日に会う約束ができれば当然嬉しい。賑やかに祝ってもらえるのも好きだけど水入らずってのもロマンがある。それなのにドタキャン。仕事の都合は仕方ないと分かってるけど、弟に白い目で見られながら寒い中ヨコハマまで来てこの仕打ち。文句ぐらい言ってもバチは当たらない。
「仕事ってどんな仕事だよ……クソッ」
職業はヤクザ。急用なんて十中八九揉め事だろう。ロクでもない。
終話画面も消えた真っ暗な携帯を苛立ち紛れに振りかぶって、投げることなくポケットに戻した。俺の携帯だ。壊したら俺が辛いだけだ。
まだらにガムが張り付いた汚い地面にため息を落とし、駅前から繁華街に向けて歩き出した。自宅のあるイケブクロまで片道一時間近くかかる。何もせず帰るのは癪で、言われた通り左馬刻のツケで高い飯でも食べて帰ってやろうと思って。高い飯といっても高価な酒に興味のない俺の豪遊なんてヤクザの若頭にとっては痛くも痒くもないだろうが。
自覚していたより自分が今日の約束を楽しみにしていたことを思い知らされて悔しいやら寂しいやら。背中を丸めて飲食店や風俗店の並ぶ一帯を歩いていると背後で若い男の「あ!」と声がした。
「二郎くん?やっぱ二郎くんだ!」
呼ばれて振り向くと同年代ぐらいの茶髪の男が手を振っていた。すぐに名前が出てこなくて顔を見つめていると、顔に垂れた前髪を?き上げて見せてくれる。髪を上げた顔には見覚えがあった。
「ああ、えーっと、西大畑……だっけ」
しばらく前にヨコハマのゲーセンで声をかけてきた男だ。対戦ゲームのことで盛り上がって、また遊ぼうなんて社交辞令を交わしてそれっきりだ。
機嫌の悪い時に付き合いの浅い人間と遭遇して上手く笑えない。それでも西大畑はにこやかに隣りに追いついて親し気に背中を叩いた。
「どうしたー?元気ないじゃん。確か明日誕生日っしょ?」
「誕生日なんて教えてねぇだろ」
「何言ってんの。有名人のプロフなんかネット検索で一発でしょ。うちの姉ちゃんも誕生日近くて憶えてたんだよ」
そんなもんか。俺は知り合いは多いけど、誕生日なんか兄弟の分しか暗記していない。あとは他の仲間に友達の誕生日が近いのを教えられて思い出す程度だ。本当にマメな連中は記憶力が良くて感心する。
「これからどっかでパーティーでもあんの?」
「ねーよ。つか、約束ドタキャンされたとこでさ」
「じゃあこれから空いてんの?」
「まあ……飯だけ食って帰るとこ」
「マジで!なら俺と飲み行こうよ!お祝いに奢るからさ」
知り合いの店が近いんだと少し先の路地を指さす。
「あんなとこ店あったっけ」
「ちょっと前にオープンしたばっかだから空いててゆっくりできると思うよ」
なるほど。まだ客が少ないから客を連れてくるよう頼まれてるってところか。
「いいのかよ、奢りで」
「お祝いの主役に払わせらんないっしょ」
笑って店に向けて背中を押される。明るい笑顔を見ていたら一人ぼっちの寂しさも紛れてきた。あまり親しくないヤツに奢らせるのも悪いから自分の財布の中身も考えて少しだけ祝ってもらおう。人脈づくりのチャンスでもある。
そうして連れていかれたのは地味な看板をかけたバーだった。店内は薄暗く、まだ若いマスターの一人きり。客は他にいないようだった。
ガラガラのカウンターで酒の話を聞いて軽食も作ってもらった。西大畑もマスターも明るくて話が軽快で、付き合いの浅さ故の空虚さはあったけど三人きりとは思えないほど楽しい時間だった気がする。ほんの一時間ほどのことだ。
知らないカクテルを作ってもらって、勧められるまま飲んだところで記憶が途切れた。
眠かった。少し離れたところで聞きなれた怒声が聞こえた気がして目を開こうとしたけど眠い。
「なんでテメェまでいやがる!」
「そりゃこっちのセリフだぜ。昨夜はテメェんとこ行ったはずだろ」
咄嗟に夢だと思った。仕事のはずの左馬刻と、左馬刻とは犬猿の仲である兄ちゃんがいたから。俺が左馬刻と会うのを黙認してくれていても兄ちゃん自身は望んで左馬刻と会ったりしない。テリトリーバトル以外で二人揃うなんて。
姿を確かめたくて無理やり頭を動かし、薄く目を開いた途端に上から誰かに頭を押さえつけられた。体も上手く動かない。何がどうなっているのか、腕が自由にならなくて、長い時間同じ姿勢でいた時みたいにところどころ痛んだ。
「はは、ほんとに来やがった!山田は来ると思ったがテメェは半信半疑だったんだぜ、碧棺。ホントにコイツを気に入ってやがンだな」
すぐ近くで誰か、喉に張り付いたような耳障りな声が興奮気味に喋る。
「黙れや。そっちのなんでも屋と違って俺様を呼びつけたツケは高くつくぜ」
「ハァ?そんな口利いていいんですかー?お前らの大事なガキはまだ動けねぇの。わかってますー?」
頭を叩かれて少し目が覚める。見ると、少し離れたところに兄ちゃんと左馬刻がいた。俺は横たわってるのに、何故かこっちの方が目線が高くて見下ろす角度だ。二人揃うと大体そうだけど、怖い顔をしてマイクを握っている。
「よく見てよ。ラップでぶっ倒そうとしてもその途端にお宅の弟は受け身も取れずにここから落っこちるからね」
また別の男の声。聞き覚えがあるような明るい声。それから硬い靴底で金属を蹴る音。下になった耳にダイレクトに伝わってくる。ここは鉄板か何かの上らしい。冴えない頭でなんとか状況を把握しようとする。でも眠気が絡みついた脳では夢と現実の区別もつかなかった。
霞む視界で左馬刻が一歩進み、それを兄ちゃんが止める。
「テメェはすっこんでろ!」
「お前こそ勝手に動くんじゃねぇ!うちの弟は俺が助ける」
「ハッ、羽虫連中の言葉でビビってるヤツに何が出来るって?腰抜けの一郎くん?」
「クソ野郎。テメェんとこに送り出したのが間違いだったぜ」
「二十歳過ぎた男相手にまだ保護者気取りかよ。いつまで経っても過保護は治ンねぇな。そんなんだからこんなアホどもに捕まる間抜けに育つんだよ!」
「今なんつった。テメェにとやかく言われる筋合いはねぇよ、このシスコン野郎!」
言い争いを始める二人を俺のすぐ近くの男たちが笑う。
「いいぞ、やれやれー!やりあって生き残ってた方は俺が相手してやるよ。二郎くんから貰ったヒプノシスマイクでね」
野次を無視して二人がヒプノシスマイクを起動した。お互いを睨みつけてマイクを構えてビートに呼吸を合わせる。
『はるばるハマまでご苦労さん
だがテメェにゃ皆目用はねぇ、御足労不要、不遜なボウヤの出る幕はねぇ
ブクロで遊んでろやトムソーヤ!ア゛!?』
『遊んでんのはどっちだ?冒険気分の雑魚にはねぇLUCK
俺はぶちかますラップで頭脳をハック
wack野郎はケツまくってGo back!』
『生温いdisで俺様をハック?壊す俺はクラック、鳴らすクラップ
猫騙し、子供騙しはもう終わり、起きろクソガキ!』
兄ちゃんに向けられていた指先が鋭く宙を切り裂いて俺を指した。気つけの一撃。
その瞬間に頭から電気が走ったように目が覚め、背中で縛られた腕を下敷きに体を捻った。左馬刻が自分を狙ったと勘違いして咄嗟に頭を庇った男の腕の隙間から顔が見える。バーのマスターだ。
鉄骨で組まれた足場の上を転がった勢いを利用して起き上がろうとしたけれど足も縛られていて上手くいかない。
「あ、おいテメェ!」
左馬刻に怯んだことで一瞬遅れて俺の動きに気づいた男が捕まえようと手を伸ばす。逃げたくても出来ることは限られる。
「よっ、と!」
背中を軸に足場から落ちないようバランスをとって両足で男の足を力一杯蹴り飛ばした。倒れた男の向こうからマイクを持ったもう一人、西大畑が迫ってくる。
『そうはいくかよ!Hey yo!再会記念に魅せるぜSHOWTIME、オーライ?
甲斐甲斐しい弟見て後悔、しても遅いぜテメェら崩壊!』
『妖怪跋扈するここはヨコハマ
やってみるか?船なしの航海』
『脳内』
『蒙昧』
『もうない』
『将来』
阿吽の呼吸でフレーズが飛び交い、混じり合い、俺に襲いかかる男めがけて空気を貫いた。
「ヒッ!」
短い悲鳴を残して西大畑が足場の向こう側に落ちていく。その直前で間近に迫った手を避けようとした俺も、バランスを崩して足場から転落した。駆け寄ってくる二人の姿が見えた。
そこで気つけ効果は切れたらしい。地面に叩きつけられる衝撃の前に意識はまた眠りについた。夢の始まりも終わりも大体暗闇だ。無から始まり、起きている間に見聞きした情報のかけらをめちゃくちゃにつなぎ合わせた連想ゲームみたいな映像を見せられ、無に帰ってまぶたを開くと現実に戻る。
夢から夢へ渡る。目を覚ます直前に見た次の夢は、まだ高校の制服を着ている兄ちゃんと左馬刻が笑い合って肩を並べて歌う姿だった。
サッカーボール。ポスター。ガチャポンのフィギュア。
俺の部屋だ。
ベッドから起き上がって自分の?をつねってみた。ちゃんと痛い。でも他には痛いところはない。それどころか自分のジャージを着ている。全身が重いような、怠さはあるけど。
「夢…………?」
カーテンの隙間から見える外は暗い。そっと部屋を出て物音のした台所を覗くと兄ちゃんが皿を洗っていた。すぐ俺に気がついて作業を切り上げてくれる。
「起きたか。飯あるからそこ座れよ」
「う、うん」
ダイニングセットの指定席に座ると、米とラップを剥がした惣菜の皿が目の前に並べられた。そういえば腹が減ってる。箸をとった。
兄ちゃんは皿を片付けてから自分のカップを持って俺の前に座った。
「美味いか?」
「うん。もちろんだよ」
「よく寝てたからな。好きなだけ食べろよ」
「うん……」
「どこか痛むところはねぇか?」
「……ないよ」
まだ米の残る茶碗の上に箸を置く。
「あのさ、兄ちゃん。俺……」
事情を尋ねようとして言葉に詰まる。
高いところから落ちたはずなのになんで無傷なのか。なんで自宅で寝ていたのか。兄ちゃんが助けてくれたのか。なんで左馬刻も一緒だったのか。それとも、全部夢?
何から話せばいいか迷っていると、お茶で口を湿らせた兄ちゃんが察して口を開いた。
「今は二月六日の夜十時だ」
俺の誕生日だ。ヨコハマに行ったのが昨日の夜。気を失ってから丸一日経過している。何時に帰宅できたか分からないが、体の痛みはほとんど寝すぎによるものだろう。
夢かと思った出来事を思い出せる限り思い出してみる。
一緒に飲んでいた男二人に拉致されて、縛られ、どこか高いところで兄ちゃんと左馬刻を見下ろしていた。それで戦って、最後にはそこから転落したはずだ。
服の袖を少しまくって縛られていた手首を見てみるけど痕は残っていなかった。打撲の痕も当然ない。固い地面に着地していたら良くて病院行きだっただろう。
「誕生日になっちまったな。おめでとう、二郎」
困ったように兄ちゃんが笑う。本当だったら昨夜は左馬刻のところで過ごして、昼に帰宅する予定だった。誕生日当日は例年通り、家で家族水入らず。夕飯は食べたいものをリクエストしてあったし、ケーキも買ってあるはずだ。兄弟三人、誰の誕生日もそうだ。
もう十時。楽しい夕飯の時間も過ぎている。
「三郎は?」
「二郎が目を覚ますまで交代で起きていようって決めて仮眠中だ」
「なんか、ごめんよ……」
「三郎が起きたら言ってやれ」
「うん……」
まだ頭がモヤモヤして両手で顔をこすり上げた。手のひらを見ると小指の横に細かな擦り傷がある。
「あのさ、兄ちゃん。兄ちゃんが俺を助けてくれたの?……それとも、夢だったのかな」
記憶に靄がかかって自信がなかった。誕生日の準備をしてもらっているときにとんでもない失態。夢の方が良いと思う気持ちもある。
だけど兄ちゃんは首を振った。
「夢じゃない。お前は睡眠薬か何かで眠らされて拉致されたんだ。犯人は昔、俺と左馬刻が組んでた頃にぶちのめして服役していた連中で、最近出所して俺たちへ復讐しようとしたらしい。ここまでは俺が連れ帰ったんだ」
「じゃあ左馬刻も……」
「覚えてないか?」
「あの場にいた気がするんだけど、昨夜は仕事だってドタキャンされてたから。それで、飯だけ食おうと歩いてるところに顔見知りに声掛けられて、飲みに誘われて……」
だから、本当なら左馬刻がいるはずない。キャンセルされたのは一晩かかる仕事だったからだ。
「そうか。それでも左馬刻がいたのも本当だ。ごめんな、俺らのせいで危険な目にあわせて」
「謝らないでよ兄ちゃん。俺が、迂闊だったんだ。ほんとゴメン」
俯けばテーブルの向こうから手を伸ばして頭を撫でられる。俺ももう大人なのに。
「まあ、そうだな。俺らのことがなくてもお前自身顔が売れてる。逆恨みや妬みで足元を掬いたい奴だって出てくる」
「うん」
「ってことで、しばらくは禁酒かな」
「えっ!」
成人してから付き合いで飲むことも少なくない。何より兄ちゃんと静かに晩酌する時間が好きだった。だけど三郎がいい顔しないだろうから家でもダメだって。
「いいじゃねぇか。俺も付き合ってやるからさ」
「はぁ……。兄ちゃんがそう言うなら」
まずは誕生日用に買っておいたワイン自粛からだ。
「それから、次に会うときには一応、アイツにも礼言っとけよ」
目を逸らして言うと兄ちゃんは席を立った。俺が目を覚ましたことを伝えに三郎の部屋へ向かう。
物思いに耽る時間はほんのわずかで、廊下を走って台所に飛び込んできた三郎に怒鳴りつけられ脳にまとわりついていた眠気の雲は吹き飛んだ。夜も遅いのにケーキなんか食べてコーラで乾杯した。誕生日当日のうちに祝えてよかったと兄ちゃんが言った。
詫びと礼はなるべく直接会って言え。兄ちゃんはそういう主義だ。俺もそれに倣ってチャンスを待っていたら半月も経過してしまった。
あの誕生日以来、左馬刻と予定が合わずにすれ違いが続いた。
やくざの仕事はそのへんの会社員に比べれば不定期だ。二月はやけに忙しい様子で、ヨコハマに用事で赴いたついでに事務所を覗いても留守にしていることが多かった。
やっと向こうから呼びつけられた時には俺の方が萬屋の仕事でスケジュールが埋まっていたけど、なんとか依頼人に頼み込んで、前倒しで仕事を片付けてヨコハマまでバイクで駆け付けた。
「この間は悪かった」
左馬刻のマンションのリビングに入るなり頭を下げた。あっちはすでにソファで飲み始めていて、興味もなさそうに鼻を鳴らした。
「なんのことだか忘れたわ」
こっちは迷惑をかけたことをずっと気にしてたってのに。
「それよりキッチンに料理あっから持ってきてお前も飲めや」
「アンタが作ったのかよ。珍しいな」
「この間の仕切り直しだ。店の方は予約が埋まっちまってたからな」
言われた通り、チーズやサーモン、野菜を彩りよく使ったつまみのプレートとフライドチキンやパエリアが用意してあった。
「へへ、待ってた」
マメな人だから埋め合わせはしてくれると期待してた。手料理で迎えてくれたのは予想外だったけど。
俺が料理や取り皿を並べる間、左馬刻は俺の分のグラスに向けて酒瓶を傾ける。
「あ、俺今禁酒中なんだよ」
止めると咥え煙草の口をへの字に曲げる。
「俺の酒が飲めねぇってか」
「面倒くせぇ絡み方やめろや。あぁッ!」
ダメだって言ってるのに勝手にグラスをアルコールで満たしてソファにふんぞり返る。
「酒で失敗したから用心するたぁいい心がけだがうちで飲む分には構わねぇだろうが」
「構うっつーの。兄ちゃんも一緒に禁酒してくれてるしさ」
「それじゃ尚のこと飲ませねぇと気が済まねぇな」
兄ちゃんの名前を出したのは失敗だった。多忙でストレスでも溜まっているのか、左馬刻もいつもより酒量が多い。
「仕切り直しとか言いながら先に酔っ払ってんじゃねぇよ」
「うっせぇ。誰のせいで」
「はぁ?」
「いいから付き合えや。酒に合わせて作ったつまみを酒なしに食うんじゃねぇ」
「マジで面倒くせぇな」
問答にも飽きて一杯だけと断ってグラスを呷る。ラベルを見てもわからないが、上等な酒を調達してくれたらしい。飲みやすくて食事も美味い。
喜んで飲み食いすると左馬刻の機嫌も良くなって、グラスが空になる前に勝手におかわりが注がれる。一杯だけって言葉はまるで無視。
でも、やり方はともかく、左馬刻なりに誕生日のことを気にしてたんだろうと思えば怒る気も失せてしまった。まだ飲みすぎってほどじゃないし。
心の中で兄ちゃんに謝って、今日だけ解禁してしまう。他の場所では絶対に飲まないから。ちゃんとするから。
夜更けまで楽しく過ごした夜明けに電話が鳴った。寝落ちしたソファの、左馬刻の膝で目を覚ます。左馬刻の方も座ったまま眠っていて、俺の携帯の着信音で唸りながら起きた。
「もしもし……ああ、兄ちゃん、おはよう。……うん、うん……そっか」
兄ちゃんからの仕事の連絡だった。昼頃に帰宅する予定を繰り上げて昼前から萬屋の事務所で留守番していて欲しいという頼みだ。
電話を切ると左馬刻にも聞こえていて、不機嫌そうな顔でこっちを見ていた。
「なんだよ、仕方ねぇだろ」
「何も言ってねぇだろうが」
お互いの仕事の邪魔はしないのが暗黙のルールだ。眠気覚ましにシャワーを浴びて身支度を整えたが、まだ酒が残っている。
「今日電車で帰るからバイク預かっといてくれよ」
バッグにヘルメットを押し込んだ。酒が飲めるようになってからはこういうことがよくあった。
「ちょっと待てや」
部屋を出る準備を終えて出ていこうとして、引き留められる。一服していた左馬刻が携帯を確認して短い電話をかけた。
「車回すから乗ってけ」
「は?送ってくれんの?」
いつもはそんなことしない。左馬刻から見ればいくつも年下だとしても女子供ってわけじゃない。
「ちょうどブクロの方に用事ある奴がいるってだけだ」
左馬刻はそう言ったけど。
「今までこんなこと言い出したことなかったじゃねぇか!なぁ?杉さんだってそう思うだろ?」
マンション前まで車で迎えに来た左馬刻の舎弟に言うと、強面の男が困ったように笑う。左馬刻に会いにヨコハマに来るようになって数年。事務所に出入りするヤクザたちとも数年来の付き合いだ。
「急になんだよ二郎」
「だってさー。用事って言うけど、今から行かなくてもいい用事なんじゃねぇの?」
詳しくは聞かなかったけどそんな気がする。実際、その問いを否定はされなかった。
「まあ、お前襲われたばっかだからな。兄貴は恨みもたくさん買ってる分、人に狙われるの承知で普段から用心してっけど、その点お前はまだまだってことよ」
「だとしても過保護すぎじゃね?杉さんたちが抗争で怪我してもここまでやらねぇだろ」
「筋モンの俺らとカタギのテメェを一緒にすんなよ」
それでも今は鉄砲が裏で流通していたような時代じゃない。人を制圧するために有効な飛び道具だったら俺も持ってる。この間はちょっと油断しただけで。
ヨコハマから帰って一人になるとヘッドフォンをして一枚のアルバムを再生する。
今よりずっとやんちゃな兄ちゃんの声、勢いに乗った左馬刻の声。
同じチームにいながら喧嘩仲間の空気がある。どっちが強いか比べるのが楽しいんだ。片方が拳を振るえば隙を狙ってカウンターが飛んでくる。躱す。殴る。ジャブ。フック。
お互いの実力を認め合っているからできる。俺もそういう喧嘩仲間がいるからわかる。血が滾って、こういうのは最高に楽しいんだ。一緒にやれば無敵の気がする。
何度も再生した音楽なのにいつでも瑞々しくて力に溢れている。
今はもう喧嘩別れしているのに、この間の救出劇で聞こえたラップは確かにこのアルバムに流れる時間の延長線上にあった。
「いいなあ……」
兄ちゃんは今でも最高で、最強で。それに引きかえ俺ときたら。自分の身一つ自分で守れなかった。
「もっと強くならなきゃ」
一人きりの自宅事務所のソファで天を仰ぎ、拳を握りしめた。