スノーホワイト/さまじろ/20333


このお話はプロット交換企画にてはせお様のプロットをお借りして書きました。

”ねぇ、クラブアルマンディンの魔女の噂知ってる?あそこのVIPルームに選ばれた男の噂……”

 ピンクの照明から逃れるように、端に設置されたスツールから女が降りる。化粧が濃いが、すっぴんも整っているのは想像に容易い。細身の長身を包むワインレッドのドレスの裾を揺らしてテーブルの向いに座る男の目の前まで歩く。体を密着させて、黒く艶やかな爪が男の肌に食い込まないよう頬に手を添えて。よっぽどその顔がお気に入りなんだろう。まだガキ臭さの拭えない男の顔を覗き込んでいる。
 確かにヤツの二色の瞳は物珍しい。兄弟三人、それぞれ違ったオッドアイだ。裏界隈の下衆な蒐集家に人気という話も聞いたことがある。あの女がその手の変態かどうかは不明だが。
 女の左手が顔に触れた後、びくついた男が大きく仰け反った。あわやスツールごと転倒するところだった。────俺が支えてやらなきゃ。
「あら」
 見た目より軽い、可愛らしい声を挙げて女が半歩だけ退く。遠目からの見立て通りの美女だ。派手なメイクに不似合いな少女みたいな表情で遊びに割り込んだ俺を見て、それからにっこり笑った。
「一緒に遊びたいの?有名人さん」
「ああ、俺にもこのオモチャ貸してくれよ」

 通称もまだない違法薬物の話が回ってきた。出所も曖昧で、最初は噂の域を出なかった。二度目に耳に入ったのはバッドトリップした男が他の客とトラブルを起こした事件だ。
 舎弟がたまたま訪れていたクラブで客同士の揉め事があった。それ自体はよくあることで、即座にスタッフが取り押さえて男の方を裏口から放り出した。現場を見ていた客の話だと、奥から出てきた男がフロアにいた若い男に襲い掛かったんだという。証言した客は酔っ払いだろうと言ったが、先日の噂を知っていた舎弟は念のために放り出された男を探し、店の裏口のすぐ外で発見した。
 暴れた男は口と両手をガムテープで固定されていた。足は自由だったがその場に蹲っていて、呼びかけても応えない。目は不規則に動き息が荒い。口のテープを外してやるとよだれを吐き出して舎弟の靴を舐め始めた。そこまでくればただの酔っ払いじゃないことはバカでも分かる。
 新しいクスリが出回っているなら調べなきゃならない。その場で男の持ち物や呼気を確認したが、現物も注射器なんかもなく、ただ酒臭いだけだった。
 そこで舎弟から俺に連絡が入った。
 当該エリアで薬物が出回っているという情報は件の噂しかなく、薬物に目がないお巡りから情報を引っ張ってもコレという話は出てこなかった。
 薬物使用者が発見されたからといって、その場で取引が行われていると決まったわけでもない。
 例のクラブ、『アルマンディン』に舎弟を通わせて様子を見ることになった。組長はマメな仕事のできる野郎が好きだ。それが大嫌いなクスリのこととなれば尚更。
 何も出てこなければ適当なタイミングで調査を打ち切るだけだ。
 俺だって暇なわけじゃない。駐禁や速度違反取り締まりに躍起になる警察みたいに手柄に飢えてるわけでもない。俺の出番なんか求めちゃいなかった。
 だけど期待しない時ほど何かが出てきちまうもんだ。
 常連としてクラブに出入りしていた舎弟がVIPルームの噂と、その特別な客の情報を掴んできた。
「アルマンディンの女帝に気に入られてVIPルームに入った客は良い夢が見られる」
 実際、黒服に案内されて店の奥へ入っていった客がいるらしい。その客は閉店後に黒服に見送られて店から出てきた。店から少し離れたところで声をかけて話を聞くと「飲みすぎて寝ていた」という。疲れた様子で遠い目をして。
 そんな報告が上がったもんだから調査は継続となったが、待てど暮らせど現物が出てこない。VIPルーム帰りの客に接触してもそれらしいものは何も持っていなかった。
 だが、店の奥から叫び声が聞こえることもあるらしい。何かあるのは間違いなかった。
「VIPに選ばれる客は器量がいいこと以外共通点もないようです。それとなく店員に聞いてもVIPルームは予約が埋まってるの一点張りで」
「そりゃあますます怪しいな」
 しばらく通い詰めてもそれ以上の結果を出せなかった地味顔の男が首を垂れた。下手に関係者に顔を覚えられても困るから影の薄いタイプを派遣したが裏目だったようだ。プッシャーの選考基準が容姿なら十年皆勤してもお声はかからないだろう。
「器量良し、か……」
 クラブ通いの交代要員はなるべく顔のいい男だ。事務所内の舎弟たちをぐるりと見渡すと、顔を確かめたひとりひとりと、漏れなく目が合った。
「あ?」
 俺を囲む連中を代表して、如何にも旧来の極道といった顔をした最年長の男が言いづらそうに口をはさんだ。
「うちで一番の美形は左馬刻さんですよ……」
 事務所中が静かに深く頷いた。舎弟が目上に命令なんか許されるもんじゃないが、満場一致だ。あまりにスムーズな決着だった。

