0406②/さまじろ/9308

 遅い時間を狙って昔馴染みの経営するバーを訪れると一組のカップルが入れ違いに帰っていった。一人で切り盛りする店主がグラスを片付けながらこちらを向く。
「いらっしゃいませ…………ああ、左馬刻さんか」
 貸し切り状態のカウンターに座り煙草を取り出した。
「いつもの?」
「ああ」
 短い会話で飲みなれたウィスキーと茶封筒が差し出される。グラスを取る前に封筒の口を薄く開いて中身を検めた。
「顧客リストの追加は今回の報告で最後だそうだよ」
「相変わらず仕事が早くて助かるわ」
「伝えとくよ、左馬刻さんが褒めてたって」
 この店はいくつかある情報屋の一つだ。盛り場界隈の情報収集を得意とする使いっ走りを飼っていて、定期的に世話になっている。
 仕事以外でも店主とは付き合いがあるが、ここ最近は事情で暇がなかった。仕事の用事で訪れたついでに少しゆっくりさせてもらっても罰は当たらないだろう。
 すぐに出ていかないのを見て店主も自分用に酒を選んでカウンター越しに飲み始める。
「この間大変だったんだって?」
「大したことは何もねぇよ」
「左馬刻さんが半端な状態で仕事を放って帰るなんて大したことだろ。何かあったの?」
 わざとらしく尋ねるが、情報屋の看板は伊達じゃない。同日に何があったかぐらいすでに掴んでいる顔だ。
 よく磨かれたカウンターに細く長く煙を吐き出す。
「………酒が不味くなるからその話はナシだ」
 低く言うと店主は両手を挙げて追及をやめた。この仕事は引き際を間違えないことも肝心だ。
 あっさり話題が変わる。
「そうそう、この間たまたま入舟さんと会ったんだけどね、左馬刻さんにも会いたがってたよ」
「久しく会ってねぇからな。今度連絡入れてみるわ」
「喜ぶよ。ああ、入舟さんと言えば……」
 レジ台の下からレコードショップの小さな袋を出してカウンターに乗せる。
「前に左馬刻さんが置いてったアルバム。ちょうど良かったから入舟さんと聴いたけど、入舟さんも気に入ってたよ」
「あの人は好きそうだと思ってたぜ。ライブ音源のトラックなんか絶賛だったろ?」
「バンドのヤツでしょう?これぞ若さって音でいいよねぇ」
 そりゃ褒めてるのかよ。笑って店主はアルバムの袋をこちらに押しやった。
「長く借りちゃってすいませんでした。自分でも買おうかと思ったんだけど、これ限定版だったんだね。もう通常版しか売ってなかったよ」
「ああ。返さなくていい。聴くならそのまま持っといてくれ」
 手元にきたものをまたカウンターを滑らせて戻す。自分の金で買いはしたが、元から家に置いておくつもりはなかったものだ。
「いいの?」
「ああ。聴きたかった曲は聴いたからいい」
「それならありがたく頂きますよ。お礼にその聴きたかった曲ってのを当ててみせようか」
 また好奇心に綻んだワルい顔だ。睨んで返す。
「はいはい。そういえばさ、そのお目当ての子、最近ブクロの半グレ連中と頻繁にやり合ってるみたいだね」
 袋の中からアルバムを取り出して絞った照明の光にかざす。ライブの写真をベースにデザインされたジャケットだ。赤青黄の三色がメンバー三人に当たるスポットライトのように配色されている。その左端、青で染められた一角に視線が流れる。
「あっちで大きな揉め事の話は聞いてないが」
「うん。何もないんだけど、今まで適当にあしらって相手にしなかったような輩の売った喧嘩も手当たり次第に買ってるみたいでちょっとした噂になってるみたい」
 意図的に声を潜める。
「“最近の山田二郎は来るもの拒まずだ”って」
 眉間に力が入るのと煙草の穂先から伸びた灰が落ちるのは同時だった。

 そこそこな酒と、仕込みに時間のかからないそこそこの料理。それから愛想のない俺一人。
 やっと席を設けることができた誕生日祝いはささやかなものだったが、二郎は終始嬉しそうにしていた。
 当日は家族、翌日は友人と。すでにたくさんの祝福を受けているのに「待ってた」と笑った。待たせる原因の半分は二郎のせいだったが。
 誕生日前夜。顔見知りに誘われて飲みに行った二郎は酒の席で一服盛られて拉致された。犯人は過去に俺と一郎が潰した連中だった。警察沙汰を起こして服役し、最近出所して俺と二郎が親しくしていることを聞きつけ、俺たちをまとめて陥れるためのエサとして初対面の二郎に近付いたらしい。
 元はと言えば俺たちへの復讐で二郎は巻き込まれた立場だが、眠らされて捕まるなんて迂闊もいいところだ。そこのところは本人も気にして落ち込んでいたが、酒が回ると言い訳を垂れ始めた。
「でもさぁ、兄ちゃんのこと褒められると弱いんだよな。兄ちゃんのラップが好きなヤツに悪いヤツはいねぇ!みたいな?」
 その節穴同然の目で選んだ友人に騙され拉致されたクセに気持ちよく酔っ払いながらそう嘯いた。救いようのない馬鹿だがブラコン馬鹿兄貴が聞いたら怒れないだろう。
 そもそも、今回の輩は一郎のファンを装っているだけのアンチだった。見る目がないにも程がある。
「つぅか、テメェじゃなくクソカス兄貴のファンかよ」
「だって、俺より兄ちゃんの方がカッケーじゃん……。この間のヤツも、兄ちゃんの昔の様子に詳しくてさ、昔からすげー強かったって。だから、兄ちゃんを応援してるイイ奴かと」
 兄ちゃん、兄ちゃん。
 二十歳過ぎても二郎は兄ばかり追っかけている。高校卒業後も当然のように一郎が経営する萬屋に就職した。
 親のいない環境で苦労して育った過去を思えば理解できないでもないが、いつまで経ってもこの調子じゃ、こっちとしても面白くない。
「はぁ…………チョロすぎだろ」
「わーるかったって。世話かけちまったし、これからはちゃんと気をつけるからさ」
 両手をぱちんと合わせて大袈裟に頭を下げる。あまり本気で反省しているようには見えない。
「ほんと、マジで今回は悪かったと思ってるからさぁ」
 白い目を向けると温まった手で腕に絡んでくる。
「…………」
「マジだって。その目やめてくれよぉ」
 肩に額を擦り付ける。髪が揺れて微かにワックスの匂いがした。知った香りだ。俺がくれてやったワックスを使い続けている。
 笑い上戸、泣き上戸、酔うと箍が緩んで内面が表に出るなんて聞くが、酒が入った二郎は人懐っこさが前面に出てくる。普段、気取って大人ぶって振る舞っている外側が剥がれて、ガキみたいに馬鹿正直で甘ったれな顔が覗く。
 頬をつまんで引っ張ると困り顔で見上げて、
「ごめん」
 これが一郎の溺愛する弟だ。
 口で答える代わりに鼻の頭を噛んでやると、許されたと思って口元が緩む。
 夜が明けたらこんな風に過ごす時間もまたしばらくおあずけか。午後には仕事が待ってる。
 今のうちだ。煙草を手放して肩を抱き寄せた。赤いほっぺたを肩にくっつけて二郎が膝を叩く。BGMに流していたレコードがちょうど二郎好みのナンバーだった。
 スピーカーから流れる英詞とは全く違うフレーズをご機嫌で歌い出す。あんなに一郎を崇めているのに、こういう時に飛び出すライムは一郎とは違うクセがある。
 二郎が俺の膝を叩くから指先で二郎の肩を叩いてリズムをとり、ちょっと歌に絡めば喜んで声が大きくなる。
「うっせぇよ」
 さっきまでしょげていたのが嘘みたいだ。一人で笑って注ぎ足したグラス片手に鼻歌を唄う。電池が切れて眠るまで。ずっと音楽に頭を揺らしていた。

 静かに建物に横付けされた車を降りる。
 現場には小さな人だかりができていたが、駆けつけた俺たちの顔を見た端から道を開けて花道ができた。
 情報のあった駅裏の路地には三人の男がよだれを垂らして寝転がっていた。呼び掛けても返事はないが、息はある。
「薬でイッちまってんのか?」
 三人のうち一人はドラッグのプッシャー──売人としてマークしていた男だ。現物を所持している現場を押さえられなくて警察共々難儀していたが、仲間と思しき連中とつるんで人気のない場所に向かう姿を見つけたと情報が入った。それで偶然一緒にいた銃兎の車で駆けつけたら、三人まとめてぶっ倒れていた。
 腹の辺りを蹴っても応答がない。舌打ちして銃兎が救急車を手配した。次いでヨコハマ署に応援要請。
 その忙しい背中に呼びかけた。
「おい、銃兎。アレ」
 ビルの壁に監視カメラがある。ビルの裏口を撮影しているものだが、誰かがこの場から逃げたなら映っている可能性が高い。
「確認してくる。じきに応援が来るからお前は余計なことすんじゃねぇぞ!」
 余計なこと、なんて言われても相手は死体じゃない。現場保全も厳密でなくていいだろう。銃兎の小言を右から左に聞き流してターゲットの小脇にしゃがみ込んだ。
 うつ伏せた体を反転させると、懐から怪しげな包みが転がり出た。それから、手にはヒプノシスマイク。
 目を開かせて瞳孔を確認したが、最近出回っている薬物使用の症状は見られなかった。他の男も、一人一人、薬物使用の有無と所持品を確かめていく。
 結果、薬物を持っていたのはターゲット一人。量からして売買目的だったのは間違いない。薬物中毒の症状は全員なし。
「ヒプノシスマイクか……」
 一通り確認を終えたところでビルの裏口が開いて顔を出した銃兎に呼びつけられた。
「左馬刻、ちょっと来い!」
 裏口入ってすぐのところにある管理室に引っ張り込まれる。狭い室内には管理人らしい中年男が肩を窄めて立っていた。
「監視カメラの十分前の映像だ」
 デスクに設置されたモニターの一つには、すぐそこの路地を見下ろした風景が映っている。連中が倒れていた場所はギリギリで映っていない。何もない道がそこにある。
 管理人が銃兎の指示で映像を早戻しした。画面の上の方から人影が後ろ歩きで下の方に移動し、再生ボタンでまた画面上側に向かって歩き始める。
「これ、山田二郎じゃないか?」
 全身が映ったところで映像を一時停止し、人物を拡大する。斜め後ろからで顔は映らなかったが、確かに見覚えのある服、帽子。
 歩きながら手にしていたマイクを腰のベルトに差し込んで、代わりにポケットから何か、鍵のようなものを取り出してどこかへ行った。
 道の先にはバイクを置ける駐輪場がある。二郎は普段、バイク移動だ。
「お前に連絡は?」
 携帯を確認したが、何の通知もなかった。以前なら成り行きで薬中野郎をぶちのめしたらその場に放置なんかせず俺に報告を入れていたはずだ。
「……連中、今はキメちゃいなかった。現物も懐にしまってたようだしバトル中はプッシャーと気づかなかったのかもしれねぇ」
 ただ、ちょっとした小競り合いならわざわざ教えてはこない。それ自体は不自然なことじゃなかった。
 だが銃兎は腕を組んで、きっちり整えた眉を寄せた。
「左馬刻。最近、山田二郎は頻繁にヨコハマに出入りしてるのか?」
「急になんだ」
「いや、ここのところ所轄管内でバトルが頻発してるらしいんだが」
「ンなもん前からちょくちょくあったことだろ」
「それが、生活安全課の奴が言うにはテリトリーバトルのヨコハマ予選で上位に食い込むようなチームが何組かぶちのめされてるらしい」
 ヨコハマ予選の上位。つまり俺や銃兎、理鶯が勝ってきたチームだ。ヨコハマ最強であるウチと二位の差はデカいが、二位以下はそれなりに拮抗しているはずだ。雑魚なりに切磋琢磨して実力を伸ばしている。
「……どこかのチームが違法マイクか薬でドーピングしてんじゃねぇのか」
「その線もなくはねぇがな、噂程度だが、山田二郎がやったって話がある」
 銃兎が険しい表情で言うのには訳がある。俺たちにとって二郎は、仲間じゃないが、気心が知れた人間だ。だけどヨコハマにとっては宿敵、イケブクロの二番手。山田一郎の手先。そんな男がヨコハマの有力チームを潰して回っているとなると。
「お前にも断りなしとなると、穏やかじゃねぇな」
 イケブクロのガキがヨコハマで好きに暴れていると噂になれば俺たちのメンツにも関わる。放置しては置けない。
 二郎の誕生日祝いをやり直して以降、特別用事もなかったせいで二郎からの連絡は絶えていた。
 ビルを出て路地に戻ると野次馬の向こうでパトランプの赤い光が見えた。
「はぁ、面倒なことしてくれやがって。もう細切れのテリトリーを奪い合う時代じゃねぇんだぞ」
 ぼやきながら銃兎は応援の車に向かって歩いていく。
 ほんの数年前。ヒプノシスマイクを握ったばかりの頃は四六時中、街のどこかでバトルが起きていた。懐かしい記憶だ。
 自陣の近くで騒ぎがあったと聞いて当時組んでいた愚連隊の仲間と状況を調べると、まだ学生の一郎が兄弟とは別のコンビを組んで、あちらこちらで暴れまわっていた。
 あの頃は二郎は今よりもっと子供でヒプノシスマイクを持ってさえいなかったが。
「…………バカガキとは思ってたが、もうちっと賢かったと思ったんだがなぁ」
 俺のせいか。理由はいくつか浮かんだが、ガキの気持ちを察して説得するのも面倒だった。それを言うと銃兎にバカにされるだろうから黙っておく。
 メンツを守るなら説得よりもっと手っ取り早い手段がある。
 警察の目を避けたビルの裏手で一服してから舎弟に電話一本で指示を出した。ヨコハマで二郎を見つけたら黙って俺に連絡するように。

 終戦から数年。まだ海外には紛争が続く地域もあったが、日本は復興に乗り出した。幸いにも都心は無事な地区が多く、テロ被害のなかったエリアだけで暮らしていると戦争なんか経験しなかったような生活ができた。
 ただ一つ、旧東京都のど真ん中に聳え立つ、コンクリートの壁に覆われた要塞都市だけが、戦争の歴史を思い出させる。
 警告のように地方から順に発生したテロ事件、太平洋からの攻撃に備え、政治の中枢を守るために築かれたシェルター。しかし東京都の四分の一以下の面積しかないそこは、国民を収容するような広さはなかった。
 万が一、外からの襲撃が実現していたら、壁の中に入れなかった国民は死ぬ。実際は何件かの爆破テロを除く戦火は本土まで及ばなかったが、壁は政府への不信感を煽った。
 そんな壁の中に新政府の女たちが引きこもって武力根絶を唱えたのは滑稽だった。その上、銃を徴収する代わりにヒプノシスマイクなんて得体の知れない兵器を男たちに配った。自分の喉と精神が潰れるまで弾切れしない、廃人だって作り出せる凶悪な武器だ。
 全てが女の思い通りといえど、実際にヒプノシスマイクの力を振りかざして銃火器を奪われたら、男はヒプノシスマイクに飛びつかないわけにはいかない。早くコレを使いこなした奴が新しい時代を牛耳れる。
 しかも、ヒプノシスマイク使用に必要なスキルはラップスキルだった。これまで年寄りの政治家連中に社会のお荷物扱いされてきた学のないガキやアウトローが突然力を得た。
 学歴がなくても、貧しくても、ガキでも、ラップが上手けりゃのし上がれる。社会の構図が変わる。
 そういう時に、山田一郎と出会った。
 今より荒削りで、金がなくて、貪欲で。バトル一戦ごとに成長していく。金も学もないがラップの才能はあった。
 奴は俺と組む前から頻繁に支配エリアを賭けたラップバトルを繰り返していたし、俺と組んでからも、チームでスケジュールを組んでのバトルでは物足りないと言う程のラップバカだった。他のチームとバトルして、その帰りに思い切り俺と模擬戦をやった。
 暮らしは大変だっただろうが、毎日いくらでもラップでやり合えたあの時代は、血の気の多い年頃の一郎には合っていたようにも思う。バトル相手に事欠かない環境が山田一郎を鍛えた一つの要因なのは間違いない。
 強くなるには場数を踏む。バカでも思いつく、単純なことだ。

 指示を出した翌日、早速二郎が数組のチームに絡まれていると連絡が入った。
 二郎から喧嘩を売ることはないようだが、イケブクロの山田二郎を倒して名を挙げたい奴はどこにでもいる。挑んでくる奴を端から蹴散らしているとなれば尚更。最初の勝者になったらこれまで二郎が潰したチームまで全て踏み付けにできる。
 二郎が手当たり次第にバトルに応じているという噂は新たな挑戦者を呼んだ。ヨコハマを歩けば右から左からバトルを持ちかけられる。
 だけど二郎は負けない。今や野良バトルに興じるレベルの連中じゃ相手にならない。
 実力差を埋める何かを持たないまま予定調和的に敗走した雑魚を見送るつまらなさそうな横顔は、確かに昔の一郎に似ていた。
「よう、シマ荒らし。派手にやらかしやがって」
 声を掛けても驚いた様子はない。いつか俺が出てくることは分かっていた顔だ。
「意外と遅かったじゃねぇか」
「なんだ、俺様の気を引きたくてやってたなら素直に携帯に連絡寄越せや。“会いたいわ、ダーリン”ってよ」
 揶揄うと顔を逸らして舌打ちする。
「別に荒らすつもりはねぇよ。騒がして悪かったな。今度から他でやる」
「そう拗ねんな。クソ虫連中が相手じゃ不完全燃焼だろう?」
 握ったマイクを見せる。すぐには応じなかったが、結局二郎は自分のヒプノシスマイクを握り直した。
 最初からこうすりゃ良かったんだ。強くなりたいなら自分より弱いヤツを相手にしても仕方がない。
 結局、有象無象とのバトルで満足できずに俺とやり合うところまでクソ兄貴と同じだ。いっつも兄貴の真似ばっかりする二郎に文句をつける俺がそう仕向けた。皮肉なもんだ。
 それでも俺が相手になると言えば断らないだろうと思っていた。昔の一郎もそうだったからだ。
 ビートが鳴り始めてもどこか煮え切らない表情の二郎の代わりに先攻をとった。

『ハマでサマトキサマに挨拶なしか?シマ荒らし野郎、人集りでバカ目立ち、探す手間なし
暴れたりねぇなら相手するぜ、顔面パンチ喰らわし反省会する暇もなし』

 軽く捻るつもりで突っかける。それでもちゃんと腹のど真ん中に打ち込んだ。テリトリーバトルが始まった頃の二郎なら一発で吐くような弾だ。
 それを二本の足で踏ん張って堪えた。もう少し上手く躱すだけのスキルもあるはずだが、わざと正面から食らって、生意気にこっちの本気度合いを確かめようとする。
 後攻は頭から強い調子で殴り込んでくる。

『しゃしゃり出てくんな、騒ぎてぇわけじゃねぇ
これは武者修行、てめぇはアンダーグラウンド、巡査部長とでも遊んでな
俺だってミュージシャンだ、雑魚見る目で見んな』

 盛んに手を振ってリズムをとりガツガツ撃ち込んでくる拳みたいなフロー。本気で勝ちを狙う気迫はあるのに、何か奥歯が噛み合わないような違和感があった。
 力押しの二郎得意のスタイルだが、これは、二郎というより劣化版の一郎。
 元々リスペクトする兄貴を真似てラップを身につけたお陰で土台からして似ているが、いくら真似したってその場で新しい言葉を新しいフローで撃ち出すフリースタイルで完全コピーはない。真似していたはずなのに自然と生じる差が、二郎の個性。持ち味ってヤツだ。
 それを無理に捻じ曲げて一郎に寄せている。この間の拉致救出事件で兄貴への憧れを新たにしたってところか。
 いくつになっても一郎ばっかり追いやがって。

『武者修行?部活動の間違いだろ、駆け回るならブクロのグラウンドでやれやクソガキ
また兄貴の真似か?くだらねぇ、もっとマシな大志を抱けや』

 一発目より重く、低くしたから抉るように踏み込んだ。
 息を詰める瞬間の微かな音。体をくの字に曲げて受けた衝撃に耐える。実際には体に指一本触っていないのに、精神干渉を受けた脳が勝手に物理攻撃を受けたように反応して、無傷のはずの内臓が縮み上がり胃液がこみ上げ、自律神経が急激に乱れて体のバランスが崩れる。ビートに合わせていた呼吸も動悸で乱され、息も上がる。
 地面に転がることは免れたが、屈み込んだ背中が早い呼吸に合わせて上下する。
 対する俺はまだまだ余裕だ。二郎がギブアップなら終わりにしても良かった。
 荒い呼吸とちぐはぐなビートが歪に重なる。
 後攻、二郎のバース。絞り出すような声でなんとか一小節目を吐き出した。

『ふざけんな
アンタは俺を見ない、俺はいち兄みたいになれない』

 弱い詞だ。さっきの方がまだまともな攻撃になっていた。卑屈で、青臭くて。
 トレードマークのキャップが脱げて乱れた黒い前髪を乱雑に握って、自分で引っ張り上げるようにして二郎が顔を上げる。ダサいフレーズを口にしながら、うつろな目を真っ直ぐこちらに向けて。

『アンタといち兄で最高のラップやってた見たこともない景色が頭から消えない』

 二色の瞳に怒りや羨望や嫉妬や、何色ものしみったれた感情が滲んで、涙になって溢れる代わりに力が入り過ぎた声の方が揺れた。
 そのくせ瞬きもせず睨みつけてくる。呼吸が乱れてもマイクに言葉を吹き込み続ける。

『俺だって、認められたいッ』

 ヒプノシスマイクを使ったバトルで迷いはガードを甘くする。本来のスタイルを歪めていたせいで想定より強く精神干渉を受け、時間差で足に来た。
 よろけて地べたに片手をついた際にマイクを落としかけ、手放すまいと強く握った勢いでマイクを胸に抱きしめる。
 最後の音は口元から離れたマイク越しではなく、単なる呟きとして耳に届いた。
「…………アンタに」
 ダメージの影響で隙だらけの、力のないワンバースが風のようになって、トン、と胸を叩いた。
 ビートと共にスピーカーの幻が消える。
 地面に転がる帽子を拾って埃を叩き落とし、蹲る頭に被せた。
 二郎のワンバース目で受けたダメージが頭の奥に残って頭を重くする。聞こえないように息を吐いて目の前にしゃがみ込んだ。
 反応のない肩を掴んで起こそうとするとぐらりと体が傾き、地面に膝をついて受け止めた。
 腕の中で土埃にまみれた頬を叩く。目は閉じたまま、少し唸ったかと思うと静かに眠り始めた。
「おい、起きろや。オイ!」
 呼んでもダメだ。俺の攻撃に耐えたように見えたが、最後のバースで体力を使い切ったらしい。その前にも立て続けに何試合かこなしている。
 こうなると少し眠って回復するまでどうにもできない。近くに停めさせている車まで運ぶ為に抱き直した。
 その拍子に二郎のポケットから小さな音楽プレイヤーが転がり落ちる。落下した衝撃でスイッチが入って、ディスプレイに明かりが灯った。
 表示されたのは最後に再生していた曲だ。見覚えのあるタイトルに手が止まる。
『俺だって、認められたいッ』
 バトル中には咄嗟に何のことか分からなかった。その答えが、恐らくこれだ。
 二郎が聴いていたのは、The Darty Dawg時代に俺が一郎と作った曲だった。