 本来的に、俺は潜入仕事には向いていない。コソコソするのは性に合わないし顔と職業がセットで知れ渡りすぎている。
 お陰でダサいニットキャップで髪を隠してガキみたいな服を着て、薄暗いクラブに入り込むのにサングラスまでかけた。
 常連客となった舎弟に手引きされてチェックを偽造IDですり抜けると照明を絞ったフロアの壁際に逃れてやっと息を吐いた。
 比較的規模の大きい店だが、フロアでひときわ目立つブースに君臨するDJは見知らぬ男だった。それでも選曲は良い。DJブースの両脇で地面と天井をつなぐポールにはそれぞれ男女のダンサーが絡みついていた。男性ダンサーも女性ダンサー同様の露出の多い衣装で、男も女もなく盛り上がっている。女性客が多いのもこの店の特徴だ。女性客の保護が徹底されていて、強引なナンパはすぐに排除される。そのせいか中王区の官僚と繋がっているんじゃないかという話もあった。
 怪しげなヒプノシスマイクを齎した中王区政府と怪しげな薬物の噂が絶えないクラブ。囁かれるのも当然の組み合わせだ。ここで薬物と一緒にお役人まで捕まえたら面白いのに、と思う半面。そんな簡単に運ぶなら調査にも苦労しなかっただろう。
 だが、直接足を運んで間もなく、疑惑が真実であることを確信した。何人か記憶にある面がうろついている。元薬物中毒者や元プッシャーである程度のケジメをつけさせられた奴らだった。一度薬に手を染めた人間はちょっとしたきっかけで戻ってきてしまう。大方、この店の薄っすらとした噂を聞きつけてふらふら寄ってきたんだろう。青やピンクのライトで照らされて熱狂するフロアに背を向け、頻繁にバーカウンターを訪れて安い酒をオーダーしては店員に絡んでいる。
 ボックス席では女を口説く男。二人組でフロアの女を品定めする男たち。男女比にあまり差がないお陰か、店の体制に安心してガードの甘い女がいるせいか、旧時代的な光景がいくつもあった。
 まずカウンターでドリンクを一杯。ざっと店内を見て回ると、VIPルームへ続く通路はすぐに見つかった。照明のない廊下の突き当りに重厚な扉がある。通路の入口にはさりげなく、サービススタッフとはまとう空気の違う男が立っていた。
 コレで何も出てこない方が気持ち悪い。クリーンすぎる。金回りも調べたが、店の盛況ぶりと釣り合いが取れている。金回りがいいことは否定できないが、常にVIPルームの予約を埋めるような太い客がいるというなら当然の範疇だ。
 これは気の長い釣りになりそうだ。何曲目かで音が好みから外れたのをきっかけにやる気が失せてきた。仕事とはいえ待つのは得意じゃない。カウンターで二杯目を飲みながら監視を続けていた時、入口付近の女の間がほんの少しだけ色めき立った。盛り上がる店内ではほんの些細なことだ。
 新しく入場してきた客は、俺には及ばないが背の高い細身の男だった。七三に分けた髪の七の方で片眼を隠して眼鏡をかけたサブカル風の出で立ちで、背中を丸めて顔を伏せ気味にうろうろしている。見るからに怪しい。恐らくあまり顔を見られないために俯き加減なんだろうが、背の低い女には逆に良く見えてしまう。あちらはこちらに気づかずにカウンターでコーラを受け取ってひとりで壁際のテーブルに身を寄せた。
 俺より潜入に向かない男もいたもんだ。顔見知りが近づけば一発でわかる。アイツは、イケブクロの山田二郎だ。
 特徴的なオッドアイを前髪で隠してもたれ目と口許のほくろでわかる。この際、ヤツが入場制限のある未成年であることは放っておくが、ブラコンの山田一郎がよく来店を認めたもんだ。ヨコハマのクラブなんて。兄が生業とする萬屋の仕事の一環かと思ったが、これは二郎個人の事情で兄には黙って来た可能性の方が高い。
 下手に騒いで“女帝”の選抜を邪魔したらただじゃ置かない。向こうはこちらに気づかないし、こっちとしても全く無関係の相手だ。顔見知りだからって面倒を見るつもりもない。
 だが、壁際できょろきょろしているガキを全く無視することもできない。連れはいない様子だが、時々他の客から声を掛けられている。平たく言ってナンパだ。適当に断って店内を見ていると、また別の客にナンパされる。声をかけてくる客にも正体がバレているんだろう。二郎だって全国放送で頻繁に顔を大写しにされている有名人だ。ファンもいる。ヤツの今回の仕事が何だかは知らないが、この時点ですでに失敗しているように思われた。
 ところが。二郎の監視に飽きて再び情報収集目的の散策を始めてカウンター近くに戻った時。二郎は妙に存在感のある長身の女といた。見るからに気後れした様子だが、熱心に話しかけられている。
 女はそれまでのナンパとは違った。小顔で整った輪郭に計算されつくした波打つ髪。かなり上等なホステスのようでもあり、舞台役者のようにも見えた。白い腕をテーブルに乗せて身を乗り出して何かしゃべっている。
 直観が言った。あれが女帝だ。
 噂の中の女帝が本当に女かどうかも怪しんでいたが、VIPルームの女帝が本当に俺たち客と同じ人間ならばあの女に間違いない。そんな確信があった。
「おい、あの女見たことあるか?」
 連れの舎弟を見つけて確認させる。
「いやぁ……初めて見る客ですね」
 一度でも見れば忘れないだろう。よく見ると、少し離れた位置に黒服が侍っている。そちらはVIPルームへ案内する男たちと全く同じ出で立ちだった。
「女帝サマ直々にVIPへご招待か?」
 女帝が目的ならさっさとついていけばいいものを。二郎はなかなか移動しなかった。テーブルをはさんでカフェにでもいる学生みたいに女のおしゃべりに付き合っている。
 しばらく見ていて分かったのは、二郎が女に慣れていないってことだ。一郎の弟だから兄貴の真似で硬派を気取っているのかと思えばそうでもない。肩を竦めて視線を逃がしたり、テーブル越しに伸びてきた白い手から逃げたりしている。
 そんな調子でよくこんな店に来たもんだ。呆れている間に女帝がスツールを降りた。小さなテーブルを回り込んで二郎の前に立つと、女帝の背中で二郎が見えなくなる。
 仕方なくこっちも二人を監視しやすい位置まで移動した。女帝はその辺の男なら三秒で落とせそうな美貌で、いやらしい指のしなりで二郎の太ももを撫でる。長めの上着の裾の内側にまで侵入しても、二郎は自分からは指一本動かさない。言葉で断っているような気配があったが、店内の賑わいで声までは聞こえなかった。
 二人が密着しているのを確認した数十秒後。女帝が二郎の顔に手を伸ばした。頬を撫でながら近づく女の顔から逃れようとした二郎が派手に仰け反って、スツールが傾いた。
「あぁっ!」
 舎弟が叫ぶ。固い床か、真後ろの柱か。どこかしらに向かって、細長いシルエットがバランスを崩してスローモーションで転げた。下手すりゃ大怪我だ。
 しかし奴は助かった。間一髪のところで駆け付けた俺の手が届いたからだ。
 傾いた途中で二郎の転倒が止まる。女帝の異様にキラキラした宝石みたいな目がこっちを向いた。自分のせいでガキが怪我しそうになったってのに、申し訳なさそうにするどころか驚く素振りもない。俺が現れたことも何もかも想定内のような。
「あら。一緒に遊びたいの?有名人さん」
 気色悪い。これまで会った女の中でも上位クラスの美女のはずなのに、まるで妖怪だの幽霊だの。人外じみた違和感があって近づきたいとも思わなかった。
 見た目に反した純真そうな声の女帝が微笑む。お人形遊びする子供みたいだ。
「ああ、俺にもこのオモチャ貸してくれよ」
 乗ってやると口許を緩めて「どうしようかしら」と人差し指を立てる。
「二郎くんはどっちと遊びたい?」
 そこで斜めのままの二郎に視線が注がれる。スツールごと腕に収まって固まっていたガキがびくりと肩を竦めて、それから俺の袖を掴んだ。女帝のやる幼女芝居とは違う、本当のガキみたいな仕草だった。
「まぁ、残念。じゃあまた遊びましょうねぇ」
 女が腰をかがめて性懲りもなく二郎に近づいた。よほどこの顔が好きらしい。顔を覗き込んで、撫でて、一瞬だけハグして離れていった。
 相手は女だ。男だったらもう少し恫喝しても良かったが、女帝はそれを最後にしてあっさりフロアを去ったから黙って見送った。
 女とその取り巻きの男たちが消えると、目立たないように舎弟が傍に来る。
「大丈夫でしたか、左馬刻さん」
「ああ。だが俺はもうコイツ連れて店を出るわ。お前はもうちっと残って動向探ってくれ」
 素直に頷く舎弟を残して二郎に肩を貸す。担いで出ると目立つが、肩を貸すフリなら酔っ払いの連れに見えるだろう。とはいえ、二郎も連れ出そうとする俺に抵抗はしなかった。

 ビルの外は静かだ。今夜は風も少ない。
 うるさいクラブから出てビルの谷間の暗がりに落ち着くと耳の奥の方で耳鳴りがした。
 ガキはまるで借りてきた猫だ。
 コンクリートの壁を背に地べたに座り込んで膝を抱えている。あれほど露骨に女に迫られたクセに、興奮して困ってるわけじゃない。
 俺だってコイツが大事で助けたわけじゃない。クソ野郎の身内とはいえ、妹も顔見知りのガキがおかしなことになるのは寝覚めが悪いっていうそれだけだ。
 どこか生臭い夜の空気に煙草の煙をふっと混ぜ込んで、仕事が半端に終わってすっきりしない気分を切り替える。
 とりあえず外には出た。女帝は取り巻きを使って外で網を張るような真似はしないようだ。未成年とはいえ、イケブクロを仕切っているほどの男なら自力で自宅まで帰るなり、友人の家に身を寄せるなりできるだろう。わざわざクソの住処まで送ってやるほどの義理はない。
 車を呼んで一人で帰ろうとしたとき、俯いていた二郎が顔を上げた。
「…………あのさ、助かった」
「あ?」
 声が小さくて反射的に聞き返すと不本意そうな怒り口調で再び言われる。
「だから、助かった、って!礼言ってンだよ!」
「それが礼を言う態度かよ。まったく山田一郎クンはいい教育してやがるな」
「兄ちゃんをバカにすんな!」
 口癖同然のセリフを叫んでやっとエンジンがかかってきた。テリトリーバトルの会場でよく見る山田兄弟の切り込み隊長、山田二郎だ。
「一応助けてもらったからって素直に言ってんのにいちいち嫌味言いやがって」
「ハッ。助けられたとは思ってンのか?俺はまたイイトコを邪魔したかと思ったぜ」
 揶揄うと、またトーンダウンする。てっきりキャンキャン言い返してくるかと思った。
「…………助かった、とは思ってる。どうしていいかわかんなかったし」
 いくつも指輪をはめた手で自分の頬をこすった。女に触られた感触を拭いとるみたいに。
 雲が流れて、ビルの角から月明かりが差し込む。
 月に似た色の瞳が。艶やかな赤い唇が。白っぽい月の光に照らされて濡れた色に輝いた。
 ああ、去り際の女はこれをやったのか。陰になって見えなかった。二郎を手放す直前、女帝は悪戯でルージュを塗っていったんだ。人工的な色の唇を見て分かった。
 化粧っ気のない男には不釣り合いなはずの口紅が二郎の顔によく似合っていた。
 一度それに気が付くと、月光が再び雲にさえぎられて影が落ちても口許に目が行くようになった。二郎が喋るたびに色づいた唇が動く。
「奥に部屋があるからって誘われたけど、俺は他に用事があったし、断ってもしつこくてさ」
「他に用事だと?テメェもVIPルームの薬を追ってたんじゃねぇのか」
「クスリ?やっぱ薬物絡みだったのかよ」
「こっちが訊いてんだ。知ってることがあるなら全部吐いてけや」
 二郎が寄り掛かる壁を足蹴にすると嫌そうに口を引き結んで、それでも借りを返しているつもりか素直に話した。ここに来た理由を。
「仲間の兄貴がハマに住んでてさ、この界隈で遊んでたんだけど。少し前に酔っ払いか何かにボコられて入院したんだ。普通の喧嘩じゃそうはならないぐらいの重体で……」
 普通の喧嘩ってのは、要するにガキの喧嘩だ。お互いどこまでやったらヤバイか、取り返しがつかないかわかってやる。命まで奪う気のない殴り合いだ。自分の勝ちを認めさせるだけダメージを与えたらそこで終わり。
 重体ってことは、そこで止まらなかったわけだ。
「目撃情報だと、相手もこの辺で遊んでる男だったみたいだけど、普段からキレやすいヤバいヤツとかじゃなくて、その時だけやたらと興奮してたらしくて……」
「そいつが直前に出入りしてたのがここのクラブってわけか」
 頷いて二郎が深く息を吐き出した。七三に分けた髪をぐしゃぐしゃにかき乱して後ろに流すと、自然と分け癖のついたあたりで髪が分かれて半端な毛束が顔に落ちる。
「兄貴がやられた本人は治療費のためにバイト増やさなきゃならなくて暇がねぇから俺が代わりに調査を引き受けてる。……兄ちゃんには内緒で来てっから言うんじゃねぇぞ?」
「誰が好き好んでクソカス野郎と喋るかよ」
 お望み通りチクりはしないと誓ったのにワガママなガキは嫌そうな顔をした。

 アルマンディンでの騒動からしばらくして、薬物中毒者の暴走に巻き込まれ入院していた人物の情報が入った。
 本人の薬物使用は確認されていないが、アルマンディンにも出入りしていた可能性のある男だ。
 その連絡を受けたのが病院の近くで、調査に向かうという部下に代わって病室に立ち寄ったが。問題の男はまだ包帯だらけの白い顔に人工呼吸器をつけられていた。
 外見で分かるダメージ範囲と、腕のガーゼの貼られた腕に注射痕がないことだけ確認して部屋を出た。
 サングラスと帽子で人相を誤魔化した俺は見るからに不審者で、当然看護師に見つかれば咎められただろうが、どうも正面口が騒がしく、人の目がそちらに向いたお陰で難なく入り込むことができた。
 だが分かったのは、執拗に頭を狙って殴られたこと。本人はおそらく薬物中毒者ではないということくらいだ。
 看護師に見つかる前にずらかるべく人の少ない階段から一階に降りた。
 正面口では報道関係者らしい人だかりが出来て、それを食い止めるための警備員が体を張っている。病院に来た時に車が多いとは思っていたが、タイミングが悪かった。
 正面口がそんな調子では外来患者や見舞いの一般人も出るに出られない。見ているとみんな狭い夜間用の通用口に向かっているようだった。
 こんな浮き足だった人間がわんさかいる中では正面口はもちろん、夜間出口を使うのも考えものだ。見るからに怪しい男が裏から出て行ったら不毛に人目を集めるし、かと言って素顔で出て行けば尚更目立つ。
 仕方なく駐車場に面した廊下の窓を乗り越えることにした。袋小路で片側に扉はあるが、関係者専用の部屋で患者は用はない。近くの検査室前のベンチに座れなかった待機患者用にベンチはあるが、今は検査室の前にも人はいなかった。
 特有の匂いのする廊下を早足で横切り、目的の通路に曲がろうかというとき。いつ来ても人のいるイメージのなかったそこに人影を見つけて壁の角に身を寄せた。
 なんでタイミングだ。目論見が外れたことにイライラする。
 検査待ちのわけもなく人気がない場所として選ばれたのはほぼ間違いない。向こうは二人。話し込んでいてこちらに興味はないだろうが、どんなに無関心でいてくれても窓を乗り越えたら振り向くだろう。この、混乱の最中の病院で、だ。
 あっちもこっちも出るに出づらい。他にどこに出口があっただろうか。考えを巡らせながら通路をまともに覗いて、思考が一瞬白紙になった。
 見知った男、山田二郎が歳上の男と喋っている。
 最近妙に縁があるもんだ。呼んでもいないのに面倒な現場に居合わせる。
 放っておくなり蹴りつけるなりすればいいのに妹より歳若いガキだからか。様子がおかしいとつい確認してしまう。
 相手は友人には見えなかった。歳の差と、どこか気後れした二郎の様子が主な原因だ。
 それから、どうも距離感が気持ち悪い。友達でもまだ足りない、親友や家族のような近さと二郎の遠慮した空気がちぐはぐで。
 俺より歳は上に見える男が胡散臭い笑顔でやたら体を寄せ、恐らく、許可もなくガキの体に触れる。
「────サッカーやめたの残念に思ってたんだが……これならいつでも戻れそうじゃないか」
 ベンチに乗せた腰から伸びる足を無遠慮に大人の手が触る。太ももの真ん中を掴んで、布地の上を滑って膝を撫でた。それから足の付け根へ。きわどい位置だ。冗談半分で人に触らせるような領域じゃない。
 落ち着かない様子で膝が動いてもお構いなし。指で弾力を確かめる手つきが傍目にも気持ち悪くて腹の奥がムカついてくる。
「くすぐってぇ」
 二郎が苦笑いで手首を掴むと笑って手が離れた。代わりに肩を組む要領で向こう側に手が回る。
「お前は昔っからくすぐったがりだったよなぁ。ほら、力抜けよ。今度は上半身だ」
「もういいっすよ。心配しなくても兄ちゃんの仕事の手伝いのついでで結構体動かしてるしさ。サッカーはやりてぇけど、今は他に頑張ることもあるからさ」
「……そうだな」
 二の腕を舐めるように伝いおりた手が腰に回る。二郎本人は親し気な男の顔から逃れるようにリノリウムの床に視線を投げていてみていなかったが、離れた位置からは良く見えた。男が腰に巻かれたシャツの下にあるヒプノシスマイクの場所を確かめるのが。
 その仕草はマイク狙いにも見えた。だけど男が執拗に自宅に誘い始めたことで最初の見立て通りのゲス野郎だと確信する。
「今度一度うちに来いよ。見せたい試合の動画もあるし、一人じゃ気が引けるなら他のヤツも呼んでやるから」
「他のみんなには会いたいけど……今も部活でサッカー続けてるんだから不良とつるんでるとマズいって」
「何言ってんだよ。お前はイケブクロの英雄じゃないか」
「じゃあ、テリトリーバトルで優勝したら祝勝会やってくれよ。全国優勝した時の店でさ」
「それはもちろん。だけど家が遠いわけじゃないんだからもっと気軽に行き来してもいいだろ?話したいこともたくさんあるんだ」
「俺も懐かしいけど、これでも結構忙しくしててさ」
「予定ならこっちが合わせるさ。だから……」
 腰を抱いて男が身を寄せた。恋人でもなけりゃ不自然な距離だ。当然、二郎はこの男の恋人なんかじゃない。
 物陰で連中が去るのを待つのも飽きて無意識にポケットの煙草を取り出した。その途端に遠くから年嵩の看護師が目敏くすっ飛んでくるのが見えた。ガキみたいに注意される前に火をつけていない煙草をシャツの胸ポケットに突っ込んで両手をあげて見せる。目立たないように帽子とサングラスで顔を隠しているとはいえ、一八〇後半の男にも物怖じせず釘を刺すみたいに睨みつけてババアは元の持ち場に戻っていった。
 ババアの向こう側にある正面口はまだマスコミと警察で賑わっているし、騒ぎを避けたい外来患者が何人も裏口に向かって歩いて行った。
 煙草の代わりに後ろ足で白い壁を蹴りつけ、柄じゃない配慮をぶん投げて中庭に向かう通路に出た。
 人通りのなかった通路に人が来たことで男は素早く二郎から身を離し、二郎は顔を上げて「あ」という顔をした。
 目が合ったが何も言われなかった。何も言われなかったが、俺は横切りざまに二郎の腕を強くつかんでベンチから引き離した。
 そんなことする必要なかった。直前までそうしようと考えていたわけでもない。でも、そうした自分の行動に疑問もなかった。
「うおっ」
 腕を掴み上げられた二郎はよろめきながら立ち上がって俺にぶつかった。しっかり両足で安定しても振り払うことなく、代わりに呆気にとられていた男が大きな声を出す。
「なんだアンタ!その子を離せ!」
 まるで自分がこのガキの味方みたいな口ぶりで笑っちまった。
「何がおかしいんだ!二郎のファンか何かか?!」
「いや?ファンなんかじゃねぇよ。ただ俺も用があってな。コイツがさっき忙しいって言ってたろ?」
 片手でサングラスを外すと、漸くこっちの正体に気が付いて息を飲んだ。
「ヒッ……なんで、お前がここに…………!」
「物分かりの悪い野郎だな。俺様が用事だっつってんだよ」
 納得はしていない表情ながら男が口を閉じた。俺と、二郎を見比べて、「でも」とか「だって」と言いかけてやめた。
「……二郎、また今度連絡する」
 さっきまでの粘着ぶりが冗談みたいな速やかさで袋小路を飛び出し、正面口に向かおうとして慌ててUターンで夜間出入り口に突進していった。

 男の姿が見えなくなった途端に二郎の肩から力が抜ける。抜けすぎて首まで支えられなくなったのか、俺の肩に頭を預けて腹の中の空気を全部抜くような深い溜息を吐いた。
「何だあの気色悪ぃ野郎は」
 どうせ俺には無関係の人間だ。塩をまく代わりに吐き捨てただけだった。
 だけど二郎は助けられたら説明しなきゃいけないとでも思っているようで、重そうに顔を上げ、視線をそらして説明を始めた。
「悪く言うなよ……俺の、中学の頃のサッカーのコーチ」
 まだ未成年の教え子の体に手を出す指導者。クソの跋扈する世の中でも底辺争いの常連だ。
「ハッ。世話になった相手だから何されても許すって?甘ちゃんカス野郎の教育の賜物だな」
「教育とかそういうんじゃねぇよ!」
「なら……ああ、嫌がってんのかと思ったが痴漢プレイだったのか。そりゃ邪魔したな」
「違う!そもそも男の俺に触るのが痴漢なわけねぇだろ」
 時代錯誤なセリフが飛び出て驚いて顔を見た。クソ真面目な目と目が合うと、バツが悪そうに顔ごと逸らされる。
「コーチは昔から親のいない俺のこと気にかけてくれてたんだよ。施設の職員は俺より小さい奴のことで手一杯だったし。仲間が試合の後迎えにきた親に褒められてンの……なんつーか、ちょっと、羨ましいなって思ってる時に頭とか撫でてくれてさ」
 今でこそ長男の一郎にべったりだが、俺が一郎と出会った頃はそうじゃなかった。このガキは相当“親運”が悪いと見える。兄弟だけで自立する前に身を寄せていた施設の施設長も、とんでもない裏の顔を持ったクソ虫野郎だった。
 それなのに外面で優しくされるとガキはコロッとほだされて信頼する。ガキの心の隙間につけ込んで、信頼を寄せさせて、容赦なく食い物にする。
「試合で頑張ったこといっぱい褒めて、怪我のチェックとか熱心にやってくれて……。だから、なんつーの?変な意味じゃなくて厚意なんだよ」
 本気で思っているならお人好しすぎる。甘ちゃんな兄の一郎の影響かと苦々しく思ったが、ここに居合わせたのが一郎でもさっきの過剰なスキンシップを厚意なんて呼ばない。ブラコン野郎が許すわけがない。
 これは一郎が弟から離れている隙に指導者の皮を被ったクズが仕込んだ洗脳だ。
「厚意、ねぇ」
「そ、そうだよ。俺を気に入ってくれてんだから、高校にもなってガキ扱いはやめて欲しいけどさ。やめてくれとか、はっきり言ったら悪いだろ!」
 見下ろした二郎の、前髪の合間から見えるまぶたはまだ子供そのものだった。
 身長や態度のデカさの印象で、繊細さとは無縁のようなような気がしていた。自分の嫌なことはなんでもはっきりと拒絶できるヤツかと。
 コイツが崇拝する兄貴が高校生の頃はもっと落ち着いていた。大人社会のことも、世の中に救い難いドクズがいることも。ちゃんと理解していた。世話になった相手もダメだと思えばすっぱり見限ることができる男だ。俺との対立を選んだように。
 でも、弟の方は。
「……テメェが誰かれ構わず身体ベタベタ触られて喜んじまうドヘンタイじゃなけりゃ今度からはぶん殴ってケツを蹴り上げることだな。男も女も関係あるかよ。テメェにはその権利がある」
 バカにする口調をやめて、なけなしの親切心で教えてやった。
 何も分っていない子供が厚意なんて一方的で押し付けがましいものに騙されて搾取されるのは見ていて気持ちいいモンじゃない。
「でも、そんなつもりなくて親子みたいにしてくれてただけかも……」
「ハッ。高校にもなったガキの体触りまくる親?ンな気色悪ぃ父親なら尚更ぶっ殺して当然だな。そろそろ目ぇ醒ませや」
 普通の親はそうじゃねぇだろ。
 言いかけた言葉を飲み込んで声の乗らない吐息に変えた。普通なんて、普通の人生を送った呑気な連中同士で使う言葉だ。
 頭の奥がチリチリするような不快感で後頭部を掻き、さっきポケットに入れた煙草を出した。
「……アンタ、心配してくれてんの?」
 さっきまで面倒なことを言っていた癖になんだ。
 見ると、またあの目だった。本気で言ってる。
 ガキ特有の、妙に混じり気のない瞳が、じっと、まっすぐに見つめてくる。
「あ?」
「いや、だって。そういえばこの間も助けてくれたしさ」
 これまで兄貴の敵だと思ってギャンギャン吠えていたクセに。たまたま2度、ちょっと助けただけで信頼を寄せようとしてる。
 たった今、かつてコーチとして世話になっていた相手に痴漢されたばかりだってのに。
 親切心も、言葉も尽きた。
 呆れ果てて、腹立ち紛れに壁際のベンチを蹴りつける。大きな音がして離れた場所にいる人が様子を見に気配があった。
「あ、おいアンタ!」
 二郎の呼び止めを無視して廊下の突き当たりにある窓の施錠を外し、大きく開いて外に出た。
 結局収穫はないし胸糞悪いシーンには遭遇するし、散々だ。

 黒く艶めく爪の先が液晶スクリーンに向かってくるくる円を描く。
 さながら魔法を奏でる魔女のように。
 その指がピタリと止まると、画面を流れていた文字群も静止し、一つのメッセージがピックアップされる。
 それは匿名の女の嘆き。好きな男が自分だけを見てくれなくて憎らしい。そうした苦しみが綴られている。
「あらあら、かわいそうに。そんな悪い男にはお仕置きをしてあげないと」
 おままごとをする少女のようにひとり呟き、メッセージに添えられたファイルを展開すると、相手の男の写真が画面に映し出された。
 輝くような銀髪と白い肌。その上に落とした血のような赤い瞳。
「まぁ。この男……」
 パッと開いた手の指を口元に運び指の間から息を溢した。
 そうして思案したのもほんの束の間。面白そうに美しい顔を歪めてそのメッセージを閉じ、別の写真を選び出して画面に大写しにした。
「ふふ。それじゃあ早速招待状を用意しないとね」
 控えていた黒服を硝子のベルの音で呼び寄せると、すぐに上等な万年筆と封筒、それからメッセージカードが用意される。
 金で『Almandine』と記されたカードが。

 別荘の使用人は今日も機嫌が悪かった。
 留置所の寝心地が悪いから備品としてマットレスを入れておけと言ったせいだ。
 そんな他愛もない冗談も受け流せないぐらいイラついているんだから仕事は順調じゃないんだろう。俺も他人のことは言えないが。
「左馬刻。お前の言ってた界隈を調べたが、現物はおろかクスリの形状、詳しい効果も何も出てこなかったぞ。だがみんな噂は知ってる……、まるで都市伝説だな」
 餅は餅屋。薬物犯罪取り締まりの専門家に情報を渡して調べさせたが、こちらも何も掴めなかったらしい。
「誰も見たこともないにしては噂が浸透しすぎてるあたり、妙ではあるが。実態もなけりゃ酔っ払い事件と区別のつかない傷害事件。それも犯人から薬物反応が出たわけでもない。そんな状況じゃ追うに追えねぇよ」
 警察としてはもっと具体的な薬物の存在を示す何かが出るまで保留となった。
 うちの組織としても、警察も追わないような案件となれば手を引いても良かった。しのぎに大きな影響があるわけでもない。
 だが、あの店には確かに何かある。
 何か、形のある薬物じゃないとすれば─────。
 ヨコハマ警察署から出て舎弟に連絡をつけようとしたところ、門のところにひょろ長い影を見つけた。
 近くで足を止めると向こうも気がついて「よっ」と眉を上げて見せる。
「あんたが半グレのやつ相手に派手に暴れて捕まったって聞いたから出待ち」
「生憎、身元引き受け人なら間に合ってるぜ」
 敷地を出て出待ちのガキが立っている側と反対方向に歩き始めると、案の定、こっちの早足に合わせてついてきやがった。
「聞けよ!アンタ絶対興味ある話だから」
 あまりの自信ぶりに少しだけ視線をやると待ってましたとばかりに一通の封筒を差し出した。表にはやたら達筆な字で山田二郎の名前が書いてある。
「アルマンディンの女からの招待状だぜ。別に、俺一人でやれねぇわけじゃねぇけど、アンタには借りがあるからな」
 封筒を手に取って裏返し、中の二つ折りのカードを開いてみる。
 どれも厚みのある上等な紙で出来ていて、カードからは女物の香水が香った。
 メッセージは日時の指定程度の簡素なものだ。一人で来いとも、俺を誘えとも書かれてはいなかった。
「でかした。これは俺が預かっといてやる」
「ちょ、そんなんダメに決まってんだろ!」
 背中に隠そうとした腕に飛びついてすぐ取り返された。俺だって運動神経はいい方だが、コイツはフェイクの動きに騙されない反射神経と素早さを持ってる。
 仕方なく返したカードを大事そうにしまい込んだ二郎が「それから」と顔を上げた。
「アンタに訊きたいことがあんだけど」
「……なんだ」
「これから言う三人の男。ヨコハマで失踪してねぇかな?」
 妙な質問だ。怪訝そうな顔を見て二郎は言葉を足した。
「住所はイケブクロやヨコハマで、みんなヨコハマに出入りしててイケブクロの女子高生と付き合ってた男なんだ」
 スマホのメッセージアプリを開いて名前と年齢。それから加工でキラキラした女とのツーショット写真を見せられた。
「コイツがどうした?」
「わかんねぇ」
「ふざけんな」
「わかんねぇけど、しばらく前から連絡が取れなくなっててカノジョが心配してる」
 ヨコハマじゃ失踪する男の一人や二人や三人、珍しくもなんともない。心配しているカノジョとやらは気の毒だが、そんなものにいちいち付き合うほどやくざは暇じゃない。そんなことはバカなガキでも知っていることだ。
 つまり、
「アルマンディンの”VIP“か」
 肯定するように二郎が細い眉を上げた。
「兄ちゃんとこにカレシを探して欲しいって依頼があってさ。ブクロの自宅には帰ってねぇし、仕事先はヨコハマの繁華街だったから俺が引き受けて詳しく話聞いたんだよ。そしたら、カレシと音信不通になる少し前に男の浮気が原因で喧嘩して、女子の間でちょっと噂になってる裏サイトにカレシのこと書き込んじまったんだってさ」
「裏サイトだ?」
「そう。悪い男に悩んでる女の子を助けてくれるって噂のサイト」
「都市伝説かよ」
「ああ。書き込んでも掲示板みたいに画面に表示されたり、メールみたいに返事が来るわけじゃないらしくてさ。憂さ晴らしの冗談のつもりで書いたらしいんだけど」
「本当に男が飛んじまって焦った……ってところか」
 怪しいだろ?という二郎に頷いた。最初に相談を受けた女から、噂の出所をを探って、他にも件のサイトに書き込んだ後に恋人と音信不通になっている女を発見したらしい。
 男の敵で女の味方。現物の見つからない薬物、もしくは、特殊なヒプノシスマイク。
 事件の根っこが見えてきた気がする。
「わかった。こっちで調べてやるから俺の携帯に写真と分かってる情報送っとけ」
 自分のスマホを出して二郎が仲間との連絡に使用しているのと同じメッセージアプリを開いた。アプリで連絡を取り合うにはお互いの連絡先を登録する必要がある。登録用の画面を表示して差し出すと、二郎はアホ面で俺の顔を見つめた。
「なんだ?登録の仕方わかんねぇのか」
「え、いや。わかるけど……」
「…………俺と連絡とってるのが兄貴にバレると困るって話なら舎弟のアドレス教えるが」
「大丈夫!登録名変えときゃわかんねぇし、兄ちゃんは携帯覗いたりしねぇから」
 急に大声を出して断り、手早く登録作業を完了した。ガキの方がこういうツールの使い方に慣れてるモンだ。
 すぐに俺の方のスマホの通知音が鳴り、失踪した男のデータが届く。
「サイトの方は異常にガードが堅くてうちの弟でも運営してる奴が割りだせなかったんだ。ブクロの中で起きた事件ならこっちでも情報引っ張れるけど、ハマはそうもいかねぇからな」
「安心しとけや。テメェの方も追加でわかったことがあったら即連絡寄こせ」
「偉そうにすんじゃねぇよ!」
 文句を垂れながらも「わかってる」と言って生意気に笑った。
「じゃあ、また。招待状の日にな!」
 青いジャンパーを翻して帰っていく若い背中を見送って、迎えの車が到着するまでに一服した。
 ロクでもないガキだ。
 性質の悪い大人に優しくされて安易に懐いて痛い目を見てるってのに。
 懐かれている居心地悪さを洗い流したくて深く煙を吸い込んだ。
 

 結果的に、女の味方という裏サイトに書き込まれた男たちは三人とも、アルマンディンに出入りしていたという情報を最後に消息を絶ち、組の情報筋を頼っても居場所は掴めずじまい。
 そんな半端な調査報告だけを共有して深夜のアルマンディンを訪れることとなった。
 時間は日付が変わる頃。二郎は友人宅に泊まると言って家を出てきた。ご苦労なことだ。
 今夜は表に休業日の案内が出ていて外の照明は扉の真上を除いて全て消灯されていた。
 店の近くに舎弟の車を待機させ、二郎と二人で店の正面に立つと、自動ドアのような正確さで扉が開き、黒いスーツの男が恭しく頭を下げて出迎える。
「いらっしゃいませ。ようこそ、クラブアルマンディンへ」
 俺たちの顔をそれぞれ確認し、二郎が手にしていた招待状を回収すると、入場しようとした俺たちの前に革張りのトイレを差し出してこう言った。
「申し訳ございません。ご入場の前に、お持ちのヒプノシスマイクを預からせて頂きます」
「はぁ?テメェらにンな大事なモン渡せるかよ!」
 食ってかかる二郎を腕で止める。凶器であるヒプノシスマイクが回収されるのは想定内だ。
「要するに、持ち込まなきゃいいんだろ?」
「左様でございます」
 だったら信用ならない連中に渡す必要はない。待機させていた車から舎弟を呼び、車内に積んでいた小ぶりなアタッシュケースに二本のマイクをしまい込んで車に戻した。ケースの鍵は二郎のジャケットのポケットに落としてやる。俺とこのガキだって、たまたま協力しているだけで信頼関係があるわけじゃないからフェアであるポーズは必要だ。
「これでいいだろ」
「問題ございません」
 道を開けた黒服の前を通過して最低限の照明のみが照らす通路を進む。重厚な防音扉は、今日は開け放たれていた。
 以前訪れた時には客でいっぱいだったフロアは空っぽ。奥のDJブースの前にだけスポットライトが当たっているが、ブースにはDJの姿はなかった。
「人をクラブに招待しておいて今日のライブはナシ……ってことはねぇよなぁ?」
 スポットライトの下まで進み出て姿を隠した女を探して、暗い室内をぐるりと見まわした。隣りでずっと緊張気味だった二郎が背に立って同じように警戒する。
 開けっ放しで来た入口の更に向こうで、バタン、と扉の音がした。

『Bring the beat』

 突然DJブースに、左右に設置されたポールダンス用のポールに。煽情的なスタイルの女の幻影が出現して丸型のスピーカーを掲げた。
 短いノイズ。床を揺らすような低音。アップテンポのビート。
 頭の奥に直接響くような音に圧倒されて人の気配に気づくのが一瞬遅れた。
 入口からたくさんの男たちが雪崩れ込んでくる。二十歳前後から五十代まで。歳も背格好もバラバラの、しいて言えば見栄えの悪くない男たちが押し寄せてホールはあっという間にいっぱいになった。
 DJブースを背にいつでも動き出せるよう小さく身構えた二人を無視して。二人を照らすスポットライトの光の輪さえ避けてホールを埋め尽くし、音楽に合わせて体を揺すり、歓声の代わりに呻きを漏らす。誰一人として二人を見ていなかった。当然、手を伸ばしてくる者もいない。
 異様な光景だった。まるでゾンビのライブだ。恍惚とした表情でスピーカーから流れる音を求めて頭を揺すり、手を振る。
 追い立てるようなリズムから転調。じっとりした音が脳髄を焼く。
 咄嗟に人海戦術で潰そうって計画かと考えた。これが良くなかった。予想を裏切られて僅かに混乱した頭の隙間から精神干渉への耐性にヒビを入れてじわじわ蝕まれる。
 そのラップの本質に気が付いた頃には遅かった。
 神経をザワザワ波立たせる音楽にじり、と後ずさりした二郎の手の甲が触れた。当たった肌がやけに熱く感じて振り向くと、困り眉の下で熱っぽく潤んだ目とカチ合ってゾクリとする。
 二郎も、まともに顔を見ると肩をびくつかせてあからさまに視線を外した。耳にかけ切れない髪の毛が揺れて耳殻が見える。分けもなくその曲線を視線で辿り、無意識に手を伸ばしていた。
 触られて驚いた二郎が軽く手を叩き落としたことで、しつこく撫でさするようなことは回避したが、妙な興奮は冷めない。
 暗く密集した環境と大音量の音楽にさらされているとはいえ、敵の中でそんな風にぼんやりするなんてあり得ないことだ。
 自分の頬を叩いて無理やり集中しようと気を張り直したときに後ろの方で鈍い歓声に罵声が混じった。
「ンだテメェ!」
 容赦なしに人の頭を殴る鈍い音が、近くでも。集団のどこかで起きた暴動が瞬く間に伝播してあちこちらで乱闘が始まった。
 DJブースの間近でも喧嘩が始まり、二郎の死角で逞しい男の腕が振り上げられた。咄嗟に二郎を抱き寄せて庇った。乱闘の中では自分を狙った攻撃より他人に向けられた暴力の巻き添えの方が避けにくいもんだが。後から思えば助ける必要はなかったのに。
 腕に収めた二郎を見下ろすと長いまつ毛の下で月のような目が照明を反射してぬるりと光を放った。男が密集して澱んだ空気の中で骨っぽい肩についた筋肉の弾力や上背に反した体の薄さに気が逸れる。
 ヤバイ。ずっと手の内に捕まえておきたいような異常な欲求が頭の中で膨れ上がっていく。頭蓋骨の中で音が跳ね回るほどに興奮は盛り上がるから、それが精神干渉による錯乱状態のせいなのは理解してる。だけど、理解していれば平静を保てるって種類のものじゃなかった。
 シャツをぎゅっと引かれて見下ろせば寄せた体で隠して二郎が白い布地を握りしめていた。
 ああ、お前もかよ。
 俺らが間抜けだった。罠だってことも、敵がヒプノシスマイクを使ってくることも承知だったのに。
 一小節ごとに着実に腹の底が重く熱く煮立っていく。
 攻撃によって引き起こされた不自然な感情のはずなのに、チラチラ揺れる黒い髪の下で噛みしめられた唇をこじ開けて、指を突っ込んで赤い口内をめちゃくちゃにしてやりたい。
 でも残された理性が、病院で会った二郎のサッカーのコーチや、昔の児童保護施設の施設長の顔を脳裏に描いて踏み留まらせる。
 そんな健気な我慢もふいになった。二郎が至近距離で何か言いたそうに口を動かして誘うので。がむしゃらに体を引き剥がして抱きしめる代わりに拳を振るった。性的な興奮と暴力衝動は似てる。興奮を冷静と交換するのは難しくても、邪な加害欲求を物理的な加害欲求に変換してやるのは簡単だった。
 寄せあった体の間に芽生えかけた甘ったるい空気が拳の当たる音で霧散した。
 殴りつけると少し正気になるのか、惚けていた二郎の顔つきも変わる。
「…………ッてぇ!」
「おい、テメェも殴れ!」
「急に何──」
「ごちゃごちゃ言うんじゃねぇよ。ブクロのガキは殴られてもやり返す度胸もねぇか?」
 指先で誘って反射的に飛んできた拳をノーガードで受け入れた。衝撃でおかしくなった脳がリセットされて、多少はマシになる。
「まだ足ンねぇな!」
 もう一発だ。完全に目が醒めるまで。頭を狙うと素早く受け流してカウンターが来る。さっきより鋭さが増した拳を腕で受け、横に飛んで背中に倒れ込んできたゾンビ野郎を避けた。
 床に転がった男の顔にスポットライトが当たる。
 見覚えがある。二郎に頼まれて居場所を調べた失踪中の男だ。
「オイオイ、聞いてたより数が多いじゃねぇか」
 近くにいた別の男を掴んで光の中に放り投げ、人相を確認すると、数人目でまた探していた男を探し当てた。恐らく、全員が噂のヤク中。女の恨みを買ってクラブアルマンディで消息を絶った行方不明の男たちだ。
 そして、噂の薬物の正体はこの音楽。
 乱闘騒ぎの中でも端の方ではスピーカーの幻影に縋り付いて夢心地のヤツもいた。目の前の惨状が分からない様子で自分の下着に手を突っ込んでいる。
 最悪だ。ここの女帝は余程男が嫌いと見える。
 二郎の腕を掴んで出口に走ると道中で何人もの亡者に阻まれ、殴りつけて道を開けてもしつこく服や髪を引かれて虫唾が走った。興奮は残っていても誰かれ構わず盛ってしまうような効果はないらしい。
 やっとのことでたどり着いた防音扉だが、いつの間にか施錠されてびくともしない。その間にも床から這いあがった男たちが掴みかかってくる。
「クソッ!気が狂う前に全員ぶっ潰せってか?!」
「何人いんだよコレ……」
 扉を背にしてて手当たり次第に殴り飛ばし、蹴りつけて床に沈めていくが精神干渉のせいか普段通りに動けず、知らず知らずのうちに後退して背中に扉が当たった。
 瞬間。
 ドンッ!と衝撃が走って防音扉から飛びのいた。
 ドンッ、ドンッ。計三回の打撃の後で物騒な金属音を立ててエンジンカッターの回転する刃が扉のど真ん中から顔を見せた。
「大丈夫っすか若頭!」
 ぶち破った扉から突入してきた連中の頭数をざっと数えると、どうやらウチの舎弟総出でやって来たらしい。腕の立つ数名が店の裏口を固め、残りは正面から。手にはそれぞれのヒプノシスマイクもある。
「呼んでねぇぞテメェら……」
「すんません!左馬刻さんらが入ってしばらくしてから店の正面にトラックが停まって大勢入っていったんで、つい!」
 フロアを出たところで待っていた舎弟の頭を軽く小突く。
「怒ってねぇよ。で、俺らのマイクどうした」
「車の後部シートです」
「なんで持って来ねぇんだボケカス!」
 怒鳴りつけると年配の極道が鷹揚に笑った。
「兄貴が昼寝してる間に俺らで片付けられるからに決まってんでしょう?」
 車のキーを手渡してくるジャガイモ頭を睨みつけてすれ違った。
「興奮作用のあるヒプノシスマイクが使われてっから気をつけろ。殺しはナシだ。全員寝かせたらいっぺん退避。組長経由で悪徳警官に売る」
「あいよ、兄貴。……オイ、野郎ども!コロシはナシ!音に意識持ってかれンじゃねぇぞ!」
 スピーカーからの音もはねのける様な大声で指示が叫ばれる。うちの事務所は若い連中が多く、元気がある。野太い返事が束になると、あの耳障りなビートが完全にかき消された。

 防音扉同様の仕打ちにあった外扉をくぐって目の前につけられたワゴン車の後部シートに二郎を押し込み、自分も乗り込んでドアを閉める。
 エンジンのかかっていない車内は静かで耳鳴りがする。
「ヒプノシスマイクってこれか?」
 アタッシュケースを見つけた二郎が膝の上で金具を触るが、鍵がかかっている。
「テメェに鍵渡しただろうが」
 まだぼんやりした顔でジーパンのポケットを探っている二郎の方へ身を乗り出し、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
「クソ、こっちじゃねぇ」
「アンタ自分で入れたクセに」
 反対側のポケットだ。近づいた耳元で二郎が笑った。
 そんな些細なことで攻撃の余韻を煽られて腹の底の炎が燃え上がる。
「……うるせぇ」
 もう片方のポケットを探ると、鍵と一緒に何か、小さくて表面がつるりとした固いものが指に当たった。
 目の前に出したそれは、金色の円柱。紅い口紅だった。
「あの女の……」
 最初の夜のことが鮮明に蘇ってくる。喋るたびに形を変える、薄暗い中でもやけに目についた二郎の紅い唇。
 あれに触りたい。指の背だけでもいい。そんな気持ち悪い感情が際限なく湧いてくる。
 店を出ても、音が聞こえなくなっても洗脳はなかなか解けない。おかしな考えから逃れようとすると尚更、アリジゴクみたいに深みに落ちていく感覚がある。
 握りしめた口紅のケースに視線を落とすことで目を逸らした。どうも、あの瞳を視界に入れるとダメな気がして。
「いいよ。したいように、してくれよ」
 そっと暖かい手が頬を包んだ。誘導されて思わず顔を上げると、シートのヘッドレストに頭を預けた二郎が殴られて血の滲んだ口の端を上げて微笑んでいた。
「何の話だ」
「嫌じゃなきゃ、殴って蹴り上げなくてもいいんだろ?」
 性質の悪いガキだ。クズな大人に囲まれて育ったせいで見る目がない。
 保護者がブラコンのくせしてしっかりしてないせいだ。どこか満たされてなくて、こんな性質の悪い大人にハマっちまう。
 呼吸が浅い。お互い、まだステータス異常を引きずっていて普通じゃなかった。
 それが言い訳になればいいのにと思いながら繰り出した口紅を薄い唇に塗りつける。
 ひとぬりの塗料は何んの隔たりにもならないのを知っていて、そこに唇を寄せた。

“え?あたしの聞いた噂は違うよ”

“じゃあどんな噂?”

“あのね、アルマンディンの魔女に気に入られるとキスした相手をオトせるリップが貰えるんだって”

“なぁにそれ。おとぎ話みたい”

“そう。だからね、リップを手に入れられた子のことをみんなこう呼んでるの”

『スノーホワイト